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2019年08月29日

伝承:一口に「七夕」と言っても…

夏も終わりに近づき、7月、8月は全国で夏祭りが行われました。先日(8月12日)、東北の三大祭りについて、紹介しましたが、三つのお祭りの由来に共通していたのが、七夕のお祭りでした。今回は、夏の終わりに七夕についてまとめました。

 

七夕伝説

 

七夕まつりは、五節句としての年中行事のひとつで、日本の星祭りです。縁起の良い「陽数(奇数)」が連なる7月7日の夕べに行われ(旧暦7月7日の行事)、「七夕の節句(しちせきのせっく)」と呼ばれています。七夕(たなばた)といえば、一般的には、織姫と彦星が年に一度再会する日として知られ、毎年7月7日の夜に、願いごとを書いた五色の短冊や飾りを笹の葉につるし、星(織姫と彦星)に願う習慣が今も残ります。ただし、この織姫と彦星の話しが中国から伝わったものであることを知っている人は意外と多くありません。かといって、単に中国の伝承が、そのまま日本に星まつりになったかというとそうでもありません。

 

<七夕の由来>

 

七夕は、日本古来の「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説や、「お盆前の清めの風習」に、中国伝来の「織姫と彦星の伝説」と「乞巧奠(きっこうでん)」などが結びついて、現在のようなかたちになりました。

 

  • 織姫と彦星の伝説

日本の七夕のルーツの一つとして最も有名なのが、中国伝来の「織姫(おりひめ)」と「彦星(ひこぼし)による「機織りの女の子と牛飼いの物語」です。「織女(しょくじょ)牽牛(けんぎゅう)伝説とも呼ばれています。

 

織姫と彦星の物語

昔々、天の川の東には天の神様(天帝)が住んでいました。その天帝には、一人の娘がおり、名前を織姫と言いました。織姫は、雲霧消兼という布を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんを見つけてやろうと思いました。天帝は、天の川の西側に住む働き者で有名な牛飼い、彦星「牽牛けんぎゅう」と引き合わせました(彦星は織姫の対義語)。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。こうして、天の川の西岸に住む機織りの織姫と、東岸に住む牛使い・彦星が、織姫の父親である天帝のすすめで結婚しました。

 

しかし、二人は、結婚すると、仲睦まじくするばかりで、全く仕事をしなくなってしまいました(大人の世界でいえば、夫婦の「営み」を盛んに行っていたようです)。織姫の作る織物は天の住人の着衣になるものです。また、牽牛が牛を放置しておくと、畑の作物は勝手に食べて暴れたり、逆に病気になったりしてしまいます。天の神様に、天上に住む人々から苦情が届くようになりました。

 

何度、注意しても聞かない二人に業を煮やした天帝は、「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、天の川の橋を壊し、川を隔ててふたりを離れ離れにしました。会おうとしても、巨大な天の川が二人の間に立ちはだかります。こうして、織姫はこと座のベガ星に、牽牛はわし座のアルタイル星で、暮らすことを余儀なくされてしまいました。その距離は、14光年だそうです。ただし、「一年に一度だけ、二人は会ってもよい」と、七月七日の七夕の夜に限って再会することが許されました。

 

その後、織姫と彦星は、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命に機を織り、彦星も天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜になると、織姫は、天帝の命を受けた白鳥座のデネブ(星)のカササギの翼にのって、天の川を渡り、彦星の所へ会いに行きます。地域によっては、七夕の夜、少しでも雨が降れば二人は会えないと伝えるところもあれば、その雨は織姫のうれし涙で二人は必ず会えるという伝承もあります。

 

このように、年に一度の逢瀬は、七夕のメインテーマとなり、この星伝説(織女牽牛伝説 )は、せつない恋愛話しとして、日本には奈良時代に伝わりました。一方、日本の七夕の行事は、願いごとを書いた五色の短冊や飾りを笹の葉につるしたりしますが、この風習はどこからきたのかというと、中国伝来の儀式・乞巧奠(きっこうでん)があるとされています。

 

 

  • 乞巧奠伝説

「乞巧奠(きっこうでん、きこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)」とは、星伝説の織姫にあやかり、機織りや裁縫などの技芸の上達を願う祭り(奠)で、庭先の祭壇に針などをそなえて、星に祈りを捧げます(織女は、天上で機を織る手芸の神様とされている)後に、機(はた)織りだけでなく、芸事や書道(針仕事や習字、詩歌)などの上達も願うようになったそうです。

 

日本には奈良時代に、乞巧奠が伝わると、宮廷の女性達(貴族)は、庭に祭壇を設けて、ヒサギの葉一枚に、五色の美しい彩りの糸を通した金銀7本の針を、供物とともに供え、裁縫の上達を祈りました。また、梶の葉に和歌を綴る風習もこの時に始まったとされています。

 

こうした中国からの伝説は、もともと日本に以前からあった神事である「棚機(つ)女(たなばたつめ)」の行事に由来します。もともとは七夕と書いて「しちせき」と読んでいましたが、七夕を「たなばた」と読むようになったのは、日本古来の「棚機つ女(棚機津女)」の伝説以降です。

 

 

  • 棚機津女伝説

古事記によれば、日本には「棚機津女(棚機つ女)(たなばたつめ)」を信仰する文化があったと記されています。「棚機津女(棚機つ女)」の「棚機(たなばた)」とは、文字通りの意味は、神様に捧げる着物を織った織機(しょっき)のことですが、棚機(たなばた)という名の神事を指すます。

 

これは、乙女が、川などの清い水辺にある棚造りの小屋(機屋はたや)で、神様に捧げる神聖な布(神様が着る衣)を織ります。織った着物を棚にそなえ、神さまを迎えて秋の豊作を祈ったり、人々のけがれをはらい、村の災厄を除いたりというような、古い日本の禊ぎ(みそぎ)行事です。この時、選ばれた乙女を「たなばたつめ(棚機女、棚機つ女、棚機津女)」と呼び、七月七日に水辺の小屋に籠り、神様へ捧げる布を織るのです。

 

神話では、その後、七月六日に水辺の機屋(はたや)で神の訪れを待ちます。女性(=巫女)はその夜に天から降りてくる神様の一夜妻になり、女性自身も神になるとされていたそうです。実際の棚機(津つ)女は、織りあがった布を棚に置き機屋を出たそうですが、その際、水辺で禊をすると町や村が豊穣になり、厄を祓えると言い伝えられています。

 

このように、外来の中国語「七夕」を「たなばた」と日本語読みしているのは、棚機津女(たなばたつめ)に由来します(たなばたの語源は「たなばたつめ」)。そして、この神事は7月7日に行われたことから、七夕のお祭りは、7月7日に行われるようになりました。では、なぜ、「たなばたつめ」の神事は7月7日だったのでしょうか?その答えは、日本のお盆との関係があります。

 

 

  • お盆の風習

この「棚機つ女(たなばたつめ)」の行事は、やがて仏教が伝わると、お盆(盂蘭盆会)を迎える準備期間である7月7日の夜に行われるようになったとされています(旧暦のお盆は7月15日)。一般的には、先祖の霊を迎えるための精霊棚(しょうりょうだな)や布飾りの幡(はた)を安置するそうです。一説には、この行事が、7月7日の夕方に行われたことから、7日の夕で「七夕」と書いて、当初はそのまま「しちせき」と呼ぶようになったという見方もあります(その後、「たなばた(棚幡)」とも発音されるようになった)。

 

このように、日本の七夕は、日本に古来からあった「棚機女(たなばたつめ)」やお盆の行事と、中国から伝来した織姫と彦星の星伝説や乞巧奠(きっこうでん)のお祭りなどが習合して、現在に至っています。

 

 

<日本の七夕の歴史>

 

前述したように、織女牽牛星(しょくじょ・けんぎゅう)伝説と、「乞巧奠(きっこうでん)」という儀礼が、中国から七夕の行事として、奈良時代に日本に伝わったとされています。また、この時代すでに、七夕のお祭りは、七月七日と定められたと言われています。ということは、既に、あるいは元々、日本古来の棚機津女(たなばたつめ)伝説とお盆の風習も、七夕の行事に反映していたことになります。

 

いずれにしても、奈良時代に日本で始まった七夕は、宮中行事として行われるようになりました。平安時代になると、宮中の人々は、桃やなす、うり、アワビなどを供えて星をながめ、香をたいて、楽を奏でました。また、夜つゆを「天の川のしずく」と考えて、それで墨を溶かし、梶の葉に和歌を書いて願いごとして楽しんだといいます。梶は古くから神聖な木とされ、天の川を渡る船の梶となって星に願いが届くと考えられていたそうです。また、梶の葉は神前の供物を供えるための器(祭具)としても用いられていました。

 

その後、七夕は武家にも伝わり、江戸時代になると、七夕行事が五節句の一つに定められるたことで、庶民の間にも広がっていきました。そうすると、願い事を書く際には、梶の葉のかわりに、短冊が用いられるようになりました。人々は5色の短冊に様々な願い事を書いて、笹や竹の葉に飾るようになりました。冬でも緑を保ち、まっすぐ育つ笹竹は、昔から神を宿すことができる不思議な力を秘めた神聖な植物とされてきました。

 

こうして、笹竹に短冊、色紙、吹き流しという現代の七夕飾りの基本形が定着していったのでした。昔は、七夕の祭りの後、竹や笹を川や海に飾りごと流していました。「七夕流し」や「七夕送り」と呼ばれる風習は、七夕飾りが天の川まで流れ着くと願い事が叶うという伝承や、竹や笹にけがれを持っていってもらうという「けがれ祓い」の意味がありました。

 

参考

仙台七夕まつりの歴史

暮らしの歳時記ガイド

七夕の由来は?牽牛はなぜ彦星というの?(生活に役立つ情報)

七夕の星に願いをこめて、その一(お話歳時記)

梶の葉と七夕の関係は?願い事のルーツ?

