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2019年09月22日

伝承:UFOとモーゼの墓

昨日、アメリカが、実質的にUFOの存在を認めたという、ある意味衝撃的なニュースをお伝えしましたが、本日は、UFOに絡んで、さらにショッキングなお話しを紹介しましょう。それは、あの聖者モーゼのお墓が日本にあるというものです。もちろんこちらは公式発表の世界ではなく伝承の世界です。それでも、モーゼが日本にいたのか?UFOとどういう関係?などいろんな疑問がわくと思います。まずは、以下に抜粋した今年6月5日付け読売新聞(夕刊)の記事をお読み下さい。

 

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UFOの町 モーゼも訪問?

「UFOの町」を名乗るのが石川県羽咋(はくい)市です。宇宙とUFOをテーマにした、たぶん日本で唯一の公立博物館「コスモアイル羽咋」もあります。ですが未知の来訪者ははるか昔から、この一帯を訪れています。民俗学では漂着神(ヨリガミ)というそうです。何と予言者モーゼまで来ていて、墓があると聞きました。(大阪編集員 森恭彦)

 

能登半島の西側、羽咋はJR金沢駅から特急で1時間弱。まず市の歴史民俗資料館に向かうと、学芸員の小船井陽さんが迎えてくれました。日本海に突き出た能登半島には古来、対馬海流に乗って西から先進の文化や技術が流れ着き、異世界のモノに人々は神を感じて、祈りをささげたそうです。「民俗学者の折口信夫はたびたび羽咋を訪れ、海のかなたの常世から漂着する神をヨリガミと位置づけわけです」能登国一の宮、気多(けた)大社の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。大国主命の別名です。大国主命は出雲から300余りの神々を連れて来臨、邪神を退治し、能登を平定したのです。その気多神社に行ってみました。社殿の背後には神聖な禁足地「入(い)らずの社(もり)」だそうです。中でもクスノキの仲間のタブノキは、折口によれば、寄り来る神々の依り代(よりしろ)になったとか。

 

これはいささか怪しい話ですが、モーゼの墓に詣でることにしました。車で20分余り、羽咋の南隣、宝達(ほうだつ)志水町の宝達山「伝説の森公園(モーゼパーク)」というところです。ここも自治体がつくった施設のようです。「注意 熊出没」という看板を横目にこわごわした山に入ります。誰ともすれ違いません。やがて三ツ子塚古墳群という表示があり、その一つ、小山ほどの墳墓の上に「モーゼ大聖主之霊位」と墨書された木の墓標を発見しました。粗末なので、ちょっとがっかりしましたが。その手前に、なぜでしょう、墳墓に比べてはるかに立派で、費用もかかっていそうなモーゼ像の写真入りのモニュメントがあります。ここをモーゼの墓とする根拠は「竹内文書」なのだそうです。

 

昭和の前半、世間を騒がせた超古代文明についての文献ですね。神武天皇まで73代続いた王朝があり、モーゼだけでなく、イエス・キリストも釈迦も、みんな日本に来た。ここにはモーゼの墓が、そして青森県新郷村戸来にはキリストの墓がある、といった誇大妄想的ストーリーで、偽書と認定されていますが。宝達志水町の公式ホームページから引用します。モーゼは「ユダヤの民衆をイスラエルの地へ導いた後、シナイ山に登った。そこからモーゼは天浮船に乗り、能登宝達山に辿り着いたという。その後、583歳までの超人的な余生を宝達山で過ごし、三ツ子塚に埋葬された」。「天浮船」って、飛行船でしょうか。あ、いや、きっとUFOですね。やはり、この一帯は超古代史から「UFOの町」だったのでしょう。

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この「モーゼの墓」ストーリーについては、2010年11月6日付けの中日新聞でも紹介されていました。

 

モーゼ583歳 能登に眠る? モーゼの墓(宝達志水町)

旧約聖書の「十戒」で有名な古代イスラエル民族の指導者、モーゼが眠ると伝えられる石川県宝達志水町の「モーゼの墓」。案内板には「モーゼはシナイ山に登った後、天浮船(あまのうきふね)に乗って能登宝達に到着。583歳の超人的な天寿を全うした」と、驚がくの伝説が記されている。北陸が世界に誇る“珍スポット”の実態とは-。(担当・河郷丈史)

 

能登半島の最高峰・宝達山のふもとにある「伝説の森モーゼパーク」。木々の生い茂る遊歩道を10分ほど上ると、「三ツ子塚」と呼ばれる古墳群が見えてくる。この中の2号墳が「モーゼの墓」だ。地元の人の話などによると、伝説の根拠は20世紀初めごろに宗教家竹内巨麿(きよまろ)が公開した古文書「竹内文書」。「モーゼやキリストが日本に来ていた」という内容で、一般には偽書とされている。

 

一方、パークを管理する越野宏さん(78)は「伝説が知られる以前から『土地の偉い人と宝物が埋めてある』といわれていた」と証言する。このほか、奇妙な言い伝えが残る。まちおこしに取り組む「モーゼクラブ」(活動休止中)の資料によると、墓近くの石灰山で、ひざからくるぶしまで2尺5寸(約75センチ)もある“巨人の骨”が出た。石灰山では土器のつぼが見つかり、古代に使われていたものだという。

 

終戦直後に米軍が墓の調査に来たとの言い伝えもある。宝達山頂の手速比咩神(てはやひめ)神社には、モーゼと関係の深いエジプトのスフィンクスに似たこま犬があるほか、地元には平林(へらいばし)というヘブライを連想させる地名が存在する。いずれも真相は不明だが、何ともミステリアスだ。

2019年09月06日

歴史:源氏長者と徳川家康

先の参議院選挙で、徳川家康の末裔が立候補していたことをきっかけに、徳川家について調べる気になりました。また、秋田へ行った際、佐竹氏について学ぶうちに、源氏の起源というテーマに行きつきました。その源氏のストーリーの中で徳川家がほとんど出てきませんでした。征夷大将軍になるためには源氏でなければなりません。家康はいかなる手段を使って征夷大将軍になったのでしょうか?

 

このテーマに明るくない方は、「源氏について調べてみた(7月31日投稿)」を先に読んでいただくと理解が深まるものと思います。

 

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源氏長者

「源氏長者(げんじのちょうじゃ)」という「氏長者(うじのちょうじゃ)」があります。「氏長者」とは、「氏(うじ)」の中で官位が最高位の人物が天皇より任命されます。源氏長者(げんじのちょうじゃ)の場合も、源氏一門の長であり、従一位の源氏の姓を名乗る者に対して与えられました。源氏長者とともに有名な氏長者には、藤原一族の「藤氏長者(とうしのちょうじゃ)」がいました。氏長者になると、氏のなかでの祭祀、召集、裁判、官位の推挙などの諸権利を持ちます。

 

最初に「源氏長者」を称したのは、平安時代、嵯峨天皇の皇子であった源信(みなもとのまこと)(810~869)とされています。また、初代の嵯峨源氏嫡流である源融(みなもとのとおる)(822~895)は、皇族の子弟の学校である「淳和院」「奨学院」の別当(理事長に相当)に就任し、これ以降、源氏長者が「淳和院・奨学院の両別当を兼任する」ことが慣例となりました。

