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2020年07月29日

歴史:十字軍

これまで、キリスト教の成立から東西教会分裂までの経緯をみてきました。これからはまず、西方教会であるローマ・カトリック教会の推移をみていきますが、中世の時代の代名詞ともいえる十字軍について解説します。十字軍について知っておくことで、ローマ教皇の政治的な役割や、イスラム教との関わりなどを学ぶことができるからです。

 

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十字軍(Crusades)とは、西ヨーロッパのキリスト教世界による、西アジアのイスラム教世界への軍事活動で、11世紀末から、最終的には十字軍の拠点アッコンが陥落する13世紀末まで、約200年間にわたって展開されました。十字軍の直接の動機は、イスラムのセルジューク朝の侵攻にさらされていたビザンツ帝国の皇帝アレクシオス1世が、1095年にローマ教皇に援助を要請したことによります。

 

セルジューク朝は、1071年のマンジケルトの戦いでビザンツ軍を敗った後に、ビザンツ帝国領小アジアへの進出を本格化させていました。イスラム勢力は、637年に、キリスト教の聖地エルサレムをも占領し、さらにビザンツ帝国に迫っていました。(もっとも、エルサレムはイスラム教徒にとっても聖地)。

 

そこで、助けを求められたローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年11月27日に、クレルモン宗教会議を開き、セルジューク朝から聖地エルサレムを回復させるという宗教目的の下に、十字軍の派遣を提唱しました。「十字軍」という名称も、参加した兵士が胸に十字架の印を付けていたからです(「聖戦」と考えられていた)。

 

当時、11世紀から13世紀の西ヨーロッパにおいて、ローマ教皇の権威は、神聖ローマ帝国(いまのドイツ)の皇帝を破門して屈服させるなど、皇帝を上回っていました。この教皇の呼びかけに対して、国王、諸侯、商人など様々な人々が応じました。彼らは、少なくとも当初は、宗教的情熱という共通する動機は共有していましたが、それぞれ違った思惑をもって参加しました。

 

参加を呼びかけたローマ教皇は、これを機会に、聖地奪回に加えて、1054年に互いに破門し合って東西に分離したキリスト教会を再び統一し、ローマ教会の主導権を確保することを目指していました。国王や諸侯は領地や戦利品の獲得が目的でしたし、べネチアなどのイタリア商人は、十字軍にからんで大儲けしようと商業的利益をもくろんでいました。さらに、援助を請うたビザンツ皇帝も、自国領の小アジアに侵入したセルジューク朝の勢力を排除するために、西ヨーロッパの軍隊(十字軍)の力を利用しようと考えていたのです。

 

さて、クレルモン宗教会議で教皇ウルバヌス2世によって提唱された十字軍は、1096年7月の第1回から、一般に1270年の第8回まで展開されました(7回または9回とする計算の仕方もある)。

 

 

  • 第1回十字軍(1096年-1099年)

 

1096年7月、ウルバヌス2世の十字軍運動の呼びかけに応じたフランス・ドイツ・南イタリアの国王や諸侯や一般般の民衆までもが参加して、第1回十字軍が編制されました。各軍団は、それぞれコンスタンチノープルに向かい、そこでビザンツ皇帝アレクシオス1世に臣従の形式をとり、ビザンツ軍と合同して、戦いました。まず、ニケーアを落とし、アンティオキアを占領、シリアに入り、1099年7月にエルサレムを陥落させ、エルサレム王国を建国しました。

 

十字軍による虐殺・迫害

ただし、この時、エルサレムの城内に突入した十字軍兵士は、非戦闘員も含めて大虐殺を行い、略奪をほしいままにしたと記録されています。アラブ側の史料に拠れば「虐殺・略奪は1週間に及び、7万人以上の人が殺され、岩のドームの財宝は空になった」と言われています。

 

虐殺されたのは、アラブ人・トルコ人・エジプト人・エチオピア人などのイスラーム教徒だけでなく、ユダヤ人も含まれていました。「エルサレムを奪回しようとする今、ユダヤ人のために血を流すことになったイエスの復讐をしよう」などと煽動された民衆が襲撃したと解されています。

 

エルサレム以外でも、ドイツのライン地方の都市でユダヤ人居住区のシナゴーグが襲撃され、多くが殺されるなど、ヨーロッパにおけるユダヤ人への本格的な迫害が、十字軍運動が盛り上がったのと同じ時期に始まっています。

 

 

十字軍国家

また、この第1回の十字軍以来、セルジューク朝などのアラブ側から奪った征服地のシリア・パレスチナ沿岸に、エルサレム王国だけでなく、エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国といったローマ・カトリックを信仰する「十字軍国家」が建設されました。ヨーロッパの封建制度を導入し、名目的に、エルサレム王国の国王が、他のエデッサ伯、アンティオキア公、トリポリ伯を封建領主として封土を与えるという形をとられました。

 

エデッサ伯国

1098年に建国。ユーフラテス川上流のメソポタミア地方の北辺(ジャジーラ)にあたり、エデッサ伯国は十字軍国家の最も北に位置する国家であった。1144年、イスラーム勢力によって奪回された。

 

アンティオキア公国

1098年に、シリア北部に建国。十字軍の占領した最大の都市であった。170年にわたってキリスト教国として存続したが、1268年にマムルーク朝によって滅ぼされた。

 

トリポリ伯国

1109年、トリポリは地中海に面したレヴァント(現在のレバノン周辺)に建国。その後伯位をその子孫が継承し、アンティオキア公国が滅亡した後も、いくつかの都市を統治して生き延びたが、1289年、マムルーク朝軍によって陥落、破壊された。

 

 

  • 第2回十字軍(1147年~1148年)

 

この十字軍国家のうち、エルサレム王国のエデッサ伯国は、1144年にトルコ系のザンギー朝によって滅ぼされてしまいました。これを受けたシトー派修道士の聖ベルナールの呼びかけに応じ、フランス王ルイ7世とドイツ王コンラート3世らが、1147年に第2回十字軍を編制しました。この時の十字軍の特徴としては、国王が主体となって十字軍が組織されたことや、騎士団が初めて十字軍に参加したことなどがあげられます。

 

騎士団とは

修道と騎士精神を滋養しつつ、病気などになった巡礼者の巡礼保護や、聖地の防衛を目的として形成された団体で、十字軍の進展に伴って発展していった。イスラム教徒の軍事力に対する劣勢を補う役割を担い、実質的な常備軍として、エルサレムや十字軍国家内に駐屯し、キリスト教諸国家の防衛に当たった。騎士修道会ともいわれ、テンプル騎士団(1119年創設)、ヨハネ騎士団(1113年認可)、ドイツ騎士団(1199年公認)が三大騎士団として有名です。第二回十字軍ではテンプル騎士団が初参加した。

 

第2回十字軍は、陸路を取り、コンスタンティノープルを経て、アンティオキアに入りましたが、そこから、エデッサ伯国ではなく、聖地巡礼を望む国王らの意向で、エルサレム王国に向かい、キリストの墓(聖墳墓)のある聖墳墓教会で祈ることができました。その後、イスラーム勢力側の拠点ダマスクス攻略を目指しましたが、1148年、ザンギ―朝軍の反撃を受け、失敗に終わりました。

 

一方、イスラム側では、12世紀後半、エジプトに、サラディン(サラーフ=アッディー)がアイユーブ朝を興すと、自らをスルタンと名乗りました。サラディンは、1187年、エルサレム王国軍との戦い(ヒッティーンの戦い)に勝利し、聖地エルサレムは奪還されました。

 

 

  • 第3回十字軍(1189年~1192年)

 

エルサレムを奪われたことを知ったローマ教皇は、ただちに十字軍の派遣を呼びかけ、前回と同じく民衆の巡礼団と封建領主軍が編成された。今回は、イギリスの獅子心王と異名をとるリチャード1世、ドイツの赤ひげ帝・フリードリヒ1世、フランスの尊厳王・フィリップ2世といった英仏独三国の有能な君主が参加するなど、大規模な編制となり、聖地再奪回への意気込みを見せました。

 

しかし、1189年、遠征が開始されると、赤ひげ帝フリードリヒ1世は小アジアで事故で死去し、ドイツ兵も大半が引き揚げてしまいました。そうした中、イギリス王リチャード1世は、キプロス島を拠点として海上からアッコンを攻撃し、1191年7月、奪回に成功しました。その後、リチャード1世とフィリップ2世は、仲が悪く、フィリップ2世は本国に引き揚げてしまい、単独で戦うこととなったリチャード1世は、聖地エルサレムを回復をすることはできず、1192年9月、サラディンとの間で3年間の休戦協定を結び、遠征を終えました。

 

講和条約では、十字軍はエルサレムがアイユーブ朝の主権下に置かれることを認める一方、キリスト教徒は、通行証を受け、平穏に聖地に巡礼することができるようになりました。なお、今回の遠征で奪回したアッコンが、エルサレム王国の都として存続することになりました。

 

一方、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)フリードリヒ1世が、十字軍の途上に事故死したことで、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の力関係に大きな変化が生じ、ローマ教皇インノケンティウス3世の権威は最高のものとなりました。「教皇は太陽、皇帝は月」と豪語したと言われています。

 

 

  • 第4回十字軍(1202年~1204年)

 

東西教会を統一させることをめざすインノケンティウス3世(在1198年~1216年)は、教皇権が全盛となった機会に、教皇権のもとに西ヨーロッパを統合する目的で、十字軍の派遣を提唱しました。

 

しかし、1202年に開始された第4回十字軍は、事もあろうに、聖地エルサレムではなく、コンスタンティノープルに向かいました。それは、今回の十字軍の主力であったフランドルやシャンパーニュの北フランスの諸侯軍の輸送を請け負ったべネチアの商人たちの謀略だったとされています(一説には、北フランス諸侯軍が運賃を払えなかったことを利用したと言われる)。当時、コンスタンチノープルは、100万の人口をほこり、東西貿易の要として繁栄を続けていました。そこで、ベネチア商人たちは、コンスタンチノープル商人の権益を奪い取り、東方貿易独占しようと目論んだのです。

 

1204年、十字軍は、コンスタンティノープル、さらに周辺の都市やエーゲ海の島々を攻撃し占領、掠奪し、ラテン帝国を建設しました。これは、十字軍の本来の目的から大きく逸脱する行為でした。

 

 

東西教会の最終分裂

 

この十字軍の「暴挙」によって、ローマ・カトリック教会と東方正教会の分裂を決定的にしました。両者は、1054年に教義上の対立から互いに破門し合い、東西教会は袂を分かちましたが、それでもまだ交渉は続き、修復の試みがなされていました。

 

しかし、十字軍は、コンスタンティノープルを占領したことで、両者の対立は修復困難な状態となってしまいました。ラテン帝国によってコンスタンティノープル総主教は廃位され、教会や修道院の財産が没収されるなどの東方教会への弾圧が加えられたのです。さらに、コンスタンチノープル攻撃の報を受けたインノケンティウス3世は、当初、激怒し、十字軍を破門にしましたが、成功したことを知ると破門を解いて十字軍を祝福したのでした。

 

(なお、この後、1212年には少年十字軍という運動もあった。)

 

 

  • 第5回十字軍(1217年~1221年)

 

1204年にコンスタンティノープルを攻略した第4回十字軍が、エルサレム攻略に向かわないのに失望したローマ教皇インノケンティウス3世(在1198年~1216年)が、新たな十字軍の招集を呼びかけました。公式には、新たに教皇となったホノリウス3世の提唱で、第5回十字軍が召集された形となり、アイユーブ朝の本拠であるエジプトの攻略を目指しました。当初(1218年)、エジプトの海港、ダミエッタ(ディムヤート)の占領に成功しましたが、カイロ攻略に失敗し占領地を返却して撤退しました。

 

なお、第5回の十字軍は、ローマ教皇主導で行われた最後の十字軍となりました(これ以降の十字軍は各国王の主導による)。

 

 

  • 第6回十字軍(1228年~1229年)

 

この十字軍は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が編制した十字軍です。フリードリヒ2世は、ローマ教皇グレゴリウス9世から十字軍実施を条件に皇位を授けられた皇帝でした。ところが、フリードリヒ2世は、教皇の度重なる催促にもかかわらず応じようとしなかったので、グレゴリウス9世から破門されてしまいました。

 

こうした背景下、1228年になってついに、フリードリヒ2世は、破門されたまま遠征を開始しました。アラビア語も理解する開明的な人物として知られるフリードリヒ2世は、巧みな外交術を駆使し、交渉によって、1229年2月、アイユーブ朝とヤッファ条約を締結し、戦闘を交えることなく聖地エルサレムを回復することに成功しました。

 

具体的には、ウマルのモスクとアル・アクサ寺院などイスラムの聖堂が集まっている地域の管轄権はイスラムが保持するとの条件で、聖墳墓教会の管理権を含むエルサレムと海岸に至る周辺の統治権を奪回したのです。その合意後、フリードリヒ2世はエルサレム王国の国王として入城しました。

 

(フリードリヒ2世の十字軍は、ローマ教皇の主導権によるものではなかったので、「フリードリヒの十字軍」、「破門十字軍」としか呼ばれない場合もある。)

 

しかし、教皇グレゴリウス9世は、フリードリヒ2世が破門を解かれないままエルサレム国王になったことを口実に、フリードリヒ2世に対する十字軍を実施しました。しかし、フリードリヒの皇帝軍に撃退されたため、グレゴリウス9世は、1230年にフリードリヒの破門を解かざるをえませんでした。

 

  • 第7回十字軍(1248年~1249年)

 

フリードリヒ2世と平和条約を結んだアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルが死去すると、1244年にエルサレムは、イスラム勢に攻撃されて陥落し、三度イスラムの支配するところとなりました。

 

これを受け、1248年に、聖王と呼ばれるほど敬虔なキリスト教信者であったフランス国王ルイ9世が主唱して、十字軍を興しました。ルイ9世も、イスラム側の拠点、エジプトへと遠征しましたが、首都カイロを目指す途中の1250年2月にマンスーラの戦いにおいてアイユーブ朝のサーリフ(サラディン2世)に敗北して捕虜になってしまいました。

 

しかし、交渉途中にサーリフは死亡し、アイユーブ朝は、軍人集団のマムルークのクーデターによって打倒され、新たにマムルーク朝が成立しました。結果的に、ルイ9世も莫大な身代金を払って釈放されました。

 

モンゴルと同盟!?

