アステカ帝国:ケツァルコアトルの逆襲⁉

 

中南米に存在していた古代文明シリーズ、前回のマヤ文明に続き、今回は、同じメキシコに存在したアステカ帝国のアステカ文明です(マヤ文明はメキシコ南東部のユカタン半島、アステカ文明はメキシコ中央高原にあった)。

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  • アステカ帝国の成立

 

アステカ帝国そのものは、時代でいえば近代の1428年頃から1521年にかけて存在していましたが、アステカ文明は、紀元前1200年頃にでたオルメカ文明、紀元前後のテオティワカン文明、7世紀頃に興ったトルテカ文明といったメキシコにおけるメソアメリカ文明(スペインによる征服以前のメキシコ高原・ユカタン半島などにみられる文明)の流れを継承しています。そうした背景で、アステカ文明は、スペイン人渡来以前のメキシコに最後に現れたメソアメリカ文明の最後の文明と位置づけられています。

 

11~12世紀頃、メキシコ北部の内陸の乾燥地帯を故郷とするチチメカ族がメキシコ北部から南下しユカタン半島まで大移動(侵入)してきました。14世紀には、チチメカ人の一派であるアステカ族が定住し、メキシコ高原一帯にアステカ王国を建設しました。

 

アステカ神話によれば、アステカ人(「メシカ人」とも呼ばれた)は、民族の発祥の地アストラン(「白鷺の生息する地」の意)を出発し、狩猟などを行いながら移動を続け、1325年に、メキシコ中央高原のテスココ湖畔の小島に辿り着きました。この時、アステカの父神で太陽と戦いの神「ウィツィロポチトリ神(別名メシトリ)が「石の上に生えたサボテンに鷲が止まった場所」を都に定めよと予言を下したとされ、この地に首都テノチティトランの町が築かれました。

 

余談ですが、テノチティトラン(メシコ・テノチティトラン)は、現在のメキシコ=シティです。メキシコの国名はこのメシコということばに由来するそうです。さらにメシコの語源は、太陽神ウィツィロポチトリの別名メシトリであるとされています。それゆえにメキシコは「太陽の国」と呼ばれます。

 

当初、アステカは、メキシコ盆地の最大勢力であったテパネカ族の国家アスカポツァルコに服属していました。1427年に王位に就いたイツコアトルの時、アステカは、テスココ湖東岸の都市テスココと手を組んで、湖の西岸にあるトラコパンを加えてアステカ三国同盟を結成しました。その上で、アステカは1428年、アスカポツァルコへ侵攻し、これを滅亡させ、独立を果たしました(アステカ王国の成立)。なお、この三国同盟は、アステカが中心的な役割を果たしますが、国制上、アステカ帝国は最後までアステカ・テスココ・トラコパンの三都市同盟でした。

 

アスカポツァルコを滅ぼし覇権を握ると、アステカは勢力拡大に乗り出しました。モクテスマ1世の時(即位~1469)に周辺のベラクルス地方やアオハカ地方を征服し、「帝国」を形成するなど、15世紀の中頃、アステカ帝国は全盛期に入ります。また、1502年に即位したモクテスマ2世は、南方の太平洋沿岸へ遠征を行い、アステカ帝国は、本来の領土であるメキシコ盆地をはるかに越え、メキシコ高原一帯をほぼ統一する中央アメリカ最大の領域を誇りました(イタリアと同じぐらいの広さの領土を支配)。

 

 

  • 「偉大なるアステカ」

 

アステカ族は,北方の狩猟民でしたが、1325年に、メキシコ盆地のテスココ湖畔の小島に居を構えてから,先に興ったオルメカ、テオティワカン、マヤ、トルテカの諸文明の文化的遺産を、同時期の先進諸国から継承し、「偉大なるアステカ」と呼ばれる独自の文明を作り上げました。

 

当初服従していたテパネカ族からは、軍事的組織と運用や国家統治のノウハウを学び、前述したようにメキシコの広い領域を支配しました。その政治システムは、祭祀と軍事の長である皇帝を頂点とし、(祭祀と軍事の)実務を担当する貴族が皇帝を支えるというものでした。首都テノチティトランは、当時、世界最大級で20万から30万人の人口を誇り、巨大な宮殿やピラミッド型神殿をもつ壮麗な都市でした。

 

