2019年08月12日

祭り:東北三大祭りとは?

今回も、前回の京都祇園祭りについての投稿に続き、「祭りシリーズ」で、青森ねぶた祭りを中心に、8月の前半に行われた東北の祭りを追ってみました。

 

青森ねぶた祭

「ねぶた祭」は、主に青森県の各地で行われ、中でも青森ねぶた祭は毎年200万人以上を動員し、仙台の七夕祭り、秋田竿燈(かんとう)祭りと並んで東北の三大祭りに名を連ねる大人気のお祭りです。

 

  • ねぶたの語源と起源

「ねぶた」そのものの意味は、祭りで使われる山車灯篭(灯篭を載せた山車)のことですが、「ねぶた」の語源(名称)には諸説あります。「眠(ねぶ)たし」などの語句に由来すると言われ、農作業の忙しい時期に疲れからくる眠気に負けないように「眠気を流す」から転じて「ねむりながし」と訛っていき、「ねぶた」と言われるようになったとされています。

 

「ねぶた」の起源も諸説あり定かではありませんが、奈良時代に中国から渡来した七夕祭りまで遡ると言われています。7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流す七夕祭りに、古来から津軽地方にあった習俗としての精霊送りや人形送りなどの行事が融合して、現在のねぶた祭りになったとの説が有力です。七夕祭りでは小さな灯籠を静かに川に流すのに対し、ねぶた祭りでは、巨大な灯籠(ねぶた)を山車に乗せて、街を練り歩き、「ハネト」と呼ばれる踊り手がねぶたの周りを取り囲み、お囃子の音に合わせて踊ります。

 

ねぶた祭りは、七夕行事の一つとして行われてきた夏祭りなので、旧暦7月7日の年中行事として知られていましたが、太陽暦の導入で、8月1日から一週間ほどかけて行われるようになり、現在では七夕との関連性は意識されなくなっています。

 

◆らっせーらー!の意味

さて、祭りの際には、「らっせーらー! らっせーらー!」という独特の掛け声があります。その意味についても諸説がありますが、広く伝わっているのは、「出せ出せ」が語源となっているそうです。何を「出せ」というのでしょうか?それは、ねぶたを灯すろうそくを集めるために、子供達が各家を回っては、「ろうそく出せ、出せ」と、囃し立てたのだそうです。これらの「出せ」が「らせ」になり、「あー」という掛け声がついて「らっせ、あー」、「らっせーらー」と変化したと言われています。

 

◆ねぶた祭りの変遷

1593年

京都にて、豊臣秀吉の御前で、津軽為信が、「津軽の大灯籠」を紹介し、以後年中行事となったとされています。

 

1716~1736年(享保)

初めて記録に残された青森ねぶた祭りは、享保年間のことで、弘前のねぷた祭りを真似て、油川(青森)で行われたものでした。ねぶたも、担いで移動させる「担ぎねぶた」だったそうです。

 

1772~1781年(安永)

ねぶた祭りに踊りが付いていたという記録があるのは、安永年間になります。青森ねぶた祭の特色の一つとして、「はねと」の大乱舞があります。かつて、「おどりこ」と呼ばれていた踊り子は、いつの頃からか「はねと」(踊り跳ねるの意)と呼ぶようになりました。

 

1804~1818(文化)

この時期、人形(ひとがた)のねぶたや、大型の担ぎねぶたが作られるようになります(ねぶたの大型化)。現在のような歌舞伎などを題材にした灯籠(ねぶた)も登場します。

 

明治時代

明治時代に入って青森ねぶたは一層大型化し、1869(明治2)年には、担ぎ手が100人という巨大なねぶたも出るなど、祭りは華やかさを増しました。しかし、1873(明治6)年になると、ねぶた祭りは突然禁止されてしまいます。理由は、明治新政府から任命された初代青森県令(今の知事)菱田重喜が、ねぶた祭りは昔ながらの野蛮な風習だと主張したからでした。この禁止令は、1881(明治14)年まで続き、翌年解禁されました。

 

昭和から現在

戦時中、ねぶた祭りは、自粛を余儀なくされ、1937(昭和12)年から1945(昭和20)年までの9年間中止されていましたが、1946(昭和21)年、戦後の復興もままならない中、ねぶた祭りが復活します。その翌年には「戦災復興祭り」、1948(昭和23)年以降は「青森港祭り」という名称で、開催され、1958(昭和33)年には、現在の「青森ねぶた祭り」という名称になりました。1980(昭和55)年には、ねぶた祭りは国の重要無形文化財に指定されました。

 

その間、青森ねぶたが、観光化という大きな流れに乗り、どんどん巨大化し、祭り自体も年々華やかになりました。現在では、期間中の人出が300万人を超える国内有数のお祭へと成長しています。