 

このように、源氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていましたが、その後、公家の名家である村上源氏の久我(こが)家が、公家の代表として、その地位を継承していました。村上源氏は、藤原道長の子で関白頼通の養子、源師房を祖とする家柄で、元来、「源氏」と言えば村上源氏をさすほどでした。源頼朝、足利義満、武田信玄などの祖とされる武家の清和源氏は、平安時代のこの当時、公卿の警護や地方の受領でしかなかったといいます。

 

しかし、清和源氏の足利尊氏が、1398年、征夷大将軍となり、室町幕府を開くと、清和源氏の地位が一気に高まります。3代足利義満は、「源氏長者」と「淳和奨学両院別当」の地位を当時の久我家から奪うことに成功し、武家源氏では最初の源氏長者となったのです(征夷大将軍と源氏長者を兼ねたことも初)。これによって、武家の棟梁である義満は、公家のトップともなり、明との貿易では「日本国王」と名乗ることを許されました。

 

義満以降、足利将軍は義持・義教・義政・義稙の計4名が、正式に源氏長者になっています。また、村上源氏の久我家も、源氏長者の地位に返り咲いており、この時代、源氏長者は、清和源氏・足利家と村上源氏・久我家が交替で務めていました。しかし、その後、足利将軍の地位が不安定となり、足利家の源氏長者へ関与しなくなったことで、戦国時代には再び村上源氏の久我家から源氏長者が任ぜられるようになりました。

 

ところで、ここまでの話しの中で、嵯峨源氏、清和源氏など〇〇源氏がでてきましたが、次に源氏嫡流について述べてみたいと思います。

 

 

源氏嫡流 

多くの源氏の中で、源氏の嫡流すなわち本家・宗家の血統を源氏嫡流(げんじちゃくりゅう)と言います。ただし、源氏の嫡流といっても、源氏全体の嫡流を意味せず、特定の源氏の系統を指すことが多いとされています。同じ源氏でも、遠祖たる天皇によって、嵯峨源氏、醍醐源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏などに分けられ、その嫡流を、例えば嵯峨源氏であれば、嵯峨源氏嫡流と呼ばれたりしていました。

 

また、公卿を輩出した公家源氏と武家の棟梁として活躍した武家源氏に大きく分けられることもあります。広く知られているのが後者で、中でも、清和源氏の流れは鎌倉幕府の源氏将軍として栄えました。さらに、清和源氏の系譜においても、2代目源満仲の嫡子で長男・頼光の子孫を摂津源氏、満仲の三男・頼信に始まる家系を河内源氏と呼び、それぞれ清和源氏の嫡流と主張していました。

 

摂津源氏は、京都を活動基盤としました。以仁王が平家を打倒すべく諸国の源氏に呼びかけた際に始めに挙兵した源頼政は摂津源氏でしたが、従う兵はその拠点であった摂津国をはじめとする畿内に限られたので失敗に終わってしまいました。

 

一方、河内源氏は坂東へ勢力を扶植し、後に、東国において圧倒的な求心力を得ていました。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる源義家から、源頼朝や足利尊氏を輩出し、清和源氏(河内源氏)が武家源氏の代表とみなされるようになりました。正確には、源頼朝が、武家の棟梁の地位を確実なものにしようという政治的な思惑により、源氏嫡流という地位を生み出したとの見方が支配的です。実際、頼朝は、弟・義経以下家人の自由任官を禁止し、源氏一門、御家人の位階任官を鎌倉殿の独占的地位を確保しました。

 

このように、頼朝は、東国武士を臣下としてきた河内源氏の遺産を受けぎ、朝廷から受けた将軍宣下など与えられた特権を背景に、頼朝の系統を嫡流とすることに成功したのです。こうして、頼朝の先祖を遡及し、頼信にはじまり、頼義、義家と続く河内源氏が武家の源氏嫡流と見られるようになりました。

 

ただし、源頼朝の一族が3代実朝で滅びると、武家源氏の棟梁という概念も重要性がなくなってしまいました。しかし、その後、足利尊氏がでて、京都の室町に幕府を開き、足利将軍家を確立して頼朝以来の源氏将軍を復活させました。さらに、足利義満が征夷大将軍の地位に加えて、源氏長者・淳和奨学両院別当に地位を得て、公家と武家にまたがる強大な権力を獲得したことは、既に説明した通りです。

 

河内源氏の流れを汲む家は、足利家だけでなく、新田義貞の新田家があり、また、源義家の弟である義光(新羅三郎義光)からは、武田家、佐竹家など名家を輩出します。しかし、武家の棟梁とある清和源氏(河内源氏)の系譜に、徳川の名前は出てきません。徳川家が、武家源氏の清和源氏であるという根拠は何もなく、素性が明らかでない三河の土豪との見方が支配的です。では、徳川家康はいかに、源氏の名を勝ち取り、征夷大将軍として幕府を開くことができたのでしょうか?その時、源氏長者の地位はどうなったのでしょうか?

 

徳川家の由来

徳川家康は、1555年(天文24年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、次郎三郎元信と名乗り、名は後に祖父・松平清康の偏諱(へんき:名前の一部)をもらって蔵人佐元康と改めています。

 

家康の転機は、1566年(永禄9年)、五摂家筆頭の近衛前久の力添えで、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、同時に「徳川」に改姓したことです。家康の遠祖は、新田源氏の流れで、上野国の「世良田(せらだ)郷・得川(とくがわ)氏」であるとしています。しかし、当初、朝廷は、「世良田氏が三河守になった前例がない」として家康の三河守の官職と、徳川の改姓を認めませんでした。しかし、近衛前久が、「得川氏はもと源氏で、その系統の一つに藤原になった先例がある(=藤原氏ならば「三河守」任官の前例がある)」として、家康個人のみが、松平から「徳川」に「復姓」するという奇策を考案しました。得川から徳川になった(漢字を変えた)のは「仔細あって」のことだそうです。

 

いずれにしても、これを朝廷が認め、家康は「徳川」という苗字を下賜され、三河守になることができたのでした。この特例ともいえる措置で、源氏の「徳川家」が誕生しました。しかし、三河守は藤原でなければならないので、家康は「藤原朝臣家康」と称していたそうです(朝臣あそんは朝廷の臣下の意)。ただ、家康は当時、藤原と源氏を巧みに使い分けていたと言われています。

 

しかし、その後、家康は豊臣秀吉への臣従を強いられます。1586年5月、秀吉の妹・朝日姫を正室として迎えさせられ、同年9月、秀吉の母・大政所まで家康の元に送られてきます。この結果、家康は秀吉の親族衆になり、「豊臣姓」を下賜されます(秀吉は1585年に関白に就任、翌9月に豊臣姓を賜り太政大臣に就任していた)。家康は、1596(慶長元)年5月、秀吉の推挙により、「正二位・内大臣」を受けましたが、「源(藤原)朝臣家康」ではなく「豊臣朝臣家康」での宣下であったと言われています。

 

1598年(慶長3年)8月、太閤・豊臣秀吉が死去します。これにより、徳川家康の天下人への道が開けたわけですが、この時の家康は、五大老・筆頭で、形式的には豊臣家の家臣でした。つまり、家康にとって、秀吉の死は、単に主君が秀吉から秀頼に代わったことを意味していました。