先に興った諸文明から、土木・建築・工芸や、天文・暦・文字を継承したアステカ帝国は、特に、大規模な土木工事を盛んに行った国家であり、神殿の建設や、湖中堤防、水道橋の建設など水利工事などで高い技術力を持っていました。ただ、マヤ文明同様、鉄器は存在せず、武器や日用品などは黒曜石などの石で造られたものが大半で、青銅器は装飾品利用だったとされています。

 

 

アステカ暦

アステカ族の暦は、精密な天体観測によって現代に引けを取らない精巧なものだったそうです。アステカ族は、宗教と農耕と結びついた260日暦(トナルポワリ)と365日暦(シウポワリ)の二つの暦を持っていました。260日暦はトナルポワリという20の絵文字と13の数字を組み合わせた260日の祭式暦で、占術に使われています。また、365日暦は、20進法に基づく20日からなる18ヶ月と5日の余りの太陽暦で、国家行事を運営するために用いられていました。神官たちは、歴法を厳密に守り、各種の儀礼をとり行っていたとされています。

 

この二つの暦の第一日が再び一致するのは、(最小公倍数の)18,980日、つまり52年目となります。アステカ人は、この二つの暦が重なり合う52年を一周期として扱っていました。また、その周期ごとに創造と破壊が行われると信じられてきました。この創造と破壊は、神話の時代にまで遡る長い時間軸の世界においても確認されます。

 

 

アステカの神話・伝承

アステカの宗教観・自然観は、アステカ以前のメキシコ古代文明の豊かな宇宙創生観を基に、彼らの部族宗教を融合させたものと解されています。

 

アステカ神話において、世界は四つの宇宙的時代(太陽の時代)を経ており、それぞれの時代は大変動によって滅亡したのだと考えられていました。つまり、世界の創造と破壊は過去4回起きており、現在の世界は「第5の太陽の時代」とみなされています。

 

現在の世界を創造したのは、ケツァルコアトルとテスカトリポカの二柱の兄弟神です。ふたりは世界を建て直し、人類を創造した後に太陽を作ったとされています。

 

ケツァルコアトル(「羽毛でおおわれた蛇」という意味)は、古代メキシコ人によって崇拝された白い肌をもつ神で、水の神、風の神,生命の神とされます。農耕や冶金術を教えた英雄神として、アステカの人々から崇拝されるようになりました。

 

テスカトリポカは、北の夜の神とされ、夜空、夜の風、ハリケーン、北の大地を司っています。死、敵意、占い、誘惑、魔術に関連付けられるなど、邪悪な力として表現されています。

 

アステカの神話では、あらゆる面でケツァルコアトルと対立したテスカトリポカは、天地創造の業を共に行ったケツァルコアトルを追放しました。しかし、ケツァルコアトル神はやがて帰還し、譲り渡したアステカの支配権を回復するという伝説が残されています。

 

ケツァルコアトルやテスカトリポカ以外にも、アステカ神話においては、既に出てきたウィツィロポチトリや、トラロックなどさまざまな神があがめられ、崇敬を受けています。

 

ウィチロポチトリは、アステカの起源の地(アストラン)を人々に伝えた神であることからもわかるように、創造神というよりは民族神(部族神)で、アステカ族の父神(パトロン神)です。また、太陽神としても信仰の対象となっています。

 

トラロックは、アステカ文明よりも前の時代から確認されており、メソアメリカ最古の部類に入る神で、雨神として知られています。アステカの人々にとっては、農耕をしていく上で、欠かすことのできない神です。

 

このように、アステカ族は、それまでのメソアメリカ諸文明の神々を継承し取り入れながら、独自の習俗や信仰体系を構築していました。

 

太陽信仰と生贄

メソアメリカでは、太陽は消滅するという終末信仰が普及しています。現在の世界を創造したのはケツァルコアトルとテスカトリポカの二柱でしたが、神話では人類を創造した後に太陽を作りました。しかし、当初、太陽は動かなかったのですが、神々が、自らの血肉を捧げる事でようやく機能を果たすようになったのだそうです。

 

ところが、この話しは、神話上のエピソードでは終わらず、神々の犠牲で動き出した、太陽の活動を維持するために、人間もまた自ら生贄を捧げ続けなければならないと考えられるようになりました。この世界に生命を与える太陽が運行し続けるためには(太陽が死滅し,宇宙が滅びるのをくいとめるために)、人間の血が必要であると解されたのです。

