西洋史(国テーマ別)

フランス近現代史

 

宗教改革

宗教改革は、従来のローマ=カトリック教会の権威を否定する革新運動で、ルターとともに、フランスのカルヴァン(1509~64)によって進められた。

予定説*を唱えたカルヴァンは、勤労を尊びその結果として蓄財を認めた。このため、カルヴァンの説はネーデルランドやイギリス、南フランスなど商工業を中心とする市民階級に支持され、ヨーロッパの北部を中心に普及した*。さらに、後の資本主義社会の勤労倫理として大きな影響を与えた。

しかし、宗教改革後(16世紀後半)のフランスでは、ユグノーと呼ばれたカルヴァン派とカトリックとの対立が激化し、ユグノー戦争(1562~98年)と呼ばれる宗教戦争が長期化した。

これに対し、ユグノーであったブルボン家のアンリ4世は、王位につくとカトリックに改宗し、ナントの勅令(1598年)を発してユグノーに一定の信仰の自由を認め、内戦はようやく鎮まった。

さらに、フランスは、ドイツで始まった三十年戦争*(1618~1648年)にも参戦した。ユグノー戦争の結果、カトリックの国となったフランスであったが、この戦争では、神聖ローマ帝国(ドイツ)のハプスブルク家*の勢力を抑えようとするために、新教徒側について戦った。戦いは、1648年のウェストフェリア条約で和平が成立し、フランスは、(神聖ローマ帝国から)アルザス地方の土地を獲得した。

 

*予定説:その人が救わるかどうかは、予め決められていると説く

*カルヴァン派:フランスではユグノー、イギリスではピューリタン、スコットランドではプレスビテリアン、ネーデルランドではゴイセンと呼ばれた。

 

*独三十年戦争16181648):ドイツの新教徒と旧教徒との対立を契機とするヨーロッパを巻き込んだ国際宗教戦争。「最後の宗教戦争」、と形容されるなお、新教とは、ルター派やカルヴァン派のプロテスタントのことであり、旧教とは伝統的なローマ=カトリックのことを示す。(新教=プロテスタント旧教=ローマ・カトリック)。

 

*ハプスブルク家13世紀以降、神聖ローマ皇帝を輩出してきたオーストリアの王家。

 

 

 

 

フランス思想

ユグノー戦争とモラリスト

悲惨なユグノー戦争などの混乱期のフランスで、人間の生き方を観察し、そこから批判や風刺を込めた随筆が数多く発表された。モラリストと呼ばれる著作家のなかに、モンテーニュ(1533~92)や、「人間は考える葦である」で有名なパスカル(1623~62)がいる。

 

デカルト登場

また、イギリスのベーコンと並び「近代哲学の祖」と呼ばれるデカルト(1526~1650)が世に出たのもこの時期である。デカルトは、大陸合理論を確立し、後の近代科学の基礎を確立したニュートン(1642~1727)らに影響を与えた。

 

 

16世紀に30年以上におよぶ宗教戦争(30年戦争)が起こったが、17世紀末には絶対王政の全盛期を迎えた。その後、18世紀末の革命により、王政が崩壊し共和政が樹立されたが不安定であった。

 

ルイ12世(在1498~1515)は、フランスのルネサンスを開花させた。

ルイ13世(在位1610~43年)は絶対王政を確立したフランス王。

ルイ13世は、三部会を停止してフランス絶対君主の権威をみせつけようとした。

 

 

絶対王政

 

フランスでは、ルイ14世が即位し、宰相マザランに対し、貴族たちがフロンドの乱(1648~53年)を起こしたが、これを鎮圧後は、王権が確立されるとともに、財務総監コルベールが国王を補佐して官僚制を整備し、徹底した重商主義政策をとって、商工業を育成したので、フランス絶対王政は頂点に達した。

 

フランスの絶対王政は、ルイ14(在位1643~1715)のときに黄金時代を迎えた。

フランスでは、ルイ14世の親政が開始されて強力な軍隊を背景に王権が強化された。

ルイ14世は、5歳で即位し、宰相マザラン*が補佐した。当初、増税政策に反発したフロンドの乱(1648~53年)と呼ばれる貴族たちの反乱も起こったが、鎮圧後は絶対王政が強化された。ドイツの30年戦争にも干渉し、アルザス地方を獲得するなどライン川方面に領土を拡大することに成功した。

 

宰相マザランはルイ13世、14世の絶対王政の時代を担った。

 

その後、宰相マザランの死とともに、1661年に親政*が開始された。対内的には、王権神授説に基づいて、君主権の絶対・万能を主張する政治を行い、壮大なヴェルサイユ宮殿*を建造した。

また、蔵相(財務統監)コルベールが国王を補佐して官僚制を整備し、徹底した重商主義政策が採用された。国内の商工業(大商人)が保護・育成され、国富が増大、フランス絶対王政の全盛期を実現した。

