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2020年01月29日

伝統行事:お正月は神さまを迎える行事だった!

令和2年の1月も早くも終わろうとしています。代替わりとなって初めてのお正月、日本の伝統行事を考える機会がありました。

 

<正月とは>

一般的に、お正月と言えば、年末から各家庭で注連縄を飾り、門松をたてて、お正月の準備をして、元旦の日、お雑煮とおせち料理をいただいて、家族で初詣に出かける・・・・というような過ごし方をする家庭が多いと思います。しかし、日本の正月というのは、古来から、歳神(としがみ)と呼ばれる神さまをお迎えする祭りです。歳神さま、地域によっては「歳徳神(としとくじん)」と呼ばれる神さまとは、元旦になると山など高い場所から降りてきて、作物に実りをもたらし、家に幸せをもたらす神さまとされています。それが祖先神と同一視されることもあります。

 

<お正月準備>

神棚や仏壇などの煤払(すすはら)いや家の中をきれいにする大掃除、また、門松を立てたり、注連縄(しめなわ)飾りをするお正月の準備も、歳神さを気持ちよく迎え入れるために行われました(門松、注連縄については後述)。また、家族一人一人が、一年間、身についた罪や穢れを祓い浄めて、清浄な心身でお正月を迎えるために、神社では、12月31日には「年越祓(としこしのはらえ)」というお祓いの神事が行われます。

 

飾る日も重要で、12月31日に飾ることを「一夜飾り(いちやかざり)」と言って避けます。これは、「歳神様をお迎えする直前に慌てて飾り付けることは神様に対して失礼である」として縁起が悪いとされているためです。また、「一夜飾り」は、もともと葬儀の際になされるものであることも、31日が避けられる背景です。では、30日はと言えば、この日は、旧暦の大晦日なので、その日も「旧暦の一夜飾り」として避けた方がよいとされています。さらに、12月29日は、「9」が苦(9)の語呂になる、また、29そのものも「二重苦(にじゅうく)」となるので、縁起が悪いとされます。したがって、「お正月飾り」は、12月28日までに終わらせるのが最も良いと言われています。

 

◆年越しそば

大晦日には、日本全国、「年越し蕎麦(そば)」をいただくのが恒例となっています。新年の準備をすべて終え、除夜の鐘を聞きながら12時になるまでにいただくというのが理想とされ、年を越してから食すれば、白髪やしわが増えると言われている地域もあります。通常、おそばに入っている「葱(ねぎ)」は、神社の神官の位の一つである「禰宜(ねぎ)」に通じるとされています。そこで、年越しそばにネギを入れて食べるということは、「禰宜に今年一年をお祓いしてもらい、新年に備える」という意味が込められているそうです (「禰宜」は、「宮司」に次ぐ役職である)。

 

<元旦>

元旦の日は、神棚や仏壇にお正月料理を供えます。そして、家族そろって挨拶を交わし、お屠蘇(おとそ)やおせち料理、お雑煮などをいただいて、新年の訪れをお祝いします。子ども達は、お年玉をもらい、外では、男の子は駒しや凧揚げ、女の子は羽子板をやり、お家ではすごろくなどに興じて家族で楽しいひと時を過ごす…というのもお正月のありようです。

 

門松(かどまつ)

門松は、歳神さまが家においでになるときの依り代(よりしろ)(=神霊が依りつく目印)とするために飾ります。門松は歳神さまを家に招く目印でもあるのです。歳神さまは松の葉や竹のように尖っている部分を好まれるとされているので、松の葉や枝に乗せて家々にお迎えするのです。ちょうど、お盆の時、先祖の御霊を迎え、送りだすために、迎え火や送り火を焚くのと同じ考え方です。

 

◆注連縄・注連飾り

家の門や玄関に、注連縄(しめなわ)を張ったり、注連飾り(しめかざり)を飾ったりするのは、家が清められていることを示すと同時に、歳神様がいるという目印にもなるからだそうです。

 

◆鏡餅(かがみもち)

床の間に飾る鏡餅は、もともと歳神さまにお供えするためのものです。御餅は、稲の霊が宿った神聖なものとみなされ、お正月には歳神様が宿ると言われています。

 

語源からみても、「鏡餅」の「鏡」は、「神さま」に通じます。鏡は、日の光を反射し太陽のように光ることから、神話の時代から、太陽神(天照大神)に見立てられ崇拝の対象(ご神体)となりました。このため古来、日本では鏡は神様が宿るものと考えられるようになったのです。昔の鏡というのは銅鏡で、お餅のように丸い形をしていました。そこで、歳神様に捧げるお餅を、神が宿る丸い鏡に見立てて「鏡餅」と呼ぶようになりました。こうして、鏡餅は、年神さまの依り代(居場所)として正月にお供えするようになったのでした。

 

鏡餅は、大小二段重ねにすることが一般的です(三段重ねにするところもある)。大小二つのお餅は、「陰」と「陽」、「月」と「太陽」を表し、それらを重ねることで、円満に年を重ねる、転じて、夫婦和合などの意味も込められています。鏡餅は、次のように飾るのが一般的なようです。三方(さんぽう)の上に白い奉書紙、または四方紅(しほうべに)を敷き、裏白(うらじろ)、ゆずりは(楪)や紙垂などの上に鏡餅を乗せます。餅の上には、「昆布」と「串柿」を置いたうえで、「橙(だいだい)」を載せて飾ります。

三方(さんぽう):折敷に台がついたお供え用の器のことです。
四方紅(しほうべに):四方が紅く彩られた和紙

 

裏白(うらじろ)

シダの一種である裏白(うらじろ)は、葉の表は濃い緑色ですが、裏面が白いので、「裏(うら)白(じろ)」という名前がつけられました(漢字があてられた)。この名前の由来から、裏白は潔白で正直な心を表す植物とみなされています。加えて、裏白は、葉が左右対称に生えていることから、夫婦仲むつまじく長生きできることに、また、古い葉が落ちずに新しい葉が出てくることから、家族の繁栄を意味している言われています。

 

さらに、群がって生育することが多いため、先祖の霊魂が宿っている場所と信じられてきました。ですから、お正月に歳神さまをお迎えするために、裏白の葉を折って門松や鏡餅に飾るようになりました。裏白にはまた、悪霊を払う霊力が宿っているとも言われています。なお、鏡餅に飾る際には、「裏白」を裏側の白い方を上にして、御餅が置かれます。

 

ゆずりは(楪)

裏白(うらじろ)とは逆に、新しい葉が出てから古い葉が落ちることから、親から子へ家督が代々譲られ、家系が続き繁栄することを表します。親子草とも呼ばれているそうです。

 

昆布
昆布(こんぶ)は、「よろこぶ(喜ぶ)」との語呂合わせで、お祝いの意味があります。また、養老昆布(よろこぶ)と書けることから不老長寿の願いを、さらに、「子生」(こぶ)と書いて子宝に恵まれるようにという願いを込めて飾られています。一方、古くは昆布の事を「広布」(ひろめ)と言い、喜びが広がる縁起ものとしても好まれていました。蝦夷(えぞ)で取れる昆布は、夷子布(えびすめ)と呼ばれ、七福神の恵比寿に掛けて福にが授かる意味合いもあるそうです。

 

串柿
柿は「嘉来」に通じる縁起ものです。串柿は、文字通り干し柿を串に刺したもので、鏡餅には一般的に1本の串に10個の干し柿を刺して飾ります。干し柿は「食べられない渋柿でも、修練の末には床の間の飾りにもなる」という高い精神性を表すとされています。

 

橙(だいだい)

橙は、「代々」とも書き、鏡餅のお飾りの最後に「家が代々栄えますように」との思いを込めて「橙(だいだい)」を載せます。また、代々は、1本の木に何代もの実がなることから、長寿弥栄えを表しています。鏡餅のお飾りの中で、餅は鏡を、串柿は剣を、橙は玉をそれぞれ表し、この3品で「鏡、玉、剣」の三種の神器を表すとも言われています。

 

◆お年玉

お年玉は、もともと、歳神さまに供えられた鏡餅を人々に分け与えた古来の習慣に由来するものでした。前述しhたように、鏡餅は、文字通り鏡をかたどったものとされ、鏡は神さまの魂を映すものといわれてきました。魂は玉に通じます。それで、歳神(としがみ)さまの魂、すなわち歳(年)霊(玉)(としがみ)から転じて、「年玉」となりました。また、私たちは、歳神様が宿った鏡餅をお雑煮として分けていただきます。これを「御魂(みたま)分け」と呼ばれ、転じて「歳魂(としだま)=年玉」に通じるとの見方もあります。いずれにしても、年神さまから頂く、鏡餅のお下がりなので、敬って「お」をつけ「お年玉」と呼ぶようになったといわれています。

 

さて、新年を迎えて、元旦には家族がそろってお祝いをする際、最初にいただくのが「御屠蘇(おとそ)」です。

 

お屠蘇

お屠蘇(とそ)には、山椒、桔梗などの薬草が含まれており、これをいただくと一年の邪気が祓われ、寿命を伸ばすことができると信じられています。胃薬として効果があるほか初期の風邪にも効くと言われています。歴史的に、「屠蘇」は中国の三国時代の医者、華陀(かだ)が考案した「屠蘇延命散(とそえんめいさん)」いう漢方薬を、酒や味醂(みりん)に浸したものだそうです。お屠蘇は、一家の家長から年少者に注がれます。これは、年長者の知恵が分かち与えられると信じられています。「御屠蘇」でお祝いしたあとは「御雑煮(おぞうに)」です。

 

◆お雑煮

お雑煮は、一般的に、「年神さま」にお供えした神饌(お食事)と餅を合わせて煮て食べたことに始まると言われています。お雑煮は年神様から「お下がり」を頂いて、年神様の恩恵にあずかるという意味で食べられていたということですね。ですから、お正月にお雑煮を食べることは、古くから日本人にとって、特別な意味を持っていたと言われています。お雑煮を作るときも、その年最初に井戸からくみ上げたお水(若水)と、最初に点けた火で一番だしを引いて煮込んでいったそうです。

 

「雑煮」の語源は、肉や野菜など色々な種類の具材が煮られ、食されたということに由来し、当初は、「煮雑ぜ(にまぜ)」と呼ばれていたそうです。このため、地方によって味の違いや具材の違いがあります。例えば、公家風か武家風かの違いで、関西のお雑煮は、丸餅を白味噌仕立てにするのに対し、関東では長方形の形をしたののし餅を清汁(すましじる)仕立にするとよく指摘されます。

 

様々な具材がある中で、お雑煮に必ず入っているのがお餅です。お餅は「よく伸びる」ことから、長生きできるように、という願いが込められていると伝えられています。お餅は、稲作が始まった縄文時代からすでに人々の間に広まっていたと言われ、時が経つにつれ、収穫を祝う行事やその他お祝い事、神様へのお供えなどに欠かせない具材となります。

 

一方、お雑煮の始まりは、室町時代だと言われ、武家の間で、お祝いの席でお酒のおつまみとして、最初にお雑煮が出されていたそうです。お雑煮が宴の初めに食べられていたということは、お雑煮が縁起の良い料理と考えられていたことが伺えます。また、それは、お雑煮が当初、お正月以外にも食べられていたということでもありますが、お目出たいときに食べるお雑煮がやがて、お正月に食べる風習となってみられています。

 

これに対して、武家社会とは別に、一般庶民も同時期にお雑煮を食べ出したようですが、当初は、お米の値段が高かったことから、餅の代わりに里芋が使われていたそうです。一般庶民もお餅が食べられるようになり、お雑煮にも餅が入るようになったのは、江戸時代になってからだと言われています。地域色もこの頃から出始め、当時、北海道と沖縄を除いた、日本全国の地域でお雑煮が食べられるようになりました。(北海道へは明治以降に本州から伝えられ、沖縄ではお雑煮を食べるという食文化はあまり育たなかった)。

なお、お雑煮は年神さまへのお供えを煮込んだことに始まるとする説以外にも、神話に遡ればさらに興味深いお話しがありますが、別の機会に紹介することにします。

 

お節料理(おせちりょうり)

お雑煮を食べた後は、お節料理を頂きます。御節料理(おせちりょうり)とは、もともと、お正月や、ひな祭り、七夕など節句に、神さまにお供えするご馳走のことをいいました。おせち(御節)の語源も、節句にお供えするという意味の「御節供(おせちく)」からきているとされています。その時、豊作や健康、家の繁栄などを願って、身近に採れる材料を利用して縁起をかついだ料理を作るという風習が続くなか、江戸時代中頃には、その中の正月の料理のみが「御節料理」と呼ばれるようになりました(かつては、「節会(せちえ)料理」と呼ばれた)。

 

ですから、御節料理の品々には、それぞれに祈りが込められています。御節料理に何を詰めるかは、土地柄や家によっても異なり、縁起をかついだり、語呂合わせでめでたいものが選ばれてきました。その中で、数の子、ごまめ、黒豆の三種は「祝儀肴(いわいざかな)」(三種肴という)として欠かせないものとされています。地方によって黒豆の代わりにたたきごぼうを入れることもあります。

 

数の子

数の子はにしん(鰊)の卵(腹子)。その由来は、二親(にしん=両親)から多くの子供が生まれるという縁起をかついだもので、子孫繁栄が祈られました。

 

黒豆

まめに暮らせるという願いが込められています。

 

ごまめ(五万米)

ごまめは片口鰯(かたくちいわし)の稚魚。「五万米」という字が示すように五穀豊穣が願われます。かつては、片口鰯を田の肥料として使われたことから「田作り」ともいわれます。

 

たたきごぼう

根が地中に深く張るごぼうに、家の基礎がしっかりするようにとの願いが込められます。

 

そのほかにも、長寿を願う「海老」、めでたい「鯛」、喜びや運を広める「昆布まき」、学業や仕事の成功を祈る「日の出蒲鉾」など、重箱を賑わせてくれますが、一品一品に意味があります。お雑煮やおせち料理を食べるときに「祝い箸」と呼ばれるお箸は使います。このお箸は両端が丸く細くなっています。これは、片方が歳神さまが使われ、もう片方が私たち使うからだそうです。別名「両口箸」ともいわれる祝い箸を使って、神さまと私たちが一緒にお祝い膳を食べるのです。まさにお正月行事は一種の神事なのですね。

 

初詣

初詣は、年が明けてから始めて神社に参拝することをいい、氏神さまや、その年の恵方(えほう)にあたる神社などにお参りして、新しい年の無事と平安を祈る行事です。

氏神:自らの住む土地をお守りくださる神さま
恵方:その年の干支(えと)に基づいてめでたいと定められた方角。

 

