2019年07月24日

歴史:徳川家のその後

7月22日の投稿で、徳川宗家第19代当主の徳川家広氏の参院選出馬とともに、家広氏の人となりも紹介しましたが、明治維新後、徳川家がどうなったかについて、関心がでてきたので以下にまとめました。

 

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16代 徳川家達(いえさと)(1863~1940)

 

徳川家達は、御三卿(後述)の一つである田安家の生まれ(幼名は亀之助)、血筋をたどれば14代将軍徳川家茂とも、13代の徳川家定とも従弟(年下の男のいとこ)にあたることから、誕生から次期将軍候補(15代)として育てられたそうです。家茂も遺言には後継者は家達としていました。しかし、わずか20歳でしかも長州征伐のため滞在していた大坂城で、将軍家茂が亡くなってしまいました。このとき家達はわずか4歳で、当時の外国の脅威が迫っているという緊迫した状況化で、物心つくかつかないかの幼児をトップに据えるのではなく、年長者が望まれるべきとして、15代将軍は一橋家の一橋慶喜(徳川慶喜)に決まったという経緯があります。

 

結果、家達は江戸城に入ることはありませんでしたが、明治政府は「朝敵」とされた慶喜に代わり徳川宗家を継ぐよう命じたことから、1868年5月、当時5歳の徳川家達(いえさと)が、徳川宗家(本家)の16代当主となったのでした。その年の内に明治天皇に拝謁しています。1869年6月、静岡藩知事に就任、駿河府中へ移り住みましたが、1871(明治4)年の廃藩置県によって藩知事の職はなくなりました。その後、10代でイギリスへ留学、19歳の時には帰国して、近衛家の女性と結婚しています。

 

成人になった家達は1884(明治17)年の華族令で侯爵となり、1890(明治23)年に帝国議会が開設されると貴族院議員となりました。形式的には、徳川家が再び国政に関わることになったのです。家達は、その血筋から、政治の表舞台に引き上げられます。東京市長や首相にも担ぎ出されそうになりました。1898(明治31)年に、東京市長選の話しがでてくると、家達は、晩年の勝海舟に相談へ行ったそうです。すると、勝海舟は「徳川家の人間なのだから、よほどのことがない限り、政治に関わってはならない」とアドバイスしたという逸話もあります。実際、家達は、「徳川家が政治の表舞台で目立つのはよろしくない」として、これらの政治的地位を固辞しています。

 

しかし、徳川家達(いえさと)は、1903(明治36)年から33(昭和8)年までは貴族院議長を務めました。その間、家達は1922(大正11)年に、世界初の軍縮会議となったワシントン軍縮会議で全権を務めるなど、国際政治の表舞台にも立っています。ワシントン軍縮会議では、保有艦の総排水量比率を、米と英が5に対して日本は3と定められました。更に失効した日英同盟に代わり、米・英・仏・日の四カ国条約が結ばれています。

 

そのほかにはも、慈善団体やスポーツ協会の立ち上げに関わったりと、いろいろな面の仕事をしております。特に注目されるのは、1940年開催予定の東京オリンピックの委員長も務めています。大河ドラマ「いだてん」でもお馴染みの「柔道」の始祖、嘉納治五郎氏ともに東京誘致に奔走していたのです。もっとも、東京オリンピックは、日中戦争など国際情勢の混迷を受け、日本政府が開催を辞退しました。幻の東京オリンピックとなった1940年、幻の16代将軍、徳川家達はこの世を去りました。

 

 

17代 徳川家正(いえまさ)(1884年3月~1963年2月)

徳川家達の長男として生まれた家正は、主に外交官・政治家として活躍しました。1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、外務省に入省、1925年(大正14年)シドニー総領事を皮切りに、カナダ公使、トルコ大使を歴任し、1937年に外務省を退官しました。その後、父、徳川家達の薨去に伴い公爵を受け継ぎ、1940年に貴族院議員となり、1946年に最後の貴族院議長に就任しました。

 

1963年2月、心臓病のためで死去しました。妻は薩摩藩主島津忠義の十女・島津正子(しまづ なおこ)で、二人の間には、長男・家英がいましたが早世していたため、断絶を恐れた家正は、長女豊子と会津松平家の松平一郎夫妻の次男恒孝(つねなり)を養子としていました。

 

 

18代 徳川恒孝(つねなり)(1940年2月~)

徳川恒孝氏は、前述したように、会津松平家から養子入りし、徳川宗家の当主を引き継ぎました。会津松平家と言えば、最後は朝敵となった会津藩主松平容保の松平家で、恒孝は、松平容保のひ孫に当たります。恒孝氏は、学習院大学政経学部卒業後、実業界に入り、日本郵船で副社長を務めました。現在、公益財団法人徳川記念財団初代理事長、公益財団法人東京慈恵会会長など公的な地位にあります。

