日本国憲法がわずか9日間で書けたわけ

 

日本国憲法の制定過程や、各条文の成立経緯を検証した「知られざる日本国憲法のなりたち」を連載でお届けします。初回は、日本国憲法誕生についてです。日本国憲法は、マッカーサーのGHQに書かれたとよく言われますが、実際はどうだったのでしょうか?そこには意外な事実がありました。

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  • ポツダム宣言の受諾

 

アメリカは、1945年7月26日、米英および中国(中華民国)の3交戦国の名で、ポツダム宣言を発表しました。これは、ベルリン郊外のポツダムにおける米英ソ三国首脳会談で確認されたもので、連合国の対日占領政策の基本原則が定められていました。

 

そこには、日本軍への無条件降伏勧告をはじめ、連合国の軍事占領、軍国主義勢力の一掃(軍国主義者・戦争指導者の追放)、日本軍の完全武装解除、戦争犯罪人の処罰、民主主義の徹底、軍需産業の禁止など日本の戦後処理方針が示されました。さらに、「目的を達成し、平和的で責任ある政府が樹立されれば占領軍はただちに撤退する」といった内容が明記されていました。

 

連合国:第二次世界大戦において、日本、ドイツ、イタリアなどの枢軸諸国に対して交戦状態にあった国々の総称で、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中国(中華民国)など26か国からなる。

 

日本政府は、ポツダム宣言の中に、天皇制が維持される「国体護持」の条項がなかったため、その受諾に際して政府内で意見が対立しました。日本は、「国体護持」一点を条件に降伏文書に調印する旨、連合国側に通告しました(国体=天皇制)。しかし、これに対する連合国側の回答は、「日本国の最終的な政治形態は、ポツダム宣言に従ひ、日本国国民の自由に表明せる意思により決定さるべきものとする」と取りようによってはどちらとも取れる微妙な内容でした。

 

そうした中、ソ連側が日ソ中立条約を無視して日本に宣戦布告し、アメリカは広島・長崎へ原爆を投下するに至ります。そして最終的には昭和天皇の「ご聖断」により、日本政府はポツダム宣言の受諾を正式に決定、8月15日の玉音放送で戦争終結が全国民に発表されました。

 

日本はポツダム宣言に基づいて連合国に占領されることとなりましたが、連合国と言っても、事実上、アメリカ軍による単独占領でした。1945年8月14日、米陸軍のマッカーサー元帥が、連合国軍最高司令官(SCAP)に就任し、同月30日、戦後日本の「統治者」として神奈川県厚木の米空軍基地に降り立ちます。

 

同年10月には、東京に連合国軍最高司令官総司令部GHQ)が設置され、日本を降伏させたアメリカ主導で占領政策が立案・実施されました。ただし、形式的には、GHQの指令・勧告に基づいて、日本政府がGHQの占領政策を実施するという間接統治の方法がとられ、人権指令、五大改革指令、神道指令など民主化政策(政治的改革)などが実施されました。

 

人権指令(45年10月4日)

治安維持法などの弾圧法規の廃止、政治犯の釈放、内務省警保局・特高警察の廃止など

 

五大改革指令(民主化に関する五大改革指令)(45年10月11日)

選挙権付与による婦人の解放(婦人参政権の付与)、労働組合の結成奨励、学校教育の自由主義的改革(教育制度の自由化)、秘密警察など弾圧諸体制の廃止、経済機構の民主化(財閥解体、農地改革)

 

神道(しんとう)指令(45年12月)

国家神道の廃止。「大東亜戦争」「八紘一宇」などの用語の使用を禁止した。また、「国家神道」への政府の支援が禁止され、政教分離が実施された。

 

日本軍に対しても、陸・海軍の将兵約790万人の武装解除はきわめて迅速に行われ、昭和20年10月16日には、マッカーサーが日本軍の解体・消滅を発表しました。

 

 

  • 天皇の人間宣言

 

神道指令が出されて1か月も満たない1946年1月1日、「新日本建設に関する詔書」いわゆる「天皇の人間宣言」と呼ばれる文書が昭和天皇によって発表されました。

 

戦前、天皇は現人神(あらひとがみ)(この世に生きている神)と国民から崇められ、超越的、絶対的な神格化された存在でした。その天皇の神格性(天皇を現人神であるすること)を、昭和天皇ご自身が、「新日本建設に関する詔書」の中で、以下のように、架空の観念であるとして、否定されたのでした(一部抜粋、原文は文語体)。

 

―――――

(前略)朕と汝ら国民との間の紐帯(ちゅうたい)は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇をもって現御神(あきつみかみ)とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族にして、ひいては世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず。(後略)

 

