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2019年12月25日

キリスト教:ローマ教皇ってどんな人?

令和最初のクリスマスの日に当たり、キリスト教についてまとめました。ただ、キリスト教の膨大な歴史や複雑な教義など一回の投稿で紹介できるわけはなく、これから何回かに分けてキリスト教について気の赴くままに書いてみます。最初は今年11月、ローマ教皇の来日もあったので、ローマ・カトリックからです。

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カトリック教会と教皇

ローマ・カトリック教会は、信者数約13億人と、キリスト教のなかでは最大で、世界中に教会と修道会があります。文字通り、世界宗教ですが、現在では、信者の半数が近くを中南米で占め、欧州は全信者の約4分の1を占めるに過ぎません。信者の増加率ではアフリカが最も高いとされています。このキリスト教の最大宗派、ローマ・カトリック教会の最高指導者が、ローマ教皇(法王)です。英語ではパパを意味するポープ(Pope)と言います。現在のフランシスコ教皇は第266代目に当たります。ローマ教皇は、「キリスト12使徒」(後述)の筆頭ペテロの後継者で、地上での「キリストの代理人」という位置づけです。

 

また、教皇は、カトリック教会の精神的指導者であると同時に、独立国家バチカン市国(後述)の国家元首でもあります。バチカン市国は世界最小の国家ですが、170以上の国と外交関係を結び、官僚機構も備えています。元首である教皇は政治的な権力も兼ね備えているという言い方も可能です。

 

このように、ローマ教皇は、外交、各教会・修道会、信者の3ルートを通じて、世界の情報を集め、世界的に影響力を行使することができます。各国の首脳と会って直接対話できます。教皇(法王)も、非核化、人権、貧困、移住、環境などグローバルな問題から、パレスチナやスーダンといった地域問題までさまざまな所見を披露し、世界に警鐘を鳴らしています。各国メディアも教皇の言動を報じます。法王発言は、宗教・宗派の違いを超え、国際社会がたえず注目しています。各国の政治家たちがバチカンを訪れ、謁見を望むのはこのためだと言えるでしょう。

 

<法王選出>

では、ローマ教皇はどうやって選ばれるかというと、「コンクラーべ」と呼ばれる法王の選出会議の場で行われる投票で選出されます。投票権を持つのは、世界52ヶ国、120人いるとされる枢機卿のうち80歳未満の者(117人)で、欧州圏と非欧州圏それぞれ半数を占めています。投票は無記名(投票者の名前は書かない)で、(公開されない)秘密選挙です。会場はシスティーナ礼拝堂ですが、外部を完全に遮断し、全体の3分の2を上回る票を得る者が出るまで、毎日昼と夕方の2回投票が繰り返れます。投票用紙は結果が出たらすぐに燃やされますが、礼拝堂の煙突から出る煙の色で投票結果が外部へ伝えられます。白い煙が出たら「決定」、黒い煙なら「未決」を表します。

 

現在の「コンクラーベ」方式による選出は13世紀から行われるようになったと言われています。その時、クレメンス4世の死後(1268年)、新教皇を選出しようとしたのですが、2年以上たっても決まりません。それに業を煮やした市民が会場にカギ(ラテン語でクラーベ)をかけ、パンと水だけを与えて缶詰めして、選出を迫ったという逸話が残されています。

 

<歴代教皇(過去3代)>

ヨハネ・パウロ2世(1978.10~2005.4)

共産圏のポーランド出身で初の教皇に選出、455年ぶりの非イタリアの法王が誕生しました。逆の言い方をすれば、ヨハネ・パウロ2世まで450年間、ローマ教皇はイタリア人であったということになります。在任中、ポーランドはワレサ議長率いる「連帯」による民主化運動が進み、東欧改革の先駆けとなり、法王は冷戦崩壊の精神的支柱になったと言えます。ヨハネ・パウロ2世は、在任中の27年間に129カ国以上の海外訪問を精力的に行った「空飛ぶ教皇」との異名をとりました。その外遊の目的は、諸宗教との対話と和解でした。

 

  1. 6 共産政権下のポーランドに里帰り、自主労組「連帯」発足を促す。
  2. 2 広島、長崎を訪問。
  3. 5 バチカンのサンピエトロ広場で暗殺未遂
  4. 5 英国国教会を訪れ、約450年ぶりに和解
  5. 7 バチカン、ポーランドと外交関係回復。以後、次々と旧東側諸国とも。

1989.12 マルタ会談の前日にソ連のゴルバチョフ最高会議議長と会談。

  1. 3 バチカン、ソ連と外交関係樹立
  2. 1 キューバ訪問

 

  1. 3 中東の聖地巡礼、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ自治区を歴訪

十字軍、異端審問、反ユダヤ主義など過去の教会の罪(過ち)を事実上謝罪

 

  1. 5 キリスト教会の1054年の東西分裂以来、初めてギリシャを訪問。

十字軍の迫害などについて「カトリック信徒は正教徒に対して罪を犯した」と謝罪

 

2001  シリア訪問、ローマ法王として初めてモスクに入る

  1. 4 死去

 

ベネディクト16世(2005.4~2013.2)

ドイツ出身の保守派で、キリスト教の保守的な価値観を重視し、同性愛や人工中絶などに強く反対してきた。学者肌の教皇として有名。

 

2006.11 トルコ訪問

東方正教会であるコンスタンチノープル総主教庁のバルトロメオス総主教が法王を招待。歴代法王として2人目のイスラム教モスク訪問(イスタンブール)。

 

2007.3  プーチンロシア大統領と初会談

 

2013.2.28 生前退位

ベネディクト16世(85)は、高齢により体力が衰え、職務遂行が困難になったことが理由に退位しました。在位は8年でした。法王の地位は絶対で、罷免は許されず、終身制が原則とされてきたため、存命中の退位は中世以来598年ぶりのこととなりました。ベネディクト16世は、バチカンの小さな修道院に移り、「名誉法王」となります。

 

法王は就任後の5年間、イスラム教の聖戦(ジハード)への否定的発言や、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を疑問視した司教の破門解除などで批判を受け、前教皇の意思を受けついだ「諸宗教との対話と和解」は後退したとの見方もでていました。

 

生前退位したローマ教皇

1294年のセレスティン(ケレスティヌス)5世

不本意に法王に祭り上げられたことに抵抗し、在位5カ月で退位しました。

 

1415年のグレゴリオ12世

当時、複数の法王が併存し、分裂した教会を統一するために、退位に追い込まれたとされています。

 

 

フランシスコ1世(2013.3~)

 

アルゼンチン人でブエノスアイレス大司教のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(76)が選出、第266代目のローマ法王、フランチェスコ1世(フランシスコ)が誕生しました。伝統を誇る欧州以外から法王が選ばれるのは約1300年ぶり(8世紀以来初めて)で、初の中南米出身の教皇が誕生しました。

 

世界に13億人いるカトリック教徒の4割以上が中南米の信者で、その数は5億人を超え、世界全体の半数に迫る勢いです。例えば、ブラジルとメキシコには合計2億2000万人以上のカトリック教徒がおり、フランシスコ教皇のアルゼンチンでも、人口約4000万人の90%以上がカトリック信者が占めています。

 

本家本元の西欧ではカトリックが停滞している一方、南米やアフリカは信者の増加で貢献度が高く、地元出身の法王選出を希望する声が高まっていたと言われています。このような状況を反映して、今回初めて南米のアルゼンチンからの教皇誕生となったのかもしれません。ただし、フランシスコ教皇は、アルゼンチン人と言っても、イタリア系移民2世であり、白人です。白人ではない教皇の誕生というわけではなかったのです。

 

