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2020年10月28日

キリスト教:宗教改革とプロテスタント教会

 

西欧のキリスト教においては、カトリックとプロテスタントに分かれている、もっと正確には、プロテスタントはカトリックから分離したことは、知っている方は多いと思います。今回は、これまでのキリスト教関連の投稿の継続として、プロテスタント教会についてまとめました。

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プロテスタント」とは「抗議する者」の意味で、ローマ・カトリック教会が本来の教義から逸脱して腐敗したとして、16世紀、マルチン・ルターが抗議の行動を起こして始まった宗教改革以来の新しいキリスト教の宗派です。

 

 

  • ルターの宗教改革

 

これまでのキリスト教の投稿でみてきたように、13世紀〜16世紀頃のカトリック教会は、修道院運動などによって、改革がなされていましたが、総じて堕落していた時代と言われました。一番の原因は、国家と宗教が繋がっていることで、教会の地位が上がり、聖職者たちが権力を乱用する様になったことだと指摘されています。

 

腐敗の温床とされたのが、免罪符(贖宥状)の発行でした。免罪符(贖宥状)とは、教会が発行した原罪もふくめた信徒の罪の「免除証書」のような札で、ローマ教会は免罪符を販売して教会の収入にしていました。

 

当時の教皇レオ10は、1517年、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の大改修の費用を得るため、ドイツにおいて免罪符を大々的に発売しました。「免罪符を買うことで、人は現世の罪が赦され、天国に行くことができる、また死んだ人のために買えばその人も救われる」と、庶民に免罪符の購買が勧められました。これまで何年もの間、一部の修道士や学者らはローマ教会の神学的、政治的な悪用に対して異議を唱えましたが、すべては「異端」として沈黙させられました。

 

しかし、1517年、マルティン・ルター(ルーテル)という名のドイツ人修道士が、免罪符を必死に売ろうとするローマ教会の行為に対する批判を、「九五か条の論題」という形で質問状を箇条書きにして、ヴィッテンベルク教会の扉にはりつけました。免罪符によって罪は消えないことを主張したその内容は、結果的に、教皇の権威を否定するもので、ルターの質問状の写しがドイツ国内に流布されると、熱狂的支持を受けたと言われています。これが宗教改革の始まりでした。

 

ルターは、新約聖書「ローマ人への手紙」の一説に「義人は信仰によって生きる」という聖句に接し、救いは、教会の儀式の執行や秘跡(礼典)や戒律の遵守によってではなく、聖書(キリスト)を通して、神を信じることによって得られることを悟ったとされています。人は信仰によってのみ救われるという考え方は、信仰義認といわれ、以後、プロテスタント諸派の根本思想になります。聖書にある言葉に忠実に生きようということですね。

 

ルターは、教会から「破門」されましたが、1520年には、その破門状を公衆の面前で焼却して、決意を示しました。これまでであれば、かつてのフスのように捕らえられ宗教裁判で火刑に処されるところですが、ルターの場合は、多くの民衆に支持され、ドイツ諸侯とも利害を一致させていました。ドイツの諸侯は、領内の住民から税を取り立て、領内の政治にも干渉するカトリック教会に反発していたことから、教皇の権威を否定するルターに賛同し、破門されたルターを匿い保護したのです。

 

こうして、ルターの教会批判から、ドイツを中心に宗教改革の火がつき、次にスイスに飛び火していきました。ルターからすこし遅れて、カルヴァンによって宗教改革が押し進められていきます。

 

 

  • カルヴァンの宗教改革

 

ジャン・カルヴァン(カルビン)も、はじめはローマ・カトリック教会の聖職者でしたが、ルターの著書を読んで影響を受けたカルヴァンは、1534年にカトリックの聖職を捨て、「信仰によってのみ救われる」道を選択しました。しかし、カトリック教会に追われたため、スイスに逃れ、活動の拠点をジュネーブに置いて宗教改革を押し進めました。

 

カルヴァンは、1536年に、プロテスタント初の体系的神学書「キリスト教網要」を著し、プロテスタントの信仰に立って、厳格な清い生活態度(禁欲的生活)を市民に説きました。

 

また、ジュネーブ大学を創設したカルヴァンはまた、商工業にも深い関心を持ち、人々に勤労を勧めました。当時、金儲けを「卑しい」行為と考えられていた時代、カルヴァンは、人々の真面目な勤労の結果としての金儲けや貯蓄、さらには金を貸して利子を取ることも良しとしたのです。この考え方は、とりわけ商工業に広く受け入れられ、ジュネーブでの絹織物工業や時計製造の発展にも寄与しました。

 

こうしたローマ・カトリック教会とは異なるカルヴァンの職業観や金銭観は、その後の資本主義の発展に多大な貢献したと評価されています。

 

 

  • イギリス国教会の誕生

 

もちろん、プロテスタンは、ルター派やカルヴァン派だけではありません。イギリス国教会もローマ・カトリックから分離した宗派で、プロテスタントの一派と見られます。ただし、その由来はルター派とカルヴァン派とは異なります。

 

イギリス国教会(正式にはイングランド国教会)は、1534年,当時のヘンリー8がローマ・カトリック教会と断絶したことで誕生しました。国王は好きな女性ができたので、その時の妻との離婚を認めるよう教皇に頼みましたが、教皇がこの離婚を認めませんでした。そこで、ヘンリー8世は、1534年、首長令(国王至上法)という法律をつくり、イギリス国内の教会は国王が支配するイギリス国教会を創設したのです。

 

イギリス国教会はその名の通りイギリスの国教となりました。イングランドに生まれた人は、信仰をもつ前に幼児洗礼(新生児洗礼)が授けられ、国教会員になりました。司祭も国の公務員という位置づけでした。

 

こうして、イギリスのキリスト教会もまた、カトリックから分離して、独立した教会となりました。ただし、独立したのは、教義内容の違いというよりも、政治的な動機に基づいていたからだったので、教義や儀礼体系はカトリックに近いと言われ、最高権威者が、ローマ教皇からイギリス国王になっただけだという指摘もあります。イギリス国王は、イギリス国教会の首長(「信仰の擁護者」)で、カンタベリー大主教が最高聖職位とされました。なお、イギリス国教会は、外国においては聖公会と呼ばれて活動しています。

 

 

  • プロテスタント教会の成立

 

こうして、16世紀初頭にルターとカルヴァンがはじめた宗教改革によって、カトリック教会から分離した「プロテスタント(抗議する者)」と呼ばれる諸教会が誕生し、約聖書の基本に戻って、純粋なキリスト教である原始キリスト教を回復しようという一連の運動が展開されました。プロテスタンは、活版印刷術の改良によって聖書が普及し、人々が直接聖書を読めるようになったことから、イギリスや北欧諸国やアメリカなどで広く信仰されています。

 

なお、プロテスタントは歴史的に新しくできた教会なので「新教」とも呼ばれます(これに対してローマ・カトリック教会は「旧教」という)。

 

もっとも、「プロテスタント」という一つの教会があるのではなく、色々な教派の教会を一つにまとめて、プロテスタントと呼ばれています。プロテスタントは、元々カトリック教会から分離してできたので、カトリックから飛び出した組織は全てプロテスタントとも言えます。では、彼らの主張を、当時のカトリック教会と比較しながら改めて整理してみましょう。

 

 

  • プロテスタントの特徴

 

プロテスタント諸教会の大前提は、当時カトリック教会が救われを献金に求めたことに対して、「人は信仰によってのみ救われる」とする信仰義認の立場です。そして、救われは、福音(イエスの教え)による神の恵みととらえます。伝統重視のカトリックに対して、プロテスタントは、「聖書に帰れ」と、聖書の言葉だけを信仰の対象とすることを説きます。聖書だけを神からの啓示の書物として認め、聖書に書かれていないことは教会として受け入れません。

 

結果として、神と人との間の介在者としてイエス・キリストのみを認め、ローマ教皇の存在を否定します。全ての信者は、神の前では対等な兄弟姉妹であり、キリストを通して直接神様と交わることができるとされています。ゆえに、プロテスタントでは「万人が司祭である」と唱えられます。神と人との関係でいえば、カトリック教会では、「神⇒教会(神父)⇒個人」というように、教会(神父)を仲介者として置きますが、プロテスタントでは「神⇒(聖書)⇒個人」という直接の関係になります。

 

プロテスタントでは、聖書を通して、皆等しく、神と人とが直接つながるからので、カトリック教会のような位階制度(ヒエラルキー)を認めておらず、カトリック教会のように総本山(ローマ教皇庁/バチカン)もありません。カトリック教会には、聖職者として、序列に従って「司教・司祭・助祭」がおり(ローマ教会の司教が教皇)、聖職者と言えば、一般的には、司祭を指します(司祭を呼ぶ際の敬称が神父)。

 

これに対して、プロテスタントには司祭(神父)はおらず、先生のような存在としての牧師がいます(プロテスタントでは聖職者のことを司祭ではなく、牧師と呼ぶ)。ちなみに、牧師には女性でもなれますし、結婚も離婚も自由です。さらに、伝統や儀式を重視するカトリックの教会は豪華なものが多いですが、プロテスタントの教会は質素で、シンプルなデザインものが多いのが特徴です。そもそもプロテスタントでは儀式とはいわず、礼拝といいます。

 

教会の十字架にも違いがあります。カトリック教会の十字架にはイエス像がありますが、プロテスタントの場合、十字架だけのシンプルなもので、十字架にキリスト像を用いません。なお、カトリック教会では、お祈りの時に十字を切りますが、プロテスタントでは切りません。

 

そのほかにも、カトリック教会では、マタイ、パウロ、ヨハネなどが「聖人」に列せられていますが、プロテスタントでは「聖人」を認めていません。聖人崇敬とならないように、洗礼名(クリスチャンネーム)もありません。また、カトリック教会では、イエスと同様、聖母マリアも崇敬の対象ですが、プロテスタントでは、イエスの母マリアは人であるので崇拝しません。聖母マリアを含めて偶像崇拝もなされません。

 

 

  • 分派するプロテスタン教会

 

カトリックは全世界統一した組織ですので、一切の分派を認めませんが、プロテスタントは分派も自由で、実際、様々な主義主張がなされ、今では、数百から数千もの教派が存在すると言われています。これは、「自由」を本質とするプロテスタントだからこそのことですが、逆に言えば、たくさんできた教派間で、組織的な統一もなく各分派でバラバラな状態です。教義においても、意見を異にする点がいくつもあります。しかし、それでも、聖書を最重要視すること、信仰による救われを強調していることについては、首尾一貫して共有し合っています。

 

では、ルター派、カルヴァン派(改革派)、バプテスト派、メソジスト派、福音派などに枝分かれしたプロテスタントの代表的教派について、その幾つかを見てみましょう。

 

ルーテル派

 

ルーテル派(ルター派)は、マルチン・ルーテルの流れを汲み、プロテスタントにおける最古の教会とされます。ドイツをはじめ、スウェーデン、デンマークなど北欧諸国に多く見られ、そこから移民が渡った先のアメリカ、カナダ、ブラジルにも広がりました。J.S.バッハ、メンデルスゾーン、パッヘルベルなど、著名な音楽家が多く所属していました。全世界に7500万人の信徒がいると試算されています。

 

 

改革派・長老派

 

改革派教会と長老派教会は、ジャン・カルヴァンの流れを汲み、両者に大きな違いはありません(カルヴァン派とは言わない)。敢えて違いを指摘すれば、「改革派(改革派教会)」は、カルヴァンが教えた信仰のあり方を強調してつけた名称で、「長老派(長老教会)」は、改革教会で採用された長老制度という教会の行政組織から付けられた名称です。

 

長老制度(長老主義)とは、一般信者のなかから経験の深い指導者を選んで長老とし、教会を運営すべきであるという考え方から生まれた制度で、この制度の下で長老たちが牧師を補佐します。一般的に、ヨーロッパ大陸では改革派教会、イギリスや北米では長老教会と呼ばれていることが多いとされています。信徒数は不明ですが、全世界に8000万人いるとの試算もあります。

 

なお、改革派・長老派という呼ひ方以外にも、カルヴァンの流れを汲む新教徒は、スコットランドではプレスビテリアン、オランダではゴイセン、フランスではユグノー、イギリスではピューリタン(清教徒)と呼ばれます。

 

 

バプテスト派

 

バプテスト教会の発祥は、17世紀のイギリスに遡ります。イギリス国教会はイギリスにおいて、国教会以外の宗派は弾圧しましたが、最初のバプティスト教会は、オランダに逃れていた新教徒が帰国して、1612年にロンドンで組織されました。ただ、バプテストには、ルターやカルヴァンのような、特定のカリスマ的な創始者はおらず不特定多数の改革者たちによって改革運動が始められました。

 

17世紀にピューリタン革命(1642~49)が発生する流れの中で、イギリス国教会内部においてもさまざまなグループが生まれました。その中に、国教会内部から改革するグループと、国教会から離れて改革するグループがありました。後者を「分離派」と呼び、バプテストは、この分離派の運動の中から発展しました。

 

イギリス国教会の制度的、強制的な面は否定され、個人の自覚的信仰と教会の立が尊重されました。バプテテストは、特に、カトリックでなされている儀式的な幼児洗礼を否定し、信仰告白に基づいた成人の洗礼を重視しました。

 

洗礼には一般に、水を数滴たらす「滴礼」方式と、体を水の中に沈める「浸礼(しんれい)」方式の2種類があります。バプテスト派では滴礼を認めず、浸礼での洗礼だけを認めます。バプテストという名称は、洗礼(バプテスマ)から来た言葉で、一般に「浸礼派」と訳されています。

 

そのほかにも、バプテストは、キリスト者としての「生活」が重視し、愛の倫理と、非戦主義を説き、教会と国家の分離を主張しました。

 

イギリスで誕生したバプテストはその後、新大陸へ移住する者が多くあったことから、黒人も含めアメリカにおいて目覚ましく発展し、アメリカではカトリックを除いて最大の教派となっています。信徒数は4000万人と試算されています。

 

 

フレンド派

フレンド派(キリスト友会)は、17世紀イギリスのピューリタンであったジョージ・フォックスを初代指導者とする覚醒運動から始まり、彼らは「クェーカー」とも呼ばれています。フレンド派が「クェーカー」とも呼ばれるのは、彼らが全身全霊を込め、神の威光に体をふるわせながら祈ったので、人々は「ふるえる者たち」(クェーカー)と嘲笑的に呼んだのです。しかし、信者たちはそれを喜んで受け、自分たちでもそう呼ぶようになったと言われています。

 

当時17世紀のイギリスの教会が、国家の支配下に置かれ、礼拝は形式的で、霊性を放棄してしまったかのように感じたジョージ・フォックスは真実の宗教体験を求めて、放浪の旅に出た結果、1646年に個人的な啓示とキリスト体験を得たとされています。フォックスは、直接的なキリスト体験を重視し、キリスト者は聖書を持つだけでは足らず、生活の中でキリストの義に従って生きていけば、真理は魂への神の直接的な語りかけによって体験できると説きました。

 

フレンド派は、迫害を受けながらも内外で急成長しました。注目されることは、アメリカ・インディアンや、アラスカのエスキモー、さらにはボリビアのアイマラ族に至る土着民の中にも多くの信者を獲得していることです。日本では、明治・大正期の教育家として知られる新渡戸稲造がフレンド派でした。

 

 

メソジスト派

メソジスト派は、18世紀のイギリスで、ウェズリー兄弟によって創始された覚醒的な福音主義運動から始まりました。当時のイギリス国教会が貴族主義的で、生気のないものとなっていたことに対して、聖書的キリスト教を取り戻すことをめざし、生き生きとした宗教的体験が重視されました。

 

そこで、ジョン・ウェスレーは、聖書に証(あかし)されているイエス・キリストの福音(喜ばしい教え)を体験するために、厳格な戒律と敬虔な信仰生活の実践を求めました。メソジストという名前の由来は、信者たちに求められた断食など厳格な禁欲的生活手法(method)を、若者たちが揶揄してメソジスト(Methodist)と命名したことにあります。

 

ジョン・ウェスレーのカリスマ性と行動力で、信者を獲得していきましたが、イギリス国教会側からは疎んじられたことから、ウェズリー兄弟の死後、イギリス国教会から独立しメソジスト派が形成されました。

 

メソジスト教会は、その後全世界に広がり、信徒数は8000万人以上とされています。世界的な慈善事業団体「救世軍」の創始者ウィリアム・ブースは、メソジスト派の牧師でした。なお、20世紀になって、メソジスト教会からペンテコステ運動が始まり、ペンテコステ派が生まれています。

 

(次回は(仮)「アメリカの宗教)をお届けします)

 

<参考投稿>

イエスの生涯

原始教会 ペテロとパウロの伝道

イエスの十二使徒たち

東西教会はいかに分裂したか?

