2019年11月22日

皇室:大嘗祭の歴史

前回は、報道で知らされる限りで、大嘗祭の「大嘗宮の儀」についてまとめましたが、今回は大嘗祭の歴史です。

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大嘗祭は、稲作を中心とした日本社会に古くから伝わる収穫儀礼の新嘗祭に由来する儀式で、1300年以上続く、即位に伴う最も重要な皇室祭祀です。戦国時代の前後に約220年間中断した時期もありましたが、江戸時代に再興され、現代まで受け継がれてきました。

 

大嘗祭の始まりは?

「古事記」と「日本書紀」には、皇祖神の天照大御神や古代の天皇が「新嘗の祭」を行ったとする記述があり、これらの歴史書が編纂された奈良時代より前から伝承されてきたとされています。実際は、飛鳥時代の7世紀頃に始まったとするのが、現在では一般的な考えです。

 

「新嘗祭(にいなめさい)」は、毎年11月、天皇が新穀(初めてとれたお米)を、皇祖、天照大神をはじめ神々に供え、自らも食し、五穀豊穣(ごこくほうじょう)と国家安寧を祈られる宮中祭祀です。「大嘗祭」は、その「新嘗祭」を即位後初めて、しかも在位中一度だけ大規模に行うものでしたね(⇒)。

 

 

天武天皇の時代に確立

当初は、毎年行われる新嘗祭と大嘗祭との区別はありませんでしたが、大嘗祭が一代一度の即位儀礼となったのは、7世紀後半の第40代天武天皇の時からです。正確には、天武天皇の673年に、大嘗祭が初めて行われ、皇后であった持統天皇のときに、毎年の新嘗祭と分離されました。ではなぜ、天武・持統期に大嘗祭が整備されたのでしょうか?それは、日本という国家意識の高まりと、日本的なものの継承という考え方の広がりがあったからだとされています。

 

まず、日本は、663年、朝鮮半島の「白村江の戦い」で、朝廷を脅かす隣国、唐と新羅の連合軍に大敗するなど、危機的な状況に陥っていました。そこで、国としての体制強化のため、律令制の確立が急がれ、飛鳥浄御原令などが編さんされました。日本独自の君主号としての「天皇」が用いられたのも天武朝からです(それまでは「天皇」ではなく「大王(おおきみ)」などと呼ばれていた)。

 

大嘗祭が整備される以前にも天皇の即位儀礼自体は存在していました。現代の皇位の証しである三種の神器(鏡・剣・玉)を継承する「剣璽等承継の儀」や「即位の礼」に相当する儀式です。もちろん、記紀(古事記・日本書記)には、「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが天皇(スメラミコト)に渡されたことが記されており、これらは日本に古より存在する儀式ですが、当時は、服装などのスタイルや様式に中国の影響が色濃く反映していました。これは、その頃の日本は、遣隋使や遣唐使を通じて、当時の先進国・中国から先端の制度や文化を導入し、律令国家としての体裁を整えようとしていた時代だったからです。しかし、中国の文化を積極的に取り入れつつも、「日本的なもの」を確保しようとして生まれた制度が、稲作を中心とした日本社会に古くから伝わる収穫儀礼である大嘗祭でした。

 

こうした背景から、大嘗祭は7世紀後半、毎年行われる新嘗祭と区別され、代替わりの儀式として、皇室の伝統になり、歴代天皇に継承されたのでした。その過程で、それまで伝承されてきた儀式が、国家祭祀に高められました。それに伴い、儀式そのものも時代とともに変化を続けてきたようです。平安時代に書かれた宮中の儀式書の「貞観儀式(じょうがんぎしき)」や「延喜式」、「江家次第」などで「大嘗祭」の次第が明文化されたと言われています。

 

その中で注目されるのが、「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女の存在です。造酒児とは、大嘗祭の際、神に供える神酒を造る少女のことを言います。大嘗祭では、祭祀に使う稲穂を一番に抜き、稲と稲から造る神酒を造りのための米を最初につくというような一連の行為が、大嘗祭の当日までの儀式として取り入れられていて、その儀式を司る役を造酒児が務めていたのではないかと推察されているのです。つまり、大嘗祭は、造酒児が主役の前半と、天皇が主役となる後半との二部構成になっていたのではないかということです。

