ハンガリー

ハンガリー(Hungaryは英語表記)

正式名称はハンガリー語でマジャール共和国、通称Magyar(マジャル)。

漢字表記では洪牙利で、洪と略される。

 

概観

国名:ハンガリー(2012年1月1日の新憲法「ハンガリー基本法」に基づく)

首都:ブダペストで、ドナウ川の挟んだブダ地区とペスト地区からなる。

人口:約1千万人。

面積:約9.3万平方kmで日本の約4分の1。

 

自然

ハンガリーは、中央ヨーロッパ(または東欧)の共和制国家で、北はスロバキア、南はクロアチア・セルビア、西はオーストリア、東はルーマニアに囲まれた内陸国である。国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川中流の北岸に広がるパンノニア平原には肥沃な農地が広がる。

 

人種:ハンガリー人はマジャール人の子孫

ハンガリーの人々は自分たちを「マジャール(マジャル)人」と言っている。歴史上、ハンガリー王国は、多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。

 

民族:現在のハンガリー人はスラヴ系の民族との混合の結果形成されものと考えられる。宗教:半数以上がカトリック、2割ほどのプロテスタントも存在する。

 

言語:ウラル語族に属する

かつての言語分類ではハンガリー語は「ウラル=アルタイ語族」に分類され、そこからもハンガリー人=マジャール人はアジア系民族といわれていた。しかし現在では研究が進み、ウラル語とアルタイ語とは全く別な言語系統であるとされるようになった。ハンガリー語はウラル語に属しているとみられ、アジア系ではないというのが現在の見方である。

 

略史

ハンガリー王国の誕生

ハンガリーの国土はハンガリー平原と言われる広大な平原を中心としており、古来様々な民族が侵入し、定着してきました。9世紀末には、東方からウラル語族のマジャール人が定住し、キリスト教の洗礼を受けたイシュトヴァンが、西暦1000年12月、ローマ教皇シルヴェステル2世から王冠を授かり、ハンガリー王国が誕生しました(直前に誕生した西隣の神聖ローマ帝国には含まれなかった)。イシュトヴァン1世は、教会の教区制度をカトリック国家として整備しました。

 

モンゴルの侵入

ハンガリーは、13世紀に、ロシア、ブルガリアと同じく、バトゥの率いる大モンゴル国軍の侵入を受けました。モンゴル軍は、ワールシュタットの戦い(レグニツァ)でポーランド・ドイツ連合軍を破り、ついでハンガリーの首都ブダペストに向かいましたが、翌年引き揚げたため、ハンガリーは占領されずに済みました。

 

ハンガリー王国の全盛期

モンゴルの撤退後、ハンガリー王国は、モンゴル再来襲に備えて防備を固め、14世紀から15世紀には最盛期となり、中央ヨーロッパの大国として周辺に支配を及ぼすことができました。

ただし、14世紀の後半には、バルカン半島への新たな脅威としてオスマン帝国が迫ってきました。1396年には、ニコポリスの戦いでオスマン帝国との大敗しましたが、オスマン帝国が1402年に中央アジアから進攻してきたティムールと小アジアでのアンカラの戦いに敗れたため、一時的に脅威はなくなりました。ハンガリー王国が、国民的英雄マーチャーシュ1世の下で、全盛期を迎えたのは正確にはこの時です。

 

オスマン・トルコの圧迫

しかし、15世紀後半からオスマン帝国の強い圧力を受けるようになりました。オスマン帝国は、1453年に、コンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼし、再び西進し始めたからです。

1529年、オスマン・トルコのスレイマン1世は、第1次ウィーンを包囲が行われた。このときは、オーストリアの激しい抵抗と冬の到来とともにオスマン軍は撤退しましたが、1547年の休戦協定によって、ハンガリーは、(ブダペストを含む)東南部と中部の3分の2をオスマン帝国(オスマン帝国領ハンガリー)、北西部の3分の1をハプスブルク家のオーストリアによって分割支配され(王領ハンガリー)されることになってしまいました。

 

オーストリアによる支配

1683年の第二次ウィーン包囲に敗北したオスマン帝国が軍事的に後退すると、1699年のカルロヴィッツ条約で、ハンガリー支配権を得たオーストリアに、ハンガリー王国の全域を支配されました。

