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2019年12月11日

伝承:諏訪明神と安曇氏とのつながり

諏訪大社に祀られている諏訪明神(タケミナカタノカミ)は、海洋民だったアズミ(安曇、阿曇)氏とつながりがあるとの見方があります。内陸に位置する諏訪の神と海の民がどう関係しているのでしょうか?

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安曇氏とは?

アズミ(安曇)という氏族は、弥生時代のころ、北九州周辺にいたとされています。彼らの発祥地とされているのが、福岡県の中でも、玄海灘に臨む交通の要所として、聖域視されていた志賀島です。その博多湾の志賀島に鎮座しているのが、志賀海神社(しかうみじんじゃ)で、元寇の役など国難の際には神威を示しめしてきたとされています。また、同社は、海神を祭る神社の総本宮となっており、神職は今も阿曇(=安曇)氏が受け継いでいます。また、志賀島と言えば、古代史では、漢委奴国王の金印が発見されたことで有名ですね。安曇族の主要拠点で、そういうものが見つかったわけですから、安曇氏が重要な一族であった事が示唆されます。

 

安曇族は、主に海上を活動を拠点とする人たちで、すぐれた航海術と稲作技術を持っていたとされています。当時北九州には、大陸から渡って来た人たちが大勢いたと言われていますが、その中心が安曇氏で、他にも宗像氏、海部氏、住吉氏などの氏族の名前が知られています。安曇氏が、古代の海人(あま)族の中でも最も有力な氏族であったようです。そういう安曇族ですので、彼らは、神武天皇以前の親族に対して朝廷から与えられた称号である連(むらじ)の姓(かばね)を持っていました(それゆえに安曇連とも呼ばれた)。

 

安曇氏の移動

そんな安曇族も、6世紀の中ごろ、理由は定かではありませんが、北九州の本拠から、全国各地に散らばりました。もっとも一説によれば、安曇氏と同じく北九州に拠点をおく豪族の筑紫君磐井(つくしのきみいわい)と大和朝廷と争った磐井の乱(527~528年)が原因という説があります。この乱で、安曇氏は敗者側の磐井に与したため本拠地を失い、各地に移住することになったというのです。

 

さて、彼らの移動先は、北九州、鳥取、大阪、京都、滋賀、愛知、岐阜、群馬、長野と広範囲にわたっており、文字通りなら安曇、阿曇、渥美(あずみ)、字は異なりますが、厚見(あつみ)、安曇(あど)、安土(あど)、安堂(あどう)、会見(おおみ)など地名としての「痕跡」がいくつも残されています。現代でも、次のように、日本各地に安曇の異字同意の文字を持つ場所があります。

 

長野県の安曇野市、

岐阜県の厚見郡(現在の岐阜市)

愛知県の渥美半島

滋賀県の安曇川(あどがわ)

静岡県の熱海市

 

このように、安曇族の移住先の一つが、長野県の安曇野(松本市や大町市周辺)地域であったのです。そんな安曇族が、どのようなルートで、この地にたどり着いたのかについては、以下のような説があります。

 

  1. 北九州から、日本海を経て、新潟県糸魚川市付近にたどり着き、そこを流れる姫川を遡っていったという北陸道説
  2. 北九州から瀬戸内海、大阪の安曇江(東横堀の旧名)を経由したという東山道説
  3. 北九州から瀬戸内海から渥美半島(安曇族の開拓地)へ達した後、天竜川を上った天竜川筋説

 

では、今回のテーマである、出雲神話に登場する諏訪明神(タケミナカタノカミ)と、海洋民アズミ(安曇、阿曇)氏との関係を探るために、安曇氏の出所を、さらに神話の世界に遡ってみたいと思います。

 

安曇氏の祖先神

古事記には安曇族の祖先神は「綿津見命(わだつみのみこと)」とその子の「穂高見命(ほたかみのみこと)」であると書かれています。実際、穂高見神は、その名の通り、安曇野市に創建された穂高神社に祭られています。そもそも、「穂高」という町も安曇族の祖先神、穂高見命が地名となっています。また、穂高神社で、毎年9月に開かれる御船祭(みふねまつり)には、船型の山車が登場します。山々に囲まれた穂高で海の祭りが行われるのは、やはり安曇野を拓いた海洋族の安曇氏を偲んでのことだと言われています。

 

一方、穂高見命の父、綿津見神(わたつみ)は、伊邪那岐(いざなぎ)神から生まれたとされています。神話において、伊邪那美の死後黄泉(よみ)の国から帰った伊邪那岐が、禊(みそぎ)をした後、天照大神、素戔嗚、月読命とともに生まれています。しかし、この神話や系図は、古事記や日本書紀の編者の「創作」とする見方があり、この立場に立てば、綿津見は日本古来の神ではなく、海を渡って来た渡来神とされています。では、綿津見(わたつみ)とはどういう神様なのでしょうか?

 

海神:わたつみ(綿津見)

福岡県の博多湾周辺に「わたつみ(綿津見)」と呼ばれる海洋民族がいたそうです。中国の後漢書によれば、後年ここには奴という国があり、その王が漢の光武帝から漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)の金印を拝受しました。前述したように、その場所は福岡の志賀島、即ち安曇氏の発祥の地であり、主要拠点です。つまり、「わたつみ(綿津見)」と呼ばれる海洋民族とは、安曇氏のことではないかと推察されます。

 

「わたつみ(綿津見)」の「わた」は「海」、「つ」は「の」、「み」は「神」を意味する古語なので、わたつみは「海の神」と解されています。また「つみ」とは「住む」という意味もあるそうです。そうすると、「わたつみ」は「海に住む神」で、その子孫(安曇族)は海洋族(海人族)となるのですね。では、「わたつみ(綿津見)神」は、外来神と言われているということは、彼ら海人族は、どこの地から海を渡り日本に来たのかといえば中国大陸の南方からと見られています。そうすると、わたつみ(綿津見)神は、大陸の南方系の神、即ち揚子江の南(江南の地)の神となります。

 

江南からの渡来人

江南の地は、紀元前4世紀ごろ、楚・越・呉の三国がありました。「楚(そ)」は、江南の地からやや内陸側、現在の湖北・湖南省あたりを治め、「越(えつ)」は、長江の河口付近、浙江省あたりを、「呉(ご)」は越の北をそれぞれ支配していました(彼らは百越と総称される)。

 

当時、この三国は互いに戦いを繰り広げた、結局、呉は越に滅ぼされ、越は楚に滅ぼされました(紀元前334年)。越の滅亡後、楚の支配を嫌った人々は、脱出し、朝鮮半島や北九州にたどり着いたとされています。さらには、現在の山陰(出雲)や北陸地方にも到着したと見られています。北陸には、かつて福井県から山形県にかけて「越国(コシの国)」という国がありました(その後、越前・越中・越後と分割された)が、越人が渡来したことが地名にも反映しています。なお、楚、呉、越の3国は、日本にはなじみ深く、楚は「四面楚歌」、呉と越は「呉越同舟」の故事で知られています。また、「呉服」とは、呉の機織の方法が日本にも伝わり、その織物で作った服のことを言います。

 

いずれにしても、紀元前4世紀ごろ、越人(あるいは百越の人々)が、日本に大量にやってきたと解されます。越人(百越人)以外にも、中国東北部の旧満州地区にいたツングースという民族(女真、扶余、契丹、粛慎などの部族に分かれる)も、北九州方面に渡来していました。ただし、綿津見さらには安曇族はツングース系ではなく南方系とされています。