ルイ9世は、1241年のワールシュタットの戦いで、ポーランド・ドイツ連合軍を破ったモンゴル帝国と提携し、イスラム勢力を挟み撃ちにするという遠大な構想を抱いていたと言われていますが、実現しませんでした。

 

第7回十字軍後、マムルーク朝には、サラディンと並ぶ中世イスラムの英雄とされるバイバルス(在位 1260~77)がスルタン(君主の称号)になりました。バイバルスは、シリアにあるキリスト教都市に対して攻勢をかけ、1268年にはアンティオキアを陥落させて、アンティオキア公国は完全に壊滅しました。

 

 

  • 第8回十字軍 (1270年、1271~72年)

 

アンティオキア公国の崩壊を受け、1270年、フランス王ルイ9世が、第8回の十字軍を起こし、再度出兵しました。ただし、目指した先は、マムルーク朝の本拠のカイロではなく、当時ハフス朝(ベルベル人のイスラム王朝)の支配下にあったアフリカ北岸(チュニジア)のチュニスでした。チュニジアのスルタンは、以前からキリスト教に理解を示し、キリスト教への改宗も考えているといわれているほどでした。そこで、ルイ9世はスルタンを支援してチュニジアを十字軍の供給基地にしようと考えたのでした。

 

十字軍はチュニスに上陸し、イスラム軍と交戦しましたが、チェニスにはチフスが蔓延しており、ルイ9世も感染し、現地で死去してしまいました。

 

一方、残された軍勢の多くは帰国しましたが、1271年、ルイ9世の弟シャルル・ダンジューは、新たに到着したイングランド王太子エドワード(エドワード1世)と共に、アッコンへ向かいました。

 

(この遠征を第9回十字軍と呼ぶことがありますが、第8回からの一連の流れにあるため、第8回十字軍の一部として独立した十字軍とは見なさない場合もあります。前者の場合は、ルイ9世の死をもって第8回十字軍は、最後の十字軍として終了となります。本投稿では後者をとります。)

 

しかし、この十字軍も、マムルーク朝の勢力の前に成果を収めず撤退を余儀なくされてしまいました。以後、十字軍国家は縮小の一途をたどり、1289年にはトリポリ伯国が滅亡しました。その後、十字軍の拠点は、テンプル騎士団らが死守するいくつかの城と、アッコンを首都とするエルサレム王国のみとなりました(エルサレムを首都とした全盛期の10%以下の領土に縮小)。

 

マムルーク朝は1291年、最後のエルサレム王国の都、アッコンに対して総攻撃を行い圧勝、「海に掃き落とす」ように陥落させたそうです。残余の都市も掃討され、騎士団の一部はキプロス島に逃れましたが、住民のほとんどは殺害されたとされています。

 

これによって、11世紀末からはじまった十字軍運動は約200年で終わりを迎え、十字軍国家は全滅しました。ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は、第1回十字軍の1099年から1187年と、第6回十字軍の1229年から1244年のみということになり、十字軍による聖地奪回の試みは失敗に終わりました(十字軍時代は完全に終わった)。

 

 

キリスト教との関連でいえば、十字軍の失敗によって、教皇の権威が低下し、以後、教皇権の衰退につながっていきました。

 

 

<参照>

世界史の窓

Zorac歴史サイト

Wikipediaなど

 

2020年07月23日

憲法:13条(幸福追求権)はいかにしてできたか?

前回、日本国憲法第13条を解説しました。押しつけ憲法とも批判される日本国憲法にあって、この13条がどういう経緯で完成したかをみてみたいと思います。本文でも軽く説明はしますが、初めて読まれる方は、以下の投稿を読まれてから、本文に入っていただくとよりわかりやすいと思います。

 

日本国憲法:まじめな解説 幸福追求権(13条)

日本国憲法制定の経緯

 

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第13条 (個人の尊重・幸福追求権)

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

本条は、個人主義の精神を謳い、国民の生命・自由・幸福追求という基本的人権の尊重を規定しています。

 

個人主義は、欧米社会の基本理念です。日本国憲法が、その個人主義の思想に立脚し、「生命、自由、幸福追求の権利」が国民に与えられたということは、13条はアメリカからの影響が大きいことが予想されます。実際、「生命、自由及び幸福追求の権利」は、アメリカ独立宣言から採られたと断言できます。

 

アメリカ独立宣言(抜粋)

われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求が含まれることを信ずる

 

戦前の日本は、「個人」よりも「家」を重んじた時代でした。従って、本条のような個人の尊厳や幸福追求権のような包括的な権利を規定した13条のような条文は帝国憲法にはありませんでした。

 

GHQ(連合国軍総司令部)は、マッカーサー3原則の三番目の趣旨に従って、日本の封建的な家制度の解体と、欧米流の個人主義を日本に定着させようとしたと想定されます。

 

マッカーサー三原則

〔1〕天皇は国家元首の地位にある。(象徴天皇制)

〔2〕国家の主権としての戦争は廃止される。

〔3〕日本の封建制度は廃止される。

 

GHQは、当初、本条に関して、日本の封建制を廃止させるべく、以下のような草案を作りました。

 

GHQ(総司令部)案

日本国の封建制度は終止すべし。一切の日本人はその人類たることにより個人として尊敬せらるべし。一般の福祉の限度内において生命、自由および幸福探求に対するその権利は、一切の法律および一切の政治的行為の至上考慮たるべし。

 

 

これに対して、総司令部案に基づき日本側が起草した政府案(「3月2日案」とも呼ばれる)では、封建制度の廃止に関する部分は不必要であるとして削除しました。

 

日本政府案

すべての国民は個人として尊重せらるべく、その生命、自由および幸福の追求に対する権利は公共の福祉に抵触せざる限り、立法その他諸般の国政の上において最大の考慮を払はるべし。

 

その後、再度、GHQとの協議の結果、文言調整されて、現行の13条となりました。

 

 

改憲を目指す人々からすれば、13条は、まさにアメリカから導入された考え方の典型です。当時、個人主義の思想は日本を含めたアジアの国々にはあまり馴染まない考え方でした。日本の伝統的な価値観からすれば、個人と同様に、家族や社会も重んじられます。保守層には、個人主義を憲法の根本原理とする考えには違和感を覚えるでしょう。

 

これに対して、護憲派は、日本国憲法がアメリカから与えられ、アメリカの思想が色濃く反映されていたとしても、個人の尊重を擁護、推進することは、人類として目指す共通の理念だと反論しています。

 

 

<参考投稿>

憲法;21条(表現の自由)はいかにしてできたか?

 

 

2020年07月22日

日本国憲法:まじめな解説 幸福追求権(13条)

 

新型コロナウイルスの問題で、最近、PCR検査で陽性となった人と連絡がとれなくなっているという事態が起きているそうです。感染法上、コロナの陽性者は隔離されなければなりません。ですからそれが今回のように連絡が途絶えてできない場合、都道府県知事が、強制的にその陽性者の「身柄を確保」することもできるのですが、知事の中には「個人の人権」を考慮して、その行政執行を命じることを躊躇している人もいるそうです。そこで、改めて議論されるのが、「個人の人権」と「公共の福祉」による制約との関係です。

 

そこで、今回は、「公共の福祉」についての規定が明文化されている日本国憲法第13条を解説してみたいと思います。

 

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第13条 (個人の尊重・幸福追求権)

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

<意訳と解説>

国民はすべて個人として尊重される。そのためには、各個人が生命を保持し、自由を追求、さらに幸福を求める権利が保障される必要がある。したがって、この各個人の生命、自由、幸福を追求する権利は、公共の福祉に反しない限り、国会をはじめとする政治の場において、最大限に尊重されなければならない。

 

第1文の「個人として尊重」は、国家権力から個人の尊厳を守るという憲法の究極的目的を示しています。個人に最も重い価値を置く考え方を「個人主義」といいます。憲法は、個人主義の思想に立脚しており、13条は個人主義の表れと解されています。個人主義は、自分さえよければいいという利己主義的な考え方ではなく、個人に最も高い価値があると考え、各人が個人として尊重されることを前提に国家が存在するとみなします。

 

そこで、「個人として尊重される」ためには、生命、自由が保障され、また、各人が自己の決定に基づいて幸福を追求する権利が保障される必要があります。このことを第2文で、「生命、自由、個人の幸福追求権については、最大の尊重を必要とする」と規定しています。

 

 

<新しい人権>

 

また、「幸福追求に対する国民の権利(=幸福追求権)」は、それ自体が特定の行為を保障する人権ではなく、「新しい人権」を保障する根拠となる包括的人権(包括的基本権)と解されています。「新しい人権」とは、日本国憲法施行後、「知る権利」や「プライバシー権」のように、憲法に書かれていなくても、時代の変化・社会の変革に伴い、新たに人権として保障する必要があると考えられるようになった権利のことをいいます。

 

では、具体的に「新しい人権」にはどういう権利があるのかと言えば、服装の自由や趣味の自由など、あらゆる利益が「人権」として保障されるわけではなく、個人の人格的生存の不可欠な権利だけが「人権」として保障されます。

 

この幸福追求権から導き出される新しい人権として、学説では、これまでプライバシー権、肖像権、人格権、環境権(日照権、静穏権、眺望権、入浜権)、嫌煙権、自己決定権などが主張されてきました。

 

このうち、裁判の判例で明確に認められたものは、現在のところ「人格権」、「プライバシー権」、「肖像権」のみとなっています。なお、知る権利は、表現の自由の中で認められていますが、広義には新しい人権に含む場合もあります。

 

 

  • 人格権

人格権とは、身体・名誉・信用・肖像・氏名など、個人の人格に関わる利益について保護を求める権利の総称のことをいうと定義づけられています。

 

このうち「名誉」は、個人の人格価値の基本部分を占めており、人格権の重要な構成要素で、「人格権としての名誉権」と表現される場合もあります。判例では、「名誉を違法に侵害された者は、人格権としての名誉権に基づき、侵害行為の差し止めを求めることができる(北方ジャーナル事件)」とあります。

 

 

  • プライバシー権

 

私事をみだりに公開されない権利

 

プライバシー権とは、個人の人格にかかわる事項や私生活上の事実を、国や他人にみだりに公開されない権利で、「そっとしてもらう権利」、「放っておいてもらう権利」、「かまわないでいてもらえる権利」です。特に、私人間における私生活上の事実の公開は、不法行為にあたります。

 

私生活を公開されないことによってはじめて、私たちは、人格を熟成し、自己実現(幸福追求)を可能にすることができるとみなされています。

 

現代社会にあって、プライバシーの権利は、人格的利益として、人格権に包摂される権利とも解され、法的に保障されています(プライバシー権は法的保護/法律上の保護の対象)。これには、例えば、前科等を公開されない利益も含まれます。

 

京都市前科照会事件

京都市が、弁護士会からの照会を受け、前科者の情報を開示したことに対して、最高裁は損害賠償請求を認めたという判例があります(京都市前科照会事件)。

 

ある者が刑事事件において有罪判決を受け、服役したという事実は、その者の名誉あるいは信用に直接にかかわる事項であって、その者が、みだりに当該前科等にかかわる事実を公表されないことは、法的保護に値する利益を有する(法律上の保護に値する利益を有する)」と判示されました。

 

このことは私人が公表した場合であっても変わらず、「私人の著作物によっても前科を公表されないことにつき法的保護に値する利益がある(ノンフィクション「逆転」事件)」ことを認めています。

 

 

江沢民早大講演会訴訟

 

また、中国の江沢民、当時前国家主席が来日し、早稲田大学で講演を行った際、学校側が、警察に参加者リストを渡したという「事件」がありました。この行為について、判例では、「講演会出席申込者の学籍番号、氏名、住所、電話番号は、秘匿されるべき必要性が高いものではないが、学生らの意思に基づかずにみだりに他者に開示することは許されず、大学が学生らに無断で警察に開示した行為は不法行為となる」としました。

 

なお、こうした判例から、プライバシー権が他の人権に対して優越性があるというわけではなく、(芸術の価値を含む)言論、表現等の自由の保障と、プライバシーの保障とは一般的にはいずれが優先するという性質のものでないという判例もあります(「宴のあと」事件)。

 

 

自己に関する情報を自分でコントロールする権利

 

一方、プライバシー権について、最近では、ITなど情報化技術がさらに発展してくると、むしろ公権力や大組織が、姓名、住所、電話、趣味、経済状態など個人に関する大量の情報を収集・保管するようになり、個人のプライバシーにとって脅威になるという認識が高まってきました。

 

私たちの個人情報が、ダイレクトメール利用などのために、収集・売買の対象にもなるなど、現代のようなデータバンク社会においては、「個人情報の不当な収集は、個人の人格的自律を脅かす恐れがある」という認識から、個人情報は、保護の対象となっています。

 

こうした背景から、プライバシー権は、伝統的な「私生活をみだりに公開されない権利」に加えて、現在では、「自己に関する情報を自分でコントロールする権利」も加わるようになりました。具体的には、プライバシーの保護を国や企業に対して、自己に関する情報の閲読を求め(開示請求)、それが誤りを含んでいる場合には、訂正や抹消を求めるという請求権(社会権)的側面を持つようになったのです。

 

プライバシー権:私生活をみだりに公開されない権利=自由権的側面

プライバシー権:自己に関する情報をコントロールする権利=請求権的側面

 

 

◆(発展)抽象的権利と具体的権利

 

もっとも、個人が国家機関の保有する情報について閲読、訂正や抹消を求めるためには、一般に、請求権を根拠づける法令が必要と解されています。これは、憲法学上の難しい考え方で、この請求権的な側面は、抽象的権利に過ぎないからだと説明されます。

 

抽象的権利とは、憲法でその権利が認められたとしても、その権利侵害に対して、権利の内容を具体化する立法が制定されていなければ裁判所に訴えることはできない権利と説明されます(これを難しい表現で、「裁判規範性がない」という)

 

抽象的権利に対して、具体的権利があり、こちらは権利侵害に対して、憲法より下位である法律で規定されていないくても、直接、裁判で訴えることができる権利です(「裁判規範性がある」という)。

 

プライバシー権に関していえば、伝統的な私生活をみだりに公開されない権利の方は、具体的権利とされているので、これが侵害された場合、裁判で直接争うことができ、勝訴した場合は、裁判所は、憲法13条違反を認めたことになります。

 