 

◆ 2019年のねぶた大賞

例年、青森にまつわる伝説が題材にされるケースが多かったようですが、令和初となる今年のねぶた祭りでは天皇にまつわるねぶたが多く出品され、天智天皇時代の伝説を取り上げた「紀朝雄(きのともお)の一首 千方(ちかた)を誅(ちゅう)す」(青森菱友(りょうゆう)会)が2019年のねぶた大賞に選ばれました。写真

紀朝雄の一首 千方を誅す(作: 竹浪比呂央)

草も木も 我が大君(おおきみ)の國なれば いづくか鬼の 棲(すみか)なるべき

 

この天智天皇にまつわる伝説とはどういうお話しなのでしょうか?「青森ねぶた祭オフィシャルサイト」に、伝説の中身が詳細に紹介されていましたので抜粋します。

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天智天皇の御代(みよ)の伝説である。藤原千方(ふじわらのちかた)という豪族がいた。彼は、金(きん)鬼(き)・風(ふう)鬼(き)・水(すい)鬼(き)・隠形(おんぎょう)鬼(き)という四(よん)鬼(き)を意のままに操ることができた。堅固(けんご)な体で矢をも通さない金鬼。大風を吹かせ敵城を吹き破る風鬼。洪水を起こし陸地で敵を溺れさせる水鬼。その姿を隠し突然敵に襲いかかる隠形鬼。四鬼の術はいずれも人の力では防ぎようがなく、千方の領する伊勢・伊賀両国の王化は難航を極めた。

 

こうした事態を受けて、天皇より千方討伐を命じられたのが、紀朝雄という人物である。朝雄はかの地に赴くと、冒頭の和歌を一首詠み、鬼たちに向けて送った。「草も木もすべてこの国のものは天皇が治めているのだ。鬼の居場所などどこにあろうか。」この歌を受けた四鬼は術を奪われ一目散に逃げ去った。そして勢力を失った千方を、朝雄は見事討ち果たしたのである。

新天皇陛下の御即位を奉祝し、新時代「令和」のこの国の安寧と繁栄を祈り願うものである。

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以上、青森ねぶた祭りについて解説しましたが、「ねぶた」と言えば、青森ねぶた祭ですが、青森県内だけで、弘前や五所川原など40以上の地域で、同様のお祭りが開催されています。

 

つがる市ネブタまつり

県内のねぷた・ねぶた祭りの先陣を切る。「喧嘩太鼓」の競演が特有。

 

黒石ねぷたまつり

53の火扇が情緒あふれる街並みを練り歩く。

 

弘前ねぷたまつり

青森ねぶたと双璧とされ、国重要無形民俗文化財にも指定。

ねぶた祭りそのものは弘前から始まったとされている。

弘前では「ねぶた」と呼ばずに「ねぷた」という(黒石、平川も)。

 

平川ねぷたまつり

世界一の扇ねぷたを誇る。比較的歴史が新しい。

 

五所川原立佞武多(ごしょがわら たちねぶた)

高さ20メートルを超える大型立ちねぷたが圧巻。「佞武多」はねぶたを漢字に当てた表記。

 

こうして見ると、ねぶた・ねぷた祭りは、津軽の祭りで、それぞれの地域の伝統と歴史に育まれていると言えます。

 

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秋田・竿燈まつり

 

秋田の竿燈祭りは、約280本の長い竹竿に、約10,000個の提灯を吊り下げた「竿燈(かんとう)」を、「差し手」と呼ばれる腕自慢たちが力強く持ち上げて練り歩く、約270年もの歴史を持つお祭りです。竿燈全体を稲穂に、吊るされた提灯を米俵に見立て、五穀豊穣を祈願するのですが、何よりも職人芸で観衆を熱狂させるのが特徴です。「ドッコイショー、ドッコイショー」の掛け声が響くなか、差し手たちは大きな竿燈を手のひら、額、肩、腰へと自在に操ります。毎年8月3~6日に開催され、130万人が訪れる「秋田竿燈まつり」は1980(昭和55)年に国重要無形民俗文化財に指定され、「青森ねぶた祭」「仙台七夕まつり」と並んで東北三大祭りに数えられています。写真等

 

竿燈まつりの起源と経緯

竿燈まつりの由来は、真夏の睡魔や邪気、悪疫などを払う「ねぶり流し」「眠り流し」と呼ばれる七夕行事を起源とする説が有力です。その昔、夏の過酷な農作業は体力を消耗し、眠くなると病魔が忍び入ると考えられていました。竿燈まつりは、その眠気を払うために始まったお盆行事として、江戸中期の宝暦年間(1751~1763年)にはその原型となるものが出来ていたと言われています。藩政以前から秋田市周辺に伝えられているねぶり流しは、元々、願い事を書いた絵馬や短冊を笹竹や合歓木(むねのき)になどに吊るし、それを手に子どもたちが練り歩き、最後に川に流すという行事でした。