 

秀吉の死後、武家として朝廷の官位は、内大臣の家康が最上位となりました。徳川家康の官位は「正二位・内大臣」であったのに対して、豊臣秀頼の官位は、当時はまだ「従二位・権中納言」でした。官位では秀頼を凌いでいるのですが、家格(家柄・家の格式)で劣っていました。豊臣家に家格は、最高位の摂関家、しかも秀頼は将来は関白が見えています。これに対し、徳川家は清華家で最上位の摂関家の後塵に拝しています。

 

家康にとって秀吉に代わる天下人になるためには、豊臣家からの呪縛を離れ、秀頼を凌ぐ地位を確保することが必要になってきました。そのためには、「藤原(豊臣)」から「源氏」に復姓し、源氏の最高位である源氏長者の格付けを得る必要がありました。そうすると、征夷大将軍の道が開かれます。

 

 

征夷大将軍と源氏長者への道

秀吉の死の翌年(1599年)、朝廷内でスキャンダルがありました。久我敦通(こがあつみち)と勾当内侍(こうとうのないし)の密通の風聞が立ったのです。この結果、久我敦通・通世親子は、家領の多くを奪われ京都を追放され、失脚します。前述したように、久我(こが)家は村上源氏嫡流で、この時期、源氏長者を独占していました。これで、徳川家が源氏長者になるために障害が排除された形です。

 

1600年、家康は石田三成に関ヶ原の戦いを起させ、勝利します。ただし、関ヶ原の戦いとは、形式的には豊臣家臣同士の争いでした。ですから、家康は、大坂城の淀殿、秀頼へ戦勝報告を行い、淀殿と秀頼から褒美をもらっています。ここでも、家康の立場は、あくまで豊臣家臣だったのです。

 

そこで、家康は征夷大将軍として幕府を開くため、また源氏長者の格付けをめざして、「藤原(豊臣)」から「源氏」に復姓し、徳川氏の系図の改姓を行いました。何でも、清和源氏の吉良家の系図を借用し(譲り受け)、徳川氏の系図を足利氏と同じく八幡太郎源義家に通じるようにさせたそうです。武家が日本を支配するために幕府を開くのは、源頼朝公以来の伝統であり、征夷大将軍に任命されねば幕府を開くことはできませんでした。そして、征夷大将軍になるには源氏(清和源氏系の河内源氏)でなければならないという不文律がありました。

 

ただし、征夷大将軍になっても官位は上がるとは限りません。この時の家康の官位は、「正二位」でしたが、将軍になる前にその上の「従一位」を望んだと言われています。というのも、豊臣秀頼が将来成人して関白を継げば従一位になることになるとされていました。そこで少なくとも秀頼に「負けない」ためにも「従一位」が必要だったのです。それだけではありません(むしろこちらの理由の方が重要)。源氏長者になる条件に「従一位の源氏の姓を名乗る者」というのがあったのです。家康にとって、徳川の世を盤石なものにするために、征夷大将軍だけでは不十分で、源氏長者になることが必要だったという思われます。そして遂にその日が来ました。

 

1602年(慶長7年)1月、徳川家康に「従一位」が与えられたのに続き、翌1603年2月、後陽成天皇が、徳川家康を征夷大将軍ならびに淳和奨学両院別当に任命しました。この時、家康は「源朝臣家康」として将軍宣下をうけています。家康はまた、征夷大将軍宣下と同時に、源氏長者宣下を受けることができました。1600年、天下分け目の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が、征夷大将軍になったのは1603年です。将軍になるまでに、3年かかった理由は、「源氏長者」になる条件ともいえる「従一位」を受けるのに時間がかかったということができるかもしれません。

 

家康は日本国王か?

征夷大将軍と源氏長者はセットのような印象がありますが、前述したように、室町時代までは、公家の村上源氏の系統がほぼ継いできました。しかし、村上源氏の久我敦通を失脚させ、源氏長者の地位が空位となった後、清和源氏・徳川将軍家が、江戸時代を通じて、征夷大将軍と源氏長者を独占(世襲)することができました。

 

武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、日本国王を名乗った足利義満から始まった慣例で、途中途切れていましたが、徳川家康が、藤原(豊臣)姓を源姓に改め征夷大将軍と源氏長者を一身に兼ねることに成功しました。とりわけ、源氏長者になることは、家康は「将軍」の権威を一層高め、武家だけでなく、公家の世界も掌握し、実質的な日本の最高実力者の地位を得る絶対条件だったのです。

 

 

<参考>

源氏嫡流嫡子(Wikipedia))

源氏長者(Wikipedia)

「徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?」

「久我敦通と勾当内侍(長橋局)の密通。徳川家康の源氏長者への道」

「徳川家康 将軍になるためルーツを詐称した」(SAPIO2018年5・6月号)

「徳川の武家政治は嘘から始まっている」など

 

2019年08月16日

ニュース:京都五山送り火と長崎精霊流し

古都の夜空に 京都五山送り火

(2019年8月16日、NHK news web一部抜粋)

京都のお盆の伝統行事「京都五山送り火」が16日行われ、火でともされた「大」の文字などが夜空に浮かび上がりました。「京都五山送り火」は、お盆に迎えた先祖の霊を送る京都の伝統行事で、300年以上の歴史があるとされています。

 

まず、京都市左京区の大文字山の火床に一斉に火がともされ、山の斜面に大きな「大」の文字が浮かび上がりました。続いて京都の街を囲む5つの山々に、「妙法(みょうほう)」、「船形(ふながた)」、「左大文字(ひだりだいもんじ)」、「鳥居形(とりいがた)」の順で火がともされました。炎で描かれた文字と形で彩られた古都の夜空を楽しもうと大勢の観光客が訪れ、このうち、京都市中心部のビルの屋上には、地元の人も含めておよそ400人が集まり、幻想的な風景に見入っていました。

 

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華やかに故人送る 長崎で精霊流し

(2019/8/16 西日本新聞 )

初盆を迎えた故人の霊をにぎやかに送り出す長崎県の伝統行事「精霊(しょうろう)流し」が15日、県内各地であった。長崎市中心部では爆竹やかねの音が響く中、遺族やゆかりの人が精霊船を引いて亡き人に思いをはせた。江戸時代から続く風習で、中国文化の影響を受け、爆竹を鳴らすことで邪気を追い払うと伝わる。台風10号の影響が残り、時折強い風が吹き付けるため用意した打ち上げ花火を控える船も。遺族らが放った爆竹が路上ではじけると、沿道を埋めた市民や観光客から歓声が上がった。

 

初盆を迎えた故人の霊を西方浄土へ送り出す伝統行事「精霊流し」が15日、長崎県内各地であった。台風接近による大きな影響はなく、故人をしのばせる趣向を凝らした船や、全国各地の災害被災地の慰霊と復興を願う船などが流された。かねや爆竹のにぎやかな音が響く中、家族や友人らが故人に思いをはせた。

 

2019年08月13日

ニュース:徳島市「阿波おどり」

徳島の阿波おどり開幕 「総踊り」復活、初の民間運営 

(2019/8/13 日本経済新聞、抜粋)

 