修道院運動の盛衰

異端と魔女狩り

 

 

 

2020年10月25日

皇室:神嘗祭について

 天皇皇后両陛下は、2020年10月17日、皇居にて「神嘗祭」に臨まれました。秋篠宮ご夫妻をはじめ皇族方も出席された宮中祭祀「神嘗祭」について簡単にまとめました。

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神嘗祭(かんなめさい)は、毎年10月17日、皇居で行われる秋の実り(五穀豊穣)に感謝する宮中祭祀です。この日の朝(午前10時頃)、天皇陛下は、皇居・神嘉殿にて、三重県の伊勢神宮(皇大神宮)をご遙拝(伊勢神宮に向かって拝礼されること)になられます。この祭祀を正式には、「神嘗祭・神宮遙拝の儀」と呼びます。

 

その後、天皇皇后陛下は、皇室の祖先とされる天照大神を祀っている「賢所」にて、装束姿で参拝され、「神嘗祭 賢所の儀」に臨まれます。そこで、天照大神に、新穀(新米)をお供えになられ、五穀豊穣に感謝されます。この時、天皇陛下が皇居の御田で育てられた稲も使われます。

 

また、天照大神を祀る伊勢神宮においても、最も重要なお祭りとして神嘗祭が行われ、陛下が皇居でお育てになられた御稲穂も御献進されています。皇居での神嘗祭が10月17日に行われるのも、伊勢神宮で「神嘗祭」が15日から挙行されているに合わせています。伊勢神宮では、3日目の17日に、由貴朝大御饌(ゆきのあしたのおおみけ)と呼ばれる実際のお供えの儀式が行われ、その日の午後に天皇陛下が遣わされた勅使が幣帛(へいはく)(=献上の品)をご奉納することになっています。

 

古くから「神嘗祭」では、このように皇室から伊勢神宮に、幣帛使(献上物を奉納するための使者)が派遣されていました。応仁の乱の後、何度か中断されることもありましたが、1647年(正保4)に幣帛使が復活して以来、現在まで途切れることなく行われています。

 

なお、翌11月には、天神地祇すべての神々に収穫を感謝する新嘗祭(にいなめさい)が行われますが、神嘗祭は、諸神に先立ち収穫の感謝を、皇祖である天照大神に捧げるという趣旨があります。

 

 

<用語>

宮中三殿

天照大御神を祀る賢所(かしこどころ)、歴代の天皇・皇族の霊を祀る皇霊殿(こうれいでん)、天神地祇(ちぎ)を祀る神殿(しんでん)のこと。

 

神嘉殿(しんかでん)

宮中三殿の構内に附属する建造物の一つで、皇霊殿の西に位置する。新嘗祭・神嘗祭が挙行されるほか、その南庭では元日に四方拝も行われる。

 

 

<参照>

両陛下 皇居で宮中祭祀「神嘗祭」に

(2020/10/17 FNNプライム)

神嘗祭-振替休日

神嘗祭(伊勢神宮HP)

Wikipediaなど

 

 

2020年10月25日

古代史:アステカ帝国とは?

過去2回の投稿で、マヤ文明とインカ文明についてみてきましたが、もう一つメソアメリカ文明(スペインによる征服以前のメキシコ高原・ユカタン半島などにみられる文明)について語るなら欠かすことができないのが、メキシコ中央高原に成立したアステカ帝国のアステカ文明です。

 

 

  • アステカ帝国の成立

 

アステカ帝国そのものは、時代でいえば近代の1428年頃から1521年にかけて存在していましたが、アステカ文明は、紀元前1200年頃にでたオルメカ文明、紀元前後のテオティワカン文明、7世紀頃に興ったトルテカ文明といったメキシコにおけるメソアメリカ文明の流れを継承しています。そうした背景で、アステカ文明は、スペイン人渡来以前のメキシコに最後に現れたメソアメリカ文明の最後の文明と位置づけられています。

 

11~12世紀頃、メキシコ北部の内陸の乾燥地帯を故郷とするチチメカ族がメキシコ北部から南下しユカタン半島まで大移動(侵入)してきました。14世紀には、チチメカ人の一派であるアステカ族が定住し、メキシコ高原一帯にアステカ王国を建設しました。

 

アステカ神話によれば、アステカ人(「メシカ人」とも呼ばれた)は、民族の発祥の地アストラン(「白鷺の生息する地」の意)を出発し、狩猟などを行いながら移動を続け、1325年に、メキシコ中央高原のテスココ湖畔の小島に辿り着きました。この時、アステカの父神で太陽と戦いの神「ウィツィロポチトリ神(別名メシトリ)が「石の上に生えたサボテンに鷲が止まった場所」を都に定めよと予言を下したとされ、この地に首都テノチティトランの町が築かれました。

 

余談ですが、テノチティトラン(メシコ・テノチティトラン)は、現在のメキシコ=シティです。メキシコの国名はこのメシコということばに由来するそうです。さらにメシコの語源は、太陽神ウィツィロポチトリの別名メシトリであるとされています。それゆえにメキシコは「太陽の国」と呼ばれます。

 

当初、アステカは、メキシコ盆地の最大勢力であったテパネカ族の国家アスカポツァルコに服属していました。1427年に王位に就いたイツコアトルの時、アステカは、テスココ湖東岸の都市テスココと手を組んで、湖の西岸にあるトラコパンを加えてアステカ三国同盟を結成しました。その上で、アステカは1428年、アスカポツァルコへ侵攻し滅亡させ、独立を果たしました(アステカ王国の成立)。なお、この三国同盟は、アステカが中心的な役割を果たしますが、国制上、アステカ帝国は最後までアステカ・テスココ・トラコパンの三都市同盟でした。

 

アスカポツァルコを滅ぼし覇権を握ると、アステカは勢力拡大に乗り出しました。モクテスマ1世の時(即位~1469)に周辺のベラクルス地方やアオハカ地方を征服し、「帝国」を形成するなど、15世紀の中頃、アステカ帝国は全盛期に入ります。また、1502年に即位したモクテスマ2世は、南方の太平洋沿岸へ遠征を行い、アステカ帝国は、本来の領土であるメキシコ盆地をはるかに越え、メキシコ高原一帯をほぼ統一する中央アメリカ最大の領域を誇りました(イタリアと同じぐらいの広さの領土を支配)。

 

 

  • 「偉大なるアステカ」

 

アステカ族は,北方の狩猟民でしたが、1325年に、メキシコ盆地のテスココ湖畔の小島に居を構えてから,先に興ったオルメカ、テオティワカン、マヤ、トルテカの諸文明の文化的遺産を、同時期の先進諸国から継承し、「偉大なるアステカ」と呼ばれる独自の文明を作り上げました。

 

当初服従していたテパネカ族からは、軍事的組織と運用や国家統治のノウハウを学び、前述したようにメキシコの広い領域を支配しました。その政治システムは、祭祀と軍事の長である皇帝を頂点とし、(祭祀と軍事の)実務を担当する貴族が皇帝を支えるというものでした。首都テノチティトランは、当時、世界最大級で20万から30万人の人口を誇り、巨大な宮殿やピラミッド型神殿をもつ壮麗な都市でした。

 

先に興った諸文明から、土木・建築・工芸や、天文・暦・文字を継承したアステカ帝国は、特に、大規模な土木工事を盛んに行った国家であり、神殿の建設や、湖中堤防、水道橋の建設など水利工事などで高い技術力を持っていました。ただ、マヤ文明同様、鉄器は存在せず、武器や日用品などは黒曜石などの石で造られたものが大半で、青銅器は装飾品利用だったとされています。

 

アステカ暦

アステカ族の暦は、精密な天体観測によって現代に引けを取らない精巧なものだったそうです。アステカ族は、宗教と農耕と結びついた260日暦(トナルポワリ)と365日暦(シウポワリ)の二つの暦を持っていました。260日暦はトナルポワリという20の絵文字と13の数字を組み合わせた260日の祭式暦で、占術に使われています。また、365日暦は、20進法に基づく20日からなる18ヶ月と5日の余りの太陽暦で、国家行事を運営するために用いられていました。神官たちは、歴法を厳密に守り、各種の儀礼をとり行っていたとされています。

 

この二つの暦の第一日が再び一致するのは、(最小公倍数の)18,980日、つまり52年目となります。アステカ人は、この二つの暦が重なり合う52年を一周期として扱っていました。また、その周期ごとに創造と破壊が行われると信じられてきました。この創造と破壊は、神話の時代にまで遡る長い時間軸の世界においても確認されます。

 

 

アステカの神話・伝承

アステカの宗教観・自然観は、アステカ以前のメキシコ古代文明の豊かな宇宙創生観を基に、彼らの部族宗教を融合させたものと解されています。

 

アステカ神話において、世界は四つの宇宙的時代(太陽の時代)を経ており、それぞれの時代は大変動によって滅亡したのだと考えられていました。つまり、世界の創造と破壊は過去4回起きており、現在の世界は「第5の太陽の時代」とみなされています。

 

現在の世界を創造したのは、ケツァルコアトルとテスカトリポカの二柱の兄弟神です。ふたりは世界を建て直し、人類を創造した後に太陽を作ったとされています。

 

ケツァルコアトル(「羽毛でおおわれた蛇」という意味)は、古代メキシコ人によって崇拝された白い肌をもつ神で、水の神、風の神,生命の神とされます。農耕や冶金術を教えた英雄神として、アステカの人々から崇拝されるようになりました。

 

テスカトリポカは、北の夜の神とされ、夜空、夜の風、ハリケーン、北の大地を司っています。死、敵意、占い、誘惑、魔術に関連付けられるなど、邪悪な力として表現されています。

 

アステカの神話では、あらゆる面でケツァルコアトルと対立したテスカトリポカは、天地創造の業を共に行ったケツァルコアトルを追放しました。しかし、ケツァルコアトル神はやがて帰還し、譲り渡したアステカの支配権を回復するという伝説が残されています。

 

ケツァルコアトルやテスカトリポカ以外にも、アステカ神話においては、既に出てきたウィツィロポチトリや、トラロックなどさまざまな神があがめられ、崇敬を受けています。

 

ウィチロポチトリは、アステカの起源の地(アストラン)を人々に伝えた神であることからもわかるように、創造神というよりは民族神(部族神)で、アステカ族の父神(パトロン神)です。また、太陽神としても信仰の対象となっています。

 

トラロックは、アステカ文明よりも前の時代から確認されており、メソアメリカ最古の部類に入る神で、雨神として知られています。アステカの人々にとっては、農耕をしていく上で、欠かすことのできない神です。

 

このように、アステカ族は、それまでのメソアメリカ諸文明の神々を継承し取り入れながら、独自の習俗や信仰体系を構築していました。

 

 

太陽信仰と生贄

メソアメリカでは、太陽は消滅するという終末信仰が普及しています。現在の世界を創造したのはケツァルコアトルとテスカトリポカの二柱でしたが、神話では人類を創造した後に太陽を作りました。しかし、当初、太陽は動かなかったのですが、神々が、自らの血肉を捧げる事でようやく機能を果たすようになったのだそうです。

 

ところが、この話しは、神話上のエピソードでは終わらず、神々の犠牲で動き出した、太陽の活動を維持するために、人間もまた自ら生贄を捧げ続けなければならないと考えられるようになりました。この世界に生命を与える太陽が運行し続けるためには(太陽が死滅し,宇宙が滅びるのをくいとめるために)、人間の血が必要であると解されたのです。

 

太陽神は夜の間姿を消し、翌日の活動のために、唯一の栄養分たる人間の生き血で精力をつけなければならないという考え方がその背景にあります。生贄になった者の血のしたたる心臓を、神に奉げることで、太陽に活力を与え、太陽の消滅を先延ばしすることが可能になると信じられるようになりました。

 

アステカ族やマヤ族も含めて、メソアメリカの人々は、日常的に人身御供(ひとみごくう)を行っていたという歴史があります。

 

太陽神ウィツィロポチトリに捧げられた生贄は、通常、戦争捕虜や買い取られた奴隷の中から、見た目が高潔で健康な者が選ばれていたそうです。神事によっては貴人や若者さらには幼い小児が生贄にされることもあったと言われています。生贄は、祭壇に据えられた石のテーブルの上に仰向けにされ、神官達が四肢を抑えて黒曜石のナイフで生きたまま胸部を切り裂き、動いている心臓を摘出し、数週間纏って(まとって)踊り狂ったとされています。

 

実は、人身御供は世界各地で広く存在した儀式であり、神事ですが、アステカの場合は、他と比べて特異であったとされています。人身供養は、いつの時代でもほとんど世間の目から隠れて行われていましたが、なぜか、メソアメリカ(アステカ、インカ、マヤ)の文明では人々の前で公開されて行われ、当時の人身供養の様子が、絵や文字として鮮明に残されています。

 

アステカ族は、この人身犠牲をささげるために,大神殿(ピラミッド)をいくつも建設し,このピラミッドを祭儀場として使いつつ、人身供養が行われていたことが、壁画などから明らかになっています。さらに、軍隊の長であると同時に、太陽神ウィツィロポチトリの最高の司祭であるアステカ皇帝は、生贄を確保し、常に人身犠供ができるように、強力な軍事組織を作って、戦争を続けなければなりませんでした。

 

こうした特徴を兼ね備えながらメキシコに栄華を極めたアステカ帝国でしたが、1521年、スペインの開拓者コルテスによって滅ぼされてしまいます。

 

 

  • スペインのアステカ征服

 

1492年のコロンブスによるアメリカ大陸の発見は、アステカ王国が繁栄していた現在のメキシコ一帯に、スペイン人が侵入する最初のきっかけを与えました。コロンブス自身はユカタン半島には上陸しませんでしたが、開拓者のエルナンデス=コルドバの率いる遠征隊が1517年にメキシコ(ユカタン半島)に初めて上陸し、翌1518年から入植が始まりました。スペイン人たちは、この広大な入植地を、ヌエバ=エスパーニャ(新しいスペイン)と呼んだそうです。

 

1519年2月には、開拓者(コンキスタドール)のエルナン・コルテスが、キューバから、わずか15頭あまりの馬と武装した500人の部下を率いてユカタン半島沿岸に上陸し、最初の植民都市としてベラクルスを建設しました。

 

その後、内陸に向かったコルテス軍は、同年11月、首都テノチティトランへ到着しましたが、アステカ王モクテスマ2世は初めて見る白人の騎兵に驚き、抵抗せずに恭順の意を表し、コルテス軍を歓待しました。それだけでなく、モクテスマ2世は、スペイン国王カルロス1世に財宝まで献上します。これに対して、献上された財宝を見て驚いたコルテスは、各地に人を派遣して貴金属や工芸品を集め、略奪し、アステカの財宝を溶解して金塊にしました。

 

その後、首都テノチティトランでは、住民の大規模な反乱が起こり、結果的にモクテスマ2世が殺害されてしまいました。これに対して、モクテスマ2世の後を継いだクィトラワク(クアウテモク)は、1520年6月、王自らアステカ人を率いて猛反撃に転じ、コルテス以下のスペイン人はテノチティトランから撤退を余儀なくされました。

 

しかし、1521年4月、先住民(インディオ)の反アステカ勢力を加え、軍を立て直したコルテスは、総勢10万とも言われた兵力で、テノチティトランを攻撃しました(テノチティトラン包囲戦)。3万のアステカ兵はよく戦い、約3ヶ月にわたり抵抗しましたが敗れ、1521年8月、病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王は処刑され、アステカ王国は滅亡しました。この時、都に入城したスペイン軍はアステカ人を3万人も大虐殺したといわれています。

 

 

  • なぜ、アステカ帝国は滅亡したか?

