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2020年02月29日

神話:神功皇后の「三韓征伐」

廣田神社についての投稿「西宮神社の『親』だった廣田神社」で、神功皇后の三韓征伐がでてきました。今回は「三韓征伐」前後の神話をまとめて紹介します。

 

神功皇后は、皇后という立場にありながら、海の向こうの異国・新羅への出兵を行ない、朝鮮半島の広い地域を服属下においた三韓征伐を行いました。三韓とは、当時、朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)・高句麗(こうくり)・百済(くだら)の3国のことをいいます。

 

 

  • 熊襲の反乱と仲哀天皇

 

大和朝廷に抵抗した南九州の部族、熊襲は、かって日本武尊(倭建命)(ヤマトタケルノミコト)によって平定されだが、その次の世代になって再び反乱を起こしました。そこで、日本武尊の第2子で第14代仲哀(ちゅうあい)天皇と神功(じんぐう)皇后は、大和朝廷にまつろわない熊襲を討伐するため、九州へと行幸し、儺県(ながあがた)(福岡市博多)の香椎宮(かしいぐう)にいました。

 

仲哀天皇は群臣たちを召して、熊襲攻撃について協議していた時、神功皇后に神が懸かって神託がありました。

「熊襲は荒れてやせた地である。どうして兵を挙げて討つほどの国であろか。この国よりも、西の方に金銀をはじめ、優れた宝を持つ国がある。そこは乙女の眉のように弧を描いた国で、我が国の津に向き合った所にある。その名を新羅国という。もし我をよく祀るならば、刃に血で汚すことなく、その国はおのずと降服するであろう。また熊襲も服従するであろう。我を祀るには、天皇の御船と穴門の直(あたい)ホムタチの献上した大田水田を供えよ。」

 

しかし、仲哀天皇は、この神託に疑いを持たれました。そして、高い山に登り、遥か大海を望みましたが、そのような国は見えませんでした。天皇は言いました。

「あまねく見渡したが、海ばかりで西に国はない。どこの神が私に戯れを申しているのか。偽りをいう神だ。先代の皇祖は、天つ神と国つ神、天神地祇(てんじんちぎ=すべての神々)をお祀りしてきた。まだ残された神がおられたのか?」

 

すると神はお怒りになり再び皇后に懸かって言いました。

「天にある水鏡をのぞくように、われは、天からその国を見下ろしているのに、どうして国がないなぞと、私の言葉をそしるのだ。そなたは最後まで信じなければ、そなたはその国を得ることは出来ないであろう。」「たった今、皇后が身ごもった。この国はそなたが治めるべき国ではない、皇后の腹の御子が治めるべき国である」。

 

しかし、仲哀天皇はなおも信じず、強引に熊襲を攻撃したものの、結果、勝つことができずに戻ってきました。神の怒りを受けた仲哀天皇はしばらくして病に襲われ急逝されました。

 

 

神功皇后、新羅出兵

 

仲哀天皇がご神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めていた神功皇后は、祟っている神を明らかにして、神の言う「優れた宝のある国」を求めたいと思い、群臣たちに命じて、国中の罪を祓って過ちを悔い改めるため、斎宮(いつきのみや)を小山田邑(おやまだむら)(福岡県古賀市)に造らせました。そして、神功皇后自らがその神主となって、さらに神託を聞こうとされ、中臣烏賊津の使主(なかとみのいかつのおみ)を召して審神者(さにわ)とし、尋ねて言いました。

 

「先の日に仲哀天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。願わくは、その御名を教えて下さい。」
「伊勢の国にまします神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかき・いつのみたま・あまさかる・むかつひめのみこと)(天照大神の荒魂)」と。

 

烏賊津の使主が尋ねました。「この神以外に他の神はいらっしゃいますか。」

「尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神(天照大神の分身ワ稚日女(カヒルメ)と見られる)がある」と。

 

さらに尋ねました。「他におられますか。」
「天事代 虚事代 玉櫛入彦 厳之事代神(あめにことしろ・そらにことしろ・たまくしいりびこ・いつのことしろのかみ)(=事代主神のこと)がいる。」

 

烏賊津の使主がさらに尋ねました。「後に出て来られる神が有りますでしょうか。」
「名を表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神(=住吉三神のこと)がおる。」

 

そして、「真にあの国を求めんとするならば、天地の神、山の神、海河の神たちに悉く幣帛を奉り、大海を渡るがよかろう」との神の言葉を得て、教えの通りに神々を祀り、西方の新羅を討とうと改めて決意されました。

 

さらに、神功皇后は、西暦201年(神功皇后摂政元年)、新羅征伐(三韓征伐)に出発する際、「和魂が皇后の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろう」との神託も受け取られました。この時、神功皇后は、皇子(後の第15代応神天皇)をご懐妊されていましたが、髪をほどき、霊験によって髪は2つに分かれ、その髪を男子のように結い上げました。そうして男装した神功皇后は、神の御心に従い、刀剣・日本刀や矛を奉って軍兵を集め、軍を整えました。

 

こうして、神の加護を受けた皇后の軍船は、風の神が起こす浪、水中の魚の助けによって進み、帆船は舵や櫂を労せずたちまち新羅に到着、新羅は皇后が起こした大波にのまれてしまい、新羅王は戦わずして降参しました。さらに、高句麗と百済の王も同じく帰順させ、三韓征伐を成し遂げたのです。

 

戦勝を収めると、軍に従った神、表筒男、中筒男、底筒男の三柱の神々が皇后に教えて言いました。

「我が荒魂を穴門の山田の邑に祭りなさい。」

そこで、穴門の直(あたい)の祖、ホムタチを荒魂を祭る神主にして、祠を穴門の山田の邑に立てました(現在の下関の住吉神社の起源)。

 

新羅を討った翌年の春、神功皇后は群臣・百寮(ももつかさ=役人)を率いて、穴門の豊浦の宮(下関)に遷りました。また、筑紫の地(福岡県)では、応神天皇を無事、出産しました。その後、仲哀天皇の亡骸を収めると、海路で大和に向かいました。

 

 

  • 忍熊王と香坂王の反乱

 

一方、この間、大和にいた仲哀天皇の皇子の忍熊王(おしくまのみこ)と同母兄の香坂王(かごさかのみこ)が、神功皇后と皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていました。二人は、「天皇が崩御された。また皇后が新羅を討って、あわせて皇子が新たに誕生した」と聞いて、「今、皇后には御子がいる。群臣はみな従っている。必ず共に謀って、若き御子を天皇に立てるだろう。吾らは兄なのにどうして弟に従えるか」と、皇位継承をめぐって謀略を張り巡らせていたのでした。

 

御凱旋の帰途、これを知った神功皇后は、迂回して南海から出て、紀伊水門からまっすぐ難波を目指しました。ところが、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまったそうです。そこで、兵庫の港(務古水門)に帰って、神意を伺いました。

 

すると、天照大神は教えて言いました。

「(天照大神の)荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良いだろう」という神託を得ました。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に命じて、神託通りに広田の地に、天照大神の荒魂を祀られたのでした。

 

また、神功皇后の軍に従っていた稚日女尊(わかひるめのみこと)は言いました。

「吾(われ)は、活田長峽国(いくたながをのくに)(今の神戸)に居ることを欲す」

 

 

事代主尊(ことしろぬしのみこと)は言いました。

「吾(われ)を御心(みこころ)の長田の国に祀れ」

 

住吉三神(底筒男命そこつつのおのみこと・中筒男命なかつつのおのみこと・表筒男命うわつつのおのみこと)からは、次のような神託がありました

「吾が和魂(にぎみたま)を大津のヌナクラの長峡(ながお)に祀りなさい。そこで往来する船を見守ろう。」

 

そこで、これらの託宣に従い、それぞれの神の奉祀が行われました(これが、現在の廣田神社、生田神社、長田神社、住吉大社の創建の由来となっている)。

 

すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王(おしくまのみこ)の軍を打ち破ることができました。神功皇后はその後、大和で御子(のちの応神天皇)を皇太子に立てて後見し、反乱の企てを制圧しながら大和王権を確立していきました。

 

 

<参照>

刀剣ワールド「神功皇后」

謎の人物・神功皇后の「三韓征伐」伝説は、どのようにして生まれたのか?