初詣する時期ですが、古くは「年籠もり(としごもり)」といって、大晦日の夜から元旦の朝にかけて、社寺にお籠もりして、新年を迎えるのが慣わしでした。やがて、この年籠もりは、除夜の鐘が鳴り終わると同時にお参りする「除夜詣で」と、元旦の朝からお参りする「元日詣で」の二つに分かれ、初詣のもとの形となったとされています。

 

初詣の歴史は意外と浅く、明治時代以降に始まった慣習だと言われています。江戸時代後期までは、その年の恵方に参拝する「恵方参り」が行われていましたが、明治になって、各地で鉄道が開業すると、1890年代(明治23年)頃から、人々が郊外の大きな寺社に参拝できるようになり、元日の参拝(「元日詣で」)が定着していきました。

 

また、本来、非常に複雑なものだった寺社への参拝や祈祷が簡略化したことも、一般の人の寺社詣(で)が広がる一因となったと言われています。例えば、神社で手を洗い口をすすぐ手水(てみず、ちょうず)も、本来は全身を海や川で清めるのが作法でした。また、柏手を打つ前に鈴を鳴らすのも、もともと、鈴を使って巫女(みこ)さんが舞うというのがしきたりでした。さらに、おみくじも、本来は巫女(みこ)さんに神が乗り移って神の言葉を(巫女が)聞く「託宣(たくせん)」を起源としています(おみくじについては後に詳説)。こうして、初詣は、日本人の75%が出かけると言われるほど、国民的行事となって、全国的に広まっていったのです。

 

なお、初詣に行くのは神社かお寺か、ということになると、参拝客の数の順位を見れば、神社が混在していることからもわかるように、どちらでも良いとされています。

 

初詣の参拝者数、全国平均ランキング

第1位 明治神宮(東京)
第2位 成田山新勝寺(千葉)
第3位 川崎大師 平間寺(神奈川)
第4位 浅草寺(東京)
第5位 伏見稲荷大社(京都)
第5位 鶴岡八幡宮(神奈川)
第7位 住吉大社(大阪)
第8位 熱田神宮(愛知)
第9位 武蔵一宮氷川神社(埼玉)
第10位 太宰府天満宮(福岡)

 

◆お賽銭(さいせん)

現在では神社にお参りすると、お賽銭箱に金銭でお供えしますが、このように金銭を供えることが一般的となったのは、近年のことだそうです。もともと、御神前には海や山の幸が供えられました。秋になるとお米の稔りに感謝をして刈り入れた米を神様にお供えしました。そもそも米は、日本の神話でニニギノミコト(瓊瓊杵尊)がこの地上に降りてこられる天孫降臨の際に、天照大御神がお授けになられた貴重なものとされ、人々はその恵みを受け、豊かな生活を送ることができるよう祈ったと言われています。

 

お賽銭のはじまりは、こうした信仰にもとづき、神前にお米をまく「散米(さんまい)」や、洗ったお米を白紙に包んでお供えする「おひねり」という形でお供えしていました。しかし、時代が下り、貨幣の普及とともに、米に代わって、お金をお供えするようになりました。これを「散銭(さんせん)」といい、これが後に「賽銭」というようになりました。お賽銭は、お参りする前に賽銭箱に投げ入れますが、お供物(お金)を投げてお供えすることには、祓いの意味があるともいわれています。

 

お賽銭を神さまに捧げることは、日々お守りいただいていることを感謝する心の表れとして、あるいはお願い事を叶えていただくためのお祈りのしるしです。金額は、よく「ご縁がありますように」などと語呂合(ごろあ)わせで、五円玉をあげるのがいいという言い方がありますが俗説です。昔から、○○して下さいという願かけの際には「身削り(みけずり)」などと言って、自分の生活を切り詰めて、贅沢(ぜいたく)をがまんしてお賽銭を上げていたそうです。なお、神さまに上げられたお賽銭は、神殿の修理や境内の整備などに使われます。

 

◆おみくじ

神社に参拝した際に、参拝者の多くは「おみくじ」を引きます。一般的におみくじは、個人の運勢や吉凶を占うために用いられます。その内容は、吉凶判断・金運・恋愛・失(う)せ物・旅行・待ち人・健康など生活全般にわたります。生活の指針となる和歌などを載せている神社もあります。

 

ただし、本来おみくじは、巫女(みこ)さんに神が乗り移って、神の言葉を(巫女が)聞く「託宣(たくせん)」を起源としています。おみくじは神さまのメッセージという訳です。ですから、占いの一種である「おみくじ」は、人々では決められない事を問う神事の手段ということができます。また、おみくじは、物事の始めにあたって、まず御神意を仰ぎ、これに基づいて懸命に事を遂行しようとする、ある種の信仰の表れであるという見方もあります。

 

例えば、その年の豊作を祈り、その年の作柄や天候を占う「粥占神事」(かゆうらしんじ)や、神社の祭事に奉仕する頭屋(とうや)などの神役を選ぶ「頭渡し行事(とうわたしぎょうじ)」などの際、御神意を伺うために、また御神慮に適う者を選ぶために「くじ」を引いて決めることなど古くから続けてこられました。

 

国の祭礼や政(まつりごと)においても、後継の選定の段に御心(御神意)を伺う手段として、占い(おみくじ)は使われてきました。例えば、鎌倉時代には、源頼朝が鶴岡八幡宮の移転先をおみくじで決め、戦国の世においては、戦国大名は、戦さの日取りや陣営配置などを占ったりしていました。織田信長を裏切ったとされる明智光秀は、本能寺の変で出陣を決起するため三回みくじを引き直したと伝えられます。

 

ただし、現在のように、参詣者の吉凶を占うようになったのは、鎌倉初期の頃からと言われます。おみくじの順番は、大吉・中吉・小吉・吉・末吉・凶・大凶という並び方が標準です。神社で引いたおみくじは、「凶」なら木の枝に結び付け、吉のおみくじはお守りとして持ち帰るのがよいと言われたりしています。引いたおみくじを結ぶという行為は、木々の生命力にあやかり、「願い事が結ばれるように」という祈願が込められています。「おみくじ」は吉凶判断を目的として引くだけでなく、神さまのお諭(さと)し(大御心、おおみこころ)として、その内容を今後の生活指針としていくことが大切なこととされています。

 

一方、おみくじは、神社だけなく、お寺にもあります。仏教の観点から、おみくじの発祥の地は、比叡山延暦寺の「元三大師堂」と言われています。元三大師堂(がんざんだいしどう)は、名僧「元三大師=良源(912~985年)」の住房(じゅうぼう=すまい)です。良源は、平安時代の天台宗の僧侶で、比叡山延暦寺の中興の祖として知られています(諡号は慈恵大師じえだいし)。その元三大師(良源)が観音菩薩様に祈念し授かった、五言四句の偈文(げもん)百枚がおみくじの原型だとされています。これを、江戸時代初期の名僧、慈眼大師・天海が発見し、「元三大師百籤(ひゃくせん)(「観音百籤」)」となり、天台宗以外でも広まっていきました。

 

仏教のおみくじは、将来を予言するものでも、吉凶を占うものでも、また、ご自身の決意を後押しするものでもないとされ、神社のおみくじとは異なります。どうすべきか自分では判断できないという人生の岐路に立たれた時に、大師に決めていただくものだそうです。

 

  • 絵馬(えま)

絵馬は、祈願や感謝のために奉納する馬の絵を描いた額のことをいいます。絵馬の起源は、神さまに生きた馬を献上する古代の風習にあるとされています。馬は、古来より神さまの乗り物であると考えられてきたので、歴代の天皇は祈願の際に、生きた馬を神馬(しんめ)として神社に奉納していました。絵馬の発祥は、水の神さまをまつる京都の貴船神社だと言われています。貴船神社には、雨ごいの祈願のときには黒い馬を、晴れの祈願のときには灰色または赤毛の馬が献上されていたそうです。

 

しかし、平安時代から、本物の馬に代わりに、次第に木彫りの馬や粘土製の馬が代用されるようになり、やがて、板に描いた馬の絵が奉納されるようになりました。室町時代になると、個人も絵馬を奉納するようになり、江戸時代にはさらに、家内安全や商売繁盛といった身近なお願い事を書く風習が庶民にも広がっていったそうです。これに伴い、現在のように、馬以外の絵馬も描かれるようになっていったと言われています。

 

  • 破魔矢(はまや)

破魔矢は、魔除け(まよけ)に欠かせぬ縁起物(えんぎもの)で、本来、破魔弓(はまゆみ)と一式になったものを指していました。

 

破魔矢は、宮中の正月行事の一つであった「射礼(じゃらい)」を起源としています。これは、子どもたちの弓の技術を試す競技で、清寧天皇(在480~484)の時代にその最古の記録が残っているそうです。この時、使用されていた的(まと)を「はま」と呼んでいたことから、そこから弓を「はま弓(浜弓)」、矢を「はま矢(浜矢)」と呼ぶようになりました。また、破魔矢の由来としては、弓矢を射って作物の豊凶を占う「年占」もあげられます。この行事は、二組が対抗して(弓矢で的を射る)勝負を行い、年間の運勢を予想する破魔打(はまうち)という正月遊びに発展していきました。

 

さらに、中国の民間伝承にある「鍾馗(しょうき)という強い武神が弓でもって悪霊を祓った」という逸話が入ってきたことから、「弓矢は邪気から身を守る力がある」と信じられるようになりました。ハマヤのハマに「破魔」の漢字が当てられるようになったのは、この影響からだと推察されます。実際、「破魔」は仏語で悪魔を打ち破るという意味があります。もともと、的(まと)という意味の「ハマ」という言葉に対して、鬼や悪魔を破り、祓うという「仏語」としての「破魔」の意味の文字を兼ね合わせ、「破魔(ハマ)」になったというわけですね。

 

こうした様々な要素があいまって、奈良時代には、前述した、弓で的を射る「射礼(じゃらい)」が儀式として定着化し、平安時代になると「追儺(ついな)」と呼ばれる鬼や悪魔を祓う儀式も行われるようになったとされています。江戸時代以降、破魔矢と破魔弓は、広く民衆に伝わり、子供の成長を祈る縁起物として装飾が施され、「健やかに、強くたくましく育ってほしい」「魔除け」という願いを込めて、男子の初正月や初節句に贈られるようになりました。とくに江戸の末期には、中国の鍾馗(しょうき)を五月人形にしたり、魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習も地域によってはあるようです。なお、破魔矢の「矢」には「無患子(むくろじ)」という鳥の羽をつけてありますが、「無患子」という漢字が、「子が患(わずら)わ無い」と書くことから、「無病息災」のお守りの意味があるとされています。

 

このように、現在の「破魔矢」は、本来、歴史的にみると、的(まと)も含めて弓と矢のセットで「魔除け・厄除け」の意味があるのですが、今では矢だけが神社で授けられるようになりました。これは、矢は邪気を破る力を持つ神や神主が放つものであり、一般の人にはその力は必要ないからだそうです。

 

◆ 羽子板(はごいた)

羽子板の由来は、奈良時代に宮中で行なわれていた「毬杖(ぎっちょう)」という遊びだとされています。「毬杖(ぎっちょう)」は、先が小槌のような形をした杖(つえ)で木製の毬(まり)を打ち合う遊びです。それが時代とともに変化して、この杖が羽子板の形となり、木製の毬は変化し黒くて固い玉になっていったそうです。さらに、その玉には羽根が付けられ、羽子板遊びは、女の子の間で行なわれお正月の風物詩となったのでした。

 

また、「羽根ついた黒い玉が飛び交う様子」が「トンボ」に似ていることが当時、話題となったようです。トンボは、作物の害虫や、当時の子どもの病気の原因の一つと考えられていた蚊を食べることから、羽根をトンボに見立て空中に舞わせることで、羽子板は、五穀豊穣と子供の無病息災という願いを込めた縁起物とみられるようになりました。まさに、羽子板で「魔をはね(羽根)のける」ということですね。なお、羽根の黒玉にも破魔矢と同様、「無患子(むくろじ)」の実を使っています。こうして、男子に破魔矢・破魔弓を贈る習慣と同時期に、女子に羽子板を贈る習慣として広まりました。

 

ここまでみてきた、門松、しめ縄、破魔弓、羽子板など正月の飾りものを総称して、「お正月節句飾り」「お正月飾り」と言います。

 

  • 七草

1月7日の朝、七草粥(ななくさがゆ)を食べる風習があり、正月行事として定着しています。一般的には、お正月のご馳走に疲れた胃腸をいたわり、青菜の不足しがちな冬場の栄養補給をするために七草粥を食べる…と言われていますが、実際はもう少し、深い意味があります。

 

七草粥は、本来1月7日の「人日」の日に行われる「人日(じんじつ)の節句」の行事で、五節句*のひとつです。人日とは文字通り「人の日」という意味です。

五節句:江戸幕府が定めた式日(儀式のある日のこと)で、1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽をさす。

 

古く中国では、前漢の時代、元日から六日までの各日に、動物をあてはめて占いを行う風習がありました。元日には鶏、2日は戌(いぬ)(狗犬)、3日は猪、4日は羊、5日は牛、6日は馬をというように占っていき、それぞれの日に占いの対象となる動物を大切に扱いました。そして正月7日目に人を占うことから「人日の節句」と呼ぶようになったのです。なお、8日には、穀(こく)を占って新年の運勢をみて、その日が晴天ならば吉、雨天ならば凶の兆しであるとされていました。

 

さらに、6世紀頃の唐の時代の書物に、「正月七日を人日となす。七種の菜を以て羹(あつもの)(=熱く煮た吸い物)をつくる」と書かれてあり、七日に「七種菜羹(ななしゅさいのかん/しちしゅのさいこう)」という7種類の若菜を入れた汁物にして食べると年中無病でいられるという俗信が生まれてきました。

 

ただし、日本には、もともと1月7日に、若菜を神さまにお供えし、それをいただいて豊作を祈る風習がありました。そこに、中国の「人日」に七草の汁物をいただいて無病を祈る風習が、奈良時代に日本へ伝わってきたことから、七草粥を食べるようになったと解されます。江戸時代に「人日の節句」(七草の節句)として五節句のひとつに定められると、この日に七草粥を食べることで、新年の無病息災を願う風習が、人々の間に定着していきました。では七草粥には何を入れているかというと、一般的には現在、七草粥の七草は「春の七草」をさします。

 

春の七草

芹(せり)……水辺の山菜
薺(なずな)……別称はペンペン草
御形(ごぎょう)……別称は母子草で、草餅の元祖。
繁縷(はこべら)……ナデシコ科の食物で、薬草として使用。
仏の座(ほとけのざ)……別称はタビラコ。
菘(すずな)……蕪(かぶ)のこと。
蘿蔔(すずしろ)……大根(だいこん)のこと。