 

一方、現在の島根県東部には、いつ頃かは不明なようですが、出雲族と呼ばれる人たちがいました。一説には、彼らも渡来系で、ツングース系または越人だった言われているのです。もし、越だとしたら安曇氏と出雲氏は同族ということになります。

 

記紀に基づく出雲神話では、国譲りを迫った天照大神の使者、建御雷神(たけみかづち)に対して、大国主神は二人いた息子の一人、事代主神(ことしろぬし)に決定を委ねます。事代主はこれに応じ、呪文のような所作をした後、波間に消えます。これに対して、もう一人のもう一人の息子の建御名方(たけみなかた)は反対し、建御雷神(たけみかづち)と力比べを挑みますが、簡単に破れて逃げだします。信濃国(長野県)まで逃げた建御名方(たけみなかた)は、その地を出ないという条件で助命された・・・・という話しになっています。建御雷神と建御名方神の力比べは相撲の発祥とされ、諏訪に逃げた建御名方(たけみなかた)を祭る社が現在の諏訪神社であると説明されています。

 

この神話の世界が、史実を象徴的に表現されたものとするなら、次のように解されています。

 

出雲地方は、大国主命(おおくにぬしのみこと)の支配下にあり、奈良の三輪山当たりまで及ぶ勢力を誇っていました。しかし、そこに奈良盆地に興った「ヤマト(大和)」勢力が周辺諸国と戦いながら勢力を広げ、やがて出雲と対立するようになり、ヤマト側は、建御雷神(たけみかづち)という将軍を派遣・・・・。つまり、建御雷神(たけみかづち)と建御名方(たけみなかた)の力比べは両国の戦争ということになりますね。敗れた出雲側の建御名方(たけみなかた)は諏訪まで敗走、事代主神(ことしろぬし)は自害、大国主は幽閉されたということなのでしょうか?

 

また、出雲の人々も、「ヤマト」の支配を嫌い、出雲を逃げ出し、建御名方のように信濃国に留まった人もいれば、さらに北上し、秋田や青森など東北地方に行きついたという見方もあります。出雲と東北は言語(方言)や信仰、文化の面で多くの共通点があるそうです。

 

■タケミナカタは安曇族か?

安曇族が、信濃の安曇野にたどり着くために、新潟県糸魚川市を流れる姫川をさかのぼったという説を紹介しましたが、建御名方命も安曇族も同じように姫川をさかのぼって信濃国に逃げたという見方もあります。さらには、建御名方の出雲から信濃への逃走は、そもそも姫川を遡った安曇族の移動のことを示しているという極論すらあります。その際、安曇族は安曇野にとどまりましたが、建御名方は諏訪湖まで逃げたと解釈されます。

 

いずれにしても、「諏訪に逃げてきた建御名方神(たけみなかた)」という表現は、出雲神話に基づくものであって、これを信濃の神話の観点からは、出雲から建御名方神が信濃に侵攻してきたのであり、これを迎え撃ったのが土着のモリヤ神ということになります。(⇒モリヤ神とミシャグジ神

 

現在、このモリヤ神との戦いに勝った建御名方神は、諏訪大社上社本宮で祀られています。また、諏訪神社上社前宮と下社の祭神である八坂刀売神(やさかとめのかみ)は、建御名方神の妃であり、安曇族の祖先神わたつみ(綿津見)の娘とされています。果たして、建御名方神(たけみなかた)は、中国南方系の渡来神、わたつみの子孫である安曇(あずみ)族の流れをくむ神様なのでしょうか?歴史と同様に神話もロマンです。個人的には安曇氏に対する関心がさらに高まってきました。

 

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付記

最後に、次のような伝承があることを紹介して今回は終わりにしたいと思います。

 

建御名方神(たけみなかた)は、わたつみ神の移動で「越の国」に定住し、越国から信濃に攻め込んできたというものです。ただし、信濃に侵攻したのは、建御雷神(たけみかづち)との戦いに敗れたからなのか、それとも別の理由からなのか、そもそも建御名方神(たけみなかた)は、大国主の子なのかなどの疑問が残ります。

 

しかし、いずれにしても、この伝承の立場に立てば、出雲の稲佐浜での建御雷神(たけみかづち)と建御名方神(たけみなかた)の力比べで、建御雷神が完勝したという神話は、記紀の編者によるヤマトの支配を正当化するための「創作」という可能性もでてきます。神話の世界では、建御雷神はその名の通り雷神という自然の神であるのに対して、建御名方神は武人であり実在神という位置づけです。そうなると、自然の神(雷)が、実在の神(人)と戦うことはないと指摘する向きもあります。

 

<参考>

諏訪の神様ってどんな神様?(matchy)

パワースポット諏訪大社のご利益(日本の観光地・宿)

安曇族の謎(明神館)

関東農政局(HP)

ウィキペディア(artwiki)など

2019年12月07日

伝承:諏訪大社「御頭祭」は旧約聖書の再現か?

本HP「レムリア」右欄の「日本の祭り」に、「諏訪の祭り」をアップしました。諏訪大社の祭りと言えば、「御柱祭(おんばしらさい)」を思い浮かべる人のほうが多いと思われますが、かつては、「御柱祭」とともに、「御頭祭(おんとうさい)」も盛大に行われ、むしろ、「御頭祭」の方が、諏訪大社で最も重んじられていた祭りであったそうです。御頭祭では、鹿をはじめとして動物が生贄として供えられていますが、基本的に、日本にはない生贄という風習が、なぜ御頭祭では行われていたのか興味が沸いてきました。そこで、今回、諏訪神社の御頭祭(おんとうさい)について、さらに調べてみると、驚きの仮説がありました。

 

また、本投稿記事の理解のために、以下の過去の投稿記事も読まれるとさらに理解を深めることができると思います。

神社:諏訪大社と住吉大社

伝承:モリヤ神とミシャグジ神

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聖書の創世記に、アブラハムが神の命令を受けて、ひとり子「イサク」を捧げようとしたという物語があるのをご存知の方もいるでしょう。このイサク伝承が、諏訪大社に伝わり、「御頭祭(おんとうさい)」で再現されていると指摘があります。ではまず、創世記(22章)に書かれたイサクの話しを確認してみましょう。

 

イサク奉献の伝承

神はアブラハムに、愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、そこでイサクを「全焼のいけにえ」として捧げよ、と命じられた。アブラハムは、苦悩したが、結局その命令に従い、モリヤの地に向かった。そこに着くと、アブラハムはイサクを縛り、たきぎの上に横たえ、小刀を振り下ろそうとした時、主の使いが、彼の手を止められます。神はイサクの信仰の深さを試されたのでした。また、神はアブラハムに、近くの「やぶに角をひっかけている一頭の雄羊」を示された。アブラハムはその雄羊を、イサクの代わりに、全焼のいけにえとして捧げた。こののち、神はアブラハムを祝福し、ひとり子イサクを通してその子孫は繁栄しました・・・。

 

では、諏訪大社の「御頭祭」とはどういうお祭り(神事)であったのか復習してみましょう。(御頭祭を含む諏訪大社の祭りについては「諏訪の祭り」を参照

 

御頭祭(おんとうさい)

御頭祭は、かつて、諏訪大明神の子孫(生き神)とされる「大祝(おおほおり)」が神事を行い、大祝の代理として、「神の使い」としての役割を持った「神使(おこう)」と呼ばれる選ばれし童子が、信濃国中を巡って豊作祈願するために大社を出立するという形式で行われたとされています。

