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2019年07月24日

歴史:「邪馬台国、畿内説」はもはや通説か?

百舌鳥・古市古墳の世界遺産登録を受け、仁徳天皇をはじめ古代の天皇について調べていたら、邪馬台国に行きつきました。こちらが勉強不足でしたが、邪馬台国が近畿にあったか九州にあったかの議論を飛び越えて、邪馬台国に関する新たな事実の解明が進んでいることを知りました。今回は邪馬台国の卑弥呼についてまとめました。

 

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邪馬台国の存在は、中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述の中から、その存在が明らかになりました。古墳時代の前の弥生時代の後期に「日本は大きく乱れた」と言われ、それが「倭国大乱」と呼ばれる70~80年も続く争乱の時代でした。「魏志倭人伝」によれば、倭国で2世紀の終わりに大きな争乱があり、長い間収まりませんでしたが、邪馬台国の女王卑弥呼を指導者に立てることで鎮まったといいます。邪馬台国の女王卑弥呼は、「鬼道(きどう)に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わ〉した」と書かれ、30の小国を従えるようになったとされています。鬼道とは呪術か、妖術かなど、その神秘性が卑弥呼人気を高めています。

 

ところで、2~3世紀に日本に存在したとされる「邪馬台国」ですが、歴史的に不明確なのは、邪馬台国後に誕生したとされるヤマト王朝(大和朝廷)との関係です。というのも、邪馬台国がどこにあったのか、という疑問に関して、近畿と九州の2つが有力だとされていました。「魏志」には、その方向と距離しか示されていないので、九州説と畿内説で、学者の見解が二分されてきました。もし、邪馬台国が近畿にあったなら、邪馬台国の中の力のある豪族が大和朝廷を開いたとする説が有力となり、逆に邪馬台国が九州にあったとしたら、邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされたとの見方が優勢になると言われています。

 

近畿説、九州説どちらであっても、こ卑弥呼が死亡したのは、「魏志倭人伝」などの文献によって、3世紀中ごろの247年か248年とわかっています。そして、邪馬台国は、3世紀半ばに卑弥呼が亡くなり、その後男性が王に即位したものの政治が乱れたため、壱与という女性が王になったところ、争いが鎮まったと言われています。実際、266年、「晋書」という中国の晋の国の書物に 「倭の女王壱与(いよ)が西晋に使者を送る」ということが記されています。しかし、その後の邪馬台国がどうなったかは定かではありません。

 

一方、3世紀頃になると、奈良には大和王権の象徴とされる大規模な古墳が出現します。そして、古墳時代の始まりは、これまで3世紀末(大体280年ごろ)とするのが、考古学者の一般的な見方でした。つまり、邪馬台国も卑弥呼も、これまでは古墳時代とはあまり関係ない、と考えられていたのです。

 

奈良県桜井市には、出現期古墳の中でも最古級と考えられている「箸墓(はしはか)古墳」があります。この古墳は、奈良県纏向(まきむく)遺跡にある全長約280メートルの日本で最初の巨大な前方後円墳として知られたいます。宮内庁によれば、第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。これは、「日本書紀」の記述に基づくもので、「昼は人が造り、夜は神が造った」という不思議な伝説を伝えています。百襲姫(モモソヒメ)は、巫女のような存在と描かれ、三輪山の蛇神と結婚しますが、最後は箸で女陰を突いて死んでしまいます。そこから箸墓という名がついたと言われています。

 

この百襲姫(モモソヒメ)が、「魏志倭人伝」が伝える卑弥呼のシャーマン的な姿と重なることから、これまで、「箸墓(はしはか)古墳」は、倭国の女王、卑弥呼の墓とする説がありました。この「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説が真実味を帯びつつあるのです。

 

考古学の世界で、弥生時代の集落跡である池上曽根遺跡(大阪和泉市)の発掘調査に活用された年輪年代法の結果が出て以来、これまでの近畿の弥生中期、後期を年代的に見直す動きが進んでいます。その結果、今では、古墳時代の開始を3世紀中ごろとするのがむしろ大勢となっているとのことです。そうすると、古墳時代の始まりが、卑弥呼の死亡時期とピタリと重なり、邪馬台国の時代と、古墳時代が時間的につながるのです。そして、日本で最初の巨大な前方後円墳である箸墓が卑弥呼の墓である可能性がにわかに高まっています。

 

さらに、箸墓(はしはか)古墳のある纏向(むきまく)遺跡の近くに、弥生時代の「唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡」があります。この遺跡は、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られていて、「近畿の首都」とも言われています。纏向(むきまく)遺跡の集落は、唐古・鍵遺跡の集落と入れ代わるように出現したとされ、しかも、ちょうど紀元180年ごろに突如として姿を現したとされています。この紀元180年というのは、卑弥呼が女王になったとされる時期と一致しています。そうすると、日本の古代史は将来的に次のように書かれているかもしれません。

 

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弥生時代の後期、倭国で2世紀の終わりに、「倭国大乱」と呼ばれる70~80年も続いた大きな争乱があったが、紀元180年ごろに出現した卑弥呼によって、国が治められ、畿内に邪馬台国が台頭した。倭国の女王、卑弥呼は、3世紀中ごろ死亡し、巨大な古墳が作られた(箸墓古墳)、古墳時代の幕開けとなった。邪馬台国はその後、滅亡し、大和王権が取って代わった。

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2019年07月24日

歴史:徳川家のその後

7月22日の投稿で、徳川宗家第19代当主の徳川家広氏の参院選出馬とともに、家広氏の人となりも紹介しましたが、明治維新後、徳川家がどうなったかについて、関心がでてきたので以下にまとめました。

 

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16代 徳川家達(いえさと)(1863~1940)

 

徳川家達は、御三卿(後述)の一つである田安家の生まれ(幼名は亀之助)、血筋をたどれば14代将軍徳川家茂とも、13代の徳川家定とも従弟(年下の男のいとこ)にあたることから、誕生から次期将軍候補(15代)として育てられたそうです。家茂も遺言には後継者は家達としていました。しかし、わずか20歳でしかも長州征伐のため滞在していた大坂城で、将軍家茂が亡くなってしまいました。このとき家達はわずか4歳で、当時の外国の脅威が迫っているという緊迫した状況化で、物心つくかつかないかの幼児をトップに据えるのではなく、年長者が望まれるべきとして、15代将軍は一橋家の一橋慶喜(徳川慶喜)に決まったという経緯があります。

 

結果、家達は江戸城に入ることはありませんでしたが、明治政府は「朝敵」とされた慶喜に代わり徳川宗家を継ぐよう命じたことから、1868年5月、当時5歳の徳川家達(いえさと)が、徳川宗家(本家)の16代当主となったのでした。その年の内に明治天皇に拝謁しています。1869年6月、静岡藩知事に就任、駿河府中へ移り住みましたが、1871(明治4)年の廃藩置県によって藩知事の職はなくなりました。その後、10代でイギリスへ留学、19歳の時には帰国して、近衛家の女性と結婚しています。

 

成人になった家達は1884(明治17)年の華族令で侯爵となり、1890(明治23)年に帝国議会が開設されると貴族院議員となりました。形式的には、徳川家が再び国政に関わることになったのです。家達は、その血筋から、政治の表舞台に引き上げられます。東京市長や首相にも担ぎ出されそうになりました。1898(明治31)年に、東京市長選の話しがでてくると、家達は、晩年の勝海舟に相談へ行ったそうです。すると、勝海舟は「徳川家の人間なのだから、よほどのことがない限り、政治に関わってはならない」とアドバイスしたという逸話もあります。実際、家達は、「徳川家が政治の表舞台で目立つのはよろしくない」として、これらの政治的地位を固辞しています。

 

しかし、徳川家達(いえさと)は、1903(明治36)年から33(昭和8)年までは貴族院議長を務めました。その間、家達は1922(大正11)年に、世界初の軍縮会議となったワシントン軍縮会議で全権を務めるなど、国際政治の表舞台にも立っています。ワシントン軍縮会議では、保有艦の総排水量比率を、米と英が5に対して日本は3と定められました。更に失効した日英同盟に代わり、米・英・仏・日の四カ国条約が結ばれています。

 

そのほかにはも、慈善団体やスポーツ協会の立ち上げに関わったりと、いろいろな面の仕事をしております。特に注目されるのは、1940年開催予定の東京オリンピックの委員長も務めています。大河ドラマ「いだてん」でもお馴染みの「柔道」の始祖、嘉納治五郎氏ともに東京誘致に奔走していたのです。もっとも、東京オリンピックは、日中戦争など国際情勢の混迷を受け、日本政府が開催を辞退しました。幻の東京オリンピックとなった1940年、幻の16代将軍、徳川家達はこの世を去りました。

 

 

17代 徳川家正(いえまさ)(1884年3月~1963年2月)

