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2020年09月29日

キリスト教:異端と魔女狩り

前回の投稿「修道院運動の盛衰」でドミニコ修道院が積極的に異端尋問に関わったことにふれましたが、今回は中世におけるキリスト教会の異端尋問と魔女狩りについてまとめてみました。

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  • 異端とは?

 

ローマ・カトリック教会において、異端は、「悪魔が神の意に反する誤った教えを神の教えのように見せかけて人々を騙すこと」と考えられ、異端者とは、「キリスト教徒を名乗りながら、正統な教えから外れる信条を持つ人」のことを言うと定義づけられています。

 

もっとも、最初は、多神教徒をキリスト教化する布教の段階では、まずキリスト教徒にすることが重要と考えられ、教義の細かな違いには寛容だったそうです。ですから、各地の教会では現地の異教由来の風習が残っている所もあり、初期キリスト教会は、地域色が強くでていたと言われています。

 

それが、11世紀のグレゴリウス7世による教会改革(グレゴリー改革)で、「教皇庁(教会本部)で決めた教えが全てのカトリック教会で同じように伝えられるべき」と教義の統一が重視されるようになりました。それ以降、異端とは、「ローマ教皇庁の見解から外れる考え方や信条」とされ、異端(者)は忌み嫌われるようになりました。この11世紀以降、ヨーロッパのキリスト教社会では教皇権が絶頂に向かう時期でもありました。

 

その一方で、1095年から始まった十字軍の影響で盛んになった東西の交流の過程で、新たな思想も流入するようになると、ローマ教会の権威を否定し、ローマ教皇庁の教義とは異なる「異端」の考え方も各地で広まるようになりました。

 

 

  • ワルド派とカタリ派

 

異端とされた中世の代表的な宗派が、12世紀末に現れたワルド派とカタリ派です。いずれもペルシア起源のマニ教の影響を受け、善と悪、精神と物体など二元論的な世界観を持っています。その教義は、教会の権力や富を否定し、イエスの時代に帰り、清貧を有るべき信仰の姿と考えて実践しようとする共通性がありました。

 

ワルド派

ワルド派は、フランス王国のリヨンの富裕な商人であったピエール=ワルドーが、1173年に、その家財をなげうって、使徒の生活にならった清貧を実践しながらキリストの福音を広めようとしたことから始まりました。その信奉者は「リヨンの貧者たち」と言われ、ワルド派は、リヨンを中心にフランス南部に広がっていきました。

 

当初は熱心な布教団体としてローマ教会からも認められていましたが、彼らの活動が教会の聖職者の統制の外で広がっていくことに警戒するようになったローマ教皇庁は、1179年、ワルド派の信仰に対し、神学者に審判に当たらせ、1184年に異端と断定しました。しかし、ワルド派は南フランスからイタリアのロンバルディア、さらにドイツ、スペイン、ボヘミアに拡大していきました。

 

カタリ派

カタリ派は、もともと10世紀半ばに現れ、12世紀にワルド派とともに広く知られるようになり、中世の最大異端セクトと言われました。彼らは南フランス、アルビを中心としたトゥールーズ伯領に集中していたことから、アルビジョワ派(アルビ派)とも呼ばれました。

 

その根本思想は、「神により創造された精神が、悪により創造された肉体・物質に囚われている」というもので、清浄派・清純者の意であるカタリ(Cathari)という宗団名からも類推できるように、彼らは、極度に禁欲的な戒律を奉じました。また、カタリ派(アルビジョワ派)は、旧約聖書やローマ教皇の権威を認めず、ローマ教会を悪魔の教会として攻撃するなど、過激に教会制度を否定し、自らがキリストの真の教会と主張しました。

 

当初は正しい教えの説教・説得により解決を計ったローマ教皇庁でしたが、その広がりを抑えられず、ローマ教皇インノケンティウス3世(在位:1198~1216)は、フランス国王フィリップ2世に十字軍派遣を要請し、1209年から20年にわたる「アルビジョワ十字軍」が実行され、ルイ9世の時代、1229年に殲滅され消滅してしまいました。

 

ワルドー派やカタリ派は、もともとはキリスト教を改革しうという民衆運動に端を発したもので、特に清貧運動をルーツとしています。その意味では、フランシスコ会などの托鉢修道会と共通するものがあるという見方もできます。しかし、両派の拡大や過激な主張(特にカタリ派)は、当時、領主のような地位であったカトリック教会のローマ教皇以下の高位聖職者にとっては、自己の権力や富を否定されることであるので、異端として弾圧したと見られています。

 

 

  • 異端審問から魔女裁判へ

 

「アルビジョア十字軍(1209~1229)」の後、ヨーロッパにおいて激しい異端審問が実施されるようになりました。インノケンティウス3世の時代から、反教会的な異端の取り締まりの最前線の役割を担うこととなったのが、ローマ教皇公認の修道会でした。中でも、13世紀のドミニコ会などの托鉢修道会は厳しい異端取り締まりの先頭に立ち、異端に対する激しい攻撃を行うようになりました。フランシスコ会も、その極端な清貧の勧めで、当初は自らが異端認定されそうだったのだが、公認を受けると、やがて異端審問を担うようになったのは皮肉なことです。

 

異端の撲滅のために、教皇グレゴリウス9世(在位1227~1241)は異端審問官を設置し、異端狩りのために各地の司教から独立した権限を与えました。異端審問を独自に行うことが出来るようになった異端審問官は、強引な異端審問と認定で怖れられ憎まれる存在となり、教皇から直接異端審問官に任ぜられた最初の一人であったドイツのコンラート・フォン・マールブルクは、悪名高い審問官の一人で、1233年暗殺されています。

 

異端に対する徹底的な撲滅がめざされるなかで、異端は魔女と結びついているとされ、14世紀には魔女そのものを取り締まる「魔女裁判魔女狩り)」が行われるようになりました。「魔女狩り」とは、中世のキリスト教世界で行われた異端を排除するために行われた宗教裁判のことで、13世紀当たりから盛んになっていきました。

 

そもそも魔女とは、キリスト教以前の多神教の時代から存在していた古いヨーロッパの俗信で、古来の神や精霊など超自然的な力を得て、奇跡を起こした人々をいい、一般的に、魔女は呪術を使って人々に害を及ぼすと信じられていました。後に、キリスト教が盛んになってくると、魔女は、悪魔と契約して、超自然的な力を持って妖術(邪悪な術)を行い、悪魔と通じて人を破滅に導く者(女性)を指すようになりました。もちろん男性を指す場合もあり、魔女は、魔術師・呪術師とも呼ばれました。

 

魔女が行う人の心を惑わす不思議な術(行為)が魔術で、悪い魔術を黒魔術といい、黒魔術を使ったと見なされれば容赦なく拷問や神判に掛けられ、有罪ならば処刑されました。一神教のキリスト教では、最初から魔術を多神教徒の迷信として否定していました。ただし、悪魔は、人々を惑わせ、神の教えから離れさせ、悪の道に誘い込む存在ですが、それほど強い力は持たず、全知全能の神の下で、人間の信仰を試す役割を持つとされてきました。「この世は神の摂理に従っており、正しい信仰を持っていれば怖れるに足らない」とされてきたのです。

 

しかし、既にみてきたように、急激に異端に対する恐怖心が煽られた11世紀以降、多くの人が魔女として迫害されるようになり、特に、14世紀はこの傾向が顕著になったのでした。その背景には、「14世紀の危機」と言われた社会不安がありました。天候不良による飢饉に加えて、この世紀の半ばに大流行した黒死病(ペスト)が社会不安を一気に煽る形となりました。

 

ペストは、総人口の3割以上が死亡したとされ、地域によっては人がいなくなった村もあったとすら言われる、前代未聞の大災害となりました。当時、これを悪魔の仕業と考え、聖書の黙示録にあるように、悪魔とその信奉者たちがキリスト教徒に戦いを仕掛けていると考え、恐怖に怯えるようにさえなったと言われています。

 

また、十字軍の失敗に続く、教会大分裂(大シスマ)(1378~1417)で、ローマ教会の威信が低下し、教会への批判が強まります。カトリック教会はこの批判を抑えるために、ますます、厳しい異端尋問を行うだけでなく、魔女そのものを取り締まる「魔女裁判(魔女狩り)」が行われるようになったのです。

 

15世紀に入ると、異なった信仰を持つ者はもちろんのこと、悪魔と契約した魔女、悪魔の力を呼び出す黒魔術を使う者も積極的に異端審問で裁かれることになりました。「魔女」は異端とは違う悪魔崇拝者として激しい迫害を受けました。密告によって、女性でも男性でも魔女だと訴えられると魔女裁判で拷問にかけられ、自白させられて魔女と断定されると、火刑などに処せられました。魔女裁判が盛んに行われると、「魔女狩り」はあらゆる反社会的存在に及ぶこととなり、その犠牲者が増えていきました。村落内でも、異分子を探し出し異端として弾劾することで秩序を維持する傾向が出てきました。

 

また、社会の中で孤立している弱者を、魔女に仕立て上げて、社会の不満をそらす意味合いがあったとされています。実際、黒死病の流行した時代には、魔女の仕業として、ユダヤ人が捕らえられました。

 

さらに、1414年のコンスタンツ公会議では、聖書中心の信仰を説いたウィクリフフスは、異端として処刑されました。また、英仏の百年戦争(1339~1453)の最中、フランス軍の救世主となったジャンヌ・ダルクも、イギリス軍によって捕らえられ、魔女として焼き殺されました。異端尋問や魔女裁判はしばしば政治的にも利用されたのです。加えて、王権も異端審問を主導するようになり、不満分子を異端として一方的に弾圧したり、財産を没収することが行われました。

 

 

  • ルネサンス・宗教改革と魔女狩り

 

近代の曙と呼ばれるルネサンス時代には、ヒューマニズム思想が興り、人間の尊厳や自由が意識され、文学や科学の面でも新しい知見がもたらされましたが、カトリック教会は地動説を異端とするなど、時代の流れに対応できませんでした。結果的に、教会の権威はさらに揺るがされました。

 

民衆の中の魔女に対する恐怖心も無くならず、16世紀の宗教改革の時代に、むしろ魔女狩り(魔女裁判)は頻発するようになりました。これは、魔女狩りが、カトリック教会だけでなく、プロテスタント側も盛んに行ったことにあります。新旧両派が、敵対する他宗派の人間を魔女であると告発するようになり、共同体から排除しようとしたからです。彼らの非寛容の行為は、1600年頃を最盛期に、18世紀まで続きました。理性と合理性の時代とされる近代になっても、また魔女の存在は信じられ、恐れられていたわけです。最後の魔女裁判は、イングランドが1717年、フランスが1745年、ドイツが1775年、スペインが1781年、イタリアが1791年という記録が残されています。

 

現在では、異端審判や魔女狩りは、人類史上でもまれな「神の名による大犯罪」とされ、そこに、イエスの精神はほとんどありませんでした。最終的に、ローマ教会は、1971年2月4日、「今後は異端および破門という呼び方、考え方を無くする」と発表し、20世紀後半になってようやく、異端と破門の問題は終わりを告げました。

 

 

<参照>

Zorac歴史サイト – 魔女と異端

世界史の窓、Wikipediaなど

 

 

2020年09月27日

キリスト教:修道院運動の盛衰

以前の投稿「カノッサの屈辱」の中で、グレゴリウス改革が模範としたクルニュー修道院やベネディクトゥスの戒律について言及しました。今回は、中世のキリスト教に影響を与えたこれらの修道院の活動を掘り下げてみたいと思います。

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古代の迫害の時代とは異なり、総じて平和な中世の西欧キリスト教世界においては、「命がけの信仰」は求められなくなり、信仰は「修道」によって表明されました。

 

修道には、ローマから退き、世俗から隠遁して一人で生活する場合もありますが、中世ヨーロッパでは、共同体を作って清貧をモットーに各地につくられた修道院での生活をさしました。修道院は、一般信徒の集う教会に対して、世俗から離れて修行に打ち込む修道士が共同生活を送る信仰の場です。また、修道院は、聖書の研究など古典文探求の場でもありました。

 