古事記に親しむ 2三韓征伐FC2

廣田神社HP

住吉大社HP

Wikipediaなど

 

2020年02月28日

神話:ニニギノミコトの天孫降臨

前回の投稿で、瀬織津姫の伝承やニギハヤヒについて学ぶうちに、記紀(古事記・日本書記)の天孫降臨についてまとめる必要性を感じましたので、ここに紹介します。

―――――

 

天照大御神(アマテラスオオミカミ)が天界から下界を見下ろすと、色々な混乱や揉め事がたくさんあっていました。そこで、高木神(タカギ神=タカミムスビ)との話し合った天照大神は、「それならば、私の子を地上に降ろそう」と考えて、天忍穗耳尊(アメノオシホミミ)を呼んで言いました。「ようやく葦原の中つ国を治める時がきた。地上に降りて、国を治めなさい。」

 

また、天照大神(アマテラスオオミカミ)は持っていた寶鏡(宝鏡)(タカラカガミ)を天忍穗耳尊(アメノオシホミミノミコト)に授けて言いました。
「我が子よ。この鏡を見るときには、私を見ていると思いなさい。ともに床(みゆか)を同じくし、殿(みあらか)を共(ひとつ)にして、この鏡を神として祀りなさい」(日本書記)
「この鏡を私の魂だと思って、私を拝するように、大切にお祀りしなさい」(古事記)

 

また命じて言いました。「高天原で育てられている斎庭の穂(ユニワノイナホ)を授けよう。それを地上に撒いて育て、食糧としなさい。」

 

そして高皇産靈尊(タカミムスビ)の娘の萬幡姫(ヨロズハタヒメ)を天忍穗耳尊(アメノオシホミミ)に嫁がせて、妃として、地上に降ろすことにしました。

 

ところが、地上に降りようというときに、アメノオシホミミは言いました。

「私が葦原の中つ国に降りるしたくをしている間に子どもが生まれました。名を瓊瓊杵尊(邇邇芸命)(ニニギノミコトといいます。この皇孫(スメミマ=アマテラスの孫)を私のかわりに降ろすのが良いでしょう」。

 

そこで、天照大神は、孫のニニギノミコトを呼びよせ、改めてお命じになられました。

「豊かな葦原で秋になると稲穂がたくさん稔る瑞穂(みずほ)の国(日本のこと)は、我が子孫が王たるべき国である。なんじ皇孫よ、行って、しっかりと治めなさい。恙(つつが)なくお行きなさい。天津日嗣(寶祚)(あまつひつぎ=引き継がれる皇位)は、天地と共に永遠に栄えることでしょう。」

 

また、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に、八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)、八咫鏡(ヤタノカガミ)、草薙劒(クサナギノツルギ)の三種の寶物(タカラ)が与えられました。

 

その際、思兼神(オモイカネ)、手力男神(タヂカラオノカミ)、天石門別神(アメノイワトワケ神)を加えて、天照大神(アマテラスオオミカミ)が言いました。

「この鏡は、ひたすら私の魂として私を拝むように祀りなさい。つぎに思兼神(オモイカネ)は、祭祀を執り行い、政治を行いなさい。」加えて、勾玉・鏡・剣の三種の神器とともに人々が飢えないようにと稲穂を持たせました。

 

こうして、迩迩芸命(瓊瓊杵尊)(ニニギノミコト)は、五伴緒(いつのとものお)と呼ばれた天兒屋命(天児屋命)(アメノコヤネノミコト)、太玉命(布刀玉命)(フトダマノミコト)、天鈿女命(天宇受売命)(アメノウズメノミコト)、石凝姥命(伊斯許理度売命)(イシコリドメノミコト)、玉屋命(玉祖命)(タマノヤノミコト)の五人の神様に、思金神、手力男神、天石門別神、登由気神(トヨウケノカミ)を加えた神々を従えて、天磐座(アメノイワクラ=高天原で座っていた場所)を離れ、地上の葦原の中つ国へ、いざ旅立とうとされました。

 

ところがその時、ニニギノミコトが降りる前に、先に様子を見に行った神が帰って来て、報告しました。「一柱の神が、天の八衢(アマノヤチマタ)(道の辻=十字路)に居ます。背はとても高く、目はホオズキのようにギラギラと赤く輝いています。鼻もたいそう長く、口のはしは明るく光っています。」その神の体から放った光は、上は高天原、下は葦原中つ国を照らしていました。

 

それを聞いた天照大神は、その神の正体を確かめさせようとしますが、居並ぶ神たちは恐れをなして尋ねられませんでした。そこで、天照大神は天鈿女(アメノウズメ)を呼んで、「お前は女神ではあるが、物怖じしない。だから神の正体を確かめてきなさい」と命じました。

 

アメノウズメは言われたとおりにその神のところへ行き、こう尋ねました。

「この道はこれからニニギノミコトがお通りになられます。その前に立ちはだかるとは、そなたはいったい何者か?」

 

すると、その神は「私は“国つ神(くにつかみ)”の猨田彦(サルタヒコ)と申します。天つ神(あまつかみ)が天から降りられると聞きました。わたしが先に行き、道案内をしましょう。」

天鈿女(アメノウズメ)はまた問いました。
「お前は皇孫(スメミマ)をどこに案内するつもりだ。」

猨田彦大神(サルタヒコノオオカミ)は答えました。
「天神(アマツカミ)の子は筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯(クジフルノタケ)へ行くべきです。」

「わたしは伊勢の狹長田(サナダ)の五十鈴(イスズ)の川上に行きます。あなたは私を(伊勢まで)送ってください。」

 

こうして、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は、改めて、猿田彦神(さるたひこのかみ)を先導とし、八百万神を従え、幾重にもたなびく分厚い雲を押し分けて、おごそかに地上に降りていきました。その途中、天の浮橋(あめのうきはし)に立ち寄ると、地上の世界を見下ろし、これから降り立つ場所をしっかりと確かめました。そして、筑紫の日向の高千穂の地に、ひと息に降り立ちました。

 

「ここは、韓国(カラクニ=朝鮮半島)に対峙していて、朝日が海からまっすぐにさしこみ、夕日もひときわ輝いている。とてもよい土地だ。」ニニギノミコトはこう言うと、高天原にも届くかと思われるほどの高さのりっぱな宮殿を建てて、ご統治をはじめられました。

 

ニニギノミコトが地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するために降り立ったことを「天孫降臨」と言います。

 

なお、天鈿女命(アメノウズメノミコト)は猨田彦神(サルタヒコノカミ)が願うままに、伊勢まで送って行きました。皇孫(スメミマ=ニニギノミコトのこと)が、猨田彦の神の名を姓氏(ウジ)とするよう命じられたからです(アメノウズメノミコトは猿田彦神の妻になった)。

 

2020年02月24日

神話:封印された瀬織津姫

前回の投稿「西宮神社の『親』は廣田神社だった」でも述べたように、廣田神社の主祭神は、天照大神荒魂でしたが、天照大神荒魂とは瀬織津姫のことで、さらに瀬織津姫は天照大神の妃であったとする説があります。もし、それが正しければ、これまでの神話観を覆していくことになりかねない一大事となるそうです。今回は、瀬織津姫についてまとめてみました。

――――

 

  • 瀬織津姫とは?