徳川家達の長男として生まれた家正は、主に外交官・政治家として活躍しました。1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、外務省に入省、1925年(大正14年)シドニー総領事を皮切りに、カナダ公使、トルコ大使を歴任し、1937年に外務省を退官しました。その後、父、徳川家達の薨去に伴い公爵を受け継ぎ、1940年に貴族院議員となり、1946年に最後の貴族院議長に就任しました。

 

1963年2月、心臓病のためで死去しました。妻は薩摩藩主島津忠義の十女・島津正子(しまづ なおこ)で、二人の間には、長男・家英がいましたが早世していたため、断絶を恐れた家正は、長女豊子と会津松平家の松平一郎夫妻の次男恒孝(つねなり)を養子としていました。

 

 

18代 徳川恒孝(つねなり)(1940年2月~)

徳川恒孝氏は、前述したように、会津松平家から養子入りし、徳川宗家の当主を引き継ぎました。会津松平家と言えば、最後は朝敵となった会津藩主松平容保の松平家で、恒孝は、松平容保のひ孫に当たります。恒孝氏は、学習院大学政経学部卒業後、実業界に入り、日本郵船で副社長を務めました。現在、公益財団法人徳川記念財団初代理事長、公益財団法人東京慈恵会会長など公的な地位にあります。

 

恒孝氏の父の松平一郎(1907~1992)は、太平洋戦争中、横浜正金銀行職員としてシンガポールに赴任しており、終戦で収容所に入れられていたそうです。また、恒孝氏の父方の祖父である松平恆雄は第1回参議院議員通常選挙に当選し、第1回国会の議長選挙で初代の参議院議長に選出されています。徳川宗家は、現在、恒孝氏の嫡子、徳川家広氏が引き継いでいます。

 

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御三家と御三卿

冒頭で、徳川宗家第16代当主、徳川家達(いえさと)は、「御三卿の一つである田安家の生まれ」と書きましたが、ここで、御三卿、それから関連する御三家について説明してみたいと思います。

 

御三家

徳川御三家とは、徳川家一族である尾張家、紀伊(紀州)家、水戸家の三家のことを指します。初代の家康が、後に徳川の血が絶えたら困るからという理由で創設しました。仮に徳川宗家(本家)から後継ぎがでなくても、徳川一族の三家(「御三家」という)から出せるようにしたのですね。形式的には、家康の子供がそれぞれ興した分家が「御三家」です。

 

尾張徳川家←9男 義直

紀州徳川家←10男 頼宣

水戸徳川家←11男 頼房

 

このうち「紀州徳川家」からは、将軍家に跡継ぎが無いときに養子を出すことが出来ました。7代将軍家継が、七歳でこの世を去った際(この時、家康から続いた直系が途絶える)、御三家のうち、紀州家から出た八代将軍・徳川吉宗でした。14代将軍家茂も紀伊徳川家出身です。ちなみに15代将軍「徳川慶喜」は水戸徳川家の出身ですが、将軍になる前に、次に説明する「御三卿」の一角である「一橋徳川家」に養子に出されているので、徳川慶喜は、水戸家からの将軍ではないという扱いです。

 

御三卿

その御三卿とは、徳川吉宗が、御三家だけでは心もとないとして、自らの子ども達を分家させて作った体制を指します。それらは田安家、一橋家、清水家の三家でした。御三卿はいわば、将軍家や御三家に跡継ぎが無い場合に養子をだすために作られたと言えます。

 

8代吉宗の次男 宗武⇒田安徳川家

8代吉宗の四男 宗尹⇒一橋徳川家

9代家重の次男 重好⇒清水徳川家

 

御三卿は大名ではなく「徳川家の家族」という位置づけで、家格は御三家の次になります。それぞれの名の由来は、江戸城の門の名称、すなわち田安門、一橋門、清水門からきています。正式には「田安門・一橋門・清水門に近くに住んでる徳川家の人」ということになります。

 

14代将軍徳川家茂のように、田安家から御三家の紀州へ養子に出た例もある一方で、15代将軍一橋慶喜のように、格上にあたる御三家から来た人もいます。御三卿に中では、11代将軍家斉は一橋家の出身で、14代家茂はもともと田安家の出、15代慶喜は一橋家からの将軍です。幕末にかけて御三卿の存在は、徳川家継承の面では実にありがたいものになっていくのでした。

 

現在の御三家と御三卿はどうなっているのでしょうか?御三家では、紀州徳川家は、19代当主、徳川宜子(ことこ)氏が継承していますが、独身のため養子を得なければ今代で断絶となります。尾張徳川家は22代当主、徳川義崇(よしたか)、水戸徳川家は15代当主、徳川斉正(なりまさ)が当主を継承しています。御三卿ではそれぞれ当主は健在です。

 

田安徳川家:11代当主 德川宗英(むねふさ)

清水徳川家:9代当主 徳川豪英(たけひで)

一橋徳川家:14代当主徳川宗親(むねちか)

 

なお、徳川慶喜は、明治維新のshs後、徳川宗家から別家として改めて公爵を授けられたことから、徳川慶喜家として、存続しましたが、最後の当主・徳川慶朝(よしとも)が2017年9月に亡くなっており、養子も取らなかったために断絶しています。

 

(参考)

幻の16代将軍・徳川家達~幻の1940年東京オリンピックで委員長だったとは!

徳川宗家「第19代目」が参院選に出馬 自民党ではなく立憲民主党を選んだ理由

(2019年6月13日 デイリー新潮。週刊新潮WEB取材班)

日本の歴史についてよくわかるサイト

武将ジャパン

御三家と御三卿って何がどう違う?吉宗が御三卿の田安家を創設する

徳川「御三家と御三卿」の違いは?役割やその特権について分かりやすく解説

2019年07月22日

参院選:徳川家康の末裔が出馬していた!

今回の参院選で、徳川家康の末裔で、徳川宗家第19代目の徳川家広氏が、静岡選挙区から、立憲民主党公認候補として出馬していました。徳川家広(いえひろ)氏(1965年2月生まれ)は、政治経済評論家や、翻訳家・作家として活動され、公益財団法人徳川記念財団理事や、家康をまつる久能山東照宮(静岡市駿河区)の祭司を務めています。

 

小学1年生から3年生までをアメリカで過ごし、学習院高等科に進学した後、慶應義塾大学経済学部卒業を経て、米ミシガン大学大学院で経済学修士号を取得しています。その後、財団法人国際開発高等教育機構(FASID)、国連食糧農業機関(FAO)に勤務し、コロンビア大学大学院で、政治学研究科を修了(政治学修士号)されました。2001年に帰国後、翻訳・執筆活動のほかに、新聞、雑誌など各メディアで評論活動を精力的にされていました。

 

このように学歴・職歴も目を見張るものがあれば、血統もサラブレットです。徳川家広氏は、血統的には、徳川宗家16代徳川家達(いえさと)の玄孫(孫の孫、やしゃご)であるだけでなく、最後の会津藩主、松平容保の男系の玄孫、島津久光の来孫(孫の曾孫、きしゃご)でもあります。父は徳川宗家第18代当主、徳川恆孝(つねなり)で、当主の地位は父から受け継いだもの。FAOベトナム支部勤務時代に知り合ったベトナム人女性と結婚している。子女はない。

 

静岡市内にある駿府城は、初代家康が築城、秀忠に将軍職を譲った後に居城した、先祖代々縁の深い土地からの出馬となりましたが、現職2人に敗れて落選となりました(得票数は、30万1895票、5人中3位で次点)

2019年07月14日

皇室:実在した天皇,、実在しなかった天皇?

現在の天皇陛下は、初代とされる神武天皇から数えて、第126代の天皇でいらっしゃいます。ただ、歴史的に126人の天皇が実在したかについては疑問視されています。そこで、百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群が世界遺産に正式登録されたことで、仁徳天皇が注目されていることを契機に(仁徳天皇すら実在していなかったとみる見方もある)、古墳時代(飛鳥時代以前)の天皇についてみてみましょう。

 

実在した天皇についての学説の対立

初代天皇とされる神武天皇から第25代天皇の武烈天皇までは、実在したのか伝説の天皇なのかが議論されています。現在のところ、第10代崇神天皇以降が実在であるという見方が多いようです。その根拠は、神武天皇と崇神天皇が同一人物であるという見解に基づいています。もしそうだとしたら、第2代綏靖(すいぜい)天皇から、第9代開化(かいか)天皇までは、実在しなかったということになります。実際、2代天皇から9代天皇まで欠けた8代を「欠史八代」などと呼ばれたりしています。

 

個人的にはすべての天皇は実在されたと思っていますが、今回は、通説?に従って、第10代崇神天皇から第31代用明天皇までを概観してみます。

 

第1代神武(じんむ)天皇

第2代綏靖(すいぜい)天皇

第3代安寧(あんねい)天皇

第4代懿徳(いとく)天皇

第5代孝昭(こうしょう)天皇

第6代孝安(こうあん)天皇

第7代孝霊(こうれい)天皇

第8代孝元(こうげん)天皇

第9代開化(かいか)天皇

 

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比較的実在性の高い最初の天皇とされる崇神天皇とはどういう天皇っだったのでしょうか

 

