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2020年09月17日

仏教:空海と真言宗

前回の投稿「最澄と天台宗」に続き、今回は、最澄とともに必ず語られる空海と、彼が開いた真言宗についてまとめました。

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真言宗(高野山金剛峰寺)は、弘法大師・空海を開祖とした日本で唯一の純粋な密教で、大日如来を本尊とし、大日経金剛頂経(こんごうちょうぎょう)が主な経典として扱われています。

 

真言宗は、諸尊の加護を求める貴族などに対して、加持祈禱がしばしば行われるなど、個人の現世利益を願う宗派として発展しました。また、真言宗は皇室と縁が深く,大覚寺,仁和寺等の門跡寺院が多くあります(門跡:皇族・公家が住職を務める特定の寺院)。

 

 

  • 密教と三密加持

 

密教というのは、大乗仏教の中の秘密教(秘密仏教)で、大日如来が直接説いた教えをいい、教えを修めた限られた人たちの間でのみ信仰が許されるとしています(これに対して、歴史上の釈尊が説いたとされる教えを顕教(けんぎょう)と呼ぶ)。なお、真言宗の密教は東密(とうみつ)、天台宗の密教は台密(たいみつ)と呼ばれれます。

 

大日如来は、宇宙の本体(そのもの)であり、宇宙の絶対の真理を現す根源的な生命などと表現されます。言わば、真理そのものである絶対的な根本の仏(仏教ではこれを法身仏(ほっしんぶつ)という)であり、この世の最高位の存在とされます。

 

生きとし生けるものは、大日如来の顕現であり、すべての仏は大日如来につながり、その化身と考えられています。私たちの存在も大日如来から生まれたので、人間もこの肉身のままで、生きていながら、究極の悟りを開き、仏になることができるとされます。これを即身成仏といい、真言宗の教義の柱となっています。そのためには「三密加持(さんみつかじ)」の実践が必要と説かれます。

 

「三密加持」の「三密」とは、大日如来の身体と口と心(身・口・意)のことで、それぞれ「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」を指します。「加持」とは達成することをいいます。真言宗では、衆生と仏(大日如来)とは本来同一であるから、身・口・意の三密行に努めれば、即身成仏することができるとしています。

 

具体的には、衆生が、身(身体)に、本尊を現す印(ムドラー)を手で結び(身密)、口に仏の真の言葉である真言(マントラ=呪文)を唱え(口密)、ご本尊の姿を心(意)に思い描き(=観ずる)、心を仏の境地に置く、つまり私たち衆生も大日如来と同じ心になり(意密)ます。その時、それがそのまま仏の三密と相応して、如来の力が衆生に加えられ、仏(大日如来)と同一(一体)となるとされます(これが即身成仏)。

 

なお、真言宗には、意密の実践の中に、生滅のない実在を体得できるとされる「阿字観」と呼ばれる瞑想法(観法)があります。

 

真言宗では、そうして、即身成仏した人々がともに高めあっていくことで、理想の世界である「密厳仏国土(みつごんぶっこくど)」(「密厳浄土(みつごんじょうど)」)が実現するとしています。密厳(仏)国土とは、大日如来のいる浄土のことであり、一切の現実経験世界の現象はこの如来そのものであると考えられているので、この世界が浄土にほかならないと説きます。

 

 

  • 曼荼羅

 

大日如来を中心に、宇宙に遍満する生きとし生けるものを仏の姿で表した世界観を、図画でもって示し、現実世界がそのまま理想世界であることを示すものとして、曼荼羅があります。密教の悟りの世界を象徴的に表す曼荼羅には、「金剛頂経」に説かれる金剛界曼荼羅と、「大日経」に説かれる胎蔵界曼荼羅の2つの世界から成ります。

 

ダイヤモンドのことを指す金剛とは、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味し、金剛界曼荼羅には、悟りを得る為に必要な智慧の光が表されています。胎蔵とは母親の母胎のようにあらゆる森羅万象が大日如来の中に包み込まれていることを意味し、胎蔵曼荼羅は、無限の慈悲の広がりを象徴しています。この2つの曼陀羅が揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が完成するとされています。

 

空海も、主著「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の中で、人の精神の程度や価値観のレベルを10段階に区分して、全く善悪の判断もできない最も程度の低い段階(第一住心)から、心の持ち方が向上して、大日如来と同レベルに達する最終段階(第十住心)までを説いています(これを十住心思想という)。

 

 

  • 空海の生涯

 

空海は、774年6月15日、四国・讃岐国多度郡(たどのこおり)に誕生しました。幼名は真魚(まお)といいました。父の佐伯田公(さえき・たぎみ)は、讃岐国の有力な豪族で、母の玉寄御前(たまよりごぜん)は、物部氏と同祖伝承を有する氏族とされる阿刀氏(あとうじ)の人でした。

 

空海は、15歳にとき、母方の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)の奨めにより都(長岡京)で漢学を学び、18歳で大学(官吏養成の最高学府)に入学します。しかしこの頃より、政治や学問への疑問や虚しさを感じ始め、大学を出奔して、無空と名乗り、私度僧(得度を受けていない修行僧)として山岳修業に身を投じたとされています。

 

798年、24歳のとき、最初の著書「三教指帰(さんごうしいき)」を執筆し、儒教・道教・仏教の三つの教えのすぐれた点を指摘しつつ、その中でも仏教が最高のものだと説きました

 

803年、空海は、阿刀大足に留学僧(るがくそう)として遣唐使の一行に参加できるよう朝廷にはたらきかけてくれるように懇願した結果、朝廷から入唐を認められました。入唐の直前、東大寺の戒壇院(かいだんいん)で受戒し、正式に僧となりました(この時から空海と名乗ったとみられる)。

 

20年間帰国禁止の私費留学生として、804年に、苦労して唐に入った空海は、翌年、インドから中国に伝えられていた当時最高の密教の正統を継ぐと評判の高かった青龍寺の恵果和尚(けいかおしょう)から、真言密教を学び、密教の奥義・秘法や、密教の法具・経典・技術書・曼陀羅・法衣の総てをことごとく伝授されたとされています。そのための儀式である灌頂(かんじょう)を受けた際、恵果和尚から「遍照金剛」(へんじょうこんごう)の名前を授かりました。

 

恵果和尚は、日本に早く帰って密教を広めることを願いながら、その年の12月15に亡くなりました。師の意を受けた空海は、20年間の滞在義務を破り、806年に帰国しました。ただし、当社は、当時の平城天皇から入京を許されませんでしたが、次の嵯峨天皇の時代に許され、高尾・神護寺に滞在しました(ここで最澄らとの交流があった)。

 

唐から帰国後、多くの書物を著して真言密教の教理を体系化した空海は、真言宗を立宗します。816年(弘仁七年)に、高野山を開山、金剛峯寺(本尊:薬師如来)を修禅の道場として開創しました。823年(弘仁十四年)には、嵯峨天皇より勅賜された京都の東寺(教王護国寺)(本尊:薬師如来)を真言密教の根本道場とし、さらに、その隣接地には、日本初の庶民の学校である綜芸種智院を開学しました。ほかにも、讃岐の萬濃池や大和の益田池の修築など社会事業にも携わりました。こうして、密教をもって平安仏教を空海は、835 年3月21日、高野山で入定(入寂)しました。61歳でした。

 

 

  • 空海後の真言宗

 

空海の入定後、金剛峯寺(高野山)は空海の甥とされる真然(しんぜん/しんねん)(不詳~891年)、東寺(教王護国寺)は高弟の実慧(じつえ)(786~847年)、神護寺は、高弟真済(しんぜい)(800~860年)がそれぞれ継承しました。

 

その後、高野山は火災に遭い山上の伽藍が全焼し、その修復もままならないほど一時衰微するに至りましたが、時の権力者、藤原道長などの寄進により復興するに至りました。ただし、平安時代後期、僧侶の堕落停滞から、真言宗没落が取り沙汰されました。

 

この状態を歎き、高野山と密教を弘法大師の遺志にそうよう復興に努めたのが、高野山金剛峯寺の高僧覚鑁(かくばん)(1095~1143)でした。覚鑁(興教大師)は、鳥羽上皇の庇護を受け、学問探究の場である「大伝法院(だいでんぼういん)」、修禅の道場でもある住房「密厳院(みつごんいん)」を高野山上に建立しました。1134年には、大伝法院座主に就任しただけでなく、金剛峯寺座主職を兼ねた覚鑁は、真言諸派の教義をまとめ、当時盛んになりつつあった浄土教との調和も説いた真言教学を大成させました。さらに、伽藍の復興や高野山の運営の刷新を断行するなど、文字通り真言宗団を中興させました。

 

しかし、現状維持を望む保守派である金剛峯寺方(本寺方)が覚鑁(大伝法院方=院方)に反発し、両者に所領境界の争いまで起こった結果、1140年、覚鑁(派)は高野山を離れ、紀州の根来(ねごろ)に移りました。

 

1143年の覚鑁入寂後、覚鑁派は再び大伝法院を高野山に戻しましたが、金剛峯寺派との確執は収拾できませんした。その後、頼瑜(らいゆ)(1226〜1304)が出て、大伝法院を再び根来山に戻し、覚鑁の教義を発展させ、教義の基礎を確立した上で、新義真言宗として独立させました(なお、新義真言宗に対して、東寺や金剛峯寺など従来の真言宗は後に古義真言宗と呼ばれる)。

 

戦国時代、新義真言宗の総本山、根来寺(開祖:覚鑁)(大殿法院の後身)は、約6千人もの学僧を擁しただけでなく、僧兵集団「根来衆」を抱えるなど大きな勢力を備えるまで発展しました。しかし、こうした強大な寺社勢力の存在を危惧した豊臣秀吉は、1585年に根来山に攻め込み、一部の堂塔を残して全山焼失させてしまいました。

 

その後、専誉(せんよ)と玄宥(げんゆう)の二人の能化(のうけ)(=長老・学頭)は,それぞれ大和長谷寺,京都智積院(ちしゃくいん)に移りました。こうして、新義真言宗は、大和長谷寺を中心とした豊山派(ぶざんは)と、京都の智積院を中心とした智山派(ちさんは)とに分かれていきました(現在の真言宗豊山派と真言宗智山派の基礎を築いた)。これは、勢力を分散させようとした豊臣秀吉の宗教政策の結果でもありました。

 

一方、秀吉による焼き討ち後、根来寺はしばらく復興を許されませんでしたが、江戸時代に入り、紀州徳川家の保護を受けて、主要な伽藍が復興されました。また、1690(元禄3)年には、東山天皇より覚鑁上人に、諡号として「興教大師」が下賜されました。

 

明治維新や昭和の戦時における宗教政策の一環として、新義真言宗と古義真言宗は統一合同させられましたが、戦後は、真言宗豊山派、真言宗智山派など多数の宗派があり、現在、総本山に高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)を筆頭に18の宗派(本山)に分かれています。

 

 

<参照>

真言宗の教え 真言宗豊山派

曼荼羅(仏像ワールド)

密教のおはなし|全真言宗青年連盟

真言密教修法の基本「三密加持」とは?

真言宗豊山派 興教大師

根來寺の歴史 – 根来寺

Wikipediaなど

 

2020年09月12日

仏教:最澄と天台宗

今回から「仏教」の投稿については、日本の仏教の歴史を、気の赴くままに紐解いてみたいと思います。まずは、最澄の天台宗についてです。

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  • 智顗と最澄の天台宗

 

天台宗は、隋代において、智顗(ちぎ)(538-597)が天台山(中国浙江省天台県)で開いた、法華経を根本経典とする中国創始の大乗仏教宗派です。宗祖智顗(ちぎ)が講述したものを門人の灌頂が筆録した書である「摩訶止観(まかしかん)」の中に、法華三昧(法華経を通して真理に悟入する方法)の実践が説かれています。

 

日本の天台宗は、伝教大師・最澄(767~822)を開祖として平安時代初期に始まりました(総本山は比叡山延暦寺)。ただし、この時、日本には法相宗や華厳宗など、奈良の南都六宗が中国から伝えられていましたが、中国では天台宗の方が古い宗派でした。

 

804(延暦23)年、還学生(短期留学生)として遣唐使船で唐に渡った最澄は、霊地・天台山に赴き、台州竜興寺で天台大師智顗(ちぎ)の直系である道邃(どうすい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒を伝授され、また、天台修禅寺(しゅぜんじ)で行満座主(ぎょうまんざす)からも天台教学を学びました。さらに、越州の龍興寺では順暁阿闍梨(じゅんぎょうあじゃり)から密教を授かり、禅林寺で翛然(しゅくねん)禅師から禅を究めました。

 

最澄は、このように「法華経」を中心として、天台教学()・戒律()・密教()・四宗をともに学び、805年に帰国して、翌年、天台宗を開創しました。天台宗とは、円・密・禅・戒の四宗を、法華経の精神で綜合する(このことを「四宗相承(ししゅうそうじょう)」という)ことによって、大乗仏教全般を布教する宗派(学派)と言えます。

 

天台宗において、一切経(釈迦の経典の総称)を体系づけ、法華経こそが釈迦の多くの経文の中で最高の経典と位置づけられていますが、法華経が絶対というわけではありません。「朝題目夕念仏(あさだいもくにゆうねんぶつ)」という言い方もあり、僧侶たちは、朝は法華経中心、夕方は阿弥陀経を中心に勤めることになっているそうです。

 

ですから、天台宗では、特に定められた本尊(信仰の対象となる仏像)がないとされています。ただし、強いてあげれば、「法華経」を根本経典としているので、お釈迦様すなわち釈迦如来です。また、延暦寺の根本中堂(総本堂)の本尊である薬師如来や、阿弥陀如来なども天台宗の本尊としてあげられます。では、天台宗では何を教えているのでしょうか?