一方、教会の政治的経済的基盤も不安定な中で、聖職者の中には、安逸に流れ、華美な生活を送るなど腐敗堕落した者すら出てきました。そうした中、イエスの生きていた時代の純粋な信仰からは次第に乖離していくことに対して、本来の信仰に戻そうとする修道士や修道院が現れ、数次にわたって修道院を中心としたローマ=カトリック教会の改革運動がおきました。それらの運動を総称して修道院運動といいます。中世では、以下のおおよそ4つの修道院運動が起きました。

 

6世紀:ベネディクト派の修道院運動
11世紀:クリュニー修道院による改革運動
12世紀:シトー派修道会による改革運動
13世紀:托鉢修道会による改革運動

 

 

  • ベネディクト派の修道院運動

 

西ヨーロッパにおける本格的な修道院は、529年、ベネディクトゥス(480~550)がローマ南方の山中に建設したモンテ=カシノ修道院が最初のものでした。モンテ=カシノ修道院では、服従・清貧をかかげ、祈りと労働をモットーとした修道士の集団生活が行われ、多くの優秀な修道士が育成されました。厳しい修行に身を置いたベネディクト派の修道士はヨーロッパでの布教に大きな役割を果たしました。

 

ベネディクトウスは、晩年に近い540年頃、「祈り、働け」をスローガンとした73章から成る修道会則、「ベネディクトウスの戒律」を執筆し、長い間、宗教的な規範とされ、後世の修道院運動に大きな影響を与えました。「ヨーロッパ修道院の父」と言われる聖ベネディクトウスは、イタリア中部ヌルシアの古代ローマ貴族の家系に生まれ、モンテ=カシノ修修道院で生涯を過ごしたとされています。

 

なお、自らもベネディクト派の修道士生活を送った経験を持った言われるローマ教皇グレゴリウス1世(在590~604)は、修道院活動を支持して、ベネディクト派の修道士をゲルマン人布教のためにヨーロッパ各地に派遣したとされています。

 

 

  • クリュニー修道院の改革運動

 

「ベネディクトウスの戒律」の継承者

 

フランク王国の保護のもとでローマ教会は安定しましたが、フランク王国の解体、ノルマン人の侵攻と言った変動の中で、9~10世紀にかけて、教皇を頂点とした教会・修道院に、聖職売買や聖職者の妻帯など腐敗堕落が表面化するようになってきました。そうした世俗化したキリスト教会・修道院に対して、本来の信仰主体の回復をめざした修道院運動が、910年、フランス東部ブルゴーニュに創建されたクリュニー修道院によって開始されました。

 

クリュニー修道院(クリュニー修族/クリュニー会)は、清貧と神への献身と厳しい自己鍛錬を信仰の柱とした6世紀の「ベネディクトゥス戒律」の厳格な遵守を掲げ、ベネディクト派の質素で規則正しい修道士のお生活を復活させる改革運動を展開しました。また、世俗の権力から離れるために、ローマ教皇に直結する組織形態をとったことも特徴です。

 

黒い修道士」と呼ばれたベネディクト修道会にあやかり、クリュニー修道院の修道士も「黒い僧衣」をまとい活動しました。クリュニー修道院では、規律の遵守とともに、典礼(祈りの儀式)が重視されました。ベネディクトゥス戒律のスローガンである「祈り、働け」の反映です。

 

修道院そのものは、フランスの地方君主アキテーヌ公ギヨーム1世が、ブルゴーニュのロワール県クリュニーの地にあった自分の荘園を教会に寄進して建てられましたが、1088年から1130年にかけて「第三教会堂」と呼ばれる大型の付属教会堂(聖堂)が増築されるなど、クリュニー修道院は、最終的に巨大な建物となりました。17世紀に、バチカン(ローマ教皇庁)のサン・ピエトロ大聖堂が再建されまでは、クリュニー修道院・第三教会堂が「ヨーロッパ最大の教会堂」でした。

 

クリュニー修道院は、きわめて高名で影響力のある修道院長を輩出しました。最盛期の頃の第5代修道院長オディロン(960~1049)はローマ教皇や神聖ローマ皇帝に並ぶ権威をもっていたと言われています。

 

歴代の修道院長に有能な人物が続いたこともあって、都市部だけでなく、農民や貧しい人達の救済を通して、地方への布教を行い、最盛期の11世紀から12世紀の半ばにかけて、クリュニー修道院は、中世ヨーロッパ最大の教団会派に発展拡大していきました。フランスのみならずヨーロッパ各地に建てられた管轄下におく修道院は1200を超え、修道士は2万人を数えました(影響下にある修道院となると1500とも2000とも言われる)。

 

クルニュー修道院の衰退

 

ただ、クリュニー修道院の「栄華」も長くは続きませんでした。クリュニー修道院は、ローマ教皇直属の教団であり、教皇の権威を絶対視しているが故に、形式を重視する傾向が強くなり、修道院が巨大化・権威化するにつれて、儀式・典礼が極端なまでに厳粛、豪華になっていきました。

 

一日の生活中、学習や作務にさかれる時間よりも、日常の儀式典礼の荘厳化に多大の努力が払われました。例えば、修道士が全員参加する豪華な典礼や壮麗な連祷(司祭と会衆とが交互に唱える連続した祈り)などが重要視され多くの時間を注がれる傾向が強くなっていきました。なお、中世の多声音楽(ポリフォニー)は、クリュニー修道院で発展していったとも言われています。

 

それに合わせて、修道院自身も、豪勢な建物と装飾を誇るようになりました。教会建築は、永遠なる神の全能を人々の目にみえるかたちで表現することが求められ、教会堂は異常に高いヴォールト天井や見事な柱頭彫刻が用いられ、さらにその内部は、あらゆる細部にいたるまで、過剰ともいえる装飾を施す事が重要であると考えられるようになったのです。同時に、高位の聖職者や聖務する修道士の日常も華美と豪華になり、彼らの生活は著しく贅沢になっていきました。

また、庶民に高い税を求めたり、死後の救いを願う国王や有力諸侯らから、土地や財の寄進や、多額の献金を受けるようになり、修道院には富が蓄積され、修道院側もそれを望ようになっていきました。

 

教団創立から数世紀を経過する間に、莫大な資産と宗教的な権威を背景として、クリュニー修道院の権力は膨張・拡大を続け、王侯貴族を遥かに凌ぐほど強力であったと言われています。クリュニー修道院は、創建の大修道院を頂点とした、中央集権的な巨大ピラミッド型の封建的組織へと変貌していきました。

 

こうして、「ベネディクトウスの戒律」を尊守しながらも、クリュニー修道院は、「祈れ、働け」というベネティクトゥスの戒律の基本のうち、労働よりも「祈り」に偏ったため、本来の「清貧」が忘れ去られてしまいました。結果的に、神聖たる修道会は宗教的な規律と基本理念を失ったのです。こうして、修道院としての清貧が失われ、本来の質素な修道院から再び離れていったところで、クルュニー修道院の凋落が始まり、次に登場するシトー派修道会や托鉢修道会などの台頭をうけ、13世紀には完全に衰退していくことになるのです。

 

グレゴリウス改革

 

クリュニー修道院の発展の過程で、その影響を受けた聖職者がローマ教皇に選ばれるようになりました。最初は、キリスト教会の東西分裂の時の教皇となったドイツ人のレオ9世(在位1049~1054)でした。レオ9世は、聖職者の粛正の第一歩として、当時横行していた聖職売買(司教職や修道院長職などの聖職を財産として取引したり、相続の対象とすること)と聖職者妻帯の禁止を宣言し、また慣例となっていた皇帝による聖職叙任権(司教や修道院長の任命権)を否定するなど改革派教皇の先駆けとなりました。

 

その改革は、グレゴリウス7世(在位1073~1085年)に継承され、聖職売買と聖職者妻帯を禁止し、さらに、実質的に皇帝の聖職叙任権を教皇に移すなど「グレゴリウス改革」と呼ばれる一連の改革を断行し、教会と教皇の権威を回復させました。特に、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との叙任権闘争は、1077年に「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件に発展しました(詳細については投稿「カノッサの屈辱」を参照)。

 

なお、その後、クリュニー修道院出身の教皇ウルバヌス2世(在1088~1099)が、1095年に十字軍運動を提唱して、教皇の時代を現出させ、時代は13世紀のローマ教皇権の最盛期へと向かうことになりました。

 

このように、クリュニー修道院の改革運動は、中世キリスト教に大きなインパクトを与えたことがわかります。グレゴリウス改革についても、クリュニー修道院の運動に影響を受けたと一般的には説明されています。ただし、クリュニー修道院は、叙任権を含む皇帝や国王の教会支配に対する保護権にはむしろ妥協的だったとされています。また、グレゴリウス改革のころのクリニュー修道院は、既にみてきたように、本来の清貧と厳格さを失い始めており、グレゴリウス改革までに、実質的にその役割を終えていたとの見方もあります。時代は、次に述べるシトー派修道会に移りかけていたと言えるかもしれません。

 

 

  • シトー派修道会の改革運動

 

白い修道士

 

シトー派修道院(シトー修道会)は、クリュニー修道院より2世紀近く経った1098年、元クルニュー会修道士のロベール(1027年~1111年)によって、クリュニーと同じブルゴーニュ地方のシトーの地に設立されたシトー修道院を始まりとしています。

 

祈祷と清貧、倹約と労働など「聖ベネディクトの戒律」の厳格な励行をかかげ、妥協を許さない厳格で禁欲的な規律の修道生活が行われました。ベネティクト派の修道士やクリュニー派の修道士が黒衣を身にまとったのに対し、シトー派修道会の修道士の僧衣は、自己犠牲と清貧を象徴する白でした。

 

白衣のシトー修道士達は、地面の上に寝て、深夜2時前の起床から夜8時に就寝する間、粗挽きの大麦と蒸したブナの葉を食すなど衣食住を極端なまで簡素化し、ひたすら神に献身する日々を送ったと伝えられています。

 

修道院は、人里離れた山間部や草原、島、農村に建てられ、俗界から逃れた修道士は、苦行と瞑想の共同生活を送り信仰の純化を求めると同時に、盛んに未開地の開墾を行い、大開墾時代の一翼を担いました。また、イギリスからもたらされた牧羊を飼育して毛織物をつくる羊毛業や、ワインの醸造などの農業技術や地方産業の発展にも貢献しました。

 

こうして、シトー派修道院(シトー修道会)は、フランスを中心に、西はイングランドからポルトガル、南はイタリア、北はスカンジナビアまで、ほぼヨーロッパ全土に広がり、創設から最初の100年で、ヨーロッパ各地に710か所、12世紀~13世紀の200年間で1470か所もの修道院が建てられました(全期間では1750か所)。

 

聖ベルナールの活躍

 

この発展は、12世紀の半ばに現れたシトー派クレルヴォー修道院のベルナール(ベルナルドゥス)(1090~1153)の功績によるものと広く認められています。フランス南部のシャンパーニュの貴族出身のベルナールは、1113年に、家族・親族・友人など約30名とともにシトー修道会へ入会した後、本人の人格とずば抜けた説教の力で、教団は一気に拡大し、シトー修道会は歴史的な発展を成し遂げたと評されています。ベルナールが直接的に関わった新たな修道院の建立では、世界遺産フォントネー修道院など、生涯で69か所、ベルナールの「教え子」たちが建立した数を含めると、シトー修道会の全体約20%、350か所を数えました。

 

ベルナールの存在は、シトー修道会だけなく、カトリック教会ひいてはヨーロッパ宗教界に広く知れわたり、ローマ教皇さえもが助言を求めるほどであったそうです。1146年には、ローマ教皇エウゲニウス3世(在1145~1153)が聖地エルサレム救援の「第2回十字軍」の派遣を提唱した際(エウゲニウス3世もかつてベルナールの弟子であった)、ベルナールは、十字軍の派遣と参加を呼びかける演説を各地で行いました。後に伝説的と評されたベルナールの説教に感動したフランスの「若年王」ルイ7世や神聖ローマ帝国のコンラート3世をはじめ多くの国王や有力貴族が十字軍への参加を決意したと言われています。総勢10万人をこえる規模となった第2回十字軍(1147年~1148年)は、「聖ベルナールの十字軍」とも言わるほど、ベルナールの影響力は絶大だったわけです。

 