第10代崇神(すじん)天皇

崇神天皇は、3世紀から4世紀にかけて即位したとされています。当時、日本各地にそれぞれ王朝があり、独自の政治が行われていました。日本で最初の統一王朝といえば、一般的には大和朝廷の名で知られていますが、崇神天皇の治世に初めて全国が統一されたという説が有力です。

 

崇神天皇以降、第11代垂仁天皇から第15代応神天皇へと続いた後、第16代天皇として即位されたのが、今回の世界遺産登録で注目されている仁徳天皇です。この間、記紀(古事記と日本書記)神話では、日本武尊の物語や、新羅遠征など逸話もあります。

 

第11代垂仁(すいにん)天皇

第12代景行(けいこう)天皇

諸国平定を行い、子の日本武尊(ヤマトタケル)を諸国へ派遣した。

 

第13代成務(せいむ)天皇

第14代仲哀(ちゅうあい)天皇

仲哀天皇の皇后であった神功(じんぐう)皇后は、応神天皇即位までの間摂政を務め、三韓遠征(新羅遠征)、内乱鎮定などを行ったことで知られています。

 

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第15代応神(おうじん)天皇

応神王朝の祖とも言われる天皇で、八幡神として現在も広く祀られています(全国の八幡神社の祭神)、仁徳天皇の父。

 

第16代仁徳(にんとく)天皇

仁徳天皇については、7月11日投稿「仁徳天皇陵は仁徳天皇のお墓ではない?」を参照して下さい。なお、応神天皇と仁徳天皇は同一人物であったとする説もあります。

 

仁徳天皇の後は、第17代履中天皇、第18代反正天皇、第19代允恭天皇、第20代安康天皇、第21代雄略天皇と続きます。仁徳天皇も含めて、次の5代(6代)の天皇は、中国の史書に、「倭の五王」として登場していると見られ、その実在に現実性が帯びてきます。

 

倭の五王

5世紀の日本の大和王権(大和朝廷)は、中国南朝の「宋」と外交関係を持ち、中国に臣下の礼をとって朝貢してました(倭国王に冊封されていた)。当時の中国の歴史書「宋書」倭国伝には、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)といわれる倭の五王が、約1世紀の間に使者を派遣した事が記されています。これらの五人の倭王を、「古事記」などから照らし合わせると次のように推測されるそうです。

 

讃=仁徳天皇or履中天皇

珍=反正天皇

済=允恭天皇

興=安康天皇

武=雄略天皇

 

このうち、最初の二王である讃と珍は、疑わしいとされていますが、済・興・武の三人の王に関しては、現在、確実視されています。この「倭の五王」がそれぞれ日本の天皇に対応しているのが正しいければ、第25代の武烈天皇までは架空の天皇という説は、説得力がなくなってしまいます。

 

一方、記紀の記述も、仁徳天皇以降、その内容に変化が出てきます。つまり、それまでの神権的な存在に加えて、恋愛や王族同士の権力争いなど、人間的な側面も書かれるようになります。実際、仁徳天皇も、「民のかまど」の逸話にあるような聖帝(聖皇)としての存在から、皇后以外の女性を愛した姿なども描かれていました。

 

 

第17代履中(りちゅう)天皇

 仁徳天皇の第一皇子。概ね5世紀前半頃(?~405年)に、在位していたと考えられています。

日本書記によると、仁徳の崩御後、履中天皇は、即位の前、黒媛(くろひめ)という女性と婚礼を上げる為、使いとして住吉仲皇子(すみのえなかのみこ)(仁徳天皇の第二皇子)を送ったところ、住吉仲皇子は、黒媛に魅せられ、黒媛を奪ってしまいます。さらに、住吉仲皇子は、この事実を知って激怒した履中天皇を討つべく挙兵しました。一人の女性をめぐる争いは、皇位をめぐる争いに発展したのです。履中天皇は、弟の多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)(後の反正天皇)」に命じ、住吉仲皇子を討たせた後、神武天皇ゆかりの地である磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)(奈良県桜井市)で、履中天皇として正式に即位しました。

 

第18代反正(はんぜい)天皇

仁徳天皇の第三皇子、履中天皇の同母弟。御名は瑞歯別尊(みずはわけのみこと)。天皇としての治世は410年頃(?~410年)までとされています。履中天皇の即位に協力し、反乱を起こした兄、住吉仲皇子を討伐した貢献からか、履中天皇に皇位を譲り受けました。これは、日本史上初の兄弟継承の事例となりました。

 

また、反正天皇は、前述したように、「宋書」によれば、「438年、宋の文帝のときに倭の国王に任じられた『珍』という王があった」とあり、その「珍」が反正天皇と見られています。

 

第19代允恭(いんぎょう)天皇

仁徳天皇の第四皇子で、履中・反正天皇の弟でもあります。453年頃まで在位(?~453年)にあったとされています。反正天皇が皇嗣を決めないままに崩御してしまい、群臣の度々の要請を受けて即位したと言われています。この結果、履中・反正・允恭天皇の3代の天皇は、仁徳天皇の御子が即位された兄弟継承となりました。

 

第20代安康(あんこう)天皇

允恭天皇の第二皇子。日本書記によれば、その治世は僅か3年(?~456年)で、実績は殆ど記されていません。允恭天皇の代、皇太子は第一皇子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)でしたが、同母妹である軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)と禁断の恋に陥り、人望を失ってしまい、允恭の崩御後、群臣は木梨軽皇子を推戴(すいたい)せず、弟の安康が即位しました(木梨軽皇子は自害に追い込まれた)。

 

日本書記によれば、安康天皇の治世は僅か3年(?~456年)で、近親者に暗殺されてしまいました。配下の者の企てにより殺害してしまった叔父の大草香皇子(おおくさかのみこ:仁徳天皇の皇子)の妻を、妃として迎え入れたことで、連れ子だった眉輪王(まよわのおおきみ)に恨まれ刺殺されたとされています。

 

第21代雄略(ゆうりゃく)天皇

允恭天皇の第五皇子、安康天皇の同母弟。在位は418~479年と推察。雄略天皇は、考古学を根拠として実在を証明できる最初の天皇と考えられています。その理由としては、稲荷山古墳(埼玉県行田市)から出土した発掘品(鉄剣の銘文)の中に、雄略天皇の諡号「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ」と考えれられる文字が記されていたことがあげられます。この事は、雄略天皇の勢力が畿内から関東にまで達していた事を意味します。実際、雄略天皇の治世は、大王(天皇)権力と大和政権の勢力が一段と拡大強化された時期と評価されています。

 

その一方で、記紀神話では、気性の洗い悪逆な専制君主として描かれています。例えば、日本書記では、その恐怖政治ぶりを「朝に見ゆる者は夕べに殺され、夕べに見ゆる者は朝に殺され」と記し、「天下そしりて大悪天皇ともうす」としています。前代の安康天皇暗殺事件に乗じて一気に権力を握ったとされる雄略天皇は、兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)、別の兄の境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、安康天皇を暗殺した眉輪王、さらに、従妹の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)とその弟など、皇位継承の競合者らを次々に殺害したとされています。これによって、天皇の権力を強化され、支配基盤を盤石になったと評価されていますが、後の皇位継承問題に発展することになります。

 

なお、雄略天皇は、「宋書」の478~502年の記録にある、倭の五王最後となる倭王「武(ぶ)」とされています。

 

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雄略天皇崩御の後は、第22代清寧天皇、第23代顕宗天皇、第24代仁賢天皇、第25代武烈天皇と続きました。この時期、皇位は、天皇の子息もしくは兄弟など血縁関係で受け継がれていきました。

 

第22代清寧(せいねい)天皇

雄略天皇の第3子。清寧天皇には御子がいなかったので、次の天皇は、仁徳天皇の第一子の履中天皇の系統に戻ることになります。

 

第23代顕宗(けんぞう)天皇

履中天皇の孫(履中天皇の長子である市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の第3子

 

第24代仁賢(にんけん)天皇

顕宗天皇の同母兄(履中天皇の孫)、兄弟継承。

 

第25代武烈(ぶれつ)天皇

武烈天皇は、489年(仁賢2年、皇紀1149年)、仁賢天皇の第一皇子として誕生され、6歳で立太子され、498年12月、父、仁賢天皇の崩御により、10歳で即位しました。499年3月、春日娘子を皇后に立てられましたが、506年12月、後嗣なく、在位8年、わずか18歳で崩御されました。

 

そういう武烈天皇ですが、なぜか「日本書紀」には天皇の非行の数々が具体的に記され、暴君として「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあり、暴虐非道の天皇として描かれています。しかし「古事記」には、そのような暴君としての記述は全くありません。武烈天皇の暴君エピソードは、創作れたものなのではないかという疑義が存在しています。

 

いずれにしても、武烈天皇は名君とされる仁徳天皇の最後の直系かつ男系子孫の天皇となってしまいました。

 