このように、七草粥には、新春に若菜を食べて、寒い季節を乗り越え、自然界から新しい生命力をいただきたいとの思いが込められています。

 

  • 小正月(こしょうがつ)

 

お正月が一段落した15日には、小正月の行事が行われます。小正月は、元日(または元旦から7日)を大正月(おおしょうがつ)というのに対して呼んだ名で、1月15日に相当します。これは、かつて太陰暦を採用していた日本は、一年で一番最初の満月(旧暦1月15日)の日を「年の始まり」としていたことからきています。つまり、明治時代になって太陽暦となった現在でも、その名残から15日を小正月と呼んでいるのです。

 

「大正月」が、新年に歳神さまをお迎えするのに対し、「小正月」は五穀豊穣や無病息災を祈る行事が多く行われます。

 

左義長(さぎちょう)

左義長は、大正月にお迎えした歳神さまをお送りする行事で、注連縄や門松などのお正月飾りや書き初め、古いお神札(おふだ)などを集めて焚き上げます。その燃やしたときの火や煙に乗って、歳神さまが天上にお帰りになるといわれています。その火でお餅を焼いて食べることで万病を防ぐとされています。また左義長は、地域によって「どんど焼き」などとも呼ばれます。

 

粥占神事(かゆうらしんじ)

粥占はおかゆを炊いて、この1年間の天候や作物の豊凶などについて占う行事で、各地の神社で祭礼として行われます。その様式は呪術的と評されています。

 

ほかにも、その時期、餅花(もちばな)などを飾って豊作を祈る風習があります。お正月には家の外に門松を飾りますが、小正月では柳などの枝に小さく切った紅白のお餅や団子をさした餅花(もちばな)を飾り、1年の五穀豊穣を祈ります。また、この1年の健康を願って小豆粥(あずきがゆ)を食べる風習があります。小豆(あずき)の赤い色には、昔から邪気を払う力があると考えられています。

 

さらに、正月飾りのうち破魔矢・羽子板は、小正月の1月15日に片付けるのが慣例です。なお、しめ縄や門松は1月7日とされています。

 

以上、お正月行事についてのまとめてみました。1年の最初の月に、多くの日本の風習や文化が散りばめられている感じがしました。来年のお正月は、もっと「日本」を感じながら過ごしたいと思いました。

 

 

<参考>

お正月―その伝承と由来さまざま〈季節のおいしいコラム〉

お節料理(おせちりょうり)(辻調おいしいネット)

お正月と言えば「お雑煮」その起源と由来

初正月の祝い方、破魔矢・羽子板の意味

絵馬とは?意外と知らない絵馬の由来と書き方(ホトカみ)

神社お寺が好きになる記事(ホトカみ)

おみくじ、神社本庁

お賽銭、神社本庁

暮らしの歳時記/正月の行事・楽しみ方(年末年始)

七草粥の由来と春の七草の意味や覚え方・七草の日はいつ?

七草がゆの豆知識、七草研究会

お正月飾りに欠かせない「ウラジロ」(生薬ものしり辞典)

なぜ鏡餅を飾るの? 鏡餅の意味や由来・飾り方・飾る時期

おみくじの由来・神社参拝の前に知っておきたいお話し

破魔矢とは?(日本神道)

またお正月? 1月15日は「小正月」

正月とは(奥宮)など

 

 

2020年01月24日

英王室:ロイヤルハイネスと公爵の称号

イギリスのヘンリー王子とメーガン妃は、1月上旬、王室の中心的な「高位(主要)メンバー」から外れ、経済的に独立する意向を示しました。ただし、「女王を支え、女王に対する義務を守り続ける」とも強調、王室の一員として「半公半民」の立場で活動したい考えを表明しました。

 

(参考記事)

英ハリー王子、王族辞める?

ヘンリー英王子、王室離脱へ

 

これを受けて英国王室(バッキンガム宮殿)は、今月18日、ヘンリー王子夫妻が今春、王室の「高位(主要)メンバー」から外れ、公務には参加せず、王族への敬称である「ロイヤルハイネス(殿下および妃殿下)」の称号(肩書)を失うと発表しました。これは、夫妻が王室から実質的に離脱するという合意であり、公務に参加しないということは、公式に女王の代理もできないということも意味します。しかし、結婚時に与えられたサセックス公爵(ヘンリー王子)およびサセックス公爵夫人(メーガン妃)の称号は、王室離脱後も継続して使用するとされています。

 

一方、今回の決定では、夫妻の当初からの求めに応じて、今後は経済的に自立することが認められたことになります。このことは、これまで受けていた王室助成金などには頼らないことを意味し、例えば、夫妻がイギリスでの生活の拠点にしているフロッグモア・コテージの改修にかかった費用、約3億4,000万円も返済するそうです。

 

この決定に対して、ヘンリー王子は、「私たちの望みは、公費を受けることなく、女王と英連邦への奉仕を続けることだった。残念ながらそれは不可能だった」と発言しており、今回の決定が本意ではなかったことを示唆しました。

 

そこで、今回の投稿では、この王室の決定について考えてみたいと思います。まず、「ロイヤルハイネス(殿下および妃殿下)の称号を失う」と、「サセックス公爵及びサセックス公爵夫人の称号は、王室離脱後も継続して使用する」というのはどういうことなのでしょうか。

(参考投稿:ハリー王子と「王室高位メンバー」)

 

  • ハイネスと公爵

ハイネス(Highness)は、マジェスティ―(Majesty)、エクセレンシー(Excellency)と同様に、地位の高い人への敬称で、「殿下または妃殿下」と訳されます。イギリスでは、ロイヤルハイネス(Royal Highnessといい、王族(王室メンバー)で、国王(現在はエリザベス女王)の子孫や、子孫に嫁ぐ女性に対して使われる尊称(称号)です。英語では、その対象者が男子ならば、「His Royal Highness」(殿下)、それが女子ならば「Her Royal Highness」(妃殿下)となります。つまり、ロイヤルハイネスの称号(尊称)を保持していることは、「イギリス王室」の高位(主要)メンバーであることを指しています。

 

ヘンリー王子もメーガン妃も、このロイヤルハイネス(Royal Highness)の尊称(称号)をエリザベス女王から受けていますが、今回、お二人は、自らが求めた経済的独立の代償として、この「His Royal Highness」(殿下)と「Her Royal Highness」(妃殿下)の尊称(称号)を失うことになるのです。

 

一方、ヘンリー王子とメーガン妃は、結婚を機に、エリザべス女王より、「公爵」の称号を受けています。公爵とは、貴族としての称号である爵位の一つです。爵位には、公爵(こうしゃく)、侯爵(こうしゃく)、伯爵(はくしゃく)、子爵(ししゃく)、男爵(だんしゃく)とありますが、公爵はその中で最高位の爵位です。報道では、ヘンリー王子夫妻は、この公爵の称号は失わないとされています。

 

この内容の理解のために、ヘンリー王子夫妻の結婚時の以下の報道記事が参考になるかと思いますので一読してみて下さい。

――――

 

ハリー王子&メーガン妃に与えられた新たな称号を解説

(2018/05/23、Bazaar、一部抜粋)

バッキンガム宮殿は先日、エリザベス女王が孫のハリー王子に「サセックス公爵」の称号を与えたと発表。それにともない、花嫁メーガン・マークルは「サセックス公爵夫人」となり、妃殿下(Her Royal Highness)の称号も授与されることになる。発表によると、「エリザベス女王は本日、ハリー王子に公爵の位を授与しました。王子の称号は、『サセックス公爵』となります」と報じている。そして「ハリー王子は『殿下(His Royal Highness)サセックス公爵』となり、メーガン・マークルは結婚により、『妃殿下(Her Royal Highness)サセックス公爵夫人』となります」と続けた。

 

王室メンバーの結婚に際して、君主(女王)は新しい称号を与える慣習がある。昨年、ハリー王子とメーガン・マークルの婚約が発表されると、王位継承順が第6位であるハリー王子には、英国貴族の称号としては最高位である「公爵」の称号が与えられると予想されていた。なかでも、「アルバニー」や「クラレンス」と並んで空いていた「サセックス」が最有力候補だったのだ。

 

ハリー王子は出生時に、父の「プリンス・オブ・ウェールズ」という称号を反映させて「ウェールズ」の名を与えられた(「プリンス・ヘンリー・オブ・ウェールズ」)。規則としては今後「サセックス」を用いることになり、メーガン妃も「メーガン・サセックス」となる。メーガン妃も夫の称号と名前を名乗ることになる。つまり、女王が彼女に与えた称号と並び、「妃殿下(Her Royal Highness)プリンセス・ヘンリー・オブ・ウェールズ」となる。自分の名前とともに「王子(プリンス)」や「王女(プリンセス)」の称号を使うことができるのは、ロイヤルファミリーに生まれた人だけなのだ。とはいえ、メーガン妃は苗字を使う必要はない。実際、「殿下(His Royal Highness)」、「王子(Prince)」や「妃殿下(Her Royal Highness)」、「王女(Princess)」の称号を持っている王室メンバーは誰も、姓を使う必要がまったくないのだ。

―――

なお、マジェスティー(Majesty)は、国王(女王)に対する尊称で、エリザベス女王は「Her Majesty」(女王陛下)と呼ばれます。

 

では次に、「王室助成金などに頼らない経済的に自立した生活」について改めてみてみましょう。先日の投稿(ハリー王子と「王室高位メンバー」)で、「ヘンリー王子の資産は、約43億7000万円と試算されている」と書きました。今回は、資産ではなく、王室助成金など日々の公務や生活のための資金の流れや、今後についてみてみます。

 

  • サセックス公爵夫妻の収入

 

コーンウォール公領からの収入

ヘンリー王子夫妻は、チャールズ皇太子が保有する「コーンウォール公領」の収入の一部を供与されています。コーンウォール収入とは、コーンウォール公爵(チャールズ皇太子の称号)が持つ、イギリス23郡にまたがる約530平方キロメートルに及ぶ広大な土地からの収入で、主に、領地から生じる地代などです。

 

コーンウォール公領は、1337年に、当時の国王エドワード3世が王位継承者の財政をまかなうために創設され、チャールズ皇太子の収入源となっているそうです。年収、約2000万ポンド(約30億円)とも言われています。チャールズ皇太子は、このコーンウォール公爵領の収入の一部を、ウイリアム王子(ケンブリッジ公爵)一家や、ヘンリー王子(サセックス公爵)一家を含む皇太子の家族に、公務やチャリティ活動、プライベートな出費に充てるための資金として配分しています。ヘンリー王子は、年推定196万ポンド(約2億8000万円)を受け取っているそうです。

 

王室助成金

コーンウォール公領からの収入以外にも、ヘンリー王子は、兄ウィリアム王子とともに、エリザベス女王からの女王の王室助成金の資金援助を受けています。二人の王子は、エリザベス女王から王室活動費として年500万ポンドを受け取り、このうちヘンリー王子とメーガン妃には約200万ポンド(約2億8600万円)が割り当てられていると言われています。この女王が王室メンバーに分配する「ソブリングラント」と呼ばれる王室活動費は、主に、公務旅行や財産管理の補助に使われているそうです。

 

こうした王室のメンバーとして受けとっているお金が今後、入ってこなくなったとすると、ヘンリー王子夫妻は、どうやって「稼ぐ」のでしょうか?

 

 

  • 経済的に独立した場合

前回の投稿でも紹介した内容と一部重複しますが、年間約100億円ともとも試算される次のような膨大な収入が期待されています。

 

・テレビ出演や講演活動

・グローバル企業のアンバサダー

・インスタグラムからの広告収入

・商標の「サセックスロイヤル」からの収入

 

ヘンリー王子は2019年12月に自らの爵位にちなんだ「サセックスロイヤル」の商標登録を行いました。「サセックスロイヤル」の商標がついた服飾品や書籍類など100を超える登録項目から収入が期待されています。

 

 

  • メーガン妃と王室

今回の「騒動」は、「王族メンバーとしてメディアからの厳しい視線に耐えられなくなったメーガン妃を守るために、ヘンリー王子が決断した模様」などと報じられました。そうであるなら、今回の英王室(バッキンガム宮殿)の対応は、王族メンバーとして厳しい監視下にあった生活から離れることができるので、この点に関して言えば、夫妻にとってはよかったのではないかと思われますが、それだけではないようです。

 

イギリス王族は、「子宮の中にいる時にしかプライバシーはない」と言われるほど、国内外のメディアの注目度も高く、特に、「タブロイド」と呼ばれる英大衆紙は、王室のスキャンダルを好んで暴こうとします。イギリスの社会においては、伝統的に倹約精神というのが美点としてあるそうです。エリザベス女王もストッキングが伝線すると繕いに出していたという逸話もあるほどです。ですから、イギリス国民は、王族に対しても当然そうした価値観の継承をある程度は期待するわけですが、メーガン妃は真逆です。

 

アメリカ人のメーガン妃は、ハリウッド女優で、派手で華やかタイプ、しかも離婚経験もあるなど、これまでのイギリス王室にはいなかった女性です。当然、そんなメーガン妃の行動は、こうした大衆紙の格好のターゲットとなります。実際、メーガン妃の父親への私信が違法に報じられたり、携帯電話の音声メッセージを盗聴されたりしました(ヘンリー王子はこの件で訴訟を起こした)。しかし、こうした報道に対して、市民は眉をひそめるのではなく、受け入れている文化がイギリスにはあります。王室も、開かれた王室のイメージを定着させるためにもこれを容認しているようです。英王室は、7紙と独占的に公務取材を行える取り決めをしているそうですが、その中にはゴシップネタを追う大衆紙も含まれているのです。

 

メーガン妃は、「王室の高位メンバー」から抜けることで、「御用メディア」の監視下から離れたいと考えたのではないかとの見方が一般的です。ただし、それは自分と家族のプライバシーを守るためという理由だけでなく、自らのビジネスプランの実現に支障がでると考えたのでないかと見られています。

 

前回の投稿記事でも指摘しましたが、ヘンリー王子夫妻は、仮に収入が入らなくても、生活していける資産を持っています。しかし、そのような生活に満足できるメーガン妃ではないようです。妃は昨年、英民放ITVのドキュメンタリー番組で「生き抜くだけでは十分ではなく、成功して幸せを感じなければならない。それが人生だ」と発言しました。もっとも、メーガン妃も王室の一員に成りきろうとしたことも事実です。「感情を抑えるというイギリス流の繊細さに適応しようと努力した」と妃自身が告白しています。ただ、セレブ志向のメーガン妃にとっては無理だったようです。

 

今回、王室の一員として、可能な公務を行うことで、エリザベス女王を支えつつも、「高位ロイヤル」の立場からは離脱し、一年をイギリスとカナダで半分づつ過ごすと発表しました。メーガン妃からすれば、それは、王室の高位メンバーを執拗に追いかける大衆紙を避けつつ、経済的な成功を求めるための理想的な提案であったに違いありあません。

 

しかし、王族の象徴ともいえる「ロイヤルハイネス(殿下および妃殿下)」の称号(肩書)を失うことは、英王室というブランドを最大限に利用してセレブであり続けようとするメーガン妃にとっては大きな誤算であったかもしれません。もっとも、サセックス公爵の称号は失わないとされているので、胸をなでおろしているかもしれません。

 

 

<参照>

ウィリアム王子の資産は54億円超!、一体どこから来ている?