(前略)私と国民との間のきずなは、終始相互の信頼と敬愛とによって結ばれ、単なる神話と伝説とによって生まれているのではない。天皇を現人神とし、かつ日本国民が他の民族に優越する民族であり、ひいては世界を支配すべき運命があるというような架空の観念に基くものでもない。(後略)

――――――

 

「天皇の人間宣言」は、アメリカでも一斉に報じられ、天皇の神格性を否定した詔書として、高く評価されました。大手のNYタイムズ紙は昭和天皇を「偉大な改革者」と絶賛した論評を載せました。

 

実は、この「天皇の人間宣言」は、GHQでの天皇、皇室担当であった民間情報教育局(C・I・E)のハロルド・G・ヘンダーソン陸軍中佐が草案を書き、これをベースに幣原喜重郎首相自ら起草に当ったとされています。この詔書の起草に当たり、幣原首相は、GHQは言うまでもなく連合国(極東委員会)を意識して最初から英文で書いたそうです。ここに、天皇の神格性の否定によって,天皇の戦争責任や天皇制の廃止を免れようとする幣原総理の深慮があったことが伺えます。

 

「天皇の人間宣言」が出された同じ月の24日、首相の幣原がマッカーサーを訪問しました。その時の会話の中に次のようなやり取りがあったとされています。

 

幣原:「自分が生きている間に、どうしても天皇制を維持したい」

マッカーサー:「一滴も血を流さず、進駐できたのは、全く日本の天皇の力に因ることが大きい、出来るだけのことは協力したい」

 

幣原首相との会談の翌日(26日)、マッカーサーは、本国に「天皇を(戦争犯罪人として)起訴すれば日本の情勢に混乱をきたし、占領軍を大幅に増員しなければならなくなる。最低でも100万の軍隊が必要となるであろう」と報告しています。

 

ここまでの幣原とマッカーサーのやり取りは、GHQ性善説となります。その一方で、マッカーサーとしては、現人神とされた昭和天皇を含めて、神格化された歴代天皇を崇める国家神道を、神道指令で解体させ、さらに、天皇の人間宣言で、天皇自ら神格性を否定させることによって、天皇制を維持させるにしても、明治憲法下の天皇制を否定しようしたとも解されています。

 

 

 

  • 国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)

 

ただし、ここまでの経緯は、学校の教科書や一般書などでも普通に説明されています。しかし、その占領政策については、マッカーサー自身またはGHQが決定したのではなく、すでにアメリカの国務省内で形成されていたという事実は余り知られていません。

 

米国務省では、1942(昭和17)年8月の段階で早くも、戦後政策を検討する特別調査部領土小委員会に極東班が編成されました。その研究報告を基に、翌43年7月にはアメリカの基本方針をまとめた「日本の戦後処理に適用すべき一般原則」、さらに44年3月には「アメリカの対日戦後目的」が作成されました。これらが対日占領政策の「原型」となるもので、大きく以下の三段階に分けられていました。

 

第一段階:海外領土の剥奪や武装解除などの厳格な占領

第二段階;緊密な監視下での軍国主義の一掃と民主化、

第三段階:日本の国際社会への復帰

 

これをもとに、ポツダム宣言受諾後の45年9月には、「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」が発表されました。この中で、日本に対する合衆国の究極の目的の1つは、次のようなものであると述べられています。

――――――

他の諸国家の権利を尊重し、国際連合憲章の理想と原則に示されている合衆国の目的を支持する、平和的かつ責任ある政府を最終的に樹立すること…

――――――

そして、その具体化として、「軍国主義や超国家主義を排除し、政治、経済など各分野での非軍事化・民主化」を推進することが決定されていたのでした。

 

1944年12月には、この方針を実行する組織として、アメリカ政府内部に、国務省、陸軍省、海軍省の意見調整を図るため国務・陸軍・海軍三省調整委員会SWNCCスウィンク)が設置されていました。このSWNCCこそ、日本国憲法に決定的な影響を与えた機関です。1946年1月7日、SWNCCで、日本の憲法改正に関するアメリカ政府の指針を示す「日本の統治制度の改革(SWNCC228)」がまとめられました。実際は、前年の11月末にはその内容はマッカーサーに情報として伝えられていたとされています。

 

 

  • 憲法改正の示唆

 

さて、GHQにとって、5大民主化指令などによる諸改革が進み、神権的な天皇制の解体が本格化するなか、最終的な大仕事が「憲法改正」でした。

 