 

しかし、御頭祭の様式は時代ととも変遷を遂げており、さらに古い時代の儀式では、「おこう(神使)(御神)」は、「生け贄」のために、鹿肉が大量に串刺しにされた「御贄柱(おにえばしら)」と呼ばれる柱に縛りつけられたそうです。そして、人々が「おこう(神使)」を柱ごと、竹のむしろの上に押し上げると、小刀が登場します。そして、神官が御子をその小刀で刺そうとした瞬間、馬に乗った諏訪の国司の使者や御贄柱を肩にかついだ神官が現れて、御子は解放されます。この「おこう」の風習は、今日の御頭祭ではもう見られなくなりましたが、江戸時代頃まではあったそうです。

 

そうすると、童子(「おこう(神使)」)が、縄で縛られ、竹のむしろの上に置かれるあたりは、イサクが縄でしばられて、たきぎの上に置かれた光景と同じです。また、アブラハムがイサクを小刀で葬ろうとしたように、御頭祭の儀式では、「おこう」のもとにも小刀が出てきて、神官がこの御子を小刀で刺そうとしました。さらに、最後の段階で、旧約聖書では「主の使い」が現われた後、イサクは生け贄になることから免れたと同様に、童子(「おこう(神使)」)が刺されようとした瞬間、馬に乗った諏訪の国司の使者が現れて、御子は解放されて祭りは終わります。

 

加えて、御頭祭が今も普通の神道行事とは異なる「奇祭」と言われる所以(ゆえん)は、現在では剥製が使用されているとは言え、かつては、神事の際、生きた鹿がその場で殺され生贄として、鹿(の頭)が75頭も供えられていました。中世の時代には鹿が丸ごと捧kげられていた時代もあったそうです。実は、「御頭祭」の名前もここから来ています。動物のいけにえの風習のなかった日本においては、この諏訪の鹿のいけにえの風習は、たいへん奇異に見られていたというのは当然です。しかし、御頭祭が、旧約聖書の「イサクの伝承」からきていると言われれば、納得できますね。

 

ただし、旧約聖書の伝承では、少年イサクの代わりに生贄にされたは鹿ではなく羊です。日本にはもともと羊がいなかったからとの見方もありますが、その理由は、諏訪の土着神の一柱、千鹿頭神(ちかとのかみ)に関係がありそうです。その父神が鹿狩りの際、1000頭の鹿を捕獲したという逸話から、千鹿頭神と名付けられ、狩猟神として諏訪の人々に親しまれています。御頭祭に鹿の頭が供えられていたこととも関連しているような気がします。

 

さて、御頭祭で生贄にされた75頭の中に必ず一頭は耳の裂けた鹿がいたそうで、その鹿は、”神様の矛にかかったもの”と信じられ、特別視されました。この鹿は、「高野の耳裂鹿(みみさけしか)」と呼ばれ、諏訪大社の七不思議の一つに数えられています。しかし、これも旧約聖書のイサク伝承に立ち返れば、息子のイサクが解放されると、アブラハムは、「角をやぶにひっかけている一頭の雄羊」を発見し、その羊を生贄に捧げるという記述があります。そこから、その羊は「神が獲ったもの」とみなされ、イサク伝承の「角をやぶにひっかけている雄羊」と御頭祭の「(やぶにひっかけて)耳の裂けた鹿」とのつながりもあるとの見方もあります。

 

守矢氏、守屋山、洩矢神、みなモリヤ

このように、かつての諏訪大社の御頭祭は、旧約聖書の「イサクの伝承」そのものであったと言うことができます。また、アブラハムがイサクを生贄に捧げようとした場所も、「モリヤの地」と呼ばれた小高い山であったように、御頭祭が行なわれている諏訪大社は、守屋山(モリヤ山)のふもとに位置しています。

 

実際、諏訪大社の神事は、モリヤの地(守屋山)で行なわれ、モリヤ家が主宰しています。「守矢家」(モリヤ家)は、諏訪大社の御頭祭を司る「神長」(のちに神長官)という筆頭神官の位を古来より、代々世襲し、この地の祭祀と政治の実権を握ってきました(現在、守矢家の御当主は、78代目である)。守矢家の祖先神は、伝承では「モリヤの神」(洩矢神(もりやのかみ)、または守矢神(もりやのかみ))となっています((「洩矢神」は”もれやのかみ”と読まれることもある)。「モリヤの神」は、モリヤ山(守屋山)に祀られています。「モリヤ」という名は、このようにモリヤ山(守屋山)、モリヤの神(洩矢神、守矢神)、モリヤ家(守矢家)というように、様々に残っています。

 

ただし、諏訪大社の祭神は、出雲神話で有名な大国主命の子である建御名方神(たけみなかたのかみ)と、その妃・八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、それぞれ上社本宮と前宮の主祭神です。しかし、タケミナカタの神が、諏訪に侵攻してくる以前(出雲神話では、タケミカヅチの神との力比べに負けて逃げてくる以前)、この地方で民衆が古くから信仰している諏訪大社の神は、諏訪の土着神である「ミサクチ神」(ミシャグジ、ミシャグチ)と言われています。地元の資料にも、「諏訪大社の祭政は、ミサクチ神を中心に営まれている」と記載されています。なお、前述した守矢氏が受け継いできた神長官(じんちょうかん)という役職は、神事全般を掌握するだけでなく、土着の「ミサクチ(ミシャグチ)」の神霊を呼び降ろするという祭事を担ったとされているので、やはりモリヤ氏が関わっています。

 

ミサクチ(ミシャグジ)はイサクか?

いずれにしても、諏訪大社の「御頭祭」も、この「ミサクチ神(ミシャグジ、ミシャグチ)の祭りであるということもできるかもしれません。「ミサクチ神」は、漢字では「御佐口神」と書いたり、「三社口神」「御社宮司神」「佐久神」「射軍神」「尺神」などと書いたりしますが、定説ではありません。いずれも当て字で、元来は外来語と解されています。外来語に由来するとなると、神名のミサクチ(ミシャグジ)とは、ヘブライ語系の言語で、ミ・イツァク・ティン=ミ・イサク・チ=イサクになるとの指摘があります(「ミ」は接頭語子音で日本語の「御」に相当、「チ」は接尾語)。

 

もしこの説が正しければ、ミサクチ(ミシャグジ)神は、イサク神のことであるとなります。ただ聖書では、人間は決して「神」とは呼ばないので、諏訪では、イサクをイサク神として神格化されたのかもしれません。一方、その頃の諏訪の地では、蛇神に対する信仰の色が濃い文化がありました。そうすると、マタノオロチの「チ」が「蛇」を意味すると言われているように、ミサクチの「チ」は蛇の意であるとの見方もできます。実際、ミサクチ(ミシャグチ)神そのものも、諏訪の蛇神であるソソウ神やモレヤ(洩矢)神、さらにはチカト(千鹿頭)神など、その土地の他の神々と習合して、龍蛇神や木石の神、狩猟の神という性質を持つようになったとされています。

 

このように、諏訪大社の諏訪大社の「御頭祭」は、ヤハエ信仰の人たちがイサク伝承を諏訪に伝えたことに始まり、その時点から時を経て、イサクは神格化され、諏訪の神、ミサクチ(ミシャグチ)神と習合しながから、現在のミサクチ神の姿に変貌していったと解することもできると思われます。

 

<参照>

諏訪大社の主な年中行事

天下の大祭…信濃国一之宮「諏訪大社」・御柱祭のご案内

諏訪大社に伝わるイサク奉献伝承

幻想に彩られた元祖諏訪明神「ミシャグチ」。その意外な正体とは?