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武烈天皇には、後継ぎとなる子どもや兄弟がおらず、武烈天皇自身も後継ぎを決めずに、18歳の若さで崩御してしまったため、皇位継承候補者不在の状況に陥りました。まさに、皇統断絶の危機を迎えてしまったのです。そうなったのも、雄略天皇が兄弟の皇子や叔父の皇子を次々と誅されたことが、ここにきて皇位継承問題に大きく影響してきたと見られています。そこで、次の天皇として白羽の矢が立ったのが、第15代応神天皇の5代あとで遠縁にあたる継体(けいたい)天皇でした。

 

なお、この点に武烈天皇、暴君説の理由があるとの見方が一般的です。即ち、武烈天皇から大きく離れた血統の継体天皇の即位の正当化のために、武烈天皇のイメージを殊更に悪くして、即位時の繋がりの薄さのインパクトを薄くするのが狙いだったのではないかと言われているのです。ただし、この説が正しいとしたら、誰がそうしたのかは、継体天皇ではなく、日本書記を編纂した藤原不比等ということになります。

 

第26代継体(けいたい)天皇

天皇在籍:507年 2月4日~531年 2月7日

武烈天皇崩御の翌年、大連の大伴金村、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)、大臣の巨勢男人(こせのおひと)ら群臣が協議し、越前から男大迹王(おおどのおおきみ)をお迎えすることを決定し、越前まで迎えに出向きました。男大迹王は、応神天皇の玄孫・彦主人王(ひこうしのおおきみ)の王子として近江国三尾で誕生、応神天皇の5世孫に当たります。

 

男大迹王(おおどのおおきみ)は最初、その申し出を疑われましたが、事情が分かり、また大臣以下全員が懇願したので、即位をご承諾になられたとされています。もっとも、継体天皇の即位に関する以上の経緯は潤色されたものとの見方もあります。実際は越前・近江地方に勢力を持っていた豪族が、武烈天皇の死後、皇統が絶えたことを良い機会と捉え、皇位を簒奪したという説です。

 

507年1月12日、男大迹王は、子の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)と檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)を伴われ、58歳で河内国樟葉宮にて即位されました。即位の候補者もなく、先帝の勅命もなく、遺詔もない状況下で、群臣の協議だけで皇統の人を捜してきて、その方に即位頂いたということは、前例のないことでした。

 

即位後の3月5日、継体天皇は、天皇は皇統の危機を懸念され、仁賢天皇(億計王)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎えられました。また、継体天皇は、8人の妃を入れられ、それぞれ多くの皇子女に恵まれ、19人の皇子を持たれました。

 

531年春、2月7日、継体天皇は、皇子の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)に皇位を譲られ(譲位ではなく遺詔)、皇子の即位の同日、在位24年、82歳で崩御されました。継体天皇以降、遠縁から天皇を迎えるということはなく、現在の天皇家の源流は、継体天皇ということになります。

 

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第26代継体天皇の後、第27代安閑天皇、第28代宣化天皇、第29代欽明天皇、第30代敏達天皇、第31代用明天皇まで古墳時代と呼ばれる時代が続きます。

 

第27代安閑(あんかん)天皇

在籍:531年 2月7日 ~ 535年 12月17日。

継体天皇の即位前の子、勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)が即位しました。

 

 

第28代宣化(せんか)天皇

在籍:535年 12月~539年 2月10日

継体天皇の即位前の子、檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)が即位しました。

 

 

第29代欽明(きんめい)天皇

在籍:539年 12月5日 ~ 571年 4月15日。

継体天皇の嫡男(手白香皇女との間に生まれた天国排開広庭尊あめくにおしはらきひろにわのみこと)が即位。治世中に仏教が伝えられました。

 

第30代敏達(びだつ)天皇

在籍:572年 4月3日 ~ 585年 8月15日

欽明天皇の第二皇子。治世中に崇仏・廃仏の論争が起こりました。

 

第31代用明(ようめい)天皇

在籍:585年 9月5日 ~ 587年 4月9日、

欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛。同母妹に推古天皇。聖徳太子の父。在位2年(古事記は3年)で崩御。

 

ここまでが古墳時代で、第32代崇峻(すしゅん)天皇の時代から飛鳥時代に入ります。

 

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<参考>

「皇位継承事典」(PHPエディターズグループ)吉重丈夫著

Web歴史街道

ピクシブ百科事典

倭の五王といわれる五人の天皇

倭の五王は、いつの天皇なのか?-歴史まとめ. net

皇統断絶の危機。武烈天皇(第25代)から継体天皇(第26代)への皇位継承(吉重丈夫)

 

2019年07月11日

皇室:仁徳天皇陵は仁徳天皇のお墓でない!?

第16代の仁徳(にんとく)天皇は、教科書にでてくる世界最大の墓として有名な前方後円墳の仁徳天皇陵だけでなく、昨日7月10日の投稿で紹介した「民にかまど」の故事から、民を思いやる仁君とされる(古事記では「聖皇」、日本書記では「聖帝」と称された)など、理想的な君主として位置づけられています。今回、仁徳天皇について調べると意外な事実がありました。

 

 

聖帝・聖皇としての仁徳天皇

仁徳天皇は、生没年不詳(257~399年?という説もある)で、5世紀前半に在位したとも言われます。応神天皇の第四皇子(母は仲姫)で、実名はオオサザキ。子に履中、反正、允恭3天皇がいます。

 

応神天皇は生前、仁徳の異母弟である「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」を皇太子としていました。「長幼の序(ちょうようのじょ)」を重んじる菟道稚郎子は、応神天皇の崩御後、自分より年長の仁徳天皇に即位を勧めましたが、仁徳天皇はこれを拒否、二人は大王(おおきみ)=天皇の位を譲り合っていました。その間、長男の大山守皇子(おおやまもりのみこ)によって引き起こされた反乱は、菟道稚郎子によって鎮圧されましたが、その後、菟道稚郎子が自害してしまったため、仁徳天皇が即位する事になりました。

 

この即位の言い伝えは、儒教的な「長幼の序」を体現したとして、古くから賞賛されおり、末子相続から年長者への相続(長子相続)へと転換する契機となったとも言われています。この即位に至る過程で実践された「長幼の序」や、民の家々から炊飯の煙が立ちのぼらないのを見て課役を免じ,みずからに倹約と耐乏を課したという「民のかまど」の逸話は、聖帝仁徳天皇の人柄が浮き彫りにしています。

 

また、仁徳天皇は、即位後、茨田堤(まむたのつつみ)の築堤、難波堀江の開削など、河内平野の治水・灌漑に取り組みました。耕地開発も進み、河内で「四万余頃」の田を得たと言います(四万余頃とは広さの単位)。これは、日本初の大規模土木工事だったという評価もあり、仁徳の時代に全国的な治水・水田開発が行われた公算も指摘されています。

 

こうした聖君としての側面が強調される一方、仁徳天皇は、記紀神話では多くの女性を愛した天皇として描かれ、実際、何人もの女性を妻としています。皇后磐之媛の目を盗んで、異母妹八田皇女のもとに通っていたとされ、結果的に、皇后(葛城襲津彦の娘)は、嫉妬深くなり、最後は憤死してしまいました(皇后の死後、八田皇女が皇后になった)。

 

「聖帝」・「仁君」は忖度?

仁徳天皇の治世は、聖(ひじりの)帝(みかど)の世と言われたという見方に異議を唱える向きがあります。仁徳天皇が、聖帝、仁君として描かれだしたのは、仁徳天皇の玄孫(孫の孫、やしゃご)に当たる武烈天皇の代だったと言われています。武烈天皇と言えば、暴君として有名ですが(異説あり)、天皇家の血筋の歴史から言えば、仁徳天皇から始まる系統(王統)が武烈天皇で途絶えています。そこで、王朝の開祖である仁徳天皇を「聖帝」としたというのです。

 

いずれにしても、『古事記』『日本書紀』にみられる仁徳天皇の所伝などは、あくまでも系譜の上で作り出されたものではないかとみられているのです。その真相は明らかではありません。さらに、次のような見方もあります。

 

「仁徳天皇陵」に眠っているのは仁徳天皇でない!?

仁徳天皇は、中国の歴史書『宋書』(488年完成)にみえる倭の五王のうち「讃さん」(珍とも)に当たるのではないかといわれています。仮に仁徳天皇が讃であれば、実年代は五世紀初頭の天皇となるのですが、日本書紀から推定すると仁徳天皇が亡くなったのが西暦399年とされています。「仁徳天皇陵」の築造は5世紀中頃との説が有力で、いずれにしても、50年以上のずれが生じてしまいます(年代的に合致しない)。むしろ、仁徳天皇陵と信じられた御陵は、第19代允恭(いんぎょう)天皇、もしくは、20代の安康天皇の墓ではないかと指摘する声があります。

 

宮内庁によると江戸時代の元禄年間(1688〜1704)に、朝廷が「仁徳天皇陵」と指定したそうです。しかし、現在では、本当に仁徳天皇の墓なのかをめぐっては、考古学者の間でも意見が分かれています。この結果、学校の歴史教科書には以前は「仁徳天皇陵」の呼称が使われていたが、現在では誰の墓かは明示せず「大山古墳陵」と記載するケースが増えているそうです。

 

そもそも「仁徳天皇が実在しなかった」という説もあり、仁徳天皇を巡る一連の思惑に対して、新たな資料の発見などが求められます。実在しなかったかもしれないと考えられている天皇は、仁徳天皇だけではありません。次回はこのことについてお伝えしたいと思います。

 

2019年07月10日

歴史:仁徳天皇「民のかまど」の故事

 

本投稿は、以下の記事に加筆して現在に至っています。お手数ですが、表題をクリックしてお読み下さい。

皇室:仁徳天応『民のかまど』とシラス政治

 

 

2019年07月07日

仏教:天部 仏教の中の神様とは?