(Jun.28.2019、CELEB)

ハリー王子&メーガン妃に与えられた新たな称号を解説

(2018/05/23、BAZAAR)

英国王室は、あなたが考えているよりも多くの収入源を持っている

(2019/11/29、BAZAAR)

ヘンリー王子とメーガン妃、年間収入100億円になるか

(2020/01/18、女性セブン2020年1月30日号)

メーガン妃とヘンリー王子が英王室を離脱する 年の半分カナダに移住

(2020年1月9日 yahooニュース)

宗教と風習―貴族の世界(欧州編)(So-net)

Wikipediaなど

2020年01月19日

皇室:古式ゆかしき「歌会始の儀」

1月16日、宮中行事である「歌会始の儀」が行われました(投稿記事「令和初の「歌会始めの儀」」参照)。歌会始について、まとめてみると伝統的・文化的に奥の深いものがありました。

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歌会始とは?

和歌(短歌)は,日本のあらゆる伝統文化の中心をなすものといわれているなか、600年以上の長い歴史をもつ宮中の歌会始は,国民参加の文化行事となって現在に至っています。「歌会」(うたかい)とは、人々が集まって共通の題で歌を詠み,その歌を発表する会をいいますが、天皇が年の始めに正月行事としてお催しになる歌会を「歌会始(うたかいはじめ)」といいます。

 

「歌会始」は、長い歴史のある宮中の行事で、そこには独特の言葉の使い方があります。一般の人たちが歌を応募することを「詠進」(えいしん)といいます。詠進した歌を選考する人を「選者」(せんじゃ)といいます。そして詠進して選ばれることを「選に預かる」といい、その歌を「選歌」(せんか)といいます。

 

「歌会始」には一般の方、選者のほかに、「召人」(めしうど)といって天皇陛下から特別に要請されて歌を詠進する方もあります。召人は広く各分野で活躍し貢献している人々を選び,今年は国文学者の久保田淳氏が選ばれました。詠まれた和歌は「」(うた)といいますが、皇族殿下、妃殿下のは「お歌」(おうた)、皇后陛下のは「御歌」(みうた)、天皇陛下のは「御製」(ぎょせい)と申し上げます。これらの歌を詠み上げることを「披講」(ひこう)といいます。

 

この儀式の進行は,読師(どくじ=司会役),講師(こうじ=全句を節をつけずに読む役),発声(はっせい=第1句から節をつけて歌う役),講頌(こうしょう=第2句以下を発声に合わせて歌う役)の諸役が行います。

 

歌会始の儀

「歌会始」は、宮中の松の間のある長和殿で行われ、天皇皇后両陛下の御前で歌が披講されます。進行は司会役の読師(どくじ)が行います。最初に節をつけずにすべての句を講師(こうじ)が読み、つぎに第1句から節をつけて発声(はっせい)が歌うと、第2句以下を発声にあわせて講頌(こうしょう)が続き歌います。

 

披講の順番は、一般の応募作(今年は1万5324首)から詠進された選歌(入選者)、つぎに選者の歌、天皇陛下に招かれた召人(めしうど)の歌、皇族方のお歌(三笠宮家の寛仁親王妃信子さま、秋篠宮妃紀子さま、秋篠宮さま)、皇后陛下の御歌と続き、最後に天皇陛下の御製となります。皇太子殿下をはじめ皇族方が列席され,文部科学大臣,日本芸術院会員,選歌として選ばれた詠進者などが陪聴します。

 

歌会始の歴史

歌会は、「万葉集」にもあることから、奈良時代には既に行われていたと推察されています。歌会の中で、天皇がお催しになる歌会を「歌御会」(うたごかい)といい、宮中では年中行事としての歌会などのほかに,毎月の月次歌会(つきなみのうたかい)も催されるようにもなりました。

 

これらの中で天皇が年の始めの歌会(正月行事)としてお催しになる歌御会を「歌御会始」(うたごかいはじめ)といいました。歌御会始の起源は,必ずしも明らかではありませんが、遅くとも,鎌倉時代中期まで遡ることができるものと言われています。歌御会始は,江戸時代を通じほぼ毎年催され,明治維新後も,明治2年(1869年)1月に明治天皇により即位後最初の会が開かれています。

 

明治の近代化の過程で、明治3年には、一般の人に苗字を名乗ることが許されるようになると、明治7年(1874年)に、これまで皇族・貴顕・側近など宮中の方々のみに限定されていた参加資格が、一般国民にも拡大しました。明治12年(1879年)には一般の詠進歌(応募された和歌)のうち特に優れたものを選歌とし,歌御会始で披講(披露)されることとなりました。これが、今日の国民参加の歌会始の始まりといえます。大正15年(1926年)には,皇室儀制令が制定され,古くから歌御会始といわれていたものが,以後は「歌会始」といわれることになりましたが、大正天皇崩御のため、実際に歌会始と呼ばれたのは昭和3年(1928年)の歌会始からです。

 

第二次世界大戦後は、広く一般の詠進(応募)を求めるため,お題は平易なものとされ、預選者(選ばれた人)は式場への参入が認められただけでなく,天皇皇后両陛下の拝謁や選者との懇談の機会が設けられるようになりました。さらに、テレビの中継放送が導入されて,さらに多数の人々が歌会始に親しむことができるようになりました。こうして歌会始への国民参加は,ますます促進されるばかりか、最近では、海外からも作品が寄せられています。

 

<参考>
歌会始(宮内庁HP)
宮中の「歌会」から国民参加の「歌会」へ(Tenki.com)
Wikipedia

2020年01月18日

英王室:ハリー王子と「王室高位メンバー」

英国のヘンリー(ハリー)王子とメーガン妃が今月8日、英王室の「主要メンバー(高位メンバー)」の立場を退き、財政的な自立をめざすという声明を出しました。「主要(高位)メンバー」から退くということが、ヘンリー王子の引退、王室からの離脱を意味するといった様々な憶測が流れています。また、どの場合でもヘンリー王子の王位継承との関係はどうなるのかといった疑問の声が上がっています。今回は、「(英王室の)主要メンバー(高位メンバー)の立場を退き、財政的な自立をめざす」という意味を考えることで、英国の王室について学びましょう。

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「王室の高位メンバー」って何?

 

まず、そもそも、英国のシニアメンバー(高位メンバー、主要メンバー)とはどういう意味なのでしょうか?英文では「senior(シニア)」、日本のマスコミはこれを「高位」または「主要」と訳しました。「高位ロイヤル」という表現もあります。「高位メンバー」について、英国王室に公式な規定は存在しませんが、一般的には、「君主(女王)の成人親族で、(フルタイムの)ロイヤルファミリーとして女王の名の下に日常的な公務を遂行し、かつ王位継承に近い位置にいる王族とその配偶者」と解されています。現在、ヘンリー王子夫妻を含めた「高位王室メンバー」の地位にあるのは、以下の9人と見られています。

 

エリザベス女王陛下
エジンバラ公フィリップ王配(おうはい=女王の配偶者)
ウェールズ公チャールズ皇太子
チャールズ皇太子の妻・カミラ夫人
ケンブリッジ公ウィリアム王子
ウィリアム王子の妻・キャサリン妃
サセックス公ヘンリー王子
ヘンリー王子の妻・モーガン妃
ヨーク公アンドルー王子
(アンドルー王子とは、エリザベス女王の第3子(次男)、チャールズ皇太子の弟)

 

爵位はどうする?

今回の夫妻による「高位メンバー」からの脱退宣言は、ヘンリー王子が、王族という貴族の地位まで捨てて、一般人と同じように、普通の生活をするということなのでしょうか?

 

貴族の地位を捨てるということは、王家の称号である爵位(しゃくい)を辞退することを意味します。「爵位」は、貴族だけに与えられた称号で、爵位により、身分の序列が表されます。イギリスの爵位は、上から公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順番です。ハリー王子とメーガン妃の称号は、爵位の最高位である公爵です。先ほど、「王室高位メンバー」のリストに、ヘンリー王子に「サセックス公」という肩書がありましたが、「公」とは公爵を意味し、「サセックス」はイギリスの地名で、爵位に地名がつけられるのが慣例です。

 

ハリー王子がメーガン妃と結婚した際、女王からの贈り物として、サセックス公爵と公爵夫人の称号が与えられましたが、ハリー王子とメーガン妃は、「サセックス公爵夫妻」の称号を放棄したいとは考えていないと見られています。実際、ヘンリー王子&メーガン妃は、写真共有サイト「インスタグラム」の声明文には、新たなワーキングモデルに移行し、経済的に独立したとしても、「引き続き、女王陛下に対する夫妻の献身は揺るぎないものであり、要望に応じて、女王エリザベス2世に忠誠を尽くすことを目指す」と書かれていたことからもわかります。

 

 

王位継承権はどうなる?

また、現在、ヘンリー(ハリー)王子は、王位継承順位は6位となっていますが、「引退宣言」で王位継承から外れるのかという疑問がでているようです。しかし、イギリスでは、王位継承権は絶対で、王位継承者は継承権を放棄できません。仮にヘンリー王子が望んだとしても、王族引退はできても王位継承権の放棄はできません。もっとも、一度王位につけば、王位から退くことはできます(過去にも1936年にエドワード8世の例がある)。

 

イギリス王室の王位継承順位(10位まで)

  1. チャールズ皇太子 エリザベス王女第1子
  2. ウィリアム王子 チャールズ皇太子の長男
  3. ジョージ王子 ウィリアム王子第1子
  4. シャーロット妃 ウィリアム王子第2子
  5. ルイ王子 ウィリアム王子第3子
  6. ヘンリー王子 チャールズ皇太子の次男
  7. アーチー王子 ヘンリー第1子
  8. アンドルー王子 エリザベス王女第2子
  9. ベアトリス妃 アンドルー王子第1子
  10. ユージェニー妃 アンドルー王子第2子

 

 

「経済的に独立」の意味は?

現在、チャールズ皇太子を除くイギリスの高位(主要)メンバーは、王室の信託財産からの助成金に家計を頼っています。ヘンリー王子とメーガン妃が言う英王室の「高位」の立場から退き、「経済的に独立したい」という時の「経済的自立」とは、現在の立場では認められていない「仕事をして収入を得ること」だと述べています。

 

実際、お二人は、かねてより離脱の構想を温め、2019年6月、独自の財団設立を発表し、その時点で、夫妻は「Sussex Royal」(サセックス・ロイヤル)の商標出願をしています。対象は「パジャマ、スーツ、フード付きトップス」から「助言・コンサルティングサービス」「健康・ウェルネストレーニング」まで網羅するブランドだそうです。

 

しかし、現在、高位ロイヤルの称号を持ったまま、「利益を得る」形で仕事をすることはできないとされていました。例えば、CM(コマーシャル)など企業とスポンサー契約を結んで、ブランド(企業)のために働き、報酬を得ることを認められていません。ですから、ヘンリー王子とメーガン妃は、「経済的に独立」をして、「王室ブランド」を営利目的の私的ビジネスに変えようという「挑戦」に乗り出したという見方も可能です。

 

 

実は膨大な個人資産が…

ただし、いわゆる経済的に独立という「王室改革」が、今回の王室引退(高位メンバーからの離脱)の目的だったかというと、それも疑問が残ります。というのも、ヘンリー王子は、仮にこれから働かず、助成金も入ってこなかったとしても、すでに驚くほどの個人資産を保有しているからです。

(「膨大な個人資産」についての記載は、Cosmopolitanの記事「・・・ヘンリー王子の保有資産はHOW MUCH?」を特に参照しました)

 

  • 曽祖母エリザベス皇太后が設立した信託基金

エリザベス女王の母、「クイーン・マザー」が、ウィリアム王子とヘンリー王子をはじめとするひ孫たちのために、1994年に設立した信託基金(推定1900万ポンド:約27億円)から、2人の王子はすでに約600万ポンド(約8億5800万円)を半額ずつ受け取ったとされています。また、王子たちは40歳になると、クイーン・マザーの信託基金に残されている金額のうちの800万ポンドから、それぞれの割り当て分を受け取る予定だとされています。しかも、その残りの金額の大半をヘンリー王子が受けとることになっていると言いいます。というのも、ウィリアム王子が君主になった場合に生じる二人の資産の差を埋め合わせようと皇太后が配慮したからだそうです。

 

  • ダイアナ元妃の遺産

母であるダイアナ元妃が王子たちに残した資産1000万ドル(税引き後、約10億円)を、王子たちは25歳になったときから、毎年一定額(推定45万ドル:約4900万円)を受け取っていると言われています。

 

そのほか、英陸軍航空隊のヘリコプター操縦士時代の給料などを含めると、ヘンリー王子の保有資産はおよそ4000万ドル(約43億7000万円)になるとの試算もあるほどです。

 

公爵夫妻の真意は?

こうした点を考慮すれば、今回の王室の高位メンバーから退くというヘンリー(ハリー)王子とメーガン妃の宣言の真相は、「経済的独立」は二の次で、王族としての生活に馴染めない「メーガン妃」がキーワードとなるのかもしれません。

 

カリフォルニア生まれのアフリカ系アメリカ人のメーガン妃は、結婚前に、人気ドラマ「スーツ」や映画への出演、企業とのスポンサー契約など「セレブ」生活をしていました。当然、英国王族の宿命ですが、夫妻はメディアから過度に注目、過剰報道されました。昨年、複数のメディアに対して訴えを起こすほど、苛立ちを強めていたとされています。

 

今回、公爵夫妻という肩書は捨てることなく、王室の高位(主要)メンバーから外れるという宣言は、母ダイアナ妃の悲劇を目の当たりにしているヘンリー王子からすれば、妻を守るための行動であり、また、自由と独立を志向するメーガン妃の要望であったと推察されます。実際、先日13日に行われた夫妻の王室離脱問題を巡る緊急の家族会議について、「2人の希望通り、イギリスとカナダの両国で暮らすことが了承された」と報じられました。ヘンリー王子とメーガン妃にとっての最大の希望は、イギリス(宮殿)から離れることだったのかもしれません。

 

 

<参照>

ハリー王子夫妻、王室主要メンバー退く意向 公務は継続

(2020年1月9日、朝日新聞)

英王室の緊急家族会議 ヘンリー王子夫妻の離脱容認

(2020/01/14テレビ朝日)

ヘンリー王子夫妻が退く英国王室の“シニアメンバー”ってなに?