 

恒孝氏の父の松平一郎(1907~1992)は、太平洋戦争中、横浜正金銀行職員としてシンガポールに赴任しており、終戦で収容所に入れられていたそうです。また、恒孝氏の父方の祖父である松平恆雄は第1回参議院議員通常選挙に当選し、第1回国会の議長選挙で初代の参議院議長に選出されています。徳川宗家は、現在、恒孝氏の嫡子、徳川家広氏が引き継いでいます。

 

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御三家と御三卿

冒頭で、徳川宗家第16代当主、徳川家達(いえさと)は、「御三卿の一つである田安家の生まれ」と書きましたが、ここで、御三卿、それから関連する御三家について説明してみたいと思います。

 

御三家

徳川御三家とは、徳川家一族である尾張家、紀伊(紀州)家、水戸家の三家のことを指します。初代の家康が、後に徳川の血が絶えたら困るからという理由で創設しました。仮に徳川宗家(本家)から後継ぎがでなくても、徳川一族の三家(「御三家」という)から出せるようにしたのですね。形式的には、家康の子供がそれぞれ興した分家が「御三家」です。

 

尾張徳川家←9男 義直

紀州徳川家←10男 頼宣

水戸徳川家←11男 頼房

 

このうち「紀州徳川家」からは、将軍家に跡継ぎが無いときに養子を出すことが出来ました。7代将軍家継が、七歳でこの世を去った際(この時、家康から続いた直系が途絶える)、御三家のうち、紀州家から出た八代将軍・徳川吉宗でした。14代将軍家茂も紀伊徳川家出身です。ちなみに15代将軍「徳川慶喜」は水戸徳川家の出身ですが、将軍になる前に、次に説明する「御三卿」の一角である「一橋徳川家」に養子に出されているので、徳川慶喜は、水戸家からの将軍ではないという扱いです。

 

御三卿

その御三卿とは、徳川吉宗が、御三家だけでは心もとないとして、自らの子ども達を分家させて作った体制を指します。それらは田安家、一橋家、清水家の三家でした。御三卿はいわば、将軍家や御三家に跡継ぎが無い場合に養子をだすために作られたと言えます。

 

8代吉宗の次男 宗武⇒田安徳川家

8代吉宗の四男 宗尹⇒一橋徳川家

9代家重の次男 重好⇒清水徳川家

 

御三卿は大名ではなく「徳川家の家族」という位置づけで、家格は御三家の次になります。それぞれの名の由来は、江戸城の門の名称、すなわち田安門、一橋門、清水門からきています。正式には「田安門・一橋門・清水門に近くに住んでる徳川家の人」ということになります。

 

14代将軍徳川家茂のように、田安家から御三家の紀州へ養子に出た例もある一方で、15代将軍一橋慶喜のように、格上にあたる御三家から来た人もいます。御三卿に中では、11代将軍家斉は一橋家の出身で、14代家茂はもともと田安家の出、15代慶喜は一橋家からの将軍です。幕末にかけて御三卿の存在は、徳川家継承の面では実にありがたいものになっていくのでした。

 

現在の御三家と御三卿はどうなっているのでしょうか?御三家では、紀州徳川家は、19代当主、徳川宜子(ことこ)氏が継承していますが、独身のため養子を得なければ今代で断絶となります。尾張徳川家は22代当主、徳川義崇(よしたか)、水戸徳川家は15代当主、徳川斉正(なりまさ)が当主を継承しています。御三卿ではそれぞれ当主は健在です。

 

田安徳川家:11代当主 德川宗英(むねふさ)

清水徳川家:9代当主 徳川豪英(たけひで)

一橋徳川家:14代当主徳川宗親(むねちか)

 

なお、徳川慶喜は、明治維新のshs後、徳川宗家から別家として改めて公爵を授けられたことから、徳川慶喜家として、存続しましたが、最後の当主・徳川慶朝(よしとも)が2017年9月に亡くなっており、養子も取らなかったために断絶しています。

 

(参考)

幻の16代将軍・徳川家達~幻の1940年東京オリンピックで委員長だったとは!

徳川宗家「第19代目」が参院選に出馬 自民党ではなく立憲民主党を選んだ理由

(2019年6月13日 デイリー新潮。週刊新潮WEB取材班)

日本の歴史についてよくわかるサイト

武将ジャパン

御三家と御三卿って何がどう違う?吉宗が御三卿の田安家を創設する

徳川「御三家と御三卿」の違いは?役割やその特権について分かりやすく解説

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