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2020年12月10日

憲法:24条(両性の平等)はいかにしてできたか?

前回の投稿「まじめな解説 婚姻の自由と両性の平等」で、憲法24条の解説をしました。今回は他の条文同様、その成り立ちをみていきます。

―――

 

日本国憲法第24

(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)

 

  1. 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
  2. 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

戦前の日本において、本人が意図しなくても、親や「家」が結婚を決めるということは普通でした。また、民法においては、嫡男(長男)が、財産などを単独承継するという家督相続(長子相続)が基本あり、妻から離婚を申し込めない、父のみが親権を行使できるといった家父長的な規定が数多く制定されていました。当然、帝国憲法(明治憲法)では、本条のような両性の平等について規定した条文はありませんでした。

 

ですから、GHQ(連合国軍総司令部)は、こうした家族主義的な男尊女卑の慣行を問題視し、明治憲法下の日本に貫かれた、封建制の象徴である「家」制度を解体させようと、日本国憲法第24条を書かせたと広く信じられています。

 

実際、24条で「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」が定められたと言っても、婚姻と夫婦間の平等についての規定で、そこには、親兄弟姉妹、祖父母については一言も触れられていません。親子よりも夫婦の関係を重視するアメリカの影響を受けことは十分考えられることではあります。

 

いずれにしても、マッカーサーの指示で、GHQが10日程度で書き上げた帝国憲法改正案(GHQ案)は、他の条文の試案よりもかなりの長文になっていました。

 

GHQ(総司令部)案

家族は人類社会の基底にして、その伝統は善かれ悪しかれ国民に浸透す。婚姻は男女両性の法律上および社会上の争うべからざる平等の上に存し、両親の強要の代わりに、相互同意の上に基礎づけられ、かつ男性支配の代りに協力により維持せらるべし。

 

これらの原則に反する諸法律は廃止せられ配偶の選択、財産権、相続、住所の選定、離婚ならびに婚姻および家族に関するその他の事項を個人の威厳及両性の本質的平等に立脚する他の法律を以ってこれに代わるべし

 

ところで、マッカーサーが、ホイットニーGHQ民政局長に、日本国憲法の草案作成を命じた際、実務責任者(キャップ)となったケーディス陸軍大佐が、テーマ毎に8つの小委員会に分けて担当させました(詳細については「日本国憲法は9日間で書かれた?」参照)。

 

このうち、「人権に関する委員会」に所属し、現在の日本国憲法第24条の条文起草に尽力したのが、当時22歳のベアテ・シロタという女性で、当時、日本語をしゃべれた数少ないGHQスタッフでした。

 

父親の仕事の関係で、5歳から15歳までを日本で過ごしたシロタさんは、日本では女性の地位が低いことを肌で感じた体験から、女性の権利の充実を意識したそうです。特に、日本において、女性は好きでもない人と結婚させられていることにショックを受けたと後に述懐しています。そこでシロタさんは、両性の平等、相互の合意に基づく結婚、両性の協力、非嫡出子や養子の権利などを、GHQ案に盛り込んだのでした。

 

さて、日本国憲法の制定においては、GHQ(総司令部)案を基に、日本側も修正案を出すことが認められておりましたが、「三月二日案」と呼ばれた日本側の草案では、シロタさんが書いた家族に関する部分の多くを削除したものになっていました。

 

「三月二日案」

婚姻は男女相互の合意に基づきてのみ成立し、かつ夫婦が同等の権利を有することを基本とし相互の協力により維持せらるべきものとする。

 

日本側の修正説明では、GHQ案の「善かれ悪しかれ~」の文言は、日本の法文に合わないことや、文章が事実の叙述で特別の法的意味がない、内容的にも日本の歴史や文化に合致しないなどという理由をあげたとされています。

しかし、その後の日本側との折衝において、ケーディスは、削除された部分を整理する形で復活させることを「提案」(実際は「要求」)し、正式な帝国憲法改正案として、議会に提出されました。

 

帝国憲法改正案

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

 

配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

議会では、一部の保守層が、GHQ案で引用された「両性の平等」という表現も復活したことを問題しました。保守層は「両性の平等」はマルクス用語であるとしてその使用を嫌ったのです。実際、両性の平等に関する規定は、最初の社会主義国の憲法(1936年制定のスターリン憲法)でも書かれていました。

 

スターリン憲法(第122条)

ソ同盟における婦人は,経済的,国家的,文化的および社会的・政治的生活のすべての分野において,男子と平等の権利を与えられる。(後略)

 

しかし、結局、改正案は、そのまま無修正で議会を通過し、日本国憲法第24条となりました。

 

なお、世界で最も民主的な憲法と言われたドイツのワイマール憲法にも「両性の平等」についての記載があります。

 

ワイマール憲法第119条

婚姻は、家族生活および国民の維持・増殖の基礎として、憲法の特別の保護を受ける。婚姻は、両性の同権を基礎とする。(後略)

 

 

2020年12月08日

日本国憲法:まじめな解説 婚姻の自由と両性の平等(24条)

秋篠宮さまは、11月、長女・眞子さまと小室圭さん(29)の結婚について、憲法第24条に言及され、「(結婚については)本当にしっかりした確固たる意志があれば、それを尊重するべきだと私は思います」として、お二人のご結婚を認める発言をされました。今回は、憲法24条をとりあげます。

―――

 

第24条(家族生活における個人の尊厳と両性の平等)

  1. 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
  2. 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

24条には、「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」という「見出し」がつけられる場合があります。ただ、文言通りに解釈すれば、婚姻の自由と夫婦同等の権利を謳い、これが法律にも反映されることが求められています。ですから、24条は、親兄弟姉妹、祖父母を含めた家族制度全体というよりも、婚姻と夫婦間の平等について定めた条項と言えます。

 