憲法改正については、昭和20年10月、民主化指令の第一段とも言える人権指令を出したマッカーサーは、戦後最初の東久邇宮(ひがしくにみや)稔彦(なるひこ)内閣の近衛国務相と会見した際、憲法改正を「示唆」していました。しかし、大日本帝国憲法を変えることなど全く考えていなかった東久邇内閣は総辞職します。そこで、大正デモクラシーの時代、欧米との協調外交(幣原外交)で知られた幣原喜重郎が首相に就任していたのでした。就任の挨拶にきた幣原に対して、マッカーサーは、前述した五大改革に加えて、「憲法の自由主義化」を要求、すなわち憲法の改正を「示唆」しました。

 

当時のマッカーサーの方針について、GHQのスタッフであったミルトン・エスマンは、「明治憲法は改正するだけでなく、解体する必要がありました。我々は当初、日本の非軍事化と民主化という基本的条件を満たす憲法草案を日本政府が自ら作成することを期待していました。その方が我々にとっても望ましいと考えていたのです」と述懐しています。

 

このエスマン発言についても、以下のように、先のSWNCC(国務・陸軍・海軍三省調整委員会)報告書(228)の中にある方針に基づいたものでした。

 

―――――――

最高司令官(マッカーサーのこと)が諸改革の実施を日本政府に命令するのは、最後の手段としての場合に限られなければならない。というのは、前記諸改革(憲法改正のこと)が連合国によって強要されたものであることを日本国民が知れば、日本国民が将来ともそれらを受け容れ、支持する可能性は著しく薄れるであろうからである。
―――――――

 

 

  • 松本委員会(憲法問題調査委員会)

 

GHQの「指示」を受けた幣原内閣は、1945年10月27日、憲法担当大臣、松本烝(じょう)治(じ)法学博士(国務大臣)を委員長とし、憲法学者や官僚からなる憲法問題調査委員会(通称「松本委員会」)を設け、憲法改正に取り組みました。

 

松本委員会では、天皇の統治権を維持し、天皇中心の国家体制いわゆる国体護持を最優先課題に掲げます。改正作業は、大日本帝国憲法(明治憲法)の基本原則を変えず、帝国憲法の条文を部分的な修正をしながら議論を進めることにしたのでした。

 

松本委員会が発足して約1ヶ月後の昭和20年12月8日の衆議院予算委員会において、松本烝治国務大臣は、「松本委員会」の調査の動向及びその主要論点4つを、後に「松本四原則」と呼ばれる形で説明しました。

 

  1. 天皇が統治権を総覧するという原則には変更を加えない。
  2. 議会の権限を拡大し、その結果として(天皇の)大権事項を制限する。
  3. 国務大臣の責任を国務の全般にわたるものたらしめ、国務大臣は議会に対して責任を負うものとする。
  4. 人民の自由・権利の保護を強化し、その侵害に対する救済を完全なものとする。

 

その後、松本国務大臣は、「松本委員会」の議論を参考にして、憲法改正試案(松本私案)を作成し、それを骨子として「憲法改正要綱」が起草されました。そこには、例えば、帝国憲法第3条の「天皇は神聖にして侵すべからず」とあるのを、「天皇は至尊にして侵すべからず」とされるなど、表現を言い換えただけの「焼き直し」に過ぎない内容がみられました。また、争点となったGHQによる占領の終了後に再軍備できる余地を残すか否かに関して議論されましたが、軍の規定は残されました。

 

この松本私案に基づいて作成された「憲法改正要綱」は、GHQに提出されるはずでしたが、提出前の1946(昭和21)年2月1日に、松本委員会の試案が毎日新聞にスクープされてしまいました(意図的だったのかもしれません)。

 

 

  • マッカーサー三原則

 

マッカーサーは、その試案内容を知り、明治憲法の根本原則が変えられず、天皇の統治権はそのまま認められていたことに不満を示し、「極めて保守的である」と批判します。GHQにとって、「帝国憲法は改正されるだけではなく、解体する必要があったのです(前出のエスマン証言)」。そこで、マッカーサーは、日本政府に憲法草案を作成させるのを諦め、2月3日、「マッカーサー3原則」を打ち出し、GHQ民政局局長のコートニー・ホイットニーに、GHQ草案(いはゆるマッカーサー草案)の起草を指示します。後に「マッカーサー・ノート」とも呼ばれる「マッカーサー3原則」とは以下の内容でした。

 

〔1〕天皇は国家元首の地位にある。(⇒象徴天皇制)

皇位は世襲される。天皇の職務と権限は、憲法に基づいて行使され、憲法の定めるところにより、国民の基本的意思に対して責任を負う。

〔2〕国家の主権としての戦争は廃止される。(⇒戦争放棄)

日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に信頼する。日本が陸海空軍を保有することは、将来ともに許可されることがなく、日本軍に交戦権が与えられることもない。

〔3〕日本の封建制度は廃止される。(⇒華族制度の解体)