19世紀前半のウィーン体制の時代の民族の独立をめざす運動が強まると、オーストリア支配下のハンガリーでも、ハンガリー民族運動(マジャール人民族運動)が始まり、1848年には、コシュート指導の下、独立宣言が出されましたが、弾圧されてしまいました。

ただし、オーストリアに、ハンガリー民族独立運動を抑えるための妥協を決断させ、1867年に和協が結ばれました。それは、ハンガリー王国は形式的な独立を認められた(独自の議会も設置)一方、国名はオーストリア=ハンガリー帝国で、国王はハプスブルク家のオーストリア皇帝が兼ねるというものでした。つまり、ハプスブルク家はオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨するが、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合することになったのですが、ハンガリーがオーストリアに支配されている実態には変わりありませんでした。

 

ハンガリーの独立

第一次世界大戦(1914~1918)では、三国同盟側に立って戦い敗北し、1919年9月、連合国がオーストリアと締結したサン=ジェルマン条約で、ハンガリーのオーストリアからの独立が承認されました。

翌年3月1日、ハプスブルク家に代わる王が選出されないまま、ホルティ・ミクローシュが摂政として統治するという異常な状態で、ハンガリー王国の成立が宣言された。同年6月には、ハンガリーは独自で連合軍との講和条約トリアノン条約を締結し、ハンガリー王国として主権を回復し、単独国家となりました。ただし、周辺諸国に領土の3分の2を割譲されました(国土は3分の1に縮小)。

 

ハンガリー革命の挫折

その後、ハンガリー革命が起こり、社会主義国政権が成立し、一時共和国となりましたが、革命失敗で王国に戻り、ホルティの独裁政治となりました。

ホルティのハンガリー王国は1930年代、ドイツにナチスが台頭すると、領土回復の好機ととらえてドイツに近づき(一部領土を回復)、1940年11月、日独伊三国同盟に加盟して枢軸国の一員となり、第二次世界大戦に参戦しました。

 

ハンガリー王国の崩壊

第二次世界大戦では、独ソ戦などで戦ったが、戦局は次第に劣勢となり、1944年にはホルティは枢軸国からの離脱を目指すが失敗します。同年末、ドイツ占領下のハンガリーにソ連軍が侵攻して、ハンガリー東部が解放されると、臨時政府が成立、ホルティは亡命して、ハンガリー王国は崩壊しました。

1946年2月1日には王制が廃止され、ハンガリー共和国(第二共和国)が成立しましたが、ソ連の占領下に置かれたままでした。1947年2月にはパリ条約によって連合国と講和し、占領体制は終結しましたが、ハンガリー解放を実現したソ連軍は軍隊をそのまま駐屯させ、ハンガリーの内政に対しても強い影響力を持っていました。

 

ハンガリー人民共和国

ソ連の後押しの下、ハンガリー共産党は対立政党の影響力を徐々に削減する戦術で権力を掌握し、1949年にハンガリー人民共和国が成立した。対外的にも、ソ連は、1947年6月にハンガリー政府にマーシャル=プランの受け入れを断念させ、1949年1月にはコメコンに加盟させました。こうして、ハンガリーは、ハンガリー共産党が合同したハンガリー勤労者党による一党独裁国家としてソ連の衛星国となったのです。

 

ハンガリー動乱

冷戦体制の中では東側の共産圏に属したハンガリーでは、1956年、新指導者フルシチョフによるスターリン批判を機に、ハンガリー反ソ暴動が勃発しました。ナジ=イムレが改革派に推されて復帰し、ワルシャワ条約機構から離脱し、独自路線を掲げました。しかし、ソ連軍の直接介入によって鎮圧され、ナジも処刑されました。ハンガリー反ソ暴動鎮圧後の1960年代以降、勤労者党は、ハンガリー社会主義労働者党に再編され、カーダール・ヤーノシュによるグヤーシュ・コミュニズムと呼ばれる比較的穏健な社会主義政策(市場社会主義路線)が採られました。

 