世界の民謡・童謡

五節句の起源など

2019年08月21日

祭り:盆踊りの起源と由来

前回の投稿では、お盆を取り上げました。お盆は、仏教を原点としつつも、日本古来の民族風習が色濃い行事でした。お盆の習わしの一つである盆踊りも同様で、インドや中国にはない日本独自の風習です。今回は、この盆踊りについて考えます。

 

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盆踊りの由来

 

盆踊りとは、お盆の時期に踊る行事で、お祭りの会場などで櫓を囲み、浴衣を着た踊り子が円を描くように、民謡に合わせて踊ります。元来、盆踊りは、先祖を供養することを目的にしていましたが、現代では、宗教的・習俗的な色合いは薄れ、娯楽性が強くなっています。具体的に、盆踊りは、地域の一大イベントとして開催されることが多いため、地域の人々との交流の場、帰省した人たちの再会の場、さらには男女の出会いの場として、私たちの生活に根付く夏の風物詩となっています。

 

前述したように、盆踊りは、「仏教由来のもの」として始まり、やがて、日本の習俗としての「先祖などの霊を供養」という側面が強くなって、全国的に広がりました。仏教の側面から言えば、盆踊りの由来は、平安時代の空也上人や鎌倉時代の一遍上人がはじめた「踊り念仏(念仏踊り)」が元になっていると見られています。

 

それから、お盆のもう一つの起源が、死者・先祖の霊魂を供養するという日本独特の風習です。お盆には祖先の霊が帰ってくるとされています。盆踊りも亡くなった人や祖先の霊を供養・もてなす意味も込められています。お盆にお迎えした故人や先祖の霊を慰め、無事に送り帰すための踊りとして受け継がれてきたのです。また、帰って来た霊が供養のおかげで成仏できた喜びを、踊りで表現しているともいわれています。

 

盆踊りは、通常、お盆の終わりの時期である8月15日の夜に開催されます。これは、16日には先祖の霊はあの世へ帰ってしまわれるからです。さらに、盆明けの16日は、先祖の霊と共に過ごす最後の一夜ということで、16日の朝まで夜通しで踊るのが通例だったそうです。

 

 

◆盆踊りの歴史

盆踊りは、500年以上の歴史を持つとされ、その由来は、平安時代に遡ることができます。この頃、比叡山の僧侶には、念仏を唱えながら阿弥陀仏の周囲をぐるぐる行道(ぎょうどう)してまわる「常行念仏」(じょうぎょうねんぶつ)という修行がありました。

 

山上の寺院堂内で行われていた念仏修行を、京都のまちなかの民衆の間に持ち込んで、「踊り念仏」という形で広めたのが、平安時代中頃にご活躍された「空也(くうや)上人」です。「空也」は、念仏を人々に覚えてもらおうと工夫してリズミカルに歌うように念仏を唱え始め、その念仏にあわせて踊りも踊るようになったのです。

 

ただし、それでも当時は、今のようにまだ全国的には普及してはいませんでした。この踊り念仏を全国的に広められたのが、鎌倉時代中頃に出られた一遍上人です。一遍上人と言えば、時宗を始められたことで知られています。神奈川県の藤沢にある時宗の遊行寺には、約700年前に一遍上人の一生を絵と物語で書いた国宝「一遍聖絵」(いっぺんひじりえ)があります。その中に、藤沢の片瀬や長野県の佐久で踊り念仏を行った絵があり、これが現存する踊り念仏の一番古い確証のある記録だそうです。

 

その後、一遍上人は、「踊り念仏」を独自に進化させた「念仏踊り」を生み出しました。「念仏踊り」は、踊りが主となった芸能を言います。「踊り念仏」は、もっぱら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら踊った一方、「念仏踊り」は、唱えるのは念仏でなくてもよく、代わりに歌も唄うようになったという違いがあります。「念仏踊り」の方は、宗派を問わず誰もが参加できるという特徴を持つので、全国的に広がるきっかけとなっていきました。今でも盆踊りが盛んな土地は、かつて一遍上人が全国行脚した時に訪れた土地であることが多いそうです。

 

全国的に「念仏踊り」が広がって来た頃、踊り念仏(念仏踊り)が、もっと古くからあった先祖の魂を供養するお盆の行事や民間で伝わる踊り、例えば、精霊や祖霊を迎えて踊るという「精霊踊」や地域独自の「踊り」などと結びつき、現在の「盆踊り」の原型をつくったと考えられています。当初は、仏教行事(「盂蘭盆会うらぼんえ」)であった「お盆」も、室町時代になると、死者供養としての「盆」の観念が色濃くなってきます。念仏踊り(踊り念仏)も全国に広がったとしても、まだ宗教的な要素が強く、仏教行事の一つであったものから、先祖を供養するための行事の側面が強くなっったのです。

 

ただし、今でいう「盆踊り」が登場するのは、一遍没後かなりたった室町時代のことです。室町の踊りは、「派手」な風流(ふりゅう)踊りが代表的です。風流とは、人を驚かすための華美な趣向であり、派手な踊りが踊られていたそうです。1400年代に入って、お盆に、風流踊りを踊ったとの記録があります。これが、盆踊りのスタートとみられています。このように、踊り念仏が、念仏踊り、風流(ふりゅう)踊りを経て、盆踊りになったと考えられています。

 

こうして、室町時代に始まった今でいう盆踊りは、江戸時代には、村々にまで浸透します。この頃になると、盆踊りは地域の人々の交流や男女の出会いの場となっていきます。盆踊りの歌の歌詞にははかなさや切なさなどの色恋めいた表現が多くあり、男女の出会いの場として踊られてきたことが伺えます。

 

 

明治以降の盆踊り

明治時代、炭坑節に代表される産業関連した盆踊りが生まれはしましたが、この時期、盆踊りは、冬の時代を迎えます。それは、明治時代には「風紀を乱す」との理由によって取り締まりが行われたことや、文明開化の影響で、盆踊りそのものが古い因習とみられたためでした。

 

しかし、大正時代は、「大正デモクラシー」と言われたように、日本の文化が様々に見直された時代であり、日本の伝統文化が再発見された時期でした。盆踊りも、大正時代末期には再び復活し、再び日本の各地域で開催されるようになり、現代に継承されています。

 

 

◆日本三大盆踊り

日本全国に今も数多く残る盆踊りには、何万人もの人が訪れるものから、町の集会所などで行われるような小規模なものまで様々ありますが、中でも有名なのは、「日本三大盆踊り」でしょう。

 

西馬音内の盆踊り(秋田)

西馬音内の盆踊り(にしもないのぼんおどり)は、秋田県の雄勝郡羽後町、西馬音内で開催される盆踊りです。毎年8月の16日〜18日まで開催され、国の重要無形民俗文化財にも指定されている700年以上の歴史ある盆踊りです。

 

郡上踊り(岐阜)

「郡上踊り(ぐじょうおどり)」は、岐阜県の郡上市八幡町で開催される盆踊りです。毎年7月中旬から9月上旬まで開催され、8月13〜16日には徹夜で夜通し踊る「盂蘭盆会(徹夜踊り)」が行われます。

 

阿波踊り(徳島)

徳島県徳島市で開催されるのが「徳島市阿波踊り(とくしましあわおどり)」です。毎年8月12日〜15日に開催され、起源はなんと400年前の江戸時代までさかのぼります。(すでに本HPレムリアで紹介、阿波おどり

 

 

<参考>

盆踊りの由来 | 盆踊りの世界

盆踊りとは?由来や歴史、有名な盆踊りも|いつから始まった? – 四季の美

盆踊りの由来と歴史、仏教との深い繋がり

仏教ウェブ入門講座

超便利、冠婚葬祭マナー

盆踊りの歴史にとんでもない事実が…!盆踊りの本当の意味や起源

盆踊りの歴史にとんでもない事実が…!盆踊りの本当の意味や起源

盆踊りとは?由来や歴史、有名な盆踊りも|いつから始まった?

芸能史からみた盆踊りの原点、盆踊りの世界など

 

2019年08月19日

伝承:「お盆」は仏教行事?