2019年12月04日

ニュース:両陛下、即位関連行事終了

即位関連行事終わる 両陛下、宮中三殿で拝礼

(2019/12/4、日本経済新聞)

 

天皇、皇后両陛下は4日、皇居・宮中三殿のうち、皇祖神の天照大神を祭る賢所で、「御神楽(みかぐら)の儀」に臨まれた。天皇陛下が即位された5月から約7カ月にわたって続いた一連の即位関連行事は、この儀式ですべて終了した。これに先立ち、両陛下は同日午前、宮中三殿で即位礼と大嘗祭(だいじょうさい)が無事終了したことを報告する「親謁の儀」にも臨まれた。陛下は天皇専用の伝統装束「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」、皇后さまは五衣(いつつぎぬ)、小袿(こうちぎ)、長袴(ながばかま)の古式装束姿で拝礼された。即位関連行事は、5月1日の「剣璽等承継の儀」などの国事行為をはじめ、天皇一代に限り一度きりの皇室行事「大嘗祭」といった宮中祭祀(さいし)など30以上に上った。

2019年12月02日

伝承:モリヤ神とミシャグジ神

諏訪大社の祭神は、記紀に伝わる出雲神話の神、建御名方神(タケミナカタノカミ)ですが、11月7日の投稿「諏訪大社と住吉大社」で、「もともと諏訪にはモリヤ(洩矢)という土着の神様がいましたが、そこにタケミナカタがやってきて、戦いの末に諏訪の地は奪われた」という伝承があると紹介しました。そこで、今回は、諏訪の土着の神、モリヤ(洩矢)神、さらには、モリヤ神を調べていくうちにでてきたミシャグジという神様に注目してみました。

(本投稿から初めて読まれる方は、「諏訪大社と住吉大社」の諏訪大社の項目を読んでからの方が理解が深まると思います。)

―――――

 

建御名方神vs洩矢神

「古事記」の国譲り神話には、出雲の国の伊那佐の小浜で、天孫族の建御雷神(タケミカヅチ)との力比べに敗れた建御名方命(たけみなかたのみこと)は、諏訪(洲羽)に逃れてきて、諏訪の神になったと書かれていますが、諏訪にはタケミナカタ以前に「洩矢(モリヤ、モレヤ)の神」がいました。

 

洩矢神は、諏訪大社に祀られているタケミナカタ(諏訪明神)の諏訪入りに抵抗した土着神とされています。室町時代初期に編纂された「諏訪大明神画詞」にも、「大和朝廷による日本統一の前の時代、諏訪の地には、洩矢(もりや)神を長(おさ)とする先住民族が狩猟を主体として住んでいましたが、そこに出雲王国の建御名方神(タケミナカタノカミ)率いる一族が、稲作の技術を持って進入して来た」という記載があります。

 

神戦の舞台は、江戸時代の伝承記録には天竜川のほとりとあります。現在でも両者の戦った場所は残っているとされ、出雲族の建御名方神の陣地跡には藤島明神(長野県岡谷市)が祀られ、洩矢神の陣地跡には天竜川を挟んで洩矢大明神が洩矢神社(岡谷市)に祀られているそうです。

 

戦いは、地主神の洩矢(モリヤ)神と洩矢族が負け、侵略者である建御名方神に諏訪の統治権を譲り、建御名方神が諏訪大社の御祭神と成りました。ただ、現在も建御名方神は、諏訪様(諏訪大明神)として、人々に親しまれています。これは、勝者である建御名方神が、侵略者としての圧政は敷かず、むしろ、洩矢族とともに諏訪を統治したことがあげられています。それどころか、この地に稲作を伝え、諏訪の国も豊かにしたことから、先住民である洩矢の人々と新しく来た出雲系の人々は、共存するようになったと言われています。さらに、建御名方神(タケミナカタノカミ)は、洩矢族の長を洩矢の神を祭る神官として認め、洩矢族に代々祭政を任せたのでした。今もこの神官の地位(神長官)を守矢氏が引き継ぎ、現在78代目(守矢早苗さん)なのだそうです。

 

守矢(もりや)氏

諏訪の土着の神、モリヤ(洩矢)神を氏神とする氏が、守矢一族とされ、守矢氏は洩矢神の後裔とみられています。前述したように守矢氏が受け継いできた神官名が、諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)です。この役職は、後述する「大祝(おおほうり)」という神職の即位式を含め、神事全般を掌握するだけでなく、土着の「ミシャグジ(ミシャグチ)」という神を降ろしたり上げたりするという祭事を担います。

 

大祝(おほいわり)とは、神職の最高位の階級で、成年前の童子が、決められた地域からそれぞれ1年毎に選ばれて即位しました。選ばれた童子は、即位式に当たり、神長官の屋敷の一室に一定期間籠り、儀式に臨みます。儀式は、諏訪大社前宮境内に、幕を引いて神殿を設け、そこで神長官(守矢氏)がミシャグジ神霊を呼び降ろし、「大祝(おおほうり)」に選ばれた童子に憑依させて現人神とするものだそうです。守矢(モリヤ)氏が代々務めた神長官(神長)は、「諏訪大社上社大祝(おおほうり)の職位式」などの神事を行ったり、呪術によって神の声を聴いたり、豊作祈願など祈祷する力などを持つとされました。

 

これに対して、諏訪神官の最高位である大祝という生神の位に就いた氏が、建御名方命の子孫である諏訪氏(神氏)です。諏訪氏といえば、戦国時代、武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重が思い出されます。諏訪一族は、「大祝(おおほうり)」を代々務め、当時、頼重は信濃の名族・諏訪氏の惣領家でもありました。武田信玄は、諏訪の地を支配するために、諏訪頼重を討ち、頼重の娘を側室にしました。そして二人の間に生まれた勝頼を諏訪惣領家の後継に据えたのでした。

 

諏訪神社上社において、この「大祝(おおほうり)」を補佐して実質的に祭祀を取り仕切る役職が、洩矢神の子孫の守矢氏によって引き継がれた諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)という筆頭神官(諏訪大社の神職の長)の位です。そして、守矢(もりや)家が、古くから「七本の峰のたたえ」を守ることで、ミシャグジ神を祀ってきたと言われています。「七本の峰のたたえ」とはミシャグジが降りる木とされ、この内の一本が、守矢家屋敷の近くの「尾根(縄文時代の墓としての土坑)で、発掘されています。このため、守矢氏の氏神とされる洩矢神は、守矢氏が祀るミシャグジと同一視されることもあるそうです。そこで、洩矢(モリヤ)の神とミシャグジという神について、みてみましょう。

 

洩矢神(もりやしん、もりやのかみ)

侵攻してきた建御名方神(たけみなかたのかみ)との戦いに敗れた洩矢神には、守宅神(もりやのかみ、もりたかのかみ)と多満留姫命(たまるひめ)の二柱の御子神がいました。多満留姫命は、建御名方神の御子神・出早雄命(いづはやおのみこと)に嫁ぎました。このことは、土着神という洩矢神系と建御名方神の出雲系が婚姻したことを意味し、神話的には、戦いに敗れた守矢神が、娘を、建御名方神の御子に嫁がせ、延命と勢力保持を図ったという言い方が可能です。