ですから、個人が国家機関の保有する情報について閲読、訂正や抹消を求めるというプライバシー権の請求権的側面については、現在、地方公共団体が、個人情報開示を条例化、国も個人情報保護法など個人情報に関する法制度を整備しているのです。

 

プライバシー権

私生活をみだりに公開されない権利⇒具体的権利=裁判規範性がある

自己に関する情報をコントロールする権利⇒抽象的権利=裁判規範性がない

 

 

  • 肖像権

肖像権は、自己情報をみだりに公開されない権利で、プライバシー権に含まれます。

 

京都府学連事件において、「国民の私生活上の自由の一つとして、その承認なしに、みだりにその容ぼう・姿態を撮影されない自由を有する。これを肖像権と称するかどうかは別として…」と、みだりに容貌を撮影されない自由を認め、これを侵害することは、憲法13条の趣旨に反すると断じました。

 

裁判では肖像権という言葉を明確には使わずに、「自己情報をみだりに公開されない権利」を、第13条を根拠として(新しい)人権と認めました。以後、肖像権は、13条の幸福追求権の具体的権利として保障されています。

 

このように、13条を根拠に「人権」が認められると、(具体的権利であれば)通常の人権と同様に、権利の内容を具体化する立法が制定されていなくても、裁判でその侵害を主張することができます(裁判規範性がある)

 

 

<「公共の福祉」の制約>

 

こうした新しい人権(幸福追求権)も、憲法13条の規定にあるように「公共の福祉に反しない限り」保障されます(公共の福祉の制約を受ける)。

 

「公共の福祉」とは「人権相互の矛盾・衝突を調整する原理」とされ、「公共の福祉に反する」とは、他の人の人権と衝突し、他の人の権利や利益が侵害されるような場合をいいます。

 

人権が国家権力との関係で保障されるとしても、人権が無制限に保障されるということではありません。人間が生きていくためには、社会とのつながりを無視することができません。社会には自分以外にも多くの人がいるので、その人たちの人権との調整が必要な場面がでてきます。

 

幸福追求権にも、権利の性質や、他者との関係などによる限界・制限があります。例えば、肖像権も、無制限に保護されるわけではなく、公共の福祉のため必要がある場合には、相当の制限を受けることになります。例えば、以下の判示のように、犯罪捜査のために必要なら、厳格な要件の下で、個人の容貌などの写真撮影が認められます。

 

「警察官が現に犯罪が行われていると認められる場合で、証拠保全の必要性および緊急性も認められるときに、相当な方法で本人の同意または裁判所の令状なしに個人の容貌等を撮影することは憲法に反しない。」

 

 

<包括的基本権>

 

このような、個人主義の精神と、国民の生命・自由・幸福追求権の保障を定めた13条は、個別的な人権の基礎をなす、基本的人権保障の総則的規定すなわち包括的基本権と位置づけられています。ですから、これらの人権が公共の福祉に反するときに受ける一定の制約(13条にいう「公共の福祉」)も、幸福追求権も含めたすべての人権が甘受すべき内在的制約原理と解されています。

 

日本国憲法の中には、基本的人権保障の総則的規定が、13条以外にも、12条(自由・権利の保持)や31条(法定手続きの保障)にあります。

 

 

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<補足①>

新しい人権の中で、具体的権利として裁判所が認めていない権利の中で議論されてきたものを列挙してみたいと思います。

 

環境権

1960年代以降、大気汚染や騒音など環境問題が深刻化する中で、環境権が主張され出しました。環境権は、「健康で良好な環境のもとで生活する権利」として、学説上は、新しい人権として通説となっています。人が人格を維持し幸福を追求するには、環境に対する権利も不可欠だからです。

 

しかし、判例では、環境権の内容が明確でないことなどから、環境権そのものについて(環境権という名の権利)は、13条に基づく「新しい人権」とは認められていません(「具体的権利性が認められなかった」という言い方をする)。

 

 

指紋押捺を強制されない自由(権利)

 

権利の性質上、外国人に保障されますが、外国人登録法が定める在留外国人についての指紋押捺制度は、憲法13条には反しないという判例があります。これは、指紋押捺制度が、外国人の人物特定につき最も確実な制度として制定されたもので、方法としても一般的に許容される限度を超えない相当なものであると解されているからです。このケースは、公共の福祉のために必要がある場合に、甘受しなければならない制約の一例といえます。

 

 

喫煙の自由

 

喫煙の自由も、13条の基本的人権の一つとして含まれるとされていますが、一般論として喫煙の自由を認めたものにすぎず、喫煙の自由を新しい人権の一つとして正面から認めたものではありません。

 

喫煙の自由に関しては、在監者(未決拘留中の者)に対する喫煙を禁止した監獄法施行規則96条の妥当性が争われましたが、在監者の喫煙を禁止することは、火災の危険や逃走の危険を防ぐための必要かつ合理的な制限であるとして、禁止の措置は合憲とされました。

 

 

心の静穏を乱されない利益(とらわれの聞き手事件)

 

「とらわれの聞き手の事件」とは、「地下鉄の車内放送がうるさく、聞きたくなくても聞かなければならないことは、車内に拘束されている乗客(とらわれの聞き手)の人格権を侵害するものである」として、放送の差し止めと損害賠償が請求されたという事件です。

 

判例は、個人は他者から自己の欲しない刺激によって、心の静穏を乱されない権利を有しており、この権利は、憲法13条の幸福追求権に含まれると解されるが、憲法上の権利として承認されているわけではなく、地下鉄の車内における商業宣伝放送程度では、違法ということはできないとして、請求を退けました。

 

 

自己決定権

 

幸福追求権の一環として、個人は一定の個人的事柄について、公権力から干渉されることなく、自ら決定し、かつ行動できるという権利を有していると解されています。これは、個人の尊重には、自己決定権が保障されていなければならないという考え方に基づいています。

 

ただし、自己決定は、周りに反対されて、自分の決めた通りに行動できなかったということで問題になるのではなく、あくまで、国など権力的な地位にある機関が、本人の自己決定を、例えば、強制的に実行させなかったり、承諾しなかったりというような場合に発生します。以下に、自己決定権に関する2つの判例を紹介します。

 

 

自家製酒をつくる自由(酒をつくる権利) 

 

被告人が無免許で、自己消費用の清酒等を自家製造した容疑で起訴された事件がありました(「どぶろく事件」)。この時、酒類販売における免許制を定めた酒税法に対して、自己消費目的の酒類製造にまで適用されるのは憲法13条に反するのではないかが争われました。判例では、酒類販売における免許制は、たとえ自己消費目的であったとしても、酒税の徴収確保のため、合理的な制限として、合憲とされました。

 

 

エホバの証人輸血拒否事件

 

エホバの証人の信者が、輸血拒否の意思を示していたにもかかわらず、医師が無断で輸血を行ったため、損害賠償請求を提起しました。

輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を拒否する明確な意思がある場合、このような意思決定をする権利は人格権の一内容として尊重されなければならないとされました。また、患者の意思を知っていたにもかかわらず、手術の際に、輸血以外に救命手段がなかったとはいえ、輸血をするという方針を医師が説明しなかったことは、患者の意思決定の権利を奪うものであり、人格権の侵害にあたると、判示されました。

 

このほかにも、自己決定権の問題として、身近な例では、高校の校則による髪形やバイク通学の禁止・制限の問題がありました(いずれも、これらを定めた校則は合憲)。また最近では、自己決定権に関して、①厳死や安楽死、臓器移植などの自己の生命・身体の処分にかかわる問題、②妊娠・出産など家族の再生産(リプロダクティブ・ライツ)にかかわる問題、➂医学界におけるインフォームド・コンセント(説明と同意)の問題など、本人にどこまで自己決定権が認められるかについて、活発に議論されています。

 

 

<補足②>

13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の「生命に対する国民の権利」から、国家には、日本国憲法に直接書かれていない自衛権があるとの解釈もあります。

 

「国民の生命」を守るためには、政府は他国の攻撃から、自国民を守らないといけないというのですね。ですから、「9条で戦争のための戦力保持は禁止されているが、政府は13条で国民を守らないといけない、だから、そのための最低限の実力(=自衛隊)は必要」との解釈が成り立つわけです。

 

<参考投稿>

日本国憲法;まじめな解説 表現の自由(21条)

 

<参照>

憲法 伊藤真(弘文堂)など

 

2020年07月19日

歴史:アメリカ独立戦争とフランス革命

7月は、アメリカの独立戦争と、フランス革命が起きた月です。どちらもその後の世界の歴史に大きな影響を与えた出来事でした。世界の三大市民革命に数えられる、二つの「事件」を概観してみます。ただ、この2つの市民革命が起きた背景には、その約100年前から始まったイギリスとフランスの植民地戦争がありました。今回はこの時代から紐解いてみましょう。

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  • 英仏植民地戦争

 

18世紀は、イギリスとフランスが覇を争った世紀という言い方ができます。舞台は、欧州での戦争に関連した北米とインドでした。

 

イギリスは、1607年に最初の北米植民地ジェームズタウン(バージニア州)の建設に成功し、本国で迫害されていたピューリタン(清教徒)や毛織物工業の失業者などが移民してきました。

 

フランスも17世紀初めから北米に進出し、ケベックを中心にカナダを支配し、ミシシッピ川流域にもルイジアナ植民地を設立しました。18世紀には、ガドループなどカリブ海の砂糖植民地をも発達させました。

 

両国は、以下のように、欧州での戦争に関わりながら、時を同じくして北米やインドの植民地でも争い、ほぼ全ての戦いでイギリスが勝利しました。

 

ファルツ戦争⇒ウィリアム王戦争(北米)

スペイン継承戦争⇒アン女王戦争(北米)

オーストリア継承戦争⇒ジョージ王戦争(北米)

七年戦争⇒フレンチ・インディアン戦争(北米)、プラッシーの戦い(インド)

 

ファルツ戦争(1689~97)

フランスのルイ14世が、ドイツの選帝侯ファルツ伯領の相続問題に乗じて、継承権を主張し、領土の割譲を求めましたが、反対するドイツ諸侯に味方して、イギリスが、スペイン・オランダとともにフランスと戦った戦争。

 

 

スペイン継承戦争(1701~13)

スペインの王位継承をめぐり、ルイ14世が孫をスペイン王に即位させたことから、イギリスはオーストリア、オランダと対フランス同盟を結び戦いました。この戦いに対応して起きた北米でのアン女王戦争の結果、イギリスはフランスからニューファンドランドやハドソン湾沿岸などを獲得しました(ユトレヒト条約)。

 

 

オーストリア継承戦争(1740~48)

オーストリアの女帝マリア・テレジアの継承をめぐり、プロシアのフリードリヒ2世が異議を唱えたことがきっかけとなって、英仏西を巻き込んだ国際戦争に発展しました。イギリはオーストリアと組んで、プロシアを支援したフランス・スペインと対抗しました。

 

 

七年戦争(1756〜1763)

オーストリア継承戦争でプロイセンにシュレジエンを奪われたマリア・テレジアが、その奪回をめざして起こした戦争で、フランスは、ロシアともにオーストリアを支援して、プロシアについたイギリスと戦いました。

 

この時、16世紀以来、宿敵同士であったフランスのブルボン家と、オーストリアのハプスブルグ家が組むという「同盟の逆転」が起きました(「外交革命」と評された)。両家の和解の印として、ハプルスブルク家のマリー・アントワネット(マリア・テレジアの娘)が、フランスのルイ16世に嫁ぎました。

 

七年戦争と並行して戦われた、北米でのフレンチ・インディアン戦争、インドでのプラッシーの戦いは、両国の植民地獲得競争の最終決戦となりました。戦後、イギリスはフランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナなどをえました(パリ条約)。

 

この条約によって、フランスは、一時、北アメリカ大陸での植民地をすべて失いました。逆に、イギリスは、カリブ海の西インド諸島とアメリカ大陸の13植民地を中心とした広大な帝国を完成させました。

 

インドでは、イギリス東インド会社軍が、フランスとムガル帝国ベンガル太守の連合軍を破り、インドにおけるイギリスの優勢を確立しました。敗れたフランスは、インドから撤退し、インドシナ(ベトナム・カンボジア)に進出の方向を求めることになるのです。

 

このように、欧州の覇権を目指すフランスに対して、イギリスがオーストリア、またはプロイセンなどと同盟して戦いました。また、同時にアメリカ新大陸・インド植民地でも両国は衝突しましたが、ほぼイギリスの勝利に終わりました。

 

しかし、負けたフランスは言うまでもなく、勝ったイギリスもこの後、大きな犠牲を払うことになります。両国とも、長い戦いの間に財政がひっ迫、その戦費捻出のために、増税策をとろうとしました。イギリスでは植民地アメリカに対する新たな課税からアメリカの独立、フランスでは特権階級への課税をきっかけに、革命によって政体そのものの倒壊するのです。

 

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  • アメリカ独立戦争

(1774年7月4日:米独立記念日)

 

イギリス人は、1607年のバージニア植民地を皮切りに、1732年のジョージア植民地まで、北アメリカの東海岸地帯に13の植民地を作り入植しました。1619年には、最初の植民地議会がバージニア植民地のジェームズタウンで開かれるなど、18世紀前半までに、イギリスの植民地アメリカは、それぞれ植民地議会や大学の設立といった自治的な政治体制を持っていました。

 

このように、アメリカの植民地の人とその子孫に、本国イギリス国民と同じ権利が与えられるとされましたが、13の植民地それぞれの代表をイギリス本国の議会へ送ることはできませんでした。ですから、植民地の人たちは、イギリス本国の植民地政策に口をはさむことはできなかったのです。こうした状況下、イギリスは、前述したように、度重なるフランスとの植民地戦争による負債を賄うために、植民地アメリカへの課税を強化しました。

 

 

「代表なくして課税なし」

 

イギリスは、1765年、植民地アメリカで発行される証書・新聞・広告などの印刷物に印紙税を課す(印紙を貼る)ことを定めた印紙条例印紙法)を制定しました。これに対して、植民地側は、「代表なくして課税なし」とする反対運動を起こし、条例は翌年、撤回されましたが、1773年4月には、イギリス東インド会社に、植民地アメリカへの茶の専売権を与えた茶法茶条例)を課しました。

 

これに強く反発した植民地側の貿易商人など一部の急進反対派は、同年12月、ボストン港に入港していた東インド会社の船に侵入して、茶箱342箱を海中に投棄する行動に出ました(ボストン茶会事件)。

 