 

そもそも、瀬織津姫(せおりつひめ)はどういう神さまなのでしょうか?瀬織津姫は、ご神格として一般的に祓神(はらいがみ)や水神として知られていますが、瀧の神・河の神海の神でもあります。実際、瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多いとされています。

 

瀬織津姫は、大祓詞(おおはらえのことば)という、神道の祭祀に用いられる祝詞の中でも最強と言われる祝詞の中で、祓いの神(災厄抜除の神)として登場します。神道の大祓詞には、祓をつかさどる神様として瀬織津姫以外に、速開都比売(はやあきつひめ)・氣吹戸主(きぶきどぬし)・速佐須良比売(はやさすらひめ)という祓戸大神(はらえどのおおかみ)が登場しますが、瀬織津姫は、いわゆる祓戸四神(はらえどよんしん)の筆頭として登場する女神です。

 

大祓詞(おおはらえのことば)は、神道の神々をお参りする時に唱える祝詞(のりと)ですが、その中で、瀬織津姫を含む「祓戸の大神たち」が以下のように示されています。

 

 

  • 大祓詞

高山の末、短山の末より ((たかやまのすえ、ひきやまのすえより)
佐久那太理に落ち多岐つ (さくなだりにおちたぎつ)

速川の瀬に坐す( はやかわのせにます)
瀬織津比売と云ふ神 (せおりつひめというかみ)
大海原に持ち出でなむ (おおうなばらにもちいでなん)

 

(現代語訳)
高い山・低い山の頂きから、勢いよく落ちてきた私たちの罪穢(ざいえ)は、渓流の瀬にいらっしゃる瀬織津姫が大海原に流してくださる。

 

此く持ち出で往なば (かくもちいでいなば)
荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す
(あらしおのしおのやおじのやしおじのしおのやおあいにます)

速開都比売と云ふ神 (はやあきつひめというかみ)
持ち加加呑みてむ (もちかかのみてん)

 

(現代語訳)
瀬織津姫によって流された罪穢は、荒海のうねりがぶつかり合って渦巻くところにいらっしゃる速開都比売神(はやあきつひめ)が、一気に呑んでくださる。

 

此く加加呑みてば (かくかかのみてば)
氣吹戸に坐す氣吹戸主と云ふ神 (いぶきどにますいぶきどぬしというかみ)
根國 底國に氣吹き放ちてむ (ねのくにそこのくににいぶきはなちてん)

 

(現代語訳)
速開都比売神に呑み込まれた罪穢は、気吹戸にいらっしゃる気吹戸主神(きぶきどぬしのかみ)が、根の国・底の国に吹き払ってくださる。

 

此く氣吹き放ちてば (かくいぶきはなちてば)
根國 底國に坐す速佐須良比売と云ふ神
(ねのくにそこのくににますはやさすらひめというかみ)
持ち佐須良ひ失ひてむ (もちさすらいうしないてん)

 

(現代語訳)
氣吹戸主に吹き払われた罪穢は、根の国・底の国にいらっしゃる「速佐須良比売神(はやさすらひめ)」がいずこかに持ち去って消して下さる。

 

 

これは、大祓詞の一部ですが、その大意は「祓をつかさどる神様として瀬織津姫・速開都比売・氣吹戸主・速佐須良比売という祓戸大神(はらえどのおおかみ)が、私たちの様々な罪や穢れを取り払ってくださる」という意味です。その中で、瀬織津姫(せおりつひめ)は、祓戸四神の一柱として、流れの速い渓流にあって、私たちの罪穢れを大海原に流してくれる神さまとして描かれています。

 

 

  • 御名を変えた瀬織津姫

 

このように、瀬織津姫は、大祓詞という祝詞の中で、祓戸四神の一柱のしかも最初に登場する重要な神様であるにもかかわらず、日本で最初の正当な歴史書と位置づけられている記紀(古事記・日本書記)には、一切でてきません。こうした背景から、瀬織津姫は謎の神さま、封印された神さまとみられています。しかし、封印されたとはいえ、古文書、神道書、国学の文献などから、瀬織津姫と同一とされる神さま(別名の神さま)が以下のようにあげられます。

 

天照大神之荒御魂

天照大神の荒魂の側面

 

菊理姫(くくりひめ)

全国の白山神社で祀られている水の神。天照大神の伯母にあたるとの説もある。

 

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)

山の神・海の神である大山祇神の娘の神さま。

 

水波能売命(みつはめのみこと)

「神生み」の終わりに生まれた火を鎮める水神。

 

善女龍王(ぜんにょりゅうおう)

仏教の八大竜王のひとりで、娑竭羅(サーガラ)の娘神

 

弁財天(べんざいてん)

七福神のひとつで元々はヒンズー教の女神、江の島神社の伝説にもあるように龍との縁が深いとされています。また、六甲比命神社のように、瀬織津姫が祀られていたとする神社のご祭神が弁財天に替わった事例がいくつか見られます。

 

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

宗像三女の神の三女の神さまで海の神さま、弁財天と同視される。実際、日本では七福神信仰の隆盛とともに、宗像三女神は弁財天と習合し、金運・財運の神さまとして信仰を集めています。

 

瀬織津姫命(せおりつひめ)は、大祓詞(おおはらえのことば)でそうであったように、谷川の流れの速い場に坐しまして、罪穢を大海原に流してしまわれることから、祓いの神であり、水の神、滝の神、河の神、海の神とされています。さらに、日本では古来、土着の水神は龍神として信仰され、水の神としての瀬織津姫命を龍神と同一視されています。ですから、上にあげたのは一例ですが、これだけ多くの神さまが瀬織津姫と同じ神さまと解されていると思われます。ただ、この中で、水の神、龍神とは異なる説が、瀬織津姫=天照大神荒魂説です。

 

 

  • 瀬織津姫は天照大神荒魂?

 

日本の神道の考え方で、神さまにはやさしい和魂(にぎたま)と荒々しい荒魂(あらたま)2つの魂があると考えられていますが、この説は、瀬織津姫が天照大神の荒々しい魂の方の天照大御神之荒御魂(アマテラスオオミカミノアラミタマ)であるというものです。

 

実際、天照大御神の荒魂を祀った神社といえば、伊勢神宮の内宮の別宮の荒祭宮(あらまつりのみや)、同じ内宮別宮の伊雑宮(いざわのみや)(参照:伊勢神宮は外宮と内宮だけではない)、兵庫県の廣田神社などがあります。このうち、瀬織津姫を祀っている神社として成立の最も古いとされる「廣田神社」の戦前までの由緒書には、「祭神の天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)は瀬織津姫である」と、瀬織津姫が主祭神であることが明確に記されていたそうです(参照:西宮神社の『親』は廣田神社だった)。

 

また、伊雑宮(いざわのみや)に関連するある伝承文書によれば、「玉柱屋姫神 天照大神分身在郷」「瀬織津姫神 天照大神分身在河」、すなわち祭神の「玉柱屋姫神は里に座す天照大神の分身で、瀬織津姫は河に座す天照大神の分身」と伝えられていると言われています。

 

さらに、神道五部書と呼ばれる、外宮の神職「渡会氏」が興した「伊勢神道」の書物の一つである「倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)」には、「皇太神宮荒魂、一名、瀬織津比咩神(天照大御神の荒魂、そのまたの名を瀬織津姫命といい・・)」とあるそうです。

 

こうした事例から、天照大御神之荒御魂のご神名の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)は、瀬織津姫の別名であるとの根拠にされているのです。

 

 

  • 瀬織津姫は天照大御神の妃?