 

洩矢神のもう一人の御子である守宅神は、洩矢神の祭政の跡継ぎとなり、千鹿頭神(ちかとのかみ)をもうけました(母神は未詳)。守宅神が鹿狩りの際、1000頭の鹿を捕獲した後に生れたことがその名の由来のようです(現在も千鹿頭神は、狩猟神として信仰されている)。

 

洩矢神

守宅神-多満留姫命

千鹿頭神

 

千鹿頭神(ちかとがみ)は、洩矢神の祭政官としての地位を、守宅神から引き継ぎましたが、後に松本、奥州へと追放されてしまいます。このため、千鹿頭神の後継者となったのは、建御名方神の孫である児玉彦命(こだまひこのみこと)でした(児玉彦命は、守矢氏の系図では四代目に数えられる)。このことは、土着の洩矢神の血族がこの段階で断絶してしまってことを意味します。その後、洩矢神の祭祀は、児玉彦命(こだまひこのみこと)から、その子の八櫛神(やくしのかみ)、そして守矢氏が引き継ぎました。ですから、守矢氏は、洩矢神の後裔と言われていますが、血筋は直接つながっていないことになります。それにもかかわらず、その祭祀を受け継いだ守矢氏は洩矢神を一族の遠祖としているのです。ということは、タケミナカタ系の守矢氏が、諏訪大社上社の神長官をし、「ミシャグチ」を上げ下ろししていたことになります。では、守矢氏が守ってきたとされるミシャグジとは、どういう神様なのでしょうか?

 

ミシャグジ(チ)

ミシャグジとは、記紀には登場しない、太古より日本に伝わる、諏訪湖の土着神で、ミシャグジに対する信仰は、大和民族に対する先住民の信仰とされていました。その起源は縄文時代から祀られてきたといわれ、当初は、主に樹木、笹、石など、自然万物に降りてくる精霊・自然神と言わています。また、諏訪の御射山(みさやま)をご神体とする山神として、マタギ(猟師)をはじめとする山人達から信仰されていました。

 

さらに、時代を経るにつれて、ミシャグジは、諏訪の蛇神であるソソウ神やモレヤ(洩矢)神、さらにはチカト(千鹿頭)神など、その土地の他の神々と習合して、龍蛇神や木石の神、狩猟の神という性質を持つようになったと考えられています。ですから、ミシャクジはこうした神々とも同一視されることもあるのです。

 

また、民俗学者の柳田國男は、ミシャグジを、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に一種の標識として立てた塞の神(サイノカミ)=境界の神とみなしていました。塞の神とは、境の神の一つで、村や部落の境にあって,他から侵入する邪悪なものを防ぐ神だそうです。

 

前述したように、現在、ミシャクジは、諏訪大社上社に祀られ、ミシャグジ降ろしの祭祀において、神官に憑依して宣託を下す神です。大昔には、一年毎に八歳の男児が神を降ろす神官にあ選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供(ひとみごくう)(人間を神への生贄とすること)とされるといった伝承も残されています。

 

ミシャグジ神を信仰する地域は、東日本広域に渡り、ミシャグジ信仰は、長野県の諏訪地方を中心に、山梨県、静岡県、愛知県、三重県、岐阜県、滋賀県など東日本の広域に渡って分布しています。全国のミシャグジを祀る神社は約1800社もあります(このうち長野県には750余りのミシャグジ社が存在)。諏訪大社上社の前原は、ミシャグジを統括する祭祀場だったとされています。その信仰形態は多様で、地域によって差異はあります。

 

ここまで、出雲の建御名方神(タカミナカタノカミ)が出雲に侵攻してくる(記紀の出雲神話では逃れてくる)以前にいた、諏訪地方の土着の神である、洩矢(モリヤ)神とその一族とされる守矢氏、さらには、彼らが祀っていたミシャグジ(ミシャグチ)という神様についてまとめてみましたが、さらに興味深い話しがいくつか続きます。

 

洩矢(モリヤ)神は、物部守屋か?

古代史を紐解けば、仏教の受け入れを巡り、587年、崇仏派の蘇我馬子に討たれた物部守屋という人物がでてくると思います。日本史の教科書には、この結果、神道護持の物部氏は滅び、仏教は朝廷に公認され、広く布教されていく事に・・・式の説明がなされています。

 

しかし、諏訪では、物部守屋は、蘇我氏との戦いに敗れた後、諏訪の地まで落ち延びて、この地に祀られたとの伝承があるそうです。その祀られた場所が現在の守屋神社(長野県伊那市)です(この諏訪にある守屋神社と、岡谷市にあるモリヤ神を祭る洩矢神社は別の神社)。さらに、諏訪大社の裏に‘守屋’山(もりやさん)という山があり、諏訪大社上社の御神体である神体山とされ、その神官が、古代この地を治めていた洩矢族の78代目の守矢氏です。

 

ところが、「もりやさん」の字は、ミシャグジ神を代々祭る神長官・守矢氏の「守矢」ではなく、物部‘守屋’の「守屋」であることが興味深いですね。さらに、守屋山の頂上には磐座があり、守屋神の奥の宮とされているのです。まさに、洩矢神も物部守屋、どちらのモリヤも同じ守屋山を御神体として、諏訪信仰の聖地に祭られてるのです。なお、物部氏と守矢氏の関係では、物部守屋の次男の武麿が、守屋山に逃れて、やがて守矢家へ養子入りして神長官となったという説があります。実際、その人物のお墓とされる古墳もあるようです。

 

古代イスラエルに遡る?

古代イスラエルには、「モリヤ」という聖なる地があったそうです。「イスラエルの失われた十支族」という伝承があるのはご存知ですか?旧約聖書に記されたイスラエルの12支族のうち、行方が知られていない10支族が日本にきていたというもので、この内のある支族が、紀元前のある時期に諏訪の地に入り、自らをモリヤ族と名乗り、狩猟を主としてこの地に安住していたとする説があるのです。

 

この伝承に従えば、諏訪の国を侵攻してきた建御名方神(タケミナカタノカミ)も、この「モリヤ」が何であるかを知っていたからこそ、洩矢族の祭っていた神を認め、諏訪大社にも祀られるようになりました。さらに、同じイスラエルの支族の物部氏も、大和政権成立後、政治の中心にいましたが、「崇仏論争」で蘇我氏に敗れた物部守屋は、同じ洩矢族を頼って諏訪まで落ち延び、そこで安住した…という説もでています。

 

日本とイスラエルの古代史を融合させるのは無理があるような気もしますが、実は、ミシャグジも関連性があるようです。そもそも、ミシャグジ(チ)という神名も珍しいですよね?この立場に立てば、ミシャグジ(チ)とは、正確には、ミサクチ=ミ・イサク・チだそうで、これはヘブルアラム語のミ・イツァク・ティン=イサクに由来するとされています。または、古代の神ということから、語源的にはアイヌの音に通じるという説もあります。古代史はまったく興味が尽きません。

 

<参照>

信濃國一之宮 諏訪大社(公式サイト) より抜粋

諏訪大社とはー御柱祭

諏訪大社/上社前宮(3)

日本の神様辞典、やおよろず

ミシャグジ神を祭る神長官守矢氏 古代史日和

倭国、大和国とヘブライ王国

諏訪大社・上社前宮/神旅、仏旅 むすび旅

トランヴェール2019/9JR東日本など

 