先日、投稿した阿波おどりも、京都の五山送り火も、お盆の恒例行事です。今回は、その「お盆」についてまとめてみました。

★☆★☆

 

日本では、毎年夏の「お盆」には、帰省ラッシュとなり、実家で、お墓参りをした後、親族がお供え物等を持ち寄ってご先祖様と一緒に過ごし、ご馳走を食べてお酒を飲んだりするのが恒例です。

 

■お盆(盆)とは

 

盆・お盆とは、祖先の霊を迎え、供養する行事です。お盆の期間には、年に一度、祖先の霊が子孫や家族の元に帰って来るとされています。盆の入りには「迎え火」を焚き祖先の霊をお迎えし、戻ってきた祖先の霊の供養をします。お盆の期間が過ぎる盆明けには「送り火」を焚いてお送ります。その間、お供えのきゅうりやなす、提灯など、お盆独特の習慣があります。これらの風習がお盆の風習として定着しています(迎え火、送り火については後に詳説)。

 

東京では7月13日から7月16日、その他の地方では8月13日から8月16日に行われ、8月のお盆のことを旧盆とか月遅れのお盆といいます(期日についても後述)。初盆(はつぼん)には四十九日、一周忌、三回忌などの法事法要とは別に、法要として供養の儀式が営まれますが、初盆以外のお盆には、家族親族だけで、祖先の霊と一緒に供養をするのが一般的です。

 

■お盆の由来

お盆は、仏教の行事だとされます。お盆は(盆)は、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、略して「盆会」「盆」と言います。このお盆をさす古い言葉である「盂蘭盆(うらぼん)」は、もともと仏教の言葉で、仏教のお経にも「仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)」というのがあり、お盆の由来を説明しています。「仏説盂蘭盆経」(「盂蘭盆経」)は、ブッタの説かれたお経です。ではどんなことが説かれているのかというと、ブッタの十大弟子の一人、目連尊者のエピソードが書かれています。

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ブッタが祇園精舎におられた頃のことです。ある日、神通力第一といわれる目連尊者が、親孝行をしようと思い立ちました。ところがその神通力によって、目連尊者の亡きお母さんが、餓鬼道(食べ物を食べられず飢えに苦しむ地獄)に堕ちて骨と皮ばかりになって苦しんでいることが分かりました。

 

深く悲しんだ目連は、すぐに鉢にご飯を盛ってお母さんにあげようとします。お母さんが喜んでそれを食べようとすると、たちまちそのご飯はぼっと燃え上り、どうしても食べることができません。鉢を投げて泣きくずれるお母さんを尊者は悲しみ、ブッタのところに走っていき、「どうしたらお母さんを救えるでしょうか」と尋ねました。

 

その時、ブッタは「そなたの母親の罪は深い。そなた一人の力ではどうにもならない。この7月15日に、飯、百味(ひゃくみ)、五果(ごか)等の珍味を十方の大徳衆僧に供養しなさい」「布施の功徳は大きいから、亡き母は餓鬼道の苦難からまぬがれるであろう」と教えてくださいました。目蓮が、ブッタの仰せにしたがったところ、お母さんは、たちどころに餓鬼道から天上界に浮ぶことができたそうです。

 

盂蘭盆は、この目連尊者のエピソードから、お盆に多くのお寺では、餓鬼道や地獄に落ちて苦しんでいる霊を救うための施餓鬼会(せがきえ)と呼ばれる法要が営まれています。

(仏教ウェブ入門講座「お盆の期間とお供え・お盆の意味」から引用)

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一方、中国の仏教寺院では、「盂蘭盆会」という名前の儀式が古くから行われてきました。中国の「仏祖統紀」によれば、日本に仏教が伝えられた538年、中国の梁の武帝が盂蘭盆(うらぼん)の「斎(法事)」を設けたとあるので、この頃には中国では、お盆の行事が行われてたことがわかります。同様に、唐の時代や宋の時代にもお盆が行われていた記録が残されているそうです。

 

このように、「お盆」と仏教が関係深いことは間違いないようですが、「お盆=仏教の行事」と単純に括ることはできません。例えば、仏教には、「毎年、お盆にご先祖様が戻ってくる」という教えはありません。そもそも、仏教では、いったん成仏した魂がこの世に戻るということはないそうです。また、日本で、お盆に関連した行事として有名な「盆踊り」が、インドや中国で、お盆の時に踊られた形跡はないとの指摘もあります。

 

お盆は、仏教行事のひとつと位置付けられていますが、最初は仏教の「盂蘭盆経」を講説する斉(法事)だったのが、だんだん先祖供養のしきたりが入り込んでくるなど、日本の民俗的風習が溶け込むことで、育まれてきたと考えられます。では、次にその日本のお盆についてより詳細に解説してみます。

 

■日本のお盆

日本で最初のお盆の行事は、聖徳太子の時代に当たる616年の4月8日と7月15日に斎(法事)が営まれたとされています。(なお、4月8日はブッタの誕生を祝う花祭り、7月15日がお盆)。また、657年には、「盂蘭盆会を設く」、659年には、京都の色々な寺で「盂蘭盆経」の講釈があったと記録に残されているそうです。

 

こうして、お盆は、平安時代になると公家にも恒例行事として広まり、鎌倉時代には、滅亡した平家をお盆に弔うようになりました。さらに、庶民にも普及し、室町時代では、軒先に盆灯籠を立て、江戸時代には「迎え火」と「送り火」も行われるようになったそうです。

 

■お盆の時期

お盆の時期は、旧暦の7月15日頃を中心とした期間とされています。旧暦の7月15日頃というのは、現在の新暦では8月15日前後、全国的には8月13日から8月16日の4日間です。ただ、地域によっては(例えば東京や横浜の一部等)、新暦となった今でも7月13日から16日までをお盆の期間とするところもあります。いずれにしても、一般的にお盆の期間は、13、14、15、16日の4日間で、お盆の初日の13日を「お盆の入り(盆入り、迎え盆)」と呼び、お盆の最終日の16日を、「お盆の明け(盆明け、送り盆)と言います。

 

■お盆のしきたり

お盆の期間中、お墓参り、盆提灯や精霊棚の飾り付け、迎え火・送り火など様々な習慣やしきたりがあります。

 

迎え火

迎え火は、火を焚いて祖先の霊を迎えるもので、(お)盆の入りの8月13日(または7月13日)の夕方に焚かれます。祖先の霊が、迷わずにこの火を目印にして帰って来られるように、明るく照らすという意味で、火を焚いてお迎えします。

 

もともとは、迎え火の火はお墓で灯していました。13日にお墓参りをし、お墓の前で迎え火の火を灯して提灯に入れて家まで持って帰ってきます。その火を仏壇の蝋燭(ろうそく)に移していました。現代ではお墓が遠いため提灯に入れて迎え火を連れて来ることが難しい場合も多くなっています。そうした場合には、13日の夕方に、門口や玄関前などの危なくない場所で迎え火を焚きます。

 

送り火

送り火は、8月16日(または7月16日)のお盆明けの日に、祖先の霊を送るための儀式で、再び火を焚いて「送り火」として送り出します。あの世から家に戻ってきた先祖の霊が、またあの世へ帰って行くときに、迷わないようにという願いを込めたものです。京都の五山送り火や長崎の精霊流しも送り火の一つです。

 

*京都五山の送り火:文字どおり、先祖の霊をお送りする行事のひとつで、大文字の送り火(大文字焼き)と呼ばれることもある。

*長崎の精霊流し:お盆の供え物をのせた精霊舟に火を灯して海や川に流す行事です。精霊船は初盆の家のみが作ります。

 

盆提灯

盆提灯とは、お盆のみに用いる飾りで、故人の供養に使われるもので、お盆の期間中、その家に霊が滞在しているしるしとされます。また、迎え火・送り火を行うことがむずかしい場合は、盆提灯を飾って迎え火、送り火とされます。つまり、盆提灯も先祖の霊が戻ってくるときの目印としての役割もあるのです。

 

盆提灯には、上からつるす「御所提灯(ごしょちょうちん)」と、下に置く「大内行灯(おおうちあんどん)」などがあります。大内行灯には、火袋の中に和紙などが貼ってあり、走馬燈のように回転するものもあります。「走馬燈のように」という言い回しがありますね。その意味はあたかも回り灯篭に映る影のように、様々な記憶やイメージが脳裏に現れては過ぎ去っていくさまを示す表現のことを言いますが、お盆に関連する言葉として、現代でも定着しています。

 

精霊棚・盆棚

精霊棚(しょうりょうだな)とは、盆棚ともいい、故人や先祖の霊を迎えるために、お盆のみに用いられる祭壇のようなものです。お盆の間は位牌を仏壇から取り出し、仏壇の扉は閉めて、その前に飾り付けをします。精霊棚の上に、位牌を中心に、香炉、花立、燭台が置かれ、お花、ナスやキュウリ、季節の野菜や果物、精進料理を供えた仏膳などを供えます。お盆のお供え物のことを「盆供(ぼんく)」と言います。お供えの中で、最も有名なのは茄子(ナス)と胡瓜(キュウリ)です。

 

ナスの牛・キュウリの馬

キュウリを馬に、ナスを牛に見立てて、つまようじや割り箸で四つ足をつけ、キュウリとナスを供えます。これは、先祖の霊があの世から戻ってくるときは、馬に乗って早く戻ってきて欲しい、逆に、あの世へ帰るときは、牛に乗ってゆっくり帰って欲しいという願いを込めたものです。

 

お盆が終わると、お供え物は、かつて小さな船に乗せて川や海へ流したりしていましたが、最近は、送り火で燃やしたり、お寺に納めるています。

 

<参考>

「仏教ウェブ入門講座」

「法事・法要・四十九日がよくわかる」

「仏事まめ百科」

「超便利、冠婚葬祭マナー」など

2019年08月16日

祭り:伝統芸能としての「阿波おどり」

先日、8月13日の投稿では、阿波おどりをニュースとして紹介しましたので、今回は、阿波おどりについて、その発祥や経緯など歴史的な側面をまとめてみました。

 

阿波おどりの起源

「徳島市阿波踊り」は、徳島県発祥の伝統芸能で、「日本三大盆踊り」のひとつに数えられるお祭りです。その始まりは約400年前に遡り、阿波踊りの起源はおもに3つの説が有力とされています。時代順に説明すると次のようなものです。

 

ひとつは、盆踊りを始まりとする「盆踊り起源説」です。鎌倉時代の「念仏踊り」から続く、先祖供養の踊り(「踊り念仏」)を起源とする説で、悪霊を払うために念仏を唱える際に踊る念仏踊りのうち、特に盆の時期に先祖の霊を供養するために踊る「精霊踊」が原型をつくったと考えられています。

 