しかし、十字軍の戦いそのものは、指揮官同士の意見対立などによる統制の乱れから、軍事的な成果を上げることができないまま、失敗に終わってしまいました。同時に十字軍の派遣を呼びかけたローマ教皇エウゲニウス3世、そしてその勧誘説教を行った聖ベルナールの指導力と権威は急速に弱まってしまいました。(二人とも1153年に死亡)。ベルナールの死後、シトー修道会は徐々に衰退していきます。

 

シトー修道会の終焉

イエスとその使徒たちと同じ生活に戻ることをめざした修道院の閉じ込められた使徒的生活を永遠に続けることにはどうしても不可能であることは、歴史の教えるところです(過去のどの修道会も、半世紀とその理想を保持しえたものはなかったとの指摘もなされている)。シトー派修道会も例外ではありませんでした。後のドイツの「東方植民」とも結びつき、彼らは未開地の開墾活動を継続していきますが、シトー修道会も羊毛や家畜などの生産物を売って莫大な富を有するようになると、シトー修道会の「清貧」は捨て去られ、次第に俗化していったのです。

 

こうしてシトー修道会も、クルニュー修道院と同じ運命を辿ることになり、12世紀後半以降は托鉢修道会の出現によって急速に衰退していきました。その後のシトー派は、「百年戦争」や「ユグノー戦争」など数世紀間にわたった政治的混乱の影響を受け修道院の数は激減し、意を異にする複数の地域活動グループが生まれるなど、凋落と崩壊への一途となってしまいました。最後は、1791年にフランス革命政府から「修道院解散令」が発令されたことで、シトー修道院は閉鎖され事実上消滅、700年の歴史の幕を閉じました。

 

 

  • 托鉢修道会

 

クルニュー修道院、シトー修道会と続いた修道院運動は、13世紀になると、托鉢修道会がその役割を担いました。托鉢修道会は、徹底した清貧を説き、労働と托鉢を重じる修道会で、イタリアのフランチェスコ会と、南フランスのドミニコ会などをさします。

 

富や財産を蓄えることで世俗化し腐敗していった過去の修道院を反面教師とした托鉢修道会の修道士は、都市や農村を歩き回り、托鉢(信者からの寄付)のみで生活しながらイエスの教えに忠実に生きようとしました。

 

当時のローマ教皇インノケンティウス3世(在1198~1216)は、この二つの托鉢修道会を正式に認可し、そうした運動を取り込み、利用しながら、ローマ教会の体制維持に努めました。

 

 

<フランチェスコ会(フランシスコ会)>

 

清貧宗団・小さき兄弟会

 

フランチェスコ派修道会(フランチェスコ会)は、イタリアのアッシジ出身の修道士フランチェスコ(1182~1226)が、1208年に創立した托鉢修道会です。豊かな商人の子であったフランチェスコは、もともと病弱であったそうですが、ある時、大病を患って生死の境をみてから、信仰に目覚めると、家を含むすべての世俗的な欲を捨て、イエスと同じような清貧の生活を送ることを決心したのです。

 

当初、11人の仲間とともに、フランチェスコは、アッシジ郊外の丘の上に「小さき兄弟会(小さき兄弟たちの修道会)」を創設しました。その基本理念は、無所有と清貧で、貧しいイエス・キリストの生涯を範として、その福音を宣べ伝えることでした。

 

ボロ布のようなガウンをまとい、腰を麻の紐で縛っただけとも言われた服装で、共同生活を始めた彼らは、イエスがそうしていたように、街々をまわり、人々に悔い改めることを説きました。一切の所有権を放棄し、わずかな手仕事と、托鉢(他者からの喜捨)によって生計をつないでいました(人々からは乞食僧団と揶揄された)。

 

フランチェスコが神の啓示を受けて出されたいう会則は、簡潔さと妥協の余地のない厳格さを示し、わずか3カ条だけで、以下の新約聖書(福音書)にあるイエスの言葉からきていました。

 

第一条:マタイ伝19章21節

汝、もし完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」

 

第二条:マタイ伝10章9,10節

財布の中に金、銀または銭を入れてはならない。旅行のための袋も、二枚の下着も、靴も杖も持って行ってはならない。

 

第三条:マルコ伝8章34節

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。

 

フランチェスコの活動は、最初のうち、異端まがいに思われていましたが、フランチェスコみずからローマに赴き教皇インノケンティウス3世に面会し、趣旨を説明したところ、1210年、ローマ教皇から活動の承認を口約されました(正式認可は1223年)。教皇直属の組織となったフランシスコ会((正式会名は「小さき兄弟会」)は次第に参加の修道士が増え、創設から20年足らずで、会員三千人の組織に成長しました。ただし、フランチェスコは、修道会の発展には興味を示さず、むしろ、エジプトなど異教の民の改宗に熱意を燃やしたと言われています。

 

フランシスコ会派の分離独立

 

その一方で、組織的に発展すればするほど、フランシスコ会(小さき兄弟会)の原点である清貧からは遠ざかっていくのも避けられませんでした。清貧を求めているにもかかわらず、多くの人々の喜捨によって、修道会の財産は豊かなものになっていったのです。

 

そうすると、厳格な清貧生活を守ろうとするフランチェスコと、ローマ教皇に従って組織を拡大しようとする多くの修道士が対立するようになりました。そうした中、最後までイエスの精神を守り「清貧」を貫いたフランチェスコでしたが、再び病に侵され、1226年、静かに息を引き取りました。フランチェスコは、2年後、フランチェスコ会出身の教皇グレゴリオ9世により列聖(聖人と認めらた)されています。

 

聖フランチェスコの死後も、フランシスコ修道会(小さき兄弟会)は、現実路線を志向する穏健派と、聖フランチェスコの遺志をあくまで貫こうとする厳格派の対立は続きました。やがて、穏健派は、「共同体の兄弟たち(共同体派)」(後に(1250)コンベンツアルまたはコンムニタス)、厳格派は「会則遵守の小さき兄弟たち(遵守派)」(オブセルバンテス)(1368)と呼ばれるようになりました。

 

1517年、教皇レオ10世は、公式に、共同体派(穏健派)の流れを汲む「コンベンツアル兄弟会」と、遵守派(厳格派)の「会則遵守の小さき兄弟会オブセルバンテス小さき兄弟会)」とに分割し、当初のフランシスコ会(小さき兄弟会)は独立した二つの修道会となりました。

 

さらに、1525年、「会則遵守の小さき兄弟会(オブセルバンテス小さき兄弟会)」からは、より急進的なカプチン派が分派し、「カプチン小さき兄弟会」となりました(1619年に公式に独立)。

 

こうして最終的に、聖フランチェスコが創設したフランシスコ会(小さき兄弟会)(第1会)は3つ修道会に分裂しました。

 

・コンベンツアル聖フランシスコ修道会(コンベンツアル小さき修道会)

・フランシスコ会(小さき兄弟会)

・カプチン聖フランシスコ修道会(カプチン小さき修道会)

 

かつての厳格派のなかの一部には、カトリック教会全体の蓄財を批判したりするなどいくつかの極端な主張は異端として退けられ、代々のローマ教皇に活動を禁止されているグループもあります。

 

このように、フランシスコ会(小さき兄弟会)は、分散しながらも、会則の遵守という形で聖フランチェスコの精神は共有し、カトリック教会での最大の修道会として、その後も発展を続け、13世紀末には会員数が3万人を誇りました。、宗教改革の際にも会員5万人、18世紀半ばにはその数は13万人以上に擁する教団として現在も存続しています。

 

フランシスコ会の海外布教

 

一方、フランシスコ修道会の修道士による世界布教も活発に行われ、イタリアだけでなく、ヨーロッパ全土、北アフリカ、パレスチナおよびシリアへ広がり、さらには中国にも教線は拡大しました。1246年、インノケンティウス4世の命によりモンゴル帝国の首都カラコルムを訪れたプラノ・カルピニ(1182ごろ〜1252)や、13世紀末には中国伝道を初めたモンテ=コルビノ(1247~1328)などに活躍は特筆されます。

 

会員(会士)たちの活動も、福音宣教に限らず、学問、教育、福祉活動の分野に及びます。特に、スコラ哲学者・神学者のウィリアム・オッカム(1285~1347)は有名です。

 

 

<ドミニコ会>

 

ドミニコ会は、13世紀初め、スペイン人の聖ドミニコ(ドミニクス)によって創設された托鉢修道会です。28歳まで人文科学、哲学、神学など学究に従事していたが、布教に立ち上がることを決意したドミニコは、1204(6)年、ローマを訪れて、教皇インノケンティウス3世に面会、フランスで異端として勢力を持っていたカタリ派の改宗を託されました。

 

そこで、ドミニコはカトリックの伝道のためには、カタリ派に勝る敬虔と厳格主義(清貧)が必要と悟り、自ら清貧の生活を営みながら、教会だけでなく、町の広場や辻で説教や討論を繰り返しました。その後、トゥールーズに拠点を移し、南フランスだけでなくスペイン、イタリアの異端者たちを改宗させました。1216年にローマ教皇ホノリウス3から、修道会として正式に承認されました(正式会名は「説教者会」)。彼らも信者の寄付によって生活していたので「托鉢修道会」に属します。

 

ドミニコ派修道会(ドミニコ会/説教者会)の精神は、「観想し、観想の果実を他の人々に伝えよ」ということばに表現されるとよく言われます。共同生活の中で、祈り、神学研究を行いながら、三誓願(従順、清貧、貞潔)によってキリストの真理を智り、伝える(説教を行う)という理想を求めました。

 

「私有であれ共同体のものであれ財産はいっさい所有しない清貧生活を実践しながらも、従来の修道院のような、規律に従って上長の命令を守り、一個所に定住することなく、ヨーロッパ中を旅をして、イエスの福音を宣べ伝える」ことを行動原則としました。

 

また、ドミニコ会は、学問的貢献が著しく、ドミニコ派修道士として出発したスコラ哲学トマス=アクィナス(1225頃~1274)など高名な神学者を輩出し、パリ、ボローニャ、ケルン、ローマ、オクスフォードなどの大学に神学教授を提供しました。

 

ドミニコ会士は、キリスト教の布教に情熱を燃やすと共に、当時民衆に広まっていた異端の取り締まりと異端の改宗の先頭に立って活動しました。既に述べたように、ローマ教会によるカタリ派(アルビジョワ派)やワルド派にたいする弾圧に積極的に協力しました。また、村落の隅々まで、反教会的な異分子を魔女狩りと称して摘発し魔女裁判にかけていきました。

 

ドミニコ会は異端審問の審問官に任命されることが多かったため、「ドミニコ会士 (Dominicanis)」をもじって、「神の犬 Domini canes」(ドミニ・カネス)とも呼ばれてしまうほどでした。スペインのドミニコ会の修道士、トマス・デ・トルケマダ(1420-1498):スペインの初代異端審問所長。最も激しく異端審問を行ったことで知られています。逆に、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士の、ジョルダーノ=ブルーノ(1548-1600):コペルニクスの地動説を擁護し、異端として焚刑に処せられました。。

 

16世紀になり宗教改革を迎えてても、ドミニコ会は、プロテスタントやカトリック教会の改革派に対する攻撃の先頭に立ち、宗教裁判所を舞台に、さかんに異端審問を行っていきました。

 

ドミニコ会以降、修道院運動は、彼らの活動は修道院を離れて街頭での布教を重視していたので、次第に衰退しましたが、ドミニコ会そのものは、近代の一時期、低迷することもありましたが、その後復活し、現在に至っています。

 

 

<参照>

中世ヨーロッパのキリスト教世界/クリュニー修族とシトー修道会

異端と正統④: 河童の川流れ

歴史 – コンベンツアル聖フランシスコ修道会 – 聖母の騎士社

OFM Japan/フランシスコ会

Wikipediaなど

 

 

2020年09月23日

皇室:秋季皇霊祭と秋季神殿祭

9月22日の秋分の日に、天皇皇后両陛下は、宮中祭祀「秋季皇霊祭の儀」と「秋季神殿の儀」にのぞまれました。また菅総理など閣僚らも参列しました。秋分の日の「お彼岸」には、家々で祖先の御霊をお祭りし、お墓参りをするのが風習となっているのと同様に、宮中でも「秋季皇霊祭(こうれいさい)」と「秋季神殿祭(しんでんさい)」が行われています。

 

