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2020年09月17日

仏教:空海と真言宗

前回の投稿「最澄と天台宗」に続き、今回は、最澄とともに必ず語られる空海と、彼が開いた真言宗についてまとめました。

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真言宗(高野山金剛峰寺)は、弘法大師・空海を開祖とした日本で唯一の純粋な密教で、大日如来を本尊とし、大日経金剛頂経(こんごうちょうぎょう)が主な経典として扱われています。

 

真言宗は、諸尊の加護を求める貴族などに対して、加持祈禱がしばしば行われるなど、個人の現世利益を願う宗派として発展しました。また、真言宗は皇室と縁が深く,大覚寺,仁和寺等の門跡寺院が多くあります(門跡:皇族・公家が住職を務める特定の寺院)。

 

 

  • 密教と三密加持

 

密教というのは、大乗仏教の中の秘密教(秘密仏教)で、大日如来が直接説いた教えをいい、教えを修めた限られた人たちの間でのみ信仰が許されるとしています(これに対して、歴史上の釈尊が説いたとされる教えを顕教(けんぎょう)と呼ぶ)。なお、真言宗の密教は東密(とうみつ)、天台宗の密教は台密(たいみつ)と呼ばれれます。

 

大日如来は、宇宙の本体(そのもの)であり、宇宙の絶対の真理を現す根源的な生命などと表現されます。言わば、真理そのものである絶対的な根本の仏(仏教ではこれを法身仏(ほっしんぶつ)という)であり、この世の最高位の存在とされます。

 

生きとし生けるものは、大日如来の顕現であり、すべての仏は大日如来につながり、その化身と考えられています。私たちの存在も大日如来から生まれたので、人間もこの肉身のままで、生きていながら、究極の悟りを開き、仏になることができるとされます。これを即身成仏といい、真言宗の教義の柱となっています。そのためには「三密加持(さんみつかじ)」の実践が必要と説かれます。

 

「三密加持」の「三密」とは、大日如来の身体と口と心(身・口・意)のことで、それぞれ「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」を指します。「加持」とは達成することをいいます。真言宗では、衆生と仏(大日如来)とは本来同一であるから、身・口・意の三密行に努めれば、即身成仏することができるとしています。

 

具体的には、衆生が、身(身体)に、本尊を現す印(ムドラー)を手で結び(身密)、口に仏の真の言葉である真言(マントラ=呪文)を唱え(口密)、ご本尊の姿を心(意)に思い描き(=観ずる)、心を仏の境地に置く、つまり私たち衆生も大日如来と同じ心になり(意密)ます。その時、それがそのまま仏の三密と相応して、如来の力が衆生に加えられ、仏(大日如来)と同一(一体)となるとされます(これが即身成仏)。

 

なお、真言宗には、意密の実践の中に、生滅のない実在を体得できるとされる「阿字観」と呼ばれる瞑想法(観法)があります。

 

真言宗では、そうして、即身成仏した人々がともに高めあっていくことで、理想の世界である「密厳仏国土(みつごんぶっこくど)」(「密厳浄土(みつごんじょうど)」)が実現するとしています。密厳(仏)国土とは、大日如来のいる浄土のことであり、一切の現実経験世界の現象はこの如来そのものであると考えられているので、この世界が浄土にほかならないと説きます。

 

 

  • 曼荼羅

 

大日如来を中心に、宇宙に遍満する生きとし生けるものを仏の姿で表した世界観を、図画でもって示し、現実世界がそのまま理想世界であることを示すものとして、曼荼羅があります。密教の悟りの世界を象徴的に表す曼荼羅には、「金剛頂経」に説かれる金剛界曼荼羅と、「大日経」に説かれる胎蔵界曼荼羅の2つの世界から成ります。

 

ダイヤモンドのことを指す金剛とは、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味し、金剛界曼荼羅には、悟りを得る為に必要な智慧の光が表されています。胎蔵とは母親の母胎のようにあらゆる森羅万象が大日如来の中に包み込まれていることを意味し、胎蔵曼荼羅は、無限の慈悲の広がりを象徴しています。この2つの曼陀羅が揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が完成するとされています。

 

空海も、主著「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の中で、人の精神の程度や価値観のレベルを10段階に区分して、全く善悪の判断もできない最も程度の低い段階(第一住心)から、心の持ち方が向上して、大日如来と同レベルに達する最終段階(第十住心)までを説いています(これを十住心思想という)。

 

 

  • 空海の生涯

 

空海は、774年6月15日、四国・讃岐国多度郡(たどのこおり)に誕生しました。幼名は真魚(まお)といいました。父の佐伯田公(さえき・たぎみ)は、讃岐国の有力な豪族で、母の玉寄御前(たまよりごぜん)は、物部氏と同祖伝承を有する氏族とされる阿刀氏(あとうじ)の人でした。

 

空海は、15歳にとき、母方の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)の奨めにより都(長岡京)で漢学を学び、18歳で大学(官吏養成の最高学府)に入学します。しかしこの頃より、政治や学問への疑問や虚しさを感じ始め、大学を出奔して、無空と名乗り、私度僧(得度を受けていない修行僧)として山岳修業に身を投じたとされています。

 

798年、24歳のとき、最初の著書「三教指帰(さんごうしいき)」を執筆し、儒教・道教・仏教の三つの教えのすぐれた点を指摘しつつ、その中でも仏教が最高のものだと説きました

 

803年、空海は、阿刀大足に留学僧(るがくそう)として遣唐使の一行に参加できるよう朝廷にはたらきかけてくれるように懇願した結果、朝廷から入唐を認められました。入唐の直前、東大寺の戒壇院(かいだんいん)で受戒し、正式に僧となりました(この時から空海と名乗ったとみられる)。