 

太陽神は夜の間姿を消し、翌日の活動のために、唯一の栄養分たる人間の生き血で精力をつけなければならないという考え方がその背景にあります。生贄になった者の血のしたたる心臓を、神に奉げることで、太陽に活力を与え、太陽の消滅を先延ばしすることが可能になると信じられるようになりました。

 

そこで、アステカ族やマヤ族も含めて、メソアメリカの人々は、日常的に人身御供(ひとみごくう)を行っていたという歴史があります。

 

太陽神ウィツィロポチトリに捧げられた生贄は、通常、戦争捕虜や買い取られた奴隷の中から、見た目が高潔で健康な者が選ばれていたそうです。神事によっては貴人や若者さらには幼い小児が生贄にされることもあったと言われています。生贄は、祭壇に据えられた石のテーブルの上に仰向けにされ、神官達が四肢を抑えて黒曜石のナイフで生きたまま胸部を切り裂き、動いている心臓を摘出し、数週間纏って(まとって)踊り狂ったとされています。

 

実は、人身御供は世界各地で広く存在した儀式であり、神事ですが、アステカの場合は、他と比べて特異であったとされています。人身供養は、いつの時代でもほとんど世間の目から隠れて行われていましたが、なぜか、メソアメリカ(アステカ、インカ、マヤ)の文明では人々の前で公開されて行われ、当時の人身供養の様子が、絵や文字として鮮明に残されています。

 

アステカ族は、この人身犠牲をささげるために,大神殿(ピラミッド)をいくつも建設し,このピラミッドを祭儀場として使いつつ、人身供養が行われていたことが、壁画などから明らかになっています。

 

さらに、軍隊の長であると同時に、太陽神ウィツィロポチトリの最高の司祭であるアステカ皇帝は、生贄を確保し、常に人身犠供ができるように、強力な軍事組織を作って、戦争を続けなければなりませんでした。

 

こうした特徴を兼ね備えながらメキシコに栄華を極めたアステカ帝国でしたが、1521年、スペインの開拓者コルテスによって滅ぼされてしまいます。

 

 

  • スペインのアステカ征服

 

1492年のコロンブスによるアメリカ大陸の発見は、アステカ王国が繁栄していた現在のメキシコ一帯に、スペイン人が侵入する最初のきっかけを与えました。コロンブス自身はユカタン半島には上陸しませんでしたが、開拓者のエルナンデス=コルドバの率いる遠征隊が1517年にメキシコ(ユカタン半島)に初めて上陸し、翌1518年から入植が始まりました。スペイン人たちは、この広大な入植地を、ヌエバ=エスパーニャ(新しいスペイン)と呼んだそうです。

 

1519年2月には、開拓者(コンキスタドール)のエルナン・コルテスが、キューバから、わずか15頭あまりの馬と武装した500人の部下を率いてユカタン半島沿岸に上陸し、最初の植民都市としてベラクルスを建設しました。

 

その後、内陸に向かったコルテス軍は、同年11月、首都テノチティトランへ到着しましたが、アステカ王モクテスマ2世は初めて見る白人の騎兵に驚き、抵抗せずに恭順の意を表し、コルテス軍を歓待しました。それだけでなく、モクテスマ2世は、スペイン国王カルロス1世に財宝まで献上します。これに対して、献上された財宝を見て驚いたコルテスは、各地に人を派遣して貴金属や工芸品を集め、略奪し、アステカの財宝を溶解して金塊にしました。

 

その後、首都テノチティトランでは、住民の大規模な反乱が起こり、結果的にモクテスマ2世が殺害されてしまいました。これに対して、モクテスマ2世の後を継いだクィトラワク(クアウテモク)は、1520年6月、王自らアステカ人を率いて猛反撃に転じ、コルテス以下のスペイン人はテノチティトランから撤退を余儀なくされました。

 

しかし、1521年4月、先住民(インディオ)の反アステカ勢力を加え、軍を立て直したコルテスは、総勢10万とも言われた兵力で、テノチティトランを攻撃しました(テノチティトラン包囲戦)。3万のアステカ兵はよく戦い、約3ヶ月にわたり抵抗しましたが敗れ、1521年8月、病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王は処刑され、アステカ王国は滅亡しました。この時、都に入城したスペイン軍はアステカ人を3万人も大虐殺したといわれています。

 

 

  • なぜ、アステカ帝国は滅亡したか?