華族の権利は、皇族を除き、現在生存する一代以上に及ばない。華族の特権は、今後、国または地方のいかなる政治的権力も包含するものではない。予算は英国の制度を手本とする。

 

第1の原則から、マッカーサーはこの時点で天皇制を維持(温存)する意思であったことが推察され、またこの原則が後に象徴天皇制につながることになります。第2原則は、日本国憲法第2章の「戦争放棄」の核心部分を反映することになる規定といえます。第3原則は、華族制度の解体となりますが、結果的に皇室が縮小することになった歴史をみれば、第1原則とともに日本国憲法第1章の「天皇」に関連する内容でした。マッカーサーが日本国憲法に最も求めたことは、帝国憲法下の天皇制の解体と、戦争放棄であったことがわかります。

 

さて、マッカーサーが、GHQ草案(マッカーサー草案)の起草のためにホイットニーに与えた期限は2月12日でした。一国の根本法である憲法草案をわずか9日間で作成しろという通達です。

 

マッカーサーはどうして憲法の制定を急いだのでしょうか?それは、GHQ主導で進む日本の占領政策に、同じ連合国のソ連とイギリスが反発し、1945年の12月(形式的には9月)にイギリス、ソ連、アメリカの外相会議で、連合国が日本を占領管理するための極東委員会の設置が決まったからです。

 

極東委員会は、13か国(米国・英国・中国・ソ連・フランス・インド・オランダ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・フィリピン、1949年11月からビルマ・パキスタンが加わる)の代表から構成された連合国による対日占領政策決定の最高機関となり、GHQも極東委員会の決定には従うものとされました。

 

極東委員会は、1946年2月26日に第1回会合が開かれる予定で、活動を開始した後は、GHQは極東委員会の管理下に入り、憲法改正に対するGHQの権限も制限され、日本国憲法の制定には極東委員会の事前の承認が必要となったのです。

 

ソ連やイギリス以外にも極東委員会の中には、太平洋戦争で4万人の戦死者を出したオーストラリアなど天皇制に対して厳しい意見を持つ国がありました。例えば、天皇は日本の軍隊と密接な関係にあったと見なしていたオーストラリアは1946年1月、天皇を含む戦犯容疑者リストを作成し、天皇訴追に向け動き出すほどでした(少なくとも天皇を戦犯として調査し裁判にかけるべきだと考えていました)。

 

要するに、マッカーサーは、ソ連などが口を出してくる前に自分の手で日本の憲法の形を作り上げてしまおうと考えたのです。1か月も満たない間に極東委員会が発足すれば、天皇制の保持など自身の方針に修正を強いられることを懸念したのでした。

 

 

  • マッカーサー草案と憲法研究会

 

2月4日、GHQ民政局スタッフわずか25人余りが緊急招集され、マッカーサー草案(日本国憲法の原案)の策定が、日本政府だけでなく他のGHQの部署に対しても極秘に開始されました。

 

ホイットニー民政局長は、実務責任者として陸軍大佐のチャールズ・L・ケーディスを任命、ケーディスは、スタッフを、取りまとめとしての「運営委員会」以下8分野ごとに受け持たせました。これをみると、例えば、憲法「前文」の草案を一人の人物が執筆したという事実もまた驚きです。

 

  • 運営委員会

C.L.ケーディス陸軍大佐、A.R.ハッシー海軍中佐、M.E.ラウエル陸軍中佐、R.エラマン

  • 前文

A.R.ハッシー海軍中佐

  • 天皇・条約・授権規定に関する委員会

J.A.ネルソン陸軍中尉、R.A.プール海軍少尉

  • 人権に関する委員会

P.K.ロウスト陸軍中佐、H.E.ワイルズ、B.シロタ

  • 立法権に関する委員会

F.E.ヘイズ陸軍中佐、G.J.スウォープ海軍中佐、O.ホージ海軍中尉、G.ノーマン

  • 行政権に関する委員会

C.H.ピーク、J.I.ミラー、M.J.エスマン陸軍中尉

  • 司法権に関する委員会

M.E.ラウエル陸軍中佐、A.R.ハッシー海軍中佐、M.ストーン

  • 地方行政に関する委員会

C.G.ティルトン陸軍少佐、R.L.マルコム海軍少佐、P.O.キーニ

  • 財政に関する委員会

F.リゾー陸軍大尉

 

また、他国の憲法を書くという歴史的な偉業に携わった民政局スタッフの顔ぶれをみれば、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉クラスの士官が13人、後は弁護士や学者を含む文官でしたが、憲法の専門家が一人もいませんでした。ホイットニー局長自身は弁護士でしたが、憲法についての実務的な知識に欠けたていたと言われています。

 