徳島の夏の風物詩、阿波おどりの令和最初の本番が12日、開幕した。約400年の歴史の中で初めて民間事業者が運営する祭りとなる。昨年は演出方法をめぐり主催者と一部踊り団体(連)が対立したが、今年は「融和」をテーマに、人気の「総踊り」も復活した。新たな演出や周遊チケット導入などの新機軸も打ち出され、伝統の祭りに新風が吹き込まれそうだ。

 

開幕に先立ってあいさつした阿波おどり実行委員会の委員長、松原健士郎弁護士は「阿波おどりは伝統を生かしながら変わっていく。そして変わりながら成長する」と強調。徳島県の飯泉嘉門知事は「阿波おどりを世界に発信していく。来年の東京五輪・パラリンピックの開幕イベントを阿波おどりで飾りたい」と期待を込めた。

 

今年から5年間の運営を委託されたのがイベント企画大手のキョードー東京を核とする民間の共同事業体。共同事業体の総責任者、前田三郎キョードーファクトリー社長が「令和元年暑い夏、笑顔!」と開幕を宣言し、その後、阿波おどり振興協会の山田実理事長が率いる「天水連」が最初に演舞場に踊り込んだ。観客らに「対立解消」を印象づける演出だ。約10分間の演技を終え、山田氏は「期待している」と前田氏に語りかけ、がっちりと握手をした。

 

開幕前日の11日に徳島市内のホールで開催された前夜祭も、阿波おどりの正常化を観客に実感させる演出となった。昨年、市や徳島新聞社が中心だった実行委員会が提案した演出に協力できないと表明して前夜祭への参加を拒まれた振興協会所属14連が、今年は最初に登場し、舞台上で「総踊り」を披露。数百人の踊り子の一糸乱れぬ踊りに多くの観客は「素晴らしい」と感嘆の声を上げた。前夜祭では振興協会と徳島県阿波踊り協会の計33連から選ばれた踊り子880人が参加し、フィナーレで2つの協会が合同で一斉に踊り込む演出で観客を盛り上げた。

 

2年ぶりに演舞場で復活した「総踊り」は圧巻。振興協会所属14連の1500人規模の踊り子が一斉に演舞場に踊り込む演出に、観覧席だけでなく沿道まで埋め尽くした観客が大きな声援を送った。総踊りに参加した天水連の踊り手、幸田徳一さん(77)は「約50年間、阿波おどりを踊ってきたが、今日のお客さんの反応はさすがに感無量。今年は4日間とも総踊りに参加する」と笑顔がこぼれる。

 

総踊りは4つの演舞場で日替わりで実施される予定。フィナーレの演出として人気が高く、総踊りが観覧できるチケットはほぼ完売状態。このほか今年からの新しい演出として市役所前演舞場の午後8時半からの第2部では卓越した踊り技術を持つ有名連が連続して踊り込むプレミアム演舞場となる。

 

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徳島市の阿波踊り、16年ぶりに中止 台風10号接近で

(2019年8月14日、朝日新聞)

徳島市の阿波踊りは、台風10号の接近で安全確保が困難になったとして、14、15両日の演舞場やホールでの公演をすべて中止した。阿波おどり実行委員会によると、中止は2003年以来16年ぶり。

 

2019年08月03日

ニュース:令和初の「青森ねぶた祭」

飛び交う「ラッセラー」 青森ねぶた祭、猛暑の中で開幕

2019年8月2日、朝日新聞)

 

東北の短い夏を彩る青森ねぶた祭が2日、猛暑の中で開幕した。まだ熱気の残る午後7時すぎ、「ドーン」という花火の音で今年の祭りが始まった。1年ぶりのお囃子(はやし)と「ラッセラー ラッセラー」の声が飛び交う中、初日は大型ねぶたと子どもねぶた合わせて約30台が街中を運行し、沿道を埋めた見物客らが歓声と共に盛んに拍手を送った。

 

今回は大型ねぶたを先導する「前ねぶた」の一つとして2、3の両日、台湾の祭りから「台湾ランタン」1台も参加する。西遊記の猪八戒をモチーフにしたもので、台湾・エバー航空の青森と台北を結ぶ定期便就航を記念して、「県庁ねぶた実行委員会」の前ねぶたとして登場する。

 

ねぶたの運行は、6日まで各日午後7時10分にスタート。最終日の7日のみ午後1時から3時に運行され、午後7時ごろから、ねぶた大賞を受賞した団体など6台前後の大型ねぶたが青森港の海上を運行、花火とともに祭りのフィナーレを迎える。

 

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令和祝い 夜空に躍動 青森ねぶた祭

(2019年8月7日、河北新報)

 

青森ねぶた祭は7日、最終日を迎える。令和初となる祭りでは天皇にまつわるねぶたが市街地を彩った。今年の「ねぶた大賞」を受賞した青森菱友(りょうゆう)会の「紀朝雄(きのともお)の一首 千方(ちかた)を誅(ちゅう)す」は、天智天皇時代の伝説を取り上げた。鬼を操る藤原千方の討伐を天皇から命じられた朝雄は和歌を一首詠み、鬼を成敗する。

 

「改元する今年にしかできないねぶたを作りたかった」と話す制作者の竹浪比呂央さん(59)。これまで題材としてきた青森の伝説を離れ、新天皇即位を祝う作品を選んだ。和歌が書かれた「料紙」をちりばめる新しい表現にも挑戦。一枚一枚、丁寧に和歌をしたためた。筆一本で鬼を退治した朝雄の姿に「争いが起きても武器を使わず、知恵を出し合って解決してほしい」との思いを重ねた。新時代への期待を乗せたねぶたが津軽の夜を照らす。

写真と記事

 

2019年07月25日

ニュース:令和初の「京都・祇園祭り」

京都・祇園祭りとは?

京都三大祭のひとつ、祇園祭は、八坂神社のお祭りで、7月1日の吉符入りに始まり、宵山、山鉾巡行、神幸祭、花傘巡行、還幸祭等の諸祭行事を経て、7月29日の神事済奉告祭、7月31日の疫神社夏越祭で終わる約1ヶ月間に渡りおこなわれるお祭りです。(KBS京都)

 

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7月1日から始まった「祇園祭り」の諸行事を日時順に紹介します。

 

節目の夏に無事祈り、八坂神社に稚児参拝 祇園祭・お千度の儀

(2019年7月1日、京都新聞)

 

日本三大祭りの一つ、祇園祭が1日始まった。神泉苑に66本の矛を立てて全国の平安を祈った御霊会から今年で1150年。京都市東山区の八坂神社では前祭(さきまつり)巡行(17日)で先頭を行く長刀鉾の稚児が「お千度の儀」に臨み、節目の年の祭りの無事を祈願した。

 

午前9時45分、稚児の中西望海君(10)が、補佐役の禿(かむろ)の杉本崇晃君(11)、竹内瑛基君(9)とともに神社の南楼門をくぐった。顔に白化粧を施し口元に紅をさした中西君は稚児を務めることを神前に報告。続いて本殿の周りを時計回りに3周し、本殿の正面と裏で計7回拝礼した。また各山鉾町では「吉符入り」の神事が行われた。夜には祇園囃子(ばやし)の稽古を町会所の2階などでする「二階囃子」が始まり、京の街に祭りの季節の訪れを告げる。