 

よく、当時、高度な文明と勢力を誇ったアステカ帝国は、スペインの近代兵器の前に屈したと言われますが、必ずしもそればかりではありませんでした。

 

アステカ王国は、周辺先住民に過酷な税を課して服従させていたとされ、スペイン軍が現れたとき、多くの周辺諸民族は懐柔され、スペイン軍に加わって戦ったとされています。ユカタン半島に上陸した際に、僅かな兵力であったコルテス軍も、最後、テノチティトランを攻撃した際には、膨大な数に膨れ上がっていました。

 

また、コロンブス以来、スペインから新大陸にもたらされた感染症である天然痘が、免疫のないインディオに感染し大流行となり、アステカ軍の力が低下してしまったことも帝国の滅亡の一因とされています。1518年に、エスパニョーラ島に到達した天然痘は、メキシコに向かい、1520年に上陸して猛威を振いました。もしこの時、天然痘が突発しなかったならば、コルテスの勝利はなかったとみる向きも多くあります。

 

加えて、コルテスが首都テノチティトランに最初に入城した際、アステカ王モクテスマ2世が「無血開城」した要因として、モクテスマ2世が、古来から伝わるアステカ神話の影響で、戦意を喪失させたことも、敗北を招いた一因とされています。

 

その伝説とは、かつてテスカトリポカ神に追いやられた白い肌をもつケツァルコアトル神が、西暦1519年にあたる「一の葦」の年に戻ってくるというものです。スペイン人が東沿岸に現れるようになったのは、「一の葦」の年の2年前(1517年)からでした。スペイン人は、帰還したケツァルコアトル一行ではないかとささやかれていました。

 

さらに、これらの要因が複合的に作用した面もあります。天然痘がメキシコを襲った(首都テノチティトランでこの病気が突発した)のは、1520年にアステカ軍が大攻勢をしかけ、コルテス軍を首都から撤退させたほぼ4ヶ月後でした。この時、首都の先住民の中には、スペイン人を襲撃した者たちへの神罰であると見なす者たちもいました。しかもその罰は、ケツァルコアトル神によるものだとされれば、1521年4月、コルテスが再び首都に戻ってきたとき、周辺の諸部族の多くがコルテス軍に雪崩式に寝返ったことも不思議ではありません。

 

 

  • アステカ帝国滅亡後…

 

その後、コルテス軍は金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊し尽くし、その遺構の上に、1535年、植民地(副王領)ヌエバ・エスパーニャの首都メキシコシティ(シウダー・デ・メヒコ)を建設しました。

 

また、コルテスは、征服地を部下に分け与える一方、自らも広大な土地を手に入れ、先住民の文化・伝統・宗教もまた完膚なきまでに破壊してしまいました(コルテスは文化的破壊者でもあった)。インディオ社会が行ってきた人身供犠などの習慣を特に「野蛮」な行為として強調し、アステカ在来の宗教を弾圧して、インディオをカトリックに強制改宗させました。(メキシコにおいてカトリックは現在も多数派の宗教である)。

 

征服した土地で、白人入植者たちは、インディオ(先住民)を、キリスト教に改宗させることを条件に、労働力として(奴隷のように)使役することを可能にした農園経営(エンコミエンダ制)を行うことができました。ポトシ銀山で先住民を酷使して、ヨーロッパへ送る銀の採掘に当たらせたことは有名な話しです。

 

このように、スペイン人征服者の残虐行為や、天然痘などの疫病による死者、過酷な労働などによって、コルテス以前に1100万人あまりだった人口が、わずか50年間で100万人に激減したとの試算もあります。

 

 

<参照>

アステカ文明(王国)(世界史の窓)

アステカ(世界の歴史まっぷ)

アステカ神話ピクシブ百科事典

アステカ文明の主要な神々たちを紹介!創造神から雨の神までいるの!?

10の最も重要なアステカの神と女神

物語メキシコの歴史(大垣貴志郎、中公新書)

Wikipediaなど

 

 

2020年10月20日

古代史:インカ帝国(アンデス文明)とは?

前回のマヤ文明に続いて、今回はインカ帝国を中心にしたアンデス文明です。2019年8月、秋篠宮家の真子内親王のペルー・ボリビアご訪問の際、インカ帝国のマチュピチュ遺跡やナスカの地上絵に足を運ばれるなど、皇室ともゆかりのある地です。

 

大河沿いに誕生した世界の古代文明と違って、アンデス文明は山間部や高原地帯で発展しました。そのアンデス文明と言えば、まず上げられるのが、インカ帝国でしょう。インカ帝国は、1200年ごろアンデス高原に興り、現在のペルー・ボリビアを中心に南米に拡大した帝国で、マヤ文明、アステカ帝国と共に古代アメリカ文明を代表しています。インカ帝国誕生以前のアンデス文明から、インカ帝国の発展と滅亡の経緯をまとめてみました。

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  • アンデス文明(インカ帝国誕生まで)

 

<初期入植者の時代(ペルー)>

大航海時代にヨーロッパ人が進出する以前の南アメリカには、アンデス山脈の中央高地を中心に独特の文明(アンデス文明)が発達していました。

 

最初の入植者が、南米ペルーに到着したのは、今から約2万年前とされていますが、考古学上、1万2千年前、アジアのモンゴロイド(モンゴル人)が、マンモスやトナカイを追って凍ったベーリング海峡を渡り、それからゆっくりとアメリカ大陸全域に定住したと考えられています。彼らは、もともと狩猟採集民でしたが、農業が発展するにつれて、集落と文明が出現していきました。

 

カラル文明BC3000年~AD1500)

その中で、今から約4600年前に存在したペルーのカラル文明は、南米というよりも、アメリカ大陸における最古の文明として重要で、その歴史は、メソポタミア、インド、エジプト文明と同じ時代まで遡ります。カラル遺跡はリマ北方にある渓谷に位置し、現在まで大神殿や18の居住区が確認されています。カラル遺跡からは、円形劇場ピラミッドや住居が発掘されただけでなく、30本以上のフルートが見つかったことで話題となりました。

 

チャビン文化(BC1800BC

カラル文明の後、アンデス文明はペルーのさまざまな地域に拡大し、多くの文明を生み出しました。例えば、BC1800年頃から土器の使用が始まり、BC200年頃までに、標高3200mの中部高地に、チャビン・デ・ワンタルという都市が築かれ、いわゆるチャビン文化が発達しました。都市には、縦横に地下通路がめぐらされ、また、都市の外側は薄い石を綿密に積み重ねて作られており、この地域にかなり早い時期から高度な石造建築の技術があったと見られています。

 

このカラル遺跡やチャビン・デ・ワンタル遺跡を初期入植者の文明跡と捉えるとすると、次は、「プレ・インカ(インカ以前)」と呼ばれる、紀元が変わり10世紀までの間に数々の文化が生まれた時代で、複数の小文化圏が散在していました。

 

 

<インカ以前(ペルー)>

 

1世紀には、北部のモチェ川流域に、灌漑農業や日干し煉瓦の都市を生み出していたモチェ文化や、南部の海岸に「ナスカの地上絵」で有名なナスカ文化が興りました。また、ペルー南部の都市アヤクーチョ付近には、二重の壁で都市を囲み、多くの建造物が作られたワリ文化の遺跡が発掘されています。この中でも、プレインカの時代を代表すると言えば、ナスカ文化となるでしょう。

 

ナスカ文化AD10700

ナスカの地上絵とは、ぺルーの乾燥地帯に存在する超巨大な図形群のことで、飛行機で空中から観測して初めて全体を見ることができるという稀有な地上絵です。西暦10年から700年頃に、古代ナスカ人によって作られたとされています(ナスカ文化そのものは800年頃まで栄えた)が、彼らが何のために描いたのか、未だ多くの謎に包まれています。

 

ナスカの地上絵に関する最古の記録は、1553年にスペイン人コンキスタドール(征服者)、シエサ・デ・レオンが書いた著書に登場しますが、当時、シエザは絵であるとは認識してはいませんでした。1927年になって、ペルー人の考古学者Toribio Mejía Xesspeが丘陵地帯をハイキング中に巨大な図形を発見しました。そして、1940年頃、アメリカ人考古学者のポール・コソックが飛行機で上空から調査を行い、その図形が鳥の形をしている超巨大な地上絵であることが確認されました。地上絵の解明作業は、ドイツの数学者マリア・ライヘに引き継がれました。日本でも、2004年から山形大学がその解明に力を入れて研究していてい、40点以上新しい地上絵を見つけています。

 

ここまでは、南米のアンデス文明を構成するペルーで生まれた文明についてみてきましたが、今度はボリビア側からインカ帝国に至る文明を先史時代から概観してみましょう。

 

 

<先史時代(ボリビア)>

 

チチカカ湖南東岸に文明

南米ペルーとボリビアの国境に位置し、またアンデス山中標高約4000メートルにある湖といえば、チチカカ(ティティカカ)湖が有名ですが、そのチチカカ湖周辺には、出土した尖頭器などから、氷期の終わりの頃に既に人類がなんらかの形で定着していたであろうと考えられています。実際、ティティカカ湖の湖水資源が、人類の生活の糧として活用され、チリパ文化へとつながっていったと見られています。

 

チリバ文明(BC1500~BC250)

チリバ文化は、紀元前1500年ごろに、チチカカ湖南東岸に出現しました。BC1000年までに、湖岸の動植物の採取・狩猟による生活が営まれており、BC800年までにはラクダ科動物の飼育や農耕などがなされています。さらに、文明の後期(BC800~BC250)には、祭事儀礼が開始され、基壇や地下式広場といった遺構を発見されています。

 

ティワナク(ティアワナク)文化(BC200~AD1150)

紀元前200年に入ると、ティティカカ湖周辺では、湖東岸にティワナク遺跡を中心としたティワナク文化が出現します。

 

300年から500年にかけて、ボリビアの先住民族アイマラ系の人々によって大神殿など大型祭祀建造物が建てられていました。中でも、祭祀場の跡とされる主要基壇(土台部分)・カラササヤ(遺跡の奥にある広場)には、一枚岩を削って作られた「太陽の門」や、両手で儀仗や儀器を捧げもった大型石彫が立てられています。

 

また、カラササヤ神殿の側には、様々な表情をした丸彫りの人頭像が壁面にはめ込まれた「半地下神殿」もあります。さらに遺跡周辺には、水路をともなった畑の跡も発見されており、作物栽培が行われていたと見られています。

 

ティアワナコ文化は、9 世紀から11世紀にかけて全盛期を迎え、その影響はボリビアだけでなく中央アンデス全域にまで拡大していきました。ティワナクの地は高度4000メートルという高地にあったことから、とりわけ、温暖な東部のコチャバンバや鉱物資源の豊富な南部のアタカマ砂漠方面へ広がりをみせました。さらに、同時期に発展していたワリ文化にも伝播しています。

 

2013年には、現在も観光地となっているティティカカ湖の湖底で、約1500年前の金銀細工や陶器だけでなく、インカ帝国時代の動物の石像など計2000点以上が見つかりました。ティティカカ湖に浮かぶ「太陽の島」はインカ帝国発祥地との伝説もあるくらいです。

 

このように、インカ帝国以前、ペルーではカラル文明に始まりチャビン文化と続き、ボリビアでは、チチカカ(ティティカカ湖)湖からティワナク(ティアワナク)文化が発展していました。こうした先史から古代にかけて興ったアンデス文明が、インカ帝国の誕生とインカ文明の発展に結実していきました。

 

 

  • インカ帝国

 

<概観>

インカ帝国は、13~16世紀(1200年~1500年)にかけて、アンデス山脈中で繁栄した国家で、5,000年以上前に始まったアンデス文明を継承し、高度なインディオの古代文明を発展させました。

 

アマゾン川の源流の一つで、ペルー南部を流れるビルカノタ川渓谷の中腹から高地に定住したケチュア族が建国しました。「インカ」とは、ケチュア語で太陽を意味し、クスコに住んでいたケチュア族の代名詞となりました。やがて、帝国の皇帝も、帝国そのものも全て「インカ」と呼ぶようになったのです。

 

高度な農耕、金属器文化を有していたケチュア族は、高地の巨石文化を統一し、初めてペルーを中心としたアンデス一帯を統一しました。最盛期における勢力範囲は、現在のペルーから、ボリビアおよびエクアドル全域、さらに、コロンビア、チリ(北部)、そしてアルゼンチンにまで、南北4000kmにおよぶ大帝国となりました。

 

なお、インカ帝国の正式な帝国の名称は、タワンチン・スウユ(タワンティンスヨ)です。タワンチン・スウユとは、「四つの地方からなる国土」の意味で、巨大な帝国を東西南北の4地域に分割してそれぞれ地方長官を任命していたことからくる国名でした。

 

南部のクスコを都とし、北には空中遺跡のマチュピチュがあります。ケチュア語を公用語として、太陽を崇拝する太陽信仰の国でした。インカ社会には書き言葉がなかったため、人々や出来事、体験に関する正確な記録や日付は残されていませんでしたが、建築や農業に秀でており、高いレベルの富の分配における制度システムを有していたとされています。

 

 

<インカ帝国の成立>

 

アンデス世界では文字の記録がないので、その起源は定かではありませんが、インカ帝国は、1200年頃に、ケチュア族の中のインカ部族のマンコ・カパックが、中央アンデス(ペルー)南部のクスコに、地方の小王国を建国したことに始まります。この王国はインカ帝国の前身で、クスコ周辺から海岸部へと勢力を拡大していくことになります。インカ帝国では、初代のマンコ=カパックから13人の皇帝が即位しましたが、初代を除く12人の皇帝は実在の人物とされています。

 

 

<アンデス世界の統一>

 

2代から8代にいたる200余年のあいだは、帝国というよりも群雄割拠と呼んだ方がふさわしく、諸部族の小国家(スウユ)が多数あって、インカ部族は周辺諸国と戦闘を交えていました。ところが、15世紀の中ごろ、長年にわたる仇敵であった北方のチャンカ族に勝利すると、第9代皇帝パチャクテク(1438年に即位)は、現ボリビアのティティカカ湖周辺にも勢力を拡げ、近隣諸国を次々に征服しながら、その版図を拡大します。

 

パチャクチ皇帝の在位33年間で、帝国の版図は約一千倍に拡張したとも言われています。こうして、ボリビアの地はインカ帝国の一領土となり、ケチュア語が普及し、高度な都市文明が栄えていきました(この時期の遺跡からは極めて高度な技術水準の建造物や遺物が発見されている)。

 

第11代のワイナ=カパック(在位1493-1525)の時代になると、さらに領土を拡張して、エクアドル、ボリビアからチリにおよぶ、アンデス世界の100万平方km、南北の距離は4000kmに至る広大なインカ帝国が形成されていきました。

 

 

マチュピチュ遺跡

 

インカ帝国といえば、ペルー南部に残る遺跡のマチュピチュで有名です。15~16世紀の建造とされるマチュピチュ遺跡には、標高約2500メートルの断崖上に石組みの神殿や邸宅があり、麓(ふもと)からは見えず「天空の都市」と呼ばれます。ケチュア語で、老いた峰という意味のマチュチュは、ペルー南部のアンデス山中、ビルカバンバの更に山奥にあります。マチュピチュは、第9代皇帝パチャクテクが造った王族や貴族のための避暑地とも、スペイン人侵略期の応急の避難所ととも言われています。

 

マチュピチュ遺跡は、インカ帝国の滅亡から400年後の1911年、アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムによって発見されました。発見者ハイラム・ビンガムは、映画インディ・ジョーンズの主人公のモデルとなっています。

 

マチュピチュと日本人

なお、マチュピチュは70年前、日本からの移住者が村長だったという歴史があります。福島県大玉村出身の農民だった野村与吉さんは1917年にペルーに移民として渡ると、マチュ・ピチュまでの鉄道建設に携わるなど、マチュ・ピチュの発展に貢献しました。これを契機として大玉村とマチュ・ピチュ村は、友好都市提携を結んでいます。