二つめは、能楽の元とされる風流踊りを発祥とする「風流踊り起源説」があります。戦国時代、「三好記」に、阿波板野・勝瑞城で風流踊りの催しの様子が記録されていることがその根拠となっています(「風流」とは着物や装飾に趣向を凝らしたもの)。

 

三つめは、「徳島築城起源説」で、1586年(展生14年)、徳島藩の藩祖・蜂須賀家政が、城主となる際、徳島城の築城を祈念して、城下の人々に城内での無礼講を許した際に踊られたという説です。「阿波よしこの節」にも、「阿波の殿様 蜂須賀様(蜂須賀公)が 今に残せし 阿波おどり」と歌われています。なお、家政の父、正勝とは、若き頃の秀吉に仕えたあの蜂須賀小六です。

 

 

阿波おどりの進展

こうした原型に、地域の独自性や時代の進展とともに生まれた形式が加えられ、現在の阿波踊りが出来上がっていきました。近世において確立された3つの伝統的な踊りの手法が、「ぞめき」、「にわか」、「組踊り」でした。「ぞめき」とは、阿波おどりのお囃子のことを言い、「にわか(俄)」は座興のための滑稽な踊りで、「組踊(り)」は、「町組」という社会集団が中心となって数人が組んで踊ることを言います。

 

さらに、文化・文政期(1804~1830年)に、藍商人や船乗り達が全国各地との文化交流の担い手となり、各地のさまざまな要素が阿波おどりに取り入れられ、徳島の伝統芸能として定着してきたとされまています。例えば、「阿波踊り」に流れる民謡は、熊本の「ハイヤ節」、奄美・八重山の「六調」、沖縄の「カチャーシー」、広島の「ヤッサ節」などとの共通点が多いと言われています。

 

1830(文政13)年頃に流行したお蔭参り(伊勢神宮への集団参拝)では、阿波衆は伊勢で「踊るも阿呆なら見るのも阿呆じゃ、どうせ阿呆なら踊らんせ」と囃して踊り狂ったと言われ、この時の踊りが好評を博し、全国的に阿波踊りが、知れ渡るようになったと言われています。

 

ただし、徳島藩は、古式精霊供養の踊りとしての「ぞめき」を重視したことから、「ぞめき」が急速に発展したとされています。特に、三味線が導入されたことが大きな引き金となったようです。その一方で、藩は、「にわか」、「組踊り」など他の踊りが、踊りの熱狂が一揆につながること弾圧し、何度も踊りの禁止令が出されました。1841年(天保12年)には徳島藩の中老・蜂須賀一角が踊りに加わり、乱心であると座敷牢に幽閉されたこともあるそうです。

 

この踊りの熱狂と言えば、1867(慶応3)年12月の幕末期の動乱には「ええじゃないか」が徳島に上陸しました。「ええじゃないか」とは、老若男女が「えいじゃないか」と言いながら歌い、踊り狂う民衆運動で、米屋や酒屋を襲撃する事件も多発しました。「ええじゃないか」は「踊り要素が強い」ことから、翌年、阿波一円で大流行していき、「ええじゃないか」は阿波踊りが発祥とする見方すらあるぐらいです。

 

明治から大正にかけての阿波踊りの様子は、その時代に晩年を徳島で過ごしたポルトガル人で、外交官・文筆家のモラエスが母国に送った「徳島の盆踊」の中でよく示されています。そこには、市民の熱狂ぶりが描写されているだけでなく、古来から続く「死者を敬う」先祖供養としての性格が強い踊りとして紹介されています。

 

大正時代末期から昭和にかけて、ラジオやポスターなどを通して徳島県外へ紹介されるようになり、全国へ認知されていきます。「阿波おどり」という言葉が定着するのもこの頃で、それまでは「徳島盆踊り」と呼ばれていました。1941年(昭和16年)には、東宝映画『阿波の踊子』(監督:マキノ正博、主演:長谷川一夫)が上映されています。ただし、第二次世界大戦により、徳島はB29による空襲で市内の約62%が焦土となったとされ、阿波おどりは中止を余儀なくされました。

 

しかし、終戦翌年の1946年(昭和21年)、まだバラックが建ち始めたばかりの状況の中にあっても、阿波おどりは復活していきました。戦後の徳島市民にとって、復興の象徴が「阿波踊り」だったのです。戦後のきわめて早い段階にすでに「連(阿波踊りを踊る団体・グループ)」が形成されたとされ、阿波踊りが急速に復興・拡大していきました。まさに、「阿波踊り」という民衆の文化が、荒廃した社会やまちを立ち直らせた精神的中核ともなっただけでなく、日本全体にその活力を供給し続け、文化的発信を続けていきました。その結果、阿波踊りを踊る人が急増し、全国へと阿波踊りの文化が広がっていきました。

 

 

阿波おどりの全国展開

1957(昭和32)年、東京・高円寺で阿波おどり大会が始まり、阿波おどりが全国で開催されるきっかけになりました。「高円寺阿波おどり」は、現在観客は85万人以上が来場し、首都圏最大規模のお祭りに発展しています。1970年(昭和45年)に大阪で開催された日本万国博覧会では、阿波踊りが披露され、これを契機に、海外遠征が行われるなど、阿波踊りは、「徳島のおどり」から「日本のおどり」として、広く認知されていきました。

 

目下、東京都内では、「高円寺阿波おどり(杉並区)」以外にも、「初台阿波踊り大会(渋谷区)」、「下北沢一番街阿波おどり(世田谷区)」など20か所近くで阿波踊りが実施されています。「高円寺阿波おどり」と埼玉県の「南越谷阿波踊り」は、本家の「徳島市阿波おどり」とともに「日本三大阿波踊り」に数えられています。さらに、首都圏以外でも、東は、北海道や福島県から、愛知県、西は、大阪府、長崎県などでも阿波おどり大会が開催されています。

 

400年超の歴史を持つ徳島の阿波おどりは、まさに全国の各地で開かれる阿波おどりの「総本山」と言えます。全国各地の踊り子は徳島を「聖地」と呼んでいるそうです。

 

今回はここまでです。次回は、「阿波おどり」から少し角度を変えて、「盆踊り」をとりあげてみたいと思います。

 

 

<参考>

阿波踊りの歴史(阿波おどり会)

約400年の歴史、徳島夏の風物詩「阿波おどり」

阿波踊りの歴史(阿波銀行)

阿波踊り:歴史、盆踊りの世界

徳島の阿波おどり、400年超の歴史(日本経済新聞)

 

2019年08月12日

伝承:裏「祇園祭り」ってあるの!?

8月10日、「神事としての祇園祭り」と題して投稿し、祇園祭りを宗教的な側面からまとめましたが、リサーチを続けていくうちに、突拍子もない内容にぶつかりました。題して「裏・祇園祭り」です。

 

裏・祇園祭り

祇園祭の起源は、公式には9世紀ですが、そのルーツはもっと古く、古代のモーゼの時代にまで遡り、祇園祭のルーツは古代イスラエルのシオン祭りであるという伝説があります。「シオン」とは、元々エルサレム地方の呼び名で、現在も「ユダヤ」を象徴的に示す言い方として使われています。また、シオンには「天の国」という意味もあるそうです。一方、シオンはジオンとも発音するとされ、このジオンが転化してギオンになります。

 

ここから、京都の祇園(ギオン)は、シオン(イスラエル=ユダヤ)のことで、日本の「祇園(ギオン)祭」と、イスラエルで行われている「シオン(ジオン)祭」は同じ起源を持つのではないかと取りざたされたのです。実際、二つの祭りを比較すると、多くの共通点が見出されたのでした。

 

◆祇園祭りとシオン祭り

ジオン(シオン)祭というのは、旧約聖書にあるノアの方舟が大洪水を乗り切ったことを祝う祭りで、祇園祭と同様、7月1日から1か月続く祭りです。また、ジオン祭の7月10日は贖罪の日、祇園祭では神輿を清める儀式の日で、ノアの方舟がアララト山に流れ着いたとされる7月17日は、祇園祭りでは山鉾巡行が行われます。

 

祇園祭の山鉾には、船鉾や大船鉾など船の形をした鉾がありますが、これはノアの方舟を意味するのかもしれません。さらに、祇園祭の山鉾、祇園祭の山鉾に蟷螂山(とうろうのやま)という山車があります。これは、中国の故事に由来しているとされているのですが、ギリシア語mantisの蟷螂(カマキリ)には、「預言者」の意味があるのだそうです。

 

そうなると、何より、(前述したように)祇園祭りは、日本の神道のお祭り(八坂神社の祭典)であるにも拘わらず、山鉾の胴体部分に装飾に使われている懸装品(胴の周囲に飾られているいろんな図柄の掛け物)には、例えば、(函谷鉾にあるような)「イサクの結婚」など旧約聖書の内容を描いたものや、エジプト・ギザのピラミッドや、イラクのラクダをあしらったタペストリーなど、中東など「舶来(外来)」のものが数多くあることも納得がいきますね。これは、祇園祭に西側諸国の文化が入り込んでいるということで、エルサレムを含む古代オリエントの文化が、明らかにシルクロードを経由して日本に入って来た、または戻ってきたという主張も見られるわけです。

 

加えて、祇園祭りに限ってはいませんが、日本各地域のお祭りで行われる「お神輿」担ぎもイスラエルとの繋がりが指摘されています。特に、祇園祭りの神輿は、モーゼの10戒が収められた「契約(神)の箱」とみなされ、神輿担ぎは、「契約(神)の箱」を日本まで担いできたことを再現していると解されているのです。ユダヤ人にとって、「契約の箱」は秘宝でどこに行ったのかわかっていません。その秘宝は通称「失われたアーク」と言われ、それを探すアドベンチャー映画にもなりましたね。