 

この瀬織津姫・天照大御神の荒御魂説からさらに発展して、「瀬織津姫は、天照大御神の妃(正室)であった」とする説があります。この見解こそ、瀬織津姫が記紀神話に出てこない神さまである理由にもなっています。もし、瀬織津姫が天照大神の妃であったとすると、古事記や日本書紀の大前提が崩れてしまいます。それは、天照大御神は男神となってしまうからです。この見解は、古代史において記紀編纂以来のタブーとなっているそうです。なぜなら、この説は神武天皇の正当性すら脅かしうるからです。

 

記紀には、伊邪那岐命(イザナギノミコト)は、黄泉の国から脱出し、日向の国で禊を行った際に、左目を洗ったときに天照大神、右目を洗った時に月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗った時に須左之男命(スサノオノミコト)が生まれたと書かれています。そしてスサノオが「姉の天照大神を訪れ…」という式に神話が展開していることから、天照大神は女神と広く信じられていました。(記紀「天地開闢」参照)

 

では、瀬織津姫・天照大御神の妃説は、どこからきているかというと、「ホツマツタエ」という古文書です。「ホツマツタエ」によると、伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)には4人の子がおり、長女がワカヒメ、長男がアマテラス、次男がツクヨミ、三男がスサノオと描かれています。また、瀬織津姫は、長男アマテラスの12人の妃の一人でしたが、後に正妻として「内宮」に迎え入れたと書かれています(この時、瀬織津姫は「向津姫」となったとも言われている)。

 

仮に、天照大神は女神ではなく男神だったなら、記紀(古事記・日本書記)の編者にとって何が不都合となったのでしょうか?それは、記紀編纂時の天皇である女帝の持統天皇の正当性を担保するためであるという見方が一般的なようです。実際、持統天皇が瀬織津姫が祀られていた神社のご祭神を瀬織津姫以外にするようにという勅令を出したと言われています。

 

ただ、持統天皇の権威をより高めるため…、というわけだけではないようです。奈良時代から進んで、明治維新を迎え、それまで、瀬織津姫をご祭神と祀っていた神社はあったのですが、新政府は、瀬織津姫をご祭神にしないようにと、再度、祭神の名前を変更すべしとの圧力がかかったそうです。その結果、祭神、瀬織津姫(せおりつひめ)の名前が書き替えられました。瀬織津姫が天照大御神之荒御魂に代わった廣田神社の場合がその典型ですね。

 

そうすると、「持統天皇の正当性…」以外に、瀬織姫の名を神話や史実から消し、男神、天照大神も封印したとしたら、その理由は何なのかというと、そこには饒速日(ニギハヤヒ)という神さまの名前が浮上します。

 

 

  • 饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)とは?

 

歴史家の中には、「男神の天照大神が饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)」であると見る向きがあります。そうなれば、瀬織津姫がニギハヤヒという神さまの妻となります。では、ニギハヤヒ(饒速日)とは、どういう神さまなのでしょうか?

 

天孫降臨の神話は、記紀にあるニニギノミコトで有名ですが(記紀「天孫降臨」)、ニギハヤヒの天孫降臨の神話も残されています。つまり、ニギハヤヒは日本の建国に大きな影響を与えた神さまということになります。また、神武天皇の東征の神話で、神武天皇が長髄彦(ナガスネヒコ)と戦う場面がでてきますが、ニギハヤヒはその長髄彦側の神として描かれています。これ以外にも、ニギハヤヒはスサノオの子または孫だった…などの説もあるなど、瀬織津姫同様、謎に満ちた神さまです。饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)を祀った神社が日本にはいくつか存在します(ニギハヤヒについては別の機会に詳しく紹介したい)。

 

磐船神社(いわふねじんじゃ)(大阪府交野市)

ニギハヤヒが天孫降臨の際、天磐船(あまのいわふね)に乗って舞い降りた地として知られ、巨大な石が祀られている。

 

籠神社(このじんじゃ)(京都府宮津市)

奈良時代に「丹後国一宮」になる由緒正しい神社として知られ、祭神の彦火明命(ひこほあかりのみこと)は、別名をニギハヤヒ(饒速日命)と信じられている。

 

また、文献上、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)の存在を記した書物が、前出の古文書「ホツマツタエ」です。瀬織津姫が天照大御神の妃であるという説の出所の一つも「ホツマツタエ」でした。古文書「ホツマツタエ」の中では、天照大神は女性神ではなく、男性神で、御名は饒速日(ニギハヤヒ)として描かれています。そして、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)の間に生まれた長男の天照大神(=ニギハヤヒ)が日本を統治をするのですが、ニギハヤヒの后として瀬織津姫が登場するのです。

 

こうした背景から、瀬織津姫(せおりつひめ)が祀られていた神社のご祭神が、天照大御神之荒御魂(アマテラスオオミカミノアラミタマ)という名前に代わっているわけや、瀬織津姫が、神道の大祓詞に出てくるが、古事記や日本書紀には登場しない封印された神である理由は、天武・持統朝の時代の権力者にその存在をかき消されたからではないかと考えられています。

 

そもそも、神話とは、事実として起きた様々な民族の征伐と言った話を、神さまを主役に見立てて、神話という形で象徴的に書かれたものであるという解釈も成り立ちます。つまり、日本の神話に登場する神さまのほとんどは(特に国津神)、実際に存在した部族や氏族の首長であるという話しは古来、指摘されています。当時からすれば、大和朝廷(ヤマト政権)の権力が正当化されるように、日本最古の歴史書と銘打って古事記と日本書記が書かれたという考え方も可能となります。

 

この観点に立てば、瀬織津姫は「大和」の国の神(人)ではなく、大和朝廷に反した部族や氏族の首長、または彼らが崇める神さまであった、だからこそ記紀から消されたという仮説も十分成立するように思われます。

 

消された瀬織津姫の氏族(部族)とは、例えば、ヤマト政権以前に繁栄したいたともいわれる出雲王朝や、それ以前にあった古代王朝だとみる向きもあります。実際、前述したように、スサノオノミコトがニギハヤヒの父親(または祖父)であるという説などは、出雲王朝と瀬織津姫が関わりを示唆するものと解されています。

 

また、天照大神は男の神さまで、別称はニギハヤヒであるとの見解を支える資料となっている「ホツマツタヱ」についても、同様のことが言えるかもしれません。現在、偽書と結論付けられている同書ですが、そうなった理由も、真書とされては困る人たちが、そうしたという見方も不可能ではないと思われます。

 

  • 古文書ホツマツタヱ

古史古伝の一つで、天地開闢から景行天皇までを五七調の長歌体で綴る叙事詩です。また、今、私たちが使っている文字とは違う神代文字の一種である「ヲシテ文字」で書かれているという特長があります。「ホツマツタヱ」の存在が明るみになったのは、昭和41年に神田の古本屋で写本が再発見されたからです。ただ、「ホツマツタヱ」があったという事実は、江戸時代の中期までしか遡ることができず、その内容も信憑性がないとして、偽書であると結論づけられています。しかし、古事記や日本書紀よりも正当であるというコアの研究者もいることも事実です。

 

*全く個人の見解ですが、別の古文書には、天照大御神は男神・女神、お二人の神さまがいて、記紀では混同されているとの指摘があります。この説ならば、神武天皇の正当性も失われることなく、むしろ様々な古代史の謎が解明するのですが、このテーマについても別の機会に触れてみたいと思っています。

 

 

  • 瀬織津姫を祀る神社

 

封印されたとも言われる瀬織津姫を祀る神社は全国に、次のように数多く存在します。ただし、瀬織津姫として表記しているとこもあれば、天照大御神之荒御魂(アマテラスオオミカミノアラミタマ)等現在では表記を変更した神社も存在します。

 

伊勢神宮 (三重県伊勢市)

廣田神社(兵庫県西宮市)

六甲比命神社(兵庫県西宮市)

六甲山神社(兵庫県西宮市)

御霊神社(大阪府大阪市中央区淡路町)

小野神社(東京都多摩市一の宮)

瀬織津姫神社(石川県金沢市)

佐久奈度神社(滋賀県大津市)

井関三神社(兵庫県たつの市)

 

 

<参照>

瀬織津姫命(せおりつひめ)|封印された女神。その正体とは。

瀬織津姫とは|封印された龍神・弁財天とも言われる伝説の神様を解説

神仏ネット

Wikiediaなど

 

2020年02月19日

神社:西宮神社の「親」だった広田神社

前回、正月、福男の行事でお馴染みの西宮神社について紹介しました(「福男選びの西宮神社ってどんな神社」)。その時、西宮神社はかつて廣田神社の摂社であったという事実を知って、今回は廣田神社についてまとめてみました。