第1項では、「結婚は男女の合意だけで成立する」と婚姻の自由を規定した上で、「夫婦が同等の権利を持っていることを基本に、互いに協力しながら、夫婦の関係を維持しなければならない」と、婚姻関係における男女平等を定めています。

 

「婚姻は、両性の合意のみ」という部分は、結婚を親や「家」が結婚を決めるのではなく、本人たちの意思で決めるということを強調したものだとされています。これは、戦前、本人が意図しなくても、親や「家」が結婚が決まることも多くあったことを受けたものです。

 

 

第2項では、結婚相手の選択、財産権、相続、結婚や離婚など家族に関する事柄について、憲法の権利を具体化する法律(民法など)においても、夫婦に差はなく平等、対等であることを基本として制定されなかればならないと述べ、「夫婦に差はなく対等」であることが念押しされています。

 

戦前の民法において、嫡男(長男)が、財産などを単独承継するという家督相続(長子相続)が基本でした。また、妻から離婚を申し込めない、父のみが親権を行使できるといった規定がありました。しかし、日本国憲法制定後に改正された民法では、例えば、民法では、これらの男性優位の旧制度を廃止し、両性の本質的平等の理念に忠実な制度に変わりました。

 

こうした点から、24条は、憲法の基本理念である個人の尊厳(13条)や、「法の下の平等」(14条)の理念を、夫婦間、家庭生活にも浸透させ、男女平等の社会を実現することを目指す条文であると解されています。

 

では、秋篠宮家の眞子さまのご結婚に関しては、憲法学上、「人権の享有主体」の問題がでてきます。憲法の規定は、日本国民に与えられた権利であって、天皇・皇族には一定の制約がかかるという考え方です。ですから、眞子さまのご結婚も、憲法24条の「婚姻の自由」を根拠に当然、認められるべきとは完全には言い切れないのが現状です。実際、自民党の伊吹文明元衆院議長は、「国民の要件を定めている法律からすると、皇族方は、……法律的には日本国民ではあられない」と発言しています。

 

一方、日本の社会に目を向ければ、現在、男女の不平等は徐々に改善され、24条が規定する夫婦間の平等の理念は定着しつつあるようです。ただし、本条を巡っては、同性婚や選択的夫婦別姓(氏)制の問題などがでてきています。また、古き良き意味での家庭の絆を憲法にも反映させたいとする声もあります。

 

同性婚は認められるか?

日本では、24条一項前半の「婚姻は両性の合意にのみ基づいて成立」との規定から、同性婚は認められていないと解されています。なぜなら、本条の「両性」は男女を意味すると解釈されているからです。もっとも、民法上の規定において同性カップルを「特別配偶者」とすることで、現行憲法のままでも同性婚が認められるとする立場もあります。

 

 夫婦別姓は認められるか?

旧民法では「結婚は妻が夫の家に入る」という伝統的な考え方を反映して、「妻が夫の氏を称する」と定められていました。これに対して、国憲法制定後に改正された現在の民法(第750条)では、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」とする「夫婦同氏の原則」が規定されています。

 

しかし、女性の社会進出が目覚ましい今日、改姓(氏)によって女性が社会的な不便や不利益を被る場合があるとして、結婚の際に、女性が望む場合には結婚後も旧姓を使うことを認める選択的夫婦別姓制度の採用を求める声が上がっています。しかし、法律(第750条)の文言上は、「夫婦協議が認められている」として、一般には、「夫婦同氏の原則」が平等原則違反とは解されていません。実際、2015年12月、最高裁は「夫婦同姓」は合憲との判断を示しています。

 

保守層の主張

 

一方、保守層からは、「家族」よりも「個人」に重きを置きつつ、「両性の平等」を定めた24条については根強い批判が出されています。彼らにとっての伝統的な日本の夫婦、家族の在り方とは、和と相互の思いやりを重んじた関係です。ですから、第24条が、女性の権利を擁護しているように見えるものの、その実態は、夫婦や家族、男女の対立を加速させ、離婚の増加、家族の破壊につながっていると考えるのです。

 

そこで、保守派など改憲を望む人々は、「家族は助け合う」というような「家族の絆」を憲法の条文に取り入れるべきだという主張もなされています。実際、現憲法には、24条にあるように婚姻について定めた条項はありますが、家族について規定した条項はありません。そこで、かつて自民党は、改憲案に「家族は互いに助け合わなければならない」という文言を加えることを提起しました。しかし、憲法で国民に新たな義務を課すのは、国民の人権を守るという憲法の目的から外れるとの指摘も聞かれています。

 

2020年12月06日

仏教:原始仏教から部派仏教へ

皆さんは、釈迦が開いた仏教が、後に小乗仏教と大乗仏教とに分かれていったことはご存知だと思いますが、今回は、釈迦の死後、仏教が2つに分裂するまでの仏教についてまとめてみました。

 

以下の投稿を合わせて読んでいただくとさらに理解が深まると思います。

釈迦の一生と仏教の始まり

釈迦は何を教えたか

―――

 

<初期仏教教団の創設>

 

仏教は、前5世紀頃、ガウタマ=シッダールタ(仏陀、釈迦)が、ガンジス川中流のマガダの地で、自ら悟ったことを人々に説いていったことに始まります。

 

ブッタ(仏陀=仏):悟りを開いた人の呼称

釈迦=釈迦牟尼:仏陀となったシッダールタに対する敬称

(出家修行者のことを比丘、比丘尼という)

 

仏教は、クシャトリヤ(武人・貴族層)やヴァイシャ(手工業者・農民層)など幅広い層に受け入れられていきました。すると、その教えを信じた人々の中から出家し、釈迦の弟子となる者たちが多く現れるようになると、仏教教団(サンガ)が作られました。サンガが初期仏教教団の原型です。彼らは一ヶ所に定住することなく、釈迦から教えを受けつつ、普段は旅をして村々こを歩きながら、托鉢をしたり、樹下で瞑想をするなど修業に励んでいました。