一方、フランシスコ教皇のもう一つの顔は、彼がイエズス会員としての顔です。ベルゴリオ枢機卿が法王名に「フランシスコ」を選択したので、13世紀のアッシジの聖フランチェスコにちなんだと思われましたが、本人はフランシスコ会出身ではなく、日本でもお馴染みのイエズス会出身だったのです。そして、フランシスコ教皇は、イエズス会出身としては初の教皇です。

 

イエズス会

イエズス会といえば、16世紀、日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの名前で日本人にもなじみ深いですね(ザビエルはイエズス会の創設メンバーの1人)。イエズス会そのものは、イグナティウス・デ・ロヨラが創設し、「戦闘的騎士団」として、アジアへの布教を推進してきた修道会です。

 

新たな修道会創設のきっかけは、1513年3月に就任したレオ10世は、教会の財源として免罪符を大々的に売り出し、これを批判したルターが宗教改革を起こしたことでした。ルター派やその後にカルバン派は結果的にプロテスタントとして、カトリック教会から分離します。ルターやカルバンとは逆に、カトリック教会の内側からの改革を目指したのがイエズス会でした(これは反宗教改革と呼ばれる)。

 

ちなみに、ヨハネ・パウロ2世が、イエズス会を毛嫌いしていたことは有名です。1960年代後半、カトリック教会内で、「キリスト教は貧しい人々の解放のための宗教である」とみなす「解放の神学」が中南米を中心にして支持を広げ、しかも共産主義に接近しました。この運動を支えたのがイエズス会だったのです。共産圏のポーランド出身で「反共」のヨハネ・パウロ2世にとっては相いれないものであったのかもしれません。

 

さて、フランシスコ教皇は、穏健派な保守派として知られています。近年、カトリック教会にあって、キリスト教の原理的な教義を重んじる保守派と、現代社会に即した対応を促すリベラル派の対立があるとされています。そこで、フランシスコ教皇がいかに両者にバランスよく対応できるかが注目されています。

 

 

2019年12月19日

伝承:沖縄「神の島」 久高島の神話

前回まで、記紀(古事記・日本書記)には出てこない神様で、記紀編纂の時代よりはるか昔から信仰されていた民間伝承の神々であるミシャグチやアラハバキを紹介してきました。今回は沖縄の民間伝承の神さまに注目してみました。「神の島」と言われる久高島(南城市)で、神聖な場所に無断で立ち入ったりする心無い旅行者が増えているとの報道がきっけでした。

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アマミキヨと久高島

 

琉球の神話によれば、今から遡ること数千百年前、天にある最高神、日の大神が、琉球を神の住むべき霊所であると認め、アマミキヨという神さまに、島づくり国づくりを命じました。これを受けて、アマミキヨが、東の果てにある天上の神の世界、ニライカナイ(ニラーハラー)から、琉球の地に降り立ち、沖縄諸島を創りました。それゆえに、アマミキヨ(別名、アマミヤ、アマミヤハンジャナシー)は、沖縄の人々から、琉球民族の祖霊神、創世神、開闢の神などと呼ばれています。

 

このアマミキヨが、異界から最初に降り立った場所が、沖縄本島の南東に位置する久高島(くだかじま)でした。より正確には、久高島北端のカベール岬に降り立ったとされ、この時、海の彼方から白馬の姿で降臨したとも言われています。また、久高島には、アマミキヨが腰かけたという石も伝承されています。

 

琉球の神話では、久高島の創生の様子を次のようにも描いています。

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その頃の島はまだ波に洗われる状態で、アマミキヨは持って来たシマグシナーという棒をそこに立て、天の神に頼んで天から土、石、草、木を降ろしてもらい、それで土地が大きくなって久高島ができた。

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この島建てに使ったとされる棒(シマグシナー)は、今でも久高島の旧家で島の始祖家の一つとされるイチャリ小(イチャリグヮー)に残っており、この家系がシマグシナーを祀り、その拝所を管理しているとされています。

 

さて、アマミキヨは、久高島を皮切りに、沖縄の島々をつくりますが、その過程で御嶽(うたき)という神が降臨したり、先祖神を祀るなどの祭祀を行う施設を9箇所作ったと言われています。しかし、現在はその中の7箇所が、琉球開闢(かいびゃく)七御嶽(うたき)として確認されています。

 

フボー御嶽

その琉球七御嶽のなかでも、久高島の中央の西側にある、フボー御嶽(クボー御嶽)は、久高島はもとより沖縄県内でも第一の聖域、最も神聖な御嶽として位置づけられています。フボー御嶽がどれほど神聖かというと、そこは、ノロ(神女または祝女)という女性祭司がイザイホーという秘祭の時にのみ立ち入ることが許される場所で、男子禁制でした。しかも現在、イザイホーが途絶えたことにより(後述)、今は誰も立ち入ることができない場所なのです。

 

琉球王朝の時代に、王国最高位の女性神官「聞得大君(きこえおおきみ)」を頂点とした「祝女(ノロ)」による神女組織が確立していました。ノロ(祝女)(ヌル)とは、琉球の信仰における女性の祭司(神官、巫かんなぎ)で、地域の祭祀を取りしきり、御嶽(うたき)を管理します。久高島には、久高家と外間(ほかま)家の2つの巫女集団がいて、組織化、系列化されています。

 

久高島では、12年に一度行われる秘祭イザイホーを頂点に、現代まで年に二十数回の祭祀が続けられています。イザイホーは、久高島で生まれ育った30歳から41(42)歳までの既婚女性が神女(神職者)となるための誕生(就任)儀礼で、12年に一度の午(うま)年の旧暦11月15日の満月の日からの5(6)日間行われました。

 

祭祀を通じて、その女性は、神(アマミキヨ)の声を聞き、先祖の霊と交流して神霊を受け継ぐとされています。新たにノロ(神女)になると(新入りの神女をナンチュという)、久高島では一人前の女性として認められ、神がかりして、祖霊と一体となり、祈りの力で、家族、とくに海に出ている男たちを加護する神的な力を得るとされています。

 

イザイホーは、かつては秘祭とされていましたが、1966年1978年の祭祀では島外からの取材、撮影が許されたことから全国的に有名になりました。ただし、1990年に行われるはずであったイザイホーは、新しく神女となる女性がおらず、また儀式を熟知していた久高ノロの補佐役であった西銘シズという方が亡くなり、実施することができませんでした。この状況は変わらず、2002年、2014年とイザイホーは行われていません。

 

イシキ浜

一方、久高島には、クボー御嶽(フボー御嶽)だけでなく、島の中央部の東海岸にあるイシキ浜という琉球七御嶽(うたき)の一つに数えられる聖地があります。浜への入口に御嶽(うたき)があり、そのあたりは遊泳禁止となっています。

 

イシキ浜には、麦や粟などの種子が入った五穀の壷が流れてきて、それから久高島、沖縄本島へと穀物が広まったとされる伝説があります(島の伝承では流れ着いたのは壷ではなく瓢箪という説もある)。イシキ浜は、琉球の農業がから始まった五穀発祥の地として、聖地化されているのです。

 

さらに、この浜は、今も海の彼方の異界ニライカナイに面する聖地で、穀物もニライカナイからもたらされたとして、現在も感謝の祈りを捧げる祭祀が行われています。琉球時代の「麦の穂祭り」など多くの五穀発祥にまつわる祭祀が年中行事として現在も残っているそうです。

 

このように、創生神・祖霊神アマミキヨが、天上のニライカナイ最初に降り立った久高島には、フボー御嶽やイシキ浜などの聖地が散在しており、古来から、神の島、神聖な土地、異界との窓口(ニライカナイに繋がる入り口)、五穀豊穣をもたらす島などと崇められています。

 

斎場御嶽

琉球王朝の時代、「神の島」久高島は直轄領として島民の税は免除されており、国王も本島から久高島に巡礼をする習わしがありました。もっとも、国王の巡礼先は、久高島から、後に沖縄本島にある斎場御嶽(せいふぁーうたき)に変わりました(斎場御嶽も琉球七御嶽の一つ)。