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廣田神社(ひろたじんじゃ)

 

  • 概説

兵庫県西宮市に位置する廣田(広田)神社は、西暦201年、神功皇后(第14代仲哀天皇のお后)が新羅征伐から帰還の際、ご神託を受け、武庫の地・廣田の国(芦屋・西宮から尼崎西部)に創祀されたと伝えられる兵庫県第一の古社です。

 

主祭神は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)で、伊勢神宮の内宮の第一別宮・荒祭宮の御祭神と同じです。御名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたま・あまさかるむかつひめのみこと)と言われ、神功皇后御征韓の際、御霊威を示された大神です。

 

また、廣田神社には、主祭神の天照大御神の荒御魂だけでなく、脇殿神として、住吉三前大神、八幡三所大神、諏訪建御名方大神、高皇産霊大神の4柱の神々は、それぞれ第一脇殿~第四脇殿に祀られています。御脇殿奉祀四社は、御主神に縁由深い神々で、古くはあわせて廣田五社と称していたそうです。

 

【主祭神】
天照大神荒魂 (天照大御神之荒御魂)

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命

(つきさかきいつのみたま・あまさかるむかいつひめのみこと)

 

【脇殿神】
住吉大神(すみよしのおおかみ)
八幡大神(やはたのおおかみ)
武御名方大神(たけみなかたのおおかみ)
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)

 

 

なお、主祭神の天照大神荒魂とは、瀬織津姫(せおりつひめ)のことであったとする説があります。これは、廣田神社の戦前の由緒書きには、主祭神が瀬織津姫であると明記されていたことなどによります(もしこれが事実なら、これまでの神話の概念を覆すこともありうる事態となるので、このことについては改めて解説したい)。

 

 

  • 創建の由緒(神功皇后の神託)

神功(じんぐう)皇后は、西暦201年(神功皇后摂政元年)、新羅征伐(三韓征伐)に出発する際、「和魂が皇后の身を守り、荒魂が先鋒として船を導くだろう」という天照大神の神託を受け取られました。この時、神功皇后は、皇子(後の第15代応神天皇)をご懐妊されていましたが、軍船の先鋒となり軍を導き、神託通り、建国初の海外遠征に大勝利を収められました(新羅を攻め、次いで高麗・百済も降伏させた)。

 

一方、皇后の留守の間に、仲哀天皇の皇子の忍熊王(おしくまのみこ)が、神功皇后とお腹の中にいる皇子(後の応神天皇)を亡きものにしようと明石で待ち伏せていました。忍熊王は、仲哀天皇の死後、神功皇后が後の応神天皇を生んだため、同母兄の香坂王(かごさかのみこ)とともに皇位継承をめぐって、神功皇后と対立していました。

 

戦いを終え、御凱旋の帰途、それを知った神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指しました。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまったそうです。そこで、兵庫の港(務古水門)に帰って、神意をうかがう(占う)」と、「(天照大神の)荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良いだろう」という神託を得ました。そこで皇后は、山背根子の娘の葉山媛に命じて、神託通りに広田の地に、天照大神の荒魂を祀られたのでした(これが廣田神社の創建とされている逸話となっている)。

 

また、このとき、神功皇后の軍に従っていた稚日女尊(わかひるめのみこと)、事代主尊(ことしろぬしのみこと)、住吉三神(底筒男命そこつつのおのみこと・中筒男命なかつつのおのみこと・表筒男命うわつつのおのみこと)からも、それぞれ次のような神託がありました。

 

「吾(われ)は、活田長峽国(いくたながをのくに)(今の神戸)に居ることを欲す」

「吾(われ)を御心(みこころ)の長田の国に祀れ」

「吾が和魂(にぎみたま)を大津のヌナクラの長峡(ながお)に祀りなさい。」

そこで、これらの託宣に従い、それぞれの神の奉祀が行われました(これが、現在の生田神社、長田神社、住吉大社の創建の由来となっている)。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王(おしくまのみこ)の軍を打ち破ることができました。

 

 

  • 西宮と甲山

廣田神社は、京の都から西国方向を目指す街道上にある重要な神社ということで、平安中頃より、別称として「西宮」(にしのみや)とも呼ばれるようになりました。後に、「西宮」の語は、廣田神社の荘園である廣田神郷一帯(現在の神戸市東部〜尼崎西部)全体の地名として使われるようになったと言われています。その西宮地方を見守っているとされる御山に甲山があります。

 

甲山(かぶとやま)は、六甲山の東南端に位置し、西宮の象徴とも言われています。甲山の名前の由来は、神功皇后が甲冑を埋めたからという説や、山の形が「兜」の形に似ているからという説、さらには、神の山が、神山になり、甲山と転じたのではないかという諸説があります。

 

廣田(広田)神社は、当初、この甲山(かぶとやま)山麓の高隈原に鎮座しました。高隈原は高台にあって、神々が人目に触れず隠れて住まわれる神聖な広地という意味があったそうです。後に御手洗川のほとりに遷座しましたが、水害のため、享保9年(1724年)に現在の西山の地に遷座しました(1945年、空襲による全焼したが、戦後復興した)。

 

 

  • 六甲山神社と六甲比命神社

さらに、昔「向津峰(むかつみね)」と呼ばれた六甲山全体も、元は廣田神社の社領であったそうです。実際、山上にある六甲山(むこやま)神社と六甲比命神社(むこひめじんじゃ)は、かつて、広田神社の奥宮であったと考えられています。

 

六甲山神社(むこやまじんじゃ)は、古くから六甲山大権現を祭神の一つとしています。神社の奥に石祠である石の宝殿(いしのほうでん)が置かれていますが、六甲山大権現は、石宝殿で祀られる神とされています。その石は、神功皇后が三韓征伐の際に持ち帰って納めたという伝承もあります。

 

六甲比命神社(むこひめじんじゃ)は、荘厳な磐座をご神体とする神社で、吉祥院多聞寺の奥の院とされています。7世紀中頃、大化改新の頃に渡来したインドの法道仙人が、この地で修行中、毘沙門天を感得し、六甲山北の古寺山に吉祥院多聞寺を開き、付近は修験道の修行の場となったと言い伝えられています。。

 

 

  • 廣田神社と西宮神社

全国のえびす神社の総本社で、参拝一番乗りをめざす恒例の神事「福男選び」で有名な西宮神社は、かつて、廣田(広田)神社の摂社(末社)でした。西宮神社は、かつて、西宮戎神社といい、浜南宮を中心とした地域(旧西宮町)にありました。ただ、時代とともにエビス神信仰が盛んになるにつれ戎社は、廣田神社から独立して西宮神社となったのでした。

 

その経緯をみると、明治時代の始めに、西宮神社は、社名を大国主西神社と改めましたが、当時の教部省は、西宮戎神社と大国主西神社を別の神社と見ていたため混乱が生じました。そこで、社名を西宮神社に戻し、境内にあった社(境内社)を大国主西神社としました。明治7年(1874年)には、廣田神社が境内地を分割譲与し、末社の西宮神社は独立しました。第二次世界大戦後も、廣田神社と西宮神社は別々の宗教法人となり、大国主西神社は社格を持たない神社として、西宮神社の境内神社として存続しています。

 

一方、西宮神社の境内に南宮神社(南宮社)があります。浜の南宮と呼ばれ、西宮戎社とともに、廣田神社の摂社(末社)として、南の浜に祀られていた社で、平安期には京都の貴族の崇敬を受けていました。戎社が独立して西宮神社となり、南宮社(南宮神社)はその境内社になりましたが、廣田神社の摂社(末社)の位置づけです。

 

 

<参照>

廣田神社HP

神功皇后の伝承地〜天照大神荒魂を祀る廣田神社〜

(神旅、仏旅、むすび旅)