 

こうした弟子たちの中には、修行によって、阿羅漢(アラカン)という域に到達する優秀な者も輩出されるようになりました。阿羅漢(羅漢ともいう)とは、「アルハット」という古代インド語を音写した言葉で、「…するに値する人」という直訳から転じて、「悟りを得て尊敬するに値する人」という意味に使われれました。俗にいう聖者であり、長老、高僧で、中でも、「十大弟子」「十六羅漢」などと呼ばれた弟子たちが有名です。

 

 

<十大弟子>

 

■舎利弗(しゃりほつ)(サーリプッタ)(シャーリプトラ)

 

舎利弗は、同じ十大弟子で子供の頃からの友人であった目連と共に、それまで修行していた自由思想家サンジャヤの信徒250人を引き連れて釈迦の弟子になり、教団教団の上首となりました。

 

「智慧」に秀で(「智慧第一」と賞された)、その智慧によって多くの人に仏教を伝え、コーサラ国の富豪、須逹多(シュダッタ)と共に、祇園精舎を建立したことでも知られています。「般若心経」や「阿弥陀経」など多くの経典で、観音菩薩や仏の説法の相手として登場します。舎利弗は病気でお釈迦様より先に亡くなっています。

 

 

■目連(もくれん)(モッガラーナ)

摩訶目犍連(まかもっけんれん)

(パーリマハーモッガラーナ)、(マハーマゥドガリヤーヤナ)

 

目連は、未来や過去を知りことができるといったあらゆる超人的な神通力を身につけていいたとされています(ゆえに「神通第一」と賞された)。この能力により、地獄で苦しむ母の姿を知り、救うために供養をしたという逸話も残されています(これが「お盆」の起源となったという説になる)。

 

目連は、釈迦の護衛をしていたとされ、死因も釈迦を殺害しようとした外道によって撲殺されたと伝えられています。この時、自分の命を狙われたことは、自らの過去世の「業」が原因であると知り、最後は自らの意志で神通力を封じ、死を持って「業」を果たした言われています。

 

 

■摩訶迦葉(まかかしょう)

大迦葉(だいかしょう)、迦葉(かしょう)

(マハーカッサパ、マハー・カーシャン)

 

摩訶迦葉は、十大弟子の中で一番の長老で、釈迦の弟子となったときには、すでに悟りに近い域に達しており、弟子入りして八日目には阿羅漢となっていたと言われています。大富豪の家に生まれた摩訶迦葉でしたが、清廉潔白で非常な厳格さをもって生き抜いたことで知られ、少欲知足を意味する「頭陀(ずだ)第一」と賞されました。

 

釈迦生存中は、山林にこもり、自らの修行に没頭していましたが、釈迦の亡き後は、教団の指導的役割を担い、釈迦の教法を編集する結集(経典編纂会議)の座長を務めました。今に仏教が残っているのは、この時の迦葉の尽力によるとされています。

 

 

須菩提(しゅぼだい)(スブーティ)

 

「諸法皆空(あらゆるものは空であり実体がない)」という真理を、誰よりもよく理解したことから「解空第一」と称されました。解空(げくう)とは文字通り、「空」を良く理解しているという意味です。また、他人と争わないことから「無諍(むそう)第一」、さらに、多くの人々から尊敬され供養を受けたことから「被供養第一」とも賞されました。須菩提は、お釈迦様に祇園精舎を寄進した須達多(すだった)長者の甥といわれています。

 

 

■富楼那(ふるな)

富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)

(プンナ・マンターニープッタ、プールナ・マイトラーヤニープトラ)

 

富楼那は、釈迦が悟りを開いて初めての説法(初転法輪)後の第一の弟子で、十大弟子の中では一番早く弟子となった人です。大変な雄弁家で、他の弟子より説法が優れ(「説法第一」と賞された)、60種類の言語にも通じていたといわれます。インド西方の伝道を釈尊から許可されるなど、さわやか弁舌と解りやすい説教で人々を仏の道へと導き、仏教興隆の大きな柱となりました。なお、富楼那と呼ばれた人は複数いたといわれます。

 

 

■迦旃延(かせんねん)

摩訶迦旃延(まかかせんねん)(マハーカッチャーナ)、(マハーカートゥヤーヤナ)

 

迦旃延は、論義の人(「論議第一」)と賞され、釈迦の教えを良く理解し、詳細に解説する第一人者と言われています。西インドのアバンティ国出身の迦旃延は、釈迦に出会う前に仕えていたとも言われる国王を仏教に導いています。

 

 

■阿那律(あなりつ)(アヌルッダ、アニルッダ)

 

釈迦の従弟。釈迦の説法中に居眠りをして叱責をうけた阿那律(あなりつ)は、自らの行いを恥じ、眠らぬ誓いをたて、不眠・不臥の修行をした結果、視力を失ってしまいました。しかし、そのためにかえって、天眼(何でも見通す真理を見る眼)を得、「天眼第一」と仰がれるようになりました。

 

 

■優波離(うばり)(ウパーリ)

 

優波離は理髪師で、釈迦の髪を剃ったことがきっかけで弟子となりました。インドの階級制度において最下位の身分(カースト)に生まれながら、釈尊の教団の中で、高弟として活躍しました。とりわけ戒律に精通し、戒律の第一人者となりました(「戒律第一」と賞された)。釈迦の後、経典を編纂する結集において、戒律部門の編集の中心人物として活躍しています。

 

 

羅睺羅(らごら)(ラーフラ)

 

羅睺羅は、釈迦の実子で、釈迦の出家直前に生まれました。釈迦が悟りを得て帰郷した時、12歳になった羅喉羅は出家して、初の沙弥(少年僧)となりました。戒律の微細な規則まで厳密に守り「密行」を完成させ、「密行第一」と賞されました。密行とは緻密、厳密、手抜かりのないことをいいます。

 

 

阿難(あなん)