イギリス当局は犯人を捕らえようとしましたが検挙できず、激高したイギリスは、翌1774年、報復措置として、ボストン港閉鎖法など「強圧諸法」を制定し損害賠償を求めました。しかし、反発した植民地側はイギリス製品の不買運動などに立ち上がり、これを拒否、アメリカの植民地代表は、1774年9月、フィラデルフィアで大陸会議を開き、イギリス本国に対抗することを決定しました。

 

 

「独立宣言」と「独立戦争」

 

そんな中、ボストン市民5人(植民地民兵)が、駐留英軍に殺傷される事件を機に、1775年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス本国と植民地民兵とが武力衝突して、アメリカ独立戦争が勃発しました。さらに、植民地側は、同年5月、第2回大陸会議を開き、ジョージ・ワシントンを総司令官とする大陸軍を創設して戦争を遂行します。

 

1776年1月には、トマス=ペインが政治パンフレット「コモン=センス」を発行、「万機公論に決すべし」と唱えて、独立の機運を高めさせます。13植民地の政治的立場はまちまちであったので、世論を一つにして、独立の必要性を訴えたのです。

 

さらに、1776年7月4日、大陸会議で、トーマス・ジェファソンらが起草した「独立宣言」を発して、東部13州の独立を宣言しました。独立宣言では、生命・財産および幸福追求の権利という自然権、主権在民などの基本的人権、社会契約論に立つ政府の役割、暴政に対する革命権などが述べられており、独立の正当性が表明されています。また、随所にジョン・ロックの啓蒙思想の影響が見られていることも特徴です。

 

次いで、植民地側は、1777年11月に連合規約を制定して、国名をアメリカ合衆国としました。ただし、当初のアメリカは、事実上、13の独立共和国の緩やかな連合体に過ぎず、中央政府の権限は弱い状態でしたので、戦争遂行能力に懸念がありました。

 

しかし、アメリカ独立戦争には、フランス、オランダ、スペインが植民地側に立って参戦しました。七年戦争敗北以来イギリスに報復の機会をねらっていたフランスは、1778年、アメリカ合衆国の独立を承認し、軍事同盟を結んで上でイギリスに宣戦を布告しました。1779年、フロリダ回復をねらっていたスペインもフランスの同盟国として対英宣戦を行いました。

 

さらに、アメリカ独立戦争に際して、イギリスは、イギリスを支援しない中立国の船舶を捕獲するという海上封鎖を宣言すると、これに反発したロシアの女帝ロシアのエカチェリーナ2世の提唱で、スウェーデン、デンマーク、プロイセン、ポルトガルの参加する武装中立同盟が、1780年に成立しました。また、多くの義勇兵がヨーロッパ各地から参戦するなど、イギリスは国際的にも孤立していったのです。

 

こうして、戦局はアメリカに有利に作用し、1781年のヨークタウンの戦いで、イギリス軍は大敗を喫すると、アメリカ側の勝利が確定しました(実質的な戦争終結)。その後、1783年にパリ条約が結ばれ、イギリスはアメリカの独立を承認し、ミシシッピ以東の広大なルイジアナを割譲しました。

 

 

合衆国憲法とワシントン大統領

 

独立後のアメリカ合衆国では、連邦政府の樹立を望む声が高まったことを受けて、1787年、ワシントンを議長とする憲法制定会議がフィラデルフィアで開かれ、アメリカ合衆国憲法が制定されました。連邦中央政府の権限を強化する一方、各州の大幅な自治権を認めた憲法は、1788年に9州が批准して発効しました。翌1789年、初代大統領には、植民地軍総司令官として独立戦争を勝利に導いたジョージ・ワシントンが就任し、連邦政府が発足しました。

 

このように、20世紀以降、世界に君臨するアメリカ合衆国が誕生したわけですが、最後に、アメリカの建国に貢献したもう一人の人物を紹介して、次のフランス革命に進みたいと思います。その名は現在、米100ドル紙幣の肖像画にもなっているベンジャミン・フランクリンです。

 

フランクリンは、1774年の独立宣言の起草委員を務め、1776年には大陸会議の代表としてフランスに渡り、フランスの対英参戦に向けて尽力したとされています。1783年のパリ条約(1783)の締結交渉にも参加するなど、アメリカ合衆国の建国に向けて内外を奔走しました。

 

 

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  • 絶対王政期のフランス

 

アメリカの独立戦争(独立革命)に続き勃発したフランス革命を解説する前に、革命を誘発させる原因となったフランスにおける絶対王政期の状況を見てみましょう。フランスの絶対王政といえば、ブルボン家のルイ14世が連想されると思います。

 

フランスの絶対王政は、ルイ14(在1643~1715)のときに黄金時代を迎えました。ルイ14世は、5歳で即位し、当初、宰相マザランが補佐しました。マザランは、まず、ドイツの宗教戦争である30年戦争(1618~1648年)に干渉し、アルザス地方を獲得するなどライン川方面に領土を拡大する成果をあげました。対内的にも、増税政策に反発したフロンドの乱(1648~53年)と呼ばれる貴族たちの反乱も起こりましたが、鎮圧後は絶対王政が強化されました。

 

ルイ14世は、宰相マザランの死とともに、1661年に(君主が自ら政治を行う)親政を開始しました。内政では、強力な軍隊を背景に、また思想的には(国王の権力は神から授けられたとする)王権神授説に基づいて、王権を強化しました。壮大なべルサイユ宮殿が建造されたのもこの時代です。

 

実質的に政策の舵をとったのが、蔵相(財務統監)コルベールで、官僚制を整備し、王政を支える富の源を商業に求め、重商主義政策をとりました。国内の商工業、特に大商人を保護・育成するために、主要産業の国家統制や、特権マニュファクチュアの設立を行いました。

 

ところが、カトリック教徒であるルイ14世は、カルバン派(フランスではユグノーと呼ばれた)の信仰の自由を認めたナントの勅令を1685年に廃止し、商工業者の多数を占めるユグノー勢力を弾圧します。そのため、ユグノーらは海外へ亡命し、フランスの経済に深刻な打撃を与えました。こうした国内の不満をそらす目的もあって、前述したファルツ継承戦争やスペイン継承戦争など数度の侵略戦争を行いました。

 

また、次のルイ15(在1715~74)の時代でも、フランスは、オーストリア継承戦争と七年戦争にからみ、北米やインドでの植民地戦争を継続させました。加えて、ルイ16(在位1774~92)の時代では、アメリカの独立戦争で、スペインなどとともに植民地側を支援し、イギリスに参戦しています。

 

しかし、度重なる対外戦争や干渉戦争で、国民は疲弊し、財政も窮乏したことは、フランス革命の遠因となったことは既に説明した通りです。もっとも、財政の悪化を受け、ルイ16世は、テュルゴーやネッケルらを蔵相に任命し、財政改革を試みましたが、特権身分の抵抗により失敗に終わっています。

 

 

  • フランス革命

(1789年7月14日)

 

「旧体制」と「三部会」

革命前のフランスでは、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の商工業者、都市民衆、農民など平民から構成されたアンシャン=レジーム(旧体制)と呼ばれた政治社会制度が成り立っていました。

 

そのアンシャン・レジーム(旧体制)にあって、絶対的な権力を握っている国王と、免税特権をもっていた第一身分と第二身分の特権階級の下で、重税に苦しんでいた都市の民衆や農村の小農貧困層(平民)が、暴動を起こすなど不安定な状態が続いていました。

 

一方、第一身分から第三身分の代表者が出席する「三部会」という身分制議会も存在していましたが、絶対王政が確立した17世紀のルイ14世の時代には、三部会は召集されませんでした。ところが、18世紀に財政難となった国王ルイ16世が免税特権を有していた聖職者や貴族に課税を試みると、彼らは国王に対して、三部会の召集を要求します。これを受け、1789年5月、国王は、三部会を約170年ぶりに開催されたのです。

 

 

「国民議会の結成」と「球技場の誓い」

 

しかし、特権を持つ第一・第二身分と、第三身分は議決方法をめぐって対立し、会議は分裂してしまいました。そこで、憲法を制定して改革を求める第三身分の代表は、三部会を脱退し、三部会から独立した国民議会を結成しました。彼らは、国民議会(憲法制定国民会議)こそ国民を代表する機関であると宣言し、1789年6月、「憲法が制定されるまで解散しない」との誓いを、ベルサイユ宮殿内の球技場に集まり、宣言します(テニスコートの誓い球技場の誓い)。この国民議会に、第一身分、第二身分の中から合流する者もでてきました。

 

 

「バスティーユ牢獄の襲撃」と「人権宣言」

 

この時、ルイ16世は、会議場を閉鎖して妨害し、国民議会を武力で弾圧しようとしたことから、これを知ったパリ民衆の絶対王政に対する不満は頂点に達し、1789年7月14日、圧政の象徴とされていたバスティーユ牢獄が襲撃されました。フランス革命の勃発です。この事件を契機に、全土で農民蜂起も起きました。

 

1789年の8月4日、国民議会は、国王の封建的特権の廃止を決定し、フランス人権宣言を採択しました。宣言では、アンシャン・レジーム(旧制度)の解体と、自由・平等に基づく基本的人権、国民主権、所有権の不可侵などの理念が明らかにされました。

 

 

ヴァレンヌ逃亡事件

1789年9月には、女性を中心とする市民が、ヴェルサイユ行進を行い、ルイ16世一家をヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に連行しました。幽閉という状態ではありませんでしたが、革命の進展に不安を抱いた国王夫妻は、1791年6月、王妃マリー=アントワネットの実家のオーストリアへ逃亡しようと密かにパリを脱出しましたが、途中で発見されて連れ戻されました。ヴァレンヌ逃亡事件と呼ばれるこの出来事で、国王は国民の信頼を失いました。

 

 

「1791年憲法」と「立法議会」

 

一方、革命は進展し、人権宣言を踏まえ、1791年9月にフランスにおける最初の憲法(1791年憲法)が制定されました。憲法は、(王政下で憲法に準ずる政治体制である)立憲君主政を謳い、(男子)制限選挙制(財産資格選挙)などが規定されました。憲法を制定して役割を終えた国民議会は解散し、1791年憲法に基づき、新たに立法議会が召集されました。

 

立法議会では、はじめ立憲君主派のフイヤン派が優勢でしたが、ヴァレンヌ事件で王政そのものを否定する声が高まり、やがて穏和(王政を認めない)共和派のジロンド派が主導権を握るようになりました。

 

フイヤン派:立憲君主政を主張(国王の処刑に反対)

ジロンド派:穏健な共和派(国王の処刑に反対、革命の深化に反対)

ジャコバン派:急進的な共和派(国王の処刑や封建制の無償廃止を主張)

(共和派は王政に反対)

 

 

対外オーストリア戦争

 

外交面では、1792年3月に成立したジロンド派内閣は、1792年4月20日、革命を非難したオーストリアの干渉を排除するために、オーストリアに対して宣戦しました。(形式的には、国王が議会でオーストリアに対する宣戦布告を提案、議会は満場一致で可決した)。オーストリアと同盟関係にあったプロイセンがフランスに宣戦して、革命戦争が始まりました。

 

しかし、フランス軍は旧体制下の国王軍を主体にし、指揮官には貴族出身者が多く、兵士も戦闘意欲に欠け、各地で敗戦を続けました。このままではオーストリア・プロイセン軍が国境をこえ、パリは占領される情勢となりました。フランス国内でも反革命の暴動が起こり、革命は大きな危機に陥ります。

 

しかし、同年7月、議会は「祖国は危機にあり」という非常事態宣言を行うと、各地の義勇兵が、続々とパリに集まってきました(この時、マルセイユからやってきた義勇兵たちが歌っていたラ=マルセイエーズは後にフランス国歌になったと言われている)。また、パリではこのころからサンキュロットといわれる革命派の下層市民も、運動を開始しました。

 

 

8月10日事件

 

このような情勢の中で、1792年8月10日、ジャコバン派(急進共和派)の指導の下、パリのサンキュロットが義勇兵とともに蜂起し、テュイルリー宮殿に進撃しました。市街戦の結果、宮殿は陥落し、この時、議場に逃れようとした国王ルイ16世一家は捕らえられました(「8月10日事件」、あるいは「第二革命」とも評される)。

 

立法議会は、王権の一時停止と、新憲法制定のために立法議会に代わる新しい「国民公会」の開設を決議して解散します。臨時内閣には、蜂起を扇動したジャコバン派(山岳派)のダントンは、「8月10日の男」と呼ばれ脚光を浴び、司法大臣に任命されました。また、この時、国王一家はタンプル塔に監禁される事になりました。

 

 

ヴァルミーの戦い

 

一方、オーストリアとの対外戦争では、8月11日、プロイセン軍が国境を越えてフランス侵入、9月始めには首都近郊のヴェルダンを陥落させるなど、パリに迫ってきました。しかし、1792年9月20日に、パリ東部のヴァルミーの戦いで、義勇兵中心のフランス革命軍が、反革命を掲げるオーストリア・プロイセン連合軍に勝利し、危機は回避されました。(この時、ルイ16世夫妻は投獄された)。

 

<逸話>

ヴァルミーの戦いとゲーテ

 

ヴァルミーの戦い(1792年9月)には、ドイツの文豪ゲーテ(1749~1832)もプロイセン軍中にいた。ゲーテは、フランス勝利を受け、「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と記したとされる。

 

ゲーテ(1749~1832):シラーと並ぶ独ロマン主義文学の巨匠。作品に「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」などがある。

 

 

 

「第一共和政」と「恐怖政治」

 

また、9月20日は、フランスで初めて実施された男子普通選挙後、国民公会が召集された日でした。新議会では、外国勢力の干渉に対する「革命の勝利」の勢いのまま、王政の廃止を決議し、フランスは、ロベスピエールらジャコバン派主導で第一共和政(1792~1804)に移行しました。

 

 

*共和政:国家の主権が君主(国王)ではなく、貴族やブルジョワジーなど複数の人間に属している政治体制。現在のフランスは第五共和制である。

 

*ルソー(1712~78):フランス革命期の思想家の代表。その著書「社会契約論」で、人民主権に基づく共和制を主張、特にジャコバン派に影響を与えた。

 

 