天照大神荒魂を祀る廣田神社

廣田神社(兵庫県)人文研究見聞録

六甲山神社(兵庫県)人文研究見聞録

2020年02月15日

伝統行事:知られざる「立春」と「暦」の関係

前回の投稿「節分の豆まきと恵方巻」の中で、「(今の)節分は立春の前日に当たる日」と定義されると解説し、立春についても多少は言及しましたが、今回は、もう少ししっかりと立春について述べてみたいと思います。

 

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  • 立春と二十四節気

一般的に、2月4日は、立春(りっしゅん)で、暦の上で春が始まる日と解されています。なぜ、2月4日が立春なのかと言えば(もっとも2021年の立春は、2020年が閏年となることから2月3日になる)、古代中国で作られた二十四節気(にじゅうしせっき)と呼ばれる暦を元に定められているためです。

 

二十四節気(にじゅうしせっき)は、地球と太陽の位置関係、つまり太陽の運行に基づいて作成され、1年で最も昼の長い日を夏至、1年で最も昼の短い日を冬至、昼と夜の長さが同じ日を春分・秋分と定めています。より具体的には、まず「夏至を夏の中心」、「冬至を冬の中心」そして「昼と夜の長さが同じ春分・秋分を春の中心と秋の中心」として1年を4等分し、春夏秋冬を決めたとされています。夏至、冬至、春分、秋分は、合わせて「二至二分(にしにぶん)」と呼ばれ、さらに、この4つの節気(夏至、冬至、春分、秋分)を基準として1年を24分割するのです。

 

立春はこの冬至と春分のちょうど中間の日で、暦の上ではこの日から春が始まります。2月上旬の立春だけでなく、立夏(5月上旬)・立秋(8月上旬)・立冬(11月上旬)も、それぞれ夏秋冬の始まりの日として重要な節気とされます。なお、立春・立夏・立秋・立冬を「四立(しりゅう)」、また、二至二分と四立を合わせて「八節(はっせつ)」と言います。

 

「二十四節気」は、もともと農業を指導するために作られた暦とされ、古代中国の殷(BC1600~BC1046)の頃に「二至二分」が、西周(BC1046~BC770)の頃に「八節」が、春秋戦国(BC770~BC221)の頃に「二十四節気」がそれぞれ成立したそうです。なお2016年に中国の「二十四節気」がユネスコの無形文化遺産に登録されました。

 

 

  • 日本と二十四節気

日本では、平安時代に、二十四節気(にじゅうしせっき)に取り入れられ、これに基づた暦が使われるようになったと言われています。ただし、日本と中国とでは位置も気候も異なり、中国の二十四節気は必ずしもすべてが日本の気候に合うものではなく、季節感にずれがあります。例えば、立春の日、ニュースなどで、「暦の上ではもう春です」とよく言われるように、立春と言ってもまだまだ冬真っ只中なのです。日本では、2月が最も寒い月で、12月は1月、2月よりは暖かいのに対して、中国では1月が最も寒く、2月より12月の方が冷え込むそうです。それでも、二十四節気に基づく暦は、農業とは無関係に私たちの生活に根付いています。

 

実際、日本の二十四節気(にじゅうしせっき)に基づく暦でも、1年は24等分され、それぞれに名前が付けられています。例えば、春の節気は、立春(りっしゅん)から春が始まって、雨水(うすい)、啓蟄(けいちつ)、春分(しゅんぶん)、清明(せいめい)、穀雨(こくう)と続きます。

 

 

  • 立春と雑節

さらに、日本では、二十四節気だけでは日本の気候の説明には足りないので、日本だけの節気で「雑節」(ざっせつ)というものを設けました。例えば、「八十八夜」とか「二百十日」というのは、いずれも立春から数えた日にちを言います。「八十八夜」(はちじゅうはちや)は、立春から88日目は5月2日ごろで、この頃、イネの苗代(イネの苗を作る場所)を作ったり、作物の種まきをしたりする日です。「二百十日」(にひゃくとおか)は、9月1日ごろで、台風の多い日と言われています。雑節はほかにも、「入梅」、「土用」、「彼岸」、「半夏生」などがあり、実は「節分」もこの雑節に入ります。

 

 

  • 立春と旧正月

一方、立春は、旧暦の旧正月のことと勘違いされがちです。立春と旧正月は別物です。二十四節気が、太陽の運行にもとづいた暦であったのに対して、旧暦は、月の満ち欠けを基準として、閏月で調整した暦です。これをよく太陰暦といいますが、この場合は文字通り、月の運行を基準にして作られる暦をいいます。実際は、月の満ち欠けは約29.5日で1周するので、これを一月(ひとつき)としていけば、実際の季節とずれることから、閏月を入れて1年の季節感を調整しているそうです。また、旧暦の場合、旧正月(旧暦の1月1日)は、必ず朔(さく)と呼ばれる新月の日になるように定めています。ですから、立春と旧正月が一致するのは約30年に1度しかないそうです。なお、中国の春節は、旧暦の旧正月のことを言います。

 

立春の「旬の食べ物・季節の料理」

いよかん

ポンカン

フキノトウ

 

立春の「季節の花」

福寿草(フクジュソウ)

黄梅(オウバイ)

ツバキ

プリムラ

 

 

2020年02月13日

伝統行事:節分の「豆まき」と「恵方巻」

2020年2月3日は、節分の日でした。節分は、2月の代表的な年中行事(毎年決まった日に行われる儀式や催しのこと)です。子どもの頃からそうであったように、節分と言えば、豆まきですが、最近では、節分と言えば「恵方巻」を食べるという風習も定着しています。今回は「節分」と「豆まき」、「恵方巻」についてまとめてみました。

 

  • 節分とは?

今年がそうであったように、節分は「2月3日」と覚えている方も多いかもしれませんが、実は節分は必ずしも2月3日とは限りません。節分は、「立春」「立夏」「立秋」「立冬」と4つある季節の変わり目のうち、「立春」の前日にあたる日を指します。

 

「立春」「立夏」「立秋」「立冬」という分け方そのものも、古代中国で生まれた「二十四節気(にじゅうしせっき)」と呼ばれる暦を基にした区分でした。日本でも平安時代ごろから1年を24分割した「二十四節気」の暦が使われ、立春から春が始まり、立夏から夏が始まり、立秋から秋が始まり、立冬から冬が始まりますというようになったのでした。

 

節分とは、本来これらの「立春の前日」「立夏の前日」「立秋の前日」「立冬の前日」のことを意味し、もともとは年4回の行事でした。「節分」という漢字も、季「節」を「分」けると解されています。しかし、江戸時代の後期以降、立春の前日の「節分」だけが残り、他の3回の節分は行事として無くなってしまいました。

 

このように、立春の日も「二十四節気」に従って決められ、現在の暦では、だいたい毎年2月4日頃に該当するので、節分はその前日である2月3日頃になるのです。ちなみに2020年はうるう年となり、2021年の立春は2月3日、節分は2月2日となります。

 

 

  • 節分と豆まき

昔から春・夏・秋・冬の季節の変わり目には、邪気(鬼)が生じると考えられていたそうです。そこで、節分には、古い季節の邪気(厄)を払い、新しい季節に福を迎え入れるように、豆まきをする風習が生まれたとされています。当初は、豆ではなくお米を撒いたこともあったそうで、節分の豆まきや鬼退治(鬼やらい)が本格的に行われるようになったのは、室町時代の頃と言われています。

 

では、なぜ豆で鬼を追い払うのかと言えば、「豆」が、「魔滅(まめつ)」、「魔目(まめ)」に通じ、それぞれ魔物を滅する、鬼の目を打つという意味があるから、また、中国の医薬書に大豆は鬼毒に効果があると書かれていたという理由などがあげられています。共通することは、豆には鬼を追い払う力があると信じられてきたことにあるようです。

 

 

  • 豆まきの由来

節分の豆まきや鬼退治などの風習は、古代中国で行われていた追儺(ついな)や大儺(たいな)という祭りが由来となっています。古代中国では、追儺のことを「儺」(ぬお)と言っていたそうですが、これは、「邪神や疫病を追い払い福を招く祭り」として、中国において最も頻繁に行われた儀式だそうです。「追儺(儺)」が庶民のお祭りだとすると、「大儺(たいな)」は、朝廷や諸侯によるお祭りでした。

