2019年11月06日

歴史:沖縄と首里城

国の史跡でもあり、世界遺産、日本百名城にも選ばれている首里城が、火災で倒壊したというニュースは国内外に衝撃を与えました。沖縄と首里城の歴史を少し振り返ります。

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沖縄最大のグスク(城)である首里城(しゅりじょう)は、別名は御城(ウグシク)とも言う山城で、1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城として、琉球の政治、外交、文化の中心として栄え続けました首里城の最初の築城は不明ですが、沖縄の三山時代には存在していたもようです。三山時代(さんざんじだい)と言うのは、1322年頃から1429年まで、沖縄が、北部の北山(ほくざん)、中部の中山(ちゅうざん)、南部の南山(なんざん)と3つの王朝に分かれていた時代をいいます。

 

このうち、琉球中山では、沖縄で生まれた最初の王統として、英祖王統(1259年頃~1349年)が、初代の英祖王から5代90年間栄えていました。その後、初代・察度(さっと)とその息子の武寧(ぶねい)の二代・56年間続いた察度王統(1350年~1405年)が続きました。

 

尚思紹王と尚巴志王

この時期、南山に、尚思紹王(しょう-ししょうおう)と言う人物が出ます。佐敷按司(佐敷の城主)を務めていた尚思紹王(1354~1421)には、嫡男の尚巴志王(しょう-はしおう)がいました。尚巴志王は、21歳のときに、父から南山の佐敷按司(さしきあんじ)を譲り受けると、1406年には中山王・武寧(ぶねい)を攻撃して察度王統(さっとおうとう)(1350年~1405年)を滅亡させます。

 

中山を手に入れた尚巴志王は、自らは王にならず、父・尚思紹(しょう・ししょう)に中山王に就いてもらいました。またこの時、尚巴志王は、中山の本拠を、英祖王統と察度王統の時代の浦添城から首里城に定めました。ここに、第一尚氏王統(1406年~1469年)が成立するとともに、1879年、最後の国王・尚奉が明治政府に明け渡すまで、首里城は、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇ることになります。

 

王国時代、首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開き、中国(明)をはじめ日本、朝鮮、ジャワなどとも交易を盛んに行われました。ただし、琉球王国では一般民衆の土地私有が認められていませんでした。そのため、農業生産性も低く、税金も極めて高かったため、農民などは貧しい生活を強いられていたと言われています。

 

琉球統一

さて、尚巴志王(しょう-はしおう)は、1416年には、北山王の居城である今帰仁城(なきじんじょう)も攻撃しました。この時、今帰仁按司の攀安知(はんあんち)は、家臣の裏切りもあって自刃したため、尚巴志王は北山も手に入れました。

 

1421年に、父・尚思紹王が死去すると、翌年、尚巴志王は中山王に即位し、首里城の整備を進めました。そして、1429年には、南山・島尻大里城(しましいおおざとじょう)の他魯毎(たるみい)を滅ぼし三山を統一し、初めて琉球を統一することに成功しました。尚巴志王はこのように大業を成し遂げ、1439年に亡くなると、次男・尚忠(しょう・ちゅう)が跡を継ぎ、第2代琉球国王(第一尚氏王統・第3代国王)となりました。その後、1453年、第一尚氏王統・第5代尚金福王(しょうきんぷくおう)の後、王位をめぐって王世子・志魯(しろ)と王弟・布里(ふり)との間で争いがおきました(志魯・布里の双方とも死去)。この志魯・布里の乱(しろ-ふりのらん)と呼ばれる争乱で、首里城は焼失してしまったのです。

 

さらに、1462年には、第6代国王の尚泰久王(しょうたいきゅうおう)の重臣であった金丸が王位を継承し(クーデターで第一尚氏王統が滅んだとの見方もある)、第二尚氏王統の初代国王、尚円王(しょうえんおう)となりました。ただし、第二尚氏王統となっても、1453年の火災から復興した首里城は引き続き首都として栄えています。首里城は沖縄を統一してから大改修されたこともあり、戦闘用の軍事向けの城と言うよりは、政治や宗教の役割を重視した設計になっています。