東欧革命の先駆け

1989年2月、ハンガリーは複数政党の承認など改革を開始し、「党の指導性」の規定の削除し、一党独裁体制打破という民主化に踏み切りました。同年10月、社会主義体制を放棄し、ハンガリー共和国となりました。

一方、その年の5月にオーストリアとの国境の鉄条網を切断して、東独市民が西独に脱出する動きを作り、これはその年の東欧革命の始まりとなりました。

 

市場経済と議会制民主主義へ

翌1990年4月、ハンガリーで40年ぶりに行われた自由な国会議員選挙の結果、民主フォーラムを中心とする非共産党政権が発足し、議会制民主主義国家への転換は平和裏に行われました。その後も、市場経済への移行は順調に進み、1999年には北大西洋条約機構(NATO)に、また2004年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟しました。2007年には、欧州内を国境審査なしで移動できるシェンゲン協定を導入。2011年に新憲法は「ハンガリー基本法」への改正が行われた(国名は、「ハンガリー共和国」から「ハンガリー」に)。

 

日本との関係

日本とハンガリーの国交は、1869年、オーストリア=ハンガリー帝国時代に、日本との間に日墺修好通商航海条約が締結されたことから始まります。それ以前には、1770年に、ハンガリー人が初めて日本を訪れ、長崎のオランダ商館に滞在したという公式記録が残されています。

 

1886年にはユダヤ系ハンガリー人のヴァイオリン演奏家エドゥアルト・レメーニが日本を訪問し、横浜居留地と宮城(皇居)にて明治天皇、昭憲皇太后の前で演奏を披露しています。この「御前演奏会」は天皇皇族が洋装で集まる最初の機会となりました。また、創設されたばかりの日本騎兵部隊は馬をハンガリーから購入していました。

 

20世紀初頭には、ハンガリーで言語研究が進み、ツラニズムと呼ばれる思想が台頭しました。それは、ウラル・アルタイ語族の諸民族が、血筋においても強い関連を持つという考え方で、マジャール人と大和民族が同祖であるという思想が広がったのです。ツラニズムの推進団体であるツラン協会(1910年に成立)は、当時、日本と同盟を組むことを主張、ハンガリーには日本の皇族を国王として迎えるべきであるとする意見すらあったと言われています。

 

第一次世界大戦後の1921年には、独立したハンガリー王国と日本の間で国交が樹立されました。1924年にはハンガリー日本協会が設立され、人的な交流も広がりました。例えば、斎藤茂吉が医学者としてウィーンを中心にヨーロッパ留学をしており、ハンガリーに滞在しいくつかの歌を残しました。また夏目漱石の長男でバイオリニストの夏目純一もハンガリーを訪れ、ジプシー音楽に魅了されブダペスト音楽院に留学しています。1931年には昭和天皇の弟の高松宮宣仁親王、同妃喜久子も天皇の名代としての欧米訪問の際にハンガリーに立ち寄られています。

 

第二次世界大戦時、ハンガリーは1939年2月24日に防共協定、1940年11月に三国条約に加入するなど、日本とともに枢軸国を形成することになりました。ハンガリーの摂政ホルティ・ミクローシュは、この時期に昭和天皇に白馬「白雪」を贈っています。ただ、両国間の軍事的な交流はほとんど無かったとされています。第二次世界大戦末期にはハンガリー王国政府が崩壊し、日本も降伏によって外交権を剥奪されたため、両国間の国交は断絶しました。

 

戦後、両国は外交権を喪失し、両国間の国交は、冷戦による対立構造の中で、しばらく復活することはありませんでしたただし、両国に直接対立する外交問題はなく、1959年8月29日、チェコスロバキア(当時)のプラハで国交回復文書が調印され、日本とハンガリーの国交が回復しました。

 

1989年の東欧革命で、ハンガリーの体制が転換すると両国間の関係は活発となり、1990年1月には日本の内閣総理大臣として初めて海部俊樹首相がハンガリーを訪問しました。2002年には、明仁天皇と美智子皇后(いずれも当時)がハンガリーを国賓として訪問されています。

 

(「世界史の窓」「Wikipedia」、各紙記事などからのまとめ)