2019年07月31日

歴史:源氏の発祥について調べてみた…

先日、仕事で秋田に行きました。時間が少し余ったので、駅からすぐのところにあった「佐竹資料館」に足を延ばしました。資料館に記載されていた戦国大名、佐竹氏についての説明文です。

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秋田藩主佐竹氏は、源氏の流れをくむ名門であり、全国の大名の中でも古い歴史を持つ殿様です。関ケ原の合戦のあと、秋田に転封された佐竹義宣(よしのぶ)は、久保田の地、神明山(現在の千秋公園)に新たに城を築き、城下町を建設しました。

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そこで今回は、佐竹氏と源氏についてまとめてみたいと思います。まずは「源氏の発祥」からひも解いてみたいと思います。

 

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清和源氏

 

源氏の起こりは、814年に嵯峨天皇が、皇子を臣籍降下(皇族がその身分を離れて臣下の籍に降りること)させて、源の姓を賜与したことに始まります。その目的は、皇位につく見込みのない親王(天皇の子で男子)を皇族の身分から外して、財政上の負担を軽くすることでした。

 

その後も、臣籍降下は一般的なものとなりました。賜姓皇族(臣籍降下して姓を賜った皇族)の中で有名なのは清和源氏と桓武平氏です。その時の天皇の名前をつける形で、源氏に関しては、嵯峨源氏、清和源氏、村上源氏などと呼ばれ、全部で21流の源氏が存在しました。

 

その源氏の中でも最も栄えたのが清和源氏で、佐竹氏も遡ると清和源氏にたどりつきます。清和天皇は第56代の天皇(在858~876年)で、藤原氏の後ろだてのもとに9歳で即位しましたが、実際の政治は、摂政・太政大臣の藤原良房が行い、天皇は単なる傀儡でした。その清和天皇の第6皇子であった貞純親王(さだずみしんのう)は、876年に臣籍降下して源氏の姓を賜りました。一説には、貞純親王は第57代の陽成天皇の子という説もありますが、貞純親王の子の経基が、清和源氏の祖と呼ばれています。

 

清和天皇(⇒陽成天皇)⇒貞純親王⇒源経基⇒…

 

源経基(つねもと)(?~961)

源経基は940年に起こった平将門の乱と翌年の藤原純友の乱(両者で承平・天慶の乱)を平定する活躍を見せました。清和源氏の中で、この経基の子孫が最も繁栄しています。

 

源満仲(みつなか)(925~997)

経基が清和源氏の祖であるなら、子の満仲は、清和源氏発展の基礎を作ったと言えます。満仲は、「安和の変」など藤原氏の陰謀事件に関わり、勢力を拡大させた藤原摂関家に取り入ることで自らの地位を向上させていきました。安和の変(969)は、藤原氏の意を受けた満仲が、藤原氏の政敵の左大臣源高明らを密告によって排除した事件です。源高明らが共謀して皇太子の守平親王を廃して為平親王(源高明の娘の夫)を擁立することを企てているとでっちあげ、これによって、源高明は大宰府に左遷されてしまいました。満仲は各地の守(かみ)(国司の長官)を歴任しながら、藤原氏の軍事参謀の地位を確立していきました。

 

源頼信(よりのぶ)(980~1048)

満仲の子(第3子)、頼信は、房総地方で起こった平忠常の乱を圧倒的な武力の差で鎮圧することで功を立てました。下総権介(しもうさのごんのすけ)平忠常は、1028年、安房の守を襲撃し、上総(かずさ)国府を占拠しました。朝廷は、平直方(なおかた)など平氏の武士を派遣して鎮圧に乗り出しますが失敗したので、改めて源頼信(よりのぶ)を追討使に登用し、31年に平定されました。

 

これによって、関東では平氏が衰退し、(清和)源氏が東国に進出するをきっかけを作りました。実際、源頼信の子、頼義と、頼義の二人の子、義家と義光のとき、源氏は、東国武士の棟梁として地位を確保することになります。

 