 

 

  • 天台宗の教義

 

法華一乗一乗思想

一乗思想とは、「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)の教え、とも呼ばれ、一切の生きとし生けるものは、ことごとく仏になる因(仏性)を有しているという意味で、すべての衆生は成仏できると教えています。

 

 

一心三観(いっしんさんがん)

究極の真理は一つであるという考え方に基づいて、空観、仮観、中観の三観を同時に心に観じてさとりを得ようとする修行法をいいます。

 

空観(くうがん):一切の存在には実体がないと現象世界を否定的に観想すること

仮観(けがん):それらは仮に現象していると肯定的にとらえて観想すること

中観(ちゅうがん):この両者がともにそなわってはじめて真理を把握しうる(二つも一つである)として観想すること

 

 

三諦円融(さんたいえんゆう)

実相の真理を明かすものとされた空(くう)・仮(け)・中(ちゅう)の三諦は独立した真理ではなく、それぞれが他の二諦を含んで三者が相互にとけ合っているという考え方です。

 

空諦(くうたい):すべての存在は空無なものであるとする見方

仮諦(けたい):すべての事象は因縁によって存在する仮のものとする見方

中諦(ちゅうたい):すべての存在は空でも有でもなく言葉や思慮の対象を超えたものであるとする見方

 

 

天台宗の開祖智顗は、この「一心三観」や「三諦円融」などをさらに発展させて「一念三千」を発想(創案)しました。

 

一念三千(いちねんさんぜん)

自分の一瞬の心(一念)に、ありとあらゆる現象(三千の諸法)が備わっていること、言い方を変えれば、日常の人の心の中には、全宇宙の一切の事象が備わっているということを悟るために瞑想する修行法をいいます。

 

また、天台宗の中心的修行法に止観があります。止観(しかん)とは「一切の妄念を止めて心を統一し、正しい知恵で、自己と存在の実相(対象)を観察すること」などと定義づけられています。また、天台宗では、実践行も重視し、教観双修(きょうかんそうしゅう)(=止観の実践を教理によって保証し、教理は実践の有効性によって証明される」を標榜しています。

 

 

  • 天台宗の修行

 

修行に関して、前述した四宗(円、密、禅、戒)の教えを融合し(これを四宗融合(ししゅうゆうごう)という)、人それぞれ縁に応じてどの分野から入っても良いとされ、四種三昧と呼ばれる四通りの方法があります。

 

四種三昧(ししゅざんまい)は、比叡山で最も歴史の古い、天台宗の基本的な修行で、中国天台宗の開祖、智顗(ちぎ)が創案した常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧の四種類の行を指します。これらは、智顗が、行の仕方を、動作、唱え方、心、の三方面から分類して、立ち振る舞いの違いから、4つのカテゴリーに分けたものとされています。

 

常坐三昧(じょうざざんまい)

常坐三昧は、静寂な堂内に一人で入堂し、90日間坐り続け、坐禅に没頭する行です。

 

常行三昧(じょうぎょうざんまい)

常行三昧は、約10m四方のお堂の中で行われ、ひたすら阿弥陀様の名前だけを唱えながら、ご本尊の阿弥陀様の周りをまわり続けます。90日間を一期として、僧侶が交替で昼夜24時間歩き続けます。ご本尊の周囲にある手すり(横木)を頼りに歩いたり、天井から下げられた麻紐につかまったりして、歩を休めることはできますが、決して坐臥しません。常行三昧は、念仏を唱える浄土信仰や、密教の普及につながったと言われています。

 

半行半坐三昧(はんぎょうはんざざんまい)

半行半坐三昧では、歩いて行う行と、坐って行う行の組み合わせで、比叡山では五体投地(ごたいとうち)(=両肘両膝と額を地面につけて行う拝礼)や法華経の読誦をしながら行ないます。

 

非行非坐三昧(ひぎょうひざざんまい)

非行非坐三昧は、あらゆる起居動作が仏道につながるとして、毎日の生活そのものを修行とする行です。期間や行法も定まっておらず、かたちを超えた本質に通じなければならないとされることから、逆に難しい修行とされています。

 

 

回峰行

修行には、常行三昧の発展した、峰々を毎日歩きまわる回峯行もあります。比叡山では、千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)が有名です。平安時代の高僧、相応和尚(そうおうかしょう)により開創された、千日回峰行は7年間かけて、比叡山の峰々をぬうように巡って礼拝する修行です。出会う人々すべての仏性を礼拝したとされる常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)(=法華経に出てくる菩薩)の精神を受け継ぎ、山川草木ことごとくに仏性を見いだし、礼拝するものです。

 

 

  • 最澄の生涯

 

次に、最澄の生涯を概観することで、天台宗をさらに掘り下げてみたいと思います。

 

最澄は、767年8月18日、中国後漢の王族で、応神天皇の頃の帰化人の子孫と伝えられている三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として、近江の国・比叡山山麓の坂本で誕生したとされています(三津首氏そのものは、新羅系の一族である志賀漢人(しがのあやひと)系とされる)。

 

12歳のときに出家し、近江国分寺に入って、大国師・行表(だいこくしぎょうひょう)の弟子になり修業生活を送ります。15歳で、国分寺僧として得度(受戒すること=戒律をうけ僧として認めれる)し、名を最澄と改めます。翌年785年4月、東大寺の戒壇に入って、正式な具足戒(ぐそくかい:僧の守るべき戒律)を受戒し、国家公認の僧となりました。

 

しかし、同年7月、世間の無常を観じ、出奔し、故郷の比叡山に登って禅行生活(山岳修業)に入りました。この間、日本に初めて戒律を伝えた鑑真がもたらした天台大師・智顗(ちぎ)の著書にふれ、天台教学に傾倒するに至ったとされています。788年、21歳のときに、自ら彫った薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)という草庵を建てました。この小堂が延暦寺に発展することになります。

 

それから6年後、桓武天皇が平安京に遷都しました。都の東北に位置する比叡山にある一乗止観院は、仏法力で都の鬼門を守る守護寺と位置づけられるようになりました。797年、和気清麻呂で有名な和気氏(わけうじ)の推薦で、国家安泰を祈り天皇に助言する内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)に任命され、その後、和気氏の氏寺である高雄山神護寺で行われた天台会で講義を行うようになりました。

 

こうした和気氏とのつながりから、最澄は入唐還学生(げんがくしょう)(=短期の国費留学生)に選ばれ、803年、遣唐使として唐に渡りました。奇しくもこの入唐船の一行に空海も含まれていました。二人は互いに面識はなく、航海中の交流はなかったとされています。

 

明州に到着した最澄は、既に紹介したように、天台山にて、天台教学を究め、さらに密教と禅と戒律の伝授も受けるなど、在唐わずか9ヵ月の間に、仏教の総てという意味の「円密禅戒」を受け継ぎました(これを「四種相承」という)。帰国後、最澄は唐で学んだ円(天台教学)・密・禅・戒の四宗を綜合する天台宗(天台法華宗)を、806年に立宗しました。

 

ただし、四宗すべてを伝授されたと言っても、1年に満たない滞在期間では限界があり、天台教学ほど、密教を究めていたわけではありませんでした。しかも、最澄らを遣唐使として送った桓武天皇が期待していたのは、新しい密教に関する知識や法具であったと言われています。当時、朝廷は、それまで政治に関与し圧力をかけてきた奈良仏教と一線を画すためにも、密教を中心とした新しい仏教の導入をめざしていました。

 

その意味で、最澄は、完全に期待に応えらなかった状況でしたが、それでも、天皇の命により、不十分ながら、密教儀式や祈祷を行っていました。

 

そこで、最澄は、同じ遣唐使として密教を究めて帰国した空海から教えを請おうと、812年、空海が唐から受け継いだ仏縁儀式である結縁灌頂(けちえんかんじょう)を受け、師弟関係を結びました。この時、最澄45歳、空海38歳でした。

 

しかし、友好な関係は長く続きませんでした。最澄が空海に経典「理趣経(りしゅきょう)(=完全なる悟りへの道を述べた経典)」の解説本を借りたいと申し出たところ、これを拒絶されたことや、最澄の愛弟子であった泰範が、空海の教えに心酔し、ついには最澄から離れていってしまった「事件」があり、両者は袂を分かつことになってしまったのです。さらに、後ろ盾だった桓武天皇が崩御されたこともあって、最澄は、密教の教えを究めることを断念します。

 

そこで、最澄は、晩年の目標を、比叡山に大乗戒壇院を創設することに注力しました。戒壇院とは、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるための施設で、奈良時代、渡来僧鑑真が初めて東大寺に設置し、最澄の時代、東大寺以外には、薬師寺(下野)と観世音寺(大宰府)の合わせて3か所しかありませんでした。しかも3つの戒壇院は南都六宗に属していました。そこで、天台宗の僧侶たちが東大寺で受戒しなければならないことを嫌がった最澄は、大乗仏教である日本には独自の戒律が必要であると訴え、運動しますが、南都仏教の官僧の抵抗を受け続けました。

 

結局、最澄は、822年6月4日、55歳で入滅しました。866(貞観8)年に、伝教大師と諡(おくりな)を受け、日本では最初の大師号となりました。

 

なお、その死から7日後、最澄を支持していた時の実力者、藤原冬嗣の協力もあって、延暦寺に大乗戒壇院の開創の許可が下りています。また、生前、最澄が実現できなかった天台宗における密教の確立も、最澄の弟子たちによって完成されることになるのです。

 

 

  • 最澄後の天台宗

 

天台宗はもともと密教を含んでいましたが、最澄の死後、天台宗では、円仁(えんにん)(794〜864)や円珍(えんちん)(814〜891)など、唐に渡り、密教を学び習得する高僧が相次いで現れ、加持祈祷を行う天台密教が確立されました(真言宗の東密に対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる)。

 

こうして、最澄後の天台宗は、法華経の教えよりも天台密教が盛んになっていきましたが、円仁などは、唐から密教のほかに、文殊菩薩の聖地として古くから信仰を集めている五台山の浄土念仏を伝え、日本に浄土教や浄土思想がもたらされました。

 

一方、比叡山では10世紀半ばには宗門の争いから僧兵が跋扈し、天台宗自体、山門派(さんもんは)、寺門派(じもんは)、真盛派(しんぜいは)などと分裂していきました。

 

具体的には、円仁と円珍との密教をめぐる仏教解釈の相違から,その末流が対立し、993年に、円仁派が比叡山の円珍派坊舎を焼き払ったことをきっかけに,円珍門下の余慶が比叡山延暦寺を下り園城(おんじょうじ)に入って独立し、寺門派となりました。円仁門流は、そのまま延暦寺にて山門派と称しました(園城寺は現在、三井寺(みいでら)と称する)。

 

また、室町時代になると、円戒国師・真盛(しんせい)(1443~1495)が、滋賀県大津市坂本の西教寺に入寺して繁栄させ、戒称一致(大乗円頓戒と称名念仏を統合)の教学を唱えて、真盛派を形成していきました。

 

山門派:比叡山延暦寺、慈覚大師・円仁

寺門派:園城寺(三井寺)、智証大師・円珍

真盛派:西教寺、円戒国師・真盛

 

 

  • 時代の魁

 

天台宗の教義は、総合仏教でしたので、総本山の比叡山延暦寺(滋賀県大津市)は「総合大学」としての性格を持ち、数々の名僧を輩出しました。特に、浄土宗の法然、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮といった新仏教の開祖(宗祖)の多くが、若い日に比叡山で修行していることから、比叡山は「日本仏教の母山」とも称されます。各宗祖は、天台宗の教えの一部、その教えの専門的な教えを説き、鎌倉仏教の多くの宗派が生まれました。

 

このようにみてみると、最澄が日本における仏教の発展に果たした役割は極めて大きいことがわかりますね。

 

 

<参照>

最澄|新版 日本架空伝承人名事典

最澄とはどんな人物?簡単に説明

仏教の歴史〈下〉 ~天台教学が日本へ 最澄が中国で学ぶ …

Wikipediaなど

 

 

2020年09月05日

仏教:位牌とその起源

これまでの投稿で、戒名の仕組みと歴史について述べてきましたが、戒名になくてはならないのが位牌です。今回は位牌とその成り立ちについてまとめました。

戒名ってどんなもの?