しかも日本語に精通した人は一人もいませんでした。唯一、通訳要員として採用されていたベアテ・シロタ・ゴードンという当時22歳の女性がメンバーに含まれていましたが、彼女も日本語を読めたわけではありませんでした。後年、シロタさんは、「このときに、私はまだ22歳だった。…私が憲法について知っている事といったら、高校の社会科で学んだだけのことだった」と述懐したそうです。

 

憲法のスペシャリストでない人々が憲法の原案を書くとなると通常、何が起きるでしょうか?まず考えられることは、当然、自国の合衆国独立宣言、南北戦争時のリンカーンのゲティスバーグ演説、合衆国憲法などから、また今も世界で最も民主的な憲法と評価されている第一次世界大戦後のドイツのワイマール憲法など、世界中の憲法から自分たちが気に入った条文を引き抜いて、切り貼りしながら草案を練ることでしょう。この指摘はあながち間違いではなく、とりわけアメリカ合衆国憲法からの引用は多くみられます(この事実については各条文解説で詳細に示していきます)。

 

また、憲法について「素人」であれば、専門家が書いたものを参考にするでしょう。マッカーサー草案起草に当たっても、GHQは、当初から日本の政党や民間団体の憲法草案などを注目していました。その中でも、マッカーサー草案(GHQ草案)に大きな影響を与えたとされているのが、「憲法研究会」という団体が1945年12月末に発表した「憲法草案要綱」でした。

 

憲法研究会の「憲法草案要綱」には、「天皇は政治的権限を持つべきではない」という象徴天皇制や、「日本国の統治権は日本国民より発す」とした国民主権が明確に規定されていました。また、男女平等や言論の自由などの基本的人権の保障や、平和主義の思想も盛り込まれていました。

 

GHQは、憲法研究会の「憲法草案要綱」を詳細に分析し、「ここに含まれる条文は、極めて民主主義的で受け入れられる」「著しく自由主義的」などと高く評価していました。実際、憲法草案要綱を読んだGHQの政治顧問アチソンは、「最高統治機関は議会・国会に責任のある内閣となっており、天皇は儀礼的・形式的長官にすぎないと規定」されていたことに驚嘆の意を表明しています。

 

また、運営委員会のメンバーとしてマッカーサー草案起草に携わったラウエル中佐は、「私たちはこれ(憲法研究会の草案)を確かに使いました」と影響を受けたことを認め、さらに次のように述懐しています。「私はこの民間草案を使って、若干の修正をすれば、マッカーサー最高司令官が満足し得る憲法ができると考えました。それで民政局の仲間たちも安心したのです。これで、憲法ができると。」

 

ラウエル中佐にそこまで言わせた憲法研究会とは、どういう団体なのでしょうか?憲法研究会は、1945年10月、社会運動家の高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成されました。著名マルクス主義の憲法史家の鈴木安蔵や経済学者の森戸辰男らが参加していました。高野に学んだ森戸は、日本社会党の結党にも尽力し、戦後初の衆議院議員総選挙に出馬し当選、左派政治家として活躍しました。彼らの多くは戦前、政府による言論統制で投獄されるなど弾圧を受け、森戸も執筆した論文がもとで東大を追われたという経緯があります。

 

こうした背景から、保守層からは、憲法研究会がマルクス主義者の集まりだとの批判も絶えません。もし、この指摘が正しく、憲法研究会の憲法草案要綱が実際に日本国憲法に取り入れられていたとすると、日本国憲法は共産主義的な内容が含まれているという見方も可能となります。実際、民政局が参考にした世界の憲法の中には、ソ連のスターリン憲法(ソビエト社会主義共和国連邦憲法)も含まれ(後述)、民生局のスタッフにも、革新的な左派の考え方を持った人たちが多かったそうです。

 

当時、GHQの内部には、民主党の影響下にあった国務省系の民政局(GS)と、国防省系の情報治安局(GII)の二つの激しい路線対立があったとされています。日本国憲法のマッカーサー草案(GHQ草案)の作成に携わったのは、民政局スタッフで、ニューディーラーと呼ばれた民主党左派によって構成されていました。彼らは、「日本をマルクス主義化する実験を行っている」、「単に日本を弱体化させているだけ」と批判されていたのです。

 

前出のベアテ・シロタ・ゴートンさんも、親ソ派ニューデーラーとして知られ、「ソビエト憲法は私を夢中にさせた。社会主義で目指すあらゆる理想が組み込まれていた」と、憲法草案を作成するためにソビエト憲法など社会主義的な憲法を参考にしたことを認めていたそうです。

 