その翌年1793年の1月には、ルイ16世が革命勢力によって処刑され、以後、ロベスピエールらによる「恐怖政治」(=ジャコバン派の独裁政権)が行われていきます。国王の処刑は、革命の波及を恐れる君主国であるオーストリア、プロイセン、スペインや、フランスの大国化を恐れるイギリスなど周辺国の利害が一致し、ヨーロッパ諸国は、第一回対仏大同盟(1793~97)を組んで、フランスの革命政権を打倒することを目指しました。

 

一方、1793年6月には、ジャコバン政権は、憲法(1793年憲法ジャコバン憲法)を制定しました。古い伝統が否定され、自由・平等、所有の自然権、人民主権、人民の労働または生活を扶助する社会の義務、抵抗権の保障が謳われました。また、男子普通直接選挙制、重要法案に対する一種の人民投票を定めるなど、極めて民主的な内容で、フランス憲法史上初の人民投票で成立しました(ただし、当時の非常事態のため、実施が延期され、結局は施行されなかった)。

 

その一方で、革命防衛の理念に基づき、徴兵制が実施され、フランス軍が国民軍に変身しました。この結果、対仏大同盟による近隣諸国との戦局をフランス優位に転換させることに成功しました。それでも、フランス革命の情勢は、国内でも農民の反乱が頻発するなど、内外ともに危機にあったと言えます。

 

そこで、ロベスピエールらジャコバン派は、内政と戦争などの権限を公安委員会に、また反革命運動を取り締まる権限を保安委員会に集中させ、革命の成就を最優先させました。また、革命裁判所に、予審、弁護人、証人無しでの裁判を認めるなどして、反革命勢力の根絶を目指しました。王妃のマリ=アントワネットなど旧王族、ジロンド派の幹部など政敵、反乱に加わった多数の農民ら多数が処刑されました。

1794年に入ると、ジャコバン派内部でも、革命路線から外れたとして、ダントンら有力者がギロチンに送られました。4月には、独裁体制を強め、ロベスピエールの恐怖政治は頂点に達しました。

 

しかし、ロベスピエールの余りの急進的なスタンスに、それまでジャコバン派を支えていたパリ市民のサンキュロットや、国民公会の多数がロベスピエールから離反していきました。そして、ロベスピエールも、1794年7月のテルミドールの反動(テルミドールのクーデター)で失脚し、ギロチンで処刑され、恐怖政治は終わりを告げました。

 

 

総裁政府とナポレオン

 

ロベスピエールら急進派の粛清によって、過激な革命運動は沈静化し、穏和共和主義者らによる総裁政府(1795~1799)が、1795年憲法によって成立しました。1795年憲法は、私有財産の不可侵を掲げ、ブルジョワ有産者階級の利益を守ることが目指されました。政府は5人の総裁からなる集団指導体制がとられ、二院制の議会が立法を担当しました。選挙制度は一定の納税者のみによる制限選挙で間接選挙でした。

 

総裁政府は、王党派による王政への復帰や、共和派によるジャコバン独裁の再現を防止する意図も持っていましたが、常に、左右両派から脅かされることになりました。

 

1795年10月、王党派は、総裁政府の転覆をねらってパリで武装蜂起しましたが、当時26歳の軍人、ナポレオンが鎮圧しました(ナポレオン台頭のきっかけ)。1796年春には、革命家のバブーフが、私有財産制の廃止を唱えて武装蜂起し政府を転覆しようとしたという容疑で逮捕される「バブーフの陰謀」事件が発生しました。

 

このように、穏健な総裁政府による治世で、国内での政情不安が強まり、また対仏包囲網が続くなど、対外的にも不安的な状況下、強力な指導力と軍事力を持った指導者が待望されるようになりました。これに応えたのが、王党派の反乱を鎮圧した後、国内軍最高司令官に抜擢されていた将軍ナポレオン=ボナパルトです。ナポレオンは、1799年11月、共和暦ブリュメール18日のクーデターで総裁政府を打倒、自らを第一統領とする統領政府を樹立し、革命の終結を宣言しました。

 

こうして、バスチーユ牢獄への襲撃から始まったフランス革命は、ナポレオンの台頭によって、ようやく終結に至ったのでした。この後、欧州は、皇帝ナポレオンの時代を迎えます。

 

 

フランス革命とは?

では、最後に、フランス革命の歴史的な意義を考えてみましょう。

 

フランス革命は、アンシャン・レジーム(旧体制)下、社会の矛盾、貧困に対する民衆の蜂起で、長年の封建的社会体制を打破しました。結果として、財産権や営業の自由など経済の自由を獲得したブルジョワジー(新興市民層)が、革命の担い手となり、歴史の表舞台に立ちました。また、この革命は、自由・平等・友愛の理念ともに、民主主義の端緒を開いた近代史上もっとも重要な事件として、歴史的に高く評価され、世界各国国民に大きな影響を与えました。

 

ただ、その一方で、イギリスの思想家バークは、フランス革命を、伝統的な価値感を破壊しただけに過ぎないと批判し、その後の保守主義の潮流が生まれたという側面も記憶に留めておくべきでしょう。

 

 

2020年07月16日

キリスト教:東西教会はいかに分裂したか?

イエスの宣教から処刑、十二使徒やパウロの命がけの伝道を経て、ローマ帝国からようやく公認されたキリスト教は、その後、どう展開していったかを見ていきましょう。

 

ここまでの経緯については、以下の投稿を参照下さい。

イエスの生涯

原始教会 ペテロやパウロの伝道

 

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  • 公認されたキリスト教

 

ローマ帝国のコンスタンティヌス帝は、313年にミラノ勅令を出し、迫害され続けたキリスト教がローマ帝国内で信仰されることを公認しました。もっとも、帝国領内には、古来のローマの神々への偶像崇拝や伝統的な儀礼も残っていましたし、マニ教やミトラ教(太陽信仰の一種)などの異教の信仰も盛んでしたので、この段階でキリスト教は、まだ信仰できる宗教の一つと認められただけでした(もちろん弾圧され続けたことを考えれば、大きな成果であることは間違いない)。

 

キリスト教そのものも、教義はまだ定まっておらず、信仰のこまかい部分で疑問や矛盾点が指摘され、さまざまな解釈が存在していました。とくに、「イエス=キリストは神なのか人間なのか」で、はげしい論争が各地の教会で繰り広げられました。最大の論点は、やはりイエスの復活です。神学上、イエスの復活を認めるなら、イエスは神の子であるか、または神と同一の存在と認めなければならないことになります。

 

また、イエスは宣教中、ユダヤ教の唯一神であるヤハエ(ヤハウェ)を「わが主よ」と呼びかけています(キリスト教を起こしたのは弟子たちで、イエスは生涯ユダヤ教徒でした)。そうすると、イエスが神なら、一神教の絶対神とされるヤハエ(ヤハウェ)との関係はどう説明されるのか?さらに、イエスの母マリアにも聖性があるのかなどが論点となりました。マリアは普通の女性です。イエスが神なら、人間であるマリアが神を産んだことになります。

 

 

  • ニケーア公会議

 

初期のキリスト教徒たちは、これらの疑問について、論争を繰り返した結果、いくつかの派閥に分裂しました。その中で、代表的なグループがアリウス派とアタナシウス派でした。

 

アリウス派は、イエスを人間と考え、崇拝の対象にはしません(イエスに人性を強く認め、神性を否定)。イエスは神聖ではあるがあくまで人の子であり、神そのものではないと考えるのです。イエスの神性が否定されるので、母マリアに聖性があるかの問題もおきません。

 

これに対して、アタナシウス派は、「神ヤハウェが聖霊に姿を変えて処女マリアに宿り、イエスとして生まれた」と考えます。つまり、イエスは神の子であり、本質において神性を持ち、神自身と全く同質であると主張します。また、マリアは「神の母」だから聖性も認められます。

 

このアタナシウス派とアリウス派の対立が深刻になってきたことを受けて、コンスタンティヌス帝は325年に、皇帝は各地の教会の責任者を集め「ニケーア公会議」を開催し、話し合いによる教義の統一を求めました。

 

会議では、アタナシウス派が「正統」とされ、イエスは人間ではなく神であるとして、イエスの神性が認められました。これに対して、アリウス派は「異端」と断罪され、ローマ帝国を追放されてしまいました。アリウス派は、その後、ゲルマン民族に伝わりましたが、やがて消滅したとされています。ただし、ユダヤ教のイエス観に近く、またイスラム教の下地になったとも言われています。

 

こうした教義論争は、このあともたびたび行われ、異端とされた学派は追放され、アタナシウス派が現在のキリスト教の教義を形作ることになっていきます。

 

 

  • 三位一体説

 

ニケーア公会議後、イエスは神の子であるというイエスの神性に加えて、神とイエスを一体と見る考え方と、聖霊にも神性を認める考えが結びつけられ、アタナシウス派の主張は、三位一体説として発展していきます。

 

欧米の映画などで、キリスト教会での洗礼などのシーンで、「父と子と聖霊の御名においてアーメン」と言って、十字が切られる場面を思い出される方はいませんか?三位一体説とは、「父(天にまします父なる神)」、「子(子なるイエス)」、「(イエスによって遣わされた)聖霊」は一体のものであるという考え方です。

 

より具体的には、神は、私たちとの関係において、「(父なる神)」,「(神の子)」,「聖霊」という3つの存在のしかたをしていると説明されます。

 

「父なる神」は、創造主としての存在です。

「神の子」は、イエス・キリストとして、この世に遣わされた存在です。
「聖霊」は、私たちを直接神と結びつけてくれる存在です。

 

神はこのように三つの存在の仕方をしてますが、実はその本性は一つで,それを指して「一体」と説明されます。「父と子と聖霊」は本質において同一で、「父」、「子」、「聖霊」は、どれもキリスト教の神のことを指すのです。本来、一神教であるキリスト教の神を,多様な呼び方をしているのですね。古代のキリスト者は、父と子と聖霊の三位一体を喩えて、太陽と光線と輝き、あるいは木、花、香りなどの関係に喩えて説明してきました。

 

こうして、アタナシウス派の三位一体説は、キリスト教の正統教義として体系づけられていきました。(381年に開催されたコンスタンティノープル公会議で、正統な信条よして確定)。その後、キリスト教会は西のカトリック教会と東の正教会とに分裂しますが、どちらも、三位一体説のアタナシウス派です(聖霊の考え方には違いあり)。

 

なお、余談ですが、キリスト教徒でなければ、キリスト教は、イエス=キリスト(救世主イエス)を神として信仰し、イエスに祈り、自分たちの救いをイエス=キリストにお願いしていると感じがちです。これは、三位一体説の中で、イエスが本来信仰していた「天なる父」以上に、「神の子のイエス」の方が突出した存在になった結果だといえます。

 

 

  • ローマの国教となったキリスト教

 

熱心なキリスト教徒だったとされる皇帝テオドシウス1世(テオドシウス帝)(在379年~395年)は、380年に、まずキリスト教の国教化を定めました。ただ、この時点では他の宗教団体も同様に信仰、布教が認められています。

 

また、翌381年に開催されたコンスタンティノープル公会議において、アタナシウス派の三位一体説が完成され正統であることを確定しました。この背景には、ニケーア会議後、アリウス派が勢いを盛り返し、時の皇帝コンスタンチヌス帝も妥協に傾いたことに対して、アタナシウス派が働きかけたのでした。

 

さらに、テオドシウス帝は、392年、アタナシウス派キリスト教以外の祭礼と供犠を法的に禁止する勅令を出しました。これによって、(アタナシウス派の)キリスト教は、正式にローマ帝国の国教となったのです。

 

異教への禁圧は徹底され、この勅令を無視して、393年にローマ領内のギリシアで、オリンポス十二神の祭礼が行なわれると、神殿の財産が没収され、ギリシアの古代オリンピア競技会も廃止されてしまいました。

 

 

  • エフェソス公会議

 

ただし、これで、アタナシウス派の地位が不動になったかというとそうではなく、5世紀に入ると、三位一体説を揺るがすネストリウス派が台頭してきました(後述しますが、この時、すでにローマ帝国は東西に分裂している)。

 

ネストリウス派は、イエスが神だとすれば、人間マリアから生まれるはずがないと考え、イエスは人間として生まれた後、神の性質を帯びたと考えます。神学的な難しい言い方をすれば、イエス・キリストの神性(神としての性質)と人性(人間としての性質)を区別して考えるのです。母マリアについては、生まれたときのイエスは人だったので、マリアの聖性も認められません。彼らは、マリアを「神(イエスのこと)の母」ではなく「キリストの母」と呼びます。

 

そこで、431年、東ローマ皇帝テオドシウス2世の招集によりエフェソス公会議が開かれ、ネストリウス派は異端とされました(追放されたネストリウス派は、その後ササン朝に伝道し、唐代の中国に伝わり景教と呼ばれた)。

 

 

  • カルケドン公会議

 

さらに、451年、カルケドン公会議が開かれ、最終的に三位一体説が正統であることが確認されました。この時は、アタナシウス派の三位一体論の一部である両性論と、これに反対するネストリウス派の流れをくむ単性論との対立がありました。

 

両性論は、イエス・キリストの神性(イエスの神としての本質)と人性(イエスの人間としての本質)を一体として考えます(イエスは人性と神性の両性を持つ)。ただし、それは融合した形で一つになって存在するのではなく、イエス・キリストは、神性になれば「父なる神と同質」となり、人性になれば「人間と同質」になる、すなわち、それぞれ別個に完全体として存在すると解釈しました。

 

一方、単性論では、イエスは人間として、この世に現れたが、それは形だけであり神性によって満たされているから、イエス・キリストの本性(本質)は神であると考えます。神学的には、「キリストの人性は、この世において神性と融合し、単一の神性をそなえた存在となった」とみなします。

 

このカルケドン公会議で、改めてアタナシウス派の三位一体説が、キリスト教の唯一の正統な教理であることが確認されました。もっとも、エジプトのコプト教会エチオピア教会、シリア正教会(ヤコブ派)、アルメニア教会など、三位一体説を否認し、単性説の信仰を捨てなかった宗派は今なお存在しています。

 

また、カルケドン公会議は、単性説に対して三位一体説を守る必要を感じたローマ教会の司教レオ1世の働きかけがあって実現しました。このため、この会議以降、ローマ教会の発言力が強まり、他の教会に対する首位権を主張するローマ司教は「ローマ教皇」と言われるようになったとされています。

 

いずれにしても、「正統」か「異端」かの大きな論争に終止符が打たれたと言えますが、今度は、同じアタナシウス派のキリスト教の同士の分裂が引き起こされていくことになっていきます。