戒名の歴史

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位牌(いはい)とは、戒名が記された木製の牌(ぱい)(=札ふだ)のことで、家庭の仏壇や寺院の位牌壇に安置されています。故人の霊は戒名を通して依り憑くことができるとされ、遺族は、仏壇に香、華(花)、灯明、飲食を奉献して供養することが慣習となっています。ですから、位牌というと仏教の習慣だと思っている人が多いと思いますが、インドの仏教には本来、位牌を用いるという習慣はありません。

 

 

  • インド仏教と中国の儒教

 

輪廻転生を信じるインド仏教では、日本のような葬儀を行わず、位牌もありません。輪廻転生では、魂は生まれ変わりを繰り返すとされ、転生しても再び人間として生まれることを必ずしも期待できません。動物や昆虫などの別の生き物になることもあれば、人間になっても男(女)から女(男)になることもあります。ですから、魂が離れた死者の体はもはや不要として、死体は焼いて骨と灰は、自然に戻すという意味で川へ捨てる風習があります。また、死者と生者は、死者の行先が決まる四十九日が過ぎれば、供養をする必要がなくなり、先祖祭祀も不要として行われません。

 

そもそも、輪廻転生自体が永遠の苦悩であり、輪廻から解脱して成仏するとは、この世からは十万億土も離れた極楽浄土へ往くとされています。極楽に行くことができれば、死者の霊の居場所となる位牌は言うまでもなく、仏壇や墓も不要となるわけです。

 

では、位牌のルーツ(起源)はどこかというと、それはインドの仏教ではなく、中国の儒教にあります。位牌は、もともと木簡(もっかん)(=短冊状の細長い木の板)といわれ、その起源は、儒教の「神主(しんしゅ)」または「木主(ぼくしゅ)」と呼ばれる板だと言われています。

 

古代より、中国では遺体を白骨化させ、その遺骨を霊が寄り憑く対象としてお祀りする習慣があったそうです。それが、後漢の時代になると、その遺骨に代って神主(木主)に、官位や姓名に記して祀る風習が儒教に始まり、宋代には中国仏教(禅宗)に取り入れられたとされています。

 

そもそも、孔子が儒教を理論体系としてまとめる以前、儒教はもともと「原儒」と呼ばれた葬祭業者の集団から始まったと言われています。儒者の仕事は、葬儀で、亡くなった人の家族に対して、どのように祀ればいいのかということを教えていたそうです。

 

 

  • 古代中国の習俗

 

中国では昔から、人間の魂は死んだ後も不滅で、しかも、その人間の個性が失われないまま残るという信仰(霊魂不滅説)があります。儒教には、「死者の魂は生きていて、先祖として我々を見守ってくれている」という考え方があるそうです。

 

また、道教でも、人間は精神と肉体とから成り立っているとし、精神を支配するものを「魂(こん)」、肉体を支配するものを「魄(はく)」としました。中国固有の「気」を使って説明すれば、「魂は人のたましいの中の陽の精気で、精神を支える気」である一方、「魄は人のたましいの中の陰の精気で、肉体を支える気」となります。

 

さらに、「魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰す」、つまり、「魂」と「魄」は、人間が生きているときは共存して蔵まっていますが、死ぬと分裂して、魂は天へ浮遊し、魄は地下へ行くとされています。それゆえ、死者のたましいを「魂魄(こんぱく)」とも呼びます。

 

儒教では、天地に分裂した肉体と精神を再び結びつける儀式、つまり魂(精神)を降し、魄(肉体)も呼び戻すという儀式を行うと、死者は「この世」に再び現れることができるとされます(もちろん、生前の姿のまま「復活」するというのではないが…)。そのための招き寄せられる場所が現在の位牌です。死者の魂魄を位牌(神主)に依りつかせることで、この世に死者を再生させることができると考えられたのです。こうした儀式を行うのが、その方の命日で、その儀式が終わると、位牌から離れて、魂は天上へ、魄は地下へと元の場所に帰るとされました。

 

このように、位牌は、インドの輪廻転生ではなく、中国の儒教や道教の風習の中から生まれた招魂再生の祖霊信仰に由来すると言えます。なお、余談ですが、インドの仏教では必要とされない墓も、この儒教の祖霊崇拝の観点に立てば重要なものとなります。招魂再生を願う上で、遺体または遺骨という何かの形となるものを残しておこうとなるからです。儒教では、お墓は死者の「遺品倉」と位置づけられています。

 

 

  • 日本に伝わった仏教

 

インドの仏教が、中国・朝鮮半島へ伝播したとき、儒教や道教の祖霊祭祀や死生観が取り入れ、中国仏教となって日本へ伝えられました。位牌も、日本においては鎌倉時代末から室町時代にかけて禅僧を通じてもたらされ、禅宗の寺院で用いられました。ただし、現在のように、各家庭に仏壇が置かれ、戒名とともに位牌を用いるようになったのは、江戸時代に入ってからと言われています。

 

その際、葬儀や先祖供養において、特に儒教の影響が大きいようです。例えば、仏教において、仏壇は、この世の浄土の世界を表す寺院の本堂を小型化したものとされています。ですから、仏壇は本来、本尊(阿弥陀如来など信仰の対象となる仏像や掛け軸)をお祀りする場所です。位牌はそのそばに置くものとされ、故人の霊は、位牌を通して本尊とともに浄土にあるとみなされます。

 

しかし、日本人からすると、仏壇は、本尊を拝む場というよりも、位牌を置いて、先祖を供養するための場所というのが一般的な感覚です。仏壇は、「寺院の本堂」というよりも、先祖がこの世に帰ってきたときの「仮の家」のようなものであると考えられています。そこで、多くの方は、日々仏壇のお釈迦様など本尊ではなく、ご先祖さまに祈っています。中には願い事までしますね。

 

ですから、なおさら、先祖の霊が宿る場である位牌がなければ、この世との接点の場に来れなくなるので、位牌は、大半の仏教の宗派では極めて重要な位置づけとされています。

 

葬儀においても同様です。日本の一般的な仏葬のときの祭壇を見ると、柩が置かれ、白木の位牌を立て、故人の写真が添えられ、その奥に本尊が置かれています。仏教における葬儀の趣旨は、戒名が与えられ、仏弟子となる故人をあの世に送るための「出家の儀式」です。本来は、葬儀の参列者は、本尊に対して「故人が、煩悩から離れ、解脱して救われるように」と祈りを捧げるべきというのが仏教者の見方です。しかし、実際は、参列者のほとんどは、本尊を拝むというよりは、故人の柩や位牌、特に写真を拝んでいます。死者が仏弟子となって修行に励んでいくとは考えていないと思われます。

 

 

  • 日本の祖霊信仰

 

仏壇と葬儀における事例は、仏教に中に取り込まれた儒教の祖先祭祀が根づいていることの表れであるということができますが、日本にも、古より、祖霊信仰と呼ばれる祖先神に対する信仰があったから、儒教の祖先祭祀(祖先崇拝)を受け入れたと考えられています。

 

祖霊信仰とは、既に死んで、肉体から魂が遊離し、(精)霊となって祖先は、子孫から供養や祭祀を受けると、歳月とともに浄化され、祖霊から先祖神へと昇華し、やがて、遠い山の奥や海の彼方に鎮まるものと考えられていました。

 

その後、盆や正月といった決まった季節になると、祖霊や先祖神は、「氏神」として、子孫を守り、家を守ってくれる、または、「産土(うぶすな)の神」として、里に下りてきて、村人に福や恵みをもたらしてくれます。先祖供養は、村人が先祖の(精)霊が祖霊や先祖神となるように、供養や祭祀を行うようになったことから始まりました。

 

祖霊信仰において、「依り代(よりしろ)」が重要な役割を果たしてくれます。依り代(依代)とは、一般的に神霊が寄り憑く(宿る)対象と定義付けされますが、神道の観点から言えば、神降ろし(神霊がこの世に降りてくる)の際に臨時に宿っていただく場所や物のことを言います。

古く日本には八百万の神と表現されるように、神霊が宿る対象には、樹木、岩石、人形など自然やものがありました。そのため、現在でも田舎の方では、依り代とみなされる岩や古木などを注連縄を飾って祀り、信仰の対象としている場所が多く残されています。

 

そうすると、死者の霊魂が憑依する位牌や墓とは、日本の神道の「依代」にきわめて近い存在です。実際、位牌の定義についても、「故人の霊が宿る依代」と説明されています。その意味では、位牌の起源は、日本の習俗である「依り代」であるという言い方もできます。

また、お盆や春秋のお彼岸の行事なども、今では仏事のように一般には思われていますが、もとももとは、儒教の祖先祭祀であり、ひいては、わが国の固有の習俗であるということができます。

 

お盆やお彼岸については、過去の投稿を参照下さい。

お盆は仏教行事?

お彼岸、神仏習合のたまもの

 

 

<参照>

先祖のまつり:日本人は死んだらどこに行くのですか?

(神社ものしり辞典)

位牌の由来は儒教だって知ってます?

(和文化案内、ゆかしき堂)

そもそも位牌とは?位牌は必ず必要なのか

(ひだまり仏壇)

 

位牌の起源・ルーツ(お位牌Maker)

位牌/仏事の豆知識(京仏壇はやし)

 

「世界がわかる宗教社会学」(橋爪大三郎)

「沈黙の宗教―儒教」(加地伸行、筑摩書房)

「仏教と儒教」(一条真也)

 

 

2020年09月02日

仏教:戒名の歴史

先日の投稿(「戒名」ってどんなもの?)で、戒名についてその仕組みを説明しましたが、今回は、戒名を使用するようになった歴史をみてみたいと思います。

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  • 戒名をつける制度は日本だけ!?

 

仏教が始まったインドでは、戒名というものはなく、戒名は中国に仏教が伝わってはじめて登場したと言われています。日本の仏教は、中国の仏教が朝鮮の百済経由で伝えられたため、初めから戒名が取り入れられました。

 

日本に伝わった戒名をつける制度は、元来、生前、出家剃髪した者に与えられたものでした。戒名とは、仏弟子になったことを表す名前です。つまり、お釈迦さまの教えを守って生活することを、仏さまの前で約束したときに授けてもらっていました。

 

ただし、現在のように、死後に「戒名」をつけるという制度は、日本独特のものだと言われています。日本では死後に戒名をもらって葬儀を行うことが一般的になっていますが、これは日本だけの習慣です。

 

古来より日本では、「亡くなってからでも出家した方が、故人は極楽浄土に行きやすくなる」、との考えがあったと言われています。そのため、人が亡くなると、戒名を授け、迷いなく極楽浄土へ旅立てるよう祈るという風習が定着していったそうですが、その経緯を簡単にまとめてみました。

 

 

  • 日本における戒名の使用

 

日本へ仏教の公的な伝来は、538(宣化3)年、百済の聖明王が釈迦仏像と経典を朝廷に献上したときとされます。しかし、仏教そのものは伝わったとしても、「戒律」(仏教徒として守るべき規律)は、正式に伝えられていませんでした。

 

出家して僧侶になるためには、戒律を学び戒律を守ることを誓う「受戒」という儀式を受けなければなりませんが、戒律を正式に授けること(「授戒」)ができる僧侶もおらず、日本に戒律を授かった者はいませんでした。このため、日本の僧侶は中国から正式に認められていないという状態でした。

 

そこで、聖武天皇の時代に、中国から鑑真(688~763)が招かれたのでした。鑑真は、5回も船が難破し、最終的には失明しながら来日を果たし、日本にも戒律が伝えられました。754年、東大寺の戒壇堂にて、聖武天皇が鑑真和尚から正式に受戒され、日本で初めて出家した天皇となられました。またこのとき同時に、「勝満」の戒名も受けられています。(もっとも、聖武天皇は、高僧、行基から戒律を受けたとする説もあります。)

 

鎌倉時代には、執権、北条時頼(1227~1263)が、臨済宗の渡来僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)に師事し、1256年3月、執権職を辞して出家し、覚了房道崇という戒名を受けています。ただ、戒名も葬儀のときに仏弟子となった意味で贈られる風習ができたのは室町時代になってからだとされています。

 

戦国時代になると、いつ自分の命が果てるかも知れない武将たちは、生前から俗名(本名)を捨て戒名を名乗ることが行われてきました。例えば、武田信玄は、俗名は武田晴信ですが、後に出家して「信玄(徳栄軒信玄)」、上杉謙信も上杉輝虎から、出家して「謙信(不識庵謙信)」と、それぞれ戒名を使用しました。

 

ただし、現在のように、一般家庭においても、戒名を用いるようになったのは、江戸時代に入ってからと言われています。徳川幕府は、キリシタン禁制を徹底させるために、人々は必ずどこかの寺院に属さねばならないという「檀家制度」を実施しました。

 

これによって、すべての日本人は、仏教を信仰し、必ず菩提寺(ぼだいじ)(=先祖代々の墓があり、仏事などでお世話になる寺院)を持ち、その檀家となることが義務付けられました。

 

その寺の壇家であることの証明として、戒名が付けられるようになりました。結果として、それまでの高級武士や、貴族だけでなく、庶民の葬儀も僧侶が執りおこなうのが当たり前となりました。こうして、生前、戒名を受けていない人も、死後、出家の有無にかかわらず、戒名を必ず授かるのが一般的となっていったとされています。