阿難陀(あなんだ)、(アーナンダ)

 

釈迦の従弟であった阿難は、阿那律(あなりつ)とともに出家して以来、釈迦が死ぬまで25年間、釈迦の付き人(従者)として仕えていました。釈迦の秘書的役割を勤めていたため、説法を最も多く聴聞することができ、「多聞第一」と称されていました。経典の編纂(結集)の時には、記憶力に優れた阿難の記憶に基づいて、お経が編纂されていったと評されています。

 

なお、十六羅漢と呼ばれる高僧たちもいました。その中には、須菩(しゅぼだい)(スブーティ)、富楼那(ふるな)(プンナ・マンターニープッタ)、優波離(うばり)(ウパーリ)を除く、七人の十大弟子を含む16人を指摘する経典もあれば、他の教典では、十大弟子とは異なる16人の名前があげられたりしています。

 

いずれにしても、こうした阿羅漢(長老)たちは、最高の悟りを得られて後、各々各地へ伝導の旅を続けていきました。釈迦の弟子が増えて、直接、釈迦に教えを受けられないようになると、それぞれの専門分野に優れた長老(高僧)について教わるようになっていきました。釈迦入滅後も、布教に尽力した十大弟子や十六羅漢らがいたからこそ、その後の仏教の興隆につながったと言われています。

 

 

<釈迦入滅>

 

釈迦が亡くなったのは、日本では一般に紀元前383年頃とされています(ただ、釈迦の生没年には諸説があり、前565年~前486年説、前465年~前386年説などが有力視されている)。ブッダの死後も、仏教はインド各地で布教され、マウリヤ朝(BC317~BC180年頃)の保護のもとで全インドに広がりました。仏教団にあって、釈迦の十大弟子で一番の長老であった摩訶迦葉(まかかしょう)(マハーカッサパ)が、釈迦に代わって教団を統率していました。

 

師の教えが散逸してしまうことを懸念した迦葉(かしょう)は、その教えを正しく継承していくために、阿羅漢の悟りを得た五百人の長老(高弟)をラジギールの七葉窟(しちようくつ)に集まるよう呼びかけ、釈迦の教え(お経と戒律)を整理して体系化することにしました。これは、いわば経典の編集会議(これを「結集」という)で、釈迦の生前と同様の僧団の維持が期されたといえます。ちなみに、この時集まった500人の弟子達は五百羅漢と呼ばれています。

 

この会議で、お経については、「多聞第一」のアーナンダ(阿難)長老が代表して唱え、また、戒律(律)については、持戒堅固なウパーリ(優波離長老が釈迦の言葉を述べ、それをみんなで確認し合い、編集されました。こうして、釈迦の教えが整理、体系化され、初めて経典(釈迦の教えを集大成した聖典)が成立したのです。

 

ただし、経典と言っても、文字にされたのは、最初の教典編集会議から、かなり後代であり、それまでは記憶され口から口への伝承でした。しかし、紀元前1世紀頃(BC35-32年)、スリランカで、口伝えされた釈迦の教えが、紙代わりのシュロの葉(ヤシの葉)を用いて、鉄筆ではじめて文字として書かれました。これが現代に伝わる経典の写本としては最古のものとされ、釈迦入滅から400年から500年近くも経っていました。

 

ですから、このパーリ―語による経典を、2500年前の釈迦の肉声が蘇ったと評価する向きもあれば、原始仏典といえども、必ずしも釈迦の生の声による教えを網羅しえていないという見方もあります。いずれにしても、釈迦の説かれすべての教えは経典として文字化され、お経だけで、今日、一切経(いっさいきょう)七千余巻が書き残されています。

 

現在、最古層の原始仏典として、「阿含経」という経典の中の小部(クッダカ・ニカーヤ)の経典である「スッタニパータ」、「ダンマパダ」、「テーラガータ」などがあげられており、これらの教典は、釈迦の生の言葉が韻文として伝えられているのではと考えられています。

 

なお、釈迦の教えである経典は、真理を説き示した教理である「(お)」と、教団を運営するために必要な規則「」とに分かれます。また、釈迦の死後、弟子たちは師の教えをさまざまに研究し、解釈した解釈書を「」と言います。この「経」と「律」と「論」を合わせて「三蔵」と呼びます。

 

 

仏教団の分裂>

 

さて、話しを元に戻すと、マハーカッサパ(摩訶迦葉)長老、アーナンダ(阿難)長老、ウパーリ(優波離長老など釈迦の高弟たちの尽力で、釈迦入滅後も、釈迦の教えと僧団の護持が図れました。しかし、その成果も長くは続かず、僧侶は、お金を布施として受け取ってもよい(当時はお金にさわることも禁止されていた)、正午までと決められた食事の時間を少しのばす、といった戒律上の変革を求める人たちが現れました。やがて、仏教団の中で、そうした改革派と呼ばれる人たちに対して、今まで通り伝統を継承しようとする保守派とに分かれて対立するようになりました。

 

保守派の上座に座る長老たちは、700人の僧侶をヴァイシャーリーに結集し、再度仏典の編集会議(第2回結集)を開いて、釈迦の時代に守られていた規則を時代に合わせて修正していくかどうかについて、話し合いました。結果は、修正せず、自分たちの主張を再確認しました。しかし、この会議に対抗し改革を求める僧侶たちが1万人近く集まり、それまでの僧団からの離脱を宣言してしまったのです。

 

こうして、釈迦の死去(仏滅)後、100年にして、仏教教団は、戒律の解釈の違いから、保守派の上座部と、改革派(進歩派)の大衆部との二つの分裂することになったのです(これを「根本分裂(こんぽんぶんれつ)」という)。

 

時は、仏教の拡大に貢献したマウリア朝のアショカ王(在位BC268~232)が即位する15年ほど前の出来事であったと推定されています。なお、原始仏教と呼ばれる仏教は、釈迦が亡くなられてから、この部派に分裂する前の、一つにまとまっていた仏教をいいます(釈迦の生きた時代を含める場合もある)。