 

日本には、この中国の「大儺」が伝わって「追儺」として宮廷の年中行事になりました。この「追儺」は、飛鳥時代(6世紀末~8世紀初頭)にはすでに行われていたそうです。具体的には、宮廷内の貴族たちが、赤い長衣を着て、四つ目の面をつけ、右手に矛、左手に盾を持って、「方相氏(ほうそうし)」と呼ばれる厄払い役とその手下に扮しました。そして、宮廷内を叫び声をあげ、弓を放ったり、振り太鼓を振って、邪気(鬼)を追い払うという「儀式」だったそうです。様式もそのまま取り入れていたとされ、これが後世「豆をまいて鬼を追い払う」節分の儀式になったと言われます。

 

ただし、日本では、鬼を追い払う「方相氏」がやがて鬼そのものと化して、追い払われる側になってしまい現在の節分の形式になっていったという経緯があります。中国において「追儺」「大儺」は、清朝末期に廃れ、1949年の中華人民共和国成立後は「害ある迷信」と見なされ廃止されました。日本でも、宮廷の行事としての「追儺(ついな)」はやがて消失しましたが、江戸時代からは、庶民の間で、「追儺」の行事が、「節分」の行事という形で盛んになっていきました。

 

なお、豆まきに関して、日本の古神道の観点からは全く別の由来がありますが、これについては別の機会に紹介してみたいと思います。

 

 

  • 恵方巻

さて、節分と言えば、豆まきとすぐに連想できますが、節分の風物詩が恵方巻(えほうまき)を食べる習慣です。恵方巻は、江戸時代から明治時代にかけての大阪の花街で、節分をお祝いしたり、商売繁盛を祈ったりしたのに始まったといわれ、現在では、節分の日に「恵方(えほう)」を向いて無言で、一気に食べると福が訪れると言われています(一気に食べるのは一気に福を頂くためだとか)。ただ、節分の2月3日に食べるのが定番化したのはごく最近のことだそうです。

 

恵方(えほう)とは、歳徳神(としとくじん)がおられる方向を指し、運のよい方角を意味しています。歳徳神はその年の福をつかさどる神さまで、正月の年神(としがみ)と同じ神さまです。この歳徳神がいらっしゃる方向が、縁起のいい恵方とされ、この方向に向かってする事はすべて吉となると言われているのです。実際、江戸時代末までは、初詣では氏神さまのいる神社や、恵方にある寺にお参り(恵方詣り)が行われていたそうです。

 

ただし、恵方は常に定まっているのではなく、その年の十干(じっかん)によって毎年変わります。「十干(じっかん)」とは、古代中国で年を表したり方角を表したりするのに使われていた十種類の記号(「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」)のことを言います。かつて、日本でも例えば丙午(ひのえうま)の年というように、十干を使って、その年を表現していました(正確には、ひのえ・うま(丙午)のひのえ(丙)の部分が該当)。その年の十干は、西暦を使った早わかりのルールがあります。西暦の一の位の数字によって以下のように恵方がわかります。

 

4、9の年⇒東北東
0、5の年⇒西南西
1、3、6、8の年⇒南南東
2、7の年⇒北北西

 

今年2020年は1の位が「0」なので、恵方は西南西に当たります。なお、2020年の十干は、庚(かのえ)だそうです。

 

恵方巻は、七福にちなんで7種の具材が巻かれています。中国でも、「7」という数字は、縁起物として扱われ、その七種の具材を海苔で巻くことで、福を巻き込むという願いも込められているそうです。

 

しいたけ
椎茸の形が陣笠に似ていることから、健康で元気であることを表す。

 

うなぎ
うなぎのぼりの出世や、長い姿から長寿を表す。

 

かんぴょう:
長い形から長寿を表す。

 

高野豆腐
大豆は厄除けとして使われ、四角い形から盾豆腐として災いを除ける盾となる。

 

伊達巻
学問や習い事など目指しているものが叶う。

 

桜でんぷ
桜色は願いが叶うことでもたらされる幸福な色。

 

きゅうり
9つの利(きゅうり)をもたらしてくれることを表す。

 

 

<参照>

節分の由来、本当の意味は?(HugKum はぐくむ)

節分の歴史と習慣・豆まきと追儺の由来

「恵方巻き」の意味と由来!恵方の決め方、2020は西南西!

Wikipediaなど

2020年02月01日

神社:福男選びの西宮神社はどんな神社?

毎年、新春恒例の「福男(一番福)選び」で有名な兵庫県の西宮神社について調べてみました。令和2年の「開門神事福男選び」については、ニュース記事を紹介した「一番福は高校教師 令和初の福男決まる」を参照下さい。

★☆★☆

 

  • 福の神「えびす様」

西宮神社は、福の神として崇敬され、全国に約3500社ある「えびす様(蛭子神)」をお祀りする神社の総本社です。

 

その本殿は、3つの屋根が連なる三連春日造(さんれんかすがづくり)という珍しい構造で、別名「西宮造り」とも呼ばれています。江戸時代の1663年、4代将軍徳川家綱により寄進され国宝にも指定されていました。また、室町時代建立の全長247メートルに及ぶ大練塀と、通称赤門と云われる豊臣秀頼の奉献による桃山建築の表大門は国の重要文化財に指定されていました。昭和20年に戦火にあい消失しましたが、昭和36年に、桧皮葺から銅板葺に変わったほかは、ほぼ元通りに復興されました。

 

本殿には、えびす様以外にも、天照大御神、大国主大神、須佐之男大神の神さまも祀られています。大国主大神は、明治になって配祀されたので、もともとは、日本書紀では御兄弟の神として描かれている天照大御神、蛭児(えびす)大神、須佐之男大神の三神が崇敬の対象でした。

 

御祭神

第一殿(東):えびす大神(蛭児大神)、

第二殿(中):天照大御神、大国主大神

第三殿(西):須佐之男大神

 

もっとも、冒頭でも紹介したように、西宮神社と言えば、えびす様(蛭子神)が代名詞です。えびす様を祀る神社では、十日えびすと呼ばれる市場が立つところが多いことからもわかるように、えびす様は商売の神様としても全国的に篤い信仰を集める神さまです。そのえびす様も、ヒルコ(蛭子)神と事代主神(ことしろぬしのかみ)との2つの系統があるとされています。西宮神社で祀られているえびす様は、前者の蛭子(蛭児)神の方です。

 

 

  • えびす様、御鎮座伝説

えびす様は、もともと、地元の漁師さんがお祭りする漁業の神さまとして信仰されていました。そこから、西宮の人たちにとっては、商売繁盛の神、さらには地域の守り神というような素朴な信仰の対象であった言われています。現在、西宮神社の門松は逆さに飾られているのもその名残りとされています。えびす祭りの前夜、えびす神は、神馬に乗って氏子地域を巡行されると信じられていました。ところが、当時の竹に松を盛った大きな門松では通りが狭くなるので、巡行されるえびす様の邪魔にならないように、逆さにつけかえたとの言い伝えがあるそうです。

 

西宮神社の創建の年代は、定かではありませんが、平安時代に遡るとされています。元々は、廣田神社の一角という位置づけでしたが、「えびす信仰」が盛んになるにつれ後に独立して「西宮神社」になりました。

 

そのご由緒の逸話は次のようなものです。昔々、西宮・鳴尾の漁師が、沖で漁をしていたところ、網に大きな手ごたえを感じ、引き上げてみると、御神像であることがわかりました。そこで、その猟師は、布にくるみ、家に持ち帰り、毎日お供え物をして、お祀りしました。しばらくたったある夜、眠りについた猟師の夢の中に、お祀りしている御神像が現れ、「吾は蛭児(ひるこ)の神である。日頃丁寧に祀ってもらって有り難いが、ここより西の方に良き宮地がある。そこに遷し宮居を建て改めて祀ってもらいたい」との御神託があったのでした。