 

そこまで考えれば、祇園祭は、究極のところ、ユダヤの神(ヤーウェ)を称えているという主張や、祇園祭というお祭りのしきたりはシオン祭りと同じで、日本人はユダヤ人のお祭りと同じ事を、毎年やっているという見方も可能になっていきます。日本の祭という神事は、古代オリエントの世界では儀式であり、古代イスラエルの儀式が、日本の祇園祭りで、完成させたのではないかとする見解すらあります。

 

◆失われた10支族

 では、どうして、ここまで、日本とイスラエル関係が強調されるのかというと、ユダヤ人の世界のある「失われた10支族」伝説と密接につながっています。

 

紀元前13世紀頃、モーゼはエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を解放しました。その後、カナン(パレスチナ)の地で、アブラハムの子孫の12部族が一つになってイスラエル王国が建国されましたが、やがて北王国(イスラエル王国:10部族)と南王国(ユダ王国:2部族)に分裂します。その後、紀元前722年頃、北王国はアッシリアに滅ぼされましたが、10部族がどこに行ったのかわからなくなったと言われているのです(「失われた10支族」)。

 

一説には、旧約聖書(『イザヤ書』第24章)の教えに従い、モーゼの10戒が収められた『契約(神)の箱』をもって(担いで)、長い時間(約60年)かけて、東の方に行ったという噂があります。研究者によれば、ある部族(一部)は、シルクロード途中で留まり、またある部族(一部)は違うルートでミャンマーや中国にたどり着いたそうです。しかし、大部分の部族はどこに行ったのかわからないのですが、最終的にたどり着いたと考えられているところが、日本だったというのです。これは一部の研究者の間で取りざたされている「日猶(ゆ)同祖説」につながっています。

 

祇園祭りの裏側の部分にメスを入れようと思ったら、日猶同祖説にまできてしまいました。その真偽はともかく、来年の祇園祭りは、これまでとは少し異なった観点からみていただければいいかなと思います。

 

 

◆キリストの墓!?

古代のイスラエルと日本がつながっているとする説には、ほかにも、これ以上に想像の範囲を超えたユニークな繋がりが見いだされます。それは、「イエス・キリストは日本で死んだ」説です。青森県三戸郡新郷村大字戸来には、キリストの墓なるものがあると言われています。古代日本の青森に多くのイスラエル人に混じって、イエス自身も渡来したされているです。上陸したのは青森県八戸だった言われています。八戸(はちのへ)は、読み方を変えれば「やへ」、ヤヘーと言えば、ヘブライ語のヤヘー(ヤハエ)、意味は「神」となります。

 

東北地方に古代イスラエルの何かが伝わっているのかもしれません。これらの点については、また別の機会に取り上げることにします。

 

 

<参考>

祇園祭のルーツは古代イスラエルのシオン祭!?
日本とユダヤのハーモニーなど

2019年08月12日

祭り:東北三大祭りとは?

今回も、前回の京都祇園祭りについての投稿に続き、「祭りシリーズ」で、青森ねぶた祭りを中心に、8月の前半に行われた東北の祭りを追ってみました。

 

青森ねぶた祭

「ねぶた祭」は、主に青森県の各地で行われ、中でも青森ねぶた祭は毎年200万人以上を動員し、仙台の七夕祭り、秋田竿燈(かんとう)祭りと並んで東北の三大祭りに名を連ねる大人気のお祭りです。

 

  • ねぶたの語源と起源

「ねぶた」そのものの意味は、祭りで使われる山車灯篭(灯篭を載せた山車)のことですが、「ねぶた」の語源(名称)には諸説あります。「眠(ねぶ)たし」などの語句に由来すると言われ、農作業の忙しい時期に疲れからくる眠気に負けないように「眠気を流す」から転じて「ねむりながし」と訛っていき、「ねぶた」と言われるようになったとされています。

 

「ねぶた」の起源も諸説あり定かではありませんが、奈良時代に中国から渡来した七夕祭りまで遡ると言われています。7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流す七夕祭りに、古来から津軽地方にあった習俗としての精霊送りや人形送りなどの行事が融合して、現在のねぶた祭りになったとの説が有力です。七夕祭りでは小さな灯籠を静かに川に流すのに対し、ねぶた祭りでは、巨大な灯籠(ねぶた)を山車に乗せて、街を練り歩き、「ハネト」と呼ばれる踊り手がねぶたの周りを取り囲み、お囃子の音に合わせて踊ります。

 

ねぶた祭りは、七夕行事の一つとして行われてきた夏祭りなので、旧暦7月7日の年中行事として知られていましたが、太陽暦の導入で、8月1日から一週間ほどかけて行われるようになり、現在では七夕との関連性は意識されなくなっています。

 

◆らっせーらー!の意味

さて、祭りの際には、「らっせーらー! らっせーらー!」という独特の掛け声があります。その意味についても諸説がありますが、広く伝わっているのは、「出せ出せ」が語源となっているそうです。何を「出せ」というのでしょうか?それは、ねぶたを灯すろうそくを集めるために、子供達が各家を回っては、「ろうそく出せ、出せ」と、囃し立てたのだそうです。これらの「出せ」が「らせ」になり、「あー」という掛け声がついて「らっせ、あー」、「らっせーらー」と変化したと言われています。

 

◆ねぶた祭りの変遷

1593年

京都にて、豊臣秀吉の御前で、津軽為信が、「津軽の大灯籠」を紹介し、以後年中行事となったとされています。

 

1716~1736年(享保)

初めて記録に残された青森ねぶた祭りは、享保年間のことで、弘前のねぷた祭りを真似て、油川(青森)で行われたものでした。ねぶたも、担いで移動させる「担ぎねぶた」だったそうです。

 

1772~1781年(安永)

ねぶた祭りに踊りが付いていたという記録があるのは、安永年間になります。青森ねぶた祭の特色の一つとして、「はねと」の大乱舞があります。かつて、「おどりこ」と呼ばれていた踊り子は、いつの頃からか「はねと」(踊り跳ねるの意)と呼ぶようになりました。

 

1804~1818(文化)

この時期、人形(ひとがた)のねぶたや、大型の担ぎねぶたが作られるようになります(ねぶたの大型化)。現在のような歌舞伎などを題材にした灯籠(ねぶた)も登場します。

 

明治時代

明治時代に入って青森ねぶたは一層大型化し、1869(明治2)年には、担ぎ手が100人という巨大なねぶたも出るなど、祭りは華やかさを増しました。しかし、1873(明治6)年になると、ねぶた祭りは突然禁止されてしまいます。理由は、明治新政府から任命された初代青森県令(今の知事)菱田重喜が、ねぶた祭りは昔ながらの野蛮な風習だと主張したからでした。この禁止令は、1881(明治14)年まで続き、翌年解禁されました。

 

昭和から現在

戦時中、ねぶた祭りは、自粛を余儀なくされ、1937(昭和12)年から1945(昭和20)年までの9年間中止されていましたが、1946(昭和21)年、戦後の復興もままならない中、ねぶた祭りが復活します。その翌年には「戦災復興祭り」、1948(昭和23)年以降は「青森港祭り」という名称で、開催され、1958(昭和33)年には、現在の「青森ねぶた祭り」という名称になりました。1980(昭和55)年には、ねぶた祭りは国の重要無形文化財に指定されました。

 

その間、青森ねぶたが、観光化という大きな流れに乗り、どんどん巨大化し、祭り自体も年々華やかになりました。現在では、期間中の人出が300万人を超える国内有数のお祭へと成長しています。

 

◆ 2019年のねぶた大賞

例年、青森にまつわる伝説が題材にされるケースが多かったようですが、令和初となる今年のねぶた祭りでは天皇にまつわるねぶたが多く出品され、天智天皇時代の伝説を取り上げた「紀朝雄(きのともお)の一首 千方(ちかた)を誅(ちゅう)す」(青森菱友(りょうゆう)会)が2019年のねぶた大賞に選ばれました。写真

紀朝雄の一首 千方を誅す(作: 竹浪比呂央)

草も木も 我が大君(おおきみ)の國なれば いづくか鬼の 棲(すみか)なるべき

 

この天智天皇にまつわる伝説とはどういうお話しなのでしょうか?「青森ねぶた祭オフィシャルサイト」に、伝説の中身が詳細に紹介されていましたので抜粋します。

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天智天皇の御代(みよ)の伝説である。藤原千方(ふじわらのちかた)という豪族がいた。彼は、金(きん)鬼(き)・風(ふう)鬼(き)・水(すい)鬼(き)・隠形(おんぎょう)鬼(き)という四(よん)鬼(き)を意のままに操ることができた。堅固(けんご)な体で矢をも通さない金鬼。大風を吹かせ敵城を吹き破る風鬼。洪水を起こし陸地で敵を溺れさせる水鬼。その姿を隠し突然敵に襲いかかる隠形鬼。四鬼の術はいずれも人の力では防ぎようがなく、千方の領する伊勢・伊賀両国の王化は難航を極めた。

 

こうした事態を受けて、天皇より千方討伐を命じられたのが、紀朝雄という人物である。朝雄はかの地に赴くと、冒頭の和歌を一首詠み、鬼たちに向けて送った。「草も木もすべてこの国のものは天皇が治めているのだ。鬼の居場所などどこにあろうか。」この歌を受けた四鬼は術を奪われ一目散に逃げ去った。そして勢力を失った千方を、朝雄は見事討ち果たしたのである。