 

弥生時代に日本に広がったとされる稲作ですが、稲の収穫儀礼の主役は女性であったと見られています。遡れば、記紀神話の中で、稲作儀礼を行っているのは、天照大神や、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神です。そういえば、邪馬台国の卑弥呼も、呪術的儀礼を行いながら統治していましたね。古代の日本において、女性の役割が極めて大きかったことが伺えます。

 

 

途中中断された大嘗祭

さて、こうした長い歴史のある「大嘗祭」ですが、行われなかった時期もあります。
応仁の乱(1467~1478)をはじめとする戦乱や朝廷の困窮などを理由に、1466年の第103代後土御門天皇を最後に、大嘗祭は221年間、中断してしまいました。

 

復活したのは江戸時代の1687年、東山天皇の即位の時でした。朝廷再興を強く目指していた当時の第112代霊元天皇は、譲位を申し出て、後を継ぐ東山天皇の即位に際し、大嘗祭の復活を幕府に強く望んだのです。時の第5代将軍、徳川綱吉は朝廷の強い意向を認めた形でした。

 

当時は文治政治の時代で、幕府は、国内統治の手段として武力ではなく、秩序や儀礼を重視しました。上下の身分や階層秩序を利用することで、幕府の権力を維持しようとしたのです。大嘗祭を復活させることも、天皇や朝廷の権威を利用した幕府の保身と言っていいでしょう。

 

東山天皇に続く中御門天皇の即位の際には、大嘗祭は再び行われませんでしたが、徳川吉宗が、その次の桜町天皇即位に伴い、1738年に大嘗祭を再び復興させました。以後、大嘗祭は代替わりの度に実施されるようになりました。大嘗祭を含む天皇・朝廷の儀式も、統治の基盤の一つとしてしっかりやるべきだとして、幕府側から積極的に働きかけられたそうです。もっとも、江戸後期の朝廷は、財政も苦しく、内裏の庭に悠紀殿、主基殿と、神饌を調理する膳屋(かしわや)が一棟だけのときもあったと言われています。

 

 

近代から現代の大嘗祭

明治時代には皇室のあり方や儀式などについて定めた旧皇室典範などが制定され、「大嘗祭」は「即位礼」と並ぶ重要な儀式として位置づけられます。明治時代の終わり頃には平安時代の儀式書などを参考にしながら皇室の儀式などについて定めた「登極令(とうきょくれい)」が制定されました。例えば、「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は、大嘗祭から姿を消しました。富国強兵を推進した明治政府は、武人としての天皇像を求めたことも要因になっていると言われています。

 

近代国家として天皇の権威を示すために、大正天皇の大嘗祭から、より大規模になっていきました。東日本の悠紀(ゆき)地方と西日本の主基(すき)地方の新穀だけでなく、「庭積(にわづみ)の机代物(つくえしろもの)」と呼ばれる農産物や海産物も供えられるようになり、大正以降は全国から特産品が寄せられるようになり、国民との接点も広がりました。

 

戦後になると、旧皇室典範や登極令が廃止されて新憲法が施行され、皇室制度が現在のものに改められました。前回、平成2年の「大嘗祭」は、新憲法で定められた政教分離の原則を踏まえて皇室行事として行われ、この考え方は今回の「大嘗祭」でも踏襲されています。ただし、「大嘗祭」の主な次第は平安時代の頃から基本的に変わっておらず、今回の儀式も長い伝統を踏まえた形で行われました。

 

<参照>

「大嘗祭」 儀式の内容から歴史までを詳しく

(2019年11月14日 NHK news web)

皇居で大嘗祭 未明まで伝統儀式

(時事ドットコム2019/11/15)

いよいよ大嘗祭 夜通し行われる「秘儀」とは?

(2019.11.14 週刊朝日)

「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く

(2019/03/01、SAPIO2019年4月号

大嘗祭|皇位継承式典 平成から令和へ 新時代の幕開け

(NHK News Web)

<代替わり考 大嘗祭>(上) 密室で安寧と豊穣祈り

(2019年11月13日、東京新聞)

大嘗宮の儀、厳かに 即位行事「大嘗祭」の中心的儀式

(毎日新聞2019年11月14日)

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