(HUFFPOST 2020 1/09)

ハリー王子&メーガン妃、退位すると「サセックス公爵」夫妻の称号はどうなる?

CELEB 2020 1 20

[FT]ヘンリー英王子夫妻は「経済的に自立」できるか

(2020/1/10 日本経済新聞)

ヘンリー王子&メーガン妃が退く「高位」ロイヤルの立場とは?

(BAZAAR 2020 1/9)

英王室からの一部引退を表明! ヘンリー王子の保有資産はHOW MUCH?

(2020/01/09)Cosmopolitan

2020年01月15日

神社:伊勢神宮は内宮と外宮だけではない!

伊勢神宮は、有名な「内宮」と「外宮」(両社で「正宮」という)だけでなく、「別宮」、「摂社」、「末社」、「所管社」と呼ばれるお社からなり、全部で125社で構成されています。その範囲は伊勢志摩地方にひろく及び4つの市と2つの郡にまたがります。伊勢神宮について、前回の投稿「伊勢神宮、外宮と内宮の神さま」に続く第2段です。今回は、伊勢神宮の全体像をみてみましょう。

—————

正宮(しょうぐう)> 計2社

外宮(豊受大神宮)
祭神:豊受大御神(とようけおおみかみ)

内宮(皇大神宮)(こうたいじんぐう)
祭神:天照大御神

 

外宮と内宮のなかでも有名なのが御正殿(ごしょうでん/ごせいでん)で、通常、私たちは、それぞれの御正殿を外宮、内宮とみなすでしょう。御正殿とは、神社の本殿、宮殿の中心となる建物で、天照大御神は、内宮の御正殿でお祀りされています。外宮と内宮についての詳細は「伊勢神宮、外宮と内宮の神さま」へ。

 

別宮(べつぐう)> 14社

別宮とは、正宮と特に関わりの深い神さまをお祀りする格の高い神社で、御正殿に次ぐお宮です。正宮に準じて祭祀が行われています。別宮のお宮も、式年遷宮が行われます。伊勢神宮の別宮は、外宮(豊受大神宮)に4社、内宮(皇大神宮)に10社あります。別宮にも格付けのようなものがあり、外宮の第一別宮である多賀宮(たかのみや)や、内宮の第一別宮である荒祭宮(あらまつりのみや)には、大きな祭祀fが行われる際、天皇陛下が幣帛(へいはく)(=絹の反物など)をお供えされます。

 

外宮別宮(4):多賀宮土宮、月夜見宮、風宮

 

  • 多賀宮(たかのみや)

御祭神:豊受大御神荒御魂(とようけのおおみかみのあらみたま)

 

豊受大御神荒御魂とは、豊受大御神(とようけのおおみかみ)の荒く猛々しい時の御霊のことです。殿舎の規模も他の別宮よりも大きく、小高い丘の上に鎮座しています。外宮の別宮では最も格式の高い第一別宮で、20年に一度の式年遷宮の際、外宮では多賀宮のみ正宮と同じ年に行われます。

 

神道では、神さまの荒々しく格別に顕著なご神威をあらわされる御魂の働きを「荒御魂(あらみたま)」、神さまの御魂のおだやかな働きを、「和御魂(にぎみたま)」といいます。 

 

  • 土宮(つちのみや)

御祭神;大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)

 

大土乃御祖神は、古くから山田原(やまだのはら)の鎮守の神でしたが、外宮の鎮座以後は宮域の地主神、宮川堤防の守護神とされ、平安時代末期に別宮に昇格しました。他の別宮は全て南向きですが、土宮だけ東を向いています。

 

  • 月夜見宮(つきよみのみや)

御祭神:

月夜見尊(つきよみのみこと)

月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)

 

月夜見尊は、天照大御神の弟神で、月の満ち欠けを教え暦を司る神とされています。内宮別宮 月読宮でも祀られています(同じ祭神)。

 

 

  • 風宮(かぜのみや)

御祭神:

級長津彦命(しなつひこのみこと)

級長戸辺命(しなとべのみこと)

 

級長津彦命と級長戸辺命は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の御子神で、特に風雨を司る神さまです。内宮別宮の風日祈宮(かぜひのみのみや)のご祭神と同じです。雨風は農作物に大きな影響を与えるので、正宮に準じてお祀りされています。また、鎌倉時代の元寇に際して神風を吹かして日本を守って下さったことから、国を救ってくれる祈願の対象ともなってきました。

 

内宮別宮(10)

荒祭宮、月読宮(4)、瀧原宮(2)、伊雑宮、風日祈宮、倭姫宮

 

  • 荒祭宮(あらまつりのみや)

御祭神:天照大御神荒御魂(あまてらすおおみかみのあらみたま)

 

天照大御神の荒御魂をお祭りしており、内宮に所属している10社の別宮のうち、第一位(第一別宮)とされ、20年に一度の式年遷宮の際、内宮では荒祭宮のみ正宮と同じ年に行われます。

 

内宮の敷地内には、天照大御神をお祀りする御正殿(ごせいでん)の他に2つの別宮があり、一つはこの荒祭宮で、もう一つが風日祈宮です。

 

 

  • 風日祈宮(かざひのみのみや)

御祭神

級長津彦命(しなつひこのみこと)

級長戸辺命(しなとべのみこと)

 

外宮別宮の風宮と同じように、特に風雨を司る神さまをお祀りしています。

 

 

  • 月読宮

祭神:月読尊

 

外宮別宮の月夜見宮(つきよみのみや)と同じように、天照御大神の弟神である月読尊(つきよみのみこと)をお祀りしています(外宮では月夜見尊と書く)。役割は、「月を読む」という名前の通り、月の満ち欠けを教え暦を司ることです。外宮では、月夜見尊の荒御魂も祭神となっていますが、こちらでは、月読尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)は、月読宮とは異なる別宮(月読荒御魂宮)に祀られています。

 

また、月読宮には、天照大御神と月讀尊の父母神である「父:伊弉諾尊(イザナギノミコト)」と「母:伊弉冉尊(イザナミノミコト)」も、伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮にそれぞれ祀られています。このように、内宮の月読宮の敷地には、月読宮だけでなく、以下の3社の別宮が並んで存在しています。

 

月読荒御魂宮(祭神:月読尊荒御魂)

伊佐奈岐宮(同:伊佐奈岐命)

伊佐奈弥宮(同:伊佐奈弥命)

 

  • 瀧原宮(たきはらのみや)

祭神:天照大御神の御魂

(天照坐皇大御神御魂/あまてらしますすめおおみかみのみたま)

 

瀧原宮は、伊勢市から40kmほど離れた渡会郡の山間に位置し、文字通りの「瀧原宮」と、「瀧原並宮(たきはらならびのみや)」の2つの別宮が並立しています。昔から神宮の遙宮(とおのみや)(遠い宮という意味)と呼ばれ、品格があることで知られています。祭神は、どちらも「天照大御神の御魂(あまてらすおおみかみのみたま)」とされていますが、瀧原宮はその和御魂(にぎみたま)、瀧原並(竝)宮は、天照大御神の荒御魂(あらみたま)が祀られるとする説明もあります。

 

伝承では、かつて、皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を祀るため、相応しい聖地を探し求めていたところ、内宮より先に、この渡会の地に瀧原宮を建てて、天照大御神を祀ったという話しが残されています。しかし、その後、現在の内宮のある伊勢の地に新宮を建てたため、天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)を祀る別宮となったと言われています。

 

内宮の雛形とといわれている瀧原宮は、「ミニ内宮」の様相を呈しているとされ、五十鈴川と同じように清流が美しい御手洗場もあります。入口の鳥居から参道を抜けると、奥に社伝がたたずんでいます。

 

  • 伊雑宮(いざわのみや)

祭神:天照大御神の御魂

 

志摩市に鎮座している伊雑宮(いざわのみや)は、別名「いぞうぐう」とも呼ばれています。天照大御神の御魂をお祭りしていて、地元の人々からは海の幸、山の幸の豊饒が祈られてきました。毎年6月24日(6月月次祭当日)に行われる御田植式は、「磯部の御神田(おみた)」の名で知られ、日本三大田植祭の一つとされます(後の二社は香取神社と住吉大社)。瀧原宮(たきはらのみや)と同様、別宮の中でも「遙宮(とおのみや)」と呼ばれ、地元からも篤く崇敬されています。

 

 

  • 倭姫宮(やまとひめのみや)

祭神:倭姫命

 

倭姫宮は、天照大御神を伊勢にお連れした、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)を祭神としています。内宮と外宮を結んでいる御幸道路の中ほどの倉田山に鎮座し、別宮の中で最も新しいお宮です。

 

摂社(せっしゃ)> 43社

摂社は、平安時代中期(927年)にまとめられた国家の官帳である「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」に記載されているお社で、外宮(豊受大神宮)に16社、内宮(皇大神宮)に27社あります。いくつかの摂社を紹介します。

 

  • 草名伎神社(くさなぎじんじゃ)(外宮摂社)

祭神:標劔仗神(みしるしのつるぎのかみ)

 

外宮の摂社として格式が高く、1210年に、月夜見宮が別宮に昇格してから、第一摂社となりました。祭神は標劔仗神(みしるしのつるぎのかみ)で、度会氏の祖とされる大若子命(おおわくこのみこと)が、標劔仗神から剣を賜り、越の国の阿彦という賊徒を討伐したことから、大幡主命(おおはたぬしのみこと)の名を賜ったという伝承が残されています。「草奈伎」の社号も、この剣を日本武尊の「草薙の剣」に例えたものと言われています。

 

大若子命(おおわくこのみこと)は、度会氏の祖とされ、天照大神の伊勢遷座のところ で、南伊勢の豪族として協力した功績から、官職の一つである神国造(かみのくにのみやつこ)と、神宮の大神主(おおかんぬし)(=神官で禰宜ねぎの上位)に任じられたとされています。また、「草薙の剣」は、倭姫命(やまとひめのみこと)から日本武尊へ授けられる以前に「神宮」にあったとされ、草奈伎神社では、草薙の剣の御魂を祀るという説も残されています。

 

  • 朝熊神社(あさくまじんじゃ)(内宮摂社)

祭神

大歳神(おおとしのかみ)
苔虫神(こけむしのかみ)
朝熊水神(あさくまのみずのかみ)

 

朝熊神社は、内宮摂社の中で格式が高い内宮第一摂社で、桜の名所(朝熊山)としても知られています。祭神は、上記したこの土地を守る神(熊野平野の守護神)かつ五穀と水の神の三柱です。ただし、別の資料では、大歳神(おおとしのかみ)ではなく、その子の桜大刀自神(さくらおおとじのかみ)とする説もあります。桜大刀自神は木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)の別名ともされています。

 

  • 多岐原神社(たきはらじんじゃ)(内宮摂社)

祭神:真奈胡神(まなこのかみ)

真奈胡神は、倭姫命(やまとひめのみこと)が宮川を渡るのをお助けした土地の神で、社も倭姫命を出迎えたとされる瀧原の近くの場所に建てられたとされています。

 

末社(まっしゃ)> 計24社

末社は、延喜式神名帳には載せられていませんが、807年に成立した伊勢の神宮の儀式帳で、鎮座の由来などについて記した「延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)(「皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)」と「止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)」の併称)」に記載されている神社です。なお、末社は、外宮(豊受大神宮)に8社、内宮(皇大神宮)に16社、あります。

 

  • 伊我理神社(いがりじんじゃ)(外宮の末社)
    祭神:伊我利比女命(いがりひめのみこと)

 

伊我利比女命は、かつて存在した外宮の御料田(神宮の神田)の井泉の神で、古く外宮御料田の耕種始めの神事、鍬山伊我利神事(くわやまいがりしんじ)が行われていました。このお祭りは、猪の害を防ぐためのもので、社名の「伊我理(利)」も猪狩(いかり)に由来するといわれています。

 

  • 小社神社(おごそじんじゃ) (内宮末社)

御祭神:高水上命(たかみなかみのみこと)

 

高水上命は、この土地の神で灌漑用水の神と伝えられています。小社神社は、この地方では「雨の宮」と呼ばれ、ひでりの折には雨乞祈願をしたといわれます。内宮神主の荒木田氏が、この地域を開拓した当時、産土神として尊ばれた神さまです。

 

所管社(しょかんしゃ)>計42社

所管社は、摂社と末社以外に、正宮や別宮にゆかりがあり、水やお酒、お米、塩、麻、絹などの御料(ごりょう)(=お供え物)、宮域鎮護など、祭祀にあたり深く関係を持つ神々がお祀りされている場所です。外宮(豊受大神宮)に4社、内宮(皇大神宮)に30社、内宮別宮の瀧原宮(たきはらのみや)に3社、伊雑宮(いざわのみや)に5社あります。ここでは、数ある所管社の中で、まず、内宮の域内にある2つの所管所をみてみましょう。

 

  • 子安神社(こやすじんじゃ)(内宮所管社)
    祭神:木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

 

祭神の木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)は、猛火のうちに御身無事に、三柱の御子をお生みになられたという神話から、子授け、安産、厄除けの神として篤い信仰を受けています。もっとも、木華開耶姫命は、元々は伊勢・宇治館町の「産土神(うぶすながみ)」という土地の守護神という伝承があり、木華開耶姫命に対する信仰はこの地に根付いています。

 

木華開耶姫命は、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘神であることでも知られています。木華開耶姫命の御神体は「富士山」と云われており、父神の大山祇神からゆずり受けたとされております。子安神社の奥には、その大山祇神を祀る大山祗神社があります。

 

 

  • 大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)

祭神:大山祇神

 

大山祇神(おおやまずみしん)は、木華開耶姫命の父神で、山の神として全国から崇敬を集めています。子安神社と大山祇神社はともに、内宮の衛士見張所の近くにあり、親子神で並んで内宮の宮域でお祀りされています。なお、両社は、伊勢神宮の所管社ではありませんでしたが、1900年(明治33年)に再び、内宮(皇大神宮)の所管社として登録されています。