 

 

  • ローマ帝国の東西分裂後の教会

 

時代の針を少し戻すと、テオドシウス帝は、395年、死に際して、帝国を東西に分割し、2人の子、長男のアルカディウスと、次男のホノリウスにそれぞれ分け与え、それぞれ、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と、西ローマ帝国となりました。

 

テオドシウス帝はもともと、一つの帝国を2人で分割統治させる意向だったと言われていますが、結果的に、東西に分裂したまま、帝国は終焉してしまいます。東ローマ帝国は15世紀半ばまで存続しましたが、西ローマ帝国は、分裂後もゲルマン人の侵攻を受けて衰え、476年、傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされました。

 

さて、キリスト教の国教化がなされてから、少なくとも6世紀ごろまでに、ローマ帝国内には、「五本山」または「五大総司教区」などと呼ばれる、以下の5つの大きな教会の管理区域(5管区)がありました。

 

ローマ

コンスタンチノープル

アレキサンドリア

アンティオケヤ

エルサレム

 

それぞれの教会には、信徒を監督し指導する「総主教(総司教)」のようなまとめ役はいましたが、各教会間に、理念上は、優越性などなく、神のもとでみな同じであることで一致していました。しかし、実際は、長年ローマ帝国の首都があり、ペトロやパウロが殉教したローマ教会と、キリスト教公認後、帝都となったコンスタンチノープルの教会が有力となりました。

 

そして、ローマ帝国の分裂後、西ローマ帝国の西方教会、東ローマ帝国の東方教会という色分けされるようになりました。特に、7世紀になると、イスラム教がアラビア半島から勃興し、次第に勢力を西に広げたため、ビザンツ帝国は、小アジアやシリア、さらにエジプトなど北アフリカを失っていきました。キリスト教の拠点も、アレクサンドリア、アンティオキアだけでなく、聖地エルサレムまでもが、イスラム教徒に攻略されてしまいました。

 

こうして、西方のローマ教会(後のローマ・カトリック)と東方のコンスタンティノープル教会(後の正教会/ギリシャ正教)がキリスト教を代表するようになりました。いずれの教会も、アタナシウス派の三位一体説に従っているので、当初、教義上は大きな対立点はありませんので、共存する関係にあったと言えます。

 

しかし、西ローマ帝国滅亡後、欧州政治の変動に伴い、東西教会では次第に対立し、やがて分断していくことになります。

 

 

  • 東西教会対立の芽生え

 

コンスタンティノープル教会は、東ローマ(ビザンツ)帝国内にあって、皇帝と結びついて発展しました。東ローマ(ビザンツ)皇帝は、初期の教義論争にも積極的に介入し、公会議を開催しましたし、コンスタンティノープル総主教を初めとする高級聖職者の人事権にも介入するなど、教会に影響力を行使できる立場にありました。

 

コンスタンティノープル教会を筆頭にした、東ローマ(ビザンツ)帝国内の教会をひとまとめにして、現在では、正教会(ギリシャ正教)と呼ばれますが、「ギリシャ正教はビザンツ皇帝を首長とする」とか、「「ビザンツ皇帝は地上におけるキリストの代理人としてギリシア正教会を支配する立場にある」などと形容された時期もありました。かつては、「皇帝教皇主義」という用語も使われたこともあります(もっともそこまでの権限はなかったとの見方が現在では一般的)。

 

一方、ローマを中心とする教会は、ラテン語の文化圏にあったことや(ローマ教会のことをラテン教会と呼ぶこともある)、西欧への伝道が中心であったことなどから、次第に他の四総主教と違った歩みを始めていました。とりわけ、前述したように、キリスト教教会の首位権を主張するローマ教会は、独自に「法王」という考え方を導入し、ローマ教会の大司教は「教皇」と呼ばれるようになりました。

 

ただし、ローマ教会は、西ローマ帝国が滅亡し、政治的な後ろ盾を失ったため、当時、かつての西ローマ帝国の領域を再び統一しつつあったゲルマン人のフランク王国に接近します。フランク王国としても、統治者としての正統性と権威を与えてくれる存在を求めていました。800年には、フランク国王のカール大帝が西ヨーロッパを制圧すると、ローマ教皇はカールに「西ローマ皇帝」の冠を与えました(カールの戴冠)。こうしてローマ教会はフランク王国と結びついて、西ヨーロッパ全域に影響力を持つようになっていきます。

 

こうして、西ローマ帝国が滅亡した後の西方教会(ラテン教会)が、フランク王国との結びつきを強くしていくに従い、東方教会との距離が遠くなり、ローマ教会(西方教会)とコンスタンティノープル教会(東方教会)は、独自に道を歩み始めます。

 

 

  • 聖像禁止令

 

そうした中、東西教会を二分するきっかけとなったとされる「事件」が発生します。それは、8世紀のビザンツ帝国皇帝が打ち出した聖像禁止令を巡る聖像崇拝問題でした。

 

東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝レオ3世は、726年、聖像禁止令(偶像禁止令)を出します。これは、偶像崇拝を厳しく禁じたイスラム教の影響を受けて、聖像崇拝については否定的であったからです。これに対して、ローマ教会は、フランク王国などゲルマン人への布教に際して聖像(キリストなどの彫刻や絵画)を使っていたので、ビザンツ皇帝の禁止令に強く反発しました。

 

ビザンツ帝国の教会や修道院にあっても、聖像(イコン)を使用していたところもあったことから、ビザンツ帝国内でも聖像擁護派は、聖像破壊運動(イコノクラスム)と呼ばれる政策によって弾圧されました。

 

ビザンツ帝国での聖像禁止のうごきは9世紀には後退し、843年に、聖画像の使用は容認されて収束しましたが、正教会(ギリシャ正教)では、今日でもなお、偶像崇拝を避けるために、信仰に、イコンやモザイクなどの平画像の使用までしか認められていません。

 

 

  • 東西教会の分裂

 

もっとも、この聖像禁止令によって、直ちにキリスト教会の東西分裂をもたらしたわけではありません。実際は、これを契機に、教会の首位権、典礼のあり方、ブルガリア教会を巡る管理権、教義など、双方の教会の間に様々な問題が生まれてきました

 

例えば、典礼(儀式・祭礼)に関して、コンスタンティノープル側が問題にしたのは、ローマ教会(ラテン教会)の典礼の方法として、ミサに種なしパン(イーストを入れないパン)を使っていることで、これをユダヤ教的な異端であると批判したのです(東方正教会では、種入りパンを使用)。

 

また、何より双方がどうしても譲れない問題は、ローマの優位性、つまりローマ教皇の存在です。ローマ教会は、使徒ペテロを初代教皇として、自らの正統性を制度化していました。コンスタンチノープルは、「キリストの教会における普遍的裁治権を行使し、教義を決定する究極の審判者」とされるローマ教皇を認めることはできません。

 

そうした中、欧州では、9世紀ころから各地を侵攻し始めたノルマン人の活動が新たな脅威となっており、11世紀半ば頃にはシチリアから南イタリアに進出してきました。そこで、(当時、教皇は政治的な力も保持していた)ローマ教会とビザンツ帝国は、共通の敵に対抗するため、両者は軍事同盟を結ぶべく、協議を重ねました。ところが、協議の過程でこれまでの両者の問題が改めて浮き彫りにされ難航します。

 

1054年3月、ローマ教皇レオ9世は、コンスタンティノープル側との交渉役に枢機卿フンベルトゥスを派遣し、協議を重ねましたが、コンスタンティノープル総大司教ミカエル=ケルラリオスとの間で、神学上の問題や、西方教会の東方教会に対する優位性を巡り、大論争となりました。

 

そして、遂に、同年7月、ローマ教皇の特使フンベルトゥスが、総大司教ケルラリオスとその一門に対し、破門を宣告したのです。これに対し、ケルラリオスは主教会議を召集し、ローマ教皇の代理人フンベルトゥスを逆に破門すると言う事態となってしまいました。この事件をもって東西教会が分裂したとされています。

 

ただし、この教会分裂は、神学的動機よりも、むしろ政治的動機に基づく、偶然的な事件と見られています。ノルマン人に対抗するための同盟そのものも、コンスタンティノープル側からすれば、コンスタンティノープル主教座に属する南イタリア地方の教会管轄権をローマ教会が侵害する意図があると疑っていたとされています。ただ、動機はどうであれ、ローマ教会もコンスタンチノープル教会も、お互いを破門したことで招いた分裂が、それから900年以上続くとは予想もしていなかったはずであると解されています。

 

むしろ、両教会の分離を決定的にしたのは1204年の第4回十字軍のコンスタンティノープル占領によってであった言われています。この時、イスラムの支配下にあった聖地エルサレムを奪還する目的で、ローマ教皇が派遣した軍隊である「十字軍」が、エルサレムではなく、コンスタンチノープルを攻略し、ラテン帝国を建てたのでした。

 

いずれにしても、1054年を機に、キリスト教の世界は、東西に二分されました。ローマ教皇を中心としたローマ教会(ラテン教会、西方教会)は、自らの「普遍性」を主張し(「カトリック」とは普遍という意味)、「ローマ・カトリック教会」と名乗り、コンスタンチノープル総主教を中心としたコンスタンチノープル教会は、自らの「正統性」を主張して、「正教会(東方正教会、ギリシャ正教)」と名乗り、現在に至っています。

 

 

 

<参照>

聖書と歴史の学習館

世界史の窓

Manapedia(マナペティア)

5分で分かるキリスト教の歴史と神学

三位一体の意味、中部学院大学

父と子と聖霊、カトリック学校教師のページ

Wikipediaなど

 

2020年07月08日

皇室:香淳皇后例祭/節折の儀・大祓の儀

新型コロナ感染症拡大に揺れる中、天皇陛下のご動静についてのニュースは減ってしまった感がありますが、6月には二つの宮中行事に臨まれていました。一つは、昭和天皇のお后の香淳皇后(こうじゅん)の逝去から20年に当たり行われた「香淳皇后二十年式年祭の儀」で、もう一つが、半年ごとに実施される祓いの祭儀、「節折の儀」と「大祓の儀」です。

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<香淳皇后例祭>

 

香淳皇后例祭は、昭和天皇の后(きさき)でいらっしゃた香淳皇后(こうじゅん)を偲び逝去(せいきょ)された6月16日に行われている宮中行事です。2020年は逝去から20年にあたり、「香淳皇后二十年式年祭の儀」が皇居と、武蔵陵墓地にある武蔵野東陵(東京都八王子市)で行われました。

 

皇居の宮中三殿では、「皇霊殿の儀」が執り行われ、装束姿の天皇皇后両陛下が拝礼され、陛下は御告文(祭文)を読み上げられました。また、秋篠宮ご夫妻ら皇族方も参列されました。

 

一方、香淳皇后の武蔵野東陵では、「山陵に奉幣の儀」が執り行われ、天皇陛下の使者が玉串をささげた後、上皇ご夫妻の側近が代拝(上皇ご夫妻は欠席)されました。続いて参拝服でマスクをした秋篠宮家の長女眞子さまと次女佳子さまがそれぞれ拝礼されました。

 

  • 香淳皇后

香淳皇后は、1903年(明治36年)3月に久邇宮邦彦王(くにのみや-くによしおう)の長女として生まれ、良子(ながこ)と名付けられました。「久邇宮家」は、戦後に皇籍を離脱した宮家の1つでした。

 

1919年6月10日に皇太子裕仁親王との婚約が内定しましたが、時の権力者、山県有朋が、母方に色覚異常(色弱)があるとの疑いをかけ、結婚に反対し、婚約を取り消そうとしました(「宮中某重大事件」と呼ばれた)。しかし、山県の死後、「事件」は沈静化し、1924(大正13)年1月、無事結婚されました。

 

お二人は、お子様には恵まれ、2男5女が誕生されています。香淳皇后は、四人の内親王(一人は天折)を出産されましたが、親王に恵まれず、側室復活の声もあがったと言われています。しかし、昭和天皇はこれを固辞され、1933(昭和8)年12月、明仁親王(現、上皇陛下)が誕生されました(次男は常陸宮さま)。

 

戦争中、香淳皇后は昭和天皇と共に皇居にとどまり、靖国神社参拝や傷病兵慰問などを行われたと伝えられています。戦後、昭和天皇の公務に同行し、多忙な天皇を支えられました。昭和天皇とともに国民に溶け込もうとされ、その屈託のない笑顔から、当時は「国母」と慕われました。

 

2000(平成12)年6月、満97歳で崩御され、香淳皇后の誼号(しごう/おくりごう)を受けられ、武蔵野東陵に葬られました。諡(おくりな)の「香淳」は、日本最古の漢詩集『懐風藻』からとられたと言われています。

 

 

★☆★☆

 

<節折(よおり)の儀>

 

天皇陛下は、6月30日、皇居・宮殿の「竹の間」で、まず「節折(よおり)の儀」に臨まれました。この宮中行事は、天皇のために行われる、竹を使った祓いの儀式で、半年に一度、6月末と12月末に行われます。その起源は9世紀後半から10世紀の頃とされています。

 

「節折(よおり)の儀」は、かつて「御贖(みあがもの)の儀」として行われていました(貞観末年(867)頃に「御贖(みあがもの)の儀」が行われたとされる)。御贖物(みあがもの)とは、天皇や中宮の身柄(みがら)に代わって、罪や汚れを背負わせて除去し祓ういます。儀式では、御服(ごふく)・御麻(みぬさ)、御竹・御壺を、御贖物(みあがもの)を用いて行われます。

 

この儀式での天皇の所作や道具は、明らかではありませんが、平安時代に源高明によって撰述された朝廷儀式などのしきたりを記した書である「西宮記(さいきゅうき)」などによれば、次のように推測されています(「天皇のまつりごと」(所功著)、「國學院大學伝統文化リサーチセンター資料」も参照)。

 

  • 御服(ごふく)に、気息(きそく)を着す

御小直衣に金巾子の御冠を被って出御された陛下に、侍従から御服の呂の蓋(ふた)が開けて差し出され、それに陛下が口気を三度吹き入れられます。

 

  • 御麻(みぬさ)で体をなでる

侍従から御麻を受け取られ、陛下は、その御麻で体を三度撫でられます。

 

