青森ねぶた祭:「東北三大祭り」の起源は七夕祭り?

 

津軽の伝統「ねぶた祭り」は、青森県の夏の風物詩で、県内の各地で行われます。中でも青森ねぶた祭は毎年200万人以上を動員し、秋田竿燈(かんとう)祭りと仙台の七夕祭りと並んで東北の三大祭りに名を連ねる大人気のお祭りです。今回は、ねぶた祭りを中心に東北の祭りをまとめました。

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<青森ねぶた祭>

 

  • ねぶたの起源と語源

 

青森県で毎年行われる「ねぶた祭り」のなかでも高い人気を誇るのが、青森三大祭りと称される「青森ねぶた祭」「弘前ねぷたまつり」「五所川原立佞武多」の3つです。

 

「ねぶた」の起源は、諸説あり定かではありませんが、日本の昔からの神事の一つである「禊祓(みそぎはらえ)」や、奈良時代に中国から渡来したとされる七夕祭りまで遡るとみられています。これらに古来、津軽地方にあった習俗としての精霊送りや人形送り、お盆など様々な行事や祭りが融合して、現在のねぶた祭りになったとみられています。

 

例えば、7月7日の夜、穢れ(けがれ)を川や海に流す禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流す七夕祭りの風習や、「眠り流し(ねぶりながし)」と呼ばれる豊作祈願の農民行事から発展したとの説が有力です。「眠り流し」は、秋の収穫前に、夏の農作業の妨げとなる睡魔を追い払うため、人形などの形代に睡魔を委ねて祓え流す七夕祭りにまつわる民俗行事です。

 

実際、七夕祭りでは、健康や秋の豊穣を祈って、小さな灯籠を静かに川や海に流していました。それが16世紀頃から、紙や竹、蝋燭の普及で、巨大な行燈(あんどん)が作られ始め、18世紀には踊りが付いていたと言われています。さらに、京都の祇園祭の山車をまねて担ぐスタイルへと発展したとされています(後述)。

 

こうして、現在のねぶた祭りでは、巨大な灯籠(ねぶた)を山車(だし)に乗せて、街を練り歩き、「ハネト」と呼ばれる踊り手がねぶたの周りを取り囲み、お囃子の音に合わせて踊るようになりました。

 

ねぶた祭りは、七夕行事の一つとして行われてきた夏祭りなので、旧暦7月7日の年中行事として知られていましたが、太陽暦の導入で、8月1日から一週間ほどかけて行われるようになり、現在では七夕との関連性は意識されなくなっています。

 

「ねぶた」の語源も諸説あります。「ねぶた」そのものの意味は、祭りで使われる山車灯篭(だしとうろう)(灯篭を載せた山車)のことですが、代表的な語源は、「眠(ねぶ)たし」などの語句に由来するというものです。前述した「眠り流し(ねぶりながし)」の農民行事の名称とも関連しますが、「眠気を流す」から転じて「ねむりながし(眠り流し)」と訛っていき、やがて「ねぶた」と言われるようになったといわれています。これ以外にも、アイヌ語の「ネプターン(不思議、奇怪という意味)」が由来という説もあります。

 

また、青森県内では「ねぶた」「ねぷた」「ねむた」など呼称が異なります。津軽弁では、「眠い」ことを「ねむてぇ」や「ねぷてぇ」ということから、伝統を受け継ぐなかで呼称が訛化し、青森では「ねぶた祭」、弘前では「ねぷた祭」と呼ばれます。

 

 

ねぶた祭りの変遷

 

権勢を振るっていた豊臣秀吉は、1593年、7月の盂蘭盆(お盆)を盛大に楽しみたいと考え、全国各地の諸侯に出し物を行うように命じました。当時、津軽地方は京都と比較すると田舎で、後に弘前藩初代藩主となる津軽為信(つがるためのぶ)も、「成り上がりの田舎者」として蔑(さげす)まれていたそうです。

 

そこで、津軽為信は、名誉挽回と津軽を全国に知って貰うため、自身の意地と誇りをかけて、二間四方に及ぶ奇想天外な「大灯籠」を地元の津軽で作らせ、京の町を練り歩かせました。この豪快な大行進は、派手な物を好む豊臣秀吉の目にとまり、津軽為信の出世に繋がったと言われています。地元の人々も為信の出世を喜び、祝いとして灯籠を持って津軽城下を練り歩いたことが年中行事として定着していきました。

 

これが、現在のねぶた祭りの始まりだと言われています。その後、弘前城下町で行われていた「ねぶた祭り」は、次第に港町・青森を始めとして弘前藩内各地に拡がっていきました。

 