しかし、ルイ14世は、ナントの勅令以来強まっていた商工業者の多数を占めるユグノー勢力を弾圧し、1685年にナントの勅令を廃止したため、ユグノーらは海外へ亡命し、フランスの経済に打撃を与えた。

 

17世紀後半のフランスは、絶対王政の最盛期を迎えていた。ルイ14世は、王政を支える富の源を商業に求め、重商主義政策をとり、大商人を保護した。一方、ルイ14世が1685年にナントの勅令を廃止すると、商工業者に多かったユグノーが国外に亡命することになり、経済の深刻な打撃を与えた。

 

 

 

フランスでは、ルイ14世が宰相マザランの死とともに親政を開始した。対内的には王権万能の政治を実現し、壮大なヴェルサイユ宮殿を建造した。対外的には、スペインと結んで、イギリス、オーストリア、オランダと戦ったスペイン継承戦争(1701~1713)など数度の侵略戦争を行った。これら一連の戦争は財政を窮乏させ、国民は疲弊し、フランス革命の遠因となった。

 

また、ルイ16世(在位1774~92)の時代にも、フランスは、アメリカの独立戦争(1775~83年)で、スペインなどとともに植民地側を支援し、イギリスに参戦した。これは、フランスにとっては、七年戦争*でイギリスとの植民地争奪戦で敗れたことに対する復讐戦でもあった。

しかし、度重なる対外戦争や干渉戦争で、国民は疲弊し、財政も窮乏したことは、フランス革命の遠因となった。

 

*マザラン:初の世界周航を行ったとされるマゼランと混乱しないように!また、ルイ13世の時代には、宰相リシュリューがいた。

*親政:君主が自ら政治を行うこと。

*ヴェルサイユ宮殿バロック様式の宮廷建築の代表。

*スペイン継承戦争:スペインの王位継承を巡りフランスがスペインと結んで、イギリス、オーストリア、オランダと戦った。

*七年戦争欧州では、イギリスの財政支援を受けたプロイセンと、フランスやロシアなどの支援をうけたオーストリアとの間で行われた戦い。並行して、英仏は北アメリカ、インドでも植民地を巡る戦いが繰り広げられた。

 

 

フランス革命*

 

フランスでは財政が悪化したため、テュルゴーやネッケルらが蔵相に任命され改革を試みたが、特権身分の抵抗により失敗に終わった。

 

重農主義者として知られたテュルゴーと、銀行家のネッケルは、宮廷の浪費で窮乏した国家財政を立て直すため、ルイ16世によって財務総監に登用された(前者は1774年、後者は1777~81、87~90年)が、特権身分の抵抗にあって改革は進まなかった。

 

 

フランスの第三身分(平民)の代表は、憲法制定までは議会を解散しないことを誓い(テニスコートの誓い)、第一身分、第二身分の中から合流する者もいた。

1789年に三部会が開かれた。三部会は聖職者、貴族、平民の代表者が出席するフランスの身分制議会である。

 

革命前のフランスの政治・社会制度は、アンシャン=レジームと呼ばれ、その身分制の下では、第一身分は聖職者、第二身分は貴族、第三身分は商工業者、都市民衆、農民からなっていた。

 

フランスでは、絶対王政に対する民衆の不満からフランス革命が勃発し、ルイ16世は革命勢力によって幽閉された。

 

革命前のフランスでは、アンシャン・レジーム(旧体制)*の政治社会体制にあって、免税特権をもっていた特権身分の下で、重税に苦しんでいた都市の民衆や農村の小農貧困層(平民=市民)が全国で暴動を起こすなど不安定な状態が続いていた。

こうした中、市民の要求を受けて、三部会が1789年5月に、約170年ぶりに開催されたが、行き詰まり、事態をさらに悪化させる結果となった*。

 

国王の召集により、三部会が開かれると、特権身分と第三身分は議決方法をめぐって対立し、改革を要求する第三身分の代表たちは自らを国民議会と称したが、国王が弾圧をはかったため、パリ民衆はバスティーユ牢獄を襲撃した。

 

議決方法をめぐって対立し、市民代表は三部会を脱退して国民議会をつくった。ルイ16世は、会議場を閉鎖して妨害しようとしたことから、

1789年6月、第三身分の議員が三部会から独立して組織した国民議会を、「憲法制定まで解散しない」との誓いを、ベルサイユ宮殿内の球技場に集まり、宣言した。(テニスコートの誓い・球技場の誓い)

 

ルイ16世は、一部の貴族と第三身分が要求したため、1789年に三部会を召集したが、会議が分裂したため、第三身分の代表は別に国民議会を結成し、憲法が制定されるまで解散しないことを誓いあった。

 

ルイ16世は、国民議会を武力で弾圧しようとしたため、これを知ったパリの民衆は、バスティーユ牢獄を襲撃した。

 