新天皇陛下の御即位を奉祝し、新時代「令和」のこの国の安寧と繁栄を祈り願うものである。

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以上、青森ねぶた祭りについて解説しましたが、「ねぶた」と言えば、青森ねぶた祭ですが、青森県内だけで、弘前や五所川原など40以上の地域で、同様のお祭りが開催されています。

 

つがる市ネブタまつり

県内のねぷた・ねぶた祭りの先陣を切る。「喧嘩太鼓」の競演が特有。

 

黒石ねぷたまつり

53の火扇が情緒あふれる街並みを練り歩く。

 

弘前ねぷたまつり

青森ねぶたと双璧とされ、国重要無形民俗文化財にも指定。

ねぶた祭りそのものは弘前から始まったとされている。

弘前では「ねぶた」と呼ばずに「ねぷた」という(黒石、平川も)。

 

平川ねぷたまつり

世界一の扇ねぷたを誇る。比較的歴史が新しい。

 

五所川原立佞武多(ごしょがわら たちねぶた)

高さ20メートルを超える大型立ちねぷたが圧巻。「佞武多」はねぶたを漢字に当てた表記。

 

こうして見ると、ねぶた・ねぷた祭りは、津軽の祭りで、それぞれの地域の伝統と歴史に育まれていると言えます。

 

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秋田・竿燈まつり

 

秋田の竿燈祭りは、約280本の長い竹竿に、約10,000個の提灯を吊り下げた「竿燈(かんとう)」を、「差し手」と呼ばれる腕自慢たちが力強く持ち上げて練り歩く、約270年もの歴史を持つお祭りです。竿燈全体を稲穂に、吊るされた提灯を米俵に見立て、五穀豊穣を祈願するのですが、何よりも職人芸で観衆を熱狂させるのが特徴です。「ドッコイショー、ドッコイショー」の掛け声が響くなか、差し手たちは大きな竿燈を手のひら、額、肩、腰へと自在に操ります。毎年8月3~6日に開催され、130万人が訪れる「秋田竿燈まつり」は1980(昭和55)年に国重要無形民俗文化財に指定され、「青森ねぶた祭」「仙台七夕まつり」と並んで東北三大祭りに数えられています。写真等

 

竿燈まつりの起源と経緯

竿燈まつりの由来は、真夏の睡魔や邪気、悪疫などを払う「ねぶり流し」「眠り流し」と呼ばれる七夕行事を起源とする説が有力です。その昔、夏の過酷な農作業は体力を消耗し、眠くなると病魔が忍び入ると考えられていました。竿燈まつりは、その眠気を払うために始まったお盆行事として、江戸中期の宝暦年間(1751~1763年)にはその原型となるものが出来ていたと言われています。藩政以前から秋田市周辺に伝えられているねぶり流しは、元々、願い事を書いた絵馬や短冊を笹竹や合歓木(むねのき)になどに吊るし、それを手に子どもたちが練り歩き、最後に川に流すという行事でした。

 

それが、時代とともにその形を変えていき、宝暦年間には、普及した蝋燭や、お盆に門前に掲げた高灯籠などが使われるようになり、米俵や稲穂をかたどった現在の竿燈の原型ができたといわれています。現在残っているもっとも古い文献(寛政元年1789)では、「ねぶりながし」がすでに秋田独自の風俗として伝えられています。その時、長い竿を十文字に構え、それに灯火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩き、その灯火は二丁、三丁にも及ぶ、といった記載も見られるそうです。昭和の時代、1931(昭和6)年から町内単位で参加する竿燈まつりが始まり、現在では38もの町内が参加する大規模な祭典へと成長しています。

 

昼竿燈と夜本番

竿燈まつりは「昼竿燈」と「夜本番」と呼ばれる2つのイベントから成っています。昼竿燈では、竿燈名人を決める個人戦、町内ごとの団体戦に分かれて技を競い合います。差し手たちは竿燈を手のひら、額、肩、腰に移しかえて5つの技を順番に披露し、観客をわかせます。差し手たちの技術向上を目的として1931(昭和6)年から始まったイベントです。最終日6日の妙技会で優勝者が決まるため、その日の夜本番は凱旋演技ということになります。夜は、「光の稲穂」が観客を魅了します。

 

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仙台七夕祭り

 

仙台七夕まつりは、古くは藩祖、伊達政宗公の時代から続く伝統行事として受け継がれ、本来、七夕まつりは旧暦7月7日の行事として知られていましたが、その季節感に合わせるため、旧暦に1ヵ月を足した暦である中暦を用い、現在の8月6日から8日に開催されています。

 

七夕祭りは全国各地で催されますが、仙台ほど大規模なものはないと言われるぐらい仙台七夕祭りは、全国から毎年200万人を超える観光客が訪れる、まさに全国随一の七夕まつりです。仙台の人々から「たなばたさん」と呼ばれ親しまれており、特に駅周辺やアーケード街において、豪華絢爛な笹飾りで埋め尽くされ、その数は市内で大小合わせて3000本以上にもおよび、「色の天の川」と評されています。

 

仙台七夕祭りの歴史

古代中国で始まった七夕は、奈良時代頃、日本にも伝わり宮中行事として行われるようになりました。その後、五節句としての年中行事のひとつとして、武家、民間に広がり、笹竹に短冊、色紙、吹き流しという七夕飾りの基本形として定着し、全国各地で古くから行われてきました。

 

仙台でも、江戸時代初期に仙台藩祖の伊達政宗が、「子女(しじょ)の技芸」が上達するようにと七夕を奨励したとされ、次第に民間にも年中行事化したと見られています。ただし、当初、仙台七夕祭りは、家ごとに行われる、仙台市民の素朴でつつましいお祭りでした。また、旧暦7月7日はお盆の準備に入る前盆の行事日とされ、また、この時期は稲の開花期であったことから、豊作を祈った日でもあったそうです。このように、仙台七夕は古来より農業やお盆と深く関わりながら、独自の七夕を形成してきたと指摘されています。

 

しかし、1873(明治6)年に、五節句が廃止されたり、新暦が採用されたことを境に季節感のズレが生じたりしたことなどから、七夕祭りは年々行われなくなり、第1次世界大戦後の不景気をむかえてからは、廃れる一方となりました。なお、新暦後も仙台七夕は旧暦の7月6日・7日に行われ、新暦のひと月遅れの8月6日・7日に行われたのは1910(明治43)年以降のことだそうです。

 

それでも、1927(昭和2)年、仙台商人の有志達が立ち上がり、町内に華やかな七夕飾りを施し、仙台に七夕祭りを復活させました。第2次世界大戦の影響で、七夕祭りは再び消えてしまいましたが、終戦後まもなく復活します。1947(昭和22)年、昭和天皇が仙台に巡幸された際、町の沿道に大々的な七夕飾りを施してお迎えしました。この御巡幸を機に、その後の仙台の七夕祭りは、名実ともに日本一のスケールを誇るようになったのです。

 

 

<参考>

青森ねぶた祭りオフィシャルサイト

ねぶたの由来…青森ねぶた

青森ねぶた祭2019!今年の主なねぶたを紹介!

秋田市観光・イベント情報総合サイト

いい日本再発見

夜空を彩る黄金の稲穂!東北三大祭り・秋田竿燈まつりの楽しみ方

旅ぐるたび

仙台七夕まつりの歴史

2019年、仙台七夕祭り

仙台七夕まつりの歴史TANABATA-HISTORYなど

 

2019年08月10日

祭り:神事としての「祇園祭」

7月、8月は、夏祭りのシーズン。本HP「レムリア」でも、祇園祭り、青森ねぶた祭などを紹介しましたが、これらの祭りの起源や経緯を追っていくと、とても興味深い内容に行き着きました。今回は、私も学生時代を過ごした京都の祇園祭りです。

 

 

祇園祭

 

◆概要

祇園祭りは、平安時代から1100年の伝統を有する八坂神社の祭礼で、京都三大祭(葵祭、祇園祭、時代祭り)のひとつ、さらには日本の三大祭(東京・神田祭り、祇園祭り、大阪・天神祭り)のひとつにも数えられています。

 

祇園祭と言えば、7月17日(前祭)と7月24日(後祭)に行われる山鉾巡行(やまほこじゅんこう)、その前日の宵山(よいやま)が有名です。しかし、祭り自体は、7月1日の吉符入りに始まり、宵山、山鉾巡行以外に、神幸祭、花傘巡行、還幸祭等の諸祭行事を経て、7月29日の神事済奉告祭、7月31日の疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしさい)まで、様々な行事(祭典・儀式)が約1ヶ月間に渡って行われます。

 

祭りはもととも宗教行事で、日本の祭りには、神輿(みこし)に、神霊を迎え、お祀りした後にお送りする、神迎えと神送りの儀礼があります。神輿が神社から御旅所(神々の仮の宿)まで行くのが神幸祭、御旅所から神社に戻るのが還幸祭です。祇園祭も同様で、7月17日に神幸祭、7月24日に還幸祭が行われます。山鉾の巡行は、八坂神社の神輿渡御(みこしとぎょ)に伴う、神迎えと神送りの行事(儀式)に先立つものとして執り行われています。山鉾巡行は本来、神輿渡御に伴う「露払い」の位置づけで、神幸祭に先立つ「前祭(さきまつり)」と、還幸祭に先立つ「後祭(あとまつり)」があります。

 

前祭り:宵山⇒山鉾巡行⇒神幸祭⇒神輿渡御(八坂神社→御旅所)

後祭り:宵山⇒山鉾巡行⇒還幸祭⇒神輿渡御(御旅所→八坂神社)

 

 

宵山(よいやま)

 