 

 

2020年08月27日

仏教:十王審判と十三仏信仰

 

前回の投稿「法要:人は死んだらどうなる?」で、「死後、十王による審判を受ける一方、残された遺族が法要を行うことによって、十三仏による救済を得て、極楽に導かれる…」式の話しをしましたが、今回は、十王審判と十三仏信仰について、より詳細な説明をしてみたいと思います。

―――

 

<十王思想>

 

インドでは、輪廻転生の思想に基づき、故人への供養として、死亡した日から七日目ごとに7回の法要が行われ、さらに、49日(=7×7)が過ぎると死者は他の生を受けると考えられていました。

 

中国に仏教が伝わった際、人は亡くなると冥界にいる10人の王から7日ごとに審判を受けるという十王信仰が出来上がりました。これによって遺族による供養(法要)も3回増えたことになりました。

 

十王とは、死者の生前中の行いの審判を行う10人の「裁判官」で、以下の順番に従い一回ずつ審理しました(ただし、各審理で決定されたら、次からの審理はなく、抜けて転生していったとされる)。広く知られている閻魔王も十王の一人で5番目に登場します。

 

秦広王(しんこうおう)(初七日)

初江王(しょこうおう)(十四日)

宋帝王(そうていおう)(二十一日)

五官王(ごかんおう)(二十八日)

閻魔王(えんまおう)(三十五日)

変成王(へんじょおう)(四十二日)

泰山王(たいざんおう)(四十九日)

 

 

  • 秦広王(しんこうおう)

 

インド神話によれば、人がこの世に生れ落ちると、「倶生神(くしょうじん)」が両肩に一神ずつ宿り、一生涯、その人の行為を帳面に記録していると言います(この帳面は閻魔王へ順次、渡されるので「閻魔帳」と呼ばれる)。秦広王はこの倶生神の報告に基づき、亡者の生前の行いを全て取り調べ、特に生き物の命を奪う殺生の罪を問いただします。亡者(もうじゃ)は、秦広王の取調べの結果により、三途の川のどこを渡るかが決められます。殺生を認めて、代わりに何かよい事をしたことがあるというならば、次の場所で言うように指示されるそうです。

 

  • 初江王(しょこうおう)

秦広王の裁きを受けた亡者が、三途の川を正しく渡ったかが確認された後、秦広王から届いた「調書」に基づいて、殺生に関する裁きや盗みについての取り調べが行われます。

 

  • 宋帝王(そうていおう)

邪婬(じゃいん)(不適切な性交渉)の罪が問いただされます。裁きの場では、化け猫が群がり、大蛇が列をなして出てくるそうで、罪が重い場合、男性なら性器を猫から食いちぎられ、女性なら性器に蛇がめり込んで身体が砕かれるという地獄に堕ちるとされています。

 

  • 五官王(ごかんおう)

ここで、主に「口」で犯す七つの罪が、秤(はかり)にかけられます。七つの罪とは、妄語(もうご)(嘘をつくこと)、飲酒、他の人の過失・罪過を存分にいう罪、自分を褒め他人を謗る罪、他に施すことを惜しむ罪、怒る罪、仏法僧の三宝を誹謗し貶める罪をいい、故人は、秤の上に乗せられ、来世の行く先が自動的に表示されるそうです。ただし、五官王に懇願して再審請求もできるとされています。

 

  • 閻魔王(えんまおう)

閻魔はサンスクリットのヤマ(死神)の音写であり、有名な閻魔王は、もとはヒンドゥー教の古い神さまで、死後の世界の王でした(ゆえに、閻魔大王と呼ばれる)。一般には、閻魔王が最終審判となり、これまでの諸王の取り調べを受けて、死者が天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道のうち、どこに転生するかがここで決定されます(これを引導と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となった)。

 

閻魔王はもちろん十王の裁判の裁きは、閻魔王の宮殿にある「浄波璃(じょうはり)の鏡」という、水晶でできた鏡に映し出される「生前の善悪」を証拠に推し進められます。「嘘をついた人は閻魔大王から舌を抜かれる」ということばがあるように、高度な嘘発見機のように嘘は必ず暴かれると言われています。

 

  • 変成王(へんじょうおう)

変成王は、閻魔王による最終審査を受けて、生まれ変わる場所(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄界)の内容や条件を決めます。例えば、ある故人の地獄行きが決定された場合、地獄には、重い順に阿鼻(無間)地獄、大焦熱地獄、焦熱地獄、大叫喚地獄、叫喚地獄、衆合地獄、黒縄地獄、等活地獄の八つの地獄あり(これを八大地獄と言う)、どの地獄に行くかがここで決められます。

 

等活(とうかつ)地獄:殺生罪
黒縄(こくじょう)地獄:殺生罪+他人のものを盗む偸盗(ちゅうとう)罪
衆合(しゅうごう)地獄:殺生罪+偸盗罪+淫らな行為をする邪婬の罪

 

叫喚(きょうかん)地獄:殺生罪+偸盗罪+邪婬の罪+飲酒の罪

飲酒の罪は、酒を飲むこと自体が罪というわけではなく、酒に溺れるなど自分のためにならない飲酒、酒に毒を入れて人殺しをしたり、他人に酒を飲ませて悪事を働くように仕向けたりすることなどが罪になると解されています。

 

大叫喚(だいきょうかん)地獄:殺生+偸盗+邪婬+飲酒の罪嘘+嘘をつく妄語の罪

 

焦熱(しょうねつ)地獄

大叫喚地獄に堕ちる罪+邪見(邪教を説き実践する)の罪。焦熱地獄に堕ちると、赤く熱した鉄板の上で、鉄串に刺されたり、目・鼻・口・手足などに切り裂かれ炎で焼かれると言われています。

 

大焦熱地獄

焦熱地獄に堕ちる罪+尼僧・童女など清く聖なる者を犯す犯持戒人(はんじかいじん)の罪

 

阿鼻(あび)地獄無間(むけん)地獄

大焦熱地獄に堕ちる罪に加えて、父母、聖者の殺害など最も罪の重い者が落ちる地獄です。地獄の中の最下層であるので、この地獄に到達するため(そこへの落下)に、真っ逆さまに落ち続けて二千年を要し、四方八方火炎に包まれ、剣樹、刀山、湯などの苦しみを受け続けると言われます。また、奇怪な鬼から舌を抜き出された上に100本の釘を打たれ、毒や火を吐く虫や大蛇に責めさいなまれ、さらに、熱鉄の山を上り下りさせられるといいます。

 

 

  • 泰山王(たいざんおう)

泰山王は、故人が輪廻転生する際に、男女のどちらに生まれるのか、またその寿命を決定すると言われています。

 

形式的には、死者は、6つの入口がある場所に連れていかれ、その一つを自分で選択することになるそうです。入口からその先を覗いても見えませんが、それぞれ、天界、人間界、阿修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄界へと続いているとされています。六道輪廻の世界ですね。仏教で教える、生前の行いに応じ必ず報いがあるという「因果応報」の原理に従って、その選択が生前の業の結果となるという仕組みです。

 

現世では、この日、故人がよい世界へ行けるよう四十九日の法要をしてくれています。インドでは、この日まで、亡者の霊魂は、あの世とこの世を旅していると信じられており、インド古来からの儀式としては、7×7=49日目で遺族による供養はこれで終わりです。

 

ただし、仏教が中国に入った後(後世)、死者の成仏を願う気持ちからでしょうか、四十九日が終わっても、「百ヶ日」、「一周忌」、「三回忌」と供養(法要)を重ねることにより、故人の生前の罪や苦しみが軽減されたり、極楽浄土の世界を見ることができるとされました。その際、追加の審判を行う以下の3王が加えられました。

 

  • 平等王(びょうどうおう)(百ヶ日)
  • 都市王(としおう)(一周忌)
  • 五道転輪王(ごどうてんりんおう)(三回忌)

 

こうして、中国では、10人の王が死者を裁くという十王思想が出来上がりましたが、最後の3人は後世、仏教が中国に伝わってから付け加えられたので、この3王についての資料はあまりありません。

 

十王思想は、その後、中国を経由して日本にも入ってきました。その日本ではさらに、7回忌、13回忌、33回忌の法要が行われ、その際に蓮華王(れんげおう)、慈恩王(じおんおう)、祇園王(ぎおんおう)が加わり、十三王となりました。なお、この追加の3王を、蓮華王(れんげおう)、祇園王(ぎおんおう)、法界王(ほうかいおう)とする宗派もあります。

 

ただし、中国の十王思想の10人の王にさらに3王が加わったからといって、日本で十三王思想と呼ばれることはなく、十三仏信仰という形で発展しました。

 

 

<十三仏信仰とは>

 

十三仏とは、人が亡くなった後に、49日、3回忌、33回忌と、十王の裁きを受けつつ冥界での修行をしている最中、極楽浄土へと導いてくれる13の仏・菩薩の総称です。

 

日本では特に、神仏習合思想が発達した本地垂迹(ほんじすいじゃく)(仏が人々を救うために神という姿を借りて現れたという考え方)に基づいた信仰で、冥界にいる十王(日本では13の王)は、それぞれ仏さまが姿を変えたものとされます。

 

十三仏は、初七日から三十三回忌まで、遺族が行う法要(法事)をそれぞれ見守っています。追善供養の際は、故人に対して、というよりは、本地仏(本来の姿である仏さま)に対して、亡くなった方の供養が成就するように祈ることが正しいと言われています。私たちは自力で浄土へ行くことはできないとされ、13仏に導いてもらうことで、極楽浄土への道が開かれると考えられています。

 

日本において、この思想は、平安末期に仏教由来の末法思想や冥界思想と共に広く浸透しました。鎌倉時代に、十王それぞれに対し、本地仏としての仏さまが決められ、室町時代あたりから盛んになりました。

 

さらに江戸時代には、3人の新たな冥界の王と対応した仏が加わり(正確には3仏が先で、後から3王が設置され)13仏となり、十三仏信仰なるものも生まれるに至りました。本来は十王が中心でしたが、日本では、本地である10人(やがて13人)の仏たちが主役になっていきました。

 

十王の本地仏

秦広王⇒不動明王

初江王⇒釈迦如来

宋帝王⇒文殊菩薩

五官王⇒普賢菩薩

閻魔王⇒地蔵菩薩

変成王⇒弥勒菩薩

泰山王⇒薬師如来

 

平等王⇒観世音菩薩

都市王⇒勢至菩薩

五道転輪王⇒阿弥陀如来

 

(蓮華王)⇒阿閦如来

(慈恩王/祇園王)⇒大日如来

(祇園王/法界王)⇒虚空蔵菩薩

 

日本で追加された3仏、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩は、密教系の仏さまで、空海が広めた真言宗の強い意向が働いたのではないかと見れらています。

 

 

<十三仏の役割>

十三仏は、閻魔王を初めとする神々の裁きの場面で、極楽浄土へ行けるように救済をするという共通の使命を持っています。(数字は忌日)

 

  • 不動明王:初七日(しょなのか)

右手に剣、左手に絹索(「はわな」のこと)を持つ不動明王は、人の煩悩を焼き払う仏さまです。死後の世界へと旅立つ者が、生きていたときの世界に未練を持たないように、剣で迷いを切り払い、絹索は迷っている者を縛って救いとり、冥界へと導きます。

 

  • 釈迦如来:二七日(ふたなのか)

仏教の開祖で、最高位の仏さまである釈迦如来は、故人が冥界へ旅立つ際に、仏教本来の教えを説き、死者の不安を取り除く役割を担っています。

 

  • 文殊菩薩:三七日(みなぬか)

「三人寄れば文殊の知恵」で知られる文殊菩薩は、人々に悟りを導くための智慧(知恵)を与える知恵の仏さまで、釈迦の教えを理解する智慧を授けてくれます。

 

  • 普賢菩薩:四七日(しぬなのか)

情を司る仏さまとして知られる普賢菩薩は、慈悲により、煩悩を消し去り、過去に犯した罪を軽減して、故人を悟りの世界へ導いてくれます。

 

なお、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の3仏を「釈迦三尊仏」といい、二七日、三七日、四七日までに、故人に仏教の基本的な教えを説いてくれると言われています。

 

 

  • 地蔵菩薩五七日(ごしちにち)

ぬくもりの菩薩として知られる地蔵菩薩は、故人が閻魔王の裁きで六道へと落ちてしまった際に、救いの手を差し伸べてくれます。

 

  • 弥勒菩薩:六七日(むなのか)

第二の釈迦如来と言われる弥勒菩薩は、説法を引き継ぎ、故人の心を常に安らかな状態にしてくれます。

 

弥勒菩薩とは、釈迦の入滅後56億7千万年後に、人間界へ下ってこの世を救うとされる「未来仏」です。なお、地蔵菩薩は、弥勒菩薩が如来として現世に現れるまでの期間、人々を救済するためにいるとされています。

 

  • 薬師如来:七七日(しちしちにち)

薬壺を持ち病気を治す仏様として知られる薬師如来は、四九日で現世との関係を断ち切らなければならない故人が、まだ冥土の世界に入れずに苦しんでいる際に、その苦しみを和らげ、極楽浄土へ辿り着くための薬を与えてくれます。