 

なぜ、斎場御嶽になったのかと言えば、もちろん、琉球神話の源である神アマミキヨが創った沖縄本島最高の聖地とみなされていたからですが、それだけではなく、そこが久高島からの霊力(セジ)を最も集める場所であると信じられていたからです。

 

人造り神話

久高島から北に位置する浜比嘉島(はまひがじま)も、神が降臨した聖地、「神の住む島」と言われています。浜比嘉島に伝わる神話では、天上のニライカナイから、アマミキヨだけでななく、シネリキヨという男女神が降りてきたとされます。アマミキヨとシネリキヨは、古事記のイザナギとイザナミに当たり、二神は子を授かって洞窟に暮らしたと伝えられています(その子孫が人間として繁栄した)。洞窟はシルミチュー霊場として祀られています。

 

さて、久高島に伝わる人造りに関する伝承では、異界ニライカナイから降りてきたアマミキヨは島々をつくると、そこに一組の男女を住まわせ、二人の間からは三男二女が生まれたとあります。

 

その後、久高島の対岸にある百名(ひゃくな)から、兄と妹が船で島にやってきました。そして島の南に有る徳仁(とくじん)という港で寝る場所を七回変えて漁をしながら暮らしていたそうです。最終的に、二人は、島の始祖家のひとつであるガルガナー家に世話になることになりました。この二人とガルガナー家の間にできた子ども達が現在の久高島の人達の始祖とされています。

 

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このように、神話と伝承の神秘に満ちた久高島をはじめとする沖縄諸島、訪れる際にはマナーと守ると同時に、事前にそこの伝統文化を学んでおくべきですね。

 

 

<参考>

神の島・久高島 沖縄観光・沖縄情報IMA

アマミキヨが降り立った海の中に建つ聖地「ヤハラヅカサ」

久高島 アマミキヨの流れ着いた島

歴史と神話 沖縄まるわかり 沖縄観光情報WEBサイト・おきなわ

おきなわ物語:久高島 ガイドツアーと行くアマミキヨコース

神の波動を感じて生きる久高島ノロ(BIGLOBE)

Wikipediaなど

 

2019年12月17日

伝承:アラハバキという神さまについて

先日、ミシャグジ(ミシャグチ、ミサクチ)という、記紀(古事記・日本書記)の時代よりはるか昔から諏訪を中心に東日本で信仰されてきた土着の神さまを紹介しました(モリヤ神とミシャグジ神)。そのミシャグジ神と同様に、記紀以前に東北地方を中心に信仰されていたアラハバキという神さまがいます
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アラハバキとは、東北地方を中心に古くから庶民の間で信仰されてきた民間伝承の神様です。どれほど古くから信仰されていたかというのも定かではありませんが、「日本書紀」、「古事記」に登場しないことから記紀以前の土着(どちゃく)の神であり、また、出雲の神よりもさらに古い時代からその土地で信仰の対象となっていた地主神でした。ただし、歴史的経緯や信憑性については諸説あります。

 

<東日流外三郡誌>
アラハバキという神様が話題になったのは、「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」という文書が、1970年代後半に村史として発表されてからです。この文書は、現在の青森県五所川原市にある個人宅から発見されました。そこには、アラハバキの信仰に関する古代の東北地方の歴史が書かれて、その分量は数百冊にも及んでいました。主な内容を次のようにまとめられます。

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当時、ヤマト政権(大和朝廷)は、関東から北に住む人々を蝦夷(えみし・えぞ)と呼び、たびたび反乱を起こしたとして討伐の対象とみなしていた。中央政府は坂上田村麻呂を派遣し蝦夷を平定した。ヤマトとの戦いに敗れ、東北の北の地に追いやられた蝦夷たちだったが、荒羽吐(荒覇吐)(アラハバキ)という一族の統治の下、アラハバキに対する信仰は守り続けた。その結果、この地域には、独自の津軽文明が築かれた。
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アラハバキを、大和朝廷に追われた人々が信仰する神として描いた東日流外三郡誌は、1970年代に巻き起こったオカルトブームにも乗って話題となり、新聞やテレビでも新たな発見として取り上げられました。地元の青森でも、公共の観光案内に利用された程でした。

 

しかし、この「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」の真偽を巡って一大論争が巻き起き、1999年に行われた調査の結果、発見者が作成した「偽書」との結論に至ってしまいました。それでも、この文書を「真書」であると主張する研究者や著名人は今も多く残っています。

 

もっとも、羽吐(荒覇吐)一族が存在せず、古代に東北に津軽文明がなかったとしても、太古からアラハバキという東北地方で信仰の対象となっていた地主神・土着神が、人々の信仰の対象になっていたということは間違いないと思われます。実際、アラハバキを祀る神社は、宮城県多賀城市の荒脛巾(アラハバキ)神社をはじめ東北地方を中心に全国にあるとされています。「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」の偽書という負のイメージはありますが、謎に包まれたアラハバキの実像の理解の助けになるのであれば、この文書に書かれている中身の一部や、昔から語られてきた諸説を参考にして、アラハバキの実像に近づいてみたいと思います。

 

<アラハバキの実相>
アラハバキの姿は、縄文時代の遮光器土偶(しゃこうきどぐう)(土偶=土人形)と信じられています。遮光器土偶とは、縄文時代につくられた土偶の一タイプで、一般に「土偶」といえばこの型のものが連想されています。青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡で出土され(つがる市は、東日流外三郡誌発見の地)、重要文化財に指定されています。亀ヶ岡遺跡から出土した土偶が、それまでのアラハバキのイメージとぴったりだったことから、遮光器土偶はアラハバキを模していると解されるようになりました。

 

なお、遮光器土偶という名称は、頭部に見られる大きなゴーグルのようなものが、雪から目を守る遮光器に似ていることから、そう呼ばれるようになったそうです。実際は、ゴーグルのようなものは目を強調していると解されています。

 

<謎の神・アラハバキ>
アラハバキという神名に漢字をあてると、荒脛巾・荒覇吐・阿羅波比・顕波波木・阿良波々岐などさまざまに表記され、それぞれに意味があり、アラハバキはいまだに謎の多い神です。アラハバキは次のような性質をもつとされています。

 

■ 足腰の神
荒脛巾(あらはばき)の脛巾(はばき)とは、脛(すね)に巻く脚絆(きゃはん)のようなものを意味することから、足の神、旅人の神、さらには下半身の神として祀られています。広義には道端に祀られている道祖神として、旅の安全のみならず子孫繁栄を主とした村の守り神として信仰されていました。その際、脚絆、靴、さらには男性器(男根)などをかたどったものが奉納されることがあるそうです。

 

■ 塞の神
塞(さい)の神とは、境界を守る神、すなわち悪霊や疫病などが他の地域から侵入するのを防ぐ神のことで、道祖神と同じように国境・県境な境界に祀られる神です。ミシャグジ(チ)も塞の神と見られていましたね。土着の神には共通の特徴があるのかもしれません。

 

■ 蛇神
「アラハバキ蛇神」説は、アラハバキという名前が蛇神を表しているということからきています。蛇の古語は「ハハ」であり、「ハハキ(⇒ハバキ)」は「蛇木」を指し、波波木(ハハキ)神が顕れることから、顕波波木(アラハバキ)となると解釈されています。実際、アラハバキを祭る神社では、蛇になぞらえた幹が直立した木で、祭事が行われているそうです。日本では古くから蛇を神として祀ってきました。アラハバキもこうした背景から、蛇神と同一の神だと説かれています。

 