 

 

<インカ帝国の政治システム>

インカ帝国は宗教と政治が一体化していました。太陽信仰が国家の基本であり、インカ帝国の人々は太陽を崇拝していました。皇帝は「太陽の子」または太陽の化身として統治するという「太陽の帝国」でした。

 

創造神ビラコチャ

インカ神話に現れる最高神が、創造神という意味のビラコチャという名の神です。実際、ビラコチャは、太陽も含めてあらゆる神の上位にいる神で、伝説では、原初の混沌の中に最初に立ち現れた世界の創造主です。

 

ビラコチャ神は、まず、暗闇と人間を創りました。ティアワナコの地で石に彫って創られた人間を、地下にもぐらせ、呼びかけに応じて,各地の山,湖,洞穴などからその地に住む人間として姿を出させたとされています。しかし、ビラコチャが作り出した世界は一片の光もない暗黒に包まれ、人間は闇を這いずり回っていました。そこで、ビラコチャは、再びチチカカ湖に現れて、世界の再創造を行いました。太陽と月、人間、動物を作り、人間たちを特定の地域に配置してその地の民族の起源にしたと伝えられています。

 

太陽神インティ

ケチュア族の人々は、インティという名の太陽の神を天の序列の第一位に置きました(そもそも、ケチュア語で「インティ」は太陽の意)。それは、インカの人々にとって、太陽は農作物の収穫をもたらしてくれる絶対的存在だからです。インティだけが農作物を育て、病気を治してくれる存在であるとみなされていたのです。インティは、世界創造の基礎となる3要素(水・土・火)を統べ、しばしば雷光によって権力を示したとも言われています。

 

伝承では、インティは天の階級の一つの「月」であるママ・キジャを妻としたとされています。ちなみに、マチュ・ピチュには太陽の神殿があり、遺跡の奥に位置する高い山がワイナ・ピチュには月の神殿があります。

 

インカ皇帝

インカの支配者である皇帝は、太陽の化身、すなわちインティの現人神であるとされていました。あるいは、白い顔立ちに髭を生やした姿に変化することもできたと伝えられる創造神ビラコチャが降臨したとも信じられていました。ですから、インカ皇帝は専制的な権力をふるうことができ、数多くの神殿や要塞、道路を建設したのです。

 

このように、インカ帝国は祭政一致の国でしたので、皇帝を支える貴族層と太陽の神殿の儀礼を司る聖職者が存在しました。なお、インカ帝国の正式な名称は「タワンチン・スウユ(タワンティンスヨ)」です。タワンチン・スウユとは、「四つの地方からなる国土」の意味で、国土は東西南北の4地域に分かれ、それぞれ地方長官が置かれていました。

 

 

<インカ帝国の経済>

 

インカ帝国では、内婚制(婚姻を集団内部で行う制度)の下で、2~3の胞族(フラトリー)が構成され、人々は、「アイユウ」という母系的な氏族集団、または生活領域を同じにする集団に所属していました。賦役や兵役の義務もあったとされています。

 

経済は統制経済で、貨幣はなく、物々交換によって経済活動が行われていました。大部分の国民は農民として、トウモロコシやジャガイモなどの栽培や、毛織物の原料であるヤーマ(リャマ)、アルパカなどの牧畜に従事していました。インカ帝国は、文字を持ちませんでした。伝達は口頭によるものでしたが、文字の代わりにキープ(結縄)と呼ばれる結縄が使われていました。キープは、縄の結び目の形や数で、人口や産業、税額や取引額など、数字(数量)情報を記録し伝えていました。

 

また、鉄器はなく、新石器文明に近かったようですが、金・銀や青銅器の鋳造は発達していたとされています。(ただし、青銅器の利用も少なかったとも言われている)。車輪の発明もされず、運搬に車を使うこともなかったので、戦車や荷車は作られませんでした。急峻な地形のアンデス地域では、物資は、人力か、ラクダ科のリャマやアルパカに載せて輸送されました。

 

農業や牧畜、さらに道路網の建設、灌漑施設、鉱山などの事業も公営で行われたころから、インカの社会は「太陽の社会主義」とも呼ばれました。その一方で、文字や鉄器、車輪を知らなかったため、スペイン人に簡単に滅ぼされてしまったとも指摘されています。

 

ここまでの説明なら、インカ帝国の経済基盤を脆弱に感じられますが、道路は、全長3万キロにも及び、エクアドルからペルー、チリ中部まで帝国を縦断するだけでなく、首都のクスコを中心として、東西南北に向かう幹線を道路網が広がっていました。道路は限りなくまっすぐに、二つの地域を最短距離で結びつけるように設計されていたとされ、谷には吊り橋がかかり、石畳の道や階段が整備されていました。インカ帝国は広大な支配地を統治するために、アンデスの産地やアマゾンの密林をつらぬく道路=王道(「インカの道」)が建設していたのです。

 

さらに、沿道にはチャスキと呼ばれる飛脚が、半レグア(2~3km)おきに配備され、クスコまで走って情報が伝えられました。彼らの踏破力は、一日140kmとも250kmとも言われ、情報は猛烈なスピードで伝えられたそうです。

 

 

<スペインの侵略>

 

この偉大なインカ帝国も、1533年に、征服者(コンキスタドール)、フランシスコ・ピサロに率いられたスペイン軍によって征服され滅亡し、以後300年間、スペインの植民地になりました。

 

スペイン人がやってきた頃、インカ帝国内では、皇帝ワイナ=カパックの死後、皇妃との間に生まれた正統な皇子ワスカルと、側妻の子アタウワルパが帝位をめぐって争い、帝国は二分されて内戦となっていました。1532年、結局アタウワルパが勝利を収めて帝位を嗣ぎましたが、時を同じくして、ピサロは、北端のツンベスから上陸して進撃してきました。

 

完全武装したスペイン軍の上陸に対し、アタウワルパは当然警戒しましたが、神託を占ったところ、「しばらく静観して監視を続けよ」という答えだったので、迎え撃つことをせず、(現エクアドル国境に近い)カハマルカという所で、ピサロと会見することにしました。

 

1532年11月、皇帝アタウワルパは、金色の玉座に腰を下ろし、400人の高官と数千のインカ兵に守られて、歩兵110名、騎兵76名、火縄銃13丁などで武装したピサロの「使節」を迎えました(実際、広場にきたのは20人の歩兵で、残りは広場の周囲に潜伏)。「使節」はキリスト教の布教のための平和使節であると称したといいます。

 

ドミニコ会修道士で、従軍司祭バルベルデが、皇帝に対して、キリストの教えを説き、皇帝がキリスト教に改宗することを求めて聖書を差し出しました。アタウワルパはこれを拒否して聖書投げ捨てると、その瞬間、広場の周囲に隠れていたスペイン兵が一斉に射撃を開始し、騎兵が突進してきました。武器を持たず、鉄器(剣)や鉄砲を知らなかったインカ兵は、次々と鋼鉄の剣でなぎ倒されるか、射殺され、広場は一瞬のうちに殺戮の場と化しました。

 

生け捕られ、幽閉されたインカ皇帝アタウワルパは、スペイン人が金に異常な関心を示すことを知り、部屋一杯の金銀を身代金として差し出すなどして、釈放を求めたが、認められず、1533年8月、処刑されました。ピサロは、かつて本国スペインで、アステカ帝国を征服したコルテスと会ったとき、インディオは王が殺されたら抵抗できなくなるから、まず皇帝を殺すことだと助言されていたとの逸話も残されています。

 

処刑の前日、アタウワルパは、改宗したら火あぶりではなく絞首刑にするという、修道士の勧めに従って、死の直前に改宗しました。インディオは火あぶりにされた者の魂は神のもとに行くことも、この世に戻ることもできないと信じられていたそうです。洗礼名はフランシスコ・アタワルパでした。こうしてインカ帝国は、崩壊しましたが、まだ完全に滅亡というわけではありませんでした。

 

 

インカ帝国後…・

 

インカ帝国の皇帝アタワルパを処刑した後、ピサロは、インカ帝国を完全支配するために、傀儡皇帝を立てて、抵抗軍を制圧しながら、インカ帝国の首都クスコを目指し、1533年11月に入城しました。インカでは、人を動かすには皇帝の命令が絶対であったので、ピサロを傀儡皇帝を必要としたのでした。

 

クスコのあまりにも大きく美しい町並みに驚いたスペイン人たちでしたが、すぐに掠奪を開始し、クスコの神殿や宮殿などを徹底的に破壊し、金銀を集めるだけ集めて、延べ棒に鋳造し直しました。黄金で輝いていたとされる太陽の神殿(コリカンチャ)も壊され、その石組みの上にサンドミンゴ教会が建てられました。

 

1535年、ピサロは、本国スペインとの交易の利便性を考え、新しい首都リマを太平洋岸に建設し、そこに移り住みました。もちろん、インカから奪った金銀がつぎ込まれました。

 

一方、この頃、クスコの傀儡皇帝マンコ=インカは、脱走して山岳地帯に逃れ、クスコより北西に位置するビルカバンバを拠点にして、「インカ皇帝」を名乗り続けました。先祖のミイラをクスコからこの地の神殿に移したと言われており、これを「ネオ=インカ国家」と呼ぶこともあります。

 

マンコ=インカは、しばしばスペイン側と交渉し、和平を実現しようとしましたが、スペイン人の際限のない金銀の要求に対して交渉を諦めた後の1536年、マンコ=インカのもとに集結した18万のインディオとともに、クスコを包囲し、インカの反乱を始めました

 

しかし、スペイン軍の火砲、騎兵によって敗れ、翌年までに反乱は鎮圧されました。その後、マンコ=インカも死を迎え、子のティトゥ=クシ=ユパンギ、さらにはユパンギの弟のトゥパク=アマルが皇帝位を継承して抵抗を続けましたが、勢力は次第に弱まり、1572年にトゥパク=アマルは捕らえられて処刑されました。ここに、インカの反乱は終焉し、インカ帝国は完全に消滅しました。インカの皇統も完全に途絶え、インカ帝国、最後の皇帝「トゥパク=アマル」の名は、今でもインディオのスペインに対する抵抗の象徴的な名前となっています。なお、住民らは征服前に宝物を隠そうと湖底に沈めたという伝承も残されています。

 

インカの抵抗を鎮圧する一方、スペイン人たちは、インカ帝国後のアンデス支配の基盤を固めていました。インカを実質的に滅ぼした後の1542年にはペルー副首都が形成され、スペイン王権の属国となりました。スペイン王は植民地を支配するため、王の代理人である副王を派遣していましたが、ペルー副王はリマを首都としてブラジルを除く南米全域を統治しました。スペインの中南米支配は19世紀のラテンアメリカ独立運動が起こるまで続き、この間、カトリックの修道会がペルーの人々にキリスト教を伝えました。

 

一方、ピサロはと言えば、インカの反乱軍を制圧しようとする最中、征服者同士で、財産をめぐる内輪もめの内戦も繰り広げ、ピサロは、インカ帝国征服後、ヨーロッパ人として初めてチリ遠征を行った盟友アルマグロを処刑しましたが、1541年、アルマグロの息子によって、暗殺されました。インカを征服し、彼らの生命と財産を略奪して莫大な富を手に入れた男の最後はあっけないものでした。

 

 

<参考>

世界最大のミステリー「ナスカの地上絵」はどうやって作られた?

(2019/06/21 ディスカバリー・ジャパン)

湖底からインカの石像 ボリビア・ティティカカ湖

(2013.10.9、産経)

ラテンアメリカ文明の興亡(網野徹哉他、中央公論社)

インカ帝国(泉靖一、岩波新書

世界史の窓、Wikipediaなど

 

 

2020年10月18日

古代史:マヤ文明とは?

先日、TVのクイズ番組で、ペルーのマチュピチュ遺跡を特集しているのをみて、今回から、かつて、中南米たくさん存在していた古代文明について、まとめてみようと思うようになりました。まずはマヤ文明からです。マヤ文明というと、10年ぐらい前に、「2012年12月21日に人類は滅亡する」の予言で有名になって、聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。

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<マヤ文明の成り立ち>

 

マヤ文明とは、紀元前1000年頃から16世紀にかけて、現在のメキシコ南東部のユカタン半島から、ベリーズ、グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラスにまたがる中米地域に成立したメソアメリカ文明(中米における先スペイン時代の古代文明圏)を代表する都市文明です。

 

マヤ文明の栄えた時期は、先古典期(前1800~後250年)、古典期(250~900年)、後古典期(900~16世紀前半)に区分されていますが、その最盛期は、これまで、古典期の紀元後250年から900年くらいまでの時期とされてきました(例えば、8世紀頃には、人口は中世ヨーロッパの人口に匹敵する約2500万人、領域はドイツの2倍ほどの地域であったと想定)。

 

しかし、近年の発掘調査によって、先古典期の後期(紀元前400年以降)に、すでに大規模な都市が存在していたことが明らかになっています。例えば、マヤ文明最大のピラミッドとされる、マヤ低地南部にあるエルミラドール遺跡の「ダンタピラミッド」もこの時期に建設されていました。

 

ただ、いすれにしても、マヤ文明は、巨大な統一王国による統治ではなく、1都市につき6万人から10万人もの人々が、この一帯でいくつもの王国が林立した都市群を形成し、多様な文化を有していたとみられています。

 

古代文明と言えば、ナイル川やチグリス・ユーフラテス川のように、大河流域で栄えたことをイメージされるかもしれませんが、マヤ文明はそれほどの大河が存在せず、川が近くにない場所にも大規模な都市がたくさん構築されていました。

 

では、文明を維持されるために必要な水はどうしていたかというと、例えば、マヤ低地(現在のグアテマラとメキシコにまたがる地域)南部に位置するティカルという所では、意図的に地形を削り傾斜を作ることで、高い所で雨水を貯水し、生活水として活用するだけでなく、使用した生活用水がさらに、低い所にある農地に流れ込むような用水路を築くなど、地形を修正しながら、生活環境を整えていたと考えられています。

 

また、大河流域で形成された他の文明と違って、ジャングル、サバンナやステップ地帯など、さまざまな自然環境の中でも発展することができたという特徴も備えていました。特に、ユカタン半島の密林地帯はコパル樹脂香やヒスイなど、希少品の独占的な産地でした。そのことが、マヤ文明において、王権の権力を誇示する建造物を可能にするなど、他地域に見られない特色ある文明を発達させることができたと考えられています。

 

さらに、マヤ文明では、鉄器は使用されなかったという特徴があります。非常に洗練された石器を巧みに利用して、彫刻やピラミッドなど建造物を作り上げながら、都市まで築くことができる高度な技術を持っていました。

 

そうした環境下、独自の宗教儀礼や世界観を持ったマヤ族は、高度な科学都市文明を形成し、神殿・ピラミッドを建築、20進法による記数法、複雑な象形文字(絵文字)、精密なマヤ暦を持ち、優れた天文学(天体観測)を行いながら、繁栄を極めていました。

 

なお、同時期に発展していた、マヤ文明と並ぶメソアメリカ文明の一つであるアステカ文明とも、当時から互いに交流があり、神話や宗教的な観念、世界観に多くの共通した部分がみられます。

 

 

<マヤ文明の栄華>

 

  • マヤ文字

 

マヤ族は、メソアメリカ(中米)で、初めて文字を使用したことで知られています。紀元前700年から400年頃のマヤ文明の遺跡から発見され、マヤ人は歴史に関する碑文などを石碑や祭壇、階段などに刻んだり、文書を土器などにも刻んだりしていました。

 

マヤの文字は非常に複雑な組み合わせで構成されており、総数は4~5万字といわれ、(単語を見るだけで意味を理解できる)表音文字と(単語を見ればその発音が分かる)表意文字からなっていました。スペインの侵攻により、マヤ文字は使用を禁じられたため、一時は「謎の文字」となってしまったが、現在では約80%の文字が解読されたといわれています。

 

 

  • マヤの天文学

 

