2019年10月21日

歴史:邪馬台国の真実を探る①

先日10月9日の投稿で、「弥生時代の遺跡から胸に乳房が表現された女性とみられる人物の刻まれた土器片(紀元前1世紀ごろ)がみつかった」という報道を紹介しました。その女性が霊的な力を持つシャーマン(宗教的職能者)とする見方があります。そうすると、その時代は、邪馬台国の卑弥呼の時代から約300年前にさかのぼることから、当時の日本には女性が農耕祭祀で活躍する場がずっとあったことが示唆されるという点で注目されています。そこで、今回は、卑弥呼と邪馬台国についてまとめました。

 

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古代、中国を支配していた前漢の時代のことが記された「漢書」地理志によれば、  紀元前1世紀末頃(弥生時代の中期に相当)、中国は日本人を「倭人」と呼んでいましたが、当時の日本は百余国に分かれていたとされています。その後、中国では、前漢から後漢に代わり、その時代の歴史書「後漢書」東夷伝には、西暦57年に、博多湾岸にあった倭の奴国(なこく)が、後漢の都、洛陽に使者を送り、光武帝から金印「漢倭奴国王」を受けたとあります。

 

後漢に続く、魏の時代の歴史書、「魏志」倭人伝(「魏書」の東夷伝倭人の条)には、弥生時代の後期に当たる180年前後の頃、「倭国大乱」という70~80年も続く争乱の時代となり、「日本は大きく乱れた」とあります。この「倭国の大乱」は、奴国(なこく)と邪馬台国の争乱で、長く収まりませんでしたが、邪馬台国に女王卑弥呼が出現し、混乱を鎮め、30の小国を従えるようになったとあります。倭人伝によれば、「もともと男子を王にしていたが、戦乱が起きたため1人の女性を王に立てた。その名は卑弥呼という」と書かれています。

 

なお、この時代、日本の神話に照らし合わせると、応神天皇の父親である仲哀天皇が、現在の福岡県あたりに造営されていた皇宮を拠点に、熊襲と戦っていたとあります。

 

卑弥呼は、「鬼道によって国を治めていた」と伝えられ、祖霊信仰に属す祭祀に基づく政治がなされていたとみられています(鬼道とは巫女として神の意志をきくこと)。また、同じ魏志倭人伝には、「邪馬台国、女王の都するところなり」とも書かれています。ここから、卑弥呼は邪馬台国の女王と言うよりは、邪馬台国を含む倭国全体の女王で、邪馬台国にいたとの見方もあります。つまり、邪馬台国は倭国の首都だった可能性もあるわけです。

 

加えて、卑弥呼は、239年に魏に使いを出し、魏の皇帝・劉夏(りゅうか)から「親魏倭王」の称号と金印を授けられたとされています。その根拠は、「汝をもって親魏倭王となし、金印紫綬(しじゅ)を与える」との記述が魏志倭人伝に見られるからです。当時の中国は、魏・呉・蜀がしのぎを削った三国志の時代でしたので、卑弥呼が外交相手に選んだのは、曹操(そうそう)が治める魏だったのですね。

 

そんなカリスマ的指導者、卑弥呼も、249年に近い頃に亡くなり、邪馬台国は、跡を継いだ宗女(嫡出の娘)、台与(とよ)=壱与(いよ)によって治められました。一説には、卑弥呼の死後、一時政治が乱れたものの、壱与(台与)という女性が王になり、争いを鎮めたとも言われています。また、「晋書」という中国の晋の国の歴史書には、266年に「倭の女王壱与が西晋に使者を送る」と記されています。

 

その後、邪馬台国がどうなったかは定かではありません。つまり、日本の歴史は、この後、大和朝廷(ヤマト政権)と呼ばれた統一国家ができて、日本を統治していくわけですが、その前の邪馬台国がどこにあって、大和政権にどう継承されていったかが明らかになっていないのです。こうした背景から、2~3世紀の日本に「邪馬台国」があったとされているのですが、日本の史料には「邪馬台国」は存在せず、中国の歴史書(「倭人伝」)に2000字の記載があるのみで、しかも方角と距離しか示されていません。

 

そこで、邪馬台国がどこにあったかについて、1910(明治)43年に、二人の学者によって、邪馬台国の所在地はそれぞれ九州、畿内と唱えられて以来、主に、北九州説と畿内説に分かれて、幾多の論争がおきましたが、いまだ結論には至、っていません。もはや今ある文献資料だけでは決着はつかないとの見方が支配的です。なぜこういうことになってしまったかというと、「魏志」倭人伝をそのまま素直に読むと、邪馬台国の位置は、太平洋のまん中のミクロネシア諸島のどこかか、小笠原の父島・母島あたりになってしまうからだそうです。

 

倭人伝では以下のようになっています。

「倭人は帯方の東南大海の中にあり」、「(帯方)郡より女王国に至る(一万二千里…」、「邪馬台国、女王の都するところなり」

(現在のソウル近辺に相当する帯方郡から東南へ「5400キロメートルあまりの先に、女王卑弥呼の都する邪馬台国があり…」

 

つまり、古代の日本に、卑弥呼を女王とする邪馬台国があり、その邪馬台国は、帯方郡から東南方向に位置し、帯方郡から邪馬台国までの総距離が12,000里(5400㎞)あったとだけしか書かれていなかったのです。ですから、研究者たちは、方角を、例えば「南」となっているのを「東」と読替えてみたり、行程の日数や距離を縮めてみたりしながら、自説に合うように解釈してきました。著名作家の松本清張氏も、「倭人伝に出てくる距離や日数は、陰陽五行説から造作された虚妄の数字にすぎず、拘束されること自体に意味がない」と語っていたそうです。

 

なお、「魏志」倭人伝に記されている地名に従って、例えば、「帯方郡から南へ○○里、末蘆国から△へ〇〇里」というように、邪馬台国の位置を推測していくと、次のようになっていきます。

 

帯方郡⇒狗邪韓国⇒対馬⇒一大国⇒末蘆国⇒伊都国

⇒奴国⇒不弥国⇒投馬国⇒邪馬台国

 

「魏志」に書かれている「(魏からみて)奴国と投馬国は、邪馬台国より北、狗奴国は南にあり」というような記述などをもとに推測すると、各地名の現在地はほぼ固まっています。

 

帯方郡(たいほうぐん):現在の韓国ソウル

狗邪韓国(くやかんこく):現在の韓国釜山

対馬(つしま):現在の長崎県対馬市

一大国(一支国)(いきこく):現在の長崎県壱岐市

末盧国(まつらこく):現在の佐賀県唐津市から長崎県松浦市一帯

伊都国(いとこく):現在の福岡県糸島市

奴国(なこく):現在の福岡県春日市

不弥国(ふみこく):?

投馬国(とうまこく):?

邪馬台国(やまたいこく):?

 

そうすると、「帯方郡」から「奴国」までは、畿内説も九州説も一致していますが、「不弥国」から「投馬国」を経て、「邪馬台国」へ至る行程に違いがでて、論争が起こっているのです。では、それぞれの見解を少し検証してみましょう。

(続く)

邪馬台国の真実を探る②

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