■ 製鉄の神
「アラハバキ製鉄の神」説は、アラハバキを祀った神社の近くには砂金や砂鉄の産地が多いことがその背景にあります。実際、前述した宮城県多賀城市の荒脛巾(アラハバキ)神社の北方に砂鉄の産地があったと言われています。また、アラハバキを祀る神社には多くのハサミが奉納されているそうです。

 

■ 女神
アラハバキが女神であるという見方は、「アラハバキ」は、もともと、アイヌの古語で女性器を表す言葉だったことからきています。アラハバキを形作ったされる遮光器土偶(しゃこうきどぐう)の凹凸も乳房や臀部など女性の体形を強調したもの解されています。実際、アラハバキは、アイヌの古語で男性器を表すクナトと一対の夫婦神として祀られていたそうです。

 

■ 客人神
客人神とは、人間社会でいう客人のように、外界からきた来訪神(らいほうしん)という位置づけで、土地の神(土着神・地主神)から招き入れられて、定住するようになった神さまです。神社の神格では、主神に対してほぼ対等か、やや低い地位とされています。

 

この説にたてば、外来の神アラハバキ神は、どの土着神から招き入れられ、祀られるようになったのでしょうか?それは出雲の神となります。しかし、アラハバキ信仰の観点から言えば、アラハバキ神は、外部からの来訪者である客人神ではなく、もともとの地主神です。つまり、客人神と地主神の主客転倒が起きているのです。この現象は、アラハバキを祀る神社ではしばしば見られる現象と言われ、例えば、(出雲系の地主神を祀るとされる)埼玉県大宮の氷川神社内には、門客人(もんきゃくじん)神社と呼ばれる摂社(神社本社とは別にある小規模な神社)があり、その神社は江戸時代まで、荒脛巾(アラハバキ)神社と呼ばれていたそうです。外部からの来訪者であった「客人神=出雲の神」が、もともとの「地主神=アラハバキ」と主客転倒したとみられています。

 

なぜ、主客転倒が起きたかと言えば、それは記紀の神話観に基づくものと解されます。ヤマト政権(大和朝廷)は、その支配を確立するために、縄文時代より人々の間で信仰されてきた神の存在を封印、あるいは国津神として出雲の神々に統合したという説があります。アラハバキも封印・統合され、出雲の神の客人神扱いされたとみることができます。

 

さらに、アラハバキ信仰の立場から極論すれば、記紀(古事記・日本書記)を日本の歴史書の正史とした、天武・持統朝に、歴史の改ざんが行われた(記紀の編者たちが張本人)という見方も可能です。もっとも、これが事実としても時の支配者が批判されるべきでありません。なぜなら、歴史というのは、常に時の勝者の目線で書かれるものだからです。ただし、記紀に示された内容が、神話とはいえ、絶対的なものではないと理解しておくことは、歴史を見る目を養うために重要なことだと思われます。

 

<参照>
日本神道:アラハバキとは?
アラハバキ・民間信仰/日本の神様辞典)
客人神(まろうどがみ)/日本の神々の話
Wikipediaなど

2019年12月11日

伝承:諏訪明神と安曇氏とのつながり

諏訪大社に祀られている諏訪明神(タケミナカタノカミ)は、海洋民だったアズミ(安曇、阿曇)氏とつながりがあるとの見方があります。内陸に位置する諏訪の神と海の民がどう関係しているのでしょうか?

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安曇氏とは?

アズミ(安曇)という氏族は、弥生時代のころ、北九州周辺にいたとされています。彼らの発祥地とされているのが、福岡県の中でも、玄海灘に臨む交通の要所として、聖域視されていた志賀島です。その博多湾の志賀島に鎮座しているのが、志賀海神社(しかうみじんじゃ)で、元寇の役など国難の際には神威を示しめしてきたとされています。また、同社は、海神を祭る神社の総本宮となっており、神職は今も阿曇(=安曇)氏が受け継いでいます。また、志賀島と言えば、古代史では、漢委奴国王の金印が発見されたことで有名ですね。安曇族の主要拠点で、そういうものが見つかったわけですから、安曇氏が重要な一族であった事が示唆されます。

 

安曇族は、主に海上を活動を拠点とする人たちで、すぐれた航海術と稲作技術を持っていたとされています。当時北九州には、大陸から渡って来た人たちが大勢いたと言われていますが、その中心が安曇氏で、他にも宗像氏、海部氏、住吉氏などの氏族の名前が知られています。安曇氏が、古代の海人(あま)族の中でも最も有力な氏族であったようです。そういう安曇族ですので、彼らは、神武天皇以前の親族に対して朝廷から与えられた称号である連(むらじ)の姓(かばね)を持っていました(それゆえに安曇連とも呼ばれた)。

 

安曇氏の移動

そんな安曇族も、6世紀の中ごろ、理由は定かではありませんが、北九州の本拠から、全国各地に散らばりました。もっとも一説によれば、安曇氏と同じく北九州に拠点をおく豪族の筑紫君磐井(つくしのきみいわい)と大和朝廷と争った磐井の乱(527~528年)が原因という説があります。この乱で、安曇氏は敗者側の磐井に与したため本拠地を失い、各地に移住することになったというのです。

 

さて、彼らの移動先は、北九州、鳥取、大阪、京都、滋賀、愛知、岐阜、群馬、長野と広範囲にわたっており、文字通りなら安曇、阿曇、渥美(あずみ)、字は異なりますが、厚見(あつみ)、安曇(あど)、安土(あど)、安堂(あどう)、会見(おおみ)など地名としての「痕跡」がいくつも残されています。現代でも、次のように、日本各地に安曇の異字同意の文字を持つ場所があります。

 

長野県の安曇野市、

岐阜県の厚見郡(現在の岐阜市)

愛知県の渥美半島

滋賀県の安曇川(あどがわ)

静岡県の熱海市

 

このように、安曇族の移住先の一つが、長野県の安曇野(松本市や大町市周辺)地域であったのです。そんな安曇族が、どのようなルートで、この地にたどり着いたのかについては、以下のような説があります。

 

  1. 北九州から、日本海を経て、新潟県糸魚川市付近にたどり着き、そこを流れる姫川を遡っていったという北陸道説
  2. 北九州から瀬戸内海、大阪の安曇江(東横堀の旧名)を経由したという東山道説
  3. 北九州から瀬戸内海から渥美半島(安曇族の開拓地)へ達した後、天竜川を上った天竜川筋説

 

では、今回のテーマである、出雲神話に登場する諏訪明神(タケミナカタノカミ)と、海洋民アズミ(安曇、阿曇)氏との関係を探るために、安曇氏の出所を、さらに神話の世界に遡ってみたいと思います。

 

安曇氏の祖先神

古事記には安曇族の祖先神は「綿津見命(わだつみのみこと)」とその子の「穂高見命(ほたかみのみこと)」であると書かれています。実際、穂高見神は、その名の通り、安曇野市に創建された穂高神社に祭られています。そもそも、「穂高」という町も安曇族の祖先神、穂高見命が地名となっています。また、穂高神社で、毎年9月に開かれる御船祭(みふねまつり)には、船型の山車が登場します。山々に囲まれた穂高で海の祭りが行われるのは、やはり安曇野を拓いた海洋族の安曇氏を偲んでのことだと言われています。

 

一方、穂高見命の父、綿津見神(わたつみ)は、伊邪那岐(いざなぎ)神から生まれたとされています。神話において、伊邪那美の死後黄泉(よみ)の国から帰った伊邪那岐が、禊(みそぎ)をした後、天照大神、素戔嗚、月読命とともに生まれています。しかし、この神話や系図は、古事記や日本書紀の編者の「創作」とする見方があり、この立場に立てば、綿津見は日本古来の神ではなく、海を渡って来た渡来神とされています。では、綿津見(わたつみ)とはどういう神様なのでしょうか?