秋季皇霊祭は、秋分の日に皇居の宮中三殿の一つである「皇霊殿(こうれいでん)」で行われるご先祖祭で、歴代天皇はじめ皇后・皇族すべての皇祖(天皇家の祖先)の神霊(御霊)を祀られます。

 

秋季神殿祭は、秋分の日に皇霊祭に続き、宮中三殿の一つである「神殿(しんでん)」で行われる神恩感謝の祭典で、天神地祇(てんじんちぎ)(天地の神々のこと)、八百万神(やおよろずのかみ)を祀られます。

 

両祭典とも、天皇陛下が親祭される宮中祭祀で、陛下自ら玉串を捧げて御拝礼され、皇祖皇宗の神霊に告げられる御告文(ごこうぶん)を奏せられます

 

皇霊殿:歴代天皇や皇后、皇族の皇霊が祀られている殿舎(やかた)。

神殿:全国の天神地祇の神々が祀られている殿舎。

 

なお、3月の春分の日にも、毎年「春季皇霊祭」、「春季神殿祭」が秋と同様に行われます。また、皇居だけでなく、伊勢神宮をはじめ全国の神社でも同様の祭儀(遙拝式)が挙行されます。

 

秋季皇霊祭・秋季神殿祭ともに、秋分の日に行われますが、現在の秋分の日は、もともと秋季皇霊祭と呼ばれていました。秋分の日(春分の日)にお墓参りをして先祖の供養をする習慣も、実は皇室の先祖の祭儀に由来するとされています。

 

秋季(春季)皇霊祭は、1848年に祭日として制定されていましたが、終戦後の1948年に、GHQ(連合国総司令部)の命で、秋季(春季)皇霊祭が廃止となり、代って秋分(春季)の日が国民の祝日として定められ、現在に至っています。

 

皇霊祭・神殿祭や、彼岸・秋分(春分)に日についての詳細は以下の投稿サイトを参照下さい。皇霊祭・神殿祭の由来と歴史や、お彼岸、秋分の日との関係などを紹介しています。

 

皇室:宮中祭祀「皇霊祭の儀」とは?

伝統行事:お彼岸、神仏習合のたまもの

 

 

 

2020年09月20日

世界史:アナーニ事件・教皇のバビロン捕囚・大シスマ

 

前回の投稿では、ローマ教皇の権威が皇帝(国王)よりも強かった教皇権の隆盛の時代の魁となった「カノッサの屈辱」を解説しましたが、今回は逆に、王権の伸張を受けて、教皇の権威が失墜していく経緯についてみてみたいと思います。テーマは、アナーニ事件、教皇のバビロン捕囚、教会大分裂です。

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<アナーニ事件>

 

十字軍も失敗に終わり(1291年)、教皇は信用を失っていく一方で、国王の権限が強くなっていった13世紀末、ローマ教皇に第193代ボニファティウス8世(在1294~1303)が即位しました。

 

この時代、フランスのカペー朝フィリップ4世(在1285~1314)は、フランスの国家統一を進め、イギリスとの戦争に備えて軍費を得るためにもフランス領内の聖職者領に課税しようしました。これに対して、ローマ教皇のボニファティウス8世は、聖職者領(教会領)への課税を禁止するとともに、ローマ教皇庁への献金を停止する対抗策を講じました。これを受け、ボニファティウス8世は1302年、教皇勅書(ウナム=サンクタム)を発表、教皇の首位権を明らかにし「教皇に従わない者は救済されない」と宣し、フィリップ4世を破門にする準備を始めていました。

 

こうした背景下、1303年9月、ボニファティウス8世がローマ郊外のアナーニに滞在中、国王側から襲撃を受け捕らえられるという事件が発生しました。教皇は、一室に軟禁された上、退位を迫られたのです。ボニファティウス8世は殺害されそうになりましたが、駆けつけたアナーニ市民に救出され、辛うじてローマに戻ってこれました。

 

しかし、事件にひどく動揺した教皇は、1ヶ月後に急死してしまいます。死因は持病の結石とされていますが、アナーニの屈辱が真因とみられ、ボニファティウス8世の死は「憤死」と表現されています。この「アナーニ事件」で、フランス王フィリップ4世は、ローマ教皇との抗争に勝利した形となり、教皇権の弱体(王権の伸張)が浮き彫りになりました。

 

 

<教皇のバビロン捕囚>

 

アナーニ事件(1303年)で、ローマ教皇のボニファティウス8世が憤死した後、1305年、フランス王フィリップ4世の後押しで、ボルドーの大司教だったフランス人のクレメンス5世がローマ教皇に選出されました。クレメンス5世は、1309年、フィリップ4世の意向を受け、教皇庁をローマから南フランスのアヴィニヨンに移させました。教皇庁をフランス王権の監視下に置くことが目的であったとみられています

 

それ以後、1377年まで約70年間(68年間)、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニヨンに居ることとなりました。このことを旧約聖書に出てくる古代ユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚(アヴィニョン捕囚)」と呼ばれています。ただし、教皇は監禁されたわけではなく、途中、豪勢な教皇庁も造営されています。

 

また、この教皇庁がアヴィニヨンに置かれていた間、教皇となった次の6代は、いずれもフランス人でした。

 

・ヨハネス22世(在位1316~1334年)
・ベネディクトゥス12世(在位1334~1342年)
・クレメンス6世(在位1342~1352年)
・インノケンティウス6世(在位1352~1362年)
・ウルバヌス5世(在位1362~1370年)
・グレゴリウス11世(在位1370~1378年)

 

この間、1337年に英仏百年戦争が始まり、1348年には、ペストが大流行し、ヨーロッパの人々を震撼させました。こうした出来事は、ローマ教皇のローマ不在が原因だと考える人々もあり、ローマ市民や多くのキリスト教徒から、教皇のローマ帰還を望む声が強まってきました。1355年に即位した神聖ローマ帝国の皇帝カール4世もアヴィニヨンの教皇を支援して、その帰還を促しました。

 

こうした動きを受け、ローマ教皇グレゴリウス11世は、1377年、フランスの反対にもかかわらず、アヴィニヨンからローマに帰還して、教皇のバビロン捕囚はようやく終わりとなりました。なお、「教皇のバビロン捕囚」は、「アナーニ事件」同様、フィリップ4世が、教皇権に対する王権の力を示した出来事といえますが、この後、フィリップ4世と自身のカペー家(朝)には悲劇が待っていました。

 

 

*フィリップ4世の末路

 

アナーニ事件で、ボニファティウス8世の死を知ったヨーロッパの人々は、フィリップ4世を「教皇を憤死させた王」というレッテルを貼り、「フィリップ王とその息子たちに災難が降りかかり、王位を失うだろうと」予言する司教もでたそうです。

 

また、フィリップ4世は、ローマ教会と対立しただけでなく、中世ヨーロッパの主要な騎士修道会であるテンプル騎士団を異端として弾圧しました。1307年10月に、国王は、フランスにおけるテンプル騎士団のメンバーを一斉に逮捕し、教皇クレメンス5世に異端審問を行わせ、1314年、最高幹部らは異端として火刑に処せられました。また、テンプル騎士団は解散を命じられ、フランス国内にもつ騎士団の所領と金融資産も没収されてしました。騎士団の幹部は、処刑に際して、フィリップ4世と教皇クレメンス5世に呪いながら死んでいったとされています。

 

1314年、フィリップ4世は狩りの最中に脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となり、同じ年、クレメンス5世も死去しました。また、フィリップ4世の3人の息子たちは皆、フランス国王になりましたが、父の死後15年以内に全員死亡、さらにフィリップ4世の孫たち、特に男子が全員夭折したため男系は途絶えてしまいました。カペー朝最後の国王シャルル4世が、34歳の若さで亡くなった1328年で、カペー朝は断絶し、フランスの王位は、カペー家からヴァロア家に移ったのでした。

 

 

<教会大分裂大シスマ)>

 

アヴィニヨンからローマに帰還を果たした教皇グレゴリウス11世は、ローマ市民の大歓迎で迎えられましたが、翌1378年、膀胱結石を発症し死亡しました。

 

翌年、次の教皇を選出する枢機卿会議(教皇選出会議=コンクラーベ)が開催されると、フランス人とイタリア人の枢機卿が激しく対立し、次期教皇を決められない状態が続きました。すると、業を煮やしたローマ市民がローマ教皇庁になだれ込むなど大混乱となってしまいました。身の危険を感じた多数派のフランス人枢機卿たちは逃げだし、残ったイタリア人枢機卿たちだけで、ナポリ出身の大司教をウルバヌス6世として選出するという事態になってしまいました。

 

これに対して、フランス人の枢機卿たちは、ウルバヌス6世の選出は外部の圧力に屈した結果であり、選挙は無効だとして、ウルバヌス6世の廃位と選挙のやり直しを宣言し、ジュネーヴ出身のクレメンス7世を選出します。しかし、ウルバヌス6世は当然これを認めず、教皇としてローマに留まったので、クレメンス7世はフランス人枢機卿と共にフランスのアヴィニヨンに戻ってしまったのです。

 

こうして、ローマ教会は、ローマとアヴィニヨンに同時に教皇が二人存在するという「教会大分裂」(大シスマ)となってしまいました。しかも、この状態は、1378年から1417年まで約40年間も続きます。

 

ちょうど百年戦争(1339~1453)の最中、教皇のヨーロッパでの政治的影響力は完全に低下し、教皇の権威失墜は明確になりました。もともとローマ教皇は、キリストの代理者とされ、中世においては、宗教的権威の頂点に立ち、彼への服従は「至福」のための条件と考えられていたほどでした。ですからローマ教皇は王位継承や領土紛争を調停する役割を担っていたのですが、教会が分裂してしまうと、調停機能を発揮できず、当時のイギリスとフランスの戦争は100年を超える長期的な戦いとなった遠因とされています。

 

さて、教会が分裂している間、二人の教皇は、何度か修復の試みもなされましたが、いずれも正統性を主張して譲らず、互いに破門しあいました。両教皇の死後も、それぞれの後継者を残し、教権の分立状態は解消されませんでした。ローマでは、ウルバヌス6世の後、ボニファティウス9世(ローマ教皇)が即位し、インノケンティウス7世さらにグレゴリウス12世と続きました。これに対して、アヴィニョンでは、クレメンス7世の後、ベネディクトゥス13世(対立教皇)が跡を継ぎました。

 

またこの分裂は、教会にとどまらずヨーロッパ各国の対立をもたらし、ヨーロッパは、神聖ローマ皇帝とフランス王を軸に二陣営に分かれて争いました。神聖ローマ帝国とイングランドと北欧の大部分は、ローマにいる教皇を、またフランス、スコットランド、スペイン、ナポリなどは、アヴィニヨンの教皇をそれぞれ支持しました。

 

こうした教会大分裂(大シスマ)も15世紀に入ってようやく事態収拾へ向けて動きはじめ、1409年にピサ教会会議が開催されました。この会議では、ローマとアヴィニヨンの2人の教皇(グレゴリウス12世とベネディクトゥス13世)の廃位を決め、新たにアレクサンデル5世が選出されました。しかし、2人の教皇は納得せず、結局、3人の教皇が鼎立(ていりつ)する異常事態になり、かえって混迷度が増してしまいました。

 

そこで、神聖ローマ皇帝ジギスムントの提唱で、1414年、コンスタンスツ公会議が開かれました。ジギスムントは、ピサ会議で新たに選出されたアレクサンデル5世の死後、引き継いだヨハネス23世が、会議を召集する形をとらせて、ドイツのコンスタンツでの公会議(1414~18年)開催にこぎつけることができました。

 

会議中、自らの正統性が確認されないことを悟ったヨハネス23世はコンスタンツから逃亡し、後に捕らえられ罷免されました。また、グレゴリウス12世は自ら退位を表明し、残ったベネディクトゥス13世は退位を拒否しましたが、公会議で廃位されました。こうして、1417年、新たにマルティヌス5世が教皇に選出され、ようやく教会大分裂は収束したのです。ただし、ローマ教皇の権威はもやは地に落ちたと言えるでしょう。

 

なお、現在の教皇庁では、教会大分裂(大シスマ)の時代、ローマの教皇を正統とし、教皇の代数もローマにいた教皇で数えます。アヴィニヨンの教皇やピサ会議で選出された教皇は「対立教皇」として扱われています。

 