 

記紀(天地開闢の神話)によると、蛭児(蛭子)命(ひるこのみこと)は、神代の昔、伊邪那岐(イザナギ)伊邪那美(イザナミ)二柱から生まれましたが、国生みの試行錯誤を重ねる段階だったので、三歳になるまで足が立たなかった不具の子でした。そこで、夫婦神は仕方なくヒルコを、葦船に入れて茅渟(ちぬ)の海へ流してしまわれたという伝説があります。「蛭子」の「蛭」の字は、蛭(ひる)のように足腰が立たない発育不全の子どもだったことを表していると言われています。

 

さて、鳴尾の漁師は恐れ謹み、漁師仲間と相談し、蛭児大神を輿にお乗せし、御神託の通り西の方にある良き宮地を求めた結果、最終的に西宮の地にたどり着き、蛭児の神はお鎮まりになったのです。このように、えびす様のご神像が現在の神戸の和田岬の沖から、かつて茅渟の海((ちぬのうみ)と云われた大阪湾を漂流しながら、西宮の地に辿(たど)り着いたのが、西宮神社の創始だと伝えられています(正確には、古社・廣田神社の浜南宮の内に鎮座された)。

 

それ以降、海より甦った蛭児の神が、えびす大神(蛭児大神)として、とりわけ海に生業を持つ人々の間で絶大な信仰を、全国的に集めていったのです。実際、海に流されたえびす様が、別の土地にたどり着いたという伝説は、日本各地に残っていてえびす信仰の広がりがわまります。

 

  • 蛭子神=えびす(恵比寿)

 

では、「蛭児(ひるこ)の神」がどうして、福の神、商売繁盛の神である「えびすの神」になっていったのでしょうか?蛭子神は、海から現れたとの伝承から、当初は漁業や航海の神として信仰されていきました。同様に、「えびす」の神さまも古くから漁業の神であったという共通点があります。

 

また、漁業の神に対する信仰の対象は、主にクジラでした。これは、クジラが出現すると豊漁をもたらすという伝承に基づいているそうです。さらに、漂着してきたクジラを「寄り神」と呼びました。これも、クジラの到来により思わぬ副収入を得たり、飢饉から救われたりしたという逸話が日本各地に残されています。こうしたえびす様の漁業神としての性格だけでなく、漂着神(寄り神)としての側面も、蛭子神と一致しているのです。ですから、「えびす様」の「えびす」の漢字表記は、一般的な「恵比寿」、「夷」、「戎」に加えて、「蛭子(蛭児)」とも書きます。

 

 

  • 西宮神社の発展

歴史的には、平安時代後期の文献にすでに「えびす」の名が記されています。鎌倉時代(1250年代)には、(正月10日に行われる)「十日えびす」の祭礼(後述)や、戎(えびす)の名のつく「市」なども開かれていたようです。

 

室町時代になると、日本に七福神信仰が広まります。七福神のおひと方が、「えびす(恵比寿)」で、福の神の代表的な存在でした。この七福神信仰と相まって、蛭子神は、「えびす」と一体となって、商売繁盛にご利益のある神さまとなっていくのです。こうした背景下、西宮神社では、人形操りや謡曲、狂言などの芸能も盛んになり、西宮神社は、全国のえびす信仰の中心に位置していきます。

 

戦国時代には、後奈良天皇から、また桃山時代には豊臣秀頼、江戸時代には4代将軍徳川家綱により御寄進を受け、社殿の御造営もなされ規模も大きくなっていきます。さらに、将軍家綱は、西宮神社が、えびす神の総本社としての地位を確立することにつながるある特権を与えます。今でもそうですが、当時から、自分の家の神棚でお祀りして家をお守り戴くために、神社でお神札(ふだ)を購入しますね。そのお札に関しては、家綱は、「西宮神社の頒布するものが、えびす神の正式なお札である」と宣言し、お礼(神礼)の版権を与えたのです。

 

江戸時代になると、上方の商業経済の発達に伴って、福の神えびす様が商売繁盛の神さま「えべっさん」(=えびす様の俗称)として、庶民にも広く信仰されるようになっていきました。これに合わせるように、年の始めに、「えびす様」に商売繁盛、家内安全、五穀豊穣などを祈願する、西宮神社の祭礼、十日えびすも盛大に行われるようになりました。西宮では西国街道の宿場町としても開け、市が立ち、やがて市の神、そして商売繁盛の神様の本拠地として、隆盛を極めるようになります。西宮神社の記録によると、十日えびすに授与するお札の数量が、元禄(1700年代)のころから天明(1780年代)にかけて十数倍に激増したそうです。明治に入り、鉄道が開通すると参拝者数も飛躍的に増加したことは言うまでもありません。

 

 

  • 十日えびす(戎)

西宮神社の十日戎の祭典は、かつて御狩神事(みかがりしんじ)とか忌籠祭(いごもりさい)と呼ばれた行事が発展して誕生したと言われています。その神事は、狩猟をして神意を伺う農耕儀礼のお祭りだそうです。古い資料には、西宮神社の巫女が男装をして狩の舞踏をしていたとか、鎌倉時代には実際に狩猟をして、その多寡によって豊穣を占っていたという記録はあるようですが、具体的な内容は定かではありません。

 

ただし、神社周辺では室町時代から江戸時代にかけて、神職だけでなく町の人々も、1月9日の夕刻に門を閉じ、家に籠もって清らかに過ごす「忌籠(居籠)」(いごもり)をする習慣があったと言われています。これは、えびす様(えべっさん)が市中を廻られるためなのだそうで、神意を窺っている間、謹慎斎戒していたと解することもできますね。いずれにしても、十日えびすの原点はその年の五穀豊穣・繁栄を願う祭りであったことは間違いなさそうです。そうして、人々は、忌籠り明けの翌朝、身を清めて神社に詣でたといいます。この時、神門が開かれ、真っ先にお参りしようとして人々が競うように参道を急いだことが、今の開門神事の由来となったそうです。

 

明治に入り暦が変わりましたが、十日えびすは旧暦の1月10日行われていました。しかし、新暦の1月10日の参拝も多く、明治41年からは新暦の1月10日に神事を行うようになりました。昭和15年から、西宮神社では、開門神事で何事も一番参りをされた参拝者を称えようと、先着上位3名を福男として認定するようになったそうです。昭和20年の空襲により社殿が全焼、翌年の十日えびすから福男選びは中止になりましたが、戦後、復活継承されました。

 

現在では1月9日、10日、11日の「十日えびす」には、全国から3日間で百万人に及ぶ参拝者で賑わうなか、10日早暁の大祭終了後の「開門神事・走り参り」は、福男選びとして、西宮神社・十日戎の代名詞になっています。

 

西宮神社の十日戎大祭は、10日の早朝4時に執行されます。そのため、1月9日の夜12時になると、どれほど参拝者があっても、神社の全ての門を閉じ、神職たちは大祭に向けて身を清め、心を鎮める「居籠(いごもり)」を行います。そうして、午前4時の十日えびす大祭が終わると、午前6時の一番大太鼓を合図に、表大門(赤門)が開き、待ち構えた参拝者が一斉に参道に駆け出す本殿への走り参りを行います。到着順に一番福から三番までが福男として認証されます。

 

なお、西宮神社では、1月の十日戎(えびす)以外でも、9月22日の例祭と翌日の渡御祭、和田岬までの海上渡御、産宮参りも、秋の西宮まつりとして賑わいをみせています。

 

 

<参照>

えびす宮総本社(西宮神社 公式サイト)

西宮神社の由緒・歴史(西宮観光協会)

西宮えびす【御由緒】 (DECCA JAPAN)

兵庫県・西宮神社とえびす様を紹介!(神様のひとりごと)

正月の風物詩「福男選び」 (Lifull homes press)

Wikipediaなど