 

  • 観世音菩薩:百箇日

慈悲の仏さまとして知られる観世音菩薩は、願いに応じて33の姿に身を変えて現れ、死者を救う役割を持っています。

 

  • 勢至菩薩:一周忌

勢至菩薩(せいしぼさつ)とは、無限の希望と知恵により、人々の苦しみを取り除く菩薩で、智慧の光で六道に迷う人々に救いの道を示してくれるとされています。

 

  • 阿弥陀如来:三回忌

阿弥陀如来は、極楽浄土にいてその光で世界中の人々を照らし、亡くなった人をも教化します。無限の寿命を持つことから「無量寿如来」とも言われ、限りない光(智慧)と限りない命を持って人々を救い続けるとされます。

 

仏教の世界では、現世での苦しみを取り除き安泰を祈る薬師如来に対して、死後の来世の平穏を祈る阿弥陀如来と位置づけられ、薬師如来は東方浄瑠璃界(いわゆる現世)の教主である一方、阿弥陀如来は、西方極楽浄土の教主とされています。

 

また、観世音菩薩勢至菩薩は、阿弥陀の両脇に控える脇侍(きょうじ)として、死者を極楽浄土に向けて、阿弥陀如来まで導く役割を担っています。

 

  • 阿閦如来:七回忌

怒りを断つことで悟りを開いた阿閦(あしょく)如来は、物事に動ぜず、魔を下す強い心を持つとされ、「無動如来」とも呼ばれます。死者に対しては、新たな世界に向けて、迷いにうち勝つ強い心を授けると考えられています。

 

  • 大日如来:十三回忌

密教(仏教の秘密の教え)では、大日如来は宇宙の真理を現し、宇宙そのものを指します。すべての命あるものは大日如来から生まれ、釈迦如来も含めて他の仏は、大日如来が姿を変えて現れた化身と考えられています(大日如来はすべての仏の根源)。

 

文字通り、太陽の様な輝きを持つ仏として、大日如来は、これまでの11人の仏による教えをどれほど悟っているかをみて、さらにその上に導いていくとされています。

 

  • 虚空蔵菩薩:三十三回忌

虚空蔵菩薩とは、無限の智慧と慈悲が収められた蔵から、人々に必要のものを取り出して与えてくれる仏さまです。故人に対して、誰もが仏性があることを教え、人格を完成させて涅槃へ到着できるように導いてくれると考えられています。

 

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宗派によっては、三十三回忌の法要(法事)以降も、さらに五十回忌、百回忌と続けるお寺もありますが、一般には三十三回忌をもって、遺族としては法要(法事)の締めくくりとなります。故人は、三十三回忌以降は個別の先祖としてではなく、その家の「先祖代々」として祀られ、遺族にとっては「ご先祖様」となります。

 

 

<参考投稿>

「戒名」ってどんなもの?

 

<参照>

やさしい仏教入門:十三仏・十王

やさしい仏像のはなし – 第二十話 閻魔様と十王思想

13仏とは?十三仏信仰や掛け軸、現世・来世での功徳も解説!

十三仏の意味とは?十三仏とは何か、解説いたします、終活ネット

鎌倉:円応寺の十王像~閻魔大王・初江王・奪衣婆など~

閻魔大王だけじゃない!地獄の王様たちまとめ – NAVER まとめ

地獄の歩き方

鎌倉十三仏とは?

 

 

2020年08月19日

仏教:「法要」人は死んだらどうなる?

前回の投稿では、葬儀において重要な役割を担う「戒名」についてまとめました。お葬式が済むと、仏教では初七日、49日、3回忌…の法要・法事が行われます。

 

もともと仏教では、仏法(釈迦の教え)を知るために集まる席のことを「法要」「法事」と呼んでいたそうですが、現在、法要(法事)とは、死者の冥福を祈るために、人々が集まって執り行う儀式のことで、葬儀(通夜・葬式)の後に行われる仏教の行事全般をいいます(なお、法事とは、法要とその後の会食を含む行事の事)。では、葬儀後、具体的にどのような法要(法事)が行われるのか、またその背景にある考え方をみてみましょう。

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  • 輪廻転生

 

仏教では、輪廻転生(りんねてんしょう)という考え方があり、命日から四十九日の間に、故人が次に生まれ変わる世界(来世)が決まるとされています。輪廻転生とは、車輪が回るように、人は何度も生死を繰り返し、死んでも新しい生命に生まれ変わることをいいます(輪廻:車輪が回る様子、転生:生まれ変わり)。現世での行いが来世に影響を及ぼすと言われており、仏教では、死者は、六道(りくどう/ろくどう)という6つの世界(境遇)のいずれかに生まれ落ちるとされています(これを六道輪廻と呼ぶ)。

 

6つの世界(来世)とは、地獄道(じこくどう)、餓鬼道(がきどう)、畜生道(ちくしょうどう)、修羅堂(しゅらどう)、人間道(にんげんどう)、天道(てんどう)をいいます。この六道の世界は、どこへ行っても煩悩の苦しみがあり、それを超越した世界が極楽浄土です。

 

人が死ぬと、閻魔大王(えんまだいおう)に裁かれ、天国に行くか地獄に行くかが決まるなどという話しは聞いたことがあるかもしれません。実際、中国には、人が亡くなると、冥界(あの世)にいる10人の王(閻魔大王もその一人)によって、死後七日目から七日ごとに七回、審判を受けるという考え方があります(これを「十王思想」という)。

 

七回のうち五回目の審判(死後35日)を行うのが閻魔大王(えんまだいおう)で、これが最終審判となり、ここで死者の行方が、ほぼ決定されると伝えられています。(これを引導と呼び、「引導を渡す」という慣用句の語源となった)。審判は、閻魔王の宮殿にある「浄玻璃鏡」と呼ばれる「鏡」に映し出される「生前の善悪」を証拠に、間違いなく進められるそうです。では、「裁判」の結果、人が死後、落ちていく六道が、どういう世界なのかをみてみましょう。

 

  • 六道輪廻の世界

 

天上(てんじょう)

天上界とは、六道の中では苦が少なく楽の多い世界ですが、迷いの世界であることは間違いなく、悲しみもあります。また、寿命もあり、年をとってくると、それまで楽しかった分、苦しみを受けます。その意味で、天上界は極楽浄土とは異なります。

 

人間界

人間界とは、生病老死の四苦八苦がある私たちが今生きている世界です。ただし、六道の中で、唯一仏の教えを学べる場であり、輪廻転生の枠から逃れられる(解脱)可能性もあります。

 

修羅(しゅら)

修羅界とは、争いの絶えない世界で、ここでは、欲望を抑えることができず、怒りに我を忘れ、戦いを繰り返します。生前、喧嘩や争いばかりしていた人がいく世界です。

 

畜生(ちくしょう)

畜生界とは、動物の世界のように、弱肉強食が繰り返され、互いに殺傷しあう世界です。自分より強い生き物に突然襲われて食われてしまう世界なので、常に不安に怯えなければなりません。そうすると、人を蹴落としてでも、自分だけここから抜け出そうとして、殺し合いを繰り返すことになってしまいます。生き物を殺してきた人、そうでなくても、幸せな人を妬み、他人の不幸を喜ぶ、愚痴ばかり言っている人が落ちる世界と言われています。

 

餓鬼(がき)

餓鬼界は、飢えと渇きによって苦しみを味わう世界です。そこは、食べ物や飲み物があったとしても、それを口に運ぼうとした瞬間に青白い炎となって消えてしまい情景でよく説明されます。結果的に、食べたい物も食べられず、飲みたい物も飲めず、ガリガリにやせ細り、最後は骨と皮だけになってしまいます。生前、食べ物を粗末に扱った人、そうでなくも、欲深く、ケチだった人が餓鬼道に落ちていくそうです。

 

地獄界

地獄界は、六道のなかで最も苦しい世界です。「この世の溶鉱炉の火を地獄に持って行くと、霜か雪のようになってしまう」、「この世の一番の苦しみを一滴の水とするなら、地獄は海の水のような苦しみ」と説かれるほど、その苦しさは言葉では言い表せず、その期間も果てしないと言われいます。

 

殺人、強盗、窃盗、淫行など犯罪を犯せば、地獄に生まれるとされています。その地獄にも、生前の行為によって、5つの種類に分かれているそうです。

 

等活(とうかつ)地獄:生き物を殺す殺生罪の場合
黒縄(こくじょう)地獄:殺生罪に加えて、他人の物を盗む偸盗(ちゅうとう)罪の場合
衆合(しゅうごう)地獄:殺生・偸盗罪に加えて、淫らなことを行う邪婬(じゃいん)の罪をもつ場合
叫喚(きょうかん)地獄:殺生・偸盗・邪婬の罪に加えて、飲酒の罪をもつ場合
大叫喚(だいきょうかん)地獄:殺生・偸盗・邪婬・飲酒の罪に加えて、嘘をつく妄語の罪をもつ場合

 

 

  • 追善法要

 

そこで、故人が少しでも良い世界に生まれ変わるようにと、故人が裁きを受ける七日ごとに、残された家族が代わって供養をします。死者に代ってあとを「追う」ように「善徳」を積むことから、これを追善法要(ついぜんほうよう)と呼ばれます。

 

これは、インドでは亡くなった人への供養として、死亡した日から七日目ごとに7回の法要が行われていたという風習によります。(7×7=49日が過ぎると死者は他の生を受けると考え方もここからきている。)

 

さらに、この法要が七日ごとに7回あるのは、7回の審理のたびに十王に対し死者への減罪の嘆願のためだと言われています。冥界での「裁判」においては、遺された家族が行なう追善法要も、故人へ下される審判の「参考」になるそうです。ですから、故人は、初七日から三十三回忌までの合わせて13回の法要を受けます。

 

この時、13の仏様に守られながら、極楽浄土に導かれて成仏するとされています(13の仏様を十三仏と呼ぶ)。十三仏は、三十三回忌までの13回の法要のそれぞれに守護仏として存在します。仏教では、私たちは自力で浄土へ行くことはできないので、十三仏に導いてもらうことで、極楽浄土への道が開かれると教えています。

 

こうして、13体の仏に向けて供養を行う事で、故人の生前の罪悪を消すことができるとされています。四十九日目に最後の裁きが終わった後、来世の生まれ変わり先が決まり、たとえ地獄に落ちた故人であったも、百日忌、一周忌から三十三回忌まで、各々の法要を司る仏に祈り、感謝し導いていただくことで、浄土にも行くことが可能となるとされています。

 

追善法要のうち、死後七日ごとに四十九日まで行う法要を「中陰法要(ちゅういんほうよう)」または「忌日法要(きにちほうよう)」、それ以降、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌の法要を「年忌法要(ねんきほうよう)」と呼びます。

 

幽界(あの世)では、六つの世界で苦しむ人達を救うため、観音様やお地蔵様が特別に配置され、休む暇もなく六道を巡っているそうです。

 

 

<中陰法要>

 

初七日(しょなぬか):不動明王(ふどうみょうおう)

二七日(ふたなぬか): 釈迦如来(しゃかにょらい)

三七日 (みみぬか):文殊菩薩(もんじゅぼさつ)

四七日 (よなぬか):普賢菩薩(ふげんぼさつ)

五七日 (いつなのか):地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

六七日 (むなのか):弥勒菩薩(みろくぼさつ)

七七日忌 (しちしちにちき):薬師如来(やくしにょらい)

 

死後四十九日間は、まだ故人があの世とこの世の間をさまよっているとされています。それが終わるのが、「七七日忌(四十九日)」の法要で、「忌明け(きあけ)」とも呼ばれます。この四十九日を境に、「死霊(故人)」は「祖霊(仏)」となるとされています。遺族が喪に服す期間も終わり、この日までに本位牌(黒塗りの位牌)や仏壇が用意されるのが慣例です。

 

 

<年忌法要>

 

百カ日 (ひゃっかにち):観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)

一周忌 (いっしゅうき):勢至菩薩(せいしぼさつ)

三回忌 (さんかいき):阿弥陀如来(あみだにょらい)

七回忌 (ななかいき):阿閦如来(あしゅくにょらい)

十三回忌 (じゅうさんかいき):大日如来(だいにちにょらい)

三十三回忌 (さんじゅうさんかいき):虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)

 

 

年忌法要は、極楽浄土に行った故人がさらなる精進の道へと導くため、または、閻魔大王の裁きの結果、地獄道や修羅道などに落ちてしまった故人の救われのために営まれます。一周忌、三回忌、十三回忌と続き、三十三回忌で、故人(祖霊)は、神霊(氏神=ご先祖さま)となって、自然に還り、菩薩(ぼさつ)の道に入ることが期待されます。家庭では、三十三回忌以降は個別の先祖としてではなく、その家の「先祖代々」として祀られます。

 

仏教では、宗派によっては、三十三回忌の前に七回忌、十七回忌、二十三回忌を催したり、また三十三回忌以降もさらに五十回忌、百回忌と続けるお寺もあります。ただし、一般には三十三回忌をもって、故人としては修行の締めくくり、遺族としては法事の締めくくりとされます。

 

なお、亡くなった年は、命日の翌年を「一周忌」とし、翌年を「三回忌」」とします。これは、亡くなった日が1回目の忌日、丸1年目が2回目の忌日、丸2年目が3回目の忌日であることによります。ですから、死後2年目に「三回忌」、7年目に「八回忌」…という具合に計算していきます。

 

*十三仏と十王思想については、改めて投稿したいと思います。

 

<参照>

法事と法要の違いがわかる!種類・日にちの数え方・流れまでを全解説

法事・法要・四十九日がよくわかる

やさしい仏教入門:十三仏・十王

やさしい仏像のはなし – 閻魔様と十王思想

Wikipediaなど

 

 

2020年08月15日

仏教:「戒名」ってどんなもの?