 

海神:わたつみ(綿津見)

福岡県の博多湾周辺に「わたつみ(綿津見)」と呼ばれる海洋民族がいたそうです。中国の後漢書によれば、後年ここには奴という国があり、その王が漢の光武帝から漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)の金印を拝受しました。前述したように、その場所は福岡の志賀島、即ち安曇氏の発祥の地であり、主要拠点です。つまり、「わたつみ(綿津見)」と呼ばれる海洋民族とは、安曇氏のことではないかと推察されます。

 

「わたつみ(綿津見)」の「わた」は「海」、「つ」は「の」、「み」は「神」を意味する古語なので、わたつみは「海の神」と解されています。また「つみ」とは「住む」という意味もあるそうです。そうすると、「わたつみ」は「海に住む神」で、その子孫(安曇族)は海洋族(海人族)となるのですね。では、「わたつみ(綿津見)神」は、外来神と言われているということは、彼ら海人族は、どこの地から海を渡り日本に来たのかといえば中国大陸の南方からと見られています。そうすると、わたつみ(綿津見)神は、大陸の南方系の神、即ち揚子江の南(江南の地)の神となります。

 

江南からの渡来人

江南の地は、紀元前4世紀ごろ、楚・越・呉の三国がありました。「楚(そ)」は、江南の地からやや内陸側、現在の湖北・湖南省あたりを治め、「越(えつ)」は、長江の河口付近、浙江省あたりを、「呉(ご)」は越の北をそれぞれ支配していました(彼らは百越と総称される)。

 

当時、この三国は互いに戦いを繰り広げた、結局、呉は越に滅ぼされ、越は楚に滅ぼされました(紀元前334年)。越の滅亡後、楚の支配を嫌った人々は、脱出し、朝鮮半島や北九州にたどり着いたとされています。さらには、現在の山陰(出雲)や北陸地方にも到着したと見られています。北陸には、かつて福井県から山形県にかけて「越国(コシの国)」という国がありました(その後、越前・越中・越後と分割された)が、越人が渡来したことが地名にも反映しています。なお、楚、呉、越の3国は、日本にはなじみ深く、楚は「四面楚歌」、呉と越は「呉越同舟」の故事で知られています。また、「呉服」とは、呉の機織の方法が日本にも伝わり、その織物で作った服のことを言います。

 

いずれにしても、紀元前4世紀ごろ、越人(あるいは百越の人々)が、日本に大量にやってきたと解されます。越人(百越人)以外にも、中国東北部の旧満州地区にいたツングースという民族(女真、扶余、契丹、粛慎などの部族に分かれる)も、北九州方面に渡来していました。ただし、綿津見さらには安曇族はツングース系ではなく南方系とされています。

 

一方、現在の島根県東部には、いつ頃かは不明なようですが、出雲族と呼ばれる人たちがいました。一説には、彼らも渡来系で、ツングース系または越人だった言われているのです。もし、越だとしたら安曇氏と出雲氏は同族ということになります。

 

記紀に基づく出雲神話では、国譲りを迫った天照大神の使者、建御雷神(たけみかづち)に対して、大国主神は二人いた息子の一人、事代主神(ことしろぬし)に決定を委ねます。事代主はこれに応じ、呪文のような所作をした後、波間に消えます。これに対して、もう一人のもう一人の息子の建御名方(たけみなかた)は反対し、建御雷神(たけみかづち)と力比べを挑みますが、簡単に破れて逃げだします。信濃国(長野県)まで逃げた建御名方(たけみなかた)は、その地を出ないという条件で助命された・・・・という話しになっています。建御雷神と建御名方神の力比べは相撲の発祥とされ、諏訪に逃げた建御名方(たけみなかた)を祭る社が現在の諏訪神社であると説明されています。

 

この神話の世界が、史実を象徴的に表現されたものとするなら、次のように解されています。

 

出雲地方は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の支配下にあり、奈良の三輪山当たりまで及ぶ勢力を誇っていました。しかし、そこに奈良盆地に興った「ヤマト(大和)」勢力が周辺諸国と戦いながら勢力を広げ、やがて出雲と対立するようになり、ヤマト側は、建御雷神(たけみかづち)という将軍を派遣・・・・。つまり、建御雷神(たけみかづち)と建御名方(たけみなかた)の力比べは両国の戦争ということになりますね。敗れた出雲側の建御名方(たけみなかた)は諏訪まで敗走、事代主神(ことしろぬし)は自害、大国主は幽閉されたということなのでしょうか?

 

また、出雲の人々も、「ヤマト」の支配を嫌い、出雲を逃げ出し、建御名方のように信濃国に留まった人もいれば、さらに北上し、秋田や青森など東北地方に行きついたという見方もあります。出雲と東北は言語(方言)や信仰、文化の面で多くの共通点があるそうです。

 

■タケミナカタは安曇族か?

安曇族が、信濃の安曇野にたどり着くために、新潟県糸魚川市を流れる姫川をさかのぼったという説を紹介しましたが、建御名方命も安曇族も同じように姫川をさかのぼって信濃国に逃げたという見方もあります。さらには、建御名方の出雲から信濃への逃走は、そもそも姫川を遡った安曇族の移動のことを示しているという極論すらあります。その際、安曇族は安曇野にとどまりましたが、建御名方は諏訪湖まで逃げたと解釈されます。

 

いずれにしても、「諏訪に逃げてきた建御名方神(たけみなかた)」という表現は、出雲神話に基づくものであって、これを信濃の神話の観点からは、出雲から建御名方神が信濃に侵攻してきたのであり、これを迎え撃ったのが土着のモリヤ神ということになります。(⇒モリヤ神とミシャグジ神

 

現在、このモリヤ神との戦いに勝った建御名方神は、諏訪大社上社本宮で祀られています。また、諏訪神社上社前宮と下社の祭神である八坂刀売神(やさかとめのかみ)は、建御名方神の妃であり、安曇族の祖先神わたつみ(綿津見)の娘とされています。果たして、建御名方神(たけみなかた)は、中国南方系の渡来神、わたつみの子孫である安曇(あずみ)族の流れをくむ神様なのでしょうか?歴史と同様に神話もロマンです。個人的には安曇氏に対する関心がさらに高まってきました。

 

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付記

最後に、次のような伝承があることを紹介して今回は終わりにしたいと思います。

 

建御名方神(たけみなかた)は、わたつみ神の移動で「越の国」に定住し、越国から信濃に攻め込んできたというものです。ただし、信濃に侵攻したのは、建御雷神(たけみかづち)との戦いに敗れたからなのか、それとも別の理由からなのか、そもそも建御名方神(たけみなかた)は、大国主の子なのかなどの疑問が残ります。

 

しかし、いずれにしても、この伝承の立場に立てば、出雲の稲佐浜での建御雷神(たけみかづち)と建御名方神(たけみなかた)の力比べで、建御雷神が完勝したという神話は、記紀の編者によるヤマトの支配を正当化するための「創作」という可能性もでてきます。神話の世界では、建御雷神はその名の通り雷神という自然の神であるのに対して、建御名方神は武人であり実在神という位置づけです。そうなると、自然の神(雷)が、実在の神(人)と戦うことはないと指摘する向きもあります。

 

<参考>

諏訪の神様ってどんな神様?(matchy)

パワースポット諏訪大社のご利益(日本の観光地・宿)

安曇族の謎(明神館)

関東農政局(HP)

ウィキペディア(artwiki)など

2019年12月07日

伝承:諏訪大社「御頭祭」は旧約聖書の再現か?