 

それが、時代とともにその形を変えていき、宝暦年間には、普及した蝋燭や、お盆に門前に掲げた高灯籠などが使われるようになり、米俵や稲穂をかたどった現在の竿燈の原型ができたといわれています。現在残っているもっとも古い文献(寛政元年1789)では、「ねぶりながし」がすでに秋田独自の風俗として伝えられています。その時、長い竿を十文字に構え、それに灯火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩き、その灯火は二丁、三丁にも及ぶ、といった記載も見られるそうです。昭和の時代、1931(昭和6)年から町内単位で参加する竿燈まつりが始まり、現在では38もの町内が参加する大規模な祭典へと成長しています。

 

昼竿燈と夜本番

竿燈まつりは「昼竿燈」と「夜本番」と呼ばれる2つのイベントから成っています。昼竿燈では、竿燈名人を決める個人戦、町内ごとの団体戦に分かれて技を競い合います。差し手たちは竿燈を手のひら、額、肩、腰に移しかえて5つの技を順番に披露し、観客をわかせます。差し手たちの技術向上を目的として1931(昭和6)年から始まったイベントです。最終日6日の妙技会で優勝者が決まるため、その日の夜本番は凱旋演技ということになります。夜は、「光の稲穂」が観客を魅了します。

 

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仙台七夕祭り

 

仙台七夕まつりは、古くは藩祖、伊達政宗公の時代から続く伝統行事として受け継がれ、本来、七夕まつりは旧暦7月7日の行事として知られていましたが、その季節感に合わせるため、旧暦に1ヵ月を足した暦である中暦を用い、現在の8月6日から8日に開催されています。

 

七夕祭りは全国各地で催されますが、仙台ほど大規模なものはないと言われるぐらい仙台七夕祭りは、全国から毎年200万人を超える観光客が訪れる、まさに全国随一の七夕まつりです。仙台の人々から「たなばたさん」と呼ばれ親しまれており、特に駅周辺やアーケード街において、豪華絢爛な笹飾りで埋め尽くされ、その数は市内で大小合わせて3000本以上にもおよび、「色の天の川」と評されています。

 

仙台七夕祭りの歴史

古代中国で始まった七夕は、奈良時代頃、日本にも伝わり宮中行事として行われるようになりました。その後、五節句としての年中行事のひとつとして、武家、民間に広がり、笹竹に短冊、色紙、吹き流しという七夕飾りの基本形として定着し、全国各地で古くから行われてきました。

 

仙台でも、江戸時代初期に仙台藩祖の伊達政宗が、「子女(しじょ)の技芸」が上達するようにと七夕を奨励したとされ、次第に民間にも年中行事化したと見られています。ただし、当初、仙台七夕祭りは、家ごとに行われる、仙台市民の素朴でつつましいお祭りでした。また、旧暦7月7日はお盆の準備に入る前盆の行事日とされ、また、この時期は稲の開花期であったことから、豊作を祈った日でもあったそうです。このように、仙台七夕は古来より農業やお盆と深く関わりながら、独自の七夕を形成してきたと指摘されています。

 

しかし、1873(明治6)年に、五節句が廃止されたり、新暦が採用されたことを境に季節感のズレが生じたりしたことなどから、七夕祭りは年々行われなくなり、第1次世界大戦後の不景気をむかえてからは、廃れる一方となりました。なお、新暦後も仙台七夕は旧暦の7月6日・7日に行われ、新暦のひと月遅れの8月6日・7日に行われたのは1910(明治43)年以降のことだそうです。

 

それでも、1927(昭和2)年、仙台商人の有志達が立ち上がり、町内に華やかな七夕飾りを施し、仙台に七夕祭りを復活させました。第2次世界大戦の影響で、七夕祭りは再び消えてしまいましたが、終戦後まもなく復活します。1947(昭和22)年、昭和天皇が仙台に巡幸された際、町の沿道に大々的な七夕飾りを施してお迎えしました。この御巡幸を機に、その後の仙台の七夕祭りは、名実ともに日本一のスケールを誇るようになったのです。

 

 

<参考>

青森ねぶた祭りオフィシャルサイト

ねぶたの由来…青森ねぶた

青森ねぶた祭2019!今年の主なねぶたを紹介!

秋田市観光・イベント情報総合サイト

いい日本再発見

夜空を彩る黄金の稲穂!東北三大祭り・秋田竿燈まつりの楽しみ方

旅ぐるたび

仙台七夕まつりの歴史

2019年、仙台七夕祭り

仙台七夕まつりの歴史TANABATA-HISTORYなど

 

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