マヤ文明では、高度な天文学が発達してました。当時、望遠鏡もない時代に、マヤ人は、時間の計測、地上の事象を把握するために、肉眼で天空を観測していたと言われ、太陽、月、金星などの動きからその周期を読み取り、日食や月食などの天文現象の研究までされていたとされています。その果、太陽と金星の周期をほぼ正確に算出し、そこから精密さの暦も作り出しました。マヤ人は地球が太陽を一周するのは365.2420日と計算しましたが、これは、現在、世界基準となっているグレゴリオ暦の365.0425日よりも実際の1年に近い数値だそうです。

 

 

  • マヤ暦

 

マヤ人だけでなく、メソアメリカの人々にとっては、暦はたんに時間を区切る道具ではなく、彼らの神話にもあるように、暦法と結びついて、宇宙の歴史や未来を予言するものでもありました。マヤ族は、太陽、月、金星などと結びついた太陽暦、太陰暦、金星暦を組み合わせた複雑な暦法を駆使して暦を作りました。こうした暦は、必ず循環し、この循環の中で、神話的・歴史的な事件が必ず繰り返されると考えられました。

 

マヤ暦には、「365日暦」と「260日暦」など、20進法を駆使した、いくつかの種類がありました。(マヤ族は、両手足の指を使って数を数えていたので、20で一桁繰り上がる(一桁目は20で完了する)20進法を生み出していた)。

 

365日(ハアブ)暦」は、日常的な生活のため、特に農耕における種蒔きや収穫の時期を知るために用いられた1年365日の暦でした。20進法を使っていたマヤ族は、一ヵ月を20日(0~19日)と定め、1年は18カ月として、360日(=1月20×18カ月)を1トゥンと呼びました。そこに名前のない5日間をプラスすることで、より正確な1年365日という暦を作りあげたそうです。

 

マヤ族は、儀式や儀式などのために別の暦も使用していました。これが「260日(ツォルキン)暦」と呼ばれる暦で、20の神の名と13の数字の組み合わせによって、1日ごとに異なる神の名がつけられました。そうすると、各月は20日で成り立ち、同じ組み合わせが登場するのに260日(=20×13)かかることになります。

 

例えば、20の神のうち、イミシュ(赤い龍/存在の神)、イク(白い風/呼吸)、アクバル(青い夜/直観)という神がいますが、それぞれ数字と組み合わされ、1・イミシュ、2・イク、3・アクバル……2・イミシュ、3・イク、4・アクバル……と呼ばれたそうです。なお、13というのは、マヤ族の神話で、天上界(天空)は13層からなるという信仰から来ていました(後述)。

 

この「365日暦」と「260日暦」を、歯車のようにかみ合わせて回転させるように組み合わせると、約52年で一巡することから、「循環暦」(「52年周期暦」)という長い年数の暦も生まれました。マヤ文明には、その上にさらに、5125年で一巡すると考える「長期暦」が存在しています。

 

 

2012年世界終末論の真実

 

10年ほど前に、「2012年12月21日に人類は滅亡する」と映画にもなって話題になったマヤ暦でしたが、いわゆる「世界終末論」の根拠はこの「長期暦」にありました。そのマヤ長期暦とは循環暦で、187万2000日で元に戻るという文字通り長い期間の暦で、この数字をマヤ暦の1年(365.2420日)で割ると約5125年の長さとなります。

 

マヤ神話における世界の始まりは紀元前3114年であるとされています。グアテマラにある古代マヤ文明のキグリア遺跡の石碑には、マヤ長期暦の始まりを表す絵文字に「4アハウ8クムク」とあり、これが紀元前3114年であると考えられています。

 

マヤ文明の世界が始まった日を起点にすると、西暦20121221が、5125年目に当たる節目となるために「2012年世界終末論」が流行しました。マヤ長期暦の暦元の日である紀元前3114は、マヤ文明が誕生するはるか前の日であり、それが、2012年12月21日で初めて一巡する日を迎えるとあって、世界から注目されたのです。

 

結局、何も起こることなく現在に至っていますが、元々、マヤ暦は世界が終わることなど予言していませんでした。マヤの預言書とされる「チラム・バラムの書」には、「2012年、4アハウの時、ククルカン(ケツアルコルトル)という神が帰還する」とあり、決して世界が終焉するとは述べられていません。

 

「2012年12月21日を世界の終わり説」は、マヤ暦を一巡する循環暦ではなく、現代の暦に対する考え方と同じように、直線暦ととらえたから、騒がれたと解されています。つまり、2012年12月21日を直線状の終わりの日を指すと「誤解」したのかもしれません。

 

もっとも、メソアメリカの神話には、大洪水によって古い世界が壊滅し、その後現在の世界が始まったとするものが多くあります。実際、大洪水が起こった年を「4アハウ・8クムク」となっているそうで、マヤ神話における世界が始まる前にも「長期暦」が一巡し、古い世界が一度、壊滅したとも推察されています。ですから、2012年12月21日までに、現代の世界にも大天変地異が起きてもおかしくはありませんでした。

 

また、前出の「チラム・バラムの書」には、93600日(約256年)を周期として、争乱・騒擾・破滅の期間が訪れると書かれ、過去におけるスペイン人による征服もこの期間にもたらされたものとされています。

 

 

  • マヤ文明のピラミッド

 

中米グアテマラ北部(マヤ低地)の深い密林の下に、古代マヤ文明の何万もの建造物が眠っているいるとみられ、特に、これまで発掘されたティカル遺跡やエルミラドール遺跡、サンバルトロ遺跡などにあるピラミッドは有名です。ちなみに、前述したエルミラドール遺跡の「ダンタピラミッド」は元々、マヤ文明の建造物の中で最も高い70mを超える巨大なピラミッドだったとも言われています。

 

ピラミッドは山をかたどったもので、人工的な山を象徴したものだと考えられ、マヤ文明では、山と建造物が重なるように建設して、ピラミッドを山と同一視しています。山は、天高く近づける神聖な場所とみなされ、高いピラミッドを作るのは、信仰の対象である太陽にできるだけ近づくためとされています。ピラミッドに使われる石は、人の手だけで切り出され、運ばれて積み上げられていったのですが、どのような高度技術が駆使されたのかは、エジプトのピラミッド同様不明です。

 

また、マヤ文明では、人工の神聖な山であるピラミッドを都市につくり、信仰と公共の祭祀の場としました。ピラミッドのある公共広場の近くには王や支配層が住み、その周辺に農民らが住むことで都市が形成されていったと推察されています。

 

マヤ文明のピラミッドには一番上に部屋がついており、神殿として使われたと考えられています。また、エジプトのピラミッドのように、マヤ文明のピラミッドからも王墓が発見されており、マヤ族は、ピラミッドを神殿として利用しつつも、一部にはそこに王墓も造営されたと考えられています。

 

余談ですが、マヤで見付かった石像の中には、天皇家の「菊の御紋」と全く同じ文様が刻まれているものが見つかっています。

 

マヤ文明のピラミッドの中で有名なものの一つが、「ククルカンのピラミッド」(チチェンイツ・イツァーのエル・カスティージョ)です。「羽毛のあるヘビ」と形容されるククルカンとは、メキシコ中央高原で古くから信仰されていたケツアルコアトルのマヤ語名で、風とハリケーンの神とも言われるそうです。

 

このピラミッドでは、春分・秋分の日の夕方の時間帯のみ、太陽の光がピラミッドに当たると、ククルカン(羽毛のあるヘビ)の形をした影が、ピラミッドの階段上に浮かび上がるのです。それがちょうど神殿から降りてくるように映ることから、「ククルカンの降臨」と呼ばれています。これは、当時のマヤ族が太陽高度と年間の運行を熟知していたことを物語たっています。

 

また、四面体のピラミッドの4面にそれぞれ91段の階段があり、91段×4面で計364。それに頂上の神殿の1段を合わせると一年と同じ365になり、これは365日暦を表現しているとされています。また、階段をはさんで左右の面には、各26コのくぼみがあり、両方合わせて52コのくぼみを、正面から見ることができます。これは、52年周期(=260日暦×365日暦)を表したものと解されています。マヤ文明の建築物にも、マヤ族の暦を生んだ知恵が活かれています。

 

このように、マヤ文明の文字や暦、ピラミッドには、古代マヤ人の独特な世界観(宇宙観)が表現されていることが推察されます。

 

 

<マヤ族の世界観(宇宙観)>

 

古代マヤ人は、世界が天界(天)・地上界(地)・地下界(地底)に分類されると信じていました。天上界は13層に分かれ、太陽、月、金星などの神々が住むところとされ、地上界(大地)は、海の浮かぶワニの背中やカメの甲らのような存在と考えられていました。

 

大地の中心には「セイバの木」という生命の木が立ち(ゆえに「生命樹」とも呼ばれる)、その枝は天上界へ、その根は地下界に繋がって世界を支えていると考えていました。また、雨と雷を司る四人のチャーク(チャック)神が東西南北に、4本の命の木として立っているとも信じられていました。

 

「あの世」として捉えられた地下界は、9層に分かれ、一番下に死の神が住まわっているとされました。ティカルやチチェンイツァなどの神殿からは王墓が発見されていますが、そのピラミッドは9層からなっています。9層のピラミッドは王墓であることが示唆されます。マヤ族にとって、「9」という数字は、「地下=死」を示すものだったと言われています。

 

逆に、生と死は表裏一体であることから、地底は生命の起源と考えられていました。そこで、地下界が乱れると、干ばつや飢饉や疫病をもたらすと畏れられ、地底の神々に対して供物を捧げていたという経緯があります。

 

山には洞窟が多く見られます。洞窟は、豊穣や創造の象徴として、雨や嵐の神々が超自然的な生き物といっしょに住んで、地上の人間の生活に影響を与えている空間と考えられていました。ですから、マヤ人にとって洞窟は、毎日の生活とは違った神聖な場所であり、重要な儀礼の場所であるだけでなく、地下界(「あの世」)に行くことのできる唯一の手段だとみなされました。マヤ文明において、洞窟(セノーテ)は、まさに、大地(地上界)と地下界を結ぶ路で、地下界の王国であるシバルバ(「恐怖の場所」の意)への入口であったのです。そこで、洞窟の中にいる神々と交信したとも考えられています。いくつかの洞窟では、人骨が発見されており、神々への「いけにえ」として捧げられたとみられていることも、洞窟の重要性を物語っています。

 

こうした理由から、マヤの人々は、ピラミッドの頂上にある神殿の入口を、山の洞窟に見立てて建設することで、神殿内部で洞窟と同様の儀式を行っていたと推察されます。このように、ピラミッドは、王を葬り、神々と交信するための建造物として作られたということがわかります。

 

 

<マヤ文明の崩壊>

 

このように、栄華を極めたマヤ文明でしたが、10世紀、メキシコ高原から進出してきたトルテカの勢力や、14世紀頃にあったチチメカ人の民族移動、さらには、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を「発見」後、16世紀のスペイン人侵略で破壊され、17世紀末に滅亡しました。

 

しかし、マヤ文明は、スペインの侵略を招く真因となった滅亡の原因、ある時を境に文明は急速に衰退した原因については、未だ謎に包まれているという神秘な文明です。人口が壊滅的に減ったとみられ、あれだけ繁栄を誇った町々が、今や見る影もなく廃墟となって、深いジャングルに覆われてしまっていることも、神秘性を深めています。

 

研究者たちは、滅亡のさまざまな原因をあげているが、どれも決定的なものはありません。例えば、気候変動による干ばつ、焼畑農業などの環境破壊によって食糧生産が滞り、滅亡したという見方があります。または、干ばつで食糧が不足し、危機的な水不足たため王国間の戦争が激化したせいで衰退したという意見もあります。

 

また、外敵の侵入や火山の噴火や自然災害によって滅亡したという説もあれば、疫病や内戦によって壊滅したという説もあります。内戦については、これまでの定説以上に、はるかに破壊的な戦闘行為が繰り広げられていたとの見解も最近では出されています。

 

もっとも、「マヤ文明は突然崩壊し、ジャングルに埋もれた」と言われるように、滅亡は唐突であったのではなく、長い時間をかけて、都市が次々に放棄されていったとされています。さらに、それは、マヤ低地南部において都市が放棄されただけで、マヤ低地北部ではむしろ繁栄を続けていたとの見方もあります。

 

いずれにしても、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を「発見」後、マヤ文明の栄えた地域は、16世紀初頭にメソアメリカ一帯に乗り込んできたスペイン人による侵略を受け、マヤ文明は急速に衰退したことは間違いありません。当初、根強く反抗を続けたマヤ族でしたが、17世紀になってカトリック信仰などのスペイン文化を受け入れ、結局、コロンブスの時代から200年近くたった、1697年に最後の王国がスペインに併合され、マヤ文明は滅亡しました。

 

スペイン人は、絵文書や彫刻などの文化遺産のほとんどを破壊しました。マヤ族は、スペイン人による殺戮と新しくもたらされた疫病などで、ほとんどが死亡した言われていますが、マヤの末裔となる人々は今も、800万人以上いて、計30のマヤ諸語を話しながら、マヤ文明の文化的遺産を継承していると言われています。

 

 

<参照>

マヤ文明と終末論の真実(ナショナル・ジオグラフィック)

513 講演―マヤ文明のピラミッド(マヤ文明研究者 Yuの語り)

マヤ文明の高度な技術(草の実堂)

マヤ・アステカ神話の終末(世界の終わりの話、草野巧)

 

古代マヤ人が封印した秘密トンネル、「地下世界への入り口」か

(2018.02.05 CNN)

メキシコでマヤ文明の宮殿発見 約1000年前まで使用

(2019年12月28日、時事ドットコム)

古代マヤ文明の要塞を発見

(ナショナル ジオグラフィック ニュース 2019年3月6日)

古代マヤ文明の滅亡は戦争が原因ではなかった?