本HP「レムリア」右欄の「日本の祭り」に、「諏訪の祭り」をアップしました。諏訪大社の祭りと言えば、「御柱祭(おんばしらさい)」を思い浮かべる人のほうが多いと思われますが、かつては、「御柱祭」とともに、「御頭祭(おんとうさい)」も盛大に行われ、むしろ、「御頭祭」の方が、諏訪大社で最も重んじられていた祭りであったそうです。御頭祭では、鹿をはじめとして動物が生贄として供えられていますが、基本的に、日本にはない生贄という風習が、なぜ御頭祭では行われていたのか興味が沸いてきました。そこで、今回、諏訪神社の御頭祭(おんとうさい)について、さらに調べてみると、驚きの仮説がありました。

 

また、本投稿記事の理解のために、以下の過去の投稿記事も読まれるとさらに理解を深めることができると思います。

神社:諏訪大社と住吉大社

伝承:モリヤ神とミシャグジ神

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聖書の創世記に、アブラハムが神の命令を受けて、ひとり子「イサク」を捧げようとしたという物語があるのをご存知の方もいるでしょう。このイサク伝承が、諏訪大社に伝わり、「御頭祭(おんとうさい)」で再現されていると指摘があります。ではまず、創世記(22章)に書かれたイサクの話しを確認してみましょう。

 

イサク奉献の伝承

神はアブラハムに、愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、そこでイサクを「全焼のいけにえ」として捧げよ、と命じられた。アブラハムは、苦悩したが、結局その命令に従い、モリヤの地に向かった。そこに着くと、アブラハムはイサクを縛り、たきぎの上に横たえ、小刀を振り下ろそうとした時、主の使いが、彼の手を止められます。神はイサクの信仰の深さを試されたのでした。また、神はアブラハムに、近くの「やぶに角をひっかけている一頭の雄羊」を示された。アブラハムはその雄羊を、イサクの代わりに、全焼のいけにえとして捧げた。こののち、神はアブラハムを祝福し、ひとり子イサクを通してその子孫は繁栄しました・・・。

 

では、諏訪大社の「御頭祭」とはどういうお祭り(神事)であったのか復習してみましょう。(御頭祭を含む諏訪大社の祭りについては「諏訪の祭り」を参照

 

御頭祭(おんとうさい)

御頭祭は、かつて、諏訪大明神の子孫(生き神)とされる「大祝(おおほおり)」が神事を行い、大祝の代理として、「神の使い」としての役割を持った「神使(おこう)」と呼ばれる選ばれし童子が、信濃国中を巡って豊作祈願するために大社を出立するという形式で行われたとされています。

 

しかし、御頭祭の様式は時代ととも変遷を遂げており、さらに古い時代の儀式では、「おこう(神使)(御神)」は、「生け贄」のために、鹿肉が大量に串刺しにされた「御贄柱(おにえばしら)」と呼ばれる柱に縛りつけられたそうです。そして、人々が「おこう(神使)」を柱ごと、竹のむしろの上に押し上げると、小刀が登場します。そして、神官が御子をその小刀で刺そうとした瞬間、馬に乗った諏訪の国司の使者や御贄柱を肩にかついだ神官が現れて、御子は解放されます。この「おこう」の風習は、今日の御頭祭ではもう見られなくなりましたが、江戸時代頃まではあったそうです。

 

そうすると、童子(「おこう(神使)」)が、縄で縛られ、竹のむしろの上に置かれるあたりは、イサクが縄でしばられて、たきぎの上に置かれた光景と同じです。また、アブラハムがイサクを小刀で葬ろうとしたように、御頭祭の儀式では、「おこう」のもとにも小刀が出てきて、神官がこの御子を小刀で刺そうとしました。さらに、最後の段階で、旧約聖書では「主の使い」が現われた後、イサクは生け贄になることから免れたと同様に、童子(「おこう(神使)」)が刺されようとした瞬間、馬に乗った諏訪の国司の使者が現れて、御子は解放されて祭りは終わります。

 

加えて、御頭祭が今も普通の神道行事とは異なる「奇祭」と言われる所以(ゆえん)は、現在では剥製が使用されているとは言え、かつては、神事の際、生きた鹿がその場で殺され生贄として、鹿(の頭)が75頭も供えられていました。中世の時代には鹿が丸ごと捧kげられていた時代もあったそうです。実は、「御頭祭」の名前もここから来ています。動物のいけにえの風習のなかった日本においては、この諏訪の鹿のいけにえの風習は、たいへん奇異に見られていたというのは当然です。しかし、御頭祭が、旧約聖書の「イサクの伝承」からきていると言われれば、納得できますね。

 

ただし、旧約聖書の伝承では、少年イサクの代わりに生贄にされたは鹿ではなく羊です。日本にはもともと羊がいなかったからとの見方もありますが、その理由は、諏訪の土着神の一柱、千鹿頭神(ちかとのかみ)に関係がありそうです。その父神が鹿狩りの際、1000頭の鹿を捕獲したという逸話から、千鹿頭神と名付けられ、狩猟神として諏訪の人々に親しまれています。御頭祭に鹿の頭が供えられていたこととも関連しているような気がします。

 

さて、御頭祭で生贄にされた75頭の中に必ず一頭は耳の裂けた鹿がいたそうで、その鹿は、”神様の矛にかかったもの”と信じられ、特別視されました。この鹿は、「高野の耳裂鹿(みみさけしか)」と呼ばれ、諏訪大社の七不思議の一つに数えられています。しかし、これも旧約聖書のイサク伝承に立ち返れば、息子のイサクが解放されると、アブラハムは、「角をやぶにひっかけている一頭の雄羊」を発見し、その羊を生贄に捧げるという記述があります。そこから、その羊は「神が獲ったもの」とみなされ、イサク伝承の「角をやぶにひっかけている雄羊」と御頭祭の「(やぶにひっかけて)耳の裂けた鹿」とのつながりもあるとの見方もあります。

 

守矢氏、守屋山、洩矢神、みなモリヤ

このように、かつての諏訪大社の御頭祭は、旧約聖書の「イサクの伝承」そのものであったと言うことができます。また、アブラハムがイサクを生贄に捧げようとした場所も、「モリヤの地」と呼ばれた小高い山であったように、御頭祭が行なわれている諏訪大社は、守屋山(モリヤ山)のふもとに位置しています。

 

実際、諏訪大社の神事は、モリヤの地(守屋山)で行なわれ、モリヤ家が主宰しています。「守矢家」(モリヤ家)は、諏訪大社の御頭祭を司る「神長」(のちに神長官)という筆頭神官の位を古来より、代々世襲し、この地の祭祀と政治の実権を握ってきました(現在、守矢家の御当主は、78代目である)。守矢家の祖先神は、伝承では「モリヤの神」(洩矢神(もりやのかみ)、または守矢神(もりやのかみ))となっています((「洩矢神」は”もれやのかみ”と読まれることもある)。「モリヤの神」は、モリヤ山(守屋山)に祀られています。「モリヤ」という名は、このようにモリヤ山(守屋山)、モリヤの神(洩矢神、守矢神)、モリヤ家(守矢家)というように、様々に残っています。

 

ただし、諏訪大社の祭神は、出雲神話で有名な大国主命の子である建御名方神(たけみなかたのかみ)と、その妃・八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、それぞれ上社本宮と前宮の主祭神です。しかし、タケミナカタの神が、諏訪に侵攻してくる以前(出雲神話では、タケミカヅチの神との力比べに負けて逃げてくる以前)、この地方で民衆が古くから信仰している諏訪大社の神は、諏訪の土着神である「ミサクチ神」(ミシャグジ、ミシャグチ)と言われています。地元の資料にも、「諏訪大社の祭政は、ミサクチ神を中心に営まれている」と記載されています。なお、前述した守矢氏が受け継いできた神長官(じんちょうかん)という役職は、神事全般を掌握するだけでなく、土着の「ミサクチ(ミシャグチ)」の神霊を呼び降ろするという祭事を担ったとされているので、やはりモリヤ氏が関わっています。

 

ミサクチ(ミシャグジ)はイサクか?