最近、身内に不幸があり、「戒名」について考える機会がありました。意外にも仏教の奥深い世界を理解できました。

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  • 戒名とは?

 

仏式の葬儀は、日本の葬儀の9割を占めているとされています。その葬儀になくてはならないのが戒名で、一般的に、遺影とともに、葬儀の祭壇の中央に置かれている白木の位牌(いはい)の正面に記されています。位牌は「あの世」と故人を結ぶ接点です。戒名は、葬儀の際に用いる白木位牌や仏壇に納める本位牌(黒塗りの位牌)だけでなく、お墓の石碑や卒塔婆(そとば)(供養のために用いる細長い木の板)などにも記されています。

 

その戒名とは、「仏の弟子となった証として故人に送られる名前の総称」などと定義される故人の霊名です。仏式の葬儀では、一般的に、生前の名前(俗名)ではなく、死後にいただいた戒名が使われます。ただし、本来の戒名とは、亡くなってから葬儀の時に付けられるのではなく、俗世を離れて、仏の弟子になった証として出家の際に与えられるものでした。

 

具体的には、僧侶の「戒律」(菩薩行の道を生きていくための行動の規則)を、修行によって守ることを条件に、「戒名」が授けられたのでした。ですから、戒名とは、師匠が弟子に授けるもので、本来は生前に授かっておくべきものだったのです。実際、戒名を受ける際には、必ず「授戒(じゅかい)」と呼ばれる儀式が行われ、仏教の戒律(約束事)を守ることを誓い、仏弟子として認められます。

 

しかし、後に、出家をしない俗人であっても、生前のうちから、授戒会(じゅかいえ)と呼ばれる法会に参加することで、戒名を受けられるようになりました。さらに生前、戒名を受けていない人も、現在の仏式の葬儀では、出家の有無にかかわらず、戒名を必ず授かるのが一般的です。

 

 

  • 戒名を受けるときの手順

 

一般的に戒名は菩提寺(先祖代々のお墓のあるお寺)に依頼をして授かります。形式的には、菩提寺の住職が師匠、戒名を授けられる人が弟子という関係になり、住職を通じて仏さまの門下に入ります。

 

生前に戒名を受けてない人は、死亡時点で、戒名を授かるためには、家族がすぐに菩提寺の僧侶へ依頼します。そうすると、大概は、枕勤め(故人の枕元でお坊さんに読経をしてもらうこと)の際や、通夜の前に授かることができます。葬儀前に戒名を授かることで仏教徒として葬儀を行うのです(仏式で葬儀を営むには、仏教徒でなくてはならないので、授戒をし、仏教徒としての体裁を整える)。

 

もっとも、戒名はお葬式のときに絶対に必要なものではなく、寺院が決まっていない場合は、生前の俗名のままでもお葬式を行うこともできます。ただし、その場合でも、遅くとも納骨までに、戒名をつけてもらうそうです。

 

戒名は、ある程度の希望は反映されますが、すべて、本人や家族が好きなようにつけられるものではないとされています。特に、戒名の位(等級、格付け)については、原則、住職が決めるものだそうです。

 

戒名(の位)は、寺院に対する日頃からの功績や社会的に大きな功績を残した事柄など、生前の故人の評価が大きく反映されて、住職の判断でが決められます。また、これ以外に、すでに亡くなっている家族や先祖が授けられた戒名の位に合わせる場合もあるとされています。

 

さらに、御布施の金額によって戒名の位が考慮されるのも事実です。現代において多くの方は、生前のうちに仏教や寺院に関わることが少なくなっているため、寺院への貢献度は御布施という金品にとって代わり、その金額の大小が戒名の位に影響していると説明されています。

 

 

  • 戒名の構成

 

戒名は、日本人の「名字+名前」とは異なり、一般的に、「院(院殿)号+道号+戒名+位号」(通常は、「道号+戒名+位号」)という構造から成り立ちます。戒名そのものは、身分に関係なく仏の世界では平等であるということから、どんな人でも2文字で表されます。「戒名」以外につけられる「院号」「道号」「位号」は、仏弟子としての位階や性別を表わしています。

 

現在、一般に「戒名」といわれているのは、本来の「戒名」だけでなく、「院号」「道号」「位号」といった一連の文字構成を総称したものを戒名と呼んでいます(本来の「戒名」の部分を法号と呼ぶことがある)。

 

「〇〇院▲▲□□居士」と戒名を授けられた場合、〇〇院の部分が院号、▲▲の部分が道号、□□の部分が戒名、居士の部分が位号と呼ばれます。

 

例えば、慶応大学の創始者、福沢諭吉の戒名は「竜徳院宏文有明居士」です。この場合、「竜徳院」が院号、「宏文」が道号、「有明」が戒名、「居士」が位号となります。

 

通常の戒名:「道号・戒名 ・位号」の六文字

特別な戒名:「院号(院殿号)・道号・戒名・位号」の九文字

 

 

  • 院号と院殿号

 

「院号(院殿号)」は、通常、大臣や知事・市長など社会的地位のある人、寺院、国・地域社会に貢献をした人、仏教の信仰心の厚い信者などに対して特別につけられる称号です(経済力や家柄も考慮される)。

 

院殿号、院号ともに、戒名としては最上位ですが、両者をさらに区別すると、現在、「院殿号」が戒名での最高ランク、これに次いで「院号」となります。

 

 

院号(いんごう)

 

もともと、立派な屋敷のこと(高貴な人の住まい)を表す「院」という名称は、天皇を退位し、太上天皇(上皇)になった場合や、皇后、皇太后、太皇太后の三后に対して贈られました。

 

院号そのものは、平安時代の嵯峨天皇(786~842)が譲位の後、離宮を造営し移り住んだ御所を「嵯峨院」と名付けたことこから始まりました。以来、天皇が退位隠居された御所を○○院と称し、後にその人そのものを表すようになっていきました。

 

ですから、院号はもともと戒名とは別個のものでした。それが、やがて寺院を建立(寄進)した貴族(公家)、皇族、武将などの敬称にも院号が用いられるようになったことから、院号は戒名に使われることになったのだそうです。

 

現在でも、院号の使用は、生前にお寺を建立するほど寺院に貢献した人や、社会に多大な功績のあった人、政治家など社会的地位の高い人に限られるので、一般庶民の葬儀において、院(殿)号を目にする機会は少ないとされます。

 

なお、川端康成の「文鏡院殿」、谷崎潤一郎の「安楽寿院」のように、多くの作家には院号がつけられています。これは、江戸時代の文人にも院号がつけられていたことを反映しているようです。

 

 

院殿号

 

院殿号(いんでんごう)は、室町幕府を開いた足利尊氏(1305~1358)が、皇族にならって、院号を使用しようと、「等持院殿」を戒名の上につけて使用したことがきっかけとされ、以後、院殿号は武士や大名などでも多く用いられるようになりました。「等持院殿」は、もともと等持寺と呼ばれ、足利尊氏が建立したお寺でしたが、尊氏亡き後、等持院と名を改めたものだそうです。

 

ちなみに、足利尊氏の戒名は「等持院殿仁山妙義大居士」で、「等持院殿」が院殿号、「仁山」が道号、「妙義」が本来の戒名、「大居士」が位号となります。

 

明治時代(明治13年7月)になると、それまで、武士の身分以上の有位の人に限定されていた院殿号の使用が、平民でも国家に勲労があれば許されることになりました。現在、院殿号は、院号と同様、仏教に対して相当な寄進や尽力をした人で、さらに高徳の人に対して与えられる尊称とされています。

 

院殿号は、本来、院号より下位に位置していましたが、「院号」は天皇や三后(皇后、皇太后、太皇太后)に対しての尊称に当たるため、武家が「院号」を使おうとする際、天皇・皇族と全く同じにすることをはばかり、「院殿」が多く付けられたという説があります。しかし、院殿は、文字数が多く(2文字)、豪華な印象を与えることから、現在では、院殿が院号より上位とされるようになったと言われています。

 

 

寺号・軒号・斎号・庵号など

 

また、院号に準ずる尊号として、「寺号」や、その人の住んでいた場所などを表す「軒号」、「斎号」、「庵号」などがあります。

 

寺号(じごう)

寺の正式な名称で、寺の建立者やこれに準ずるものに付けられます。

 

軒号(けんごう)

軒とは建物の意で、屋号や雅号(画家・文筆家などが、本名の他につける風流な別名)などが軒号として用いられます。

 

斎号(さいごう)

斎とは居室、部屋のことで、転じて書斎、居間の意味で、多くは医者、芸術家に与えられます。

 

庵号(あんごう)

庵とは、文字通り「いおり」のことで、大寺に属した建物、草庵、茶室に当たります。

 

この他にも、場所、空間、処を表わす「房」「舎」「堂」「園」などが、院号に次ぐものと考案され用いられました。例えば、江戸時代後期の作家、曲亭(滝沢)馬琴の戒名は「著作堂隠誉蓑笠居士」で、院号に該当する「著作堂」がつけられました。

 

 

  • 道号(どうごう)

 

道号は、本来の「戒名」のすぐ上(「院号」の下)に、戒名と調和するように付けられます。本名に対する「別名」と考えればよいでしょう。道号には、一般的に、人柄や性格、生前の功績、趣味や特技など、故人を讃える意味の文字を選ぶのが習わしとなっています。また地名や家名を入れることもあります。特に、歌人や俳人であれば、雅号(がごう)や俳号といった生前のペンネーム等が用いられることが多くあるようです。なお、未成年者や幼児、水子には、道号は使われません。

 

道号の起源は、中国仏教にあり、元々中国の皇帝が道教修行者(仙人)に下賜した称号だと言われています。中国でこの道号が使われるようになって、日本にも伝わり、本来は、仏道を極めた位の高い僧侶に使われる尊称とだったそうです。

 

皆さんご存じの「一休さん」の本来の名前は、一休宗純(そうじゅん)(1394~1481)ですが、「一休」が道号で、「宗純」は戒名(出家名)です。この時代、本名(出家名)を避けて呼ぶという習慣があったとされ、道号である「一休」の名前が知られるようになったと言われています。道号も本来は、亡くなった方に対してつけられるのが一般的ですが、中に生前から道号をつける例もありました。

 

仏教の宗派によっては、道号ではなく、誉号、釋号、日号を用います。誉号(よごう)は浄土宗、釋号(しゃくごう)は浄土真宗、日号(にちごう)は日蓮宗の僧侶や信者に用いられます(後述)。

 

 

  • 戒名

 

道号の下が本来「戒名」と呼ばれるものです。歴史上、著名な僧侶の名前は、空海、法然、道元などすべて戒名で、前述したように、皆、平等に2文字です。生前の故人の俗名(本名)の一部、故人にちなむ文字、さらには経典から取られた文字などを付けるのが一般的です。

 

赤穂浪士で有名な大石内蔵助、堀部安兵衛の戒名は、それぞれ「浄劔」、「輝劔」でともに「剣」の字がついています。なお、道号をみると、それぞれ「刃空」「刃雲」でともに「刀」の文字が与えられました。2人に限らず、47剣士にはほぼ全員、道号に「刀」、戒名に「剣」の文字が用いられています。

 

大石良雄:忠誠院刃空浄劔居士

堀部安兵衛:刃雲輝劔信士

 

 

  • 位号(いごう)

 

位号は、戒名の一番下につける尊称で、俗名でいえば「~様」にあたります。性別や年齢によって違いがあるほか、社会貢献度や信仰の篤さによっても異なる位号が使われるなど、戒名の位によって使われる位号が異なります。

 

通常、男性は「居士(こじ)、信士(しんし)」、女性は「大姉(たいし)、信女(しんにょ)」が用いられます。

 

信士・信女

信士(しんし)と信女(しんにょ)は、「仏教を信仰している人」を意味していて、もともと、武家や庶民に付けられる称号でした。現在、戒名の位の中では標準的な位号で、ほとんどの方はこの戒名です。

 

なお、信士、信女と同じ枠組みですが、「清」の文字が入り、「清信士」、「清信女」となると、信士、信女より位が高くなります。

 

 

居士・大姉

居士(こじ)とは、もともとサンスクリット語で長者(長老)、または長老として仏教に厚く信仰していたという意味があります。古代インドにおいて、居士とは、僧侶にならず、俗世において、熱心に仏道に励む学徳にすぐれた男性または裕富な資産家をさしました。インドでは、商人の維摩居士(ゆいまこじ)が有名です。居士は後に広く在家の弟子のことを指しました。一方、女性の場合が大姉(だいし)で、男性の居士と同格の尊称です。