 

 

人波に浮かぶ駒形提灯、宵山の風情楽しむ 京都・祇園祭

(2019年7月16日、京都新聞)

 

祇園祭の前祭(さきまつり)は16日、宵山を迎えた。夕方に降った雨も夜にはやんで時折風が吹き抜けて過ごしやすく、祭り情緒を楽しもうとする大勢の人たちでにぎわった。15日の宵々山に続いて四条通や烏丸通の一部が午後6時から歩行者天国となり、日が落ちる頃から四条通や烏丸通のにぎわいは高まった。鉾の周りには浴衣姿の囃子(はやし)方が奏でるお囃子が響き、澄んだ音色に立ち止まって耳を澄ませる人たちの姿も見られた。夜までに厄よけちまきが完売した山鉾も多く、代わりに「お守りどうですか」と子どもたちがかわいらしい声で呼び掛けていた。

 

八坂神社(東山区)では夕方から素戔嗚尊(すさのおのみこと)の大蛇退治などを題材とした島根県の伝統芸能「石見神楽」が奉納された。午後10時ごろからは巡行の晴天を祈願する「日和神楽」もあり、各山鉾町の人たちが囃子を奏でながら四条御旅所に向かった。京都府警によると、午後9時の人出は、3連休の最終日だった昨年の宵山を9万人下回る15万人だった。宵々山(午後9時)は18万人で昨年を2千人上回った。

 

 

都大路を山鉾巡行 京都・祇園祭前祭

(2019年7月17日、京都新聞)

 

日本三大祭りの一つ祇園祭・前祭(さきまつり)のハイライトとなる山鉾巡行が17日、京都市中心部で始まった。祭りの創始から1150年を迎え、「動く美術館」に例えられる豪華な懸装品(けそうひん)を飾った23基の山と鉾が都大路を進んだ。午前9時すぎ、くじ取らずで先頭を行く長刀鉾が「エーンヤラヤー」の掛け声とともに下京区四条通烏丸東入ルを出発。今年の「山一番」の蟷螂(とうろう)山や芦刈山、木賊(とくさ)山が続いた。

 

祇園祭は疫病退散を祈る八坂神社(東山区)の祭礼。869年に神泉苑で矛66本を立てた祇園御霊会(ごりょうえ)が起源とされる。京都のまちは戦乱や災害に何度も見舞われたが、地域の人々が力を合わせて守り受け継いできた。

 

 

祇園祭の神輿、京都の街を練り歩く 響く「ホイットー」、神幸祭

(2019年7月17日、京都新聞)

 

祇園祭の神幸祭が17日夜、京都市中心部で行われた。東山区の八坂神社を出発した3基の神輿(みこし)が威勢の良い掛け声と飾り金具を響かせながら氏子地域を練り歩き、下京区四条通寺町東入ルの御旅所に向かった。午後6時すぎ、中御座、東御座、西御座の3基は西日を浴びて石段下にそろった。ねじり鉢巻きに白い法被姿の担ぎ手たちが「ホイットーホイット」の掛け声とともに頭上の神輿を前後に繰り返し揺さぶり、「まーわーせー」の号令に応じてゆっくり旋回を重ねる「差し回し」を披露した。歩道を埋めた人たちに熱気と興奮が伝わり、拍手が湧き起こった。3基はそれぞれの経路を進んだ。祇園一帯や河原町通などを経て、深夜には御旅所に再び勢ぞろいした。24日の還幸祭で神社に戻る。

 

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山鉾町に宵山の風情、ゆったりと楽しむ 京都・祇園祭後祭

(2019年7月21日、京都新聞)

 

祇園祭の後祭(あとまつり)は21日、宵山期間を迎えた。京都市中心部の山鉾町は会所などに飾られた懸装品(けそうひん)を眺める人たちでにぎわった。後祭の宵山期間は露店の出店や歩行者専用道路(歩行者天国)がなく、駒形提灯に照らし出された山鉾町は華やかながらも落ち着いた雰囲気に包まれた。黒主山はマンションにご神体の大伴黒主像をまつり、大口袴や小袖といった衣装や前掛、見送を展示。保存会役員の説明を聞く人たちでにぎわった。

 

 

京都祇園祭後祭の宵々山、鷹山の祇園囃子響く

( 2019年7月23日、朝日)

 

祇園祭は22日、後祭(あとまつり)の宵々山(よいよいやま)を迎えた。京都市中心部では浴衣姿の見物客らが、駒形ちょうちんの明かりに照らされた山鉾(やまほこ)の周辺を歩き、祭りの風情を楽しんだ。後祭の宵山期間は露店が出ないため、前祭(さきまつり)の時とは対照的に、山鉾町は落ち着いた雰囲気に包まれる。見物客らは山鉾の装飾品や旧家に飾られたびょうぶをゆったり眺めた。

 

江戸時代後期の1826年、暴風雨のため破損し、翌年から巡行に出ない「休み山」だった鷹山(たかやま)が今年、193年ぶりに巡行に参加する。2022年に曳山(ひきやま)を復興する予定で、今年は曳山の代わりに掛け軸を収めた唐櫃(からびつ)(木箱)を担いで巡行する。鷹山の保存会(京都市中京区三条通室町西入)は「コンチキチン」の祇園囃子(ばやし)を奏でた。23日も午後7時からお囃子を披露する。後祭の宵山期間は23日まで。24日の山鉾巡行は午前9時半、橋弁慶山を先頭に烏丸御池を出発する。11の山鉾が参加し、鷹山は10番目に登場する。

 

 

駒形提灯に浮かぶ山鉾、後祭の風情満喫 京都・祇園祭「宵山」

(2019年7月23日、京都新聞)

 

祇園祭の後祭(あとまつり)は23日、宵山を迎えた。京都市中心部の新町通や室町通では家族連れらが駒形提灯の明かりで照らされた山や鉾の間を歩き、落ち着いた後祭の風情を楽しんだ。時折雨が降る中、浴衣姿の子どもたちが「常は出ません。今晩限り」と独特の節回しで歌い、「厄よけのちまき、お守りどうですか」と呼び掛けた。道を行く人たちは透明のビニールで覆われた山や鉾の飾りを見上げ、通りに面した旧家が披露する家宝の屏風(びょうぶ)を思い思いに眺めていた。また各山鉾町の人たちが巡行日の晴天を願う「日和神楽」もあった。193年ぶりに唐櫃(からびつ)巡行で参加する鷹(たか)山保存会の囃子(はやし)方も鉦(かね)と笛、太鼓でコンチキチンの音色を響かせながら四条御旅所に向かった。

 

 

祇園祭この夏″2度目″の山鉾巡行 後祭で始まる

(2019年7月24日、京都新聞)

 

祇園祭の後祭(あとまつり)の山鉾巡行が24日、京都市中心部で始まった。193年ぶりに唐櫃(からびつ)による巡行復帰を果たした鷹(たか)山を含む11基の山鉾が都大路を進む。午前9時半、くじ取らずで先頭の橋弁慶山が中京区御池通烏丸を出発。五条橋で出会った弁慶と牛若丸の一戦の場面を表現したご神体人形をのせた山がゆっくりと進む姿を、沿道に詰め掛けた人たちが見守った。

 