「宵山」は本来、山鉾巡行の前日を指します。前祭宵山(さきまつりよいやま)では、夜になると、通りに立てられたそれぞれの山鉾に吊られている駒形提灯に火が灯り、コンチキチンと笛や鐘、太鼓で祇園囃子(ぎおんばやし)が奏でられます。また、各山鉾町にて山鉾を飾り、祇園囃子が奏でられます。

 

宵山には「屏風祭」と言われる行事もあり、山鉾町の旧家では表の格子をはずしたりして、秘蔵の屏風などを飾り付けた座敷を開放する「屏風飾り」が行われます。家宝の屏風などを飾る家も数軒出ます。家宝什器、屏風等を美しく飾る家もあります。

 

一方、後祭の宵山は、前祭と違って出店も出ず、訪れる観光客の姿も少なく、昔ながらの提灯の明かりを中心とした光の中で幻想的に山鉾や町会所が照らし出され昔ながらの祇園祭の雰囲気を味わえる絶好の機会です。

 

 

山鉾巡行(やまほこじゅんこう)

 

山鉾巡行は、コンチキチンの祇園囃子とともに山や鉾が京都の中心街を巡る祇園祭のハイライトで、現在33基の山鉾が都大路を絢爛豪華な姿で巡行しています。前祭(さきまつり)は、神輿がお旅所へ渡御する17日に、後祭(あとまつり)は、神輿が八坂神社へ戻る24日に行われます。その先駆けとして、前祭に23基が、また後祭に10基が巡行するのです。山鉾巡行は、この神輿が動く前の露払いであり、山鉾を巡行することで京の町の邪気やけがれを清め、祇園祭の主神(八坂神社の神さま)が通る道を作るために行われているのです。

 

山鉾と言っても、「山」と「鉾」は区別されます。両者の違いは屋根の上にあり、「鉾」は、屋根の上に約20mの「真木(シンギ)」という長い鉾が立っているのに対して、「山」は、「真木」ではなく「真松(シンマツ)」と呼ばれる松の木が飾られています。

 

後に詳細に説明しますが、祇園祭りは、昔、疫病が流行したとき、66本の矛を立てたというお話が起源でした。「鉾」を立てたのは、当時都に流行った疫病の原因だとされた怨霊をキラキラと光る飾りに集めて、都の外へ追い出そうとしたのが、始まりだそうです。巡行を終えた山鉾は、そのなかに疫病を携えています。そこで、巡行が終わると、鉾はすぐに解体されます。そうすることによって、疫病を流し去ることができると解されているのです。

 

そうした宗教的な意味が強かった「山」「鉾」は、やがて見せるものへと変化していきました。もともとは手で捧げるようなものが、徐々に台に載せるようになり、南北朝時代(1340年台)から鉾車がつき、車輪が付いたら人を乗せる、人を乗せるなら屋根を付けようと豪華になっていき、室町時代(1360年台)には現在に近い形となったとされています。そして、山は鉾よりも後の14世紀、室町時代に出来たと言われています。人々を楽しませるための見せ物として始まったとされ、当初は、人が担ぎ、その上にも人が乗りお芝居をしていたそうです。山も、昔は人力で担いでいましが、現在は全て車輪がついています。

 

山鉾には、美しい刺しゅうや舶来の織物など懸装品と呼ばれる装飾品に包まれています。その山や鉾の懸装品(山や胴を飾っている織物、タペストリー)の中で、胴の前の懸け物を「前懸け」、両側を「胴懸」、後ろを「見送り」と言いますが、鮮やかな「前懸や胴懸」は重要文化財のものが多く、その姿は豪華で美しく「動く美術館」と言われています。鉾を飾るタペストリー(装飾用の織物)の文様には、日本神話や中国の故事、儒教、仏教、道教の教えなどが採り入れられているだけでなく、ホメロスの叙事詩「イーリアス」や、「旧約聖書」のなかのアブラハムの子、イサクの嫁選びの図をモチーフにしたものもあるなど、国際性豊かな趣向を凝らした飾りつけがなされています。

 

祇園祭りが始まった頃は、現在のように、宵山と山鉾巡行は、前祭(さきまつり)・後祭(あとまつり)に日にちが分かれていました。しかし、戦後、経済成長が続く中、昭和41(1966)年、交通渋滞や観光促進を理由に、前祭と後祭が一日にまとめられ、17日に同時に行われるようになりました。それでも、祭り本来の形を取り戻そうと分離が決定、平成26(2014)年に、およそ50年(半世紀)ぶりに、24日の後祭が復活、本来の祇園祭の姿に戻る(前祭・後祭の元の形に戻る)ことになりました。それに伴い、宵山や山鉾巡行も前祭と後祭の2回、それぞれ行われるようになったのでした。

 

 

神輿渡御(みこしとぎょ)

 

神輿渡御とは、御神霊を神輿に遷(うつ)し、氏子地域を渡御することで、その地に暮らす人々の平穏が祈念されます。普段は八坂神社にまつられている御祭神が、祇園祭の際に神輿に移し、渡御により町にお出ましになります。山鉾で有名な祇園祭ですが、この神輿こそが信仰を表した祭の真髄です。

 

祇園祭の神輿は3基あり、中御座神輿(なかござみこし)、東御座神輿(ひがしござみこし)、西御座神輿(にしござみこし)と呼ばれています。各神輿の祭神は次の通りです。

 

中御座:素戔嗚尊(すさのをのみこと)

東御座:御祭神:櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)素戔嗚尊の妻

西御座:八柱御子神(やはしらのみこがみ)2人の子供

 

神輿渡御は、17日に神幸祭(しんこうさい)と24日の還幸祭(かんこうさい)で行われ、神幸祭では八坂神社から御旅所まで巡行し、還幸祭では御旅所から八坂神社に帰ってきます。

 

 

  • 八坂神社

八坂神社は京都の東山にあり、日本全国に約2300社あるといわれる素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を御祭神とする神社の総本社です。八坂神社は、素戔鳴尊(スサノオノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、八柱御子神(ヤハシラノミコカミ)を祀っています。古事記や日本書紀でも伝えられ、日本神話で知られるように、素戔鳴尊は八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、櫛稲田姫命を救って地上に幸いをもたらした神様として有名です。

 

八坂神社の歴史は、平安京建都の約150年前、斉明天皇二年(656)に、素戔鳴尊をこの地に祀ったことにはじまります。のちに「神仏習合思想」により素戔鳴尊は、祇園精舎の守護神の牛頭天王と一体視されました。都の発展とともに日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3,000の分社が日本全国にあり、祇園祭りに習った祭事も行われています。八坂神社はながらく「祇園社」、「祇園感神院」などと呼ばれていましたが、神仏分離によって、明治4年(1871)に「八坂神社」と改称されました。

 

 

◆祇園祭の由来と歴史

 

祇園祭は、今からおよそ1,100年前、疫神怨霊を鎮める例祭である「御霊会(ごりょうえ)」が起源で、祇園御霊会(ごりょうえ)、「祇園会(ぎおんえ)」と呼ばれ、京の町から日本全国に蔓延した疫病退散を祈願して始まった神事です。平安時代前期の貞観11年(869)に、京の都をはじめ日本各地に疫病が流行、蔓延し、「これは祇園牛頭天王の祟(たた)りである」と考えられました。

 

そこで、平安京の広大な庭園であった神泉苑(二条城南側、中京区)に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾(矛)を勅を奉じて立て、「祇園社(ぎおんしゃ)」(現在の八坂神社)から、祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて祀りました。さらに、祇園社(八坂神社)から素戔嗚尊ら三柱を神輿に乗せて送り、疫病退散(災厄の除去)を祈ったのでした。

 

その後、「祇園御霊会」は、疫病が流行る度に行われていましたが、治まることがなく、970(天禄元)年旧暦6月14日から毎年行われるようになりました。平安時代の中頃からは、この御霊会に民衆が積極的にかかわるようになり、規模も大きくなっていきました。また、空車、田楽、猿楽等も加わるなど、徐々に祭りの要素が付け加えられ、御霊会は盛んな賑わいを見せてきました。

 

室町時代になると(南北朝時代には)、町々には特色ある山鉾が作られ、現在のような山鉾巡行が登場したとされています(祭りの重要な神輿を盛り立てた)。応仁の乱(1467~77年)で都は灰燼に帰し、祇園祭も30年以上中断しましたが、1500(明応9)年に復活しました。

 

この頃から、富裕な町衆らにより、山鉾の懸装品に、西陣織だけでなく、フランスのゴブラン織や中国やペルシャなどからもたらされた他のタペストリー(室内装飾用の織物の一種)なども用いられるなど、山鉾は競うように豪華になっていきました

 

戦国の世も終わる安土桃山から江戸時代にかけて、祇園祭りは隆盛を極めていきます。ただし、江戸時代には、戦乱のない平和な時代であった反面、三度の大きな火災に見舞われ、多くの山鉾が焼けました。とくに天明の大火のあとは、復興できなかった町、復興できても何十年もかかった町がでました。また、幕末にも、禁門の変による大火(どんどん焼け)でも、多くの山鉾が被害がでたことから、この維新の混乱期に一度、祭りは行われませんでした。第二次世界大戦中は宵山提灯がつけられなくなったり、山鉾自体も建てられなくなったりしました(1943年から4年間中断)が、終戦後は、昭和22年に神輿渡御とともに長刀鉾(なぎなたほこ)と月鉾が復活したのを皮切りに、年々、復活する山鉾は数を増していきました。

 

このように、火災や戦乱などで、祭りが実施されないこともありましたが、その度に、町衆の力によって立ち直り、祭りの伝統は守られ、祇園祭りは国内外で認知されています。

 

