オーストリア

オーストリア Austria  墺太利(墺)

正式国名:オーストリア共和国

(「世界史の窓」「Wikipedia」、各紙記事などからのまとめ)

 

ヨーロッパの中央部、ドナウ川中流域にある国家で、ドイツと同じゲルマン系国家です。ゲルマン人のフランク王国が、この地においた辺境伯(オストマルク)に由来する国名をもち、住民はドイツ人と同じでドイツ語を話します。

 

首都:ウィーン>

中欧の中心に位置する首都ウィーンは、歴史上、ウィーン会議の開催など政治的に重要な存在であったばかりでなく、音楽をはじめとする芸術学問の中心としても西欧のパリに並ぶ存在です。この地はドナウの水運など古来から交通の要衝であったので経済の中心ともなり、ローマ帝国衰退後もゲルマン系、スラブ系、アジア系など多くの民族が行き来する場所として発展を続けました。

 

概観

世界史上のオーストリア帝国と現在のオーストリア共和国はまったく領土の広さが異なります。現在はオーストリア共和国として中欧の小国ですが、世界史上、オーストリアは、ハプスブルク家を輩出し、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国の本拠として、首都ウィーンを中心に、オーストリア帝国(後に、オーストリア=ハンガリー帝国)を形成しました。その勢力範囲は、ヨーロッパの中部からバルカン半島まで、現在のハンガリー、チェコ、スロヴァキア、ポーランドの一部、さらにスペイン、オランダの一部や北イタリアにも及びました。

 

しかし、第一次世界大戦で敗北し、支配下のハンガリー、チェコなどが独立したため、領土を縮小させ共和国となりました。第二次大戦前、ナチス=ドイツに併合された後、戦後、永世中立国として再出発しています。

 

成り立ち

ローマの支配

ドナウ川中流域はヨーロッパのほぼ中央に位置し、早くから塩(岩塩)の産地として知られ、ローマ人が支配していました。前3世紀にはケルト人が進出しましたが、前2世紀後半にはローマはケルト人を追い出しこの地を再び支配するようになった。ローマ帝国のアウグストゥスはドナウの国境地帯に「リーメス」といわれる城壁をもつ砦を建設、その中の重要拠点がウィンドボナで、それが現在のウィーンです。

 

オストマルクからオーストリアへ

8世紀末、フランク王国のカール大帝が進出してアヴァール人を撃退、東方支配の拠点として東方辺境伯(国境付近に防備の必要上置いた軍事地区)オストマルクを置きました。9世紀末にはアジア系のハンガリー人が進出しましたが、フランク王国分裂後の東フランクのオットー1世(神聖ローマ帝国初代皇帝)がハンガリー人を破り、次のオットー2世がオストマルクを再建、976年にバーベンベルク家のレオポルドを東方辺境伯に任命しました。このバーベンベルク家のもとで、オーストリアと言われるようになり、1156年、神聖ローマ帝国の中の独立の公国となりました。

 

ハプスブルク家のオーストリア

バーベンベルク家は、次のフリードリヒ2世の時、モンゴル軍の侵入を撃退しましたが、1246年にマジャール人との戦いで戦死したために断絶してしまいました。その混乱に乗じたベーメン国王プシュミスル家のオタカル2世(オトカル)が1251年、ウィーンに入りオーストリアを支配しました。これに対して西方をのスイスを拠点として台頭したハプスブルク家のルドルフが1273年にドイツ王(神聖ローマ皇帝)に選出され、オタカル2世に戦いを挑み勝利し、ハプスブルク家がオーストリアを所領とすることになりました。

 

それ以後、ハプスブルク家は、1438年から神聖ローマ皇帝位を独占して、ドイツ諸侯をも従える立場となるだけでなく、オーストリア以外にも、いわゆる「婚姻政策」によって、ネーデルラント、スペインなどの広大な領土を獲得、オーストリアの君主としては1918年まで続くこととなります。

 

 

日本との外交関係

明治政府とオーストリア=ハンガリー帝国は、1869年に日墺修好通商航海条約を締結し、両国間の外交関係を樹立しました。

 

1873年のウィーン万博には日本も参加し、ヨーロッパでも「ヤポニズム」が伝搬することとなった。当時、著名なオーストリア人は、大日本帝国憲法の成立に影響を与えたロレンツ・フォン・シュタイン、日本にヨーロッパの考古学をもたらしたハインリヒ・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男)などが知らています。

 

1914年8月25日、第一次世界大戦において日本は、三国協商側に立ったためオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告し、両国は戦争状態に突入しました。青島の戦いで、防護巡洋艦カイザリン・エリザベートが日本側の攻撃を受けた末に自沈したことで、乗組員達は捕虜として日本国内の収容所に収容されました。この時、音楽や料理などのオーストリア文化を日本に伝える一助となったという見方もあるようです。

 

第一世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、オーストリア第一共和国との講和条約サン=ジェルマン条約に日本も調印しました。1938年、オーストリアはナチス・ドイツに併合され、日本はこの措置を承認しています。

 

戦後、両国間の外交関係は1955年になって復活しました。その後、文化面では音楽分野での交流が大きく、ウィーン国立音楽大学等において多くの日本人留学生が音楽を学んでいます。また、ウィーン大学東アジア研究所には日本学科があり、毎年約200名の学生が入学しています。経済関係では、日本はオーストリアにとって、3番目の貿易相手国となり、アジアでは2番目の貿易相手国とされています。

 

要人往来

1999年6月、オーストリア連邦大統領のトーマス・クレスティル、オーストリア連邦大統領として初めて国賓訪問。

2019年2月、オーストリアのセバスティアン・クルツ首相、日本を公式訪問。

2019年9月、秋篠宮家の佳子さま、ご訪問