6月26日に投稿で、「足の速い神様」である韋駄天(いだてん)を紹介しました。今回は、韋駄天を含む〇〇天、即ち仏教の神様である「天部」についてまとめてみました。仏教なのに神様?という素朴な疑問を持つ方もいるのではないでしょうか?神様と仏様の関係についても説明します。

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5月10日の投稿、「如来と菩薩、四神と四天王とはどう違う?」でも少し述べましたが、仏教の仏様は、役割の違いによって、如来、菩薩、明王、天部に分類されます。上下関係ではなく、仏格の順位を示すとされています。

 

如来とは、最高の境地に至った存在で、「真理に目覚めた者」のことを言い、仏と同じ意味で使われます。阿弥陀如来や大日如来などが有名です。

次の菩薩とは、人々を救いつつ、仏(如来)になることを目指して修行する人、悟りを求める者のことを言います。弥勒菩薩や観音菩薩などが知られています。

如来、菩薩に次ぐ明王は、如来の化身とされ、間違ったことをするものに厳しい態度で教えを授け存在です。それゆえ明王の代表的な存在である不動明王をみてもわかるように、明王は剣を持ち怒りの形相をしています。

 

では、今回の主役である天部に話しは移りましょう。

 

  • 天部とは

天部は、仏教では如来、菩薩、明王の下に説かれ、彼らが生きとし生けるものの救済を目的としているのに対して、仏教世界の天上界に住んで、仏法を守護する役目を持つ仏法の守護神です。

 

前回、紹介した韋駄天(いだてん)も以外にも、梵天(ぼんてん)や帝釈天(たいしゃくてん)、多聞天(たもんてん)、持国天(じこくてん)など、〇〇天と称するものから龍王や夜叉なども天部に含まれます。もともと「天」という言葉は、サンスクリット語で神(デーヴァ)という意味で、「部」は「集まり」という意味で、天部を直訳すれば、「神様の集合」ということになります。

 

もっとも、天部の諸天は、元々仏教の神だったわけではなく、インドで、仏陀の生まれる前から信仰されていたバラモン教やヒンドゥー教の神様(古代インドの神々)で、仏教の誕生で、仏教に取り込まれていきました。仏教の観点から言えば、仏の圧倒的な慈悲や力に屈服/感服して、仏教に帰依し、如来や菩薩、明王を守る役目を果たしているとされています。

 

ですから、天部は神様で、仏を守る守護神ではありますが、如来・菩薩・明王の域には達しておらず、六道では私たち人間と同様、苦しみ悩むこともある存在で、私たちを救う力はないとされています。

 

(参考)六道(六界)とは:仏教で説かれる六つの世界

天道(てんどう|天上界):天部(神々)の住む世界

人間道(にんげんどう):人の住む世界。悩みや苦しみもあるが楽しみも感じられる世界

修羅道(しゅらどう):常に争いや戦いがあり苦しみ怒りにあふれる世界

畜生道(ちくしょうどう):動物の世界。

餓鬼道(がきどう):常に食べられない苦しみの世界。

地獄道(じごくどう):常に苦しみに襲われる世界。

 

天部の諸天も天道という仏の世界に近いところの住人ですが、欲や悲しみ、苦しみもある六道の世界の住人であると仏教では教えています。

 

 

  • 天部の神々

 

天部の諸天は、すべて全く同じ位であるわけではなく、天上界の上位にいる神様から、人間界に近い神様まで存在しています。代表的な天部を紹介します。

 

梵天(ぼんてん)

梵天は、インド神話上の宇宙の創造神のブラフマン(梵語で梵天はブラフマン)で、インドでは最高位の神様です。後にシヴァ神やヴィシュヌ神と共に、三神一体の一柱に数えられています。

梵天は釈尊(釈迦)の守護神とされ、釈尊は、梵天の声を聞き、衆生の救済に立ち上がったという逸話もあります。

 

 

帝釈天(たいしゃくてん)

インド神話のインドラと言う神様で、インドラは阿修羅やその他鬼神、魔人と戦う雷神として描かれていました。

仏教において、帝釈天は、「須弥山(しゅみせん)」という仏教世界の真ん中にある山の頂上にある「喜見城」に住んでいるとされ、その四方をさらに四天王が守護しています。

仏法の守護神として、梵天と一対としてとらえられることもあり(その場合、両者を「梵帝」とひとまとめに呼ぶ)、釈迦如来像の脇侍となっている場合が多く見られます。

 

この帝釈天との関係で、阿修羅と、四天王について説明してみたいと思います。

 

阿修羅(あしゅら)

阿修羅は、インドの神話の中では、アスラという魔神で、帝釈天(インドラ)と、何度も戦い敗れました。しかし、阿修羅は何度倒されても、復活してまた戦いを続けたことから、戦いの絶えない苦しい世界の主とされます。「修羅場」や「修羅の道」と言う修羅は、戦いに明け暮れた阿修羅からきた言葉です。そんな阿修羅も、釈迦の説法によって心を改め、千手観音菩薩の守護神の一人に数えられます。

 

四天王

前回の韋駄天(いだてん)をまとめた投稿などでも示しましたが、四天王は、帝釈天の配下にいて、仏教の世界を守護する4柱の神様で、それぞれ東西南北に配置されています。歴史的にも「徳川四天王」など、四天王は様々な使われ方をされていますが、仏教の四天王が「本家」です。なお、四天王は、他の天部の神々と同様に、インドの神を由来しています。

 

東:持国天(じこくてん)(ドゥリタラーシュトラ)

西:広目天(こうもくてん)(ヴィルーパークシャ)

南:増長天(ぞうちょうてん)(ヴィルーダカ)

北:多聞天(たもんてん)(クベーラ、ヴァイシュラヴァナ)

 

なお、韋駄天(いだてん)は、増長天の配下にいましたね。

 

多聞天(毘沙門天)

四天王の中で、北方を守護する多聞天(たもんてん)は、むしろ、毘沙門天(びしゃもんてん)の名前で有名です。四天王の中では多聞天と呼ぶのが一般的ですが、多聞天が単独で呼ばれる時の名が毘沙門天です。

 

毘沙門天は四天王の中でも最も強い神様とされており、武神として知られ。戦国大名の上杉謙信は、毘沙門天を崇拝をしていたことは有名です。源義経が年少の時に育った鞍馬寺(京都府)は、毘沙門天を祀っています。加えて、毘沙門天(多聞天)は、本来、インド神話の財宝の神クベーラ、ヴァイシュラヴァナとして描かれていたことから、財運上昇、商売繁盛の神として、民衆の信仰を集めています。

 

このように、毘沙門天は、軍神(武神)として、財宝の神として民衆信仰を集めており、七福神(庶民の身近にあって暮らしに幸運をもたらす七柱の福の神)の中にも、その名を連ねています。

 

毘沙門天以外にも、七福神に関係のある天部(の神)がいます。それが、大黒天と弁財天、そして吉祥天です。

 

大黒天(だいこくてん)

大黒天は、インド(ヒンズー教)で暗黒を支配する神様であったマハーカーラ(「偉大な黒」を意味する)に由来し、創造と破壊を司るシヴァ神の化身とされています。日本では、「大黒=ダイコク」という言葉が、大国主命(オオクニヌシノミコト)につながることから習合されるようになり、大国主命=大黒様として定着しています。

 

弁財天(べんざいてん)

弁財天(弁才天)は、インド古代神話では、河の神様でサラスヴァティという水神で、ヒンドゥー教では梵天(ぼんてん)の妃です。七福神の中では、唯―の女神で、琵琶を弾いた天女の姿で描かれることが多く、音楽、芸能の神様としても知られています。その一方で、昔は刀や金剛杵を持った勇ましい姿で描かれていたこともありました。弁財天を祀っている場所としては、江島神社(神奈川県)が有名で、武装をした八臂弁財天像と、女性らしい柔和な妙音弁財天の二つの像があります。

 

吉祥天(きっしょうてん)

吉祥天は、インド神話の美・豊穣の神のラクシュミーが由来の女神で、弁財天の前の七福神に含まれていました。元々朝廷から民衆まで広く信仰された福や財をもたらす女神とひて人気があります。

 

その他の有名な天部の神様を紹介しましょう。

 

荼枳尼天(だきにてん)