 

居士、大姉の方が、信士・信女よりも、位(ランク)は高く、かつては、貴族や武家など上流階級の家柄の方のみが対象とされました。現在では、信仰心があり宗教活動に貢献する人や、寺院や社会の貢献度が高かった成人男女などに対して授けられる位号です。

 

院号を持たない通常の戒名の場合には、位号は「信士」となる一方、院号を持つ戒名の場合には位号として「居士」を付けます。また、夫婦の場合、位号の格は揃えるのが一般的で、例えばご主人が居士であれば妻は大姉、ご主人が信士であれば妻は信女となります。

 

 

大居士・清大姉

なお、「居士」と「大姉」に、「大」の字と「清」の字がそれぞれ冠せられると、「大居士(だいこじ)」、「清大姉(せいたいし)」となり、在俗者のものとしては最も格の高い位号であることを意味します。

 

「院殿号」を持つ戒名の場合には、位号は「大居士(清大姉)」となります。例えば、作家の川端康成の戒名、「文鏡院殿孤山康成大居士」をみると、院殿号の「文鏡院殿」に対して、位号が「大居士」となっています(なお、孤山が「道号」、康成が「戒名」)。

 

さらに、「居士、大姉」と同じ枠組みですが、「院」、「院殿」の文字が冠せられると、「院居士(いんこじ)・院大姉(いんたいし)」、「院殿居士(いんでんこじ)・院殿大姉(いんでんたいし)」となり、「居士、大姉」より位が高くなります。

 

 

院居士院大姉

もともとは、皇族かその関係者に対してのみ授けられた位号で、現在は、本堂建立に多大な貢献を行うに匹敵するような功績があった人に授けられます(この場合の「院」は、出家した皇族が寺院に付属して建てた住居を意味している)。

 

院殿居士院殿大姉

院居士・院大姉よりも更に寺院に対する大きな貢献があった方、または宗派の枠を超え仏教会全体、さらには社会全体に功績があった方にも授けられます。滅多に見ることのない位号です。

 

加えて、「居士・大姉」より下位で、「信士(清信士)・信女(清信女)」より上位とされる位号に、禅定門と禅定尼もあります。

 

禅定門・禅定尼

禅定とは悟りの境地を意味し、仏門に入って剃髪した男女をそれぞれ禅定門(ぜんじょうもん)、禅定尼(ぜんじょうに)といい、そのまま位号として用いられています。また、両者に「大」の字が冠せられると、それぞれ大禅定門大禅定尼となり、院殿号が併用されることが多くなります。

 

平等を解く仏教の教義上には、戒名の位(等級、格付け、順位、階位)はありませんが、前述したように、実際は、故人の生前の信仰の深さや、寺院や地域社会への貢献度によって、戒名にも等級が決められます。また、死亡後、戒名を授かるときに、納める御布施の金額も戒名の等級によって異なると言われています。

 

参考までに各位号を授けていただく場合の御布施の相場は以下の通りです。

 

信士・信女:約20万円~30万円

居士・大姉:約40万円~60万円

院居士・院大姉:約80万円~100万円

院殿居士・院殿大姉:約100万円~300万円

 

もっとも、中には位号とは無関係に5万以下で請け負われている僧侶に方もいらっしゃいます。

 

 

  • 子どもの戒名

 

未成年の子どもに戒名をつける際、以下のように年齢によって呼び名が変わります。

 

嬰児(嬰子)(えいじ、えいし)/嬰女(えいにょ)
1歳以下の赤ちゃんのための位号です。

 

孩児(がいじ、がいし)・孩女(がいにょ)
1歳~2歳の乳幼児のための位号です。

 

幼子(ようじ)、幼女(ようにょ)

3歳から小学校に入る前の7歳までの幼児に用いられます。

 

童子(どうじ)・童女(どうにょ)
15歳未満の子供に付けられますが、おおよそ満3歳~14歳までとされることもあります。さらに男の子なら「大童子」「禅童子」、女の子の場合、「大童女」「禅童女」などの尊号が用いられる場合もあります。

 

水子(すいじ、すいし)
流産・死産した胎児のための位号。男女の性別は問いません。「みずこ」とよく呼ばれますが、位号としては「すいし」と呼ぶことが多いとされています。

 

 

  • 各宗派の戒名

 

例えば、戒名という呼び方も、浄土真宗や日蓮宗ではそれぞれ「法名」「法号」と呼ぶように、戒名は、それそれの宗派の教えや考え方の違いによって、付け方に特徴があります。それぞれの宗派の戒名の特徴を見ていきましょう。

 

 

<天台宗>

 

戒名は、「院号+道号+戒名+位号」(または「道号+戒名+位号」)で構成され、天台宗では、二字法名の上に二字の道号を付けて四字名とするのが通例となっているそうです。

 

天璋院(てんしょういん)/篤姫の戒名、「天璋院殿従三位敬順貞静大姉」をみると、「天璋院殿」が院殿号、「敬順」が道号、「貞静」が戒名、「大姉」が位号です。

 

(◆)〇〇院▲▲□□居士((◆)▲▲□□信士)

(◆梵字、○○院号、▲▲道号、□□戒名)

また、位牌には、戒名の初めに、梵字(ぼんじ)(インドの文字)1字、具体的には、大日如来を意味する梵字の「ア」字、阿弥陀如来を意味する「キリーク」、地蔵菩薩の「カ」字が入ることがあります。

 

 

<真言宗>

 

戒名は、「院号+道号+戒名+位号」で構成されます。真言宗の位牌には、戒名の初めにア字の「梵字」を記して、等しく大日如来の仏弟子となったことを表します。「ア」は梵字の中でも特別で、すべては「ア」、即ち大日如来から始まったことを意味するそうです。

 

◆〇〇院▲▲□□居士(◆▲▲□□信士)

(◆:梵字、○○:院号、▲▲:道号、□□:戒名)

 

真言宗の戒名には、「真」が使われる場合が多くみられ、また、山川草木や日月星花など、あらゆる事物の名称が使われるとされています。島崎藤村の戒名「文樹院静屋藤村居士」を見ると、院号の「文樹院」、道号の「静屋」にもその傾向が伺えます。

 

 

<浄土宗>

 

浄土宗の場合、道号ではなく、誉号(よごう)と呼ばれる尊号が入ることが多くあり、その場合、戒名は、「院号+誉号(道号)+戒名+位号」で構成されます。誉号とは、「五重相伝」という特別な法要を受けた人に授与されます(もっとも、現在では受けていない人にも与えられている)。

 

杉田玄白の戒名、「九幸院仁誉義真居士」にも示されているように、「仁誉」が誉号で、誉号の部分は、○誉と、「一文字(○)+「誉」」の形となります。

 

また、斎藤茂吉の戒名「赤光院仁誉遊阿暁寂清居士」のように、道号の上にさらに誉号が付く形もあります(「遊阿」が道号、「暁寂」が戒名、「清居士」が位号)。

 

また、位牌の一番上に梵字の「キリーク」(=阿弥陀如来を表す)が1文字付くこともあります。

 

◆〇〇院▽誉(▲▲)□□居士(または、◆▽誉(▲▲)□□信士)

(◆:梵字、▽:誉号、▲:道号)

 

 

<浄土真宗>

 

浄土真宗では、戒律がないため、「戒名」とはいわず「法名(ほうみょう)」を用います。浄土真宗を開いた親鸞聖人は、「何一つとして『戒』を守れない凡夫(私たちのこと)は、弥陀の誓願によってのみ救われる」と教えました。浄土真宗は、阿弥陀如来を絶対的なものとして尊重し、真の救いは、仏によってのみ得られるとします。戒名は、そもそも「戒」を受けた者に与えられるものですが、浄土真宗の信者は「戒」を受けないので、死後の名を「戒名」と呼ばす、(阿弥陀)仏から賜る名前である「法名」と言うのです。

 

戒名をもらって仏弟子になることを「授戒(じゅかい)」といいますが、浄土真宗では「おかみそり」と言います。

 

また、浄土真宗では、他宗派の「道号」にあたる部分がなく、「釈号(しゃくごう)」をつけます。男性の法名には「釋(しゃく)(釋○○)」)、女性は「釋尼(しゃくに)(釋○○尼、または、釋尼○○)」という字が入ります(ただし、昨今は男女平等の観点から女性も「釋○○」とするケースもある)。

 

「釈」をつけるのは、お釈迦様の弟子になるという意味で、かつて東晋の高僧、道安が「仏弟子となれば、みな釈迦の姓を唱えるべきである」として自ら「釈道安」と号したのが始まりだとされています。

 

加えて、浄土真宗では、「阿弥陀如来のもとでは全ての人は平等」という考え方があるため、階位を示す「信士」などの位号は用いません(もっとも、地域的な慣習や寺院によっては、位号を用いる場合もある)。

 

浄土真宗における法名(戒名)の構成は、「院号+釋号+法号」(または「釋号+法号」)となります。

 

男性:「△△院釋○○、または「釋○○」、

女性:「△△院釋尼○○」または「釋尼○○」

(△△:院号、○○:法名)

 

例えば、作家の司馬遼太郎の法名(戒名)は「遼望院釋浄定」で、「遼望」が院号で、「釋浄定」が法名に相当します。また、作家の樋口一葉の場合、法名は「智相院釋妙葉信女」です(「釋妙葉」が法名で、信女と位号が用いられている)。

 

さらに、浄土真宗では、位牌に魂が宿るとする考え方がないため、位牌を祀らず、過去帳を仏壇に飾ります。過去帳とは、代々の、亡くなった方の戒名や俗名、死亡年月日、享年などを記しておく仏具です。(もっとも、地域や寺院によって対応は異なり、手を合わせる対象として、位牌を準備するケースもある)。

 

 

<臨済宗・曹洞宗>

 

臨済宗、曹洞宗の戒名は、「院号+道号+戒名+位号」で構成されます。

「〇〇院▲▲□□居士(大姉)」、または「▲▲□□信士(信女)」

 

臨済宗と曹洞宗の著名人には、それぞれ、西郷隆盛、井伊直助があげられ、西郷の戒名は、「南洲寺殿威徳隆盛大居士」、井伊の戒名は「宗観院殿柳暁覚翁大居士」です。

 

臨済宗と曹洞宗の戒名の構成は基本的に同じですが、曹洞宗の場合、位牌の戒名の初めに、釈迦如来を意味する梵字「パク」が入る場合があります。

 

 

<日蓮宗>

 

日蓮宗では、「日蓮上人の教え」を尊ぶという意味から、また「法華信者は、(死後に)霊山浄土に生まれる」とされるため、死後のみ名は、「戒名」ではなく「法号」が用いられます。

 

また、「道号」の部分について、男性は「」、女性は「」という1文字が入ります。加えて、他宗派で本来の「戒名」にあたる部分は、日蓮宗では「日号」と言い、日蓮の「日」の1文字が入る形式が一般的です。「日号」はお寺や宗派に貢献した人、最近は社会的に功績のあった人にも与えられています(日号がつかなければ「法号」という)。

 

日蓮宗の法号(戒名)は「院号+道号+日号(法号)+位号」で構成されます。

男性:○○院法○日□居士

女性:○○院妙○日□大姉

 

例えば、プロレスラーのジャイアント馬場の法名は、「顕峰院日剛大居士」で、道号に「法正」、日号に「日剛」がつけられています。また、女優の夏目雅子さんの法名「芳蓮院日雅大姉」をみると、道号が「妙優」、日号が「日雅」となっています。

 

 

  • 白木の位牌から本位牌へ

 

仏式の葬儀では、戒名が書かれた白木の位牌が使用されます(戒名を書くのは寺院の住職)。葬儀後、白木の位牌は四十九日法要を目途に、本位牌(戒名が刻印された黒塗りの位牌)に代えられます。これは、死者が仏、あるいは先祖の仲間入りを果たしたことを意味します。仏教では、四十九日で死者は新しい世界に生まれ変わると考えられているからです(日本の民俗では四十九日で死者は祖霊になるとされる)。

 

白木のお位牌の表書きには、通常、一番下に「霊位」と書かれています。これは、亡くなってから49日までの間、故人は霊として「この世」に存在し、「あの世」と故人を結ぶ接点の役割をしているお位牌を依り代としているからだと解されています。

 

49日の法要を境に、故人は霊から仏弟子となり、仏の世界に行くことができるので、本位牌には「霊位」を除いて作ります(または、「霊位」から「霊」の字を消して「位」とする場合もある)。

 

ただし、ご先祖様のお位牌を1つにまとめる場合、「○○家先祖代々之霊位」と表記します。また、あまり好ましいことではありませんが、無宗教の人など俗名や個人名で位牌をつくる場合も「~之霊位」とします。霊位と入れる事で戒名を授かる事と同じ意味をなすと言われています。

 

 

<参照>

戒名の話 – Welcome to web.sanin.jp!