(カラパイア、2019年8月16日)

マヤ文明の建造物6万個、空からのレーザー調査で発見 グアテマラ

(2018年2月2日、AFP)

密林に浮かび上がるマヤ文明の遺跡 レーザー技術で発見

(2018.08.18 CNN)

世界史の窓

Wikipediaなど

2020年10月13日

日本史:長崎とキリスト教

 これまでの投稿で日本各地の伝承や世界の歴史や宗教について紹介してきましたが、自分の故郷・長崎のことを調べてみると知らなかった事実などがたくさんでてきました。今回は、特にキリスト教との関連を中心に長崎の歴史についてまとめてみました。

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  • 「大村純忠」の誕生

 

地元の人間としては、長崎県と言えば、戦国大名での肥前大村藩の大村氏、島原藩の有馬氏、平戸藩の松浦(まつら)を思い起こすことができます。特に、大村純忠(すみただ)は、日本で初めてのキリシタン大名として全国的にも知られています。

 

大村氏の先祖は、「海賊王」藤原純友の孫・藤原直澄(なおずみ)とされ、直澄が994年に伊予から肥前に入部し、肥前大村を本拠として領主化したと言われています。ただ、大村純忠に至るまで別の説もあり、また、有馬氏が藤原純友を先祖とするという説(あるいは両家とも)もあるなど、大村氏の経歴は明確ではないのが実情です。

 

大村家では、1474年、第16代の大村純伊(すみこれ)の時、島原の有馬貴純(たかずみ)との戦い(中岳の合戦)に敗れた結果、純伊は大村から追放され、唐津沖の加々良島(かからじま)へ逃れました。7年後の1480年、西肥前の豪族の力などを借り、大村の領地を取り戻すことにはなりましたが、この戦いを契機に大村氏は有馬氏の従属下に置かれることとなり、次代の大村純前(すみさき)の時代も、有馬晴純の圧迫を受けます。そのため、大村純前は実子の貴明を、武雄(佐賀藩の自治領)の後藤家に養子として出した上で、有馬晴純の次男・純忠を養子として迎えました。こうして、1550年、有馬純忠は18歳の時、大村家の家督を譲りうけ、大村純忠として、大村家18代当主となったのです。

 

しかし、養子の純忠にしたがわない家臣たちも多く、佐賀の龍造寺氏(竜造寺隆信)、平戸の松浦氏(松浦隆信)、武雄の後藤氏(後藤貴明)などと休みなく戦いをくりかえしました。特に、台頭してきた佐賀城主、龍造寺勢の攻勢を受けるようになりました。こうした苦境にあって、純忠はキリスト教に目をつけ、キリスト教の受け入れと外国との貿易によって富と軍事力を手に入れようと考えます。

 

 

  • 大村藩とキリスト教

 

大村純忠が家督を継いだ1550年は、イエズス会のフランシスコ・ザビエル一行が肥前国平戸(現・長崎県北に位置する)に入り、宣教活動を行うと同時に、ポルトガルの貿易船が平戸港にはじめて入港し貿易が行われた年でした。ザビエル自身は、1か月ほどしか平戸に滞在せず、宣教師のコスメ・デ・トーレスに委ね、京都へ向かいました(トーレスは平戸教会の初代、主任司祭となる)。当時の平戸領主・松浦隆信は、ポルトガルとの貿易は歓迎していましたが、キリスト教には関心を示しませんでした。そのため、平戸での布教が盛んになると、宣教師と仏僧との宗教的な争いや、ポルトガル人と日本人との間で殺傷事件まで発生するなど、ポルトガルと松浦氏と関係は悪化しました。

 

そこで、トーレスは、平戸に変わる新たな港を探すと大村領内の港に注目し、交渉を始めました。当時5つの村を統治していた領主の大村純忠は、横瀬浦(現在の西海市)の港を教会に与え、キリスト教布教を認める代わりに、横瀬浦をポルトガルとの貿易の自由港とするという提案を行いました。ポルトガルもこれに応じて交渉が成立し、1562年7月、横瀬浦で南蛮貿易(対ポルトガル貿易)が始まりました。さらに、翌年1563年6月には、純忠は横瀬浦の地で洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となったのです。

 

もっとも、純忠も最初は、キリスト教の信仰は二の次で、本当の目的は貿易でした。キリスト教に入れば、イエズス会の信頼を得て貿易を拡大できると考えていたようです。しかし、やがて、純忠はキリスト教を信じるようになり、家臣や領民をキリスト教に改宗させ、領内の寺社を次々に破壊していったことから、仏教徒や一部の家臣・領民の反感を買いました。

 

一方、開港後、横瀬浦には、大阪、堺、豊後などから貿易商人らが押し寄せ、活気に満ちましたが、純忠に対する反乱がおき、1563年11月、武雄の後藤貴明が横瀬港を襲撃して焼き討ちにしてしまいました。開港からわずか1年4ヶ月後の出来事でした。しかし、貿易で力を得ていた純忠は立て直し、翌1564年、三城(さんじょう)城を築城し、そこを拠点(現大村市)として、領土を拡大していきます。のちの大村藩領のほとんどは、純忠によってまとめられたとされています。

 

後藤貴明の襲撃後、宣教師達は、横瀬浦の港を放棄し、いったん平戸に戻りますが、キリスト教に寛容な大村領で貿易を望み、新たな港を探します。1565年、ポルトガル船は、(現長崎市から北西に位置する)福田港に来航しました。しかし、外海に面し条件の悪かったため、さらに良港を求めたどり着いたのが、深い入江の穏やかな長崎港でした。

 

 

  • 南蛮貿易とキリスト教の街・長崎

 

大村純忠は、南蛮貿易のさらなる発展をめざし、その拠点を福田浦から隣の長崎(深江浦)の港に移しました。こうして、長崎は、1571年、南蛮貿易の港として開港し、翌年、最初のポルトガル船が入港しました。長崎の港は、大きなポルトガル船が係留するにはとても適した場所だったそうです。

 

開港する以前の長﨑は、鎌倉時代以来、肥前国御家人になった長﨑氏が支配していました。長﨑氏は、戦国時代初期には島原の有馬氏の支配のもとにあり、有馬貴純(ありまたかずみ)の子康純(やすずみ)が長崎氏の養子となって、長﨑氏を相続しました(長﨑康純)

 

この頃の長﨑は、深江浦とも呼ばれ、浜辺にはわずかの民家が点在するだけの一寒村でしたが、大村純忠は、1571年、貿易のための長崎の町づくりを開始しました。開港とともに、当時、長﨑港に突き出した岬(今の諏訪神社前辺りから長崎県庁に向かって長い岬が突き出していた)には新しく6つの町(6ヶ町)が造成され(これを内町と呼ばれた)、貿易の拠点となりました。ちなみに、「長崎」という地名の由来は、この長い岬を「長んが崎」と呼んだことによるとも言われているそうです。

 

南蛮貿易では、生糸や絹織物など輸入されたことに加えて、鉄砲などの武器や医学、天文学、音楽、美術なども伝えられました。なお、当時の領主は、大村純忠の娘婿、長崎甚左衛門純景(すみがげ)でしたが、この新しい貿易都市長崎は、長﨑氏の支配から分離され、大村氏の「直轄地」とされました。

 

また、岬の先端(現在は長崎県庁)には、イエズス会のキリシタン寺院(サン・パウロ教会:岬のサンタ・マリ ア教会)が建ちました。もっとも、長崎におけるキリスト教布教活動は、トーレスの命によって、1567年にすでに始まっており、布教の2年後には早くも長崎最初の教会堂トードス・オス・サントス教会が、ガスパル・ビレラ神父によって建てられました。場所は、長崎甚左衛門がポルトガル商人で医師の免許を持っていたルイス・デ・アルメイダに与えた土地(現長崎市夫婦川町)でした。

 

1570年、ポルトガル貿易港として開港されると、さらに市中には多くの教会や関連施設が建造されるとともに、各地から多くのキリシタンが移り住んできました。同時に、宣教師が訪れ、その布教活動により、キリスト教徒が増えていきました。

 

受洗しキリスト教会との関係を強化しながら、貿易を拡大していく大村純忠に対して、武雄領主後藤貴明、平戸領主松浦隆信(まつらたかのぶ)や、諫早領主西郷純堯(さいごうすみたか)、佐賀藩の龍造寺隆信らから攻められますが、ポルトガルからの援軍で幾度となく凌ぎます。しかし、周りの戦国大名からの圧迫によって、大村氏の勢力は徐々に衰退し、貿易都市長崎の大村氏による直轄地としての支配は崩れていきました。これを受けて、貿易都市長崎では、居住している商人たちによる自治組織が、自然発生的に組織されて、大村氏に代わり町方としての自治も始まりました。

 

このように、大村家の長崎に対する支配は弱まり、長崎も自治都市化しつつある状況下、1580年、長崎に攻め込んできた龍造寺隆信との戦いに敗れて降伏した純忠は、貿易の定着と、自らの地位と領地を守るために、領内の長崎(長崎6ヶ町)、茂木をイエズス会に寄進するという大胆な行動にでたのです。イエズス会(ポルトガル)の軍事力を背景に、長崎・茂木は、イエズス会の領地へと瞬く間に変貌し、日本におけるキリスト教の中心地となりました。

 

1584年には、同じくキリシタン大名であった有馬晴信も、浦上を寄進し、浦上村一帯がキリシタンの村となりました。有馬晴信は、もともとキリスト教には関心がありませんでしたが、佐賀の龍造寺隆信の勢力が強くなり、有馬の地を脅かすようになると、晴信は一転して宣教師やイエズス会に支援を求め、1580年、13歳のとき自ら洗礼を受けて信者になりした。

 

1584年3月、龍造寺隆信は数万におよぶ大群を率いて島原半島に攻め込んできた沖田畷(おきたなわて)の戦いで、イエズス会は、大砲を提供して、有馬晴信を支援し、島津・有馬の連合軍に勝利をもたらしました。イエズス会への浦上村の寄進はまさに、晴信のイエズス会に対する謝意の表れでありました。

 

これにより、貿易都市・長崎、浦上村、茂木村が、イエズス会領長崎となり、長崎は実質的に、イエズス会が統治することになったのでした。イエズス会領となった長崎は武装を進めます。特に、キリシタン大名である大村純忠や有馬晴信に脅威を与えている龍造寺隆信を敵視し、イエズス会の中には、大村純忠に対して龍造寺隆信に対する挙兵を促すなど軍事路線を唱える意見もありました。

 

長崎を寄進した後の1582年には、大村純忠は、有馬晴信、豊後(大分)の大友宗麟らと共に、日本初のヨーロッパ公式訪問団である天正遣欧少年使節をローマに派遣しました。4人の少年使節の一人は、大村純忠の甥、有馬晴信の従兄弟である千々石ミゲル(ちぢわミゲル)が含まれていました。彼らは1590年に帰国し、当時世界最高の技術と知識を持ち帰りました。

 

 

  • 秀吉と家康の弾圧

 

この頃、世は豊臣秀吉の時代になっていました。純忠も、1585年、秀吉に恭順の意を示し臣下になり、1587年の秀吉による九州平定の後、所領を安堵されました。純忠は、この後、嫡男の喜前(よしあき)に後を継がせ、引退し信仰の生活に入りましたが、同じ年、病死しました。

 

純忠の死を聞いた秀吉は、1587年、宣教師を国外に追放するバテレン追放令を出し、イエズス会に寄進された長崎(浦上、茂木)を没収しました。秀吉は九州平定後、長崎がイエズス会の領地になっていたことや、神社やお寺が破壊されていたことを快く思っていませんでした。さらに、宣教師たちが関わったいたとされた日本人の奴隷貿易(人身売買)の事実を秀吉が知ったことも要因と言われています。

 

また、1596年には、サン=フェリペ号事件が発生します。土佐にスペイン船サン=フェリペ号が漂着し、水先案内人の「スペイン国王がキリスト教布教により他国を征服していく」という話しを耳にした秀吉は激怒して再び禁教令を出したのです。そうして、京都にいたフランシスコ会などの教徒を捕らえ、長崎に連行し、磔の刑に処しました(26聖人の殉教)。

 

それでも、秀吉は、南蛮貿易は奨励したのでキリスト教の禁教は不徹底でした。実際の個人の信仰については容認していました。そのため、バテレン追放令後も長崎の町は、キリシタンの町として栄え続けました。長崎には日本イエズス会本部が置かれ、外国人宣教師の指導で建てられた教会、病院、学校、福祉施設がたち並び、当時、長崎は「小ローマ」(「長崎は日本のローマなり」)とも呼ばれたそうです。

 

逆に、切支丹(キリスト教徒)たちが、長崎に古くから存在した神社や寺を放火・破壊する過激な行動もあり、長崎領内の寺院、神宮寺、神社などがほぼ全滅になったとも言われています。こうした治安の悪化や、貿易によるトラブルが各地で発生するなど、江戸幕府も看過できない事態となりました。

 

1612年、江戸幕府は、「慶長の禁教令」を全国に発します。宣教師の追放に加えて、キリスト教の信仰自体の禁止と教会の破壊が命ぜられ、2年後には、教会の破却も実施されました。長﨑でも多くの教会が破却され、1626年には、踏絵やキリシタン告発への報奨金制度を設けて、長﨑や浦上のキリシタン摘発がなされました。

 

長崎のキリシタンたちは、長崎奉行の残虐な摘発を恐れて多くのキリシタンが山林に逃げ込みました。山狩りも行われ、キリシタン信徒は捕縛されました。棄教者は直ちに釈放されましたが、拒む者は拷問によって棄教を迫られたと言われています(これ以降、キリシタンは潜伏して信仰を続けた)。

 

かつてイエズス会が領有し、秀吉が没収した長崎は、幕府直轄の天領として治められるようになり、大村領から離れていきました。その後、徳川の時代の長い鎖国の間、長崎は唯一西洋との窓口として栄え続けました。

 

 

  • それからの長崎

 

一方、純忠の死後、後を継いだ大村喜前は、秀吉による朝鮮出兵において、小西行長に属して戦い、武功を挙げました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に属したため、徳川家康から所領を安堵され、徳川政権下で、肥前大村藩の初代藩主となりました。

 

大村喜前は父同様、キリシタン大名でしたが、1602年に加藤清正の勧めを受けて日蓮宗に改宗し、キリシタンを弾圧しました。そのため、恨みを買った喜前は、1616年にキリシタンによって毒殺されてしまいました。しかし、その後は、大村家は大過なく明治維新まで存続し、1884年に子爵、次いで1891年には伯爵に列せられました。

 

キリスト教については、明治維新後の1873年、キリシタン禁制の高札が撤廃されると、長崎には教会が建ち並びました。現在、長崎教区は、全国6つの教区の中で最多の130を超える教会堂が存在しています。中でも、離島や農村小規模の巡回教会が60近くあります。こうした教会とその関連する施設は、2018年、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、世界遺産に登録されました。

 

なお、日本におけるカトリック信者数は約45万人で、このうち長崎教区の信者数は、東京教区の約9万6000人に次いで多い、6万3000人です。対人口比率では、東京教区が0.5%、長崎教区は4.3%となっており、長崎県のキリスト教人口の多さがわかります。

 

 

<参照>

戦国時代、長崎はイエズス会の領地だった!?(web歴史街道)

大村純忠~日本最初のキリシタン大名~(鳥居正洋の日本史to長崎)

大村純忠と南蛮貿易(大村市)

博物館のオススメ- 旅する長崎学 ~たびなが~

長崎キリシタン考

浦上とキリシタン禁教令(長﨑史談会 幹事 村崎春樹)

ナガジン! – 長崎市

秀吉によるバテレン追放令とは(戦国時代のキリスト教)

Wikipediaなど

 

 

2020年10月10日

憲法:23条(学問の自由)はいかにしてできたか?

前回の投稿では、日本国憲法第23条(学問の自由)を解説しました(「まじめな解説 学問の自由23条」)。今回はこの23条がどのような過程を経て、成立したのかをみてみましょう。

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日本国憲法第23条(学問の自由)

学問の自由は、これを保障する。

 

「まじめな解説」の中でも指摘したように、現在、外国の憲法において、学問の自由を独立した条文として謳っている例はほとんどなく、「表現の自由」など別の規定の中に組む込まれています。

 

ですから、明治憲法にも、学問の自由は保障されていませんでした。そのためか、戦前、時の政権や軍部は、「滝川事件」や「天皇機関説事件」などにみられるように、一部の学説を「危険思想」「不敬」として、その学者が大学から追われたり、その著作が発禁となるなどの弾圧がなされました。

(「滝川事件」と「天皇機関説事件」については、前回投稿を参照下さい)

 

そうした過去の反省から、現行憲法では、独立の条文で「学問の自由」を謳うことにつながったと広く認識されています。ただし、戦後、日本政府による最初の憲法原案(松本案)から日本国憲法が成立までの過程においては、多少の変遷が見られました。

 

まず、マッカーサーの示唆によって始められた帝国(明治)憲法改正作業は、当時の幣原内閣の時に設置された松本烝治法学博士を委員長とする憲法問題調査委員会(「松本委員会」)によって進められ、最初の原案が作られました。しかし、いわゆる松本案には、学問の自由についての規定はありませんでした。

 

もっとも、松本案自体が不十分として、マッカーサーのGHQ(連合国軍総司令部)はこれを拒否し、マッカーサーは自らのスタッフに帝国憲法改正案を作成させ、わずか10日程度で完成させたのがマッカーサー原案と呼ばれる改正案でしたね。そのGHQ案では、以下のように、学問の自由だけでなく職業選択の自由も同時に規定されていました。

 

GHQ

学究上の自由および職業の選択は、これを保障する

 

GHQ民生局スタッフは、一国の憲法原案をわずか10日間で書き上げるには、それなりのたたき台となるものがあるはずです。大概は自国の憲法をまず参考にするところですが、外国の憲法でも学問の自由を独立の条文で規定されていないと前述したように、アメリカ合衆国憲法にも「学問の自由」は明文化されていません。では、彼らは何を参考にしたかというと、世界でもっとも民主的な憲法と言われたドイツのワイマール憲法と、日本の民間団体、「憲法研究会」が作成した「憲法草案要綱」と言われています。実際、両者には学問の自由を定めた条文がありました。

 

ワイマール憲法 第142

芸術、学問、およびその教授は、自由である。国は、これらのものに保護を与え、かつ、その育成に参与する。

 

憲法研究会の憲法草案要綱

国民の言論学術宗教の自由を妨げる如何なる法令をも発布するを得ず

 

現行の「学問の自由」でその解釈の中で通説となっている学は問研究の内容を教授する自由が、ワイマール憲法では、その「教授の自由」が明文化されていたことは注目されます。

 

さて、GHQ案を受けて日本政府が出した案(「3月2日案」)では、職業選択の自由と切り離して、学問の自由を国民」に与えるとしました。

 

3月2日案

すべての国民は、研学の自由を侵さるることなし

 

これに対して、GHQは、学問(研学)の自由を「国民」に限定したことに異議を唱えました。結果として、現行23条と同じ文言の帝国憲法改正案が、最終的な政府案として帝国議会に提出され、そのまま成立しました。

 

帝国憲法改正案

学問の自由は、これを保障する。

 

 

<参考投稿>

憲法:13条(幸福追求権)はいかにしてできたか?