昭和37年(1962):「山鉾29基」が国の重要有形民俗文化財に指定。

昭和54年(1979):「祇園祭の山鉾行事」が重要無形民俗文化財に指定。

平成22年(2010):ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録。

 

 

祇園祭の主な日程とその内容

 

1か月に及ぶ祇園祭りの諸行事の流れを確認したいと思います。これは来年、祇園祭りを見るために参考にしてもらいたいからではなく、祇園祭りは、神道の神事であることを強調いたいからです。

 

7月1日:吉符入り(きっぷいり)

一ヶ月の期間に無事祭りが進行するよう氏神様に祈願し、あるいは世話役宅の床の間に「牛頭天王」の掛け軸を掛け祈願する行事

 

7月1日:長刀鉾町お千度

山鉾巡行に伴う神事は、伝統的に稚児(ちご、男の子)が行っていました。しかし、江戸時代、函谷鉾(かんこぼこ)が再建にあたって人形稚児にしたことから、他の鉾でも徐々に変更がすすみ、現在では、長刀鉾だけ生稚児の制度を守っています(他の鉾は人形が代行している)。この日は、町内役員が、その年の稚児(ちご)・禿(かむろ)を伴い、祇園祭の安全と無事を祈るために八坂神社に参拝します。朱傘をかざされた長刀鉾の稚児(ちご)が袴の稚児衣装に身を包み、八坂神社の正門から入って本殿を3周回るのが習わしだそうです。

 

この生稚児の制度に関して興味深いしきたりが、「知られざる祇園祭/神となる稚児-京に癒やされ」の中で描かれていたので紹介します。

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長刀鉾町では6月下旬になると、幼子と父親と鉾町は養子縁組の結納の儀を執り行う。堅めの杯が済むと幼子は長刀鉾町への養子となる。その後13日に「社参」し長刀鉾町の神に任免される。社参の日から山鉾巡行の日まで、稚児は各町の神様なのである。その神様の期間は稚児は精進潔斎の生活で、女性の差し出す食事も禁じられており、地面に足をつけてはならないという習わしも守られている。

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7月2日、鬮取式(くじ取り式)

山鉾巡行の順番を決める

 

7月10日~13日:鉾建(前祭)

各鉾町それぞれに鉾の組立にかかる。

 

7月10日:神用水清祓式と神輿洗式

神輿洗に使用する神事用の水を鴨川から汲み上げお祓いする。午後6時、奉告祭斎行後、松明を点じ四条大橋に至り、四条大橋上で神輿を清める。

 

7月12日~14日:山建(前祭)

各山町それぞれに山の組立にかかる。

 

7月13日:長刀鉾稚児社参

現在では長刀鉾以外では人形が用いられている。長刀鉾稚児は立烏帽子水干姿で従者を伴い騎馬にて八坂神社に詣でる。俗にお位もらいともいう。17日の巡行迄、身を慎み、巡行当日は長刀鉾正面に乗り太平の舞を舞う。

 

7月14日~16日 宵山(前祭)

 

7月16日(午後11時):日和神楽

翌日の山鉾巡行の晴天を祈念し、各山鉾町の囃子方が町家から四条御旅所の間を往復する間、祇園囃子を奏する。

 

7月17日 山鉾巡行(前祭さきまつり)

前祭・山鉾巡行では、午前9時、各山鉾が四条烏丸に集結します。長刀鉾を先頭に前祭の計23基の山鉾(鉾9基、山14基)が各町を出発し祇園囃子も賑やかに所定のコースを巡行します。四条麩屋町での長刀鉾稚児による「注連縄(しめなわ)切り」や、山鉾が各交差点で方向を変える「辻(つじ)回し」などが行われます。

 

四条麩屋町にさしかかる所に、南北の角に建てられた「斎竹(いみたけ)」と呼ばれる青竹に、しめ縄が張られています。このしめ縄は、神の域と人の域の境に張られた結界をあらわすものです。そこから先は、神の領域だというしるしです。後ろに22基を率いる先頭の長刀鉾は、この結界を解いて神の域に踏み込みます。神々しい衣裳に身を包んだ稚児が、太刀を振り下ろしてしめ縄を切って落とします。そして、鉾はゆっくりと動き出します。

 

次なる見せどころが、四条河原町でおこなわれる「辻回し」です。巨大な鉾が90度、方向転換するシーンは、ダイナミックそのものです。

 

 

7月17日 神幸祭(しんこうさい)

午後4時:神輿渡御に先立ち本殿にて祭典が行われる。

 

午後6時 神輿渡御

八坂神社の石段下にて三基の神輿の差上げが行われる。その後氏子区域を夫々所定のコースに従い渡御する。午後9時頃より相次いで四条御旅所に着輿し、後24日迄奉安される。

 

17日の神幸祭では、まず八坂神社の西楼門で出発式。午後6時頃、3基の神輿が出発し、氏子町内を巡行します。三基の神輿は、それぞれ別々のルートを通り、御旅所を目指します。

 

 

17日~21日 山・鉾建(後祭)

前祭山鉾巡行の翌日から、後祭(あとまつり)に向けて、各山鉾町それぞれに山・鉾の組立にかかります。

 

21日~23日 宵山(後祭)

14日~16日と同じ。

後祭の宵山では露店の出店が規制され、本来の祭り情緒が楽しめる。

 

23日 日和神楽

翌日の山鉾巡行の晴天を祈念し、各山鉾町の囃子方が町家から四条御旅所の間を往復する間、祇園囃子を奏する。

 

 

7月24日 山鉾巡行(後祭あとまつり)

午前9時半に、橋弁慶山を先頭に後祭の山鉾10基(鉾1基、山9基)が各町を出て烏丸御池に集結、祇園囃子も賑やかに所定のコースを巡行。前祭とは逆向きのコースを進みます。復活した大船鉾や、前祭とは逆向きの辻回しなどが見どころです。

 

24日の巡行の際には、あとに続く「花傘巡行」が注目されています。かつて17日に合同で33基全てが巡行していた際に、24日に何もないのは、ということになり、文字通り花を添えるという意味で始まった行事です。花街の方を中心とした花傘をかぶった女性がずらりと並んで歩いていきます。

 

7月24日 還幸祭(かんこうさい)

午後5時頃、四条御旅所を三基の神輿が出発。所定のコースを経て、八坂神社に戻ります。御神霊を本社に還す祭典が執行されます。

 

28日 神用水清祓式、神輿洗式

10日に同じ

 

29日 神事済奉告祭

祇園祭の終了を奉告し神恩を感謝します。

 

31日 疫神社夏越祭(なごし祭)

伝説の蘇民将来(そみんしょうらい)をお祀りする、八坂神社の境内摂社「疫神社」において行われます。

 

◆蘇民将来伝説

昔々、八坂神社御祭神であるスサノヲノミコト(素戔嗚尊)が南海に旅をされた時、巨旦将来(コタンショウライ)と、蘇民将来(ソミンショウライ)の兄弟に一夜の宿を請いました。兄の巨旦将来は富栄えていたのにもかかわらず拒否しましたが、弟の蘇民将来はとても貧しかったのですが、粟がらを敷き、粟の粥を作り暖かくもてなしました。

 

蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、翌朝、「我はハヤスサノヲの神である。後世に疫病が流行した時、「蘇民将来の子孫と名乗り、その印として、茅(ち)の輪を腰につけていれば、災厄を免れる」と約束して立ち去さられました。後に疫病が流行ったとき、巨旦将来の子孫は死に絶えましたが、蘇民将来の子孫は疫病を免れ代々繁栄したということです。

 

この故事にちなんで、疫神社の夏越祭(なごし祭)では、鳥居に大茅輪を設け、参拝者は之をくぐって厄気を祓い、「蘇民将来之子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)」と書かれた護符(「茅之輪守」)と「粟餅」を社前で授かります。このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。

 

現在、京都では、疫病退散の印として「蘇民将来子孫也」と書いたものをの身に付けたり、素戔鳴尊のご利益のお守りとされている茅(ち)の輪が始まりとされる粽(ちまき)のお守りを家の玄関につけたりするのが慣わしです。

 

 

  • 祇園祭のちまき

 

祇園祭の「ちまき」は、厄除けのために各山鉾町で売られています。ちまきが厄除けの役割を担っているのは、「蘇民将来伝説」にあったように、八坂神社の祭神・素戔嗚尊(すさのおのみこと)が旅の途中でもてなしてくれた蘇民将来に対し、お礼として「子孫に疫病を免れさせる」と約束し、その印として「茅(ち)の輪」を付けさせたことがきっかけです。その後、「茅(ち)の輪」が変化して「ちまき」になったのではないかとされています。祇園祭のちまきは、もともと食べ物ではありませんでしたが、2006年に、祇園祭で初の「食べられるちまき」が販売されて話題となりました。

 

以上、ここまで主に神事としての観点から祇園祭りをみてきました。次回は、一見、信じがたい「裏・祇園祭り」の世界があることを紹介してみたいと思います。

 

 

<参考>

京都の歴史を彩る「祇園祭」

祇園祭とは|京都の伝統・祇園祭|わかさ生活

祇園祭 いよいよ最終章へ( 京都の魅力を発信する「らくたび」)

京都新聞:祇園祭りサイト

祇園祭・歴史と文化:京都の観光情報

祇園祭・京都観光オフィシャルサイト

知られざる祇園祭 / 神となる稚児 – 京に癒やされ(五所光一郎)
ぎおん畑中(畑中誠司)

京都検定勉強ノート

京都市観光協会:祇園祭りサイト

京都市:祇園祭りサイト