戒名とその値段 – 東洋石材

戒名とは/生前戒名普及会

戒名の意味について詳しく解説!戒名にはランクがある

位牌についてのあれこれ

宗派別に戒名を位の高い順に並べてみると?

戒名の意味や歴史とは 付け方やお布施の相場も紹介

戒名の意味やつけ方 値段による違いはある?

戒名について詳しく解説 | 安心葬儀

知っておきたい!戒名についての基礎知識

戒名の構成と種類(戒名.jp)

Wikipediaなど

 

2019年11月07日

神社:諏訪大社と住吉大社

10月16日の投稿で、長崎くんちと諏訪神社(鎮西大社諏訪神社)について書きましたが(「長崎くんちと諏訪神社の由来がおもしろい」)、本家の諏訪神社(諏訪大社)と住吉神社(住吉大社)について調べてみました。

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諏訪大社「

 

<概説>

諏訪神社と名のつく神社は、全国に約25,000社もあります。諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)と命名されるほど、諏訪神社は日本全国に広まっています(長崎の諏訪神社もその一つ)。その諏訪信仰の総本山が、長野県の諏訪にある諏訪神社で、現在は諏訪大社と呼ばれています。

 

また、諏訪大明神とも称される諏訪の神様は、水や風といった自然を司る竜神信仰であり、海や農業、狩猟・漁業の守り神として、古くから信仰を集めてきました。それゆえ、歴史のある港町には、水の守り神=海の守り神として、諏訪大明神が祀られています。長崎にわざわざ遠い諏訪から諏訪の神々が勧請されたのもこうした背景があったものと推察されます。

 

<祭神>

諏訪大社の祭神は、出雲神話で有名な大国主命の子である建御名方神(たけみなかたのかみ)(狭義には「諏訪大明神」とも呼称)と、その妃・八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、全国の諏訪神社もこの2神を主祭神としています。

(明神:神を尊んで呼ぶ称。また神仏習合説によって神を仏教側から呼ぶ称。)

より正確には、諏訪大社は、先にできた上社と後から建てられた下社に分かれ、かつそれぞれ2つの社があり、全体としては4社で構成されています。4社の名称とその祭神は以下の通りです。

 

上社本宮:(主祭神)建御名方神
上社前宮:(主祭神)八坂刀売神

下社秋宮・下社春宮:

(主祭神)八坂売神

(配神)建御名方神、八重事代主神

 

諏訪大社としての公式な見解として、「4社」の祭神は、同じ建御名方神と八坂刀売神、総じて「諏訪大明神=諏訪大神」としています。または、上社の主催神は建御名方神、下社の主祭神が妻の八坂刀売神ともいえます。なお、配神とは、主祭神のほかに、同じ神社の中に他に祀られた神のことをいいます。凍結した諏訪湖の氷が堤状にせり上がる自然現象「御神渡り」は建御名方神が妻である八坂刀売神に会いに行く為に湖を渡った跡であると伝わっています。

 

<起源>

  • その1:記紀(「古事記」「日本書紀」)説

 

大国主命の国作りによって豊になった地上の国を見て、天界の天照大御神は、武神・建御雷神(タケミカヅチの神)を遣わし、地上の国を自分の子に譲るように迫ります。

これに対して、大国主命は答えを渋り、子で建御名方神の兄の事代主神(ことしろぬしのかみ)(別称. 八重(やえ)事代主神または積羽八重(つみはやえ)事代主神)に委ねます。事代主神は、父の代わりに国譲りを承諾しますが、建御名方命は、容易に承知せず、建御雷神(タケミカヅチの神)と力競べをして決することになりました(この時の力比べが相撲のはじまりとされている)。

 

結果は、タケミカヅチが勝利し、建御名方神(タケミナカタノカミ)は、信濃国の諏訪湖まで敗走します。追い詰められた建御名方命は、国譲りを認め、自身は諏訪湖から出ないことを約束し、許されました。こうして、建御名方命は諏訪湖のほとりに止まり、諏訪明神となった伝えられています。また、このとき、建御名方神は、諏訪の地から2度と出ないと誓いの印に、4本の柱を立て外に出ないようにしたとされ、これが諏訪大社の始まりとされています。なお、4本の柱が今も諏訪大社に伝わる御柱祭の起源となっています。

 

  • その2:甲賀三郎の物語

 

昔、近江の国に、甲賀に甲賀権守という者に三人の息子がいて、長男を甲賀太郎、次男を甲賀次郎、三男を甲賀三郎といいました。ある日、魔物を退治に出掛けた甲賀三郎は、地面に穴が開いているところを発見し、中に入るとそこには魔物に捕われていた姫君がいました。三郎はこの姫君を助け、妻に娶りました。しかし、姫君があまりにも美しかったので、兄たちは嫉妬し、姫君をさらってしまいました。

 

三郎は妻を探し回った結果、信州蓼科山の人穴で発見し、救出しますが、ここでも、兄弟達の策略にはまり、三郎はその人穴から出られなくなってしまいます。そこで、穴の奥底に進んでいくと、異国の維縵国 (ゆいまこく) という地底国に行きつきました。そこで、三郎は、そこの国王に気に入られて、その国の姫と結婚し、維縵国で13年暮らしました。しかし、時が経過しても、三郎は、前妻を忘れられないと、国に帰ることを希望すると、国王も仕方なく認めてくれました。

 

三郎は、なんとか日本に帰ってくることができましたが、出てきた所は信濃の国、浅間山の大沼でした。しかも、三郎の体は、巨大な蛇(龍の姿)に変わっていました。そのため、道行く人々に恐れられることを嫌がった三郎は塔の下に隠れていました。すると、その塔の前に、老僧に身を変えた神が現れました。この僧(神)に導かれ、池の水を飲み、僧が呪文を唱えるとヒトの姿に戻ることができたのです。

 

その後、前妻と再会することができた三郎は、妻と天竺に赴き、神通力を身につけ、神となって日本に帰ってきました。こうして、信濃の国に現れた二人は、諏訪の神となり、現在、諏訪大社の上社、下社にそれぞれ祀られるようになりました。

 

  • その3 融合・折衷

 

諏訪大社の由来は、この「記紀」と、「甲賀三郎」の物語があるのですが、地元では後者の話しが伝承として親しまれているそうです。ただ、どちらかの説が正しいかと言うよりは、「本来の祭神は出雲系の建御名方神ではなく、諏訪地方の先住民達が信仰する土着の神々であり、これらが建御名方神と習合した」と考えるのでがいいのかもしれません。

 

実際、もともと諏訪にはモリヤ(洩矢)という土着の神様がいましたが、そこにタケミナカタがやってきて、戦いの末に諏訪の地は奪われたという物語もあります。モリヤ神は、蛇または龍の形をした神様とされており、甲賀三郎が巨大な蛇になった話しとつながります。さらに、諏訪明神の神体は竜蛇であると古くから伝えられています。

 

この土着のモリヤ神とケミナカタ神が習合したという見方は、諏訪大社の神事や祭祀が、他の一般的な神社のものとは異なり土着信仰に関わる様式が数多くあることなどからも支持されています。例えば、動物の頭を備える御頭祭といった他では見られない風習、信仰が伝わっています。

 

加えて、古代の信濃国は、大和と先住民との境界に位置しており、両者が融合したという見方もあります。諏訪地方は、縄文遺跡が数多く発見されているだけでなく、最近では、稲作を中心とした弥生文化が一番最後?に伝播した地域であることも分かってきています。そこには、狩猟的=先住民文化(縄文文化)に、タケミナカタの「敗走」によって、農耕的=大和文化(弥生文化)が伝えられたと見る向きもあります。諏訪湖が文化の融合点だったのではないかというわけですね。

 

<パワースポットとしての諏訪大社>

諏訪大社の鎮座する位置が、風水的、地質学的にも特異であることから、諏訪大社は、パワースポットと呼ばれています。

 

  • 諏訪大社は、「フォッサマグナ(本州を東西に分割する大断層)」の西側の境界線である糸魚川・静岡構造線と、「中央構造線(南西日本を縦断する日本最大級の断層である)」の交わる場所に鎮座している。
  • 諏訪大社は、日本三霊山の富士山と立山を結ぶレイライン上に鎮座している。
  • 諏訪大社の真東に、鹿島神宮が鎮座している(鹿島神宮には、建御名方神と同じように軍神・建御雷神が祀られている)、つまり、両社で東西ラインを形成している。

 

<参考>

諏訪大社HP

諏訪の神様ってどんな神様?今日もゼロ発信・matchy

パワースポット諏訪大社のご利益・・・日本の観光地・宿

artwiki

関東農政局HP

 

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住吉大社

 

大阪の「住吉大社」は、下関など全国に約2300社ある住吉神社の総本社で、海洋国家日本の海の安全を守り、穢れを祓ってくださる厄除け、海上守護の神様として信仰されています。

 

<御祭神>

住吉大神(すみよしのおおかみ)

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)

住吉大神とは以下の三男神の総称です。

●底筒男命(そこつつの おのみこと)
●中筒男命(なかつつの おのみこと)
●表筒男命(うわつつの おのみこと)

 

息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)は、一般に神功皇后(じんぐうこうごう)と呼ばれます。この神功皇后こそ、211年に住吉大社を創建された方です。

 

<創建の由来>

第14代仲哀天皇の后である神功皇后は、住吉大神の加護を得て、新羅を平定され(三韓遠征・新羅遠征)、無事帰還を果たされました。この凱旋の途中、住吉大神のご神託があり、住吉大神を現在のこの地に鎮斎されました。また、大昔、住吉の地は松の名所で、その樹に三羽の白鷺が止まったのを見た神功皇后は、それを住吉三神の使いだと思われ、この地に祀ることを決めたとの伝承も残されています。のちに、神功皇后も併せ祀られ、住吉四社大明神として称えられました。

 

<由緒>

祓(はらひ)の神

「記紀」神話によりますと、伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命 (いざなみのみこと) を追い求め、黄泉の(よみのくに=死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、ケガレを受けてしまいます。

 

住吉大神(住吉三神)は、伊邪那岐命がその穢(けが)れを清めるために海に入って禊祓いした時、「海の底」「海の中程」「海の表面」からそれぞれ、底筒男命 (そこつつのおのみこと)、中筒男命 (なかつつのおのみこと)、表筒男命 (うわつつのおのみこと)がお生まれになられました。この誕生の経緯から住吉大神は、神道で極めて大事な「禊(みそぎ)・祓(はらい)」を司る神とされています。住吉大社の夏祭りで、日本三大祭りに一つとされる「住吉祭」は、単に「おはらい」と呼ばれ、大阪だけでなく、摂津国・河内国・和泉国ひいては日本中をお祓いするという意義がある重要な神事とされています。

 

航海安全の神

住吉大神は海中より出現されたため、海の神としての信仰があります。仁徳天皇の時代に、住吉津が開港されて以来、航海関係者や漁民の間で、海上安全の守護神として崇敬を集めました。特に、遣隋使や遣唐使の派遣の際には、必ず海上の無事が祈られたとされています。江戸時代に海上輸送が盛んになるとともに、運送船業の関係者の間にも広がりました。

 

農耕・産業の神

住吉大神が苗代をつくる方法を教えたという伝説により、古くから「農耕の神」として篤い崇敬を受けてきました。境内には約二反の御田があり、毎年6月14日には「御田植神事」が盛大に行われております。

 

弓の神

神功皇后の新羅遠征(三韓遠征)の際、神功皇后は住吉大神の神威を受け、御自らも弓鉾をとって御活躍されたという経緯から、弓の神としての信仰があります。

そのほかにも、住吉大神は、「相撲の神」、「和歌の神」としても崇敬を集めています。

 

<建築様式>

住吉大社には、第一本宮から第四本宮まで4つの棟があり、それぞれ底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后をお祀りしている。4棟はすべて海に向かって西向きに建ち、第一本宮から第三本宮が縦に並び建っている姿は大海原をゆく船団を表しているとされています。

 

また、4つの棟すべての本殿部分は、1810年(文化7年)に造営されたもので国宝指定を受けている。「住吉造(すみよしづくり)」という直線的な日本古来の建築様式で、神社建築史上最も古い様式だとされています。これに対して、重要文化財に指定されている4つの棟の拝殿部分は、曲線的で、大陸(中国)からの影響を受けた様式と考えられています。

 

なお、住吉大社は、奈良時代(749年)より伊勢神宮と同じように20年に一度の式年遷宮の制度が定められており、2011年(平成23年)には49回目の遷宮が「御鎮座1800年記念大祭」と合わせて行われました。

 

<島津家の誕生石>

住吉大社の境内には、島津家発祥の地となった「誕生石」があり、今でも「誕生石」として島津家代々から篤い信仰を受けています。そこは、源頼朝の寵愛をうけた丹後局(たんごのつぼね)が、不思議な狐火に導かれて、北条政子から逃れてきたところで、局はここで産気づき大石を抱きながら男の子を出産したとされています。この時生まれた子が、後の薩摩藩「島津氏」の祖となった「島津忠久」と伝えられています。

 

<参考>

住吉大社HP

住吉大社~みそぎの神様と国宝社殿の秘密~

住吉大社・神社専門メディア「奥宮」