 

その後も、釈迦の教えに対する解釈の違いなどから、上座部、大衆部それぞれの中でも分裂を繰り返し、最初の分裂からさらに100年の間に約20の部派(上座部が11部、大衆部が9部)が成立しました。この部派に分かれた時代の仏教を部派仏教と呼ばれます。部派仏教の時代は、釈迦 入滅後100年ごろから約300年の間、紀元前2世紀から1世紀頃までをいいます。

 

ただし、その時代の部派僧団は、あくまでも釈迦の教えや戒律の解釈に対する食い違いから生じた学派で、部派仏教の僧侶たちは皆、同じ袈裟衣を着て、ほとんど同じ様な戒律や実践方法を採っていました。(ゆえに一般の人々からみれば差異はわからなかったとされる)。

 

また、彼らは、釈迦の時代なら、樹下に自らの住まいを求め旅をして修行していましたが、部派に分かれた時代になると、アショーカ王など権力者の保護のもと、一人にひとつ部屋割りされた僧院の中で、規則正しい生活をしながら、厳しい戒律を守り、瞑想と思索、他派との論戦に明け暮れていました。そうすると、次第に民衆の悩みや苦しみを救済するという実践的な布教活動からは離れて行き、部派仏教は、学問的な研究を主体とする貴族仏教(学問仏教)になっていったと言われています。

 

一方、仏教そのものは、根本分裂の後(部派仏教の時代となる前)、インドを初めて統一したマウリア王朝のアショカ王によって、インド国内だけでなく、周辺の諸外国にまで宣布されていました。例えば、紀元前250-210年頃、アショーカ王の王子マヒンダ長老らが、上座部の仏教をスリランカにもたらしています。

 

 

<大乗仏教の成立>

 

しかし、そのマウリヤ朝も前180年ごろには滅亡し、その後、紀元前2世紀から、ギリシア系のバクトリア王国など、現在のアフガニスタン地方から、北西インドに進出してきました。ギリシャやペルシャなど西域からの侵入した外来民族は、誰をも許容する仏教の信仰を得ていくと同時に(西域の人々によるアジャンターの巨大石窟寺院の建設などが有名)、仏教側も、ギリシャのヘレニズム文化や、ゾロアスター教など西域の宗教の多大な影響を受けたと言われています。

 

ただ、この地域の民衆にとって、彼らは侵略者でもあり、生活そのものを脅かされる受難の日々が続きました。このような混乱した時代にあって、人々は僧侶たちの教えに聞き入り、沈思黙考する余裕はなく、むしろ、疲弊する多くの人々を救済し、心の安穏を見いだしてくれる新しい仏教の信仰を求めるようになりました。

 

こうした背景下、紀元前後、インド北西部の進歩派仏教信仰者の中から、広く衆生の救済をめざし、仏教を大衆のものにしようとする変革運動が起きてきました。これは、これまでの部派仏教が、出家による自己救済を主眼とし、民衆の信仰から離れてしまったことに対する批判でもありました。

 

この新しい仏教は、紀元後1世紀に成立し、中央アジアから北西インドにかけて支配したクシャーナ朝の保護を受けて盛んになり、自らを大乗仏教と称するようになりました。大乗(マハーヤーナ)とは「大きな乗り物」という意味で、釈迦の教えに従って出家して悟りをひらくことは、自分一人のためではなく、広く人々を救済するためのものであるという思想です。大乗の仏教徒は、上座部仏教に代表される部派仏教を、人を救済することの出来ない「小さな乗り物=小乗」であると非難し、小乗仏教と蔑称しました。彼らは、自分たちを大乗と名乗り、仏教をすべての人々のための教えとして捉え、民衆の救済を強調したのです。

 

このような考え方の違いは、根本分裂のきっかけとなった第2回結集(経典編集会議)の時に始まっていたとされていますが、1世紀頃になって、新たにインドを統一したクシャーナ朝から支持されたことを背景に、大乗仏教が成立することとなりました。仏教の中心もインドの北東から、西北地域に移っていきました。

 

これに対して、上座部仏教(部派仏教)側は、本来、仏陀の弟子となって出家するのは自分自身の煩悩を払い、解脱を求めるものであるとして、大乗仏教の思想を釈迦の教えを拡大解釈するものとして否定しました。日本は大乗仏教を受け入れた国なので、小乗仏教を否定的にとらえる見方が支配的で、こうした上座部仏教(小乗仏教)側の姿勢を批判し、当時の僧侶たちは僧院に閉じこもり、自分たちの修行や思索に耽るだけだった一様に解釈されています。

 

しかし、保守的・伝統的な上座部仏教(小乗仏教)の僧侶たちは、定住する場を得て、釈尊の教えを分類整理し、個々の概念の意味内容を吟味しながら、体系化していきました。こうした作業は、仏教を後世に残すためになくてはならないことでした。前述したように、「経」・「律」・「論」の「三蔵」がこうして集大成され、今日の仏教の礎が出来上がったとされています。「三蔵」がまとめられたのは、大乗の仏教者が、上座部(部派)仏教を「小乗」「小乗」と批判していた時代のことであり、大乗仏教の思想的探求が可能になったのも、上座部仏教の僧侶たちの努力のお陰です。

 

いずれにしても、1世紀以降、仏教は、大乗仏教と小乗仏教(部派仏教)に大きく二分されることになりました。今日スリランカを始めミャンマー、タイなど南方の各国で行われている仏教(南伝仏教)は、この上座部の仏教によって伝播されたものであり、大乗仏教は中央アジアを経て、北伝仏教として、中国、朝鮮、日本に伝えられることとなりました。次回は、大乗仏教についてまとめます。

 

 

<参照>

仏教のルーツを知る

文化を築く施設 十大弟子 of 念仏宗 ナーランダ僧院

世界史の窓

Wikipediaなど

 

 

2020年12月01日

仏教:釈迦は何を教えたか?