 

次に、内宮別宮の瀧原宮(たきはらのみや)にある若宮神社、長由介神社、川島神社をとりあげます。

 

  • 若宮神社(わかみやじんじゃ)(瀧原宮所管社)

祭神:若宮神(わかみやのかみ)

 

若宮神は、瀧原の地に縁のある水の神といわれていますが、由緒など詳細は不明とされています。天若宮(あめのわかみや)と呼ばれることもある若宮神社は、瀧原宮所管社3社のうち第一位です。

 

 

  • 長由介神社(ながゆけじんじゃ)(瀧原宮所管社)

祭神:長由介神

 

長由介神(ながゆけのかみ)は、瀧原宮の御饌(みけ・食物)の神といわれています。御饌の神だから、豊受大神の御霊あるいは分霊とする説もあります。長由介(=長生き)と解され、長生きの神であるとの民間信仰があり、江戸時代には、長寿祈願の参拝者でにぎわったそうです。

 

  • 川島神社(かわしまじんじゃ)

祭神:川島神

由緒など詳細は不明。川島神社は、1874年(明治7年)以降、長由介神社に合祀されるようになりました。

 

瀧原宮を訪れると、周る順番も、瀧原宮→瀧原並宮→若宮神社→長由介神社(川島神社は長由介神社と同座)が推奨されています。

 

一方、所管所の中には、社殿を持たない石神(磐座)祭祀など原初的な形式で祀られている所管所もあります。

 

  • 瀧祭神(たきまつりのかみ)

古代より、瀧祭神は氾濫が多かったとされる五十鈴川の守り神であったとされ、五十鈴川の龍神(水神)を鎮めるために祀られていると言われています。従って、瀧祭神は、五十鈴川の御手洗場近くの杜の中に鎮座し、板垣の内側に御神体の石がお祀りされています。元々は、対岸となる五十鈴川の西側の川辺に鎮座していたという説もあります。

 

  • 四至神(みやのめぐりのかみ)

四至神は、神の神域(大宮)の四方の境界を守護する神で、内宮と外宮に1箇所ずつ鎮座しています。元々はそれそれの境内に数十箇所以上も存在しと言われていますが、それらが統合されて1箇所にまとめられました。なお、四至とは宮の四方の意味です。

 

内宮の四至神の鎮座地は、神楽殿・五丈殿のやや東方、忌火屋殿の程近くにある石畳の上の白石で、そこで、石神としてまつられ、白石の石神(=四至神)のみがお祀りされた神域となっています。江戸時代までは、神様の依り代としての一本の桜の木=「桜大刀自神桜大刀自神(さくらおおとじのかみ)」が祀られていたそうです。桜大刀自神は木華開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)の別名との見方もあります。

 

このように、伊勢神宮(「神宮」)は、外宮・内宮(正宮)に加えて、別宮、摂社、末社、所管社、計125社の総称で、社殿を有するお社や、石畳の上に祀られるお社など様々な形があります。なお、どの社が、別宮、摂社、末社、所管社となるかは、各時代によって制定された神祇制度(じんぎせいど)により神社の格(社格)が定められ、その格に応じて摂社・末社と分類されています。

 

<伊勢の祭り(神宮祭祀)>

この125社からなる伊勢神宮では、新年の歳旦祭(さいたんさい)から大晦日の大祓(おおはらえ)まで、各神社の祭祀を合計すると、年間を通じて、数十種以上およそ1500回も行われています。伊勢の神宮の祭りは、「神嘗祭(かんなめさい)」、「恒例祭(こうれいさい)」、「臨時祭(りんじさい)」、「遷宮祭(せんぐうさい)」の4つに分類されます。

 

10月の神嘗祭は、その年に最初に収穫した稲穂(初穂)を天照大御神に感謝のお供えをする祭祀です。また、「恒例祭(こうれいさい)」は、6月・12月の月次祭(つきなみさい)や毎日の神饌祭など定期的に行われる祭祀で、「臨時祭(りんじさい)」は、「天皇陛下ご即位〇〇年を祝う・・」など皇室・国家および神宮の重大事に臨んで行われます。そして「遷宮祭(せんぐうさい)」は20年に一度実施される一大祭祀でしたね。また、「神宮」では春先の祈年祭(きねんさい)、御田植祭(田植えの前に豊作を祈願する儀式)、秋の神嘗祭(かんなめさい)など、稲作に関わるお祭りが多く行われます。

 

このように、伊勢神宮の年間千五百回ほどにおよぶ祭典では、皇室国家の繁栄と国民の幸せを願う祈りがささげられています。

 

 

<参照>

神宮の歴史と文化(伊勢神宮HP)

教えてお伊勢さん(伊勢神宮HP)

BUSHOO!JAPAN 日本史データベース:寺社・宗教

伊勢神宮への参拝で日本人なら知っておきたい7つの秘密

伊勢神宮誕生から現在までの歴史 | 神ズム

かつて桜の神もいた!伊勢神宮内宮、太古の神祭りに触れる参拝(Lineトラベルjp)

別宮、摂社、末社、所管社とは

伊勢神宮はゼロ磁場!?

Line トラベル

伊勢志摩観光ナビ

お伊勢さん125か所参り(伊勢神宮崇敬会)

草奈伎神社・延喜式神社の調査

Wikipedia

 

2020年01月13日

神社:伊勢神宮、外宮と内宮の神さま

昨年11月、天皇皇后両陛下は、伊勢神宮に参拝され、皇位継承に伴う一連の国事行為「即位の礼」と、一世一度の重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」を終えたことを報告されました。また、令和2年に入って、年初の仕事始めの前に、総理を含め与野党を問わず多くの政治家も伊勢詣でしています。皇室の祖、ひいては日本人の祖ともいえる天照大御神をまつる伊勢神宮とは、どういう神社なのでしょうか?

 

伊勢神宮という呼び方は、実は通称で、伊勢の神宮、より正式には単に「神宮(じんぐう)」と呼ばれます。また、伊勢神宮(「神宮」)と一言でいっても、一つの社だけをさすのではなく、相並び立つ「内宮」(ないくう)と「外宮」(げくう)、さらには別宮、摂社、末社、所管社と呼ばれる大小さまざまな社(やしろ)を含め、あわせて125社からなるのが神宮です。ただ一般に「(伊勢)神宮」といえば、「内宮」と「外宮」を連想する人が多いでしょう。今回は、特に内宮と外宮の神さまを中心にまとめてみました。

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内宮では、皇室の御祖先神、日本人の総氏神とされる天照大御神(あまてらすおおみかみ)さまを、また外宮では天照大御神さまのお食事を司り、産業の守り神とされる豊受大御神(とようけのおおみかみ)をおまつりしています。

 

外宮(げくう):豊受大御神(とようけおおみかみ)

内宮(ないくう):天照大御神(あまてらすおおみかみ)

 

<内宮の起源>

伊勢神宮の始まりは神話の「天孫降臨」の時代に遡ります。皇孫、瓊杵尊(ににぎのみこと)が、天照大御神の命を受けて、高天原から地上の豊葦原中ツ国(とよあしはらのなかつくに)に降りる際、天照大御神は、ニニギノミコトに、お鏡(八咫鏡やたのかがみ)を授けられ、鏡を自分(天照大御神)の御霊(みたま)とみなして、同じ御殿で祀るように命じられました。

 

この時から、天照大御神は、伊勢の地に鎮座される以前に、皇居内の天皇のお側で祀りされていました。しかし、第10代崇神(すじん)天皇(BC148~BC29)の時、その御神威を畏(かしこ)み、御殿を共にすることに恐れを抱かれた天皇は、大御神を皇居外のふさわしい場所でお祀りすることにしました。

 

この背景について神話では、崇神天皇の時代に疫病が流行し、大勢の死者が出た際、この原因が、「神の祟り」で八咫鏡のせいではないかという噂が流れたと言います。そこで、崇神天皇は、「お鏡(八咫鏡)」を、宮中(皇居)の外に出されことを決意されたという説もあります。

 

いずれにしても、崇神天皇は、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に、皇居外のふさわしい場所を探すように、お命じになられます。すると、豊鍬入姫命は、皇居外の神聖な地を選んでおまつりすることにし、大和の国の笠縫村(かさぬいむら)(奈良県桜井市)に神籬(ひもろぎ)(=神霊を招き降ろすための樹木)を立てて、大御神を祀られたのでした。この場所が現在の大神神社(おおみわじんじゃ)の摂社「檜原神社(ひばらじんじゃ/奈良県桜井市三輪)」の辺りではないかと云われています。

 

その後、第11代の垂仁(すいにん)天皇(BC69~AD70)の代になると、八咫鏡をお祀りする役目が、垂仁天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)に交代します。倭姫命は、天照大御神が、新たに末永くお鎮まりになるのにふさわしい土地を諸国を尋ね歩かれました。大和国を出発し、伊賀、近江、美濃、桑名を巡られた末に、伊勢の国に入られた時、天照大御神は伊勢の地を望まれました。「日本書紀」には、この時、天照大御神が次のよう告げたと書かれています。

―――――

この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではなるが、最も美しい永遠の宮処としてふさわしい場所である。この国にいようと思う

―――――

こうして、倭姫命(やまとひめのみこと)は、伊勢の五十鈴川の川上に、八咫鏡(天照大御神)を移してお祀りするための「御社殿」を建て、天照大御神さまをお祭りしました。この御社殿こそが、今日の伊勢神宮(内宮)となるのでした。これが今から約2000年前の出来事です。

 

<外宮の起源>

内宮ができてから、約500年後、天照大御神の食事を司る豊受大御神(とようけおおみかみ)をまつった場所が外宮(豊受大神宮/とようけだいじんぐう)です。また、この神さまは、私たち日本民族の主食であるお米をはじめ五穀、衣食住のめぐみを与えてくださる産業(農耕)の守護神でもあります。豊受大御神は第21代雄略(ゆうりゃく)天皇の御世(今から約1500年前)に、天照大御神のお示しによって京都の丹波(たんば)の国(天橋立付近)から、現在の地に迎えられてお鎮まりになったと伝えられています。

 

前出の天孫降臨の神話においても、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天降る場面で、天照大御神が天上の高天原でつくられた田の稲穂を手渡される場面があります。この逸話は、天で育った稲を地上にも植え、この国を天上界のような稔り豊かな国にするように託されたと解されています。

 

さて、その外宮には御饌殿(みけでん)という御社殿があり、そこで天照大御神に朝夕二回のお食事がお供えされています。「献立」は、御飯三盛、鰹節、魚、海草、野菜、果物、御塩、御水、御酒三献で、これらに御箸を添えて供えられているそうです。

 

また、伊勢神宮のHPによれば、神饌(しんせん)(神さまのお食事)を調理するのは忌火屋殿(いみびやでん)という建物で行われ、神に奉る神饌は特別におこした火と特別な水で調理することになっています。火は、清浄な火という意味で忌火(いみび)と呼ばれ、神職が古代さながらに火鑚具(ひきりぐ)を用いて火をおこしています。また、御水は外宮神域内にある上御井神社から毎日お汲みしてお供えされているそうです。さらに、お食事はただ出されるのではなく、「皇室のご安泰、国民が幸福であるように」との祈りと感謝を捧げる、「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)」という祭祀の形で行われています。しかも、日別朝夕大御饌祭は、外宮の御鎮座以来、1500年間、欠かすことなく、朝夕の二度行われているのです。

 

<八咫鏡と斎王>

さて、内宮においては、7世紀末(飛鳥時代)に、天皇が即位する度に、未婚の女性皇族)」の中から、天皇に代わって天照大御神(八咫鏡)に仕える「斎王(さいおう)」という制度が確立しました。すなわち、伊勢神宮における斎王とは、天照大御神の御霊がお宿りする「八咫鏡を祀る任務を担う役職」のことで、一代の天皇が即位する度に未婚の皇女が1人選出されていました。

 

ただし、伊勢へ下ると、斎王は、日々、神宮で奉仕していたかというとそうではなく、基本的に、伊勢神宮の最も大切な祭典「三節祭」が執り行わる際にのみ、神宮へ赴き奉仕したと言われています。普段は、伊勢国多気郡の櫛田川付近(現在の近鉄斎宮駅の付近)に位置した「斎宮」で生活していたとされています。斎王はあくまで象徴的な存在だったのでしょう。

 

なお、「三節祭」とは、神宮内の数ある祭典(神事)の中でも特に重要視されている6月と12月の「月次祭」と10月の「神嘗祭」の3回の祭典をいいます。天皇は現在も、「三節祭」の時には、伊勢神宮へ使者「勅使(ちょくし)」をつかわして「絹織物」などを奉納されていたそうです。

 

しかし、この斎王の制度は、神宮創建後の約660年後となる室町時代の1330年頃、ちょうど朝廷が2つに割れた「南北朝時代」には廃止されてしまいました。政治の混乱とともに、斎王の制度を維持していく財源がなくなったことが要因とみられています。実際、南北朝時代を境に、朝廷の権威は衰えていきました。後醍醐天皇による天皇親政の復活を図った「建武の新政」も失敗し、武家が完全に権力を掌握する時代に移り変わってゆきます。天皇家が政治の中心いた時代では、財源の確保が容易にできましたが、武家の時代になると天皇のもとへ直接、財が集まらなくなりました。結果的に「斎王」の制度が執り行えなくなり、14世紀以降、時代から消えてしまいました。それまで、皇女が務めた歴代の斎王の人数は60余人にのぼりましたが、現在、伊勢神宮に「斎王」は存在しません。

 

<神宮の祭主>

参考までに、伊勢神宮には、現在も「斎王」と似て非なる存在として「祭主」がいます。神宮祭主は、天皇の代理として神宮の祭事をつかさどる役職で、天皇の「勅旨」を受けて決まります。神宮祭主のはじまりは不詳で、平安時代まではさかのぼると言われています。

 

現在の祭主は、上皇陛下の長女、黒田清子(さやこ)さんです。その前は、昭和天皇の4女の池田厚子さんで、戦後の祭主には、皇族出身の女性が就任されてきました(過去には、男性がなったり、華族らがなったりしていた)。やはり、伊勢神宮成立の経緯からして、皇室の祖先の神である「天照大御神」にご奉仕する「斎王」と同様、伊勢神宮の祭事に携わる「祭主」は、天皇陛下が定めた皇族、または元皇族の方が、務めると言うことが通例でした。

 

