2019年10月16日

祭り:長崎くんちと諏訪神社の由来が興味深い!

10月8日、ニュース(「令和初の長崎くんち」)で取り上げた「長崎くんち」は、長崎の諏訪神社の秋の祭礼行事ですが、その由来が興味深かったのでまとめて紹介します。

 

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長崎くんちの奉納は、寛永11年(1634年)、丸山町・寄合町の二人の遊女が諏訪神社神前に謡曲「小舞」を奉納したことが始まりとされています。ただし、長崎くんちというお祭りは、市民たちによって自発的に発生した祭りではなく、奉行所から参加を強制された祭礼でした。そして、諏訪神社の秋の祭礼である「長崎くんち」が行われる際には、「従わない者は極刑、領地からの追放」と言う厳しい罰が下すというお触れが出されたそうです。どうしてこういう事態になったかというと、江戸初期のキリスト教徒との「宗教戦争」が関係していました。

 

そもそも、長崎くんちの主催者である「諏訪神社」も、長崎奉行所の役人が再興したものでした。もともと、諏訪神社は、弘治年間(1555年~1557年)より、長崎市内に祀られていた諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社を起源としています。1555(弘治元)年、領主の大村純忠の重臣、長崎甚左衛門純景の弟、長崎織部亮為英が、京都の諏訪神社の分霊(御神体)を、現在の風頭山(かざかしらやま)の麓に迎えて祠ったのが始まりとされています。

 

しかし、長崎が1571年、海外との貿易港として開港すると、ポルトガルやスペインなどから多くの宣教師が訪れ、布教活動を行いました。その結果、キリスト教徒が増えていくなか、大村純忠は洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となっただけでなく、領地を寄進し、長崎はイエズス会の「教会領」となったのです。純忠は、当初、貿易が目的だったようですが、次第に信仰にものめり込み、家臣、領民にもキリスト教を強制しました。信者の中には過激な行動に出るものもあり、長崎に古くから存在した社寺はことごとく放火・破壊されました(この中に諏訪神社の三社も含まれていた)。

 

こうした事態に、豊臣秀吉は、純忠の死後、1587(天正15)年に、バテレン追放令(宣教師追放)を発して、宣教師による布教活動や人身売買などを禁じ、長崎の教会領も没収しました。これに対して、長崎のキリスト教徒(切支丹)たちの信仰心を反抗心に変え、社寺への圧迫は継続され、信者の数は減るどころかむしろ増えていったとされています。さらに、イエズス会側も、秀吉のバテレン追放令に対して、スペイン領マニラに援軍を求めて対抗しようとする動きまででたそうです。そうなっていたら、日本と、当時の世界大国スペインとの戦争という事態まであり得たわけです。

 

江戸幕府も、1612(慶長17)年とその翌年、「慶長の禁教令」を発し、宣教師の追放にとどまらず、徹底的なキリスト教の信仰自体の禁止と教会の破壊を命じるなど、キリシタンへの弾圧を強めていったのでした。これに呼応するような形で、長崎においては、奉行の長谷川権六と代官の末次平蔵が、キリシタンによって破壊された諏訪神社の復興を行います。松浦一族で佐賀(唐津)の修験者(山伏)・青木賢清(かたきよ)が招かれ、かつて長崎にまつられていた諏訪・森崎・住吉の三社の再興に着手し、1625(寛永2)年、現在の諏訪神社が、創建され、長崎の氏神となりました。

 

なぜ、山伏(修験道者)が呼ばれたか?識者の中には、キリシタンから見れば、山伏は、彼らが悪魔の化身とみなす「天狗」であり、新たな諏訪神社の創建は、キリシタンに対する勝利の象徴を意味するとまで解釈する向きもあります。それだけ、キリシタンを強く意識していたということですね。実際、青木賢清は、諏訪神社の初代宮司を務め、長崎のキリシタンに目を光らせるのです。それから、9年後の1634年、ついに、「長崎くんち」が復活しました。ですから、長崎奉行所としては、祭りは必ず成功させなければならなかったので、領民の強制参加となったのでしょう。ある意味は、それは形を変えた踏み絵であったのかもしれません。長崎くんちは、その後、市民に浸透し、昭和20年夏の長崎原爆投下の年ですら、市民たちの「心意気」によりその秋に開催され、日本の三大祭りの一つに数えられたこともあるほど、全国的に知られています。

 

<参考>

日本三大祭「長崎くんち」開幕!くんちに秘められた長崎ならではの歴史とは

(Aera dot.)

鎮西大社諏訪神社HP

長崎くんち(長崎伝統芸能振興会HP)

Wikipedia(長崎くんち)

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