また、コンスタンツ公会議では、異端問題の審査も行われ、ボヘミアのフスを異端として有罪とし、火刑に処しました。この時既に他界していたイギリスのウィクリフも異端であると断定され、遺体が掘り出され、改めて火刑にして川に流されました。両者は、聖職者の堕落や教会の世俗化を批判し、聖書こそ最高の権威であるとして、ウィクリフは英語、フスはチェコ語の聖書翻訳を行うなど、後の宗教改革の先駆的な役割を果たしました。

 

 

<参照>

「世界史の窓」、「世界の歴史マップ」、Wikipediaなどの関連サイト

 

 

2020年09月19日

世界史:カノッサの屈辱

キリスト教の関する前回の投稿では、「十字軍」を取り上げましたが、今回は十字軍後のローマ教会についてみていきます。第4回十字軍を提唱したインノケンティウス3世(在1198年~1216年)の頃、ローマ教皇の権威は最高潮に達したことは、前回の投稿でも紹介しました。その神聖ローマ皇帝に対する優位性を確立したとされるのが、「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件です。

―――

 

  • 叙任権をめぐる争い

 

カノッサの屈辱とは、1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4とローマ教皇グレゴリウス7が、聖職者の叙任権(選出権)を巡り対立し、皇帝が教皇に屈服した事件です。

 

聖職叙任権とは、誰をローマ教会の聖職者(司教など)や修道院長にするかを決める権利で、西欧では、古代末期以来、私領に建てられた聖堂や修道院は、その土地の領主が叙任権を持つという慣例がありました。

 

中世においても、特に、神聖ローマ帝国においては、オットー1世が教会に土地を寄進する代わりに、自分の一族や関係者を司教などの聖職者に叙任することで聖職叙任権を確保して以来、神聖ローマ皇帝がローマ教会を統制していました(これを帝国教会政策と呼ぶ)。

 

叙任権を持っていれば、自分の意にかなった聖職者が教会を「運営」するので、教会自体を管理できるようになります。同時にそれは、教会が持っている荘園や財産に介入できる(教会財産の管理権を握る)ことを意味していました。ですから、皇帝や国王からすれば、叙任権を有することは、自身の権力強化につながりました。とりわけ、神聖ローマ皇帝にとっては、聖職叙任権を握ることで、ローマ教皇の選出においてまで介入するようになったのです。

 

一方、ローマ教会においては、俗権によって叙任権が行使されたことで、聖職者の堕落という事態を招いてきました。当時、皇帝(国王)に任命された聖職者たちは、荘園を持って領主化し、司教職や修道院長職などの聖職を財産として取引(聖職売買)したり、聖職を相続の対象とすることが横行するようになっていたのです。

 

こうした教会の腐敗と世俗化に対し、10世紀になると、ローマ教会の側からは、俗権による叙任を否定したり、聖職者の綱紀粛正をはかったりといった俗権からの影響力を否定した改革運動が起こるようになりました。

 

その中心を担ったのが、910年にフランス東南部ブルゴーニュ地方(ブルグント王国)に建てられたクリュニー修道院でした。この修道院では、かつてベネディクトゥスがはじめた「ベネディクトゥスの戒律」の厳格な励行など、初期修道院精神に立ちかえることがめざされました。聖職売買や聖職者の妻帯は厳しく批判され、また、私闘の濫用も戒められました。クリュニー修道院の改革運動は、急速にヨーロッパ各地へと波及していきました

 

なお、ベネディクトゥスは、6世紀、イタリアのモンテ=カシノに修道院を建設し(529年)、清貧と勤労を旨に神に奉仕する生活を送る修道院運動を進めたイタリアの修道士です。「祈り、働け」をスローガンとしたベネディクトゥスの定めた厳しい会則は、「ベネディクトゥスの戒律」とよばれ、西ヨーロッパに広く普及し、ベネディクトゥスはやがて「西欧修道士の父」と称されました。

 

そうして、11~12世紀になると、俗権による教会の支配が、教会堕落の原因であるとの認識が強まり、聖職者叙任権を、教会の手に奪回する運動がおきてきました。その急先鋒がグレゴリウス7世でした。

 

教皇グレゴリウス7世(在1073~1085)は、キリスト教の教義をあるべき姿に戻そうと、聖職者の綱紀粛正、教会の刷新を図りました。1075年には「教皇教書」を出し、教皇権の至上性と俗権に対する優越を宣言し、皇帝の持っている叙任権を教皇に移す意向を示しました。これに対して、皇帝としての支持基盤を失いたくない時の神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世は、当然、聞く耳を持ちません。やがて両者は決定的な対立を引き起こすことになっていきます。

 

 

  • カノッサ事件

 

ローマ教皇グレゴリウス7世は、1075年、司教叙任を続ける神聖ローマ帝国の皇帝・ハインリヒ4世に、叱責する書簡を送り、悔い改めを迫りました。しかし、これに激怒したハインリヒ4世は、独自に聖俗諸侯を集めて会議を開き、司教の同意のもとに教皇の廃位を決議してしまいます。そこで、教皇グレゴリウス7世も、翌2月、皇帝ハインリヒ4世の破門と皇帝権の剥奪(廃位)を宣言して対抗しました。

 

すると、ドイツの司教たちは動揺し、それまで皇帝についていた世俗諸侯らも次々に反旗をひるがえしました。諸侯たちは集会を開き、1年後の1077年2月までに皇帝の破門が解かれなければ、ハインリヒ4世の皇位を廃すること、また適任の人物がいない場合は皇位を空にすることを決定したのです。

 

孤立して一気に窮地に陥ったハインリヒ4世は、使いを送って教皇に許しを請いましたが、聞き入れてもらえません。そこで、翌1077年1月末、ハインリヒ4世は、トスカナ女伯マティルダの仲介により、自ら真冬のアルプス山脈を越え、カノッサ城に滞在する教皇に会いに出向きましたが、それでも、教皇は捕縛を恐れて城から出ず面会を拒否しました。万策尽きたハインリヒ4世は、武器を捨て、修道服に身を包み、雪の城門で3日間、素足のまま祈りと断食を続け、破門の取り消しを求めた結果、ようやく、破門が解かれました。これが、「カノッサの屈辱」として知られる事件です。

 

 

  • 終わらなかったカノッサの屈辱

 

破門されなかったとはいえ、この一連の騒動で皇帝の権威は大きく地に落ち、カノッサ事件は、教皇権の王権に対する優越を示しました。もっとも、神聖ローマ帝国(ドイツ)に限れば、ハインリヒ4世は再び勢力を回復し、教皇側と再度対立しました。グレゴリウス7世は、改めてハインリヒ4世を破門しましたが、今度は効果はなく、逆にカノッサ事件で禍根を持つハインリヒ4世は、1081年、「倍返し」とばかりに、大軍を率いてローマ教会を武力包囲し、グレゴリウス7世は捕らえ身柄を拘束したのです。さらに、1083年、グレゴリウス7世を退位させ、自らが立てたクレメンス3世を教皇の座に就けました。

 

教皇グレゴリウス7世は、辛くも包囲を脱出しましたが、1085年にイタリア南部のサレルノで客死(憤死)してしまいました。グレゴリウス7世からすれば、カノッサ事件の際、ハインリヒ4世を温情で許した結果、逆に死に追いやられてしまったことは皮肉な結果です。

 

一方のハインリヒ4世も、恨みを果たした後、神聖ローマ帝国(ドイツ)領内の領主の反乱に加え、自分の任命したクレメンス3世とも対立し、失意のうちに死を迎えるという、こちらも悲劇的な結末が待っていました。結局、二人の死後も、叙任権闘争の明確な決着はつかず、教皇と皇帝・国王の対立は続きました。

 

 

  • ヴォルムス協約

 

この聖職叙任権をめぐるローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間の対立を集結させたのが、1122年に締結されたヴォルムス協約(1122)です。ローマ教皇カリストゥス2世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の間で結ばれた宗教和議の主な内容は以下の通りです。

 

・ドイツ以外(イタリアとブルグント)の叙任権はローマ教皇が掌握すること,ドイツでは司教選挙に関して,皇帝に選挙への出席と俗権の授与、教皇側に選挙と司教職の叙任権を認めること

・司教や修道院長は教会法によって選出されること

・指輪と杖など霊的権威の授与は教皇が、教会領などの世俗的権威(笏)の授与は皇帝が行うこと

 

こうして、12世紀前半に両者の対立は一応の妥協を見ましたが、和解とはいえ、神聖ローマ皇帝側が、長年の聖職叙任権をてこに教会を統治するという帝国教会政策を放棄した形となりました。

 

実際、ヴォルムス協約が成立する間にも、ローマ教皇ウルバヌス2世(在1088~1099)は、十字軍(1096~1291)を宣言して教皇権の強さを示しました。その後、第176代ローマ教皇インノケンティウス3(在位:1198~1216年)は、国王や大司教の選任や、王妃離婚問題に介入して、神聖ローマ皇帝オットー4世、イギリスのジョン王、フランスのフィリップ2世を破門にするなど、各国君主を意のままに操れるほどの影響力を持っていました。

 

イギリスのジョン王を破門した事件は、カンタベリー大司教叙任問題が原因でした。カンタベリ大司教の地位は、慣例で、イギリス国王が任命することが続いていましたが、インノケンティウス3世は、その叙任権を行使して、自身の意にかなった人物を大司教に任命したのです。これに反発したジョン王は、教会の所領を没収する措置に出て、ローマ教会と争いとなりました。1209年、破門されたジョン王は、インノケンティウス3世に屈服し、イングランド全土を教皇に献上、いわゆる臣下の礼をとって、改めて封土として領土を受けざるをえませんでした。

 

インノケンティウス3世の時代、教皇権は最高潮に達したと言え、彼自身の「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉が、その強さを象徴しています。

 

 

<参照>

カノッサの屈辱(世界の歴史マップ)

カノッサの屈辱(世界史の窓)

5分でわかるカノッサの屈辱

Wikipediaなど

 

 

2020年09月17日

仏教:空海と真言宗

前回の投稿「最澄と天台宗」に続き、今回は、最澄とともに必ず語られる空海と、彼が開いた真言宗についてまとめました。

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真言宗(高野山金剛峰寺)は、弘法大師・空海を開祖とした日本で唯一の純粋な密教で、大日如来を本尊とし、大日経金剛頂経(こんごうちょうぎょう)が主な経典として扱われています。

 

真言宗は、諸尊の加護を求める貴族などに対して、加持祈禱がしばしば行われるなど、個人の現世利益を願う宗派として発展しました。また、真言宗は皇室と縁が深く,大覚寺,仁和寺等の門跡寺院が多くあります(門跡:皇族・公家が住職を務める特定の寺院)。

 

 

  • 密教と三密加持

 

密教というのは、大乗仏教の中の秘密教(秘密仏教)で、大日如来が直接説いた教えをいい、教えを修めた限られた人たちの間でのみ信仰が許されるとしています(これに対して、歴史上の釈尊が説いたとされる教えを顕教(けんぎょう)と呼ぶ)。なお、真言宗の密教は東密(とうみつ)、天台宗の密教は台密(たいみつ)と呼ばれれます。

 

大日如来は、宇宙の本体(そのもの)であり、宇宙の絶対の真理を現す根源的な生命などと表現されます。言わば、真理そのものである絶対的な根本の仏(仏教ではこれを法身仏(ほっしんぶつ)という)であり、この世の最高位の存在とされます。

 

生きとし生けるものは、大日如来の顕現であり、すべての仏は大日如来につながり、その化身と考えられています。私たちの存在も大日如来から生まれたので、人間もこの肉身のままで、生きていながら、究極の悟りを開き、仏になることができるとされます。これを即身成仏といい、真言宗の教義の柱となっています。そのためには「三密加持(さんみつかじ)」の実践が必要と説かれます。

 

「三密加持」の「三密」とは、大日如来の身体と口と心(身・口・意)のことで、それぞれ「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」を指します。「加持」とは達成することをいいます。真言宗では、衆生と仏(大日如来)とは本来同一であるから、身・口・意の三密行に努めれば、即身成仏することができるとしています。

 

