2019年10月29日

歴史:邪馬台国の真実を探る②

邪馬台国の真実を探る①に続くお話しです。

 

  • 九州説(北九州説)

九州説では、倭人伝にいう、2世紀後半から3世紀半ばにかけての邪馬台国は、北九州の伊都国に本拠を置いた時代の邪馬台国であると主張されます。伊都国の平原遺跡などから卑弥呼のものと思われる墓や副葬品が多数出土しており、卑弥呼は伊都国の出身という見方すら出されています。

 

また、倭人伝にある「環濠、宮室、楼閣、城柵」を備えた遺跡が、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や、福岡県の平塚川添遺跡などで見つかっているというのも九州説の論拠となっています。

 

さらに、古来、鉄は権力の象徴とよく言われますが、弥生時代の鉄器の出土数のトップは熊本と福岡であるのに対して、奈良からはほとんど出土されていないという指摘もあります。

 

加えて、倭人伝には、邪馬台国に対抗していた「狗奴国(くぬこく)」についての記載があります。狗奴国の所在地も熊本が有力視され、吉野ヶ里遺跡に匹敵する県内最大規模の方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)が、狗奴国(くぬこく)の跡地と見られています。

 

一方、邪馬台国九州説から、さらに発展的に、邪馬台国東遷説が浮上します。

 

邪馬台国東遷論

これは、九州にあった邪馬台国が、王権とともにヤマト(大和)へ東遷し、大和朝廷になったとする考え方です。そうなると、1)神武天皇の東征は、邪馬台国が大和地方に進出したことであったという見方、2)邪馬台国時代の後に、神武天皇の筑紫(九州)から大和への遷都が行われたという考えまでてきます。逆に、3)邪馬台国は、大和朝廷が九州に攻め込む過程で、大和朝廷に征服されていたという説もあります。

 

 

  • 畿内説

九州説と畿内説との間で江戸時代から続く邪馬台国論争は、今も決着していませんが、2009(平成21)年秋に発掘された纒向(まきむく)遺跡の出現で、畿内説が優位になっています。

 

纒向遺跡(奈良県桜井市)は、今も神体山として信仰をあつめる三輪山のふもとに位置しています。そこで、宮殿を思わせる東西に一列に並んだ3世紀前半の国内最大級の巨大建物群の跡など4棟が見つかりました。また、3000個以上の桃の種、小動物、魚の骨が多数発見されただけでなく、土器も多く出土しており北陸、近江、河内、阿波、吉備などからも土器の搬入が確認されています。

 

卑弥呼が中国に使者を送ったと中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された239年とほぼ重なり、纒向遺跡は邪馬台国の中心であり、卑弥呼は発掘された大型建物で政(まつりごと)を行い、倭国の首都だったのではないかとの期待が高まりました。また、纏向遺跡は、紀元180年頃にできたものとされていますが、卑弥呼が女王になった時期と一致しています。

 

さらに、纒向遺跡にある箸墓(はしはか)古墳(墳丘長280メートル)は、日本最古の古墳とされており、これが、卑弥呼の墓であるとの見方が根強くあります。「日本書紀」によると、箸墓は、第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在で、何か予言の能力のようなものを持っていたらしく、三輪山の蛇神と結婚して、最後には、箸で女陰(ほと)を突いて死んでしまいます(この逸話から箸墓という名がついたとも言われている)。この百襲姫(モモソヒメ)と卑弥呼のシャーマン的な姿が重なり、この古墳が、倭国の女王、「卑弥呼」の墓だと考えられているのです。

 

加えて、邪馬台国(卑弥呼の時代)に続くとされる大和朝廷(ヤマト政権)の時代は、地質学の観点から言えば、古墳時代(250~500年頃)にあたります(ヤマト王朝は、3世紀末から4世紀前半にかけて、奈良の地に出現したとされている。)

 

実際、3世紀中頃(247年か248年)、女王卑弥呼が亡くなったとされる頃、近畿地方の大和(奈良県)を中心に、瀬戸内海沿岸にかけて、古墳(有力者の墓)が造られるようになりました。最近の研究では、古墳時代の開始を、以前の3世紀末(大体280年頃)から3世紀中ごろとするのが大勢となっており、そうなると、卑弥呼の死亡時期とピタリと重なります。加えて、纏向遺跡があった邪馬台国とみられる地域は、紀元340年ごろ、急速に衰退したとされ、この時期も、初期の大和朝廷(ヤマト政権)が誕生したとされる頃と重なります。

 

このように、纏向遺跡の存在が、邪馬台国、畿内説を強力に後押ししています。これが、7月24日の「邪馬台国・畿内説は常識?」を投稿した背景です。

 

 

  • 畿内説批判

しかし、畿内説にしても批判がないわけではありません。特に、文献上から問題点が指摘されています。もともと「魏志倭人伝」に記された道のりと距離をそのまま読めば、邪馬台国は太平洋の海の中になってしまうことはすでに述べた通りですが、畿内説では「魏志倭人伝」に記された方角を「都合よく」解釈していると批判されています。

 

例えば、「魏志倭人伝」に「その(女王国の)南に狗奴(くな)国がある」と書かれています。畿内説の観点から狗奴国を考えようとすると、奈良県の南とは、紀伊半島の南部の熊野地方に当たりますが、そこに当時、女王国に敵対する勢力はなかったとされています。そこで、畿内説では、「魏志倭人伝」の「南」は「東」の誤りであるとして、狗奴国が、愛知県の濃尾平野にあった解釈しているのです。

 

また、邪馬台国畿内説は、日本の文献との矛盾も指摘されています。もっとも、日本の文献といっても神話に基づくいるのですが、邪馬台国の時代のに神武天皇の東遷(宮崎の高千穂から奈良の橿原へ)が行われたとすると、畿内に都があるのに、神武天皇が南九州から、東遷することは考えられません。

 

逆に、神武東遷が、卑呼の時代の前に行われたとすると、記紀(「古事記」「日本書紀」)に、神武天皇の後に、「女王」が即位したという記録はありません。あるとしたら、神功皇后が考えられますが、邪馬台国のあった時代と合致しません。

 

さらに、「纒向遺跡=邪馬台国跡」説も絶対ではありません。「纒向(まきむく)遺跡」の「まきむく」という地名は、「魏志倭人伝」には一度もでてきておらず、記紀には、第11代垂仁天皇と第12代景行天皇の時代の下りで、「纒向の〇〇の宮」というのがでています。そもそも、第10代の崇神天皇が、大和朝廷(ヤマト政権)の創始者とも言われています。纒向は、崇神、垂仁、景行の三代にわたって都が置かれたヤマト政権の都であった可能性もあるわけです。

 

このように、邪馬台国が畿内にあったと、江戸時代から続く不毛に近い邪馬台国論争に、決着がついたとは言えないのですね。それどころか、邪馬台国の所在は、九州説・畿内説に限らず、以下のように、北は東北地方から南は沖縄まで、日本各地でその存在が主張されています。

 

邪馬台国はどこに(主要な九州説、畿内説以外)?

豊前宇佐説

吉野ケ里説

阿蘇説

奄美大島説

沖縄説

四国説

出雲説

 

どの説もそれぞれ興味深く、説得力もあります。個々の内容については、別の機会に紹介することにします。

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