前回の仏教に関する投稿では、釈迦の生誕から入滅までの過程で、仏教がいかに成立していったかを紹介しました。今回はそもそも釈迦が生きている間に何を教えたかついてまとめてみました。現在の仏教は難解な印象があるのですが、その創始者である釈迦の教えは意外とシンプルではなかったのかといつも思っていました。実際はどうだったでしょうか?

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  • 釈迦の悟り

 

以前の投稿(「釈迦の一生と仏教の始まり」)でも紹介したように、王子として何不自由なく生活していたシッダールタ(釈迦)が出家するきっかけとなったのは、城門をでて、病気や貧困に悩み、苦しみ、死んでいく人々を見たことであるとされています。

 

この時、シッダールタはこの娑婆(現実)の世界の「苦(苦しみ)」の原因は何か、そして、当時からインドで信じられていた輪廻(人は生死を繰り返すという考え方)を脱する、この場合、苦しみの連鎖をいかに絶つことができるかを智ろうとした(悟り)と解されています。

 

長い修業の後にシッダールタが悟ったことは、四諦(したい)の理で、さらに、苦の真因としての十二因縁(じゅうにいんねん)、苦から脱するための八正道(はっしょうどう)を顕(あきらか)かにしました。また、悟りを得れば日常的に求められる中道の精神と慈悲の心についても説きました。

 

釈迦の悟りの中核は、「四諦」といえ、四諦こそ釈迦が菩提樹の下で開かれた第一の悟りです。実際、釈迦(仏陀)が、入滅まで、衆生に終始一貫して説いたのが四諦の法門(仏教の教え)であったと言われています。釈迦は、この世にある四つの真理(四諦)を示しながら、八正道を歩むことで、私たちが持つ、生・老・病・死の苦しみから逃れ、現象へのとらわれから解脱した境地を説かれたのです。

 

四諦:苦しみとその原因および苦しみを滅する方法に関する4つの真理。

八正道:苦の原因を滅する8つの方法。

十二因縁:老死に至る苦の原因を12階段にわたって示した真理。

中道:両極端ではなくその中間的な生き方。

慈悲:生きとし生けるものに対して慈しむ心。

 

 

  • 四苦八苦

 

釈迦は、「実相(じっそう)をありのままに受け入れる事が苦を滅する第一歩である」と説かれたそうです。では、世の実相とは何でしょうか。釈迦は、人生はすべて苦である(一切皆苦)と教えました。「苦」は「思いどおりにならない」という意味で、生・老・老・死の4つの苦しみを「四苦」と定義づけられました。

 

(しょう):生きるということは苦である。

(ろう):老いていくことは苦である。

(びょう):病にかかることは苦である。

(し):死ぬということは苦である。

 

どのような境遇に生まれるか思い通りになりません。生まれれば、老いたくなくともいつかは老いてしまいます。また、病気になりたくなくてもいつかは病気になり、死にたくくなくともいつかは死なねばなりません。

 

また、四苦(生老病死)に以下の4つの苦を加えて、八苦という場合もあります。非常に苦労することを現在でも、四苦八苦(しくはっく)すると言いますね。

 

愛別離苦(あいべつりく):愛する者と別れる苦しみ

怨憎会苦(おんぞうえく):怨み憎む者と会う苦しみ

求不得苦(ぐふとっく):求めても得られない苦しみ

 

五蘊盛苦(ごうんじょうく)

人間の五官(眼・耳・鼻・舌・身)や心から生じる一切の苦痛や苦悩のこと、五陰盛苦(ごおんじょうく)、五取蘊苦(ごしゅおんく)ともいう。

 

 

  • 四諦(したい)

 

このような人生の苦しみを解決するために説かれたのが、苦、集、滅、道の四諦です。日本語では、四諦の「諦」は「あきらめる」という意味にとられますが、ここでは「真理」を意味します。四諦とは、苦しみとその原因、および苦しみを滅すること、その滅に至る方法に関する4つの真理をいいます。

 

苦諦(くたい)

人生はすべて苦しみに満ちている(四苦八苦)という真理。

 

集諦(じったい)

苦しみの原因は心の迷い、煩悩にあるという真理。煩悩とは、私たちを悩まし、苦しませ、誤った方向に導く不善の心のことをいい、克服すべき3つの煩悩として、(とん)・(じん)・(ち)があると説かれています。この3つの煩悩を毒に例えて三毒(人間の諸悪・苦しみの根源)といいます。

 

貪欲:むさぼること
瞋恚(しんい):憎み、怒ること
愚癡:無知でおろかなこと

 

集諦の「集」というのは「集起(しゅうき)」の略で「原因」という意味です。人生の苦しみにも必ず原因があり、その原因を探求し、反省しそれを悟ることが求められます。不幸を呼び起こす苦しみの原因とは何かというと、必要以上にものごとを貪り求める渇愛(かつあい)にあると説かれています。釈迦も、もろもろの苦の原因は、自分の欲望にまかせて執著する貪欲(とんよく)であると述べているそうです。

 

滅諦(めったい)

煩悩を消すことで苦を取り除くことが出来るという真理。その方法が次の道諦で示されます。

 

道諦(どうたい)

正しい実践によって苦をなくすことが出来るという真理。苦を滅する道は苦から逃れようと努力することではなく、八正道という八つの徳目を実践することです。

 

 

  • 八正道

 

八正道(はっしょうどう)とは、正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の8つの道のことをいいます。

 

正見(しょうけん)(正しく見る)
自己中心的な見方や、偏見を持たず、正しく物事を見ること

 

正思(しょうし)(正しく考える)

自己本位に偏らず、貪る心(貪欲)、怒る心、邪な心(愚痴)を捨て去り物事を考えること。

 