ただし、歴史上で最初の記録として残された「青森ねぶた祭り」は、江戸時代の享保年間( 1716~1736年)でした。この時、青森県油川町付近で、弘前のねぶた(ねぷた)祭りを真似て、灯籠を持って歩いたという記録があります。当時の灯籠(ねぶた)は担いで移動させる「担ぎねぶた」だったそうです。

 

さらに、安永年間(1772~1781年)になると、ねぶた祭りに踊りが付いていたという記録があります。青森ねぶた祭りと言えば、「はねと」の大乱舞が有名ですが、かつて、「おどりこ(踊り子)」は、いつの頃からか「はねと」(踊り跳ねるの意)と呼ぶようになりました。

 

また、文化年間(1804~1818)には、人形(ひとがた)のねぶたや、大型の担ぎねぶたが作られるようになり、祭りは華やかになっていきました。

 

ちなみに、現在、祭りの際には、「らっせーらー! らっせーらー!」という独特の掛け声があります。その意味について諸説がありますが、広く伝わっているのは、「出せ出せ」が語源となっているそうです。何を「出せ」というのかというと、それは蝋燭(ろうそく)で、ねぶたを灯すろうそくを集めるために、子供達が各家を回っては、「ろうそく出せ、出せ」と、囃し立てたのだそうです。これらの「出せ」が「らせ」になり、「あー」という掛け声がついて「らっせ、あー」、「らっせーらー」と変化したと言われています。

 

明治時代に入って青森ねぶたは一層大型化し、1869(明治2)年には、担ぎ手が100人という巨大なねぶたも出るなど、祭りの華やかさは増しました。しかし、1873(明治6)年になると、明治新政府から任命された初代青森県令(今の知事)菱田重喜が、ねぶた祭りは昔ながらの野蛮な風習だと主張したため、ねぶた祭りは突然禁止されてしまう事態になりましたが、1882(明治15)年に解禁されました。

 

戦時中、ねぶた祭りは、自粛を余儀なくされ、1937(昭和12)年から1945(昭和20)年までの9年間中止されていましたが、1946(昭和21)年、戦後の復興もままならない中、ねぶた祭りが復活します。1958(昭和33)年に、現在の「青森ねぶた祭り」という名称になり、1980(昭和55)年には、ねぶた祭りは国の重要無形文化財に指定されました。現在では、期間中の人出が300万人を超える国内有数の祭りへと成長しています。

 

 

  • 青森以外の「ねぶた祭り」

 

「ねぶた」と言えば、青森ねぶた祭りですが、青森県内だけで、弘前や五所川原など40以上の地域で、同様のお祭りが開催されています。

 

つがる市ネブタまつり

県内のねぶた(ねぷた)祭りの先陣を切って行われる。

 

弘前ねぷたまつり

青森ねぶたと双璧とされ、国重要無形民俗文化財にも指定されている。ねぶた祭りそのものは弘前から始まった。

 

平川ねぷたまつり

世界一の扇ねぷたで有名。

 

五所川原立佞武多(ごしょがわら たちねぶた)

高さ20メートルを超える大型立ちねぷたで有名。

 

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<秋田・竿燈まつり>

 

秋田の竿燈祭りは、約280本の長い竹竿に、約10,000個の提灯を吊り下げた「竿燈(かんとう)」を、「差し手」と呼ばれる腕自慢たちが力強く持ち上げて練り歩く、約270年もの歴史を持つお祭りです。毎年8月3~6日に開催され、130万人が訪れる「秋田竿燈まつり」は1980(昭和55)年に国重要無形民俗文化財に指定されています。

 

竿燈全体を稲穂に、吊るされた提灯を米俵に見立て、五穀豊穣を祈願するのですが、何よりも職人芸で観衆を熱狂させるのが特徴です。「ドッコイショー、ドッコイショー」の掛け声が響くなか、差し手たちは大きな竿燈を手のひら、額、肩、腰へと自在に操ります。

 

竿燈まつりの起源と経緯

竿燈まつりの由来は、ねぶた祭同様、真夏の睡魔や邪気、悪疫などを払う「ねぶり流し」「眠り流し」と呼ばれる七夕行事を起源とする説が有力です。その昔、夏の過酷な農作業は体力を消耗し、眠くなると病魔が忍び入ると考えられていました。竿燈まつりは、その眠気を払うために始まった七夕行事(お盆行事)として、江戸中期の宝暦年間(1751~1763年)にはその原型となるものが出来ていたと言われています。

 

