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2020年05月20日

歴史:「平将門の乱」ってどんな戦い?

NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」をふと思い出し、今回は平将門についてまとめました。平将門(たいらのまさかど)とは、平安中期の関東の豪族で、武士の魁(さきがけ)ともいわれ、当時、最大の内乱となった「天慶の乱(平将門の乱)」を起こしました。

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  • 平将門の出生

 

平将門は、平安中期の関東の豪族で武士の先駆けのような存在であると同時に、桓武天皇から五代めの子孫にあたり、皇族の血(桓武平氏の血筋)も引き継いでいます。

桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-良将-将門

 

桓武天皇の曽孫(ひ孫)である高望王(たかもちおう)は、890年ころに「平」の姓を授けられて皇族の籍を離れ、東国に下り、国司として上総国(千葉県周辺)に赴任しました。高望王には何人もの男子がおり、将門はそのうちの良将(よしまさ)の三男に当たります(高望王は将門の祖父)。

 

高望王は、任期が過ぎても帰京せず、そのまま一族とともに住み着き、常陸国や下総国へ進出、未開地を開発して膨大な領地を獲得し、長男国香(くにか)には真壁郡石田を、次男良兼には真壁郡羽鳥を、六男良正には筑波郡水守郷(今のつくば市)をそれぞれ与えました。また、この3人息子たちは、嵯峨源氏の源護(みなもとのまもる)の3人の娘をそれぞれ娶って、勢力を拡大させます。一方、将門の父・良将は、下総国(茨城県南部)を本拠として、鎮守府将軍という任務に就くなど、坂東平氏の地盤を固めていったのでした。

 

当時、地方の有力な豪族の子供たちは、都で朝廷や貴族に仕えて、官位や、国司など官職をもらって国へ戻るというのが一般的でした。将門も15歳~16歳の頃、都に憧れて京にのぼり、時の権力者で摂政・関白となった藤原忠平に10年余り仕えていました。しかし、父・良将が若くして死去したために、帰郷すると、将門が若年であることよいことに、豊田(今の茨城県結城郡石下)・猿島(茨城県岩井市)・(今の茨城・千葉にあった)相馬など父の所領の多くが、伯父(叔父)の国香、良兼、良正に奪われていたのでした。

 

 

  • 源護・平国香との戦い

 

将門はそれに怒り、土地を返すよう要求し続けますが、伯父(叔父)たちは、返さないばかりか、彼らと姻戚関係にある常陸国真壁に勢力のあった源護(みなもとのまもる)と手を組みます。そして、ついに、935年2月、将門は源護の子である扶、隆、繁の三兄弟に、常陸国野本(筑西市)で襲撃されますが、源護の館のある常陸国真壁に攻め入り、将門は三兄弟を討ち取りました。さらに伯父・国香の館にも火をかけ、国香を攻め滅ぼしたのでした。

 

翌10月、源護は朝廷に告状を出して将門を訴えましたが、朱雀天皇の元服の大赦によって、京都に召還された将門は帰国が許されました。もっとも、争いは一族の内紛であり、平将門が罪に問われることはありませんでした。逆に、この戦いで、将門の勇名は諸国にとどろき、将門は、下総国豊田(今の茨城県結城郡石下)を本拠として勢力を拡げていきました。

 

 

  • 武蔵武芝・興世王・源経基・平貞連

 

938(天慶1)年、武蔵国の足立郡(今の埼玉県)を治めていた郡司(郡の長官)、武蔵武芝は、朝廷が派遣してきた武蔵権守(むさしごんのかみ=武蔵国の長官代理)の興世王(おきよおう)が、兵をひきいて勝手に郡内にはいり、武芝の家を含む民家から財物などを奪い取っていったと主張して、興世王とその補佐役、武蔵介(むさしのすけ)として任官にあった、清和源氏の祖となる源経基の二人を相手に、戦いを始めようとしていました。

 

それを聞いた将門は、両者の仲を取り持とうと調停に入ると、興世王は将門の話に同意しましたが、源経基は応じようとしませんでした。そこで、武蔵武芝の軍勢が源経基の館を包囲して圧力をかけたところ、源経基は脱出して京に逃げ帰り、「平将門は武蔵武芝とともに、朝廷から遣わされた私を亡き者にしようとした」「謀叛である」と密告をしたのです。この時、将門は、常陸(茨城県)、下総(千葉県・茨城県)、下野(栃木県)、武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県)、上野(群馬県)のこの五国の代表者たちに、「将門は無実だ」という「謀反無実ノ由」を書いてもらい、都の藤原忠平のもとに届けて、事なきを得ました。

 

939年6月、百済王貞連(くだらのこにきし ていれん)が武蔵国に国司として赴任してきましたが、貞連と興世王(おきよおう)は不仲となり、興世王は冷遇されてしまいます。すると、興世王は、本来敵であるはずの将門のもとに身を寄せるという奇策を講じると、国司に反感を持っていた将門もこれを受け入れました。

 

 

  • 藤原維幾と平貞盛との戦い

 

同じ年の11月、今度は、常陸国那珂(なか)の豪族・藤原玄明(ふじわらのはるあき)が将門に頼ってきました。玄明は、国司の厳しい取り立てをする常陸国司・藤原維幾(ふじわらのこれちよ)に反発して納税を拒否し、物も強奪したため、追捕令が出されていました。維幾は玄明の引渡しを将門に要求しますが、将門は玄明を匿い応じませんでした。

 