 

1477年に即位した第二尚氏王統・第3代王の尚真(しょうしん)のとき、琉球に中央集権制を確立すると同時に、1519年には園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)が造られました。園比屋武御嶽は琉球王国の聖地のひとつで、国王が旅に出る際必ず拝礼したとされる礼拝所でした。

 

二重朝貢外交

琉球王国が成立した15世紀半ば以降、奄美大島群島の交易利権等を巡って、琉球と日本との衝突が起きていました。徳川幕府の成立後、島津氏は、琉球王国から奄美を割譲させるとともに琉球貿易の独占的利権を得ようとして画策して、1609年、琉球と薩摩藩との間で慶長の役が起きました。この時、薩摩藩の軍勢3000に対して、琉球軍は4000の首里親軍(しおりおやいくさ)などが首里城に籠城しましたが敗れ、琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王、尚寧王(しょうねいおう)は降伏して首里城を開城しました。

 

この結果、奄美諸島は薩摩藩の直轄地となり、琉球王国は事実上、薩摩藩の従属国となりました。ただし、琉球は、薩摩藩へ年貢を納める義務を負いつつも、明国同様、清国にも朝貢(臣下の礼をとること)を続け体制を続けるなど一定の独自性を保っています(これを二重朝貢外交などと呼ばれる)。この慶長の役の際、薩摩軍の侵攻を許して城(グスク)は焼失してしまいました。その後、首里城は江戸時代において、1715年に3度目の火災で焼失しましたが再建され、太平洋戦争までその威容を保ちました。幕末の1853年には、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で那覇港を訪れ、首里城にて開港を求めるなど、日本の近代史の舞台にもなりました。

 

琉球処分

明治政府は、1871年に廃藩置県を行った翌1872年に琉球王国を琉球藩とし、1879年に琉球藩は沖縄県となりました。明治政府により琉球が強制併合された一連の過程は琉球処分と呼ばれ、約500年にわたって君臨した琉球王国はここに完全に滅亡しました。同年、最後の国王となった第二尚氏王統第19代の尚奉王(しょう・たいおう)は、首里城を明け渡し、明治政府の命令に従い、東京移住し、身分も、国王から華族へと格下げられました。

 

太平洋戦争

太平洋戦争中の沖縄戦では、日本陸軍が、首里城の地下に地下壕を掘って、第32軍総司令部としていたことから、アメリカ海軍の戦艦ミシシッピなどから艦砲射撃を受け、首里城は灰燼に帰してしまいました。この時、首里城の地下では5000人もの重症兵が自決したとも言います。この沖縄の激戦で、琉球王国の宝物・文書も、その多くが失われました。わずかに残された宝物もアメリカ軍によって摂取され、一部は未だに返還されていません。

 

戦後復旧と今

戦後、首里城は、琉球大学のキャンパスとなりましたが、琉球大学の移転に伴い、1958(昭和33)年から復旧事業が開始されました。1972年5月の本土復帰の際、国指定史跡とされ、1992年、沖縄復帰20周年を記念し、約73億円かけて復元されました。こうして復活した首里城は、琉球王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂として、沖縄のシンボルとなったのでした。2000年12月には、首里城跡は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、世界遺産に登録されました。そんな首里城が、令和の時代に入った2019年10月31日、首里城祭りの開催期間中に全焼してしまったのです。

 

<参考>

首里城とは 尚思紹王と尚巴志王

「沖縄の世界遺産」守礼門や正殿 グスクとは?

「首里城は琉球王国の国王の居城だった(ニュース グッディ)」

沖縄県教育委員会HP

那覇市観光協会HP

沖縄観光HP

沖縄県観光チャネル

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