具体的には、衆生が、身(身体)に、本尊を現す印(ムドラー)を手で結び(身密)、口に仏の真の言葉である真言(マントラ=呪文)を唱え(口密)、ご本尊の姿を心(意)に思い描き(=観ずる)、心を仏の境地に置く、つまり私たち衆生も大日如来と同じ心になり(意密)ます。その時、それがそのまま仏の三密と相応して、如来の力が衆生に加えられ、仏(大日如来)と同一(一体)となるとされます(これが即身成仏)。

 

なお、真言宗には、意密の実践の中に、生滅のない実在を体得できるとされる「阿字観」と呼ばれる瞑想法(観法)があります。

 

真言宗では、そうして、即身成仏した人々がともに高めあっていくことで、理想の世界である「密厳仏国土(みつごんぶっこくど)」(「密厳浄土(みつごんじょうど)」)が実現するとしています。密厳(仏)国土とは、大日如来のいる浄土のことであり、一切の現実経験世界の現象はこの如来そのものであると考えられているので、この世界が浄土にほかならないと説きます。

 

 

  • 曼荼羅

 

大日如来を中心に、宇宙に遍満する生きとし生けるものを仏の姿で表した世界観を、図画でもって示し、現実世界がそのまま理想世界であることを示すものとして、曼荼羅があります。密教の悟りの世界を象徴的に表す曼荼羅には、「金剛頂経」に説かれる金剛界曼荼羅と、「大日経」に説かれる胎蔵界曼荼羅の2つの世界から成ります。

 

ダイヤモンドのことを指す金剛とは、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味し、金剛界曼荼羅には、悟りを得る為に必要な智慧の光が表されています。胎蔵とは母親の母胎のようにあらゆる森羅万象が大日如来の中に包み込まれていることを意味し、胎蔵曼荼羅は、無限の慈悲の広がりを象徴しています。この2つの曼陀羅が揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が完成するとされています。

 

空海も、主著「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の中で、人の精神の程度や価値観のレベルを10段階に区分して、全く善悪の判断もできない最も程度の低い段階(第一住心)から、心の持ち方が向上して、大日如来と同レベルに達する最終段階(第十住心)までを説いています(これを十住心思想という)。

 

 

  • 空海の生涯

 

空海は、774年6月15日、四国・讃岐国多度郡(たどのこおり)に誕生しました。幼名は真魚(まお)といいました。父の佐伯田公(さえき・たぎみ)は、讃岐国の有力な豪族で、母の玉寄御前(たまよりごぜん)は、物部氏と同祖伝承を有する氏族とされる阿刀氏(あとうじ)の人でした。

 

空海は、15歳にとき、母方の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)の奨めにより都(長岡京)で漢学を学び、18歳で大学(官吏養成の最高学府)に入学します。しかしこの頃より、政治や学問への疑問や虚しさを感じ始め、大学を出奔して、無空と名乗り、私度僧(得度を受けていない修行僧)として山岳修業に身を投じたとされています。

 

798年、24歳のとき、最初の著書「三教指帰(さんごうしいき)」を執筆し、儒教・道教・仏教の三つの教えのすぐれた点を指摘しつつ、その中でも仏教が最高のものだと説きました

 

803年、空海は、阿刀大足に留学僧(るがくそう)として遣唐使の一行に参加できるよう朝廷にはたらきかけてくれるように懇願した結果、朝廷から入唐を認められました。入唐の直前、東大寺の戒壇院(かいだんいん)で受戒し、正式に僧となりました(この時から空海と名乗ったとみられる)。

 

20年間帰国禁止の私費留学生として、804年に、苦労して唐に入った空海は、翌年、インドから中国に伝えられていた当時最高の密教の正統を継ぐと評判の高かった青龍寺の恵果和尚(けいかおしょう)から、真言密教を学び、密教の奥義・秘法や、密教の法具・経典・技術書・曼陀羅・法衣の総てをことごとく伝授されたとされています。そのための儀式である灌頂(かんじょう)を受けた際、恵果和尚から「遍照金剛」(へんじょうこんごう)の名前を授かりました。

 

恵果和尚は、日本に早く帰って密教を広めることを願いながら、その年の12月15に亡くなりました。師の意を受けた空海は、20年間の滞在義務を破り、806年に帰国しました。ただし、当社は、当時の平城天皇から入京を許されませんでしたが、次の嵯峨天皇の時代に許され、高尾・神護寺に滞在しました(ここで最澄らとの交流があった)。

 

唐から帰国後、多くの書物を著して真言密教の教理を体系化した空海は、真言宗を立宗します。816年(弘仁七年)に、高野山を開山、金剛峯寺(本尊:薬師如来)を修禅の道場として開創しました。823年(弘仁十四年)には、嵯峨天皇より勅賜された京都の東寺(教王護国寺)(本尊:薬師如来)を真言密教の根本道場とし、さらに、その隣接地には、日本初の庶民の学校である綜芸種智院を開学しました。ほかにも、讃岐の萬濃池や大和の益田池の修築など社会事業にも携わりました。こうして、密教をもって平安仏教を空海は、835 年3月21日、高野山で入定(入寂)しました。61歳でした。

 

 

  • 空海後の真言宗

 

空海の入定後、金剛峯寺(高野山)は空海の甥とされる真然(しんぜん/しんねん)(不詳~891年)、東寺(教王護国寺)は高弟の実慧(じつえ)(786~847年)、神護寺は、高弟真済(しんぜい)(800~860年)がそれぞれ継承しました。

 

その後、高野山は火災に遭い山上の伽藍が全焼し、その修復もままならないほど一時衰微するに至りましたが、時の権力者、藤原道長などの寄進により復興するに至りました。ただし、平安時代後期、僧侶の堕落停滞から、真言宗没落が取り沙汰されました。

 

この状態を歎き、高野山と密教を弘法大師の遺志にそうよう復興に努めたのが、高野山金剛峯寺の高僧覚鑁(かくばん)(1095~1143)でした。覚鑁(興教大師)は、鳥羽上皇の庇護を受け、学問探究の場である「大伝法院(だいでんぼういん)」、修禅の道場でもある住房「密厳院(みつごんいん)」を高野山上に建立しました。1134年には、大伝法院座主に就任しただけでなく、金剛峯寺座主職を兼ねた覚鑁は、真言諸派の教義をまとめ、当時盛んになりつつあった浄土教との調和も説いた真言教学を大成させました。さらに、伽藍の復興や高野山の運営の刷新を断行するなど、文字通り真言宗団を中興させました。

 

しかし、現状維持を望む保守派である金剛峯寺方(本寺方)が覚鑁(大伝法院方=院方)に反発し、両者に所領境界の争いまで起こった結果、1140年、覚鑁(派)は高野山を離れ、紀州の根来(ねごろ)に移りました。

 

1143年の覚鑁入寂後、覚鑁派は再び大伝法院を高野山に戻しましたが、金剛峯寺派との確執は収拾できませんした。その後、頼瑜(らいゆ)(1226〜1304)が出て、大伝法院を再び根来山に戻し、覚鑁の教義を発展させ、教義の基礎を確立した上で、新義真言宗として独立させました(なお、新義真言宗に対して、東寺や金剛峯寺など従来の真言宗は後に古義真言宗と呼ばれる)。

 

戦国時代、新義真言宗の総本山、根来寺(開祖:覚鑁)(大殿法院の後身)は、約6千人もの学僧を擁しただけでなく、僧兵集団「根来衆」を抱えるなど大きな勢力を備えるまで発展しました。しかし、こうした強大な寺社勢力の存在を危惧した豊臣秀吉は、1585年に根来山に攻め込み、一部の堂塔を残して全山焼失させてしまいました。

 

その後、専誉(せんよ)と玄宥(げんゆう)の二人の能化(のうけ)(=長老・学頭)は,それぞれ大和長谷寺,京都智積院(ちしゃくいん)に移りました。こうして、新義真言宗は、大和長谷寺を中心とした豊山派(ぶざんは)と、京都の智積院を中心とした智山派(ちさんは)とに分かれていきました(現在の真言宗豊山派と真言宗智山派の基礎を築いた)。これは、勢力を分散させようとした豊臣秀吉の宗教政策の結果でもありました。

 

一方、秀吉による焼き討ち後、根来寺はしばらく復興を許されませんでしたが、江戸時代に入り、紀州徳川家の保護を受けて、主要な伽藍が復興されました。また、1690(元禄3)年には、東山天皇より覚鑁上人に、諡号として「興教大師」が下賜されました。

 

明治維新や昭和の戦時における宗教政策の一環として、新義真言宗と古義真言宗は統一合同させられましたが、戦後は、真言宗豊山派、真言宗智山派など多数の宗派があり、現在、総本山に高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)を筆頭に18の宗派(本山)に分かれています。

 

 

<参照>

真言宗の教え 真言宗豊山派

曼荼羅(仏像ワールド)

密教のおはなし|全真言宗青年連盟

真言密教修法の基本「三密加持」とは?

真言宗豊山派 興教大師

根來寺の歴史 – 根来寺

Wikipediaなど

 

2020年09月12日

仏教:最澄と天台宗

今回から「仏教」の投稿については、日本の仏教の歴史を、気の赴くままに紐解いてみたいと思います。まずは、最澄の天台宗についてです。

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  • 智顗と最澄の天台宗

 

天台宗は、隋代において、智顗(ちぎ)(538-597)が天台山(中国浙江省天台県)で開いた、法華経を根本経典とする中国創始の大乗仏教宗派です。宗祖智顗(ちぎ)が講述したものを門人の灌頂が筆録した書である「摩訶止観(まかしかん)」の中に、法華三昧(法華経を通して真理に悟入する方法)の実践が説かれています。

 

日本の天台宗は、伝教大師・最澄(767~822)を開祖として平安時代初期に始まりました(総本山は比叡山延暦寺)。ただし、この時、日本には法相宗や華厳宗など、奈良の南都六宗が中国から伝えられていましたが、中国では天台宗の方が古い宗派でした。

 

804(延暦23)年、還学生(短期留学生)として遣唐使船で唐に渡った最澄は、霊地・天台山に赴き、台州竜興寺で天台大師智顗(ちぎ)の直系である道邃(どうすい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒を伝授され、また、天台修禅寺(しゅぜんじ)で行満座主(ぎょうまんざす)からも天台教学を学びました。さらに、越州の龍興寺では順暁阿闍梨(じゅんぎょうあじゃり)から密教を授かり、禅林寺で翛然(しゅくねん)禅師から禅を究めました。

 

最澄は、このように「法華経」を中心として、天台教学()・戒律()・密教()・四宗をともに学び、805年に帰国して、翌年、天台宗を開創しました。天台宗とは、円・密・禅・戒の四宗を、法華経の精神で綜合する(このことを「四宗相承(ししゅうそうじょう)」という)ことによって、大乗仏教全般を布教する宗派(学派)と言えます。

 

天台宗において、一切経(釈迦の経典の総称)を体系づけ、法華経こそが釈迦の多くの経文の中で最高の経典と位置づけられていますが、法華経が絶対というわけではありません。「朝題目夕念仏(あさだいもくにゆうねんぶつ)」という言い方もあり、僧侶たちは、朝は法華経中心、夕方は阿弥陀経を中心に勤めることになっているそうです。

 

ですから、天台宗では、特に定められた本尊(信仰の対象となる仏像)がないとされています。ただし、強いてあげれば、「法華経」を根本経典としているので、お釈迦様すなわち釈迦如来です。また、延暦寺の根本中堂(総本堂)の本尊である薬師如来や、阿弥陀如来なども天台宗の本尊としてあげられます。では、天台宗では何を教えているのでしょうか?