藩政以前から秋田市周辺に伝えられているねぶり流しは、元々、願い事を書いた絵馬や短冊を笹竹や合歓木(むねのき)になどに吊るし、それを手に子どもたちが練り歩き、最後に川に流すという行事でした。それが、時代とともにその形を変えていき、宝暦年間には、普及した蝋燭や、お盆に門前に掲げた高灯籠などが使われるようになり、米俵や稲穂をかたどった現在の竿燈の原型ができたといわれています。

 

現在残っているもっとも古い文献(寛政元年1789)では、「ねぶりながし」がすでに秋田独自の風俗として伝えられています。その時、長い竿を十文字に構え、それに灯火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩き、その灯火は二丁、三丁にも及ぶ、といった記載も見られるそうです。昭和の時代、1931(昭和6)年から町内単位で参加する竿燈まつりが始まり、現在では38もの町内が参加する大規模な祭典へと成長しています。

 

昼竿燈と夜本番

竿燈まつりは「昼竿燈」と「夜本番」と呼ばれる2つのイベントから成っています。昼竿燈では、竿燈名人を決める個人戦、町内ごとの団体戦に分かれて技を競い合います。差し手たちは竿燈を手のひら、額、肩、腰に移しかえて5つの技を順番に披露し、観客をわかせます。差し手たちの技術向上を目的として1931(昭和6)年から始まったイベントです。最終日6日の妙技会で優勝者が決まるため、その日の夜本番は凱旋演技ということになります。夜は、「光の稲穂」が壮観です。

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<仙台七夕祭り>

 

仙台七夕まつりは、古くは藩祖、伊達政宗公の時代から続く伝統行事として受け継がれ、本来、七夕まつりは旧暦7月7日の行事として知られていましたが、その季節感に合わせるため、旧暦に1ヵ月を足した暦である中暦を用い、現在の8月6日から8日に開催されています。

 

七夕祭りは全国各地で催されますが、仙台ほど大規模なものはないと言われるぐらい仙台七夕祭りは、全国から毎年200万人を超える観光客が訪れる、まさに全国随一の七夕まつりです。仙台の人々から「たなばたさん」と呼ばれ親しまれており、特に駅周辺やアーケード街において、豪華絢爛な笹飾りで埋め尽くされ、その数は市内で大小合わせて3000本以上にもおよび、「色の天の川」と評されています。

 

仙台七夕祭りの歴史

古代中国で始まったとされる七夕は、奈良時代頃、日本にも伝わり宮中行事として行われるようになりました。その後、五節句としての年中行事のひとつとして、武家、民間に広がり、笹竹に短冊、色紙、吹き流しという七夕飾りの基本形として定着し、全国各地で古くから行われてきました。

 

仙台でも、江戸時代初期に仙台藩祖の伊達政宗が、「子女(しじょ)の技芸」が上達するようにと七夕を奨励したとされ、次第に民間にも年中行事化したと見られています。ただし、当初、仙台七夕祭りは、家ごとに行われる、仙台市民の素朴でつつましいお祭りだったそうです。また、旧暦7月7日はお盆の準備に入る前盆の行事日とされ、また、この時期は稲の開花期であったことから、豊作を祈った日でもあったとされています。このように、仙台七夕は古来より農業やお盆と深く関わりながら、独自の七夕を形成してきたといえます。

 

しかし、1873(明治6)年に、五節句が廃止されたり、新暦が採用されたことを境に季節感のズレが生じたりしたことなどから、七夕祭りは年々行われなくなり、第1次世界大戦後の不景気をむかえてからは、廃れる一方となりました。なお、新暦後も仙台七夕は旧暦の7月6日・7日に行われ、新暦のひと月遅れの8月6日・7日に行われたのは1910(明治43)年以降のことだそうです。

 

それでも、1927(昭和2)年、仙台商人の有志達が立ち上がり、町内に華やかな七夕飾りを施し、仙台に七夕祭りを復活させました。第2次世界大戦の影響で、七夕祭りは再び消えてしまいましたが、終戦後まもなく復活します。1947(昭和22)年、昭和天皇が仙台に巡幸された際、町の沿道に大々的な七夕飾りを施してお迎えしました。この御巡幸を機に、その後の仙台の七夕祭りは、名実ともに日本一のスケールを誇るようになったのです。

 

 

<参考>

青森ねぶた祭りオフィシャルサイト

ねぶたの由来…青森ねぶた

青森の歴史街道を探訪する

秋田市観光・イベント情報総合サイト

いい日本再発見

夜空を彩る黄金の稲穂!東北三大祭り・秋田竿燈まつりの楽しみ方

旅ぐるたび

仙台七夕まつりの歴史

2019年、仙台七夕祭り

仙台七夕まつりの歴史TANABATA-HISTORYなど

 

(2019年9月22日、最終更新日2022年6月5日)