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さて、源経基、満仲から頼信、頼義、義家と続く、清和源氏の流れは、頼信、頼義、義家が河内国に住み、河内を根拠地にした(鎌倉は東国経営の拠点)ので、特に河内源氏と呼ばれ、一般的に源氏といえばこの河内源氏を指すようになりました。

 

清和源氏(河内源氏):源経基⇒満仲⇒頼信⇒頼義⇒義家

 

 

源頼義(988~1075)

源義家(1039~1106)、源義光(1045~1127)

 

前九年の役(1051~62)

陸奥の安倍氏が朝廷に反乱を起こしたとき、頼信の子、源頼義は陸奥守、兼、鎮守府将軍として、子の義家とともに奥羽に進み、清原氏と協力して、安倍頼時の安倍氏を滅ぼしました。この戦いは、前九年の役と呼ばれ、この時の勝利で、河内源氏が武門の中でも最高の格式を持つ家と言われるようになり、源氏の基礎も固まりました。ただし、源氏の台頭を恐れた朝廷は、頼義の陸奥守としての任務を解いたことから、東国を支配することはできませんでした。

 

後三年の役(1083~87)

その後、前九年の役の功績によって奥羽で勢力を得た清原氏は、清原武則が武門の最高栄職とされる鎮守府将軍の地位を得ていましたが、その清原氏の内紛(後継をめぐる内輪もめ)から、再度、戦火が広がりました。この後三年の役と呼ばれる戦いで、陸奥守として朝廷より派遣された源義家が、藤原清衡と協力して平定しました。またこの時、義家の弟である源義光が、兄義家の苦戦を聞き、官職を辞して朝廷の許しも受けず、奥州に向い、兄を助けた話は、兄弟愛の逸話として後世に語り伝えられています。

 

ただし、この後三年の役おいて、朝廷は、この戦い清原氏の私戦と見なし、義家に対して、恩賞は与えられませんでした。この時、義家は、自分の所領を共に戦った部下に分け与えたことが、東国の武士との繋がりが強くしていきました。この前九年の役と後三年の役を通して源氏はその名声を高め、武門の棟梁としての地位を固めましたが、奥州を手中に収めることはできませんでした。その代わりに、この地域は、奥州藤原氏が、藤原清衡、基衡、秀衡と続く三代100年に亘って君臨することになります。源氏が名実共に奥州を治めるのは、源頼朝の登場を待たなければなりません。

 

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さて、ここまで、源氏の歴史をみてきましたが、今回の投稿のきっかけとなった佐竹氏は源義光(新羅三郎義光)の流れを汲んでいます。さらに、佐竹家に限らず、武田家、足利家、そして頼朝を生んだ嫡流家は、源義家と頼光兄弟から枝分かれしています。つまり彼らは、源義家か義光を祖としているのです。

 

源義家(八幡太郎義家)

頼義の嫡子で、長男のことを太郎と言ったことと、義家は鎌倉の鶴岡八幡宮で元服(成人式)をしたため、八幡太郎とも呼ばれ親しまれています。この義家の嫡男の源義親(よしちか)の流れが(河内)源氏の嫡流家として源頼朝や義経につながります。また、義家の三男、源義国(よしくに)が新田氏と足利氏の祖となります。

 

源頼朝:源義家⇒義親⇒為義⇒義朝⇒頼朝

新田義貞:源義家⇒義国⇒義重(よししげ)

足利尊氏:源義家⇒義国⇒義康(よしやす)

 

源義光(新羅三郎義光)

頼義の三男で八幡太郎義家の弟。新羅明神(しんらみょうじん)の社前で元服したことから、新羅三郎とも呼ばれています。義光は音律を好み、笙(しょう、雅楽などで使う管楽器)に長じたことでも知られています。義光の嫡男、源義業(よしなり)が実質的な初代佐竹氏(常陸源氏の祖)で、義光の三男、源義清(よしきよ)が、甲斐源氏(武田氏)の祖でした。

 

佐竹義宣(よしのぶ):源義光⇒義業(常陸源氏)

武田信玄:源義光⇒義清(甲斐源氏)

 

今回はここまで。次回は佐竹氏について追ってみたいと思います。

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