 

よく、当時、高度な文明と勢力を誇ったアステカ帝国は、スペインの近代兵器の前に屈したと言われますが、必ずしもそればかりではありませんでした。

 

アステカ王国は、周辺先住民に過酷な税を課して服従させていたとされ、スペイン軍が現れたとき、多くの周辺諸民族は懐柔され、スペイン軍に加わって戦ったとされています。ユカタン半島に上陸した際に、僅かな兵力であったコルテス軍も、最後、テノチティトランを攻撃した際には、膨大な数に膨れ上がっていました。

 

また、コロンブス以来、スペインから新大陸にもたらされた感染症である天然痘が、免疫のないインディオに感染し大流行となり、アステカ軍の力が低下してしまったことも帝国の滅亡の一因とされています。1518年に、エスパニョーラ島に到達した天然痘は、メキシコに向かい、1520年に上陸し、猛威を振いました。もしこの時、天然痘が突発しなかったならば、コルテスの勝利はなかったとみる向きも多くあります。

 

加えて、コルテスが首都テノチティトランに最初に入城した際、アステカ王モクテスマ2世が「無血開城」した要因として、モクテスマ2世が、古来伝わるアステカ神話の影響で、戦意を喪失させたことも、敗北を招いた一因とされています。

 

その伝説とは、かつてテスカトリポカ神に追いやられた白い肌をもつケツァルコアトル神が、西暦1519年にあたる「一の葦」の年に戻ってくるというものです。スペイン人が東沿岸に現れるようになったのは、「一の葦」の年の2年前(1517年)からでした。スペイン人は、帰還したケツァルコアトル一行ではないかとささやかれていました。

 

さらに、これらの要因が複合的に作用した面もあります。天然痘がメキシコを襲った(首都テノチティトランでこの病気が突発した)のは、1520年にアステカ軍が大攻勢をしかけ、コルテス軍を首都から撤退させたほぼ4ヶ月後でした。この時、首都の先住民の中には、スペイン人を襲撃した者たちへの神罰であると見なす者たちもいました。しかもその罰は、ケツァルコアトル神によるものだとされれば、1521年4月、コルテスが再び首都に戻ってきたとき、周辺の諸部族の多くがコルテス軍に雪崩式に寝返ったことも不思議ではありません。

 

 

  • アステカ帝国滅亡後

 

その後、コルテス軍は金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊し尽くし、その遺構の上に、1535年、植民地(副王領)ヌエバ・エスパーニャの首都メキシコシティ(シウダー・デ・メヒコ)を建設しました。

 

また、コルテスは、征服地を、部下に分け与える一方、自らも広大な土地を手に入れ、先住民の文化・伝統・宗教もまた完膚なきまでに破壊してしまいました(コルテスは文化的破壊者でもあった)。インディオ社会が行ってきた人身供犠などの習慣を特に「野蛮」な行為として強調し、アステカ在来の宗教を弾圧して、インディオをカトリックに強制改宗させました。(メキシコにおいてカトリックは現在も多数派の宗教である)。

 

征服した土地で、白人入植者たちは、インディオ(先住民)を、キリスト教に改宗させることを条件に、労働力として(奴隷のように)使役することを可能にした農園経営(エンコミエンダ制)を行うことができました。ポトシ銀山で先住民を酷使して、ヨーロッパへ送る銀の採掘に当たらせたことは有名な話しです。

 

このように、スペイン人征服者の残虐行為や、天然痘などの疫病による死者、過酷な労働などによって、コルテス以前に1100万人あまりだった人口が、わずか50年間で100万人に激減したとの試算もあります。

 

<関連投稿>

マヤ文明:マヤ暦とケツァルコアトルの降臨

インカ文明:マチュピチュを生んだ太陽の帝国

 

 

<参照>

アステカ文明(王国)(世界史の窓)

アステカ(世界の歴史まっぷ)

アステカ神話(ピクシブ百科事典)

アステカ文明の主要な神々たちを紹介!創造神から雨の神までいるの!?

10の最も重要なアステカの神と女神

物語メキシコの歴史(大垣貴志郎、中公新書)

アステカ(Wikipedia)など

 

(2020年10月25日、最終更新日2022年7月21日)