真っすぐに伸びる真松(しんまつ)を立てた北観音山、その後ろに今年の「山一番」となった鯉山が続く。御池通寺町の市役所前ではくじの順番通りに巡行しているかを確かめる「くじ改め」、御池通河原町と河原町通四条の交差点では進行方向を変える「辻(つじ)回し」がある。

 

 

後祭の山鉾巡行 今年から鷹山も 京都・祇園祭

(2019.7.24、産経新聞)

 

創始1150年を迎えた日本三大祭りの一つ、京都・祇園祭は24日、後祭(あとまつり)の山鉾(やまほこ)巡行が行われた。今年は、祭神の掛け軸を収めた唐櫃(からびつ)(木箱)を担いで歩く形で193年ぶりに巡行に復帰する鷹山(たかやま)を始め、北観音山や大船鉾など計11基の山鉾が都大路を進んだ。

午前9時半に先頭の橋弁慶山が烏丸御池交差点(京都市中京区)を出発、前祭とは逆回りで進んだ。その後、市役所前(同区)で巡行の順番を確かめる儀式「くじ改め」が行われた。交差点を曲がる際には、山鉾が90度方向転換する「辻回し」が見物客の注目を集め、盛んに拍手が送られた。後祭の山鉾巡行は平成26(2014)年に、前祭(さきまつり)(17日)と後祭に分かれて以来、6回目。

 

 

祇園祭・還幸祭、神輿3基が集結 創始1150年、江戸期を再現

(2019年7月24日、京都新聞)

祇園祭の還幸祭が24日夜、京都市中心部であり、四条御旅所(下京区)に鎮座していた3基の神輿(みこし)が「ホイット、ホイット」の掛け声とともに氏子地域を勇壮に練った。今年は創始1150年を記念して3基が又旅社(中京区)に集結し、できる限り時間差を取らず八坂神社(東山区)に戻る江戸時代の様子を再現した。

 

還幸祭は17日の神幸祭で四条御旅所に運ばれた3基を神社に戻す神事。中御座、東御座、西御座は午後4時半ごろから順に出発した。3基はかつて御霊会が行われた神泉苑南端にある又旅社でいったん勢ぞろいし神事に臨んだ。その後は三条通を東進し、寺町通や四条通を経て四条大橋を渡った。全ての神輿が神社にたどり着くと境内の明かりが消され、神輿に乗った神霊を本殿に戻す神事が厳かに営まれた。

 

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茅の輪くぐり夏越祭 京都・疫神社

(2019年7月31日、産経新聞)

 

1カ月にわたって神事や行事が行われた祇園祭の終わりを告げる「夏越祭(なごしさい)」が31日、京都市東山区の八坂神社境内にある疫(えき)神社で営まれ、参拝者が鳥居に設けられた直径約2メートルの茅(ち)の輪をくぐって無病息災を祈った。八坂神社の祭神、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が疫神社の祭神、蘇民将来(そみんしょうらい)のもてなしを受けたことを喜び、「蘇民将来子孫也」と記した護符を持てば疫病を免れると約束した-との故事にちなんだ神事。神事には、氏子組織「宮本組」や各山鉾(やまほこ)町の関係者が参列。茅の輪をくぐり、厄除けのカヤを抜いて持ち帰った。

2019年07月24日

歴史:徳川家のその後

7月22日の投稿で、徳川宗家第19代当主の徳川家広氏の参院選出馬とともに、家広氏の人となりも紹介しましたが、明治維新後、徳川家がどうなったかについて、関心がでてきたので以下にまとめました。

 

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16代 徳川家達(いえさと)(1863~1940)

 

徳川家達は、御三卿(後述)の一つである田安家の生まれ(幼名は亀之助)、血筋をたどれば14代将軍徳川家茂とも、13代の徳川家定とも従弟(年下の男のいとこ)にあたることから、誕生から次期将軍候補(15代)として育てられたそうです。家茂も遺言には後継者は家達としていました。しかし、わずか20歳でしかも長州征伐のため滞在していた大坂城で、将軍家茂が亡くなってしまいました。このとき家達はわずか4歳で、当時の外国の脅威が迫っているという緊迫した状況化で、物心つくかつかないかの幼児をトップに据えるのではなく、年長者が望まれるべきとして、15代将軍は一橋家の一橋慶喜(徳川慶喜)に決まったという経緯があります。

 

結果、家達は江戸城に入ることはありませんでしたが、明治政府は「朝敵」とされた慶喜に代わり徳川宗家を継ぐよう命じたことから、1868年5月、当時5歳の徳川家達(いえさと)が、徳川宗家(本家)の16代当主となったのでした。その年の内に明治天皇に拝謁しています。1869年6月、静岡藩知事に就任、駿河府中へ移り住みましたが、1871(明治4)年の廃藩置県によって藩知事の職はなくなりました。その後、10代でイギリスへ留学、19歳の時には帰国して、近衛家の女性と結婚しています。

 

成人になった家達は1884(明治17)年の華族令で侯爵となり、1890(明治23)年に帝国議会が開設されると貴族院議員となりました。形式的には、徳川家が再び国政に関わることになったのです。家達は、その血筋から、政治の表舞台に引き上げられます。東京市長や首相にも担ぎ出されそうになりました。1898(明治31)年に、東京市長選の話しがでてくると、家達は、晩年の勝海舟に相談へ行ったそうです。すると、勝海舟は「徳川家の人間なのだから、よほどのことがない限り、政治に関わってはならない」とアドバイスしたという逸話もあります。実際、家達は、「徳川家が政治の表舞台で目立つのはよろしくない」として、これらの政治的地位を固辞しています。

 

しかし、徳川家達(いえさと)は、1903(明治36)年から33(昭和8)年までは貴族院議長を務めました。その間、家達は1922(大正11)年に、世界初の軍縮会議となったワシントン軍縮会議で全権を務めるなど、国際政治の表舞台にも立っています。ワシントン軍縮会議では、保有艦の総排水量比率を、米と英が5に対して日本は3と定められました。更に失効した日英同盟に代わり、米・英・仏・日の四カ国条約が結ばれています。

 

そのほかにはも、慈善団体やスポーツ協会の立ち上げに関わったりと、いろいろな面の仕事をしております。特に注目されるのは、1940年開催予定の東京オリンピックの委員長も務めています。大河ドラマ「いだてん」でもお馴染みの「柔道」の始祖、嘉納治五郎氏ともに東京誘致に奔走していたのです。もっとも、東京オリンピックは、日中戦争など国際情勢の混迷を受け、日本政府が開催を辞退しました。幻の東京オリンピックとなった1940年、幻の16代将軍、徳川家達はこの世を去りました。

 

 

17代 徳川家正(いえまさ)(1884年3月~1963年2月)

徳川家達の長男として生まれた家正は、主に外交官・政治家として活躍しました。1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、外務省に入省、1925年(大正14年)シドニー総領事を皮切りに、カナダ公使、トルコ大使を歴任し、1937年に外務省を退官しました。その後、父、徳川家達の薨去に伴い公爵を受け継ぎ、1940年に貴族院議員となり、1946年に最後の貴族院議長に就任しました。

 