「祭主」は、神宮の祭事をつかさどる役職といっても、年間「千数百回」も行われていると言われるお祭りすべてに携わっているわけではなく、祭主が直接、神事に携わる(ご奉仕する)のは、神嘗祭(10月)など一部に限られています(このほかに出席するだけの「ご参列」もある)。ですから、祭主になると、伊勢への「常駐」が求められるかというと、祭主が直接関わる祭りは限られているため、伊勢に住みこむ必要はありません。黒田さんも、必要があるときに神宮を訪れるという対応をとられています。

 

以上、ここまで、内宮、外宮の起源とその後についてみてきました。では、内宮と外宮、どちらから参拝したらいいのでしょうか?答えは外宮からです。

 

<外宮先祭>

神宮のお祭りは、「外宮先祭(げくうせんさい)」といって、まず外宮から行われるのが慣例となっています。これは、豊受大御神(とようけおおみかみ)を伊勢の地にお迎えになった天照大御神から「我が祭りに仕え奉る時は、まず豊受の神の宮を祭り奉るべし、しかる後に我が宮の祭り事を勤仕(つかえまつる)べし」との御神託があったと伝えられているからです。

 

従って、内宮のお祭りに先立ち、神饌(しんせん)と呼ばれる神さまのお食事をお供えする日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい))が行われるならわしからきています。ですから、お祭りの順序にならい、お伊勢参りも外宮・内宮の順に参拝するのが慣例なのです。

 

<式年遷宮>

伊勢神宮(外宮・内宮、別宮)では、20年に1度、隣の敷地にそのままの姿で社殿を建て替うて、ご神体を遷す式年遷宮と呼ばれる最大の祭典が行われます。式年遷宮は、飛鳥時代の持統天皇の世の690年から、1300年以上にわたって、続けられています。直近では、2013年10月に行われました。

 

ただし、その年のみ儀式があるのではなく、遷宮の年の7年前から数々の行事がこなされます。ご神体(神さま)が古い正殿から新しい正殿へと遷られるという最重要の儀式は、「遷御の儀」という儀式です。御神体(神さま)にお移りいただいた後、古い社は解体されます。また、建物だけではなく、装束や宝物などの道具も新調されます。「遷宮」とは、言わば、神さまのお引越です。こうした過程で、技術は、「見習いの職人⇒棟梁⇒後見人」というように面々と引き継がれていくことになります。そういう意味で、式年遷宮は、建築や製品の技術を次の世代に伝えていくと制度もあります。

 

これに対して、外国にも歴史的な宮殿がいくつもあります。例えば、ギリシャ神殿は2千年以上も建ち続けています。しかし、それを千年、二千年に1回を建て改めるとなったとしても、同じ建築をつくれる人はもういないと言われています。

 

 

<私幣禁断の制>

古来、伊勢神宮は皇祖神である天照大御神をお祀りする、皇室にゆかりのある神社であることから、一般の人々は今のような自由な参拝はままなりませんでした。そのことを象徴的に示す制度に、天皇以外の幣帛(へいはく)(=食べ物以外のお供え物)を禁じる「私幣禁断(しへいきんだん)の制」がありました。幣帛(へいはく)とは、麻や木綿など食べ物以外の品を箱に入れてお供えすることで、伊勢神宮にお参りして、これらの品々を奉納できるのは(天皇の)「勅使」や「斎王」のみに限られ、個人は禁止されていたのです。

 

この私幣禁断(しへいきんだん)の制の「伝統」から、一般の人が伊勢神宮をお参りする時、「個人的な願い事をしてはいけない」と言われています。伊勢の神宮は、天皇が天照大御神さまの前で、国民と国家安寧のための公的な祈りの場であるので、「個人的な願いをかなえようと手を合わせて祈ってはいけません」となったのですね。ですから、現在も外宮・内宮の正殿の前には、「おさい銭箱」はありません。もっとも、皆がお賽銭を投げ入れるので脇に「箱」が置かれるようになったそうです。

 

<伊勢詣で>

もっとも、私幣禁断の制によって、一般の人々の参拝までも禁止されたわけではありませんでした。ですから、勅使のお供としてやってきた人々が都に戻り、神宮のことを口伝えに伝えられていくうちに、次第に神宮の存在が広く知られるようになったと言われています。平安時代の後半には、神嘗祭に「千万人」、鎌倉時代中頃には外宮遷宮に「幾千万」と文献には残されているように、神宮への参向者は年々増えていったようです。

 

江戸時代になると、全国に伊勢信仰が広がり、「お伊勢まいり」が流行するほどでした。この伊勢ブームに大きな功績があったのが御師(おんし)と称される人々です。伊勢の御師とは、神宮の外宮と内宮に所属して、参詣者の様々な願い事を神様に取り次ぐことを職務とする一種の下級神職でした。仏教の檀家制度に近く、檀家にお神札の頒布や祈祷を行い、檀家がお伊勢参りに来た際には、自らの邸内に宿泊させて両宮の参拝案内をしたり、御神楽を行ったそうです。江戸の全盛時代には、二千人あまりの御師が活躍し、伊勢の外宮方面(山田)と内宮方面(宇治)に、御師の館が1,000軒あったと言う説もあるくらいです。ただし、御師制度は明治時代に廃止されてしまいました。

 

このように、伊勢神宮は、一生に一度は伊勢参りと言われるくらい、人々に定着していったのでした。しかしながら、天皇は、江戸時代まで、皇室の祖である天照大御神を祀る伊勢神宮を参拝したことはなかったという驚くべき事実があります。(続)

2020年01月06日

皇室:天皇陛下のお正月

令和となって初めて迎えた元日、1月1日から、天皇陛下は、午前5時半から激務をこなされました。天皇陛下のお正月はいかなるものなのでしょうか?天皇の「お仕事」として、年間80を超えるとされる数多くの宮中祭祀や、国事行為・公的行為のうち1月1日から4日までを追ってみました。

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<1月1日>

◇ 四方拝

天皇陛下は、早朝5時30分に、皇居の神嘉殿南庭で、伊勢神宮,歴代天皇が眠る山陵、四方(東南西北)の神々をご遙拝(拝礼)される年中最初の宮中祭祀、四方拝に臨まれます。

 

◇ 歳旦祭

四方拝に続き、天皇陛下は、5時40分から、宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)で、そこにそれぞれ祀られている皇祖・天照大神や、八百万の神々(天神地祇)、歴代天皇・皇后・皇族の霊(皇霊)に対し拝礼されます。宮中三殿で行われる年始の祭典です。

 

(なお、四方拝と歳旦祭についての詳細は、皇室:新年最初の宮中行事「四方拝」を参照下さい。)

 

四方拝と歳旦祭の後、朝食をとられます。天皇陛下がとられる朝食は、「御祝先付の御膳」と呼ばれる料理です。「本膳で小串鰤焼き、浅々大根(大根の塩漬け)、菱葩というお餅。二の膳で割伊勢海老、栗を甘い汁で煮込んだ福目煮勝栗、雉の胸肉を焼いて熱燗を注いだ雉酒などがある」とされています。雑煮や屠蘇は出ないと言われています。

 

 

◇ 新年祝賀・晴の御膳

 

ご朝食後、午前9時すぎからは祝賀行事が分刻みで続きます。まず、両陛下のお住まいである御所にて、「新年祝賀およびお祝酒」が行われます。そこで、両陛下は、日々身の回りのお世話をする侍従長はじめ侍従職職員から新年のあいさつを受けられます。その後、諸行事を行う宮殿に移られ、宮内庁長官ら幹部職員、参与や御用掛(ごようがかり)といった相談役からもあいさつを受けられます。

 

9時半には、同じ皇居(宮殿)にて、陛下は、「晴の御膳(はれのごぜん)」という行事に臨まれます。「晴れの御膳」とは、お正月に天皇にだされる食事の意で、新年を迎えたお祝いと自然の恵みに感謝するための儀式です。そこでは、勝栗や干しナツメなどの木の実や果物、塩や酢などの調味料、鮎白干しなどのメニューが用意されるそうです。おせちのルーツともいわれていますが、天皇陛下が皿に箸を立てる所作をするだけで、これらの料理を召し上がることはないそうです。

 

(「晴の御膳」や「御祝先付の御膳」の中身については、特に週刊ポスト「天皇陛下元日の食事…」参照引用)

 

 

◇ 新年祝賀の儀

 

「新年祝賀の儀」は、元旦1月1日に、天皇、皇后両陛下が、皇居・宮殿において、皇族や三権の長(総理大臣、衆参両院の議長)や議員、それに日本に駐在する外国の大使などから新年のお祝いを受ける儀式で、憲法に基づく国事行為に位置づけられています。両陛下が祝賀を受ける人数は、680人近くにものぼります。宮殿内では、祝賀を述べる方々が両陛下の部屋に来るのではなく、面会相手ごとに部屋が割り当てられており、両陛下は複数の部屋を回られます。

 

では、タイムスケジュールは、いかなるものであったのか、2018年1月1日付け産経新聞の「天皇陛下のお正月、ご多忙の元日・・・」の記事など新聞報道を中心にまとめてみました。

 

午前10時、天皇、皇后両陛下は、皇居・宮殿「松の間」で、まず、各皇族から、新年の祝賀を受けられます。両陛下が正面に立ち、皇位継承順位1位の「皇嗣」の秋篠宮さま、秋篠宮妃紀子さま、他の宮家皇族が、それぞれ男性皇族、妃殿下の順に挨拶されます。皇族方の中には、黒田清子(さやこ)さん夫妻ら元皇族も含まれ、また秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さまからのごあいさつもあります。

 

午前11時になると、両陛下は皇族方と共に、「松の間」の右隣にある「梅の間」に移られ、首相、各大臣、官房長官・副長官、各副大臣らの夫妻から祝賀を受けられます。続いて、再び「松の間」に移動され、今度は、衆・参両議院の議長・副議長や一部の国会議員らの夫妻から挨拶を受けられます。ここで、陛下は、「年頭にあたり国民の幸せと国の発展を祈ります」とお言葉があります。その後、左隣の「竹の間」に移動され、最高裁判所長官、同判事、各高等裁判所長官らの夫妻からも同様の祝賀を受けられます。これにより、天皇の権威が、行政、立法、司法の三権よりも上位に位置していることが確認されます。ちなみに、三権の長から祝賀を受ける際、天皇は壇の上に立たれます

 

午前11時半からは、各中央省庁の事務次官、都道府県の知事や都道府県議会議長らの夫妻から挨拶を受けられます。なお、自治体の長は全員ではなく、宮内庁が毎年交代で複数指名されるそうです。両陛下は、皇族方との昼食会を挟み、午後にも宮内庁や皇宮警察の現職・OBらとお会いになられます。

 

午後2時半になると、最後に再び「祝賀の儀」として、両陛下は、皇族方とともに、「松の間」で、125の国と地域の外国大使夫妻から順番に一組ずつ祝賀を受けられます。各国の駐日大使は、それぞれの国を代表した全権大使です。その国の代表者らから祝賀を受けるのが、首相ではなく天皇であることは、日本の「国家元首」が天皇であることを示していると指摘する識者もいます。

 

「新年祝賀の儀」は、飛鳥時代の「元日朝賀」まで遡るとされ、1300年以上前から行なわれていた伝統祭祀です。この時から、朝廷において、皇族や大臣以下役人たちが元日、天皇に拝賀していたと言われています。

 

夕刻まで続く「祝賀の儀」が終わると、皇族方と夕食をとられます。献立は、日本の伝統的な慶事の食膳である「御祝御膳」で、その際、雑煮も食されると言われています。夕食は、22時頃まで続くこともあるそうです。いずれにしても両陛下は非常に長い元旦の一日を過ごされるのです。

 

<1月2日>

◇一般参賀

新年一般参賀は、1月2日、陛下と皇后さまをはじめとする成年の皇族方が宮殿・長和殿のベランダに並び立ち、東庭に集まった参賀者に手を振って応えられる行事です。ちなみに、ベランダは新年と天皇誕生日の一般参賀のために取り付けられるそうです。

 

午前10時10分からの1回目の参賀では、天皇陛下がマイクを通じ、挨拶されます。一般参賀で読み上げられるお言葉は、陛下ご自身でお考えになり、準備されると言われています。今年の陛下のお言葉は以下の通り。

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新しい年を迎え、皆さんとともに祝うことをうれしく思います。その一方で、昨年の台風や大雨などにより、いまだご苦労の多い生活をされている多くの方々の身を案じています。本年が災害のない安らかで良い年になるよう願っております。年の始めに当たり、わが国と世界の人々の幸せを祈ります。

―――――

 

2回目以降の参賀はそれぞれ午前11時、同11時50分、午後1時半、同2時20分と、計5回行われました。参賀の回数は、平成21(2009)年以降、5回行われるようになりました。今回の参賀には上皇ご夫妻も、午前中3回の参賀にお出ましになられました。

 

宮内庁によると、令和初となった今年の一般参賀には、6万8710人が訪れました。なお、平成に入り、参賀者が最も多かったのは、皇太子ご夫妻のご成婚後初めての新年一般参賀だった平成6(1994)年の11万1700人でした(ただ、この年は特別に8回行われた)。また、上皇陛下が平成28(2016)年8月に譲位の意向を示された後の翌年の新年一般参賀には9万6700人が詰めかけ、過去2番目の多さとなりました。

 

新聞報道によれば、新年の一般参賀は、戦後間もない昭和23(1948)年に始まり、当初は元日に記帳のみ受け付けたそうです。昭和26(1951)年には、昭和天皇と香淳(こうじゅん)皇后が初めて宮内庁庁舎の中央バルコニーにお出ましになられました。昭和28(1953)年から、参賀の日が1月2日に変更になり、場所が現在の宮殿・長和殿となったのは、昭和44(1969)年からとなります。

 

<1月3日> 

◇元始祭(げんしさい)

元始祭は、1月3日、天皇陛下が宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で拝礼し、年始にあたり、皇位の大本と由来とを祝すとともに、国と国民の繁栄を願われる宮中祭祀です。

 

「皇位の大本と由来」とは、日本の神話による天孫降臨のことをさします。記紀(古事記と日本書記)によれば、天照大神の孫であるニニギノミコト(邇邇芸命または瓊瓊杵尊)が、高天原と黄泉の国の間にある葦原中国(日本)の統治のために降臨した(これを「天孫降臨」という)とされています。すなわち、元始祭では、天孫降臨とそれによって天皇の位が始まったことが祝われるのです。

 

元始祭(げんしさい)は、明治3年(1870年)1月3日に始まり、明治6年(1873年)1月3日から現在のように、宮中三殿で天皇が親祭される形式となりました(それまでは神祇官八神殿にて実施)。また、同年、太政官布告により祝祭日となり、明治41年(1908年)制定の「皇室祭祀令」では大祭に指定されています。しかし、この法律は昭和22(1947)年に廃止され、昭和23年制定の国民の祝日からは外されました。しかし、宮中では現在でも従来通りの元始祭が行われています。宮中では伝統が護持されていることがわかりますね。

