日本の仏教史

 

わが国への仏教伝来は6世紀で朝鮮半島を経由でもたらされた。

 

大和朝廷では、伝来した仏教の受け入れに熱心だった蘇我氏が、物部氏を政争に勝利し、その頃即位した推古天皇は、仏教興隆政策を推進した。

 

聖徳太子は、大陸から伝わった仏教を敬うよう説いた。仏教の理念を政治に活かそうとした。

 

中国唐代の高僧である鑑真の来日は戒律を伝えるため

 

行基は、諸国を遊説して布教し、道や橋を造り、また貧民のために布施屋を建てるなど、人びとの間に慈悲の精神を広めた。聖武天皇から大僧正に任じられた。

 

 

華厳宗や律宗など南都六宗は、奈良時代の仏教で、民衆を救済するための宗教ではなく、仏教を研究するための宗教であった。

 

平安時代には、従来の南都六宗に代わって、仏教の新しい宗派が興った。中でも密教の真言宗は、古来の山岳信仰と結びついて貴族の間に広まった。

 

真言宗を説いた空海(~835)は、個人の現世利益を主張した。

 

真言宗、天台宗は、その根本思想を密教色豊かな曼荼羅に表現して、現世の無常観を表した。

真言宗は、貴族や皇族への個人の現世利益を願うこと(加持祈祷)を目的として発達した。

 

浄土信仰は、阿弥陀聖と呼ばれた空也が念仏を唱えるなどして民衆の間に広まっていったが、なかでも時宗を開いた一遍は、進心の有無に関係なく念仏を唱える者はすべて浄土に往生すると説いて諸国を周り、踊念仏を広めた。

 

平安時代の院制期には、有力寺院が荘園領主として勢力を拡大し、僧兵らを編成して朝廷に強訴を企てた。これを抑えるため院は北面の武士に平氏などを登用し、武士の中央政界進出の素地を作った。

 

 

鎌倉時代、他力本願を唱える浄土系仏教への信仰が庶民や武士に浸透した。

鎌倉時代、禅宗の曹洞宗や臨済宗が武士の間に広まった。

 

法然(1133~1212)は、専修念仏により、凡夫でも悪人でも念仏により極楽に往生できると説いた。

法然は、自力難行による浄土心理の探求を唱えた。自力によって仏に善を尽くす。

 

法然は、ただひたすら南無阿弥陀仏と称えれば、仏教の教学に関する知識の有無に関係なく、だれでも阿弥陀仏の慈悲によって極楽往生できる。

 

法然は、末法の世の煩悩にまみれたわれわれは、自力の修行によって悟りを得ることは不可能であり、ただひたすらに念仏を唱える専修念仏によって、極楽浄土に往生することができると説いた。

 

 

親鸞(1173~1262)は、自分の意志で往生のための作善をなすことはできず、念仏を称えることも阿弥陀仏を信じることも、すべて阿弥陀仏のはからいによる。

 

親鸞は、法然が唱えた自力難行を否定し、誰でも参加できる他力易行門の説を打ち立て、そのためにはひたすら念仏を唱えることを主張した。

 

親鸞は、法然の教えを継承した上で浄土真宗を開いた。

 

親鸞(1173~1262)は自分の力で善行を積む自力作善の人は、自力を頼みとし、他力にすがらないため、阿弥陀の本願にふさわしくないとした。

阿弥陀仏の本願は、阿弥陀仏の慈悲を信じる人々を極楽浄土に往生させて救済するというものである。

 

浄土真宗を説いた親鸞は、煩悩に満ちた人間は、ただひたすら念仏を唱えることにより阿弥陀仏の広大な慈悲に救われるとする絶対他力を提唱した。

 

親鸞は、たとえ悪人であっても悪人の自覚あるものが往生できるとした。絶対他力の阿弥陀仏は煩悩の多い悪人にこそ慈悲深いからである。

 

親鸞は、自力で修行をなしうると思っている善人は、仏の慈悲を頼む心に欠けるが、煩悩にまみれどうすることもできないと思っている悪人は、ただ仏の慈悲にすがろうとするので、かえって救われやすいという悪人正機を説いた。

 

日蓮(1222~1282年)は、法華経こそがブッタの真の教えを述べたものだとし、法華経に基づく正しい仏教の樹立によってこそ国家の安泰が達成できると説いた。

 

日蓮は、法華経こそ真にして実なる経典であると主張し、すべての人間は唱題することによって、法華経の説教に出会い、現世利益(読み方?)を得、次の生には仏になることができると説いた。

南無妙法蓮華経の題目を専心称名することが、末法の世に相応する唯一の方法だと主張した。

 

栄西(1141~1215)が開いた臨済宗は、師から公案(課題を与える)が与えられ、問答を通して悟りに達しようとする。問答を通して得られる悟りを禅の最高段階に置く。

栄西は、ただひたすらに坐禅することだけで悟るのではなく、公案によって弟子を教化する看話禅の立場をとった。

 

栄西:末法の世といえども修行も悟りも可能であり、もしそれが成り立たないのならば、仏が教典において坐禅観行の法要を説くはずはない。

 

 

道元(1200~1253)が説いた「只管打座」とは、ただ黙って坐禅に打ち込むことを意味する。座禅によってのみ仏に近づけるとした。

 

道元:仏教の教えの真髄は経文などに頼らず、ただひたすらに坐禅することであり、坐禅はそれ自体が目的で修行と悟りは一体のものである。

 

道元は、富や名声にとらわれず、真実の仏の教説を厳しく実行すべきことを主張し、その核心は坐禅にあり、ひたすら坐禅する只管打座の中において、心身の執着から解き放たれ、悟りはすでに実現していると説いた。

 

室町時代には、幕府の支配力が弱く戦乱が続き…

室町時代には、浄土宗系では、一向宗(浄土真宗)が地方への布教に成功して、一揆を起こすまでになり、加賀の一向一揆は約100年続くなど、大きな勢力となった。

 

一向宗(浄土真宗)では、本願寺の蓮如が、地方武士や農民を門徒として講を組織して、平易な教えを説いて勢力を拡大し、日蓮宗では、日親が京都の町衆の間に教えを広めた。

 

 

室町時代には禅宗である臨済宗が足利将軍家の帰依を受けて発展し、3代将軍、足利義満の北山文化に影響を与えた。

 

江戸時代には、幕府は、キリスト教禁令のための手段として、すべての農民?をいずれかの寺院の檀家とし移転を禁止する?寺請制度を実施した。この結果、寺院は幕府の庶民支配の末端を担わされることとなった。