1963年2月、心臓病のためで死去しました。妻は薩摩藩主島津忠義の十女・島津正子(しまづ なおこ)で、二人の間には、長男・家英がいましたが早世していたため、断絶を恐れた家正は、長女豊子と会津松平家の松平一郎夫妻の次男恒孝(つねなり)を養子としていました。

 

 

18代 徳川恒孝(つねなり)(1940年2月~)

徳川恒孝氏は、前述したように、会津松平家から養子入りし、徳川宗家の当主を引き継ぎました。会津松平家と言えば、最後は朝敵となった会津藩主松平容保の松平家で、恒孝は、松平容保のひ孫に当たります。恒孝氏は、学習院大学政経学部卒業後、実業界に入り、日本郵船で副社長を務めました。現在、公益財団法人徳川記念財団初代理事長、公益財団法人東京慈恵会会長など公的な地位にあります。

 

恒孝氏の父の松平一郎(1907~1992)は、太平洋戦争中、横浜正金銀行職員としてシンガポールに赴任しており、終戦で収容所に入れられていたそうです。また、恒孝氏の父方の祖父である松平恆雄は第1回参議院議員通常選挙に当選し、第1回国会の議長選挙で初代の参議院議長に選出されています。徳川宗家は、現在、恒孝氏の嫡子、徳川家広氏が引き継いでいます。

 

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御三家と御三卿

冒頭で、徳川宗家第16代当主、徳川家達(いえさと)は、「御三卿の一つである田安家の生まれ」と書きましたが、ここで、御三卿、それから関連する御三家について説明してみたいと思います。

 

御三家

徳川御三家とは、徳川家一族である尾張家、紀伊(紀州)家、水戸家の三家のことを指します。初代の家康が、後に徳川の血が絶えたら困るからという理由で創設しました。仮に徳川宗家(本家)から後継ぎがでなくても、徳川一族の三家(「御三家」という)から出せるようにしたのですね。形式的には、家康の子供がそれぞれ興した分家が「御三家」です。

 

尾張徳川家←9男 義直

紀州徳川家←10男 頼宣

水戸徳川家←11男 頼房

 

このうち「紀州徳川家」からは、将軍家に跡継ぎが無いときに養子を出すことが出来ました。7代将軍家継が、七歳でこの世を去った際(この時、家康から続いた直系が途絶える)、御三家のうち、紀州家から出た八代将軍・徳川吉宗でした。14代将軍家茂も紀伊徳川家出身です。ちなみに15代将軍「徳川慶喜」は水戸徳川家の出身ですが、将軍になる前に、次に説明する「御三卿」の一角である「一橋徳川家」に養子に出されているので、徳川慶喜は、水戸家からの将軍ではないという扱いです。

 

御三卿

その御三卿とは、徳川吉宗が、御三家だけでは心もとないとして、自らの子ども達を分家させて作った体制を指します。それらは田安家、一橋家、清水家の三家でした。御三卿はいわば、将軍家や御三家に跡継ぎが無い場合に養子をだすために作られたと言えます。

 

8代吉宗の次男 宗武⇒田安徳川家

8代吉宗の四男 宗尹⇒一橋徳川家

9代家重の次男 重好⇒清水徳川家

 

御三卿は大名ではなく「徳川家の家族」という位置づけで、家格は御三家の次になります。それぞれの名の由来は、江戸城の門の名称、すなわち田安門、一橋門、清水門からきています。正式には「田安門・一橋門・清水門に近くに住んでる徳川家の人」ということになります。

 

14代将軍徳川家茂のように、田安家から御三家の紀州へ養子に出た例もある一方で、15代将軍一橋慶喜のように、格上にあたる御三家から来た人もいます。御三卿に中では、11代将軍家斉は一橋家の出身で、14代家茂はもともと田安家の出、15代慶喜は一橋家からの将軍です。幕末にかけて御三卿の存在は、徳川家継承の面では実にありがたいものになっていくのでした。

 

現在の御三家と御三卿はどうなっているのでしょうか?御三家では、紀州徳川家は、19代当主、徳川宜子(ことこ)氏が継承していますが、独身のため養子を得なければ今代で断絶となります。尾張徳川家は22代当主、徳川義崇(よしたか)、水戸徳川家は15代当主、徳川斉正(なりまさ)が当主を継承しています。御三卿ではそれぞれ当主は健在です。

 

田安徳川家:11代当主 德川宗英(むねふさ)

清水徳川家:9代当主 徳川豪英(たけひで)

一橋徳川家:14代当主徳川宗親(むねちか)

 

なお、徳川慶喜は、明治維新のshs後、徳川宗家から別家として改めて公爵を授けられたことから、徳川慶喜家として、存続しましたが、最後の当主・徳川慶朝(よしとも)が2017年9月に亡くなっており、養子も取らなかったために断絶しています。

 

(参考)

幻の16代将軍・徳川家達~幻の1940年東京オリンピックで委員長だったとは!

徳川宗家「第19代目」が参院選に出馬 自民党ではなく立憲民主党を選んだ理由

(2019年6月13日 デイリー新潮。週刊新潮WEB取材班)

日本の歴史についてよくわかるサイト

武将ジャパン

御三家と御三卿って何がどう違う?吉宗が御三卿の田安家を創設する

徳川「御三家と御三卿」の違いは?役割やその特権について分かりやすく解説

2019年05月19日

ニュース:東京・神田祭と浅草三社祭

<三社祭>

 

三社祭「宮出し」 令和の活気、浅草駆ける

(毎日新聞2019年5月19日)

東京・浅草に初夏の訪れを告げる浅草神社(東京都台東区)の三社祭が19日、最終日を迎えた。本社神輿(みこし)3基を境内から街に担ぎ出す「宮出し」があり、祭りは最高潮に達した。神事の後、氏子たちの一本締めを合図に午前5時45分ごろ、宮出し。法被を着た担ぎ手たちが「オイサ」と威勢の良い掛け声でみこしを揺らしながら、浅草神社の隣の浅草寺の境内や仲見世など浅草の街中を練り歩いた。

 

絢爛100基の神輿が練り歩く 東京・浅草の三社祭

(2019.5.18、産経)

東京・浅草の三社祭で18日、浅草神社の氏子44ケ町の神輿(みこし)による「町内神輿連合渡御」が行われ、新天皇の即位と新元号「令和」を祝って、浅草寺の本堂裏に約100基の町神輿が参集した。氏子たちによる手締めのあと、1基ずつ出発。浅草神社でのおはらいを受け、威勢のいい掛け声とともに東京の下町へと繰り出していった。三社祭は19日が最終日。早朝から3基の浅草神社の本社神輿が神社を出発する「宮出し」が行われる。

 

三社祭が浅草でスタート 3日間で150万人見込み

(2019年5月17日、日刊スポーツ)

三社祭が17日、東京・浅草でスタートした。3日間で150万人の人出が見込まれる。初日の大行列にも、多くの見物客が訪れた。おはやし屋台を筆頭に町を練り歩いた後は、東京都無形文化財の「びんざさら舞」も奉納された。18日は浅草氏子44ケ町の町内みこし約100基の渡御が予定され、にぎわいが予想される。

 

三社祭とは?