一方、GHQ内部で、民政局と対立していたのが、軍務担当で共和党員が中心になって構成されていた国防省のGⅡ(情報治安局)でした。その中心人物が、反共主義者で有名であったチャールズ・A・ウイロビー情報部長で、ニューデーラーたちが日本を共産主義国へと改造しようとする「実験」に強く反対し、「不必要なまでの日本弱体化は国際共産主義を利する」を持論としていました。

 

結局、当初、両者の対立の中で日本国憲法作成に中心的な役割を果たしたのは、左派のニューデーラーでした。後に、冷戦の深刻化で、GHQが「逆コース」と呼ばれる対日政策の転換が図られ、日本に「共産主義の防波堤」の役割が期待されるようになって初めて、GHQ内での主導権が民政局からGⅡに移ったというのが歴史的な事実のようです。なお、最高司令官マッカーサーは、GHQ内での共産主義的な民政局のスタンスについて当初気づかず、冷戦の進展を受けてはじめて、警戒心を持つようになったと言われています。

 

逆コース:1948年以降、GHQの対日占領政策が、戦後直後の非軍事的・民主的政策から反共産主義的な政策に転換した政策路線の変更のこと。具体的には、共産党の弾圧や、公職追放処分を受けていたが旧政財界人などの復帰、警察予備隊(自衛隊の前身)の編成などがあげられる。

 

 

  • マッカーサー草案とSWNCC

 

いずれにしても、マッカーサー三原則(ノート)の提示からわずか9日後の2月12日、日本国憲法の総司令部(GHQ)案が完成、翌日日本政府に提示されました。

 

日本国憲法草案(マッカーサー草案)を批判する立場に立てば、日本国憲法草案は、マッカーサーノートと呼ばれる走り書きをベースに、自国や他国の憲法や日本の民間団体の草案などを参考資料の寄せ集め、まるでパッチワーク作業のような「コピペ」(copy and past コピーとペーストの略)と呼ぶしかない代物にしかうつりません。しかも、その作成に携わったニューディーラー(ニューディール派)と呼ばれる民主党左派のスタッフは、わずかに25人程度で、憲法に関する学識の無いアメリカ軍人、軍属の素人集団によって手がけられたとなってしまいます。

 

しかしながら、事実はそう単純ではありません。確かに、GHQ案(マッカーサー草案)は、憲法の専門家でない少ない人数による突貫作業で起草されましたが、前出のアメリカの国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCCスウィンク)が、1945年11月27日に「日本の統治制度の改革」(SWNCC228)をまとめ、マッカーサーに提示しています。

 

その報告書の中で、天皇制について次のような規定(詳細は第1章で解説)があります。

――――――

…最高司令官(マッカーサーのこと)は、日本政府当局に対し、次に掲げる安全装置が必要なことについても、注意を喚起しなければならない

―――――――

として、具体的な措置を次のように指示しています。

  • 天皇の軍事に関する大権の剥奪
  • 皇室財産を国庫への繰り入れと皇室費の国家予算への編入
  • 内閣による天皇の全行為に対する助言と補佐
  • 信任と責任に基づく議院内閣制の採用

 

これら以外にも、報告書はマッカーサーに対して、改革されるべき日本の統治体制について以下の「注意」を喚起しています。

 

  • 選挙権を広い範囲で認め、選挙民に対し責任を負う政府を樹立すること
  • 国務大臣ないし閣僚は文民でなければならないものとすること
  • 国会は、その欲するときに会議を開きうるものとすること
  • 予算は、国会の同意がなければ成立しないものとすること。

また、国会は予算のどの項目についても、減額、増額もしくは削除し、または新項目を提案する権限をもつこと。

  • 日本国民および日本の統治権の及ぶ範囲内にあるすべての人に対し、基本的人権を保障すること。
  • 日本国民が、その自由意思を表明しうる方法で、憲法改正または憲法を起草し、採択すること

 

このように、GHQ案(マッカーサー草案)は、マッカーサーのメモ書き程度のものではなく、アメリカ国務省が戦前の日本の統治システムについて徹底して調べ上げた上に作成されたSWNCC228の方針に基づいて書かれた事実も私たちは知っておくべきでしょう。だからこそ、日本国憲法の原案はわずか9日間で作り上げることができたという見方も可能です。

 

もっとも、このGHQ案がそのまま現在の日本国憲法になったというのでもありません。次に示すように、現憲法はGHQと日本政府との激しい攻防の上に成立したという側面もあります。

 

 

  • マッカーサー草案の受け入れと極東委員会

 

1946年2月13日、連合国軍総司令部(GHQ)のホイットニー民政局長は、GHQ案(マッカーサー草案)を幣原首相に示し、GHQの記録によれば、以下のように受け入れを迫ったと言われています。

 