 

 

  • 天台宗の教義

 

法華一乗一乗思想

一乗思想とは、「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)の教え、とも呼ばれ、一切の生きとし生けるものは、ことごとく仏になる因(仏性)を有しているという意味で、すべての衆生は成仏できると教えています。

 

 

一心三観(いっしんさんがん)

究極の真理は一つであるという考え方に基づいて、空観、仮観、中観の三観を同時に心に観じてさとりを得ようとする修行法をいいます。

 

空観(くうがん):一切の存在には実体がないと現象世界を否定的に観想すること

仮観(けがん):それらは仮に現象していると肯定的にとらえて観想すること

中観(ちゅうがん):この両者がともにそなわってはじめて真理を把握しうる(二つも一つである)として観想すること

 

 

三諦円融(さんたいえんゆう)

実相の真理を明かすものとされた空(くう)・仮(け)・中(ちゅう)の三諦は独立した真理ではなく、それぞれが他の二諦を含んで三者が相互にとけ合っているという考え方です。

 

空諦(くうたい):すべての存在は空無なものであるとする見方

仮諦(けたい):すべての事象は因縁によって存在する仮のものとする見方

中諦(ちゅうたい):すべての存在は空でも有でもなく言葉や思慮の対象を超えたものであるとする見方

 

 

天台宗の開祖智顗は、この「一心三観」や「三諦円融」などをさらに発展させて「一念三千」を発想(創案)しました。

 

一念三千(いちねんさんぜん)

自分の一瞬の心(一念)に、ありとあらゆる現象(三千の諸法)が備わっていること、言い方を変えれば、日常の人の心の中には、全宇宙の一切の事象が備わっているということを悟るために瞑想する修行法をいいます。

 

また、天台宗の中心的修行法に止観があります。止観(しかん)とは「一切の妄念を止めて心を統一し、正しい知恵で、自己と存在の実相(対象)を観察すること」などと定義づけられています。また、天台宗では、実践行も重視し、教観双修(きょうかんそうしゅう)(=止観の実践を教理によって保証し、教理は実践の有効性によって証明される」を標榜しています。

 

 

  • 天台宗の修行

 

修行に関して、前述した四宗(円、密、禅、戒)の教えを融合し(これを四宗融合(ししゅうゆうごう)という)、人それぞれ縁に応じてどの分野から入っても良いとされ、四種三昧と呼ばれる四通りの方法があります。

 

四種三昧(ししゅざんまい)は、比叡山で最も歴史の古い、天台宗の基本的な修行で、中国天台宗の開祖、智顗(ちぎ)が創案した常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種類の行を指します。これらは、智顗が、行の仕方を、動作、唱え方、心、の三方面から分類して、立ち振る舞いの違いから、4つのカテゴリーに分けたものとされています。

 

常坐三昧(じょうざざんまい)

常坐三昧は、静寂な堂内に一人で入堂し、90日間坐り続け、坐禅に没頭する行です。

 

常行三昧(じょうぎょうざんまい)

常行三昧は、約10m四方のお堂の中で行われ、ひたすら阿弥陀様の名前だけを唱えながら、ご本尊の阿弥陀様の周りをまわり続けます。90日間を一期として、僧侶が交替で昼夜24時間歩き続けます。ご本尊の周囲にある手すり(横木)を頼りに歩いたり、天井から下げられた麻紐につかまったりして、歩を休めることはできますが、決して坐臥しません。常行三昧は、念仏を唱える浄土信仰や、密教の普及につながったと言われています。

 

半行半坐三昧(はんぎょうはんざざんまい)

半行半坐三昧では、歩いて行う行と、坐って行う行の組み合わせで、比叡山では五体投地(ごたいとうち)(=両肘両膝と額を地面につけて行う拝礼)や法華経の読誦をしながら行ないます。

 

非行非坐三昧(ひぎょうひざざんまい)

非行非坐三昧は、あらゆる起居動作が仏道につながるとして、毎日の生活そのものを修行とする行です。期間や行法も定まっておらず、かたちを超えた本質に通じなければならないとされることから、逆に難しい修行とされています。

 

 

回峰行

修行には、常行三昧の発展した、峰々を毎日歩きまわる回峯行もあります。比叡山では、千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)が有名です。平安時代の高僧、相応和尚(そうおうかしょう)により開創された、千日回峰行は7年間かけて、比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する修行です。出会う人々すべての仏性を礼拝したとされる常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)(=法華経に出てくる菩薩)の精神を受け継ぎ、山川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝するものです。

 

 

  • 最澄の生涯

 

次に、最澄の生涯を概観することで、天台宗をさらに掘り下げてみたいと思います。

 

最澄は、767年8月18日、中国後漢の王族で、応神天皇の頃の帰化人の子孫と伝えられている三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として、近江の国・比叡山山麓の坂本で誕生したとされています(三津首氏そのものは、新羅系の一族である志賀漢人(しがのあやひと)系とされる)。

 

12歳のときに出家し、近江国分寺に入って、大国師・行表(だいこくしぎょうひょう)の弟子になり修業生活を送ります。15歳で、国分寺僧として得度(受戒すること=戒律をうけ僧として認めれる)し、名を最澄と改めます。翌年785年4月、東大寺の戒壇に入って、正式な具足戒(ぐそくかい:僧の守るべき戒律)を受戒し、国家公認の僧となりました。

 

しかし、同年7月、世間の無常を観じ、出奔し、故郷の比叡山に登って禅行生活(山岳修業)に入りました。この間、日本に初めて戒律を伝えた鑑真がもたらした天台大師・智顗(ちぎ)の著書にふれ、天台教学に傾倒するに至ったとされています。788年、21歳のときに、自ら彫った薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)という草庵を建てました。この小堂が延暦寺に発展することになります。

 

それから6年後、桓武天皇が平安京に遷都しました。都の東北に位置する比叡山にある一乗止観院は、仏法力で都の鬼門を守る守護寺と位置づけられるようになりました。797年、和気清麻呂で有名な和気氏(わけうじ)の推薦で、国家安泰を祈り天皇に助言する内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)に任命され、その後、和気氏の氏寺である高雄山神護寺で行われた天台会で講義を行うようになりました。

 

こうした和気氏とのつながりから、最澄は入唐還学生(げんがくしょう)(=短期の国費留学生)に選ばれ、803年、遣唐使として唐に渡りました。奇しくもこの入唐船の一行に空海も含まれていました。二人は互いに面識はなく、航海中の交流はなかったとされています。

 

明州に到着した最澄は、既に紹介したように、天台山にて、天台教学を究め、さらに密教と禅と戒律の伝授も受けるなど、在唐わずか9ヵ月の間に、仏教の総てという意味の「円密禅戒」を受け継ぎました(これを「四種相承」という)。帰国後、最澄は唐で学んだ円(天台教学)・密・禅・戒の四宗を綜合する天台宗(天台法華宗)を、806年に立宗しました。

 

ただし、四宗すべてを伝授されたと言っても、1年に満たない滞在期間では限界があり、天台教学ほど、密教を究めていたわけではありませんでした。しかも、最澄らを遣唐使として送った桓武天皇が期待していたのは、新しい密教に関する知識や法具であったと言われています。当時、朝廷は、それまで政治に関与し圧力をかけてきた奈良仏教と一線を画すためにも、密教を中心とした新しい仏教の導入をめざしていました。

 

その意味で、最澄は、完全に期待に応えらなかった状況でしたが、それでも、天皇の命により、不十分ながら、密教儀式や祈祷を行っていました。

 

そこで、最澄は、同じ遣唐使として密教を究めて帰国した空海から教えを請おうと、812年、空海が唐から受け継いだ仏縁儀式である結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受け、師弟関係を結びました。この時、最澄45歳、空海38歳でした。

 

しかし、友好な関係は長く続きませんでした。最澄が空海に経典「理趣経(りしゅきょう)(=完全なる悟りへの道を述べた経典)」の解説本を借りたいと申し出たところ、これを拒絶されたことや、最澄の愛弟子であった泰範が、空海の教えに心酔し、ついには最澄から離れていってしまった「事件」があり、両者は袂を分かつことになってしまったのです。さらに、後ろ盾だった桓武天皇が崩御されたこともあって、最澄は、密教の教えを究めることを断念します。

 

そこで、最澄は、晩年の目標を、比叡山に大乗戒壇院を創設することに注力しました。戒壇院とは、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるための施設で、奈良時代、渡来僧鑑真が初めて東大寺に設置し、最澄の時代、東大寺以外には、薬師寺(下野)と観世音寺(大宰府)の合わせて3か所しかありませんでした。しかも3つの戒壇院は南都六宗に属していました。そこで、天台宗の僧侶たちが東大寺で受戒しなければならないことを嫌がった最澄は、大乗仏教である日本には独自の戒律が必要であると訴え、運動しますが、南都仏教の官僧の抵抗を受け続けました。

 

結局、最澄は、822年6月4日、55歳で入滅しました。866(貞観8)年に、伝教大師と諡(おくりな)を受け、日本では最初の大師号となりました。

 

なお、その死から7日後、最澄を支持していた時の実力者、藤原冬嗣の協力もあって、延暦寺に大乗戒壇院の開創の許可が下りています。また、生前、最澄が実現できなかった天台宗における密教の確立も、最澄の弟子たちによって完成されることになるのです。

 

 

  • 最澄後の天台宗

 

天台宗はもともと密教を含んでいましたが、最澄の死後、天台宗では、円仁(えんにん)(794〜864)や円珍(えんちん)(814〜891)など、唐に渡り、密教を学び習得する高僧が相次いで現れ、加持祈祷を行う天台密教が確立されました(真言宗の東密に対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる)。

 

こうして、最澄後の天台宗は、法華経の教えよりも天台密教が盛んになっていきましたが、円仁などは、唐から密教のほかに、文殊菩薩の聖地として古くから信仰を集めている五台山の浄土念仏を伝え、日本に浄土教や浄土思想がもたらされました。

 

一方、比叡山では10世紀半ばには宗門の争いから僧兵が跋扈し、天台宗自体、山門派(さんもんは)、寺門派(じもんは)、真盛派(しんぜいは)などと分裂していきました。

 

具体的には、円仁と円珍との密教をめぐる仏教解釈の相違から,その末流が対立し、993年に、円仁派が比叡山の円珍派坊舎を焼き払ったことをきっかけに,円珍門下の余慶が比叡山延暦寺を下り園城(おんじょうじ)に入って独立し、寺門派となりました。円仁門流は、そのまま延暦寺にて山門派と称しました(園城寺は現在、三井寺(みいでら)と称する)。

 

また、室町時代になると、円戒国師・真盛(しんせい)(1443~1495)が、滋賀県大津市坂本の西教寺に入寺して繁栄させ、戒称一致(大乗円頓戒と称名念仏を統合)の教学を唱えて、真盛派を形成していきました。

 

山門派:比叡山延暦寺、慈覚大師・円仁

寺門派:園城寺(三井寺)、智証大師・円珍

真盛派:西教寺、円戒国師・真盛

 

 

  • 時代の魁

 

天台宗の教義は、総合仏教でしたので、総本山の比叡山延暦寺(滋賀県大津市)は「総合大学」としての性格を持ち、数々の名僧を輩出しました。特に、浄土宗の法然、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮といった新仏教の開祖(宗祖)の多くが、若い日に比叡山で修行していることから、比叡山は「日本仏教の母山」とも称されます。各宗祖は、天台宗の教えの一部、その教えの専門的な教えを説き、鎌倉仏教の多くの宗派が生まれました。

 

このようにみてみると、最澄が日本における仏教の発展に果たした役割は極めて大きいことがわかりますね。

 

 

<参照>

最澄|新版 日本架空伝承人名事典

最澄とはどんな人物?簡単に説明

仏教の歴史〈下〉 ~天台教学が日本へ 最澄が中国で学ぶ …

Wikipediaなど

 

 

2020年09月05日

仏教:位牌とその起源

これまでの投稿で、戒名の仕組みと歴史について述べてきましたが、戒名になくてはならないのが位牌です。今回は位牌とその成り立ちについてまとめました。

戒名ってどんなもの?