三社祭りは浅草神社の祭です。浅草神社は、「浅草寺をつくった土師真中知命(はじのまつちのみこと)と聖観世音菩薩を川から引き揚げた漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟をまつる神社で、明治維新の神仏分離令によって浅草寺と分かれ、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に浅草神社となった」と伝えられています。

 

三社祭りの1日目は、浅草神社で五穀豊穣を祈願して無形文化財「びんざさら舞」を奉納します。びんざさらとは、竹や木の薄い板を何枚も重ねて紐で綴った楽器です。2日目は氏子44町会から約100基の神輿が出て、浅草神社でお祓いを受けた後、「セイヤ、セイヤ」の掛け声とともに各町内を渡御します。最終日は宮出しで3基の大きな宮神輿が氏子たちに担がれて発進します。三社祭の神輿は、「魂振り(たまふり)」と言って激しく神輿を上下左右に動かします。わざと荒々しく揺さぶることで、神輿に坐す神様の霊威を高め、豊作・豊漁や、疫病が蔓延しないことを祈願するそうです。

 

(浅草神社、「暮らし歳時記」HPなどから参照・引用)

 

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<神田祭>

 

平安絵巻華やかに 「神田祭」で1000人が都心練り歩く

(2019年5月11日、NHKニュース)

 

江戸三大祭りの一つとされる「神田祭」で11日、平安時代の色鮮やかな装束を身にまとった人たちが都心を練り歩く「神幸祭(しんこうさい)」が行われています。「神田祭」は、東京 千代田区にある神田明神が、江戸時代から続く祭事として2年に1度行っています。3日目の11日は、祭りのハイライトの一つ、「神幸祭」が行われ、出発を告げる神事のあと、平安時代の色鮮やかな装束を身にまとった神職や羽織はかま姿の氏子など約1000人が行列をなし、神社を出発しました。行列は「鳳輦(ほうれん)」と呼ばれる大きなみこしを中心に弓や刀を持った人や馬車、それに人力車も加わり、数百メートルの長さにおよびました。神田祭りは今月15日まで続き、12日は、大小200を超えるみこしが神田明神を目指す「神輿宮入」が行われます。

主な行事
5/11〈神幸祭〉神田明神の宮神輿の巡行
5/12〈神輿宮入〉神田明神に町神輿が練り込み
5/15 〈例大祭〉 神田明神で行われる神事

 

神田祭りとは?

神田祭は、江戸総鎮守「明神」の祭礼です。京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本の三大祭りの1つとされています。神田祭には、奇数の年に行われる神輿の出る「本祭(ほんまつり)」と、偶数の年に行われる神輿が出ない「蔭祭(かげまつり)」の2つがありますが、一般に神田祭というと賑やかな本祭を指します。本祭りは山王祭と隔年で行われます。

 

1300年以上の歴史ある神田明神ですが、特に祭が盛んになったのは江戸時代です。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康が神田明神に戦勝を祈願して勝利したとされています(例大祭はこの9月15日に行われている)。戦の前には、必ず家来に神田明神で戦勝を祈らせたとも言われています。その後、徳川家康は見事天下統一を果たし、神田明神に感謝して立派な社殿や神輿を寄進。以後、神田明神は、徳川幕府によって江戸城を守護する神社となりました。家康の支援により、祭りは現在のような盛大なものになり、将軍が上覧する「天下祭」と呼ばれていました。

 

神田明神は、大手町、丸の内、神田、日本橋、秋葉原、築地魚市場など都心の108の氏子町の総氏神で、神社は天平年間(8世紀)創建です。

 

神田祭の見どころは、平安時代の衣装をまとった500人ほどの行列「神幸祭(しんこうさい)」で、神田明神の周辺地域を守る神々が3つの神輿、大黒様を乗せた「一の宮鳳輦(いちのみやほうれん)」、恵比須様を乗せた「二の宮神輿(にのみやみこし)」、将門様を乗せた「三の宮鳳輦(さんのみやほうれん)」に乗って、町々を祓い清めるという趣旨で行われ、氏子の108町会を巡ります。平安時代の衣装の人々は、神々の付き添いだそうです。

 

神幸祭の翌日には、神田神社周辺の町からおよそ100基の神輿が出され、神田明神へと向かいます。これを「神輿宮入(みこしみやいり)」(「神輿渡御」)と呼びます。氏子町が町神輿を競い合う祭りの華とも言えます。最終日は、祭りの締めくくりとして最も重要な神事、例大祭が執り行われ、平和と繁栄が祈願されます。

 

(東京観光財団や主催者側のHPなどを参照)

 

 

 

2019年05月16日

ニュース:令和初の京都・葵祭

令和最初の葵祭、平安絵巻にうっとり

(2019/5/15、京都新聞)

 

京都三大祭りのトップを飾り、令和最初の葵祭が15日、京都市内で繰り広げられた。平安王朝を再現した優雅な行列が新緑の映える都大路を進み、沿道の人たちを華やかな絵巻の世界に引き込んだ。下鴨、上賀茂両神社の例祭で「源氏物語」にも登場するなど時代を超えて受け継がれてきた。正式には「賀茂祭」だが、祭りに関わる人たちや社殿にフタバアオイとカツラで作った葵桂を飾ることから「葵祭」と呼ばれるようになった。

 

午前10時半に約500人の行列が京都御所(上京区)の建礼門前を出発した。狩衣(かりぎぬ)姿の肝煎(きもいり)を先頭にした本列(近衛使代列)ではフジの花で彩られた牛車などが玉砂利をきしませて進んだ。女官が先導する斎王代列(女人列)が続き、十二単(ひとえ)姿の第64代斎王代、負野(おうの)李花さん(23)が乗る専用の輿(こし)「腰輿(およよ)」が近づくと歓声が上がった。(京都新聞)

 

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葵祭について(京都観光協会のサイトから抜粋)

 

葵祭の〝あおい〟とは、行列の御所車、勅使、供奉者の衣冠などに飾られた緑の葉のことです。葵祭は、もともとは「賀茂祭」と呼ばれていましたが、江戸時代に祭が再興されてから葵の葉を飾るようになり、「葵祭」と呼ばれるように。祭で使われる葵は毎年両神社から御所に納められています。

 

祭の見どころは、天皇の使者である勅使が下鴨、上賀茂の両神社に参向する道中の「路頭の儀」。近衛使(勅使代)をはじめ検非違使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎王代など、古の姿そのままに馬36頭、牛4頭、500余名の行列が京都御所建礼門前より出発し、王朝絵巻さながらに行われます。平安貴族の装束を身にまとった人々の行列は、葵祭のハイライト。

 

五衣裳唐衣(いつつぎぬものからぎぬ)をまとい、腰輿(およよ)という輿に乗って登場する斎王代は、葵祭のヒロイン。平安時代には内親王が「斎王」として祭に奉仕していましたが、鎌倉時代に途絶えていました。昭和31(1956)年、葵祭を盛り上げようと市民から斎王代が選ばれ、女人列が復活しました。

 

平安貴族の装束をまとった行列が有名な葵祭。そのほかにもたくさんの行事が開催されています。5月1日の競馬足汰式(くらべうまあしぞろえしき)、5月3日は流鏑馬(やぶさめ)神事、5月4日には斎王代女人列御禊神事など、「前儀」と言われるさまざまな儀式が下鴨神社や上賀茂神社で行われます。

 

 

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