「マッカーサー元帥は天皇制に対する連合国の批判に耐え切れなくなるかもしれない。しかし、我々の草案の基本原則を受け入れれば、天皇の身は安泰になるであろう。」

「逆に、あなた方、日本政府が拒否すれば、マッカーサー元帥は、この草案を日本国民に公表し、国民投票にかける事を決断している」。

 

一方、日本側の資料では、この時、ホイットニーは、「最高司令官(マッカーサーのこと)は、天皇を戦犯として取り調べるべきだという他国の圧力から天皇を守ろうと決意している。この諸規定が受け入れられるなら、実際問題として、天皇は安泰となる」と述べたとされています。

 

また、GHQ草案の採用が「天皇の保持」のため必要であること、さもなければ、「天皇のperson(身体)を保障できなくなる」旨の強迫ともとれる発言があったとも言われています。この経緯は、後に(1954年7月7日)、当時の松本烝治、憲法担当大臣より自由党憲法調査会において広く紹介されました。

 

いずれにしても、受け入れを迫られた日本政府は、GHQ案を極秘に検討します。GHQ案には「国民主権」「象徴天皇制」や「戦争放棄条項」など、帝国憲法を部分修正にとどめようとしていた日本側には想定外の条文が盛り込まれていました。2月19日の閣議に報告された際、当然、受け入れをめぐり賛否が割れました。

 

幣原喜重郎首相は、21日、妥協の余地を探るため、マッカーサー連合国軍最高司令官と会談します。マッカーサーは「私は天皇を安泰にしたいが、極東委員会の議論は不愉快なものだと聞いている」「ソ連とオーストラリアは日本の復讐戦を恐れている」と自らの考えを直接、幣原首相に表明、会談は不調に終わってしまいました。

 

ポツダム宣言受諾以降、天皇を守ること(国体護持)は日本政府にとっても最大の課題です。幣原首相も、天皇制を守るためにGHQ草案の受け入れやむなしとの判断に傾きます。幣原の懸念は、国民に自由に論議させれば(国民投票になれば)、その総意が天皇制を許容するとは限らず、(当時)厳しい食糧難と失業で国民は飢えと怒りの中にあり、その矛先が天皇家に向けられかねないことだったのです。

 

幣原内閣は、翌22日午前中、GHQ草案(マッカーサー草案)受け入れを閣議決定、天皇に事情説明の奏上を行いました。この時、幣原首相が面談した際の天皇の発言に関して、憲法学者の宮沢俊義・東大教授のノート(「宮沢ノート」)に記されていたことが後にわかりました。それによると、「陛下に拝謁して、(GHQの)憲法草案を御目にかけた。すると陛下は『これでいいじゃないか』と仰せられた」。また、天皇自身が徹底的な改革を望み、「最も徹底的な改革をたとえ天皇自身から政治的機能のすべてを剥奪するほどのものであっても全面的に支持する」と述べられたとの記載もあります。ただし、「(昭和天皇の)発言が積極的過ぎる」として、「宮沢ノート」の真偽を疑問視する向きもあります。

 

いずれにしても、幣原首相は、GHQ案受け入れを表明した後、2月26日の閣議では、マッカーサー草案を基にして、早急に政府案を作成するよう指示しました。ここでもGHQ民政局の圧力があったとされます。これは、前述したように、極東委員会の第1回会合が同2月26日ワシントン D.C.で開かれるためでした。GHQとしては、26日までに日本政府の起草を決定させる必要があったのです。

 

実際、26日、ワシントンで始まった極東委員会の第1回総会では、例えば、強硬姿勢だったオーストラリアも「日本の軍事的脅威がなくなれば、天皇を裁判にかける必要性もなくなったと」との見解を示し、昭和天皇の訴追論議は盛り上がらなかったそうです。日本政府が象徴天皇制と戦争放棄などを柱とするマッカーサー草案を受け入れ、このGHQ案を基本原則とする憲法草案の起草を決定したことが大きく影響したと見られています。

 

こうして、極東委員会は、4月3日には、天皇の不起訴方針を事実上決定し、日本の国体(天皇制)は保持されることになったのでした。

 

 

  • 日本政府の「3月2日案」~憲法改正草案

 

さて、日本側は、GHQ草案(マッカーサー草案)に原則として沿う形で草案を練り直して、当初の予定より1週間早い3月4日に「日本国憲法案(「3月2日案」)」として、GHQに再提出しました。

 

政府が「3月2日案」を発表すると、その内容に関してGHQ側との「協議」が行われ、その結果は、3月6日に日本国政府の名で「憲法改正草案要綱」として発表されました。

 