荼枳尼天は、日本ではお稲荷様とも呼ばれる、もともとは、人を食べていたというインドの夜叉・羅刹のダーキニーが由来です。この怖い存在であったダーキニーは、大黒天に調伏されて、仏法の守護神(天部)に改心したとされ、現在では、豊穣の神としても知られています。

日本では、荼枳尼天は、同じ豊穣の神、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)と同一視されるようになります。この宇迦之御魂神が、お稲荷様として祀られていたことから、荼枳尼天もお稲荷様として信仰の対象となりました。

 

なお、夜叉(やしゃ)とは、インドの神話において鬼神とされる存在で、仏教に取り入れられて夜叉と呼ばれるようになりました(夜叉も天部に含まれる)。

 

閻魔天(えんまてん)

閻魔天(焔摩天)は、まさに、あの閻魔大王のことで、冥府の世界の神様です。インド神話のヤーマに由来し、始めて死ぬ人間と言われ、冥界に始めて訪れて、そのままそこで天部の神様になったと言われます。

 

金剛力士(こんごうりきし)

金剛力士は、仏や寺院に悪者や魔物が入ってこないように守護しています。金剛力士のサンスクリット語の意味は「金剛杵を持つもの」という意味で、帝釈天が魔物や鬼神を退治する際に利用した武器の金剛杵を持つ勇ましい神ということです。金剛力士は二体で一対の像として、山門に配置されています。正面向かって右に口を開けた「阿形像(あぎょうぞう)」、左に口を閉じた「吽形像(うんぎょうぞう)」と呼ばれる像が配置されます。金剛力士像は、運慶と息子の快慶が作った東大寺南大門の仁王像が有名です。

 

鬼子母神/訶梨帝母(きしもじん/からていも)

鬼子母神はインド神話でハーリーティーとされます。鬼女で、500人の子供を産んでいる母でしたが、人の子を食べて、自分の養分としていました。ある時、釈迦が鬼子母神の子一人を隠したところ、泣き叫び、発狂をしたとされます。釈迦に助けを求めたところ、釈迦に「多くの子を持っていながら、一人の子を失ってそれだけ悲しむのであれば、一人の子を持つ親の苦しみはいかほどか」と諭され心を改めて仏法に帰依することになりました。

 

韋駄天(いだてん)

大河ドラマでお馴染みの韋駄天(いだてん)については、6月16日の投稿で比較的詳しく解説したのでそちらを参照下さい(⇒韋駄天

 

 

<参考>

天部とは|仏教の守護神、天部衆の神様の種類や信仰,有名な仏像を紹介

(神仏ネット)

天/仏像ワールド

やさしい仏教入門など

2019年07月03日

資源:水が危ない!

これまで、このHP「レムリア」では、安倍内閣が推進しようとしている「種子、森林の民間開放」を取り上げてきましたが、もう一つ、一歩間違えれば私たちの日常生活に大きな障害に成りかねない水の問題をまとめてみました。

 

水道法の改正に潜む危険

 

自治体が水道事業の運営権を民間企業に売却するコンセッション方式を導入しやすくする内容を含んだ水道法改正案が、可決され成立したのは、2018年12月6日のことでした。

 

水道事業の多くは市町村が運営しています。その水道運営は原則として水道料金の収入と地方自治体が発行する企業債(地方債の一種)で賄われてきました。しかし、人口減少で料金収入が減り経営環境が悪化している地方自治体が増加しています。例えば、給水人口1万人未満の小規模事業者では、およそ半分が赤字(給水人口5千人以下の小規模事業者は全体の8割を占める)、また、全国でも3割の水道事業者が赤字になっていると言われています。この結果、減少している利用者に負担がのしかかり、水道料金はこの4年間ほど値上げが続いています。

 

加えて、事業者は施設の老朽化にも悩んでいます。実際、敷設された施設や水道管などの浄水設備の多くは、高度成長期の1960年代から70年代に建設されたもので、40年といわれる耐用年数を相次いで迎えており(その割合は約15%という試算も)、老朽施設の更新需要が毎年のように増えています。このように、資金不足、さらにはこれに対応できる人材不足で、更新も進まず、水道経営の基盤強化が喫緊の課題となっていました。

 

そこで、費用と人材が足りないという状況下、政府は「老朽化した水道事業を継続するためには、民間企業が参入できるようにしなければならない」、「民間のノウハウの活用で水道事業の立て直しを狙う」と主張して、今回の水道法の改正となったのでした。

 

 

「コンセッション方式」による水道の民間開放

 

今回の改正水道法の特徴は「コンセッション方式」を促進している点です。コンセッション方式とは、国や自治体が公共施設などの所有権をもったまま、運営権を民間企業に売却する方式のことです。水道事業に関しては、これまで水道事業を運営してきた自治体が浄水場などの施設を所有したまま、水道を家庭に供給する運営権を民間企業に譲渡するもので、売却されると、各家庭は水道料金を自治体にではなく、民間企業に支払うことになります。さらに、安倍政権は、このコンセッション方式の導入を促進させ、水道事業の民営化を容易にしようとしているのではないかと懸念する声もでています(民営化の場合は、浄水場などの施設の所有権も民間企業に手放す)。

 

しかし、水道料金の高騰や水質悪化など多くの問題をはらんでいると指摘されていました。特に懸念されるのが、水道料金価格差がさらに拡大することです。「プライムニュース・イブニング」での特集報道によれば、水道料金の全国平均はひと月3227円で、自治体ごとに料金差があり、全国で最も安いところは853円ですが、逆に最も高いのは6841円と、8倍の格差があるそうです。それが、民間企業の水道事業への参入により、現在8倍の格差が20倍程度になるという予測があると指摘する専門家もいるそうです。

 

こうした懸念があるにも拘わらず、安倍政権は、前述したように、「水道施設の老朽化や人口減少により経営困難となった水道事業の基盤を強化するためには、コンセッション方式の導入しかない」として、押し切りました。また、水道料金がさらに高騰していくのではないかとの懸念に対しても、「民間企業であれば、自治体とは異なり自由競争の原理が働くので、コスト削減できるので、水道料金の値上げにも抑止力が働く」と主張しています。

 

しかし、水道事業に自由競争は働きません。現在、自治体で行われている水道事業で、民間企業がその自治体の水道事業の運営権を買い取って競争が行われるとすると、近隣の自治体と競合することになりますが、住民は一番安いなどの理由から自分たちが選んだ自治体の水道を、メーターを切り替えることで自由に利用できるということはないと専門家は説明しています。住民にとって利用できる水道設備は1つだけで、複数の水道を使い分けることはできません。

 

そうすると、水道には競争原理が働かないどころか、水道事業は独占であることがわかります。独占事業となれば、赤字であろうと参入する企業は出てくるでしょう。それは、コスト削減と不採算部門のカット、そして価格引き上げによって利益を上げることができるからです。独占企業体が水道を提供するとなれば、料金は上げ放題となってしまいます。民間企業の論理で「高いのが嫌なら使わなくて結構」と言われて、「ならば使わない」というわけにはいきません。そもそも、赤字経営が続く自治体の水道事業を民間のノウハウを使って…と言っても、民間企業こそ、利益のでていない自治体には関心を示さないから、参入は一部の企業に限られると疑問視されます。

 

 

海外での事例

 

実際、海外で水道事業のコンセッションが行われてどうなったかを見てみましょう。水道の民営化の先駆けはフランスでした。パリでは1985年に水道民営化が実施され、民間のヴェオリア社とスエズ社とコンセッション契約で運営を委託しました。すると、民営化されたのち3か月に一度値上げが行われ、結局、パリでは25年間で水道料金が2倍以上に高騰(会社の利益は1985年から2008年で15~20%増)したそうです。結局、パリは、水道事業を2010年に再び公営化に戻しました。

 

その他の事例については、Webマガジン「ウェジー」は、次のような事例を紹介しています。

・フィリピンのマニラでは、1997年に米ベクテル社などが参入して水道を民営化した結果、水道料金が4~5倍になり、低所得者の水道利用は禁止される事態となった。

・1999年に水道を民営化したボリビアでは、参入した米ベクテル社が水道料金を一気に2倍にしたため、住民による大規模デモが起き、死傷者が出る惨事を招いた。

・米ジョージア州アトランタ市では、1999年に水道事業をユナイテッド・ウォーター社に委託すると、同社は雇用大幅カットし、水道料金を17%も上げてしまった。その結果、インフラ整備の質が下がり、蛇口からは茶色い水が出るようになった。

(パリのように水道事業のコンセッションに失敗し、再び公営化に戻した例は、2000年~2015年の間に世界で37カ国235都市に上るとされている。)

 

実は、日本でも、既にコンセッション契約をすでに実施していた自治体があって(コンセッション方式は改正前でも可能だった)、最近、諸外国と同じようなことが起きていたことをご存知でしょうか?岩手県岩手郡は、水道の供給を民間企業のイーテックジャパンに委託していましたが、同社は、経営悪化を理由に、住民に対して、水源ポンプにかかる費用負担を電気料金引き上げという形で求めたのでした。地元紙の当時の記事です。