いずれにしても、諏訪大社の「御頭祭」も、この「ミサクチ神(ミシャグジ、ミシャグチ)の祭りであるということもできるかもしれません。「ミサクチ神」は、漢字では「御佐口神」と書いたり、「三社口神」「御社宮司神」「佐久神」「射軍神」「尺神」などと書いたりしますが、定説ではありません。いずれも当て字で、元来は外来語と解されています。外来語に由来するとなると、神名のミサクチ(ミシャグジ)とは、ヘブライ語系の言語で、ミ・イツァク・ティン=ミ・イサク・チ=イサクになるとの指摘があります(「ミ」は接頭語子音で日本語の「御」に相当、「チ」は接尾語)。

 

もしこの説が正しければ、ミサクチ(ミシャグジ)神は、イサク神のことであるとなります。ただ聖書では、人間は決して「神」とは呼ばないので、諏訪では、イサクをイサク神として神格化されたのかもしれません。一方、その頃の諏訪の地では、蛇神に対する信仰の色が濃い文化がありました。そうすると、マタノオロチの「チ」が「蛇」を意味すると言われているように、ミサクチの「チ」は蛇の意であるとの見方もできます。実際、ミサクチ(ミシャグチ)神そのものも、諏訪の蛇神であるソソウ神やモレヤ(洩矢)神、さらにはチカト(千鹿頭)神など、その土地の他の神々と習合して、龍蛇神や木石の神、狩猟の神という性質を持つようになったとされています。

 

このように、諏訪大社の諏訪大社の「御頭祭」は、ヤハエ信仰の人たちがイサク伝承を諏訪に伝えたことに始まり、その時点から時を経て、イサクは神格化され、諏訪の神、ミサクチ(ミシャグチ)神と習合しながから、現在のミサクチ神の姿に変貌していったと解することもできると思われます。

 

<参照>

諏訪大社の主な年中行事

天下の大祭…信濃国一之宮「諏訪大社」・御柱祭のご案内

諏訪大社に伝わるイサク奉献伝承

幻想に彩られた元祖諏訪明神「ミシャグチ」。その意外な正体とは?

2019年12月02日

伝承:モリヤ神とミシャグジ神

諏訪大社の祭神は、記紀に伝わる出雲神話の神、建御名方神(タケミナカタノカミ)ですが、11月7日の投稿「諏訪大社と住吉大社」で、「もともと諏訪にはモリヤ(洩矢)という土着の神様がいましたが、そこにタケミナカタがやってきて、戦いの末に諏訪の地は奪われた」という伝承があると紹介しました。そこで、今回は、諏訪の土着の神、モリヤ(洩矢)神、さらには、モリヤ神を調べていくうちにでてきたミシャグジという神様に注目してみました。

(本投稿から初めて読まれる方は、「諏訪大社と住吉大社」の諏訪大社の項目を読んでからの方が理解が深まると思います。)

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建御名方神vs洩矢神

「古事記」の国譲り神話には、出雲の国の伊那佐の小浜で、天孫族の建御雷神(タケミカヅチ)との力比べに敗れた建御名方命(たけみなかたのみこと)は、諏訪(洲羽)に逃れてきて、諏訪の神になったと書かれていますが、諏訪にはタケミナカタ以前に「洩矢(モリヤ、モレヤ)の神」がいました。

 

洩矢神は、諏訪大社に祀られているタケミナカタ(諏訪明神)の諏訪入りに抵抗した土着神とされています。室町時代初期に編纂された「諏訪大明神画詞」にも、「大和朝廷による日本統一の前の時代、諏訪の地には、洩矢(もりや)神を長(おさ)とする先住民族が狩猟を主体として住んでいましたが、そこに出雲王国の建御名方神(タケミナカタノカミ)率いる一族が、稲作の技術を持って進入して来た」という記載があります。

 

神戦の舞台は、江戸時代の伝承記録には天竜川のほとりとあります。現在でも両者の戦った場所は残っているとされ、出雲族の建御名方神の陣地跡には藤島明神(長野県岡谷市)が祀られ、洩矢神の陣地跡には天竜川を挟んで洩矢大明神が洩矢神社(岡谷市)に祀られているそうです。

 

戦いは、地主神の洩矢(モリヤ)神と洩矢族が負け、侵略者である建御名方神に諏訪の統治権を譲り、建御名方神が諏訪大社の御祭神と成りました。ただ、現在も建御名方神は、諏訪様(諏訪大明神)として、人々に親しまれています。これは、勝者である建御名方神が、侵略者としての圧政は敷かず、むしろ、洩矢族とともに諏訪を統治したことがあげられています。それどころか、この地に稲作を伝え、諏訪の国も豊かにしたことから、先住民である洩矢の人々と新しく来た出雲系の人々は、共存するようになったと言われています。さらに、建御名方神(タケミナカタノカミ)は、洩矢族の長を洩矢の神を祭る神官として認め、洩矢族に代々祭政を任せたのでした。今もこの神官の地位(神長官)を守矢氏が引き継ぎ、現在78代目(守矢早苗さん)なのだそうです。

 

守矢(もりや)氏

諏訪の土着の神、モリヤ(洩矢)神を氏神とする氏が、守矢一族とされ、守矢氏は洩矢神の後裔とみられています。前述したように守矢氏が受け継いできた神官名が、諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)です。この役職は、後述する「大祝(おおほうり)」という神職の即位式を含め、神事全般を掌握するだけでなく、土着の「ミシャグジ(ミシャグチ)」という神を降ろしたり上げたりするという祭事を担います。

 

大祝(おほいわり)とは、神職の最高位の階級で、成年前の童子が、決められた地域からそれぞれ1年毎に選ばれて即位しました。選ばれた童子は、即位式に当たり、神長官の屋敷の一室に一定期間籠り、儀式に臨みます。儀式は、諏訪大社前宮境内に、幕を引いて神殿を設け、そこで神長官(守矢氏)がミシャグジ神霊を呼び降ろし、「大祝(おおほうり)」に選ばれた童子に憑依させて現人神とするものだそうです。守矢(モリヤ)氏が代々務めた神長官(神長)は、「諏訪大社上社大祝(おおほうり)の職位式」などの神事を行ったり、呪術によって神の声を聴いたり、豊作祈願など祈祷する力などを持つとされました。

 

これに対して、諏訪神官の最高位である大祝という生神の位に就いた氏が、建御名方命の子孫である諏訪氏(神氏)です。諏訪氏といえば、戦国時代、武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重が思い出されます。諏訪一族は、「大祝(おおほうり)」を代々務め、当時、頼重は信濃の名族・諏訪氏の惣領家でもありました。武田信玄は、諏訪の地を支配するために、諏訪頼重を討ち、頼重の娘を側室にしました。そして二人の間に生まれた勝頼を諏訪惣領家の後継に据えたのでした。

 

諏訪神社上社において、この「大祝(おおほうり)」を補佐して実質的に祭祀を取り仕切る役職が、洩矢神の子孫の守矢氏によって引き継がれた諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)という筆頭神官(諏訪大社の神職の長)の位です。そして、守矢(もりや)家が、古くから「七本の峰のたたえ」を守ることで、ミシャグジ神を祀ってきたと言われています。「七本の峰のたたえ」とはミシャグジが降りる木とされ、この内の一本が、守矢家屋敷の近くの「尾根(縄文時代の墓としての土坑)で、発掘されています。このため、守矢氏の氏神とされる洩矢神は、守矢氏が祀るミシャグジと同一視されることもあるそうです。そこで、洩矢(モリヤ)の神とミシャグジという神について、みてみましょう。

 

洩矢神(もりやしん、もりやのかみ)