  • 竹で体をはかる

掌典職の賞典から御竹9本を受け取った侍従が、初めの長い一本で、陛下の背丈を測り、竹に筆で墨の印をつけ、それを下げ渡された掌典補が墨印のところで折ります。同様に次の二本で、陛下の胸から指先まで、次の二本で左右の膝から足元までを測って、それぞれに竹に墨印をつけます。それらを下げ渡された掌典補がそれぞれ印の所で竹を折り、櫃に納めます。

 

なお、「節折(よおり)の儀」の名前の由来は、御身の長さに御竹の節を折るところからきています。ちなみに、「節(よ)」は竹の節と節の間のことです。

 

  • 壺に口気を放つ

侍従から受け取った御壺に陛下が口気を三度吹き入れられます。

 

この一連の儀式が、二度繰り返して行われます。最初の儀式を「荒世(あらよ)の儀」といって荒御魂の御身(荒世)を祓い清め、二回目を「和世(にこ)の儀」と呼び、魂の御身(和世)を祓い清めると解されています(神道では、神には荒魂と和魂の両面の性質があると考える)。

 

このように、「節折の儀」は、天皇といえども、日々の生活の中で、無意識のうちに積んでしまわれるケガレ(穢れ)を祓い清めるものです。

 

 

<大祓(おおはらい)の儀>

 

天皇のための「節折の儀」に続き、この日、皇族方や国民のためのお祓いの儀式である「大祓(おおはらい)の儀」も行われました。場所は、皇居内の宮中三殿に付属する神嘉殿(しんかでん)前庭で、皇族方を代表して秋篠宮さまが参列されました。

 

「大祓の儀」に参列する成年皇族はかつて、慣例として、成年男性の「親王」に限られていましたが、皇族方の減少などを背景に、2014(平成26)年6月、成年女性も含む「皇族」に広げられるという、慣例が改める発表が宮内庁からありました。同年12月の大祓の儀には、秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまが女性皇族としては66年ぶりにご参列されました。これまで、昭和23年に、体調不良となった高松宮に代わって高松宮妃が参列したり、戦前は親王以外の男性皇族が参列したりした例もあったそうです。

 

もともと、大祓(おおはらえ、おおはらい)は、日本の神道儀式の祓の一つで、毎年6月と12月の晦日(みそか)に行われ、6月30日に行われる大祓は夏越大祓、または水無月大祓とも呼ばれます。

 

大祓は、記紀の中の伊邪那岐命(イザナギノミコト)の禊祓(みそぎはらい)が起源とされ、国の儀式として受け継がれました。平安時代の延喜式には四時祭(しじさい)(四季にわたって定期的に行わる祭儀)になった記されています。現在でも、多くの神社で同じ日に「大祓」の祭りが行われています。

 

 

<参照>

香淳皇后しのび二十年式年祭 両陛下、皇居で拝礼

(2020/6/16、時事通信)

「国母」と慕われた香淳皇后 崩御から20年…

(2020/6/25 、FNNプライムオンライン)フジテレビ 解説委員 橋本寿史

6、12月の「大祓の儀」ご参列 女性皇族にも拡大

(2012年6月10日産経新聞)

 

知っておきたい豆知識 | 年中行事と神社 | 神道青年全国協議会

國學院大學伝統文化リサーチセンター資料

「天皇のまつりごと」所功著

Wikipediaなど

 

 

 

2020年07月06日

キリスト教:イエスの十二使徒たち

今回は、原始キリスト教(初期教会)の確立に、生涯を伝道に捧げ、大半が殉教していった十二使徒と呼ばれるイエスの12人の弟子たちをみてみたいと思います。
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  • 十二使徒(The Twelve Apostles)

 

使徒とは、原始キリスト教会において最重要の地位を占め,大きな権限を委託された指導者群をさし、イエスは福音を伝えるために、12人の弟子を選んで、使徒と名づけました。

 

  • ペトロ(Petrus

(ヘブライ名シモン、英語名ピーター、仏語名ピエール、ロシア名ピョートル)。

 

ガリラヤの漁夫ペトロは、12使徒の最長老で、イエスの一番弟子、初代教会の指導者となりました(カトリック教会では初代ローマ教皇)。ガリラヤ湖で弟アンデレと漁をしている時にイエスに声をかけられ、最初の弟子になったとされています。

 

ペトロは、ローマで布教していましたが、AD67年、皇帝ネロの迫害により逆さ十字架にかけられて殉教しました。ローマのサンピエトロ大聖堂に埋葬されています。

 

 

  • アンデレ(Andreas

 

アンデレはペトロの弟で、兄ペトロとともにイエスの弟子になりました。元は、イエスと同様、洗礼者ヨハネの弟子です。アンドレは、黒海沿岸で伝道を行っていましたが、ギリシアのパトラ(Patras)でX字型の十字架で処刑されました。

 

 

  • 大ヤコブ(Jacobus

(英語名ジェームス、仏語名ジャック)

 

ヤコブは、同じ12使徒の一人、アルファイの子のヤコブ(小ヤコブ)と区別するために、大ヤコブ、またはゼベダイの子ヤコブと呼ばれます。

 

大ヤコブは、ヨハネの兄で、ペテロ、ヨハネと共にイエスの一番弟子とされています。イエスの死後、スペインで、6年間布教活動を行った後、エルサレムに戻り、最初のエルサレム教会の指導者となりました。しかし、当時は、パレスチナの王ヘロデ・アグリッパによるキリスト教迫害が激しさを増していた時で、44年頃、ヤコブは捕らえられ斬首刑になりました。使徒の中で最初の殉教者でした。

 

ヤコブの弟子達は、遺骸をパレスチナからスペインに運びましたが、その後、スペインはイスラムの勢力下に入り、その場所はわからなくなりました。しかし、9世紀になって、レコンキスタ(イスラム勢力からの国土回復運動)が進む中、ヤコブの遺体が、サンティアゴ・デ・コンポステーラの地で奇跡的に発見されました。以後、その場所は、イスラムと闘うキリスト教徒を守護するシンボルとなり、ヤコブはスペインの守護聖人と崇められるとともに、サンティアゴ・デ・コンポステーラは、ローマ、エルサレムと並ぶ大巡礼地になりました。

 

 

  • ヨハネ(Johanne

(英語名ジョン、仏語名ジャン、露語名イワン、

女性形では、ジョアンナ、ジャンヌ、ジャネット)

 

大ヤコブの弟のヨハネは、ガリラヤの漁師の子で、アンドレと同様、イエスを洗礼した洗礼者ヨハネの弟子です。ヤコブ、ペテロと共にイエスの一番弟子という位置づけで、気性が荒い性格で、イエスから「雷の子」というあだ名を付けられたと言われています。

 

ヨハネは、常にイエスと行動を共にしましたが、12使徒の中で唯一殉教を免れ、晩年をエーゲ海のパトモス島で過ごしました。また、新約聖書の「ヨハネによる福音書」や「ヨハネの黙示録」を記したことでも有名です。

 

 

  • フィリポ (Philippe

(英語名フィリップ、スペイン語名フェリペ)

 

フィリポは、ヨルダン川の岸辺にいたところを、イエス自身が「私についてきなさい(使徒になるように)」とイエスに直接招かれて、弟子になりました。

 

使徒としてのフィリポの活躍の中には、例えば、エルサレムで、エチオピアの女王カンダケに仕える高官(宦官)に、イエスについて福音を伝え、洗礼を受けさせましたという事例があります。使徒行伝によれば、この宦官が洗礼を受けた最初の非ユダヤ人とされています(この高官は、エチオピアに戻り教会を設立し、エチオピアや北アフリカには、かなり早い時期にキリスト教が普及することに貢献した)。

 

その後、フィリポは、トルコ西部で宣教を行いました。そこで、神殿の軍神マルス(ギリシャ神話のアレース)の立像の下から現れた龍を退治し、龍の毒で病気になった人たちを癒し、死んだ者を生き返らせ、大勢の人々を改宗させたという逸話が残されています。

 

さらに、ヒエラポリスという町へ移動したフィリポは、エピオン派(ユダヤ教の要素を取り入れたキリスト教徒)の多くを改宗させましたが、異教の神官らに捕らえられ、逆十字に縛られた上、石打ちにされて処刑されました。この時、フィリポの娘2人も殉教したと伝えられています。

 

 

  • バルトロマイ(Bartholomew

(英語名バーソロミュー、バート)

 

バルトロマイ(別名ナタナエルNathanael)は、フィリポの友人で、フィリポのすすめで、イエスに会いに行きました。この時、イエスから「あなたは、真のイスラエル人。この人には偽りがない」と言われたことに感激して、フィリポとともに弟子になりました。

 

イエスの死後、インドからアルメニアで伝道活動をしていましたが、捕らえられて生きながら皮を剥がされる「皮剥ぎの刑」で殉教したとされています。

 

 

  • トマス(Thomas

(英語名トーマス、トム、トミー、仏語名トマ)

 

ガリレア地方の生まれで、ゲネザレト湖畔で漁師をしていたトマスは、イエスの弟子になり、イエスの「最後の晩餐」にも同席していますが、「疑い深いトマス」とのあだ名をつけられました。

 

復活したイエスは、弟子が集まったところに現れましたが、その場にいなかったトマスは、「イエスの傷痕に自分で指を入れてみるまでは決して信じない」と言い張り、イエスの復活を信じようとしませんでした。

 

しかし、8日後、イエスはトマスの前にも現れ、「あなたの指を私の手とわき腹に入れてみなさい」と述べられたことで、トマスは復活を信じたとされています。その後、トマスはイエスの昇天に立ち会い、聖霊降臨の際には、聖母マリアや他の使徒たちとともに聖霊の賜物を受けたそうです。

 

こうした体験を受けて、トマスは宣教に立ち上がり、東方に赴きました。ペルシャで説教した後、南へ向かい、インドで伝道を行いました(南インドにはトマスが設立した教会がある)が、西暦68年~75年ごろ、チェンナイ(旧マドラス)のマイラプールという所で、ブラマン教徒により槍で刺されて殉教したと伝えられています。

 

 

  • マタイ(Matthaeus

(英語名マシュー、仏語名マテュー)

 

マタイは町の徴税人で、ユダヤ人社会からのけ者にされていました。当時、徴税人は、ローマ帝国から徴税業務を請け負った者で、貪欲な者がなる仕事とみなされ、住民からは嫌われていたのです。

 

ある日、イエスは収税所にいるマタイに「弟子になるように」と声をかけると、マタイは立ち上がって、徴税人の仕事を辞め、イエスの後に従いました。その後マタイは、裏切り者扱いされ嫌われている自分に声をかけてくれたイエスに、感謝を表すために、イエスと弟子たちを招待して盛大にもてなしたという逸話があります。

 

イエスの死後、当初エルサレムの教団内に留まったマタイは、その後、使徒として各地で伝道を行いましたが、エチオピアあるいはトルコ(ヒエラポリス)で殉教したとされています。ある教会の説教で、その地の王を批判するような内容であったため、その王が送った刑吏に刺殺されたと言われています。

 

マタイは、紀元80年から90年頃に書かれたとされる新約聖書「マタイの福音書」の著者でもあります。

 

 

  • シモン(Simon

(英語名サイモン)

 

シモンがイエスの弟子になったきっかけは、イエスを、ローマ帝国からユダヤの地を解放してくれる政治的指導者として期待したからだとされています。というのも、シモンは、ローマの支配に抵抗する「熱心党」と呼ばれる組織のメンバーでした。

 

熱心党は、紀元6年に、ローマのユダヤ総督が実施しようとした国勢調査に反対することをきっかけとして立ち上げられたガリラヤのユダヤ人が組織で、ユダヤの地を支配する外国勢力(ローマのこと)を認めず、戦ってでも独立の目的を実現しようとする国粋主義的な団体です。当初は、それほど影響力はなかったようですが、次第に民衆の支持を得て、紀元66年に、ローマ帝国に反乱を起こし(ユダヤ戦争)、反乱軍の中心的な存在となって、時の皇帝ネロのローマ軍と戦いました。しかし、70年に、エルサレムが破壊(ヤハエ神殿も倒壊)され、74年春に。死海の南岸に近いマサダの要塞も陥落し、戦いは終わりました。残された熱心党のメンバーも集団自決したと伝えられています。

 

さて、その熱心党の一員であったシモンでしたが、イエスの復活を機に回心し、伝道者(使徒)となり、エジプトに赴きました。その後、十二使徒のひとりであるユダ(タダイ)(裏切り者のユダではない)とともにペルシャやアルメニアで活動し、そこで殉教しました。一説には、ペルシャで、鋸(のこぎり)で切断されて処刑されたとも言われています。

 

ちなみに、シモンとは、イスラエルの祖ヤコブの十二人の息子の次男シメオンにちなんだ名前とされています。

 

 

  • 小ヤコブ(Jacobus

 

アルファイの子ヤコブあるいは小ヤコブと呼ばれているヤコブは、イエスの近親者で、イスラエルの習慣上、「イエスの兄弟」と呼ばれ、また、シモンとユダ(タダイ)の兄弟とも言われています。

聖霊降臨後に復活したイエスに出会い、エルサレム教会に加わり、教会を代表する人物として活躍し、初代エルサレム教会の司教になりました。新約聖書「ヤコブの手紙」の著者ともいわれ、パウロはヤコブをペトロとヨハネと共に教会の柱と見なしていたとされています。一説には、復活したイエスも小ヤコブに特別に現われたそうです。

 

ヤコブはモーセの律法を厳重に守り、毎日エルサレムの神殿に詣でるなど、キリスト教徒とユダヤ人の両方から聖人と仰がれていましたが、パリサイ(ファリサイ)人の反感をかい、殉教してしまいました。エルサレムの神殿の屋根から突き落とされ、人々の石を受けて倒れたところを、こん棒で打たれて殉教したといわれています。

 

 

  • ユダ(タダイ)(Judas)

 

小ヤコブの兄弟あるいはイエスの親族だったといわれるユダ(タダイ)は、イエスを裏切ったとされる「イスカリオテのユダ」ではありません。ユダという名前が嫌われて「忘れられた聖人」とも呼ばれており、実際、ユダ(タダイ)に関する資料はあまり残されていません。

 

ユダ(タダイ)は、バルトロマイとともにエデッサ(トルコ南東部のウルファ)やアルメニアに宣教したとされ、この地方では篤く崇敬されているそうです。別の伝承では、シモンとともに、ペルシャやアルメニアで活動したとも言われています。いずれにしても、ユダ(タダイ)は、かの地で、斧によって殺害されて殉教したとされています。

 

 