2019年11月30日

ニュース:秋篠宮さま、お誕生日

秋篠宮さま きょう54歳の誕生日

(2019年11月30日  NHK News Web 抜粋)

 

皇位継承順位1位の皇嗣の秋篠宮さまは、30日、54歳の誕生日を迎えられました。秋篠宮さまは、皇嗣として初めて迎える誕生日を前に、お住まいのある赤坂御用地で記者会見に臨まれました。この中で秋篠宮さまは、新しい時代の皇室像などを尋ねられたのに対し、上皇さまの姿を念頭に、「国民と苦楽を共にし国民の幸せを願いつつ務めを果たしていく、これはやはり基本にあることだと、私は考えております」と述べられました。そのうえで、「時代によって要請も変わってきます。時代時代に即した在り方というのは、常に考えていかなければいけないと思っています」と話されました。

 

一方、秋篠宮さまは、長女の眞子さまと、婚約が内定している小室圭さんの結婚に関する質問にもこたえられました。眞子さまは去年2月、ご自身と小室さんの気持ちを文書であらわし、結婚に向けた行事などについて、「皇室にとって重要な一連のお儀式が滞りなく終了したあとの再来年に延期し、十分な時間をとって必要な準備を行うのが適切であるとの判断に至りました」と記されました。

 

秋篠宮さまは、こうした経緯を踏まえて、「この次の2月で2年たつわけですね。やはり、昨年の2月に今の気持ちというのを発表しているわけですので、何らかのことは発表する必要があると私は思っております」と話されました。また、結婚の見通しについては、去年の記者会見で、「多くの人がそのことを納得し、喜んでくれる状況にならなければ、いわゆる婚約に当たる納采の儀(のうさいのぎ)というのを行うことはできません」などと述べられています。秋篠宮さまは、今回の会見で、眞子さまと結婚のことについて話をする機会はないと話し、「結婚の見通しについては昨年お話ししたことと変わっておりません」と述べられました。

2019年11月30日

ニュース:中曽根元総理、死去

中曽根康弘元首相が死去 101歳

(2019年11月29日、NHK News Web)

 

「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄の民営化や日米安全保障体制の強化などに取り組んだ、中曽根康弘・元総理大臣が29日、東京都内の病院で亡くなりました。101歳でした。中曽根・元総理大臣は、大正7年に、群馬県高崎市で生まれ、昭和16年に旧東京帝国大学を卒業し、当時の内務省に入ったあと、太平洋戦争中は海軍の士官を務めました。そして、昭和22年の衆議院選挙で、旧群馬3区に、当時の民主党から立候補して初当選し、その後、自民党の結成に参加して、20回連続で当選しました。この間、昭和34年に第2次岸改造内閣の科学技術庁長官として初入閣し、防衛庁長官、運輸大臣、通産大臣のほか、自民党の幹事長や総務会長などを務めました。

 

また、改進党に所属していた当時、被爆国の日本でも、原子力発電に向けた研究開発が不可欠だとして、原子力関係の予算案の提出を主導したことでも知られました。中曽根氏は、当時の佐藤栄作総理大臣の長期政権のもと、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫と並んで、いわゆる「三角大福中」の一角をなし、「ポスト佐藤」の候補として、党内の実力者のひとりに数えられるようになりました。昭和57年11月、自民党の総裁予備選挙で、河本敏夫氏、安倍晋太郎氏、中川一郎氏を抑えて、第71代の内閣総理大臣に就任し、「戦後政治の総決算」を掲げて、懸案の解決を目指しました。昭和60年8月15日には、戦後の総理大臣として初めて、靖国神社に公式参拝しましたが、中国などから強い批判を受け、それ以降は参拝を見送りました。中曽根氏は、行政改革などに尽力し、第2次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」の土光敏夫氏と二人三脚で、「増税なき財政再建」に取り組み、当時の「国鉄」、「電電公社」、「専売公社」の民営化に取り組みました。

 

一方、外交面では、総理大臣就任からまもない昭和58年1月に、当時、関係がぎくしゃくしていた韓国を訪れて関係改善に道筋をつけて、そのままアメリカを訪問し、レーガン大統領との間で強固な信頼関係を築きました。互いを「ロン」「ヤス」と呼び合うレーガン大統領との関係は、中曽根外交の基盤となり、昭和58年11月にレーガン大統領が日本を訪れた際には、東京 日の出町のみずからの別荘「日の出山荘」でもてなし、中曽根氏がほら貝を吹く姿も話題になりました。昭和60年3月には、旧ソビエトのチェルネンコ書記長の葬儀を利用して、ゴルバチョフ新書記長との首脳会談も実現させました。

 

一方、中曽根氏は、私的な諮問機関を設けることで、大統領型のトップダウン政治を目指したほか、日米貿易摩擦をめぐる記者会見では、みずからグラフを指し示したり、水泳や座禅をする様子を公開したりするなど、パフォーマンスのうまさでも知られました。昭和61年には、「死んだふり解散」、「ねたふり解散」とも呼ばれる、衆参同日選挙を行い勝利を収め、党総裁としての任期が1年延長されました。しかし、昭和62年4月の統一地方選挙で敗北し、みずからが目指していた売上税の導入を断念し、その年の10月には、当時、「ニューリーダー」と呼ばれた、安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一の3氏の中から、竹下氏を後継総裁に指名し、11月に退陣しました。中曽根氏の総理大臣としての在任期間は1806日と、当時としては異例の5年におよび安倍、佐藤、吉田、小泉の4氏に次ぐ、戦後5番目の長期政権となりました。

 

総理大臣退任後、リクルート問題で、平成元年5月に衆議院予算委員会で証人喚問を受け、党を離れましたが、2年後に復党しました。そして、平成8年の衆議院選挙では、小選挙区制度の導入に伴い、当時の党執行部から、比例代表の終身1位で処遇することを確約され、小選挙区での立候補を見送りました。翌年には、大勲位菊花大綬章を受章したほか、国会議員在職50年の表彰も受けました。しかし、平成15年の衆議院選挙の際、当時の小泉総理大臣が、比例代表の73歳定年制の例外を認めず、中曽根氏は立候補を断念して、56年に及ぶ国会議員としての活動に幕を閉じました。

 

中曽根氏は、政界引退後も、安全保障や国際交流のシンクタンクの会長を務め、内政や外交をめぐって積極的な発言を続け、みずからの心境を、「くれてなお命の限り蝉しぐれ」と詠んでいます。とりわけ、憲法改正には強い意欲を示し、新しい憲法の制定を目指す、超党派の国会議員らでつくる団体の会長を務めてきたほか、おととし5月に出版した著書では、戦力の不保持などを定めた9条2項を改正し、自衛隊の存在を憲法に位置づけるべきだなどと提案しました。葬儀は近親者のみの家族葬 後日 お別れの会開催

2019年11月28日

ニュース:京都東本願寺、親鸞をしのんで「坂東曲」

親鸞の命日 東本願寺で坂東曲

(2019年11月28日 NHK News web)

 

浄土真宗を開いた親鸞の命日にあたる11月28日、京都市の東本願寺では、体を前後左右に激しく揺らしながら念仏を唱える「坂東曲(ばんどうぶし)」が行われました。「坂東曲」は、京都市下京区にある真宗大谷派の本山、東本願寺で親鸞の命日にあわせて毎年行われており、鎌倉時代にいまの関東にあたる「坂東」で弟子たちが親鸞をしのんで念仏を唱える姿がもとになっているとされています。