侵攻してきた建御名方神(たけみなかたのかみ)との戦いに敗れた洩矢神には、守宅神(もりやのかみ、もりたかのかみ)と多満留姫命(たまるひめ)の二柱の御子神がいました。多満留姫命は、建御名方神の御子神・出早雄命(いづはやおのみこと)に嫁ぎました。このことは、土着神という洩矢神系と建御名方神の出雲系が婚姻したことを意味し、神話的には、戦いに敗れた守矢神が、娘を、建御名方神の御子に嫁がせ、延命と勢力保持を図ったという言い方が可能です。

 

洩矢神のもう一人の御子である守宅神は、洩矢神の祭政の跡継ぎとなり、千鹿頭神(ちかとのかみ)をもうけました(母神は未詳)。守宅神が鹿狩りの際、1000頭の鹿を捕獲した後に生れたことがその名の由来のようです(現在も千鹿頭神は、狩猟神として信仰されている)。

 

洩矢神

守宅神-多満留姫命

千鹿頭神

 

千鹿頭神(ちかとがみ)は、洩矢神の祭政官としての地位を、守宅神から引き継ぎましたが、後に松本、奥州へと追放されてしまいます。このため、千鹿頭神の後継者となったのは、建御名方神の孫である児玉彦命(こだまひこのみこと)でした(児玉彦命は、守矢氏の系図では四代目に数えられる)。このことは、土着の洩矢神の血族がこの段階で断絶してしまってことを意味します。その後、洩矢神の祭祀は、児玉彦命(こだまひこのみこと)から、その子の八櫛神(やくしのかみ)、そして守矢氏が引き継ぎました。ですから、守矢氏は、洩矢神の後裔と言われていますが、血筋は直接つながっていないことになります。それにもかかわらず、その祭祀を受け継いだ守矢氏は洩矢神を一族の遠祖としているのです。ということは、タケミナカタ系の守矢氏が、諏訪大社上社の神長官をし、「ミシャグチ」を上げ下ろししていたことになります。では、守矢氏が守ってきたとされるミシャグジとは、どういう神様なのでしょうか?

 

ミシャグジ(チ)

ミシャグジとは、記紀には登場しない、太古より日本に伝わる、諏訪湖の土着神で、ミシャグジに対する信仰は、大和民族に対する先住民の信仰とされていました。その起源は縄文時代から祀られてきたといわれ、当初は、主に樹木、笹、石など、自然万物に降りてくる精霊・自然神と言わています。また、諏訪の御射山(みさやま)をご神体とする山神として、マタギ(猟師)をはじめとする山人達から信仰されていました。

 

さらに、時代を経るにつれて、ミシャグジは、諏訪の蛇神であるソソウ神やモレヤ(洩矢)神、さらにはチカト(千鹿頭)神など、その土地の他の神々と習合して、龍蛇神や木石の神、狩猟の神という性質を持つようになったと考えられています。ですから、ミシャクジはこうした神々とも同一視されることもあるのです。

 

また、民俗学者の柳田國男は、ミシャグジを、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に一種の標識として立てた塞の神(サイノカミ)=境界の神とみなしていました。塞の神とは、境の神の一つで、村や部落の境にあって,他から侵入する邪悪なものを防ぐ神だそうです。

 

前述したように、現在、ミシャクジは、諏訪大社上社に祀られ、ミシャグジ降ろしの祭祀において、神官に憑依して宣託を下す神です。大昔には、一年毎に八歳の男児が神を降ろす神官にあ選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供(ひとみごくう)(人間を神への生贄とすること)とされるといった伝承も残されています。

 

ミシャグジ神を信仰する地域は、東日本広域に渡り、ミシャグジ信仰は、長野県の諏訪地方を中心に、山梨県、静岡県、愛知県、三重県、岐阜県、滋賀県など東日本の広域に渡って分布しています。全国のミシャグジを祀る神社は約1800社もあります(このうち長野県には750余りのミシャグジ社が存在)。諏訪大社上社の前原は、ミシャグジを統括する祭祀場だったとされています。その信仰形態は多様で、地域によって差異はあります。

 

ここまで、出雲の建御名方神(タカミナカタノカミ)が出雲に侵攻してくる(記紀の出雲神話では逃れてくる)以前にいた、諏訪地方の土着の神である、洩矢(モリヤ)神とその一族とされる守矢氏、さらには、彼らが祀っていたミシャグジ(ミシャグチ)という神様についてまとめてみましたが、さらに興味深い話しがいくつか続きます。

 

洩矢(モリヤ)神は、物部守屋か?

古代史を紐解けば、仏教の受け入れを巡り、587年、崇仏派の蘇我馬子に討たれた物部守屋という人物がでてくると思います。日本史の教科書には、この結果、神道護持の物部氏は滅び、仏教は朝廷に公認され、広く布教されていく事に・・・式の説明がなされています。

 

しかし、諏訪では、物部守屋は、蘇我氏との戦いに敗れた後、諏訪の地まで落ち延びて、この地に祀られたとの伝承があるそうです。その祀られた場所が現在の守屋神社(長野県伊那市)です(この諏訪にある守屋神社と、岡谷市にあるモリヤ神を祭る洩矢神社は別の神社)。さらに、諏訪大社の裏に‘守屋’山(もりやさん)という山があり、諏訪大社上社の御神体である神体山とされ、その神官が、古代この地を治めていた洩矢族の78代目の守矢氏です。

 

ところが、「もりやさん」の字は、ミシャグジ神を代々祭る神長官・守矢氏の「守矢」ではなく、物部‘守屋’の「守屋」であることが興味深いですね。さらに、守屋山の頂上には磐座があり、守屋神の奥の宮とされているのです。まさに、洩矢神も物部守屋、どちらのモリヤも同じ守屋山を御神体として、諏訪信仰の聖地に祭られてるのです。なお、物部氏と守矢氏の関係では、物部守屋の次男の武麿が、守屋山に逃れて、やがて守矢家へ養子入りして神長官となったという説があります。実際、その人物のお墓とされる古墳もあるようです。

 

古代イスラエルに遡る?

古代イスラエルには、「モリヤ」という聖なる地があったそうです。「イスラエルの失われた十支族」という伝承があるのはご存知ですか?旧約聖書に記されたイスラエルの12支族のうち、行方が知られていない10支族が日本にきていたというもので、この内のある支族が、紀元前のある時期に諏訪の地に入り、自らをモリヤ族と名乗り、狩猟を主としてこの地に安住していたとする説があるのです。

 

この伝承に従えば、諏訪の国を侵攻してきた建御名方神(タケミナカタノカミ)も、この「モリヤ」が何であるかを知っていたからこそ、洩矢族の祭っていた神を認め、諏訪大社にも祀られるようになりました。さらに、同じイスラエルの支族の物部氏も、大和政権成立後、政治の中心にいましたが、「崇仏論争」で蘇我氏に敗れた物部守屋は、同じ洩矢族を頼って諏訪まで落ち延び、そこで安住した…という説もでています。

 

日本とイスラエルの古代史を融合させるのは無理があるような気もしますが、実は、ミシャグジも関連性があるようです。そもそも、ミシャグジ(チ)という神名も珍しいですよね?この立場に立てば、ミシャグジ(チ)とは、正確には、ミサクチ=ミ・イサク・チだそうで、これはヘブルアラム語のミ・イツァク・ティン=イサクに由来するとされています。または、古代の神ということから、語源的にはアイヌの音に通じるという説もあります。古代史はまったく興味が尽きません。

 

<参照>

信濃國一之宮 諏訪大社(公式サイト) より抜粋

諏訪大社とはー御柱祭

諏訪大社/上社前宮(3)

日本の神様辞典、やおよろず

ミシャグジ神を祭る神長官守矢氏 古代史日和

倭国、大和国とヘブライ王国

諏訪大社・上社前宮/神旅、仏旅 むすび旅

トランヴェール2019/9JR東日本など