  • イスカリオテのユダ(Judas)

(英語名ジュード)

 

ユダがいつイエスの弟子になったかは、福音書には書かれておらず、不明です。聖書の中のユダは、イエスから信頼され、お金の管理を任されていましたが(ユダは財務担当だった)、銀貨30枚でイエスをユダヤ教の祭司長に売り渡し(ユダが持ちかけたとされる)、歴史上の裏切り者として描かれています。

 

ユダは祭司長たちをイエスのもとに案内し、接吻することでイエスを示して引き渡したとされています。イエスは、彼の裏切り行為を知って、「私を裏切る人は生まれなければよかった」ときびしく戒める反面、「友よ、しようとしていることを、するがよい」とユダを友と呼び赦しています。

 

ユダは、イエスに死刑判決が下ったことを知り、ユダは自らの行いを悔いて、受け取った銀貨をユダヤ教の祭司たちに返そうとしました。これを拒絶されたユダは、銀貨を神殿に投げ込んで、首を吊って自殺したとされています。

 

 

  • マティア(Matthias)

 

イエスの復活後、エルサレムに戻ってきた使徒たちは、イエスを裏切ったイスカリオテのユダの代わりに、マティアを使徒にたてることを、くじ引きで選びました。マティアは、トルコやカスピ海地方、また遠くエチオピアまで布教したと言われています。伝承では、エルサレムでユダヤ人によって石うちの刑にあい、斬首され殉教したそうです。

 

<参照投稿>

イエスの生涯

原始教会 ペテロやパウロの伝道

 

 

<参照>

聖書人物記 R.P.ネッテルホルスト(創元社)

聖書と歴史の学習館

キリスト教マメ知識:女子パウロ

Wikipediaなど

 

2020年07月05日

キリスト教:原始教会、ペテロやパウロの伝道

前回は、イエスの生涯についてみてきましたが、今回は、イエスが「復活」した後のキリスト教について、ローマ帝国に公認されるまでの経緯をまとめてみたいと思います。

 

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  • ペンテコステと教会の成立

 

キリスト教徒(クリスチャン)にとって、重要な行事が3つあります。それは、まず勿論、イエスの生誕を祝うクリスマス、それからイエスの復活を祝うイースター(復活祭)、そして、3つ目の大きな行事がペンテコステです。

 

ペンテコステ(聖霊降臨)とは、復活したイエス(キリスト=救世主)が天に昇ってから50日後、残された弟子たち(信徒120人)が集まって祈っていたところ、天(神)から聖霊が降りてきたという象徴的な出来事のことをいいます。現在も聖霊降臨節は、イースターから50日後にお祝いされています。ペンテコステは、ギリシャ語で50を指し、聖霊とは「神と人との生ける交わりをとりなしている御霊(みたま)、神そのもの」と定義づけられています。

 

このイエスが蘇られてから、50日後のペンテコステ(聖霊降臨)が、教会の起源とされています。紀元後35年頃の出来事です。キリスト教を信仰する人にとって欠かせない場である教会は、キリスト教を信仰する人々の集まりを意味しています。

 

ちなみに、「教会」とはギリシア語の「エクレシア」の訳語で、エクレシアにはもともと「人々の集会」「呼び出された者の集まり」を示す意味があるそうです。イエスの十字架の後、集まった人々のもとに聖霊が降りたわけですから、その場こそが教会(エクレシア)なのですね。

 

この時、約3000人の人々が使徒ペテロの説教に対して、イエスこそ旧約聖書が予言していた救い主(キリスト)であると信仰告白し、一つの共同体が形成されました。これが教会の始まりとされています(ゆえに、ローマ・カトリック教会では、ペトロを初代ローマ教皇とみなす)。

 

この原始教会とも呼ばれる最初の教会は、聖霊の降臨にあずかった、ペトロを含むいわゆる十二使徒(じゅうにしと)が中心となって、エルサレムに建てられました。イエスは自身も間接的ながら、教会を建てると宣べており(マタイ16:18)、約束が成就したわけです。

 

当初、イエスの死を聞いた弟子たちは、自分が助かりたい一心で師を見捨て、裏切ってしまったことに対して、深い絶望と後悔の念に苛まれました。しかし、イエスが復活し、聖霊を通して、彼らのもとに現れたという「体験」が、彼らは目覚めさせました。

 

弟子たちは、復活が神の愛の証拠であり、神の愛を説いたイエスは、みずからの死と復活で、その愛を体現した本当のキリスト(救世主)なのだ、と確信を得たのでしょう。それからというもの、弟子たちは、神の愛と、それを示したイエスの生涯と死、さらには復活を、まわりの人々に語り始めました(伝道の始まり)。これが、教会設立の原動力となり、キリスト教が広がっていく端緒となるのです。

 

 

  • 異邦人への布教

 

ペテロやヤコブなど12使徒(後述)たちは当初、エルサレムなどのパレスチナ地方で、「ユダヤ人、アブラハムの子孫」を対象に伝道をしていましたが、やがて、パレスチナ地方に住む非ユダヤ人への布教も始まります。

 

ペテロは、今のイスラエル北西部の町、カイザリヤに在住のローマ軍の「イタリヤ隊」の百人隊長、コルネリオに請われて、コルネリオの家の人々に説教すると、コルネリオ自身が回心しました(コルネリオは、ペトロから洗礼を授かった最初の異邦人とされる)。また、伝道者のピリポ(フィリポ)は、サマリヤ人(異邦人とされていますが、もともとは北イスラエル王国の住民でその後、混血)たちに説教し、多くの者がキリスト教の信仰を持ちました。

 

しかし、パレスチナでの布教は長くは続きませんでした。エルサレム教会の責任者だったヤコブは捕えられ殺されるなど、ユダヤ人による迫害が激しくなったのです。そこで、弟子たち、イエスの12使徒たちは、伝道のために地中海各地に散っていくのでした。

 

今日では、キリスト教の始祖はイエス・キリストと言われますが、キリスト教という一つの教団を興し、発展させたのは、ペテロやパウロなどイエス昇天後の弟子達でした。とりわけ、イエスの教えが、それまでギリシャ伝来のオリュンポスの神々を信仰していたギリシャ人に伝えられて、キリスト教は発展を遂げていくことになります。

 

そもそも、厳格には、キリスト教というのも、「キリスト」という言葉は、救世主を意味するメシアのギリシャ語訳であることからもわかるように、ギリシャ人に伝えられて、彼らがイエスの教えに従ったところで、出てきた名称です。

 

ギリシャへの伝道は、中東(西アジア)生まれのユダヤ教の一派が、異郷の西洋へ、キリスト教として、渡っていったという側面もあり、その教えは「西洋化=ギリシャ化」されていきました。

 

聖書にしても、新約聖書の原典は、イエスや12使徒達の共通言語であるヘブライ語(へブルゴ)ではなく、ギリシャ語で書かれています。イエスの言葉を含む新約聖書は、「ギリシャ語に翻訳」されて伝わり、私たちは聖書を読む際は訳文読んでいたのです。

 

 

  • パウロの伝道と教え

 

ギリシャ世界へ福音(神のみ言葉)を宣べ伝えた使徒が伝道者パウロでした。キリスト教の拡大は、パウロによって、ギリシャ人を対象とされたところから始まったと言っても過言ではありません。これによってキリスト教は、ユダヤ人だけではなく、人類すべての人々のための宗教となり、イエスは、人類の救世主(キリスト)」となっていくのです。

 

使徒パウロは、ユダヤ教パリサイ派の人物で、はじめはイエスの弟子たちや教会を迫害していましたが、やがて、イエスと出会うという超体験を通して回心し、イエスの教えを伝える側になりました。伝えられているその時の「パウロの回心」と呼ばれる逸話です。

 

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紀元34年頃、パウロは、ダマスコへ向かう途中、「サウロ(パウロのこと)、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエスの声を聞きました。すると、その後、目が見えなくなったパウロでしたが、キリスト教徒がパウロのために祈るとパウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになりました。この経験から、イエスがメシヤだったことを悟ったパウロはキリスト教徒となったのです。

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パウロはその後、自らの経験から、パレスチナの中では、イエスの教えを受け入れられないと判断し、今のトルコやギリシアといった各地に赴きます。そして、アンティオキア(現トルコの南端アンタキア)を拠点として、パウロは、生涯かけて伝道し、苦難の末、ギリシャ世界での布教を成功させました。

 

この背景には、パウロが、原罪や贖罪という考え方を使って、イエスの教えを、思想化し、キリスト教に普遍性を持たせたことにあると思われます。

 

旧約聖書の「創世記」には、以下のように、エデンの園(天国)にいたアダムとイブの話しがあります。アダムとイブは、神から「あなたは、楽園のどの木のからでも実を食べてよい。しかし、善悪の知恵の木の実を取って食べてはならない」と言われました。しかし、蛇(サタン)の誘惑により、二人は「知恵の木の実」をとって食べてしまいました…。

 

これが一番最初の罪で、原罪と言われます。キリスト教では、神の意志に背いたアダムとイブの罪を、人間は皆、原罪として背負っていると解釈されています(パウロはこの原罪思想を弘めた)。パウロは、神に背いて自分の欲望のままに生きようとしたことから来る原罪の苦しみから逃れるためには、どうしたらいいのかを考えたときに得た答えが、キリスト教だったのです。

 

パウロは、イエスが、十字架での死により、全人類の罪をまとめて引き受けたと考えました(贖罪思想)。さらに、律法の遵守は難しく、できたとしても律法を形式的に守るだけでは不十分で、神とイエスを信仰することで救われると教えました。すべての人間は罪人ですが、信仰によってのみ神の赦しが得られると、ギリシャ人たちに説いていったのでした(信仰義認説)。

 

また、死後の「神の国」という考え方も、人々を魅了しました。キリスト教徒にとっての死後の場所は、父なる神、またキリストがいる「天国」です。そこは、苦しみや罪もなく、栄光に満ち、喜びや愛が充満していると考えられました。イエスは、自身の死と復活によって、私たち人間のために、「天国の門」を開いてくれたと考えられています。

 

このギリシャ人への伝道におけるパウロ以降の思想が、現在のキリスト教の教えの骨格をなすという言い方をしても間違いではないでしょう。

 

 

  • キリスト教の拡大

 

こうして、初期のキリスト教は、当時の支配者であったローマ帝国へと入っていくことになるのでした。ユダヤ人を対象にしたパレスチナ地方の宗教活動であった「イエスの教え」は、先ずは北上してシリアに伝えられ、次いで、小アジア(現在のトルコ)の諸都市に伝わり、さらにギリシャ本土に伝道されていきました。

 

そうして、地中海各地で信者を増やしながら、帝国の首都ローマや、地中海に面するエジプトのアレクサンドリア、またトルコのアンティオキアなどに、キリストの名の下に集まる教会が建てられました。

これに応じて、キリスト教徒の組織化も進み、まとめ役となる監督、長老、執事といった役割を担う役職ができていきます。やがて、2世紀と3世紀、人数が増えるに連れて教会はますます階級的になる中、現代の司教や司祭、助祭といった「聖職者」が教会の指導者となったいくのです。

 

 

  • 新約聖書の成立

 

キリスト教の教典である聖書が生まれたのもこの時期です。聖書は、イエスが山上の垂訓などで語ったことを自ら書き留めたものではありません。イエスの教えは、使徒達によりパレスチナから地中海一帯へと伝えられる中で、使徒たちによって記されたイエスの生涯と言行録がまとめられました。西暦150年ごろには、新約聖書ができていたとされています(「新約」とは、イエスが神と新たに契約したという意味)。もっとも、エルサレムが崩壊した紀元後70年までには、新約聖書はほぼ完成して、教会の間で回覧されていたとも言われています。

 

前述したように、キリスト教という教団は、イエスの弟子達が作り出したものなので、新約聖書には、イエスが語っていた創造神「天なる父」の姿は前面に描かれず、「神の子イエス」その人のことが書かれいます。

 

なお、新約聖書に対して、ユダヤ教の経典である旧約聖書があります。新約聖書は、旧約聖書を土台としており、旧約聖書の知識なしには、キリスト教を十分に理解できないと言われいます。旧約聖書は、メシヤの民であるユダヤ民族の歴史書という側面と、メシヤの必要性を説き、メシヤの来臨を予測する「予言書」です。これに対して、新約聖書は、メシヤであるイエスが、私たちを罪から救うための「導きの書」と、キリスト教では位置づけています。ですから、イエスが宣教するまでの経緯を記すものとして、旧約聖書もキリスト教の教典とみなされています。

 

 

  • ローマ帝国による迫害から公認

 

さて、教会の組織や制度が整えられ、聖書も完成した2世紀中頃には使徒信条の原型もできてくるなど、キリスト教の基盤が確立しつつあった反面、ローマでの迫害は過酷を窮めました。

 

当時のローマは多神教でしたので、他の宗教に寛容でしたが、時の皇帝の性格によって、その政策は容易に変化していきました。キリスト教に対するローマ帝国最大の迫害といえば、西暦64年の皇帝ネロの弾圧で、ペテロやパウロも犠牲となりました。

 

303年にも多くのキリスト教徒が迫害されるなど、約250年近く、キリスト教徒たちは断続的に、ローマからの弾圧され続けたのです。なお、ペテロやヤコブ以外にも、12使徒のうち11人は殉教しています(パウロは12使徒には含まれない)。

 

しかし、それでもキリスト教は、ローマ人支配者からの弾圧を受け、殉教者を出しながら、根強く布教されました。時には、「カタコンベ」とよばれる地下の避難所に逃れ、ひそかに信仰が維持されました。

 

こうして、キリスト教は、やがてローマ帝国全土に広がり、もはやその勢力を無視できなくなりました。313年、時の皇帝コンスタンティヌスは、ミラノ勅令を出し、ついにキリスト教を公認したのです。ローマの統治には、弾圧よりも懐柔が有効とする政治的な判断でした。

 

公認後、新しい首都コンスタンティノープルや、エルサレムにも教会が建てられました。エルサレムへの巡礼も行われるようになり、そこでイエスの墓とされるものも発見され、その場所に「聖墳墓教会」が建てられました。こうして、ローマ帝国からの公認を得たキリスト教は、以後、さらなる発展を遂げるわけですが、ここに至るには、12使徒など指導者や信徒の犠牲の上にあったことは記憶に留められるべきですね。

 

*12使徒については以下の投稿記事を参照ください。

イエスの十二使徒たち