また、親鸞が越後に流されたときに荒波で揺れる船の上で念仏を唱える姿だとする説も伝えられ、境内の御影堂では、全国から集まった僧侶およそ70人が、正座をしたまま体を前後左右に激しく揺らして念仏などを唱えました。

28日は、23年余りにわたって真宗大谷派のトップを務め、来年6月に退任することが決まっている大谷暢顯門首(89)もあいさつしました。真宗大谷派では、来年7月から大谷暢顯門首のいとこの大谷暢裕鍵役(68)が門首に就任することになっています。

2019年11月28日

ニュース:両陛下、歴代天皇陵をご参拝(~12/3)

両陛下、神武天皇陵をご参拝 「親謁の儀」で 

(2019.11.27、産経新聞、一部抜粋)

奈良県を訪問中の天皇、皇后両陛下は27日、同県橿原(かしはら)市の神武天皇陵を訪れ、皇位継承に伴う一連の国事行為「即位の礼」と、一世一度の重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」を終えたことを報告する「親謁(しんえつ)の儀」に臨まれた。神武天皇陵では、モーニング姿の陛下がゆっくりと陵墓の前に進み、玉串をささげて拝礼された。皇后さまも同様の所作でご拝礼。

 

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天皇、皇后両陛下が京都の孝明天皇陵を参拝

(2019年11月27日、京都新聞)

天皇、皇后両陛下は27日午後、即位の礼や重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」の終了を報告する「親謁(しんえつ)の儀」として、京都市東山区にある明治天皇の父、孝明天皇の陵を参拝された。この後、両陛下は京都大宮御所(上京区)に宿泊、28日午前には伏見区の明治天皇陵を参拝する。

 

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天皇皇后両陛下 京都の明治天皇陵に参拝

(2019年11月28日、NHK News Web要約)

 

天皇皇后両陛下は、28日、天皇陛下の即位に関連する儀式として、京都市伏見区にあるの明治天皇陵に参拝され、「即位の礼」や「大嘗祭」の中心的な儀式が終わったことをご報告されました。儀式は、小雨の中で行われ、はじめに、傘を手にしたモーニング姿の天皇陛下が、宮内庁の幹部の先導で、鳥居をくぐり、玉砂利が敷かれた参道をゆっくりと歩いて木立に囲まれた天皇陵の前に進まれました。両陛下は、このあと午後2時すぎから、京都御所で関西などの各界の代表を招いて茶会を催され、20分余りにわたって、招待者と和やかにことばを交わされていました。両陛下は28日夜、東京に戻られました。

 

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両陛下 昭和天皇と大正天皇の陵に参拝

(2019年12月3日、NHK Web News)

 

天皇皇后両陛下は3日、天皇陛下の即位に関する儀式として、東京都内にある昭和天皇と大正天皇の陵に参拝されました。両陛下は3日午前10時すぎ、東京 八王子市の武蔵陵墓地に到着されました。はじめに、昭和天皇が埋葬された「武蔵野陵」に参拝する儀式が行われ、モーニング姿の天皇陛下は、宮内庁の幹部の先導で鳥居をくぐり、砂利道をゆっくりと歩いて陵の前に進まれました。そして、玉ぐしを供えて深く拝礼し、「即位の礼」や、「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心的な儀式が終わったことを伝えられました。続いて、グレーの参拝服の皇后さまも、天皇陛下と同様の手順で深く拝礼されました。このあと、大正天皇陵に参拝する儀式が行われ、天皇陛下と皇后さまは、それぞれ玉ぐしを供えて深く拝礼し、同じように儀式の終了を伝えられました。

 

両陛下は4日、皇居の宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)に参拝するなどして、ことし5月から続いた天皇陛下の即位に関する一連の儀式をすべて終えられます。

 

2019年11月27日

神社:出雲大社と神在祭

旧暦10月の「神無月」を出雲の島根県では「神有月(神在月)」と呼ぶという理由は、「全国の神様が島根県の出雲大社に集まるので、ほかの地域に神がいなくなるからだ」という伝承に関心が沸いて、神在祭それから出雲大社についてまとめてみました。

 

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 出雲大社

出雲の国は、神の国、神話の国として知られ、今も古の神社が多くあります。その中心が「大国主命(オオクニヌシノミコト)」をお祀りする出雲大社です。その本殿は高さ24メートルと神社では異例の高さですが、古代は48メートルだったと伝えらえています。これは、技術的に不可能とされてきたそうですが、00年に境内から巨大な柱跡が見つかり現実味を帯びてきたと言われています。

 

祭神:大国主神(オオクニヌシノカミ)

記紀神話によれば、大国主命(オオクニヌシノミコト)は、素戔鳴尊(スサノオノミコト)の子で、最初は大己貴命(オオナムチノミコト)という名前でした。ほかにも多くの名前があり、大物主神(おおものぬしのかみ)や八千矛神(やちほこのかみ)も、大国主神(命)のことで、神話のなかで物語が展開するたびに呼び名が変わっています。

 

さらに、大国主神は、小づちを持って俵の上に乗った姿が有名な大黒様(福の神)として慕われている神さまでもあります。大黒様(だいこくさま)は「天の下造らしし大神」と言われているように、大国主神は、国造りの神として広く知られ、少彦名神(スクナビコナノカミ)と協力し、国土を開拓され、農耕・漁業など殖産の方法を教えるなど、国づくり、村づくりに奔走されました。また、因幡の白ウサギを助けた神話にあるように、医薬の業を始めになって、医薬の神としての信仰も受けています。

 

大国主命(神)の子には、鯛と釣竿を持った恵比寿様として知られる事代主神(コトシロヌシノカミ)や、建御雷神(タケミカヅチノカミ)との力比べに敗れて諏訪へ隠遁したとされる建御名方神(タケミナカタノカミ)がいます。ともに国譲り神話に登場します。その大国主神も、国土を天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に譲ってお隠れになられ、出雲大社にお祀りされています。

 

出雲大社創建の由緒

有名な「国譲りの神話」の舞台となったのが、出雲大社に近くにある稲佐(いなさ)の浜です。神話によると、出雲の地を初めに治めていたのは大国主命でしたが、天上界の天照大神(アマテラスオオミカミ)が使者を送り、豊かな現実の世界である「現世=顕世(うつしよ)」の統治権を、自分の一族に譲るように求めました。この時、使者としてこの稲佐の浜に上陸したのが、建御雷神(タケミカヅチノカミ)でした。

 

大国主大神は、建御雷神(タケミカヅチノカミ)に「国譲り」を同意されますが、「私の治めている、この現世の政事(まつりごと)は、皇孫(すめみま=皇孫)がお治めください。これからは、私は隠退して幽(かく)れたる神事を治めましょう」と述べ、「国譲り」に応じる代わり、自らは死後の世界である「幽世(かくりよ)」を治め、かつ自らの住まいとして、今の出雲大社の建立するという合意がなされたと伝わっています。

 

出雲大社はまた、縁結びの神様として有名です。その背景には、大国主命は「幽世(かくりよ)」を治める神なので、目には見えない縁を結ぶ神であるという考え方が広がったことがあるようです。さらに、神無月(旧暦10月)に、全国から神々をお迎えして、縁結びや酒造りなどを含めた「幽れたる神事」について合議されるという伝承もここから生まれました。実際、旧暦10月は、全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲の国に集まり、日本中の神々が出払い留守になるので、「神無月(かむなづき)」といいますが、出雲では旧暦10月は、「神有月(神在月)(かみありづき)」と呼ばれ、様々な神事が営まれます。