正語(しょうご)(正しく話し語る)

社会生活の上で、嘘、二枚舌、悪口、戯言を慎み、真理に合った言葉使いをすること。

 

正行(しょうぎょう)(正しく行動する)

殺生、盗み、淫行をせず、仏の戒めにかなった正しい行いをすること。

 

正命(しょうみょう)(正しく生活する)

人の迷惑になる仕事や、世の中の為にならない職業によって生計を立ててはいけないこと。

 

正精進(しょうしょうじん)(正しく努力する)

自分の使命や目的に対して、怠りや脇道にそれたりしない一方、とらわれ過ぎたり偏ったりもせず、正しく励みこと。

 

正念(しょうねん)(正しく思いめぐらす)

自己本位によらず、ものごとの真実の実相を見極めることができるように、心を落ち着かせて正しく考える。

 

正定(しょうじょう)(正しく心を決定させる)

心が正しい状態に定まり、外部から迷わされないこと。

 

 

  • 三法印(四法印)

 

釈迦が悟った人生についての普遍的な真理として、三つの基本理念として、「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静、」があります。これを、仏教の特徴をあらわす三つのしるしという意味で、三法印(さんほういん)と呼び、前述した「一切皆苦」を含めて、四法印(しほういん)ともいいます。

 

諸行無常
あらゆるものは絶えず変化してやまず、生滅変化する(生まれ、変化し、死ぬ)ことを言います。逆に言えば、この世に不変・常住なものはないということを意味します。

 

 

諸法無我

 

諸法無我とは、存在するすべてのものは無常であるから(諸行無常)、常に同一の状態を保ち、自らを統制できる力をもつ「我(アートマン)」は存在せず、無我であるという意味です。「自分の命もすべて自分のもののようであって自分のものでない」などと例えられ、無我は非我(我にあらず)に近いとされています。諸法無我の根底にある法門(仏教の教え)が、因縁を説いた「縁起の法」です(⇒十二因縁)(後述)。

 

 

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

 

無常であり、無我であるのが、ものの真実の姿で、これを悟ることができれば、迷妄が消え、静かな安らぎの境地に入ることができるという、仏教の理想の境地を示したものです。反対に、諸行無常、諸法無我を悟ることができないところに苦が生じるということになります。

 

迷妄の消えた安らぎの境地とは、悟りの境地であり、涅槃(ねはん)の状態です。悟りとは、釈迦が瞑想の中で論理的に把握した真理であり、悟った釈迦は、瞑想の中で、依然として火のように燃え盛る、自らの心の中の執着や欲望と戦い、やがてその火を吹き消し、苦を離れた静寂な心境(涅槃の境地)を獲得したと伝えられています。

 

 

  • 縁起の法

 

この世に生れ出たものはなぜ無常の運命を免れられないのか(諸行無常)、またなぜいかなる存在も不変の本質を有しないのか(諸法無我)の答えが、縁起の法です。

 

縁起とは因縁生起(いんねんしょうき)の略で、一切の現象(ものごと)が生ずるには、かならず因(原因)と縁(条件)があると説かれます。例えば、お湯は、火という縁があって水からお湯になるといった具合いです。縁起の法は、「この世の全ての事に偶然は無く、全て必然である」、「全ての物事は縁で繋がっている」という考え方で、「人は善い行いをすると良い報いがあり、悪い行いをすると悪い報いがある」とする因果応報と言う言葉にも象徴されます。

 

釈迦は、すべての存在(諸法)の真実の姿(実相)を「縁起」に見出しました。ですから、一切の現象はこうした因縁の相互関係の上に成立しているから、「有我」や「不変」といったことはありえず、「無我」であり「無常」となるのです。

 

 

  • 十二因縁

 

また、「一切皆苦」の世界にあって、釈迦は、人間の苦しみや悩みがいかに成立するかを瞑想し、その原因が、無明(むみょう)、行(ぎょう)、識(しき)、名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、老死(ろうし)の12の項目にあると悟りました。これは後に「十二因縁(じゅうにいんねん)」と呼ばれるようになりました。

 

  1. 無明(むみょう)

「無明」とは、無知、間違った判断という意味です。人間の存在発生の時、人は無知であり、知恵がありません。すべてのものごとのあり方や、人生についての意義を知らず、また知ろうともしない状態が無明で、根本煩悩とされています。

 

  1. (ぎょう)

「行」とは、無明(無知)のために、真理に合わない行動をすることをさします。これには、自分の過去世や先祖の代から潜在的に影響を受けた無意識な行為も含みます。

 

  1. 識(しき)

「識」は、そうした無意識の行動(行為)が、習慣によって、次第に物事を知り分ける意識ができあがってくるというような、識別作用の働きをいいます。私達の「識」の中には、生と死を繰り返す輪廻(りんね)した魂の潜在意識の中にある前世の業(ごう)(=行い)も含まれています。

 

  1. 名色(みょうしき)

「名色」とは、不完全な識(しき)(=心身の作用)が除々に形を整え、自分の存在を意識するようになる状態のことを言います。「名色」の「名」は無形のもの(心や精神世界)をいい、「色」は有形のもの(肉体)を意味します。

 

  1. 六処(ろくしょ)

「六処」とは、名色が発達して得られた心身の六つの働きのことをいいます。それは、眼(げん)(視覚)・耳(に)(聴覚)・鼻(び)(嗅覚)・舌(ぜっ)(味覚)・身(しん)(触覚)の五感と、その五官を分別や区別する意(に)(心=知覚)の六根(ろっこん)をさします。人はこの段階の状態で、この世に生まれ出てくるとされています。

 

  1. (そく)

「触」とは、体の部分の五官(眼・耳・鼻・舌・身)と、心の部分の知覚(意)が発達した状態をいいます。これは、「名色」と「六処」が互いに影響しあって結果で、赤ちゃんが成長して両親を識別ができるように、人は、物事を見分け、判断できるようになります。