「3月2日案」についての「協議」において、GHQは政府案の一字一句まで介入してきたと言われ、日本政府の3月2日案は、GHQの意向に沿う形で修正を余儀なくされました(詳しいやり取りは個々の条文解説を参照)。日本政府案(3月2日案)といっても、マッカーサー三原則に基づいて提出されたGHQ(総司令部)案について、占領下にあった日本に選択肢は二つしかありませんでした。一つはマッカーサーの覚書をそのまま受諾すること、もう一つは最低限の手直しをすることでしたが、GHQ側は、前文、第1章「天皇」、第2章「戦争放棄」について、厳格に総司令部案によるべきとして受け入れを求めたといわれています。

 

「憲法改正草案要綱」は、GHQ(総司令部)側とさらなる「交渉」のうえ補正、法文化され(条文形式に整えられ)、天皇の諮問機関である枢密院の審議を経た後(反対者は1名)、1946年4月17日に「憲法改正草案」(日本政府案)が出来上がったのでした。そうして、1946(昭和21)年6月20日、「帝国憲法改正案」として、第90回帝国議会に提出されました。

 

なお、帝国議会への提出前の1946年4月10日には、戦後初の総選挙が実施され、選挙の結果、首相は幣原喜重郎から吉田茂に、また憲法担当大臣も松本丞二から金森徳次郎に交替しました。そして、4月17日に発表された「帝国憲法改正草案」は、新議会の下で審議されることになりました。

 

また、大日本帝国憲法をはじめ当時の法令はすべてカタカナの文語体でしたが、国語の平易化を目指す「国民の国語運動」の代表者らが首相官邸を訪れ、改正案をひらがなの口語体にしてはどうかという提案を行いました。政府も「翻訳調の法文が、口語体にすれば少しは日本文らしくなる」と同意し、帝国憲法改正草案では、法制史上、画期的といえるひらがな口語体で条文が書かれました(本書はGHQ案、3月2日案も口語体で示した)。

 

 

  • 帝国議会における修正協議

 

議会に提出された政府の「帝国憲法改正案」は、7月25日から約1カ月間、衆院の特別委員会(芦田均委員長)の小委員会で、13回に亘って修正審議が実施されました。

 

この修正協議の過程では、現行の9条2項に修正が入ったり、GHQ案にも政府の改正案にもなかった現行25条第1項で定められている「生存権」が付け加えられたりしました。また、GHQではなく、極東委員会からの要請によって、総理を含む大臣の資格として「文民統制(シビリアン・コントロール)」と呼ばれる条項(現行憲法の第66条)も導入されました。

 

こうした経緯を経て、帝国憲法改正案は、8月24日には衆議院で、10月6日には貴族院でそれぞれ修正議決されました。そして、11月3日には日本国憲法として公布、翌年の5月3日に施行されました。

 

現行憲法は、マッカーサー3原則が出された後、マッカーサー草案として日本側に示されるまでが1946(昭和21)年2月4日から13日までの9日間で、これを土台としてできた日本政府案(3月2日案)を、GHQとの修正協議を経て作成された憲法改正草案が発表されたのが約2ヶ月後の4月17日でした。これに基づいて6月20日から10月にかけての国会審議にかけられるのですが、10月7日にはもう両院で可決され、11月3日に公布されました。マッカーサー3原則の提示から実にわずか9ヵ月という短い期間で、私たちの日本国憲法は誕生したのでした。

 

松本案⇒憲法改正要綱⇒GHQへ

マッカーサー3原則⇒マッカーサー草案(GHQ案)

日本政府の「3月2日案」

憲法改正草案要綱⇒枢密院⇒憲法改正草案

帝国憲法改正案⇒帝国議会へ

 

 

<参照>

具体的な条文の成り立ちについては以下のサイトから参照下さい。

⇒ 知られざる日本国憲法の成り立ち

 

 

<参考>

日本国憲法の誕生(国立国会図書館HP)
憲法(毎日新聞)

日本国憲法を生んだ密室の9日間(角川ソフィア文庫)

國破れてマッカーサー(西 鋭夫、中央公論新社)

憲法はかくして作られた(日本政策研究センター)

昭和史のかたち 歴代首相と憲法(保阪正康)

NHKスペシャル「日本国憲法誕生」

憲法研究会「憲法草案要綱」

日本国憲法:制定過程をたどる/4 (毎日新聞 2015年05月06日)

GHQ“素人”が米合衆国憲法を「コピペ」で原案(産経新聞2016.11.3)

もはや意味不明の護憲派主張 押し付け憲法論をめぐる論理の混濁

(阿比留瑠比の極言御免2016.11.3 、産経)

世界憲法集(岩波文庫)

アメリカ合衆国憲法(アメリカンセンターHP)

ドイツ憲法集(第7版)(信山社)

 

(2022年7月29日)