 

20年間帰国禁止の私費留学生として、804年に、苦労して唐に入った空海は、翌年、インドから中国に伝えられていた当時最高の密教の正統を継ぐと評判の高かった青龍寺の恵果和尚(けいかおしょう)から、真言密教を学び、密教の奥義・秘法や、密教の法具・経典・技術書・曼陀羅・法衣の総てをことごとく伝授されたとされています。そのための儀式である灌頂(かんじょう)を受けた際、恵果和尚から「遍照金剛」(へんじょうこんごう)の名前を授かりました。

 

恵果和尚は、日本に早く帰って密教を広めることを願いながら、その年の12月15に亡くなりました。師の意を受けた空海は、20年間の滞在義務を破り、806年に帰国しました。ただし、当社は、当時の平城天皇から入京を許されませんでしたが、次の嵯峨天皇の時代に許され、高尾・神護寺に滞在しました(ここで最澄らとの交流があった)。

 

唐から帰国後、多くの書物を著して真言密教の教理を体系化した空海は、真言宗を立宗します。816年(弘仁七年)に、高野山を開山、金剛峯寺(本尊:薬師如来)を修禅の道場として開創しました。823年(弘仁十四年)には、嵯峨天皇より勅賜された京都の東寺(教王護国寺)(本尊:薬師如来)を真言密教の根本道場とし、さらに、その隣接地には、日本初の庶民の学校である綜芸種智院を開学しました。ほかにも、讃岐の萬濃池や大和の益田池の修築など社会事業にも携わりました。こうして、密教をもって平安仏教を空海は、835 年3月21日、高野山で入定(入寂)しました。61歳でした。

 

 

  • 空海後の真言宗

 

空海の入定後、金剛峯寺(高野山)は空海の甥とされる真然(しんぜん/しんねん)(不詳~891年)、東寺(教王護国寺)は高弟の実慧(じつえ)(786~847年)、神護寺は、高弟真済(しんぜい)(800~860年)がそれぞれ継承しました。

 

その後、高野山は火災に遭い山上の伽藍が全焼し、その修復もままならないほど一時衰微するに至りましたが、時の権力者、藤原道長などの寄進により復興するに至りました。ただし、平安時代後期、僧侶の堕落停滞から、真言宗没落が取り沙汰されました。

 

この状態を歎き、高野山と密教を弘法大師の遺志にそうよう復興に努めたのが、高野山金剛峯寺の高僧覚鑁(かくばん)(1095~1143)でした。覚鑁(興教大師)は、鳥羽上皇の庇護を受け、学問探究の場である「大伝法院(だいでんぼういん)」、修禅の道場でもある住房「密厳院(みつごんいん)」を高野山上に建立しました。1134年には、大伝法院座主に就任しただけでなく、金剛峯寺座主職を兼ねた覚鑁は、真言諸派の教義をまとめ、当時盛んになりつつあった浄土教との調和も説いた真言教学を大成させました。さらに、伽藍の復興や高野山の運営の刷新を断行するなど、文字通り真言宗団を中興させました。

 

しかし、現状維持を望む保守派である金剛峯寺方(本寺方)が覚鑁(大伝法院方=院方)に反発し、両者に所領境界の争いまで起こった結果、1140年、覚鑁(派)は高野山を離れ、紀州の根来(ねごろ)に移りました。

 

1143年の覚鑁入寂後、覚鑁派は再び大伝法院を高野山に戻しましたが、金剛峯寺派との確執は収拾できませんした。その後、頼瑜(らいゆ)(1226〜1304)が出て、大伝法院を再び根来山に戻し、覚鑁の教義を発展させ、教義の基礎を確立した上で、新義真言宗として独立させました(なお、新義真言宗に対して、東寺や金剛峯寺など従来の真言宗は後に古義真言宗と呼ばれる)。

 

戦国時代、新義真言宗の総本山、根来寺(開祖:覚鑁)(大殿法院の後身)は、約6千人もの学僧を擁しただけでなく、僧兵集団「根来衆」を抱えるなど大きな勢力を備えるまで発展しました。しかし、こうした強大な寺社勢力の存在を危惧した豊臣秀吉は、1585年に根来山に攻め込み、一部の堂塔を残して全山焼失させてしまいました。

 

その後、専誉(せんよ)と玄宥(げんゆう)の二人の能化(のうけ)(=長老・学頭)は,それぞれ大和長谷寺,京都智積院(ちしゃくいん)に移りました。こうして、新義真言宗は、大和長谷寺を中心とした豊山派(ぶざんは)と、京都の智積院を中心とした智山派(ちさんは)とに分かれていきました(現在の真言宗豊山派と真言宗智山派の基礎を築いた)。これは、勢力を分散させようとした豊臣秀吉の宗教政策の結果でもありました。

 

一方、秀吉による焼き討ち後、根来寺はしばらく復興を許されませんでしたが、江戸時代に入り、紀州徳川家の保護を受けて、主要な伽藍が復興されました。また、1690(元禄3)年には、東山天皇より覚鑁上人に、諡号として「興教大師」が下賜されました。

 

明治維新や昭和の戦時における宗教政策の一環として、新義真言宗と古義真言宗は統一合同させられましたが、戦後は、真言宗豊山派、真言宗智山派など多数の宗派があり、現在、総本山に高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)を筆頭に18の宗派(本山)に分かれています。

 

 

<参照>

真言宗の教え 真言宗豊山派

曼荼羅(仏像ワールド)

密教のおはなし|全真言宗青年連盟

真言密教修法の基本「三密加持」とは?

真言宗豊山派 興教大師

根來寺の歴史 – 根来寺

Wikipediaなど