戒名の歴史

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位牌(いはい)とは、戒名が記された木製の牌(ぱい)(=札ふだ)のことで、家庭の仏壇や寺院の位牌壇に安置されています。故人の霊は戒名を通して依り憑くことができるとされ、遺族は、仏壇に香、華(花)、灯明、飲食を奉献して供養することが慣習となっています。ですから、位牌というと仏教の習慣だと思っている人が多いと思いますが、インドの仏教には本来、位牌を用いるという習慣はありません。

 

 

  • インド仏教と中国の儒教

 

輪廻転生を信じるインド仏教では、日本のような葬儀を行わず、位牌もありません。輪廻転生では、魂は生まれ変わりを繰り返すとされ、転生しても再び人間として生まれることを必ずしも期待できません。動物や昆虫などの別の生き物になることもあれば、人間になっても男(女)から女(男)になることもあります。ですから、魂が離れた死者の体はもはや不要として、死体は焼いて骨と灰は、自然に戻すという意味で川へ捨てる風習があります。また、死者と生者は、死者の行先が決まる四十九日が過ぎれば、供養をする必要がなくなり、先祖祭祀も不要として行われません。

 

そもそも、輪廻転生自体が永遠の苦悩であり、輪廻から解脱して成仏するとは、この世からは十万億土も離れた極楽浄土へ往くとされています。極楽に行くことができれば、死者の霊の居場所となる位牌は言うまでもなく、仏壇や墓も不要となるわけです。

 

では、位牌のルーツ(起源)はどこかというと、それはインドの仏教ではなく、中国の儒教にあります。位牌は、もともと木簡(もっかん)(=短冊状の細長い木の板)といわれ、その起源は、儒教の「神主(しんしゅ)」または「木主(ぼくしゅ)」と呼ばれる板だと言われています。

 

古代より、中国では遺体を白骨化させ、その遺骨を霊が寄り憑く対象としてお祀りする習慣があったそうです。それが、後漢の時代になると、その遺骨に代って神主(木主)に、官位や姓名に記して祀る風習が儒教に始まり、宋代には中国仏教(禅宗)に取り入れられたとされています。

 

そもそも、孔子が儒教を理論体系としてまとめる以前、儒教はもともと「原儒」と呼ばれた葬祭業者の集団から始まったと言われています。儒者の仕事は、葬儀で、亡くなった人の家族に対して、どのように祀ればいいのかということを教えていたそうです。

 

 

  • 古代中国の習俗

 

中国では昔から、人間の魂は死んだ後も不滅で、しかも、その人間の個性が失われないまま残るという信仰(霊魂不滅説)があります。儒教には、「死者の魂は生きていて、先祖として我々を見守ってくれている」という考え方があるそうです。

 

また、道教でも、人間は精神と肉体とから成り立っているとし、精神を支配するものを「魂(こん)」、肉体を支配するものを「魄(はく)」としました。中国固有の「気」を使って説明すれば、「魂は人のたましいの中の陽の精気で、精神を支える気」である一方、「魄は人のたましいの中の陰の精気で、肉体を支える気」となります。

 

さらに、「魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰す」、つまり、「魂」と「魄」は、人間が生きているときは共存して蔵まっていますが、死ぬと分裂して、魂は天へ浮遊し、魄は地下へ行くとされています。それゆえ、死者のたましいを「魂魄(こんぱく)」とも呼びます。

 

儒教では、天地に分裂した肉体と精神を再び結びつける儀式、つまり魂(精神)を降し、魄(肉体)も呼び戻すという儀式を行うと、死者は「この世」に再び現れることができるとされます(もちろん、生前の姿のまま「復活」するというのではないが…)。そのための招き寄せられる場所が現在の位牌です。死者の魂魄を位牌(神主)に依りつかせることで、この世に死者を再生させることができると考えられたのです。こうした儀式を行うのが、その方の命日で、その儀式が終わると、位牌から離れて、魂は天上へ、魄は地下へと元の場所に帰るとされました。

 

このように、位牌は、インドの輪廻転生ではなく、中国の儒教や道教の風習の中から生まれた招魂再生の祖霊信仰に由来すると言えます。なお、余談ですが、インドの仏教では必要とされない墓も、この儒教の祖霊崇拝の観点に立てば重要なものとなります。招魂再生を願う上で、遺体または遺骨という何かの形となるものを残しておこうとなるからです。儒教では、お墓は死者の「遺品倉」と位置づけられています。

 

 

  • 日本に伝わった仏教

 

インドの仏教が、中国・朝鮮半島へ伝播したとき、儒教や道教の祖霊祭祀や死生観が取り入れ、中国仏教となって日本へ伝えられました。位牌も、日本においては鎌倉時代末から室町時代にかけて禅僧を通じてもたらされ、禅宗の寺院で用いられました。ただし、現在のように、各家庭に仏壇が置かれ、戒名とともに位牌を用いるようになったのは、江戸時代に入ってからと言われています。

 

その際、葬儀や先祖供養において、特に儒教の影響が大きいようです。例えば、仏教において、仏壇は、この世の浄土の世界を表す寺院の本堂を小型化したものとされています。ですから、仏壇は本来、本尊(阿弥陀如来など信仰の対象となる仏像や掛け軸)をお祀りする場所です。位牌はそのそばに置くものとされ、故人の霊は、位牌を通して本尊とともに浄土にあるとみなされます。

 

しかし、日本人からすると、仏壇は、本尊を拝む場というよりも、位牌を置いて、先祖を供養するための場所というのが一般的な感覚です。仏壇は、「寺院の本堂」というよりも、先祖がこの世に帰ってきたときの「仮の家」のようなものであると考えられています。そこで、多くの方は、日々仏壇のお釈迦様など本尊ではなく、ご先祖さまに祈っています。中には願い事までしますね。

 

ですから、なおさら、先祖の霊が宿る場である位牌がなければ、この世との接点の場に来れなくなるので、位牌は、大半の仏教の宗派では極めて重要な位置づけとされています。

 

葬儀においても同様です。日本の一般的な仏葬のときの祭壇を見ると、柩が置かれ、白木の位牌を立て、故人の写真が添えられ、その奥に本尊が置かれています。仏教における葬儀の趣旨は、戒名が与えられ、仏弟子となる故人をあの世に送るための「出家の儀式」です。本来は、葬儀の参列者は、本尊に対して「故人が、煩悩から離れ、解脱して救われるように」と祈りを捧げるべきというのが仏教者の見方です。しかし、実際は、参列者のほとんどは、本尊を拝むというよりは、故人の柩や位牌、特に写真を拝んでいます。死者が仏弟子となって修行に励んでいくとは考えていないと思われます。

 

 

  • 日本の祖霊信仰

 

仏壇と葬儀における事例は、仏教に中に取り込まれた儒教の祖先祭祀が根づいていることの表れであるということができますが、日本にも、古より、祖霊信仰と呼ばれる祖先神に対する信仰があったから、儒教の祖先祭祀(祖先崇拝)を受け入れたと考えられています。

 

祖霊信仰とは、既に死んで、肉体から魂が遊離し、(精)霊となって祖先は、子孫から供養や祭祀を受けると、歳月とともに浄化され、祖霊から先祖神へと昇華し、やがて、遠い山の奥や海の彼方に鎮まるものと考えられていました。

 

その後、盆や正月といった決まった季節になると、祖霊や先祖神は、「氏神」として、子孫を守り、家を守ってくれる、または、「産土(うぶすな)の神」として、里に下りてきて、村人に福や恵みをもたらしてくれます。先祖供養は、村人が先祖の(精)霊が祖霊や先祖神となるように、供養や祭祀を行うようになったことから始まりました。

 

祖霊信仰において、「依り代(よりしろ)」が重要な役割を果たしてくれます。依り代(依代)とは、一般的に神霊が寄り憑く(宿る)対象と定義付けされますが、神道の観点から言えば、神降ろし(神霊がこの世に降りてくる)の際に臨時に宿っていただく場所や物のことを言います。

古く日本には八百万の神と表現されるように、神霊が宿る対象には、樹木、岩石、人形など自然やものがありました。そのため、現在でも田舎の方では、依り代とみなされる岩や古木などを注連縄を飾って祀り、信仰の対象としている場所が多く残されています。

 

そうすると、死者の霊魂が憑依する位牌や墓とは、日本の神道の「依代」にきわめて近い存在です。実際、位牌の定義についても、「故人の霊が宿る依代」と説明されています。その意味では、位牌の起源は、日本の習俗である「依り代」であるという言い方もできます。

また、お盆や春秋のお彼岸の行事なども、今では仏事のように一般には思われていますが、もとももとは、儒教の祖先祭祀であり、ひいては、わが国の固有の習俗であるということができます。

 

お盆やお彼岸については、過去の投稿を参照下さい。

お盆は仏教行事?

お彼岸、神仏習合のたまもの

 

 

<参照>

先祖のまつり:日本人は死んだらどこに行くのですか?

(神社ものしり辞典)

位牌の由来は儒教だって知ってます?

(和文化案内、ゆかしき堂)

そもそも位牌とは?位牌は必ず必要なのか

(ひだまり仏壇)

 

位牌の起源・ルーツ(お位牌Maker)

位牌/仏事の豆知識(京仏壇はやし)

 

「世界がわかる宗教社会学」(橋爪大三郎)

「沈黙の宗教―儒教」(加地伸行、筑摩書房)

「仏教と儒教」(一条真也)

 

 

2020年09月02日

仏教:戒名の歴史

先日の投稿(「戒名」ってどんなもの?)で、戒名についてその仕組みを説明しましたが、今回は、戒名を使用するようになった歴史をみてみたいと思います。

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  • 戒名をつける制度は日本だけ!?

 

仏教が始まったインドでは、戒名というものはなく、戒名は中国に仏教が伝わってはじめて登場したと言われています。日本の仏教は、中国の仏教が朝鮮の百済経由で伝えられたため、初めから戒名が取り入れられました。

 

日本に伝わった戒名をつける制度は、元来、生前、出家剃髪した者に与えられたものでした。戒名とは、仏弟子になったことを表す名前です。つまり、お釈迦さまの教えを守って生活することを、仏さまの前で約束したときに授けてもらっていました。

 

ただし、現在のように、死後に「戒名」をつけるという制度は、日本独特のものだと言われています。日本では死後に戒名をもらって葬儀を行うことが一般的になっていますが、これは日本だけの習慣です。

 

古来より日本では、「亡くなってからでも出家した方が、故人は極楽浄土に行きやすくなる」、との考えがあったと言われています。そのため、人が亡くなると、戒名を授け、迷いなく極楽浄土へ旅立てるよう祈るという風習が定着していったそうですが、その経緯を簡単にまとめてみました。

 

 

  • 日本における戒名の使用

 

日本へ仏教の公的な伝来は、538(宣化3)年、百済の聖明王が釈迦仏像と経典を朝廷に献上したときとされます。しかし、仏教そのものは伝わったとしても、「戒律」(仏教徒として守るべき規律)は、正式に伝えられていませんでした。

 

出家して僧侶になるためには、戒律を学び戒律を守ることを誓う「受戒」という儀式を受けなければなりませんが、戒律を正式に授けること(「授戒」)ができる僧侶もおらず、日本に戒律を授かった者はいませんでした。このため、日本の僧侶は中国から正式に認められていないという状態でした。

 

そこで、聖武天皇の時代に、中国から鑑真(688~763)が招かれたのでした。鑑真は、5回も船が難破し、最終的には失明しながら来日を果たし、日本にも戒律が伝えられました。754年、東大寺の戒壇堂にて、聖武天皇が鑑真和尚から正式に受戒され、日本で初めて出家した天皇となられました。またこのとき同時に、「勝満」の戒名も受けられています。(もっとも、聖武天皇は、高僧、行基から戒律を受けたとする説もあります。)

 

鎌倉時代には、執権、北条時頼(1227~1263)が、臨済宗の渡来僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)に師事し、1256年3月、執権職を辞して出家し、覚了房道崇という戒名を受けています。ただ、戒名も葬儀のときに仏弟子となった意味で贈られる風習ができたのは室町時代になってからだとされています。

 

戦国時代になると、いつ自分の命が果てるかも知れない武将たちは、生前から俗名(本名)を捨て戒名を名乗ることが行われてきました。例えば、武田信玄は、俗名は武田晴信ですが、後に出家して「信玄(徳栄軒信玄)」、上杉謙信も上杉輝虎から、出家して「謙信(不識庵謙信)」と、それぞれ戒名を使用しました。

 

ただし、現在のように、一般家庭においても、戒名を用いるようになったのは、江戸時代に入ってからと言われています。徳川幕府は、キリシタン禁制を徹底させるために、人々は必ずどこかの寺院に属さねばならないという「檀家制度」を実施しました。

 

これによって、すべての日本人は、仏教を信仰し、必ず菩提寺(ぼだいじ)(=先祖代々の墓があり、仏事などでお世話になる寺院)を持ち、その檀家となることが義務付けられました。

 

その寺の壇家であることの証明として、戒名が付けられるようになりました。結果として、それまでの高級武士や、貴族だけでなく、庶民の葬儀も僧侶が執りおこなうのが当たり前となりました。こうして、生前、戒名を受けていない人も、死後、出家の有無にかかわらず、戒名を必ず授かるのが一般的となっていったとされています。