 

<1月4日>

◇奏事始(そうじはじめ)

奏事始(そうじはじめ)は、1月4日、掌典長(しょうてんちょう)(皇室の宮中祭祀の責任者)が年始に当たって,伊勢神宮と宮中の祭事のことを天皇陛下に奏上する行事です。具体的には、天皇陛下は午前10時から、宮殿の鳳凰の間で掌典長から伊勢神宮と宮中三殿などにおいて、前年12か月間に、それぞれの祭祀が滞りなく執り行われたという報告を受けます。

 

前年の祭祀報告は、神霊を祭る祭祀でも祭儀ではありませんが、単なる形式的な行事ではなく、祭祀・祭儀に必要な行事だとみなされています。というのも、皇祖神を祀る伊勢神宮では、毎年数十種以上、年間何百回もの祭典が行われ、また、皇室においても、宮中三殿や勅祭社、各地にある陵墓などを含めれば、様々なみ祭が何10種も実施されているからです。

 

ただし、奏事始(そうじはじめ)は、戦前には「政始(まつりごとはじめ)」と呼ばれ、その年の国政開始の行事だったそうです。政治とは、かつて政(まつりごと)と呼ばれ、神のみ心を取り次ぐ仕事だという考え方がありました。元始祭の後に、政始が行われたのは、ある意味、祭政一致の伝統に基づくものであったと言えるかもしれません。しかし、日本国憲法施行後の昭和24年以降、現在の様式になりました。

 

 

<参照>

「天皇のまつりごと」(所功著、生活人新書)

日本一忙しい天皇陛下「平成三十年」の元日

(週刊ポスト2018年1月1・5日号)

天皇陛下元日の食事 小串鰤焼き、浅々大根、割伊勢海老など

(週刊ポスト2014年1月1・10日号)

令和初、天皇皇后両陛下が皇居で「新年祝賀の儀」

(2020年1月1日、共同)

天皇陛下「国民の幸せと国の発展を祈ります」新年祝賀の儀

(2020年1月1日、産経ニュース)

天皇陛下のお正月、ご多忙の元日 未明の祭祀で国民の幸せ祈られ 一般参賀は最多更新なるか

(2018年1月1日、産経)

天皇陛下「災害のない安らかで良い年となるよう願う」 令和初の新年一般参賀 上皇ご夫妻もお出まし

(2020.1.2、産経新聞)

令和初の新年一般参賀 6万8710人が参加

(2020年01月02日、時事ドットコム)

2020年01月05日

皇室:新年最初の宮中行事「四方拝」

令和初の新春を迎え、天皇皇后両陛下は、元旦に、皇族や三権の長らから新年のお祝いを受ける「新年祝賀の儀」や、2日には、秋篠宮ご夫妻をはじめ成年皇族方とともに「一般参賀」へのお出ましなど、新年の行事をこなれました。ただ、元旦の「祝賀の儀」に先立ち、陛下は、夜明け前に、「四方拝(しほうはい)」と「歳旦祭(さいたんさい)」という宮中祭祀に臨まれていたことはあまり報じられませんでした。数ある祭祀の中でも最重要の儀式の一つとも言われる「四方拝」を中心に知られざる祭祀について紹介します。

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四方拝(しほうはい)

<概要>

四方拝とは、宮中で行われる一年最初の儀式で、1月1日(元日)の早朝、天皇が皇祖神の天照大神をまつる伊勢神宮や、歴代天皇が眠る山陵、さらに四方の神々に向かって遥拝(ようはい)(遠く離れた所からおがむこと)され、その年の五穀豊穣と国の安寧、国民の幸せを祈願される儀式です。

 

天皇陛下は、四方拝に先立つ大晦日の夜、御湯(みゆ)で身を清める「潔斎(けっさい)」という儀式を受けられます。その後、元旦の寅の一刻(午前四時頃)、「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と呼ばれる天皇のみが着ることが出来る特別な装束に着替えられ、早朝5時半、天皇陛下は宮中の神嘉殿(しんかでん)の前庭にお出ましになられます。

 

祭祀は、正確には皇居の宮中三殿の西側に付属する神嘉殿の南側の前庭に設けられた仮屋の中の畳の上で行なわれます。最初に皇室の祖先神が祀られている伊勢神宮の豊受大神宮(外宮)・皇大神宮(内宮)の両宮に向かって、次に東南西北の順番で四方の神々に拝礼され、国家国民の安寧と五穀豊穣を神々に祈られます。

 

なお、「四方の神々」とは、以下の神社(神宮)の方向を指します。

氷川神社(埼玉)
上賀茂神社・下鴨神社(京都)
石清水八幡宮(京都)
熱田神宮(愛知)
鹿島神宮(茨城)
香取神宮(千葉)

 

さらに、先帝三代(明治天皇の伏見桃山陵、大正天皇の多摩陵、昭和天皇の武蔵野陵)の各山陵にも拝されるとされています。

 

四方拝は、数ある宮中祭祀の中でも最も重要な祭祀の一つとされ、天皇陛下自らしか行うことはできません。また、巫女の介添えもなく天皇お一人がされる特別の祭祀です。天皇が何かしらの事情で行えない際も御代拝(ごだいはい)(代理人が祭祀を代行すること)は認められません。そのため、天皇の体調が優れないなどの場合、四方拝は中止となります。過去においては、天皇がみこ元服を迎える前は御座だけ作られて四方拝は行われず、また日蝕(にっしょく)や、天皇が喪に服している期間は行われないことが慣例となっているそうです。

 

<四方拝の歴史>

四方拝は平安時代に定着

四方拝は、7世紀中期の飛鳥時代に起源を持つとも言われていますが、史料で確認できる起源は、平安時代の初め、嵯峨天皇の時代まで遡ります。ただし、正月の祭祀として定着したのは宇多天皇の時代とされています。

 

当初は、在来の信仰を土台としつつも、中国的要素が強かったようです。とりわけ、道教、より具体的には陰陽道の影響が濃厚な祭祀でした。その所作は、これまで公開されていませんが、平安時代の儀式書、「内裏儀式(だいりぎしき)」や「江家次第(ごうけしだい)」などには、四方拝の様式が記されています。また、2009年1月3日には、日本テレビ系列で放送された「ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎」でも四方拝について解説されました。その時の放送内容などをまとめました。

 

北斗七星の属星

平安時代以降、四方拝は禁裏御所(現在の京都御所)にある清涼殿の東庭(とうてい)で行われていました。東庭の御座には、畳で3つの座が設けられ、一つは属星(ぞくしょう)を拝し、一つは天地四方の神々を拝し、一つは天皇陵を拝するための座でした。三つの座の北側には燈台と机が置かれていたといいます。机にはお香と花が供えられ、それらを取り囲むように屏風が張り巡らされていた記されています。

 

天皇は、最初の座で「属星(ぞくしょう)」を拝礼します。属星は、年の干支(えと)を、北斗七星の7つの星にそれぞれ割り振ったもので、具体的には次のようになります。

 

貪狼星(どんろうせい)⇒子年(ねずみ)
巨門星(こもんせい)⇒丑年(うし)、亥年(いのしし)
禄存星(ろくそんせい)⇒寅年(とら)、戌年(いぬ)
文曲星(ぶんきょく)⇒卯年(うさぎ)、酉年(とり)
廉貞星(れんていせい)⇒辰年(たつ)、申年(さる)
武曲星(ぶきょくせい)⇒巳年(へび)、未年(ひつじ)
破軍星(はぐんせい)⇒午年(うま)

(令和2年は子年(ねずみ)ですから、今年の属星は「貪狼星(どんろうせい)」といことになる。)

 

御座に着座された天皇は、御笏(みしゃく)(神主が手に持つ白木の板)をおとりになり、北に向かい新年の属星の名字を七回唱えられ、拝礼されます。その作法は、まず正座の姿勢から立ち上がり、腰を折って深々と頭を下げながら正座に戻り、そのまま平伏(へいふく)(両手をつき、頭を地や畳につけて礼をすること)になります。この動作を2回繰り返す「再拝」に続けて、以下のような呪文が唱えられたそうです。

 

賊冦之中過度我身(ぞくこうしちゅうかどがしん)
(賊冦の中、我が身を過し度せよ)

毒魔之中過度我身(どくましちゅうかどがしん)
(毒魔の中、我が身を過し度せよ)

毒氣之中過度我身(どくけしちゅうかどがしん)
(毒氣の中、我が身を過し度せよ)

毀厄之中過度我身(きやくしちゅうかどがしん)
(毀厄の中、我が身を過し度せよ)

五急六害之中過度我身(ごきろくがいしちゅうかどがしん)
(五急六害の中、我が身を過し度せよ)

五兵六舌之中過度我身(ごひょうくぜつしちゅうかどがしん)
(五兵六舌の中、我が身を過し度せよ)

厭魅之中過度我身(えんみじゅそしちゅうかどがしん)
(厭魅の中、我が身を過し度せよ)

百病除癒、所欲随心、急急如律令
(ひゃくびょうじょゆ、しょよくずいしん、きゅうきゅうにょりつりょう)

 

その内容は、賊、毒、危害、病気、苦悩などの排除を祈願するものですが、天皇は「さまざまな国難はわが身を通過しますように」と唱えられています。つまり、この呪文は、さまざまな災いを天皇が一身に受け、国民に向かぬように守りたまえと、国家国民の安泰を祈る厄払い(魔除け)の呪文であると解されています。最後の「急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」は、陰陽道の呪文とされ、四方拝に中国の道教色が反映している好例と言えるでしょう。

 

天地四方の神々

続けて天皇は、二つ目の座で、天と地、四方の神々を遥拝(ようはい)されました。まず北に向かって天を、次に北西に向かって地を再拝されました。そして東・南・西・北の順にそれぞれの方角を拝されました。最後に、天皇が三番目の座で拝礼されるのは、歴代天皇が葬られている天皇陵で、天皇は再拝を2回重ねる「両断再拝」を行って、祭祀は終了したそうです。

 

このように、平安時代の四方拝では、天皇は元旦の早朝に天皇がその年の北斗七星の属星(ぞくしょう)、天と地、四方の神々、山陵(さんりょう)(天皇陵)を拝み、年の災いを祓い、国家・国民の安康、豊作を祈願されたのでした。

 

現在の四方拝

さて、四方拝は、応仁の乱で一時中断されましたが、後土御門天皇の文明7年(1475年)に再興されて孝明天皇に至るまで続き、明治以降は、日本的な内容が取り込まれ、現在の形が確立しました。大きな変化は、何より呪文を唱えなくなり、中国(道教・陰陽道)色が薄くなったことで、儀式の次第も、伊勢神宮の皇大神宮(こうたいじんぐう)(内宮)・豊受大神宮(とようけだいじんぐう)(外宮)の両宮に向かっての拝礼が加えられ、その後、四方の諸神祇等を拝するように改められました。祭祀の場所も遷都に伴い、京都御所の清涼殿の前庭(東庭)から、皇居の神嘉殿になりました。

 

法令面では、四方拝(当時は四方節と呼ばれた)の様式は、明治41(1908)年制定の皇室祭祀令(こうしつさいしれい)で規定され、戦前までは国家行事として行われ、祝祭日の中の四大節の一つでした。終戦後、皇室祭祀令は廃止されましたが、現在の四方拝は天皇の私的な祭祀として、明治時代の作法に準拠して行われ、今も脈々と引き継がれています。

なお、平成24(2007)年には、天皇陛下(現上皇陛下)の年齢と体調を考慮し、代理が懸案されましたが、前述したように、四方拝は代理人が祭祀を行う御代拝を認めていません。したがって、祭祀の場所を、皇居の宮中三殿の西側に付属する神嘉殿南庭に設けられた仮屋から、皇居内のベランダに移して執り行われ、また、天皇のみが着る黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)ではなく、タキシード(モーニングコート)姿という簡略化した形で執り行われていました。しかし、代替わりの2020年の四方拝は、従来通り皇居の神嘉殿にて挙行されました。

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歳旦祭(さいたんさい)

 

実は、現在の四方拝は10分ほどで終わります。陛下は、四方拝の後すぐに宮中三殿に移動され、5時40分から「歳旦祭」という年始の祭典に臨まれます。歳旦祭は、賢所、皇霊殿、神殿の宮中三殿にそれぞれ祀られている皇祖・天照大神や、八百万の神々(天神地祇)、歴代天皇・皇后・皇族の霊(皇霊)に対し拝礼する祭祀です。天皇にとって、いわば「初詣」のようなものと評されています。歳旦祭は、戦前の祝祭日の中の皇室祭祀礼に基づく小祭の一つで、明治時代以降、行なわれるようになり、天皇は国家国民の安寧を祈られます。

 

歳旦祭の次第は、四方拝が始まる同じ時刻(5時30分)、宮中三殿では、掌典長(宮中祭祀の儀礼担当責任者)が主宰し祝詞をあげ、午前5時40分ごろ四方拝を済ませた天皇陛下が拝礼されます。その後、陛下が退室されてから、皇太子(皇嗣)が続いて拝礼します。

 

上皇陛下が天皇であらせられた際、陛下は四方拝の後に拝礼されてきましたが、平成24年から体調への負担を考慮して掌典職(しょうてんしょく)が陛下の代わりに拝礼していました。ただ、代拝になってからも、陛下は御所に戻った後、皇后さまとともに儀式終了までお慎みされていました。

 

なお、伊勢神宮をはじめ、全国の神社においては、皇統の繁栄と、五穀豊穣と国民の加護を祈念する歳旦祭が行われています。

 

 

<参考>

陰陽道とは何か: 日本史を呪縛する神秘の原理

(戸矢学、PHP出版)

「ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎」

(2009年1月3日、日テレ)

四方拝 人の幸せを祈る 困難を過度する

ぼやきくっくり時事ネタぼやきと番組書き起こし

最も重要な宮中祭祀~四方拝~

年間約30回!天皇陛下が守り続ける「祈り」とは何か

(週刊FLASH 2017年1月10日号)

四方拝のやり方・・心の御柱(こころのみはしら)Gooブログ

(2012年11月1日)

天皇にとって1年のうちで最も忙しい日、元日の過ごし方

(Newsポストセブン)

天皇陛下のお正月、ご多忙の元日

(2018年1月1日、産経)

日本人なら知っておきたい皇室

(週刊ダイヤモンド2016年9月17日号特集)