常陸介維幾は、平貞盛の叔父でした。貞盛は維幾を前面に立てて、将門と対抗しようとしたため、将門と貞盛の対立が高まります。なお、この年の6月には将門の宿敵、叔父の良兼が死去し、将門にとっての敵は、国香の子の貞盛だけとなっていました。将門は、常陸国府(常陸府中市)にいた貞盛を討つべく、兵1000人を率いて出陣し、維幾の3000の兵と激突しました。戦いは、将門が勝利し、国府を襲いましたが、貞盛を討ち漏らしてしまいました。そこでやむを得ず、将門は国府(茨城県石岡市)の建物とまわりの民家300戸を焼き払い、国司(長官)の藤原維幾を捕らえ、国印(国司の印)と鎰(やく)(国倉の鍵)を奪って引き上げました。

 

このことは直に、都へ知らされます。国府を襲った行為は、まさに重大事態であり、これにより、将門は朝廷にたいする「反逆者=謀叛人」と見なされることを意味していました。

 

ところが、坂東の地では、「いっそのこと、関東の国々をぜんぶ征服し、朝廷が遣わした役人たちは、都へ追い返してしまったらどうだ」と、将門と共に戦った興世王(おきよおう)は、関東8国の制覇を唱えるのです。

 

関東の8国

下総(しもうさ)(茨城・千葉)       上総(かずさ)(千葉)、

下野(しもつけ)(栃木)                 上野(こうずけ)(群馬)、

常陸(ひたち)(茨城)                     安房(あわ)(千葉)

武蔵(むさし)(神奈川・東京・埼玉)、相模(さがみ)(神奈川)

 

これを受け、将門もその気になり、939年12月、下野国府(栃木市)と上野国府(前橋市)を襲い、国司から国印と鎰(やく)を奪って降伏させました。

 

 

  • 「新皇」将門、関東制圧

 

上野国(群馬県)を占拠した時、将門の陣営に、突如、八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れます。お告げを伝えると言って神がかりの状態になった巫女は、「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授け奉る」と託宣したのです。こう告げられた将門は、「菅原道真の霊魂だった」と後に言われた巫女の前にひれ伏したとも伝えられています。

 

これに従って、平将門は、天慶2年(939年)12月19日、自らを新皇(しんのう)と自称し、石井(いわい)(今の茨城県坂東市岩井)を王城に定めました。当時、京都には朱雀天皇が御座しましたが、将門は朱雀天皇を本皇(ほんのう)としてしまったのです。以来、将門の勢いに恐れた諸国の国司らは逃げ出し、将門は、残りの関東八ヵ国の国府を次々と占領し、遂に関東全域を手中に収めたのです。そして、独自に一族の者を関東諸国の国司を任命し、「独立政権」を樹立しました。

 

 

  • 藤原秀郷平貞盛との戦い

 

こうした事態に、摂政・太政大臣藤原忠平ら朝廷の権力者たちは、驚愕します。特に、同じ頃に西国で「藤原純友の乱」の報も入ったこともあって、朝廷が慌てたのは、言うまでもありません。対応に苦慮した朝廷は、940(天慶3)年1月、「将門を討った者は、身分を問わず貴族とする(4位の位と功田を与える)」との「太政官符(追補官府)」を全国各地に発布し、諸社諸寺には調伏の祈祷(将門呪殺)が命じられました。

 

また、坂東8国に、下野の藤原秀郷、常陸の平貞盛、真壁の平公雅・平公連(将門の伯父良兼の息子)ら8人を押領使(地方の暴徒の鎮圧などにあたった官職)に任命しました。さらに、朝廷は、藤原忠文を征夷大将軍に任命、その印としての太刀(節刀)が下賜され、追討軍が京を出立しました。

 

一方、そのころ、将門は、常陸で平貞盛の軍を追い散らしたこともあって、下総の本拠へ戻り、兵を休養と田植えの準備のため地元へ帰還させてしまっていました。この結果、将門の手持ちの兵は下総の兵だけで、 全軍2千の5分の1以下の400人足らずを残すだけとなっていました。これを聞いた平貞盛は、下野の国(栃木県)の豪族、藤原秀郷(ひでさと)に掛け合い、将門討伐の軍を立てたのでした。2月、貞盛と秀郷の兵、併せて4000が、将門の10倍の兵力をもって、下総の国(千葉県・茨城県)に攻め入り、将門軍を撃破、将門の館に火を放ちます。

 

火の中を逃れた将門は、ひるまず騎馬隊の先頭にたって、貞盛の陣を襲います。風向きは将門にとって都合がよく、南風(春一番)が吹き荒れ、将門軍は矢戦を優位に展開、貞盛・秀郷の軍は総崩れとなっていきました。しかし、急に風向きが変わり北風(寒の戻り)になり、風を負って勢いを得た貞盛・秀郷軍は反撃に転じます。突然の風向きの変化に、風煙が舞い、将門の乗った馬が立ちすくんだその瞬間、藤原秀郷が放ったとされる矢が、将門の額に命中し落馬、その瞬間に首を刎ねられました。

 

 

  • 将門の死

 

将門の死によって将門軍は鎮圧され、「関東独立国」はわずか2ヶ月で瓦解しました。将門を討った秀郷には従四位下、貞盛らには従五位下がそれぞれ授けられました。将門の首は、都へ運ばれ、晒しものにされましたが、その首は、いつまでもかっと目をみひらき、切り離された胴体をもとめて、東国へ飛んでいったというような様々な「将門伝説」が生れています。

 

関連投稿:将門伝説ってご存知ですか

 

<参照>

平将門の乱(Hi-ho)

歴史事象 平将門の乱(毛呂山町)

5分でわかる平将門の乱

Wikipediaなど