 

遷宮(せんぐう)事業

出雲大社では60年に1度の遷宮(せんぐう)事業があります。直近では、ご神体の移動を伴う「本殿遷座」が2013年に終え、屋根の修造などが16年まで続きました。

 

 

出雲大社の神事

全国の神々が集う出雲の各神社では「神迎祭(かみむかえさい)」に始まり、中心の神事である「神在祭(かみありさい)」、そして、神々をお見送りする「神等去出祭(からさでさい)」が行われます。

 

神迎祭(かみむかえさい)

記紀神話の「八百万神」が全国から島根県の出雲大社へ年に1度集まるとされる旧暦10月10日夜、稲佐の浜で、浜辺にしめ縄で囲った斎場が設けられ、全国からやってくる神々の目印となるように、かがり火(御神火)が焚かれます。斎場の中には、神籬(ひもろぎ)が2本、傍らに神々の先導役となる龍蛇神が海に向かって配置され、神職が祝詞をあげます。なお、竜蛇神(りゅうじゃじん)は、豊作や、豊漁・家門繁栄などの篤い信仰がある神々です。

 

この神事の後は、神職が、神々の乗り移った「神籬(ひもろぎ)」と呼ばれるサカキを絹垣(きぬがき)で覆います。そして、神聖な植物とされる菰が敷かれた「神迎の道」約2キロを、竜蛇神を先頭に、高張提灯が並び奏楽が奏でられる中、出雲大社まで進みます。浜から出雲大社への「神迎の道」は、延々と行列が続きます。この後、出雲大社神楽殿において、国造(こくそう)以下全祀職の奉仕により「神迎祭」が執り行われます。これが終わると、神々は、旅宿社(御宿社)である東西の十九社に、ひもろぎが奉安され、鎮まられます。

 

神在祭(かみありさい)

全国の神々は、旧暦10月11日から17日まで7日間、稲佐の浜に程近い、出雲大社西方950mに位置する出雲大社の摂社「上の宮(仮宮)(かみのみや)」で、神事(幽業)(かみごと)を、神議り(かむはかり)にかけて決められます。大国主命を主宰にしてなされる「神議(かみはかり)」は、1年間の縁結び(男女の結び)や来年の収穫など諸事が話し合われます。縁結びの神議りの様子については、「大社縁結図」(島根県立古代出雲歴史博物館所蔵)に、神々が、木の札にそれぞれ男女の名前を書き、相談してカップルを決めたあと、男女の札を結びつけて「縁結び」しているところが描かれています。

 

御宿社(神々が宿泊する宿)となる出雲大社御本殿の両側にある「十九社(じゅうくしゃ)」などでも、様々な神議りが行われる神在祭中の日のお祭りに併せて、連日お祭りが行われます。例えば、縁結大祭と呼ばれるお祭りがあり、大国主大神をはじめ全国より集われた八百万の神々に対し、世の人々の更なる幸縁結びを祈る祝詞が奏上されます。一方、地元出雲の人々にとって、この期間は、神々の会議や宿泊に粗相がないように、楽器を弾かず、家を建築しないなど、静かに謹んで暮らすことが求められているので、神在祭の間を「お忌みさん」と呼ばれ、神在祭そのものも、「御忌祭(おいみさい)」ともいわれています。

 

 

神等去出祭(からさでさい)

神等去出祭は、旧暦の10月17日と26日の2回にわたり行われ、17日は、人々のご縁を結ぶなどの神議(かみはかり)を終えた神々を見送る神事です。午後4時すぎ、全国から集まった八百万の神々は、宿泊場所とされる出雲大社境内にある東西の「十九社」から拝殿に移られます。その際、「十九社」にあった神籬(ひもろぎ)が絹垣に囲まれて移動されます。拝殿の祭壇に2本の神籬、龍蛇、餅が供えられ祝詞が奏上されます。その後、1人の神官が本殿楼門に向かい門の扉を三度叩きつつ「お立ち~、お立ち~」と唱えます。この瞬間に神々は神籬を離れ出雲大社を去られます。

 

旧暦17日が大社からお立ちになる日だとすると、26日は神々が出雲の国を去られる日です。ですから、26日の祭典は、特に神様が出雲の地を去られたということを大国主大神に報告する儀式となります。なお、出雲大社の他に、日御碕神社や朝山神社、神原神社、神魂神社、多賀神社、佐太神社で神在祭があり、それが終わると旧暦26日、万九千(まんくせん)神社から神々はそれぞれの国に還られるとされています。

 

<参照>

「神在月」出雲観光ガイド

八百万の神々、出迎え厳か 出雲大社「神迎神事」

(山陰中央新報2019/11/7)

稲佐の浜で八百万神お迎え、島根 出雲大社近くで神事

(2019年11月6日 秋田魁新報)

島根 神々が旅立ち、「神在月」の出雲大社

(2019年11月14日、朝日)

 

2019年11月27日

ニュース:出雲大社で「神有月」の神事(11/6~13)

旧暦と現在の暦とは一か月ほどのズレがあるので、今月11月は旧暦10月の行事が行われています。旧暦で10月は神無月といいますが、「無」とは「ない」という意味ではなく、「の」という意味で、10月は神の月、神を祭る月という解釈が一般的な学説だそうです。実際、全国のおコメの産地では、新穀を神に捧げる新嘗祭が各地で行われています。

 

しかし、俗説になってはいますが、10月は全国の神様が島根県の出雲大社に集まるので、ほかの地域に神がいなくなるから、「神無月」になったという伝承があります。その島根県では、旧暦10月を「神有月(神在月)」と呼んで、出雲大社では、全国の神々を向ける盛大な行事が11月に行われていました。

 

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八百万の神々、出迎え厳か 出雲大社「神迎神事」

(2019年11月7日、山陰中央新報)

 

全国から八百万の神々を迎える出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東)の神迎(かみむかえ)神事が旧暦10月10日に当たる6日夜、出雲大社近くの稲佐の浜で厳かに営まれた。月明かりの下でかがり火がたかれ、多くの人が令和となって初の神事を見守った。

 

神職が神々の乗り移った「ひもろぎ」と呼ばれるサカキを絹垣(きぬがき)で覆い、御使神「竜蛇神(りゅうじゃじん)」を先頭に出雲大社へと歩んだ。出雲大社の神楽殿では神迎祭が営まれ、神々の宿となる東西十九社にひもろぎが奉安された。神々は13日夕まで滞在し、出雲大社の摂社・上宮(かみのみや)(同町杵築北)で、大国主命を主宰に1年間の縁結びや農事を話し合う「神議(かみはかり)」を行うとされる。日本中の神々が出払うため、旧暦10月は「神無月」と称されるのに対し、出雲地方では「神在月(かみありづき)」と言われる。

 

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神々が旅立ち、「神在月」の出雲大社

(2019年11月14日、朝日新聞)

 

全国から八百万(やおよろず)の神々が出雲に集うとされる、出雲大社(出雲市)の神在祭で13日、人々のご縁を結ぶ神議(かみはかり)を終えた神々を見送る神事「神等去出祭(からさでさい)」があった。午後4時すぎ、神様の宿泊場所とされる境内東西にある「十九社」から拝殿に移った神々は神職の「お立ちー」の声とともに大社を後にした。

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