 

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「新たな料金負担しなければ水停止」 雫石、業者通知で混乱引

(岩手日報、2018年12月9日)

雫石町長山岩手山の住宅やペンションなど35軒に水道を供給するイーテックジャパン(仙台市青葉区)が、住民に新たな料金負担をしなければ水を供給しないと通知し、地域が混乱している。同社は経営悪化を理由に、井戸水をくみ上げるポンプの電気料金負担を住民に求める。生活に不可欠な水の危機に住民は困惑。国会では自治体の民間委託を可能にする改正水道法が成立したが、民間業者の対応が波紋を広げる。

 

同社は8日、同町長山岩手山の現地管理事務所で説明会を開催。非公開で住民約20人が参加した。参加した住民によると、同社の担当者は▽経営悪化で東北電力に支払う水源ポンプの電気料金9、10月分を滞納中で住民に負担を求める▽支払わなければ17日に水道供給を停止▽今後も水道料に電気料を上乗せする―などを説明した。

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高度成長の遺産

 

日本の場合、さらに解決すべき問題があります。冒頭でも紹介したように、高度成長期に整備された日本の水道管は40年とされる耐用年数を超え、今も取り換え工事がされていないものが大部分だそうです。老朽化による漏水や破裂事故などが年間2万件以上も起きているという事実が、水道事業のコンセッション問題を深刻化させています。例えば、埼玉県の秩父地域では老朽化した水道管が約190km分もあり、これから20年で200億円かかると見られています。つまり、老朽水道管の交換には1kmあたり1億円かかるわけです。

 

こうした状態で、自治体の水道事業を民間企業に委ねたら、どういうことになるかというと、企業が老朽設備を交換して、その費用を価格にさらに転嫁するというが想定されます。または、徹底したコスト削減で事業を行う民間企業は、老朽化した設備でも限界まで使おうとするかもしれません(その場合、設備が突然、破損する大事故を引き起こしかねない)。

 

ただ、地震大国の日本では、水道管などを含めた公共施設の老朽化対策は焦眉の急を要します。昨年(2018年)6月18日、最大震度6弱を観測した大阪府北部地震の際には、各地で水道管が破裂し断水が発生しました。その原因は、老朽化し耐震化されていない水道管によるものだったと指摘されています。

 

この大阪の地震を受けて、政府は急ぎ、今回の水道法の改正を目指しました。地震発生と同じ6月(27日)に水道法改正が審議入りし、8時間の審議の後に7月5日には衆院本会議で可決されました。その後会期終了で継続審議となり、最終的に12月6日に可決成立しました。(12月12日に公布)。

 

水道「民営化」は、ショックドクトリンか?

 

こうした、危機的状況に付け入り、自らの利益を誘導するために改革を進めてしまうことを「ショックドクトリン」と言うそうです(カナダ人ジャーナリストのナオミ・クライン氏が2007年に著した自著の中で命名、その本のタイトルにもなっている)が、今回の水道を民間に委ねるコンセッション方式の導入は、法案審議のスピード感から、「ショックドクトリン」を利用したとの指摘が多くの専門家からなされています。水道法の改正に限らず、種子や森林の問題から、安全保障、移民、カジノなども、安倍政権が「改革」と称して行ってきた政策はある意味、「ショックドクトリン」と言えるかもしれません。

 

気になるのは、今回、水道だけでなく、種子、森林を含めた一連の政策が、竹中平蔵氏ら「未来投資会議」の市場主義者の後押しだけでなく、外国企業(外資)とその政府の要求が背景にあったのではないかということです。実際、麻生太郎財務大臣兼副総理は、2013年にアメリカのCSIS(戦略国際問題研究所)での講演で、「こういったもの(水道事業のこと)をすべて民営化します」と明言していたとされています。CSISとは、安倍政権の「改革」を提言し、実現させている機関と噂されるシンクタンクです。

 

水道、種子、森林など公営事業を民間企業に委ねる(コンセッション)といっても、それができるのは資金とノウハウをもった外資(外国企業)で、結局、外資に日本の市場を開くためだけになってしまうのではないかが懸念されます。ここで外資というのは、水メジャーと呼ばれる、上下水道事業を扱う国際的な巨大企業のことを指し、フランスの「スエズ・エンバイロメント」「ヴェオリア・ウォーター」と英国の「テムズ・ウォーター」の3社や、アメリカのベクテル社やGEなどの大企業をさします。内閣府の民営化の推進部署(内閣府民間資金等活用事業推進室)には、フランスの水道サービス大手ヴェオリア社日本法人からの出向職員の関係者が働いているという話しも聞かれています。

 

水の管理は、国と自治体で

水道だけでなく、森林、種子も、将来的な「民営化」のターゲットになったいるのは、私たち日本人の共有財産であり、特に水は命に直接係わるものです。その運営権を単に民間の手に委ねるのではなく、政府や地方自治体が責任をもって管理すべきです。地方自治体は、住民の利便性を優先するので、たとえ災害に見舞われても水道料金を法外に高くすることはありません。また、公営なので、採算性を度外視してでも品質の良い水を住民に届ける努力をします。しかし、利潤追求が目的の民間企業にはそうする義務はありません。

 

それでも、これまでのように自治体だけでは、水道事業の運営が厳しいというなら、外資を中心とする民間企業に委ねる前に、自治体間での水道事業の広域化を推進すべきです(実際、改正水道法にもその内容が書かれている)。例えば、秩父市では、2016年に4つの自治体と連合し、水道事業の広域化を行い老朽化した水道管の交換を進めているそうです。こうした広域行政(一つの事業、ここでは水道事業を複数の自治体で共同して運営していくこと)などによる地方自治体の創意工夫を促すべきだと思います。

 

地震大国の日本において、水道事業を「民営化」してしまった場合、緊急時に的確な対応はできるとは思われません。多くの自治体が老朽化した水道設備を抱えているからこそ、国民の命の水は、政府・自治体の責任で管理運営がなされるべきでしょう。改正水道法は、令和元年10月1日に施行されます。「公営」の時代を懐かしむ時代が来ないことを望みたいですね。

 

<参考>

水道法改正で何が起きようとしているのか 日本の水道水のありがたみを思い知らされる日

2019年1月2日、webマガジン、ウェジー(ライター地蔵重樹氏)

 

改正水道法が成立!“命の水”水道民営化でどうなる?安全性は?値上げは?

(プライムニュース イブニング 2018年12月6日放送分より)

水道法改正が「民営化」でないばかりかタチが悪い理由

(室伏政策研究室、政治・経済 DOL特別レポート、2018.12.25)

 

改正水道法が成立!“命の水”水道民営化でどうなる?安全性は?値上げは?

(プライムニュース イブニング 2018年12月6日放送分より)

改正水道法が成立 民間に事業売却も

(2018.12.6 13:44、産経新聞)

水道民営化の導入促す改正法が成立 野党「審議不十分」

( 2018年12月6日、朝日新聞)

2019年06月28日

神道:山の神を怒らせるな!

6月15日の投稿に、「種子、水に続いて森林も…」と題して、国民の共有財産である日本の森林が、政府主導で伐採され、また、外資を含む民間業者に破壊される恐れがあることを紹介しました。その時、民俗学の立場から思ったことは、日本の森林が適切に管理されなければ、山の神々の怒りに触れないかということでした。

 

「山の神」といえば、大学生の箱根駅伝で、箱根の山登り区間で最強の選手にマスコミが贈る「称号」ですが、民俗信仰としての山の神は、大山祇神(大山津見神)(おおやまづみのかみ)です。日本の山岳信仰を考えます。

 

山と神

 

日本は、山および山地が占める面積が国全体の76%に達する山がちの国土(山国)で、ほぼどこへ行っても、山を見ることができます。そして、日本の高い山にはほとんど(その頂上に)すべて神社があります。奈良の三輪山や、青森の岩木山のように山そのものがご神体となっている山もあり、こうした信仰の対象となっている霊山は、全国に満遍なく点在し、約350座もあるとされています。これは、山には神様がいて、そこに信仰(山岳信仰)が根付いているという事実の裏返しでもあります。

 

山の神とは、山に宿る神のことと総称されます。木樵(きこり)、猟師、鋳物師など山の民にとっては木地や鍛冶の神、農業を生業としていれば田の神のような農神、その山の周辺に暮らす人々にとっては先祖霊であるように、日本の山神信仰は様々です。こうして山民が信仰する山の神は、山の草木や動物、鉱物を支配し、山民の生業に恵みをもたらしてくれます。神は山だけでなく、峠にもいると考えられ、峠の神は、旅行者も含めて山に入る人々を誘導してくれます。このため、山の口、山中、山頂には、神社だけでなく、大木、岩、小祠、石塔など山の神の祭場が随所にできました。

 