憲法;21条(表現の自由)はいかにしてできたか?

 

日本国憲法の制定過程については、次の投稿も参照下さい

憲法:日本国憲法は9日で書かれた!?

 

 

2020年10月09日

日本国憲法:まじめな解説 学問の自由(23条)

日本学術会議の新会員候補のうち6人の任命を、菅義偉首相が拒否したことについて、任命拒否は「『学問の自由』の核心である学問・専門分野の自律性、自主性への介入」、「学問の自由の侵害」であるといった抗議の声明が出されています。

 

これに対して、今回の問題は、6人の学者が学術会議の会員という「特別職国家公務員」に入れなかっただけで、「弾圧」と呼ばれるものではなく、他の研究者や一般の人々の「学問の自由」には影響はないとする意見もあります。そこで、今回、日本国憲法では、学問の自由をどのように定めているのかを吟味してみましょう。

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「学問の自由」は、日本国憲法で次のように定められています。

 

第23条

学問の自由は、これを保障する。

 

外国の憲法において、学問の自由を独立した条文として謳っている例は、ほとんどありません。内容からいって。「思想・良心の自由」や「表現の自由」の中で保障されていても差支えないとみられています。明治憲法にも、学問の自由についての規定はありませんでした。

 

では、なぜ日本国憲法では、一つの条文を設けて学問の自由を保障しているかというと、特に、戦前、国家によって都合の悪い学問や研究は、国家の政策にそぐわないという理由で弾圧の対象となってきたという事実があったからです。例えば、明治憲法下での「滝川事件」や「天皇機関説事件」などはその典型的な事例です。

 

滝川事件(1933年)

京都大学教授の滝川幸辰の講義内容が、共産主義的だとして休職処分になり、これに抗議した7教授も辞職したという事件。

 

天皇機関説事件(1935年)

天皇は国家という法人の機関にすぎないという天皇機関説を主張した美濃部達吉、貴族院議員に対して、政府は、美濃部を公職から追放し、その著書を発禁処分にした事件。

 

もともと、既存の価値を批判し、創作活動を行うことを本質とする学問は、時の権力の干渉を受けやすい性質ものであることを鑑みて、そうした「弾圧」が二度と起こらないように、また、その自由が確実に保障されなければならないという反省から、学問の自由が、憲法23条で保障されるようになりました。

 

さて、23条は、「学問の自由は、これを保障する」と簡潔に書かれているので、様々な解釈がなされ、学問の自由には、①学問研究の自由、②学問研究の結果を発表する自由、③大学における教授の自由、④大学の自治が含まれているというのが通説です。

 

  • 学問研究の自由

文字通り、公権力に干渉されることなく、自分が学びたいことを学び、研究したいことを研究できるという意味です。これは、個人の内面にとどまっていることなので、公共の福祉に制約されずに絶対的に保障されます。

 

学問研究への政府による干渉は絶対に許されないが、先端科学技術の研究がもたらす生命・健康に対する権利などへの重大な脅威・危機に対処するために不可欠と判断されれば、必要最小限度の規制を法律によって課すことも許容されると解されています。例えば、先端科学技術の研究を規制した法律として、「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」があります。

 

また、学問の自由は、真理研究そのものに向けられる作用なので、実社会に働きかけようとする実践的な政治的社会活動は、23条の問題ではありません(23条で保障されない)。

 

  • 研究発表の自由

学び研究したことを発表する権利です。こちらは学問研究の自由とは異なり、公共の福祉による制約があります。例えば、ヒトクローン研究が禁止されるなどがその事例です。

 

  • 教授の自由

自分の自由意思で学び研究した内容について、発表するだけでなく教え伝えるという権利です。ただし、研究発表の自由と同様に外部に表明することになるので、こちらも公共の福祉による制約を受けます。

 

具体的には、大学における教授の自由については、判例上も学説上も異論ありませんが、小学校や中学校の先生も自由に児童や生徒に教えることができるのかが問題とされました。現在では、「旭川学力テスト事件」判決が、下級教育機関(高等学校以下の初等中等教育)における普通教育の自由の保障についての一つの指針となっています。

 

最高裁は、この事件についての判旨で、「教師に教育の自由は一定の範囲において存在するが、合理的範囲において制限される」と述べました。つまり、小学校や中学校の義務教育では、一定の範囲での教授の自由は認められますが、教育の機会均等と全国的な教育水準の確保などの観点から、大学と同じように完全な教授の自由は認められないとしたのです。

 

旭川学力テスト事件

全国の中学2・3年生を対象に実施された全国中学校一斉学力テストに反対する教師A(被告人)が、教鞭をとる旭川市立永山中学校で、テストの実力阻止を行い、公務執行妨害罪などで起訴された事件。国が一方的に決めた全国統一学力テストは、憲法23条に規定されている教授の自由に反するのではないかが争われましたが、判決は、学力テストは合憲と判断されました。

 

 

  • 大学の自治

大学の自治とは、大学の内部組織の運営に関して、大学が権力からの干渉を受けずに、大学の自主的な運営に任される原理のことです。

 

なぜ、大学の自治が、学問の自由に含まれると考えられるようになったかは、大学に自治権を認めることによって、国民の学問の自由をより確かなものできるという考え方に基づいています。学問の自由の保障を強固にするためには、学問、研究の中心である大学の自治を制度として保障しようというわけです(憲法学ではこれを制度的保障という)。

 

大学の自治については、特に昭和20~40年代にかけてのいわゆる学園紛争の時代に、警察権との関係で多くの問題が発生しました。中でも、東京大学で発生した「東大ポポロ事件」は、警察権との関係で特に注目されました。判決では、大学の自治には以下の内容が含まれるとされています。

 

1)学長・教授その他の研究者の人事権

2)大学の施設管理権(大学の財政を含む)

3)学生の管理(学生の地位)

4)研究教育の自主決定権

 

ただし、これらの自治権が、同じ度合いで認められるのではなく、人事権は「当然」認めらるとした一方、大学施設や学生の管理については「ある程度」認められると判旨されました。

 

また、「施設が大学当局によって自治的に管理され、学生も学問の自由と施設の利用を認められる」として、大学の自治の主体は研究者のものであり、学生は大学の自治の主体ではないと指摘されました。もっとも、学問の自由は、大学における学者だけに保障される人権ではなく、国民すべてに保障される人権であると解されています。

 

東大ポポロ事件

東京大学の構内で大学公認の学生団体「ポポロ劇団」が大学の許可を得て開催した演劇発表会の観客席に、学生の情報収集のために潜んでいた私服警察官が、学生たちに発見されて逃げようとしたものの、学生たちに掴まえられ、暴力を受けた上に警察手帳を奪われた事件で、学生たちは暴力行為等処罰法違反で起訴されました。

 

裁判では、私服警官の潜入が大学の自治に反するのではないかが争われましたが、判決では、この場合の学生の集会は、大学の学問的研究発表の場ではなく、政治的社会的活動であったことから、この時の事件は大学の自治の範囲外であるとして学生側は有罪との判決が下りました。

 

また、私服警官の潜入という行為は合憲と判断されました。その理由としては、大学の自治は、直接には教授その他の研究者の研究活動のためのものであるから、学生が実生活の政治的社会的に当たる集会を開催する場合に、その集会に警察官が立ち入っても、大学の自治を侵害するものではないとされました。加えて、大学の自治も治外法権を意味するものではないから、大学の施設管理権を理由に、犯罪捜査のための警察官の構内立ち入りを拒否することはできないと>結論付けられたのです。

 

このように、学問の自由は広範囲に保障されていると解釈されています。さらに最近では、教師の教育の自由、生徒の学習の自由、学校選択の自由なども、学問の自由に含まれるとの考え方もでています。

 

以上、日本国憲法23条に定められた「学問の自由」を解説してみましたが、今回、菅総理が、日本学術会議の新会員候補のうち6人の任命を拒否した行為は、「学問の自由」の侵害だと思われますか?

 

<参考投稿>

日本国憲法:まじめな解説 幸福追求権(13条)

日本国憲法;まじめな解説 表現の自由(21条)

 

 

<参照>

憲法(弘文堂、伊藤真)など

 

 

2020年10月08日

世界史:ドイツ騎士団とは?

これまで、三大騎士修道会と言われた、聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)テンプル騎士団について説明してきました。今回は、ドイツ騎士団についてです。聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団とは異なる展開をみせたドイツ騎士団の興亡は、あまり知られていない東欧史を教えてくれます。

―――

 

  • ドイツ騎士団の成立

 

ドイツ騎士団(正式名称「ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」)は、1190年、エルサレム陥落後の第3回十字軍中に創設されました。文字通りドイツ人を主体とする組織でした。聖地エルサレムへ赴いたドイツ人戦士を保護するために、リューベックとブレーメンの商人が、聖ヨハネ騎士団の施設をまねて建てた野戦病院が起源で、1192年に、教皇ケレスティヌス3世に承認されました。

 

テンプル騎士団と聖ヨハネ(ホスピタル)騎士団より創設が遅れた理由は、第1回十字軍はフランス・イタリアが中心で、ドイツでは神聖ローマ皇帝が叙任権問題などでローマ教皇と対立していたので、十字軍に参加した諸侯はわずかだったからです。しかし、第3回十字軍(1189~1192)では、フリードリヒ1世(バルバロッサ)が本腰を入れて参加したことが施設建設のきっかけとなりました

 

野戦病院は、ドイツ諸侯の保護を受けながら発展し、1198年に、テンプル騎士団を模した聖地の警護も行う修道騎士団に改組され、ドイツ騎士団となり、翌年にはローマ教皇インノケンティウス3世により公認されました。当初は、エルサレムに代わる聖地の臨時首都だったアッコンを本拠地にし、1220年にアッコンの北東に位置するモンフォール城を購入して本部としました。

 

ただし、ドイツ騎士団は、聖地ではあまり活動せず、ドイツに拠点を置き、バルト海方面の異教徒に対する北方十字軍に参加し、東方のスラヴ系の地域に進出していました。

 

 

  • 北方十字軍とドイツ騎士団領

 

1193年、ローマ教皇クレメンス3は、北欧・東欧およびバルト海沿岸地域をキリスト教化するための遠征を呼びかけました。カトリック教国であるデンマーク、スウェーデン、ポーランドに加えて、ドイツ騎士団や他の修道騎士団も後に参加しました(これを北方十字軍とよ呼ぶ)。

 

現在、ドイツからバルト海に沿って東は、ポーランド、バルト3国(リトアニア、ラトビア、エストニア)と続いていますが、当時は様相が異なっていました。まず、バルト海に面した現在のポーランド海岸地方一帯は、地名としてプロイセンと言われていました(ポーランドの支配下にはあった)。なお、この時代のプロイセン人は、後にドイツ帝国を建設するプロイセン人と区別して古プロイセン人と呼ぶことがあります。

 

また、中世のリトアニアは、今と違って、現在のベラルーシ、ウクライナ、ロシアの一部にまたがる広大な領土を保持する大国でした。そして、リトアニアからラトビア、エストニア南部にまたがる地域はリヴォニア(リボニア)と呼ばれていました。

 

さて、北方十字軍の展開ですが、1202年に創設されたリヴォニア帯剣騎士団(リヴォニア騎士団)が、ラトビアからエストニア一帯を征服しました。しかし、プロイセン地方に住むバルト諸部族は強い抵抗を示し、しばしばポーランドに反攻して略奪を行うなど、不安定な状態が続いていました。そこで、このプロイセン人の攻勢に耐えかねたポーランド北部を領するマゾフシェ公コンラートは、1225年にドイツ騎士団を呼び寄せ、プロイセン諸部族に対する防衛を担当させようとしました。

 

ところで、ポーランドに入る前のドイツ騎士団ですが、パレスチナでの十字軍の勢力が弱まり、大きな成果を出せない中、存在意義も失いつつありました。そうした中、1211年、ハンガリー王・アンドラーシュ2世は、ドイツ騎士団に対して、現在のルーマニア中部にあたるトランシルヴァニアに所領を与える代わりに、ハンガリーの領土を異教徒から守る防衛の役割を担うという案をもちかけます。

 

これに応じた騎士団は、ハンガリー国王の配下に入り、活動しました。ところが、自分たちは国王ではなく、教皇に対して忠誠心があることを表明し、ハンガリー王国から独立した領邦国家を形成し始めたのです。この騎士団の動きに警戒心を募らせたアンドラーシュ2世は、1225年、騎士団をトランシルヴァニアから追放しました。

 

ハンガリーから国外追放となったドイツ騎士団が次に向かったのがポーランドでした。マゾフシェ公に招かれドイツ騎士団は、1229年、プロイセン地方における非キリスト教徒の改宗と征服活動に従事する事になりました。ドイツ騎士団は、プロイセン人(プルーセン人)の鎮圧を見返りに、その居住地域を共有する権利を認められ、1230年に、彼らを征服した後、バルト海南岸のマリエンブルク(現ポーランドのマルボルク)を本拠地とする宗教的国家、「ドイツ騎士団国ドイツ騎士団領)」の創設に成功しました。

 

その後もプロイセン地域への拡大を続けたドイツ騎士団は、1260年までにプロイセンの過半を支配下に収め、1283年までほぼ平定させました。こうしてドイツ騎士団による13世紀末までにプロイセンの支配を確立させたのでした。

 

さて、ラトビア・エストニアを征服していたリヴォニア(帯剣)騎士団は、現在のリトアニア北西部に位置するサモギティアを巡って、1236年、サモギティア・リトアニア軍との戦い(「ザウレの戦い」)に敗れてしまいました。そこで、ドイツ騎士団は、リヴォニア騎士団を吸収し、勢力を拡大させました(リヴォニア騎士団は以後、ドイツ騎士団内の騎士団として存続)。

 

当時、リトアニアのサモギティアという場所は、プロイセンとリヴォニア(ラトビア・エストニア)の間に位置しました。このため、ドイツ騎士団にとって、この地を征服すれば、ドイツ騎士団国の領土は一つに繋がるので、是が非でも獲得しておきたい場所でした。ですから、ドイツ騎士団は当然、北欧の大国リトアニアと、さらには東欧の大国ポーランドとも継続的に争うことになります。

 

ところで、パレスチナの情勢は厳しく、1291年、十字軍の最後の拠点アッコンが陥落し、十字軍は撤退を強いられると、ドイツ騎士団は、本拠をアッコンからベネチアに移し、他の騎士団らと共に聖地奪回を図ろうとします。ところが、1307年にテンプル騎士団がフランス王フィリップ4世によって壊滅させられたことを知ると、1309年、ドイツに帰国し、プロイセンのマリエンブルク(現ポーランドの北部の都市)を本拠地とすることで、ドイツ騎士団国(ドイツ人国家「騎士団領」)の経営に力を入れることにしました。

 

例えば、1310年頃までに、バルト海に面した港湾都市、ポメレリアとダンツィヒを、ブランデンブルク辺境伯(11世紀にドイツ人が進出して作った領邦)とともに、ポーランドから獲得しました。海への出口を塞がれたポーランドとこの後、対立することになりますが、これで、神聖ローマ帝国と騎士団領を結ぶ事ができました。

 