 

  1. (じゅ)

「受」とは、心に起こる最初の感情をいい、「触(心身)」の感覚が発達してくると、好き・嫌い・憂い・悲しみ・苦しみなどのような、さまざまの感情(「受」)が起こるようになります。人で言えば、6~7歳ごろを指します。ものの受け取り方や感じ方は、環境や価値観の違いから人によって異なりますが、これは過去の経験から生じてくると言われています。

 

  1. (あい)

「愛」とは、好きなものに心がとらわれることです。「受(好き、嫌い、苦楽の感情)」が起きてくると、ものごとに対して「愛着」が起きてきます。この「愛」は「渇愛」ともいわれ、異性に対する愛情と考えていいものです。だだし、この段階ではまだ無邪気な心の動きの状態だとされています。

 

  1. (しゅ)

「取」は、「愛」の感情が強くなって生じる所有欲や独占欲のことで、執着心と呼べるものです。反対に、嫌なものを遠ざけたい、逃げたいという心の働き「取」といえます。

 

  1. (う)

「有」とは、差別や区別する自己本位な心の状態のことで、「取(執着心)」の結果生じます。「有」が芽生えるのは、物事に対する考え方や判断が人それぞれ違ってくるからで、そうなると、意識に幸・不幸を感じるようになり、他人との不調和が発生し、人は憂・悲・苦に悩まされます。

 

  1. (しょう)

「生」とは、「有(差別心)」によって起きる対立や争いの結果生じる、苦しみの人生をいいます。この「生」は本人だけでなく、子々孫々にも影響を与えると考えられています。苦楽の意識は、業(ごう)(=行い)として、魂にすり込まれ、さらに次の世においても同じような意識で人生が展開されていきます。

 

12.老死(ろうし)

「老死」とは、人間はこの世に生を受ければ、やがて老いて死を迎えなければならない運命のことをいいます。

 

以上、十二因縁の教えは、「無明は行に縁たり」、すなわち「行というものは無明という縁を介して生じた…」式に、すべて縁起(原因と条件)の連鎖でつながっています(ゆえに十二因縁は十二縁起説ともいう)。

 

ここから、人間が苦の人生を送る状態は、「無明」を根本原因として、十二因縁のさまざまの段階においてその無知を深めた結果であるとされます。このように、十二因縁の法則を、「無明によって行あり、行によって識あり…」と、人間の存在発生から死にいたるまで、ものごとが縁により生じるものを順に観察し、苦の原因を追究することを「順観」と呼んでいます。

 

釈迦は、ブッダガヤーの菩提樹下において、この人生苦を消滅し、輪廻から解脱する為にはどうすればよいかをお考えになられました。この時、順観の発想を逆転させ、「無明滅すれば行滅す、行滅すれば識滅す…」と苦滅への方法を示す「逆観」をなされ、縁起を順と逆に観じて、悟りを開かれたと言われています。

 

十二縁起説は、人間は、無明に基づいて、間違った生き方をしてきたことに対して、根本原因である「無明」を滅し、正しい判断力を得ることによって、人生の苦しみに消え、正しい生き方ができることを教えています。「無明」をなくさない限り、親や先祖の「無明」が、子や孫へと受けつがれ、いつまでも、苦楽の意識を継続され、束縛やとらわれから逃れることはないと説かれています。

 

インドでは古代から、あらゆる生き物は、死んではまた別の存在に生まれ変わり、何度も生死を繰り返すという「輪廻(りんね)」または「輪廻転生(てんしょう)」が信じられてきました。この観点からも、「無明」をなくさない限り、いつまでも「苦」の輪廻を繰り返すことになってしまいます。

 

無明をなくすためには、釈迦の教えを学び智ることです。人生において、偏りのない中道の精神で、八正道の行いを積み重ねると、次の世では、環境の良い処へと生まれ変わり、よりよい人生を送ることができます。そうすると、最終的には、輪廻から脱出し(これを解脱という)、涅槃の状態(仏の境界)に到達できるとされています。

 

 

  • 慈悲

 

四諦、八正道、縁起など悟っていく過程で、さまざまな我執が取り除かれたとき、人は、周囲の人々やあらゆる生き物に対して慈悲の心が開花します。慈悲(じひ)とは、命あるものへの限りない慈しみの心をいいます。釈迦は、すべての命あるものに対して、慈悲の心を説きました。「慈」とは、あらゆるものを慈しみ、楽しみを与えること、「悲」は、命あるものの苦しみを悲しみ、その苦しみを取り除こうとする同情心です。

 

 

  • 平等

 

インドは、カースト制という身分制度が古代から採用されていましたが、釈迦は、身分制度を、修行僧の集まりである仏教教団内に持ち込みまず、また、バラモン教の聖典ヴェーダの権威や儀式を認めませんでした。この意味でも、釈迦は、儀礼や身分にとらわれることなく、皆平等に、悟りの道を示しました。釈迦にとっての理想の世界は、慈悲の心をもとに、すべての生きとし生けるものが平等に生きることであると解されています。

 

 

  • 無記(むき)

(釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたこと)

 

釈迦は、人生問題の解決とは無関係な、霊魂と身体との同異、死後の生存の有無といった形而上学的問題について質問されても、沈黙を守ってあえて回答されませんでした。その一方で、釈迦は、バラモン教にもみられる神秘主義を克服し、正しい論理を身につけることも説かれています(のちの仏教哲学構築につながったとされる)。

 

 

<参照>

仏教ウェブ入門講座

仏様のお話し(養老山立國寺HP)

仏教とは?全日本仏教会

仏教のルーツを知る(小冊子「ダンマサーラ」)

初めての説法:サールナート

その18 初転法輪(最初の御説法) – お釈迦様のお話 –

仏様のお話し(養老山・立國寺HP)

仏様の世界(Flying Deity Tobifudo)

世界史の窓

Wikipediaなど