また、山の神は、山と里のあいだを去来するとされています。すなわち、山の神は、山にとどまるだけでなく、春に山から里に下り、田の神となって稲作と守り、秋には収穫をもたらして山に帰ると考えられています。その節目に感謝の祭りが行われ、神と人と一体になって五穀豊穣と生活の安寧が願われています。このように、山の神は、人間の生死をも左右する大きな力を持ち、山で暮らす人々の生活に深く関わっています。

 

 

山の神:大山祇神

 

こうした山の神の総元締め的な存在として、日本の山岳信仰の世界に君臨している神さ様が、大山祇神(おおやまづみのかみ)で、大山津見神または大山積神とも表記されます。大山祇神は、伊邪那岐命(イザナギ命)、伊邪那美命(イザナミ命)の子とされ、記紀神話(天孫降臨)で、初めて地上に降り立ったニニギノミコトの妻となった、木花咲耶姫神(コノハナサクヤヒメ命、富士山の神)と、磐長姫命(イワナガヒメ命、岩の神)は、大山祇神の娘神に当たります。

 

前述したように、山の神はその山の周辺に暮らす人々にとっての神であり、そこで農業に従事するものとっての神(田の神、農耕神)であり、また、木こりや鉱山労働者、鍛冶者にとっての神でもあるように、様々な山神信仰の要素をひとつに体現しているのが大山祇神(オオヤマヅミ神)です。ですから、山の神の山の木を伐採したり、山を削ったり開けたりする時や、谷を塞いでダムを作る時などは、山の神の精霊の怒りを鎮めるために、オオヤマヅミ神を祀っていることが多いそうです。

 

 

海の神:大山祇神

 

一方、大山祇神(オオヤマヅミ神)は、別名「渡司大神(ワタシオオカミ)」とも言われ、海の神の性格も持ちます。ワタは海神、綿積神(ワタツミ神)のワタ(=うみ)のことで、シは司(つかさどる)ことを意味していることが語源上の背景にあります。もともと、河川は、高い山地に源を発し、平野を貫き流れて海に注がれます。山の神が、山から清涼な流れを発する水の神でもあることは頷けます。

 

大山祇神が鎮座する神社(大山祗神神社)の本社の一つは、愛媛県三島町の大三島(おおみしま)という瀬戸内海の芸予諸島にあります。その芸予海峡は古くから西日本と近畿を結ぶ水運交通の要で、漁師や瀬戸内水軍にとって、海上交易の守護神、戦いの際の武神、軍神として、大山祇神が崇敬されていたのです。特に戦国時代にかけて、大山祇神は、「武運長久」の神として、広く武士の崇敬を獲得したことが、この神の神威を全国に広げる大きなきっかけとなったと言われています。

 

 

酒造りの神:大山祇神

 

さらに、大山祗神(オオヤマヅミ神)は、酒造の祖神「酒解神」として信仰されています。これは、大山祗神の娘「木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)」が、天孫「邇邇芸命(ニニギ尊)」と結婚して、「日子補穂出見命(ヒコホホデ命)」を生んとき、大山祗神は大いに喜んで佐(狭)奈田(さなだ)の茂穂(よく実った米)で、お酒(アメノタムケ酒)を作って、天地の神々に振る舞った、という故事が酒造のはじめ(穀物から酒を醸造した始まり)と伝えられていることに由来しています。

 

山の神は里に降りれば田の神であり、穀物の実りを司る神であり、また水の神でもあることから、穀物から造られる酒の精霊は、山の神の分身という神話が生まれたのでした。こうして、酒造業の守護神としての大山祇神は、酒解神(さけとけのかみ)、娘の木花咲耶姫命は酒解子神(さけとけこのかみ)と呼ばれるようになったそうです。

 

このように、日本の山の神の総元締といわれる大山祇神(オオヤマヅミ神)は、山と海を司る神(山と海の守護神)として、その神威は、農業、漁業、商工業(酒造りを含む)などの諸産業や、軍事的な領域まで幅広く及んでいます。

 

 

三島・大山祇信仰

 

大山祇神に対する信仰は、神道では「三島・大山祇信仰」として知られ、全国に広がっています。大山祇神社(愛媛県今治市)と三嶋大社(静岡県三島市)を本社として、三島・山祇系の神社は、全国で少なくとも700社以上あるとされています。神社名の「三島(三嶋)」は、大山祇神社の所在地(今治市大三島)の大三島(おおみしま)にちなんで名づけられています(大山祇神社を大三島神社と呼ぶこともある)。

 

「三島・大山祇信仰」に関連し、大山祇神(おおやまづみのかみ)を祭神とする神社は、全国にある「三島」や「山祇」を社名とする神社(三島神社や山祇神社)だけでなく、次の神社も含まれます。

 

岩木山神社(青森県弘前市)

湯殿山神社(山形県鶴岡市)

大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)(神奈川県伊勢原市)

梅宮大社(京都市 右京区)

丹生川上神社上社(奈良県吉野郡)

 

安倍政権の森林政策を、大山祇神がどう見ているでしょうか?

 

 

<参考>

山岳信仰 山と神 山の神 – BIGLOBE

三島・大山祇信仰/三島神社ー城めぐり

大山祇神

など

 

2019年06月26日

宗教:大河ドラマ「いだてん」はインドの神様!

6月23日のNHK大河ドラマ「いだてん(韋駄天)〜東京オリムピック噺(ばなし)」の中で、韋駄天の意味を「足の速い神様のことだ」とか「だから御馳走様という」というなどドラマの中で、説明していました。日本人初のオリンピック選手、主人公金栗四三(マラソン)のニックネーム「いだてん」が、「いだてん」が神様の名前だったことを今になって知りました。自分の勉強不足を反省(よくよく考えれば韋駄天の天は仏教の天部を指している!)すると同時に、韋駄天がヒンズー教の神が由来であったことに驚きとある意味新鮮な気持ちになれました。

 

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韋駄天、その由来と意味

 

「韋駄天(いだてん)」とは、「足の速い神様」のことを指します。「韋駄天(いだてん) 」は、もともと古代インドの宗教バラモン教の神で、バラモン教がヒンドゥー教に継承された際には、破壊神・シヴァ(シヴァ神)の次男、軍神・スカンダとされました(兄の名は歓喜天だとか)。

 

韋駄天は、その後、お釈迦様が、仏教を興したとき、仏教の守護神として迎えられ、仏法と寺院を護る守護神とされました。インド仏教では、世界の中心にそびえるという聖なる山(須弥山)を四方に守る守護神がいて、それぞれ8人(計32人)の神様が仕えているという教えがあります。韋駄天はその四方(東西南北)を守る四天王のうち南を守る増長天に従う八大将軍の一人(三十二神将のリーダー)として信仰されるようになりました。

 

元々ヒンドゥー教の神様であった韋駄天(いだてん)が、仏教に取り込まれ、さらにインドから中国に伝えられる際、最初は「塞建陀(スカンダ)天」と音写で漢訳されました。それが何度も書き写される内に、一文字省略されたり、書き間違いが起きたり、さらには、道教の神様である韋将軍(いしょうぐん)とも混同されたりしながら、「韋駄天」となったと言われています。こうして、韋駄天は、仏教の神様となって、現在に至っています。

 

また、インドの伝承によると、お釈迦様がお亡くなりになられた日、捷疾鬼(しょうしつき:足の速い鬼)という鬼が、お釈迦様の御遺体から「仏舎利(ぶっしゃり:釈迦の遺骨・歯)」を盗んで、須弥山に逃げていきました。慌てた弟子たちが、韋駄天(いだてん) に仏舎利を取り返してほしいと頼むと、韋駄天は一瞬で、1280万キロともいわれる距離を駆け抜け、鬼(夜叉)を捕まえ、お釈迦様の歯を取り返したそうです。

 

この逸話から韋駄天は「速く走る神」とされ、それが由来となって、足の速い人を「韋駄天」と呼ばれたり、早い走り方、またとても速く走ることを「韋駄天走り(いだてんばしり)」と比喩表現したりするようになったそうです(韋駄天は「俊足の代名詞!」、身体健全(特に足腰)のご利益があるとも)。さらに「盗難・火難除けの神」ともされ、修行を妨げる魔障を走ってきて取り除いてくれるとして、寺院や僧侶の住居の守り神となっています。

 

さらに、インドの伝承では、韋駄天はその足の速さを生かし、釈尊(お釈迦様のこと)や、修行中の僧侶のために、東西を駆け巡って食べ物を集めて回って振舞ったことが、「ご馳走」という言葉の由来となりました。また、食後の挨拶の「ご馳走さま」という言葉も「足の速い神・韋駄天さま」からきています。こうして、今も、韋駄天は食卓を守る神様として慕われ、韋駄天を拝めば、食に不自由をしないという功徳があるとされています。寺院の厨房に祀られることも多いそうです。

 

<参考>

いだてん(韋駄天)とは?その意味と大河ドラマモデル金栗四三との関係

(2019年3月17日 ファンファンズ・カフェ)

 

歴史-文化 日本文化と今をつなぐ(2018/11/15、Japaaan記事)

仏像ワールド 韋駄天

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