こうして、ドイツ騎士団領の領域は、現在のポーランド北部から、バルト三国に及ぶ、バルト海南東岸一帯に拡がる領邦国家を形成し、ドイツ騎士団(国)は、バルト海での海上貿易を抑えるなど、14世紀には全盛期を迎えました。

 

 

  • リトアニア=ポーランド王国

このようなドイツ騎士団の東方進出に対して、危機感を募らせたのが、当時大国であったリトアニアとポーランドでした。そこで、両国はドイツ騎士団領に対抗するために1386年に合同して、リトアニア=ポーランド王国となりました。

 

きっかけは、リトアニア大公ヨガイラが、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚したことでした。しかも、ヨガイラはカトリックに改宗したので、ドイツ騎士団は、リトアニアの異教徒(多神教徒)をキリスト教に改宗させるという戦い(十字軍)という大義名分を失ってしまったのです。そうすると、他のキリスト教国からの人的・物的援助を期待できなくなってしまいます。

 

もっとも、この時期、ドイツ騎士団は、リトアニアにおける内紛に乗じて、念願のサモギティアを得たことで、領土を最大にすることができましたが、ポーランドとリトアニアが同君連合になるということは、ドイツ騎士団国家は両大国に囲まれて、地政学上、極めて不利な状況になりました。

 

1410年7月15日、ポーランド軍とリトアニア軍の連合軍は「ジャルギリス(タンネンベルク)の戦い」でドイツ騎士団に、総長以下、多数の幹部が戦死する壊滅的な打撃を与える大勝利を収めました。

 

その後も、ドイツ騎士団とポーランド=リトアニアとの領土争いは続き、両者は、フス戦争とリトアニア内戦を介しても戦いました。

 

1414年からのコンスタンツ公会議の結果、ボヘミアの宗教改革者フスが焚刑となり、怒ったフス派の信徒が神聖ローマ皇帝ジギスムントに対して起したフス戦争が、1419年から始まると、ジギスムントはドイツ騎士団の協力を求めたのに対して、フス派はポーランド=リトアニアに支援を要請しました。その結果、1433年にフス派軍はポーランドと共にドイツ騎士団領に侵攻して勝利し、バルト海まで攻め込みました(最後は和睦)。

 

また、リトアニア大公国では、1431年から大公ヴィタウタスの死去により、リトアニア継承戦争が起きると、対立する両陣営にそれぞれ、ドイツ騎士団(主力はリヴォニア騎士団)・皇帝ジギスムントと、ポーランド・フス派がつくと、騎士団は再びポーランドに侵攻しましたが、1435年の「パバイスカスの戦い」で、リヴォニア騎士団は大敗してしまいました。

 

さらに、ドイツ騎士団は、1454から1466年まで続いたポーランド=リトアニア王国との十三年戦争で敗れました。そのため、プロイセンの西側(西プロイセン)はポーランド王国に組み込まれ、バルト海への出口グダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)を奪われました。結果として、ドイツ騎士団領はプロイセンの東側(東プロイセン)のみとなり、ドイツ本国と切り離された形となりました。

 

 

  • ドイツ騎士団領からプロイセン公国へ

 

16世紀には、ドイツ騎士団長のホーエンツォレルン家アルブレヒトが、宗教改革を唱えるマルティン・ルターに感化され、カトリックからプロテスタントに改宗しました。その間も続いていたポーランドとの戦いでは相次いで敗れ、1525年4月、ドイツ騎士団はついに、ポーランドに降伏しました。これは、ドイツ騎士団の解体を意味しましたが、ポーランド王ジグムント1世は、実は甥でもあった騎士団長アルブレヒト・ホーエンツォレルンを初代プロイセン公に任命しました。

 

残りのドイツ騎士団領(東プロイセン)もポーランドの宗主下に置かれることになりましたが、結果的にドイツ人国家「ドイツ騎士団領」(西プロイセンと東プロイセン)は、ポーランド王の宗主権の下で、プロイセン公国と生まれ代わりました。(このプロイセン公国が、1701年、ブランデンブルク選帝侯国と合体し、ドイツ帝国の前身となるプロイセン王国に昇格する)。プロイセン公国では、かつてのプロイセンの自治は認められ、その領土の一部は神聖ローマ帝国内に残っていたので、神聖ローマ帝国諸侯の地位を維持しました。

 

また、ここまで、何とか独立を維持していたリヴォニア騎士団も、バルト海への進出を目指すイワン雷帝のロシアと、リヴォニア戦争(1588~61)を戦い惨敗し、1561年に、ポーランド・リトアニア連合に吸収されました(実際はポーランドの宗主下に入った)。

 

これで、ドイツ騎士団領は消滅しましたが、ドイツ騎士団は、形式的には存続し、1761年以降はハプスブルク家が、騎士団の総長を務めてきました。しかし、1809年にナポレオンの命令によって軍事的組織としては解散させられ、以後は現代まで、ドイツ騎士団は、慈善団体カトリックのドイツ修道会として、慈善活動を継続しています。

 

 

<参照>

東方征服 ドイツ騎士団(Zorac歴史サイト)

世界史の窓

世界史の目

中世を旅する

Wikipediaなど

 

 

2020年10月04日

世界史:テンプル騎士団とは?

前回の投稿では、マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)について解説しました。今回はマルタ騎士団とともに中世の三大騎士団の一角とされたテンプル騎士団を取り上げます。

――――

 

  • テンプル騎士団とは?

 

テンプル騎士団、正式名称「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」は、中世ヨーロッパの宗教騎士団の一つで、第1回十字軍(1096年~1099年)」の遠征後の1119年に誕生しました。

 

第1回十字軍は、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還し、エルサレム王国を創設しましたが、内部対立などから、「事後処理」をすることなく帰国してしまいました。第1回十字軍の後、聖地エルサレムには、ヨーロッパから多くのキリスト教徒が巡礼に押し寄せました。しかし、エルサレムの周りの地区はイスラム教徒の支配地で、エルサレムに向かうキリスト教徒は攻撃の対象になるなど、パレスチナでは、キリスト教とイスラム教の対立が激しさを増していました。

 

そうした状況下、1118年、十字軍国家であるエルサレム王国のボードワン2世の下に、フランスのシャンパーニュ伯ユーグ1世の臣下であったユーグ・ド・パイヤン(ペイヤン)以下9人の騎士たちが集結し、十字軍に代わり、清貧・貞潔・服従をモットーとして、聖地巡礼に向かうキリスト教徒を保護する誓いを立てました。こうして、翌1119年、パイヤンを初代の騎士団長とするテンプル騎士団が生れたのです。

 

これに対して、エルサレム王ボードワン2世は、騎士達の本拠地として、王宮の東側に位置する、かつてソロモン王が創建し、「ソロモンの栄華」で有名な、古代のソロモン神殿(エルサレム神殿)があった場所(「神殿の丘」)を、騎士達に与えました。

 

このソロモン神殿(テンプル)にちなんで、パイヤンらの騎士団は「テンプル騎士団」と命名され、9名の修道騎士達は「キリストとソロモン神殿の騎士達」と呼ばれる騎士団の正式名称にもつながりました。

 

さらに、創設から10年後の1128年、騎士団は、ローマ教皇ホノリウス2世(在1124~1130)から「キリストの貧しき騎士にしてエルサレムなるテンプル騎士修道会」として、教皇に直属する修道会として、公認されました。この教皇認可は、シトー修道会の聖ベルナールから教皇への強い働きかけがあったとされています(聖ベルナールはテンプル騎士団創設にも深く関わったと言われている)。

 

もともと、騎士団のメンバーは、勇敢であるばかりか高潔であるという評判があった中、騎士団にローマカトリック教会の正式認可が下ると、ヨーロッパ中の富裕層からは豊富な資金援助が集まり始めるとともに、騎士団には名門一族の子弟たちからの入会志望者が続出するようになりました。ただし、入会できるのは、騎士の誇りを守るために男子のみで、その祭服は、白い長衣の上に赤い十字架のマークをつけているのが特徴です。

 

 

  • 十字軍とテンプル騎士団

 

ローマ教会は、1147年、イスラム勢力が再び攻勢に出てきたことを受けて、第2回十字軍(1147~1148)を興しました。この時、テンプル騎士団は十字軍に初参加し、フランス王を救援する活躍をみせました(この時の十字軍そのものは目的を達することができずに退却した)。

 

その後も、約150年近く続いた十字軍の遠征に参加したテンプル騎士団は、常に士気も高く、十字軍の当初目的に忠実に活動した結果、失敗が続く十字軍側で随一の成果を上げたと評価されています。

 

聖地での活躍と幾多の功績に対して、騎士団には数多くの寄進が集まるとともに、様々な特権も与えられました。例えば、修道士や騎士団は貴族らから支援を受けた場合、捧げ物の十分の一を教会に納めなければならないという「十分の一税」をテンプル騎士団は免除されていたと言われています。

 

こうした富の蓄積によって、テンプル騎士団は、「軍事力」に加えて、「経済力」も兼ね備えるようになっていきました。十字軍から護衛料、入会者から入会金をとり、さらに免税特権などもあって、騎士団は財政を自由に運営することができました。また、テンプル騎士団に限らず、修道会は原則、会員は私有財産をすべて喜捨して入会したそうです。そのため会員数が多く、しかも貴族会員の割合が大きいテンプル騎士団には、それだけ入ってくるお金は膨大でした。

 

このように、テンプル修道会は富裕化し、やがて金融業を営むようになりました。現代の「トラベラーズ・チェック TC」も騎士団から始まりました。巡礼者達は、現金を持ち歩かなくてもいいように、ヨーロッパ本国で騎士団にお金を預け、その金銭に相応しい手形書類を受け取り、聖地で現地貨に換金することで、安心して巡礼に旅立つようになったのです。

 

こうした確かな安全と精度の高い金融システムを多くの国にまたがって構築し、テンプル騎士団は巨大な組織に成長していきました。

 

 

  • テンプル「金融帝国」

 

しかし、「第8回十字軍」の遠征後の1291年、十字軍最後の拠点であったアッコンが陥落し、十字軍は失敗のうちに終焉しました。このため、テンプル騎士団の聖地防衛と巡礼者の保護という「聖なる大義」は消滅してしまい、騎士団は、本部をエルサレムからキプロスに移し、本国フランスをはじめヨーロッパへ撤退していきました。

 

十字軍終了後、聖地エルサレムをイスラムに再び奪われたことにより、テンプル騎士団は多くの領地と名誉を失いましたが、それでもそれまで蓄積された莫大な富を生かして、財務管理を含めた今日の「銀行」業務を行うことで、その活動の幅を広げていきました。

 

騎士団は、欧州の王侯貴族への資金の貸し出しを増やしていき、欧州の君主国にとってメインバンク(主力銀行)の機能を果たすまでになっていきました。これは、テンプル騎士団が国際取引を行うことができる銀行シスいテムが歴史上初めて構築していたことを意味しています。このヨーロッパ内の国際金融システムの運営によって、テンプル騎士団は、後に財宝伝説も語り続けられるぐらい財政で巨万の富を築いていきました。

 

テンプル騎士団はまた、ヨーロッパから中東にいたる広い地域で多くの土地を買い占め、農園や果樹園などを運営し、さらに莫大な収益を上げました。アッコン陥落後、本部機能をエルサレムから移したキプロス島もテンプル騎士団が所有していた土地でした。

 

 

  • フィリップ4世の謀略

 

これに対して、一修道士の団体にすぎない彼らが、貪欲なまでに富を追求し、ヨーロッパ諸国の財政を牛耳っていることに対して、「恐怖の騎士団」と批判する王侯貴族や商人が現れてきました。その急先鋒でテンプル騎士団にとって致命的な存在となったのが、フランス国王で端麗王とも呼ばれたフィリップ4(在1285~1314)でした。

 

フィリップ4世と言えば、ローマ教皇・ボニファティウス8世を捕らえたアナーニ事件(1303年)や、教皇庁をローマからプロヴァンス地方アビニョンへ移した「教皇のバビロン捕囚」(1309~1377)を実行した人物です。

 

この当時のフランスは、北方イングランドやフランドルとの戦争が続き、「テンプル騎士団への莫大な借金に喘ぎ、国の財政が危機に瀕していました。この時、フィリップ4世が目をつけたのが、騎士団の膨大な資産でした。

 

巨大な資金力と支配力を誇示していたテンプル騎士団の存在を嫌ったフィリップ4世は、騎士団に対して、負債免除(借金を帳消し)をさせ、その財産を手に入れようと報復を企てます。さらに、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を一つにして、宗教騎士団を自身の管理下に置こうと考えていたと言われています。

 

フィリップ4世は、テンプル騎士団のジャック・ド・モレー総長(団長)にその要求を突きつけますが、当然拒否されます。すると、1307年10月、国王の意を受けたとされる教皇クレメンス5の命令により、モレーを含む数百人の騎士(団員)が逮捕され、異端の罪で起訴されました。

 

テンプル騎士たちは、黒魔術や悪魔信仰、男色行為、児童虐待、キリスト冒涜(反キリストの誓い)などさまざまな罪状で異端審問にかけられました。尋問は凄惨を究め、自白強要のため鞭打ち、足砕き、睾丸責めなどの拷問が行われたと言われています。拷問に耐えた者は衰弱して死亡し、判決は自白した者は終身刑、自白を拒否または撤回した者は偽証罪で火刑となったと言います。彼らの罪状はでっち上げであったとされ、濡れ衣を着せられた多くの騎士たちは火あぶりで処刑されてしまったのです。

 

1311年、ヴィエンヌ公会議開催され、教皇クレメンス5世は、テンプ騎士団の活動停止命令を出し、翌年、テンプル騎士団は、強制的に解散(廃止)させられました。その巨万の資産も大半も政府によって没収されました。また、残されたテンプル騎士団の利権は、聖ヨハネ騎士団に有償で譲渡されています。

 

このように、中世の時代に名をはせたテンプル騎士団は、突然の王権の介入によって、滅亡してしまいました。もっとも、ポルトガル王国の支部のように「キリスト騎士団」と名を変えて存続しているところもあります。

 

5年を超える拷問を耐え抜いた騎士団長ジャック・ド・モレーやメンバーの一部は、解散命令から2年後の宗教裁判を経て火あぶりの刑に処されました。団長モレーは、処刑の日、公衆の面前で「我々は今ここに真実を告げる、騎士団員は全員無実で、自白は偽りで、全て拷問による強要であった」と高らかに演説しました。火中でも最期まで祈り、騎士団の正義とフィリップ4世の非道を主張し続けたと言われています。なお、余談ですが、モレ―は、火中、呪いの呪文をかけたと噂され、実際、フィリップ4世もクレメンス5世も1年以内に死亡しています。

 

 

  • 回復された名誉といま

 

テンプル騎士たちの逮捕と処刑から騎士団の強制解散は、負債免除と彼らの資産没収を行おうとしたフィリップ4世による策略であったことが明白だったのですが、その後、何年も、テンプル騎士団の異端という汚名は、無批判に受け入れられていました。

 

ようやく、19世紀以降、歴史学者らからこれに疑義が呈されるようになり、現代のローマ・カトリック教会は、「テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったこと、また、テンプル騎士団の解散の決定も、当時の社会からの批判に流されたものであった」と結論づけたことから、テンプル騎士団は、名誉を回復しています。

 

なお、テンプル騎士団は、その栄華と没落が極端でかつ唐突であったことから、様々な伝説が語りづかれています。中には、数々の財宝伝説やフリーメーソン発祥伝説など陰謀論(都市伝説)もあります。映画「ダ・ヴィンチ・コード」でもテンプル騎士団が登場しました。

 

また、テンプル騎士団の入会は、秘密儀式が行われていたとか、テンプル騎士団の人たちは、錬金術、数秘学、ユダヤ教のカバラ思想の研究が行われいたとか言われ、謎めいた宗団であったとの指摘もあるなど、現代でも話題を提供してくれています。

 

 

<参照>

テンプル騎士団とは(ピクシブ百科事典)

テンプル騎士団について(バラ十字会日本本部公式ブログ)

5分でわかるテンプル騎士団!

世界史の窓

Wikipediaなど