 

1789年7月14日、絶対王政に対するパリの民衆の不満は頂点に達し、圧政の象徴とされていたバスティーユ牢獄が襲撃され、フランス革命が勃発した。

革命は、1789年の8月4日、国民議会(憲法制定国民会議)が封建的特権を廃止することを決定し、自由・平等に基づくフランス人権宣言を採択した。1791年にはフランス憲法が制定され、役割を終えた国民議会は解散し、立法議会が招集された。

バスティーユ牢獄の襲撃から2年後、国民議会は憲法を制定して解散し、この憲法に基づいて新たに召集された立法議会では、はじめフイヤン派が優勢であったが、やがて穏和共和派のジロンド派が主導権を握った。

 

 

1791年に立憲君主政の憲法が発布され、この憲法のもとで、(男子)制限選挙制にもとづく新たな立法議会が成立したが、オーストリアが革命を非難したので、オーストリアに対して宣戦し、オーストリアと同盟関係にあったプロイセンがフランスに宣戦して、革命戦争が始まった。

 

1791年6月、国王一家が王妃マリー=アントワネットの実家にオーストリアへ逃亡しようと密かにパリを脱出し、途中で発見されて連れもどされるというヴァレンヌ逃亡事件が起こり、国王は国民の信頼を失った。

 

立法議会では、立憲君主派(フイセン派)と穏和共和主義者(ジロンド派)*が対立するなか、1792年9月には、反革命を掲げたオーストリア・プロイセンの連合軍がフランスに侵入し、フランス側の義勇軍とパリ東部ヴァルミーで戦った。*このヴァルミーの戦いでフランス軍は勝利し、ルイ16は投獄された。

また、時を同じくして(1792年9月)、フランスで初めて実施された男子普通選挙によって国民公会が招集されると、王政が廃止、ロベスピエールらジャコバン派主導で第一共和政*(1792~1804)が成立した。

その翌年の1月には、ルイ16世が革命勢力によって処刑されるなど、ロベスピエールら急進派による「恐怖政治」を行われたが、そのロベスピエールも、1794年7月のテルミドールの反動(クーデター)で処刑され、穏和共和主義者らによる総裁政府が成立した。

 

ロベスピエールをリーダーとするジャコバン派は、公安委員会を使って恐怖政治を展開したが、独裁政治に対する反発が強まり、「テルミドールのクーデタ」によりロべスピエールが処刑された。

 

しかし、将軍ナポレオン=ボナパルトが、1799年11月、共和暦ブリュメール18日のクーデターで総裁政府を打倒、自らを第一統領とする統領政府を樹立し、フランス革命はようやく終結に至った。

この革命は民主主義的な諸要求の包括的実現運動として、世界各国国民に大きな影響を与えていった。

 

*フランス革命期の思想家の代表がルソー171278である。その著書「社会契約論」で、人民主権に基づく共和制を主張、特にジャコバン派に影響を与えた。

*アンシャン・レジーム:第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(商工業者、都市民衆、農民)から成る身分社会体制。この三つの身分の代表者が集まる話し合いのための身分制議会が三部会である。

*三部会は、革命の前までに、第三身分を中心となって新たな国民議会(憲法制定国民会議)に変貌した。

*共和政:国家の主権が君主(国王)(⇒君主制)ではなく、貴族やブルジョワジーなど複数の人間に属している政治体制。現在のフランスは第五共和制である。

 

逸話

ヴァルミーの戦いとゲーテ

ヴァルミーの戦い(1792年9月)には、ドイツの文豪ゲーテ(1749~1832)もプロイセン軍中にいた。ゲーテは、フランス勝利を受け、「ここから、そしてこの日から、世界史の新しい時代が始まる」と記したとされる。

 

ゲーテ(1749~1832):シラーと並ぶ独ロマン主義文学の巨匠。作品に「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」などがある。

 

 

ナポレオン戦争

 

第一統領に就任したナポレオンは、1802年、イギリスと戦わずしてアミアンの和約を締結し、社会体制の整備に努めた。1804年3月、民法典であるナポレオン法典*を制定し、同年5月に国民投票により皇帝に就任した(第一帝政)。

ナポレオンが皇帝(ナポレオン1世)に即位すると、イギリスはフランスの勢力拡大を恐れて大陸諸国(ロシア・オーストリア、スウェーデン)と第三回対大仏同盟*を結成した。ナポレオンは、1805年、ネルソン率いるイギリス海軍と戦った(トラファルガーの海戦)が敗れた。

その後、ナポレオンは、戦いの矛先を大陸に向け、アウステルリッツの戦い(三帝海戦)で、オーストリア、ロシアの連合軍を撃破すると、西南ドイツの諸領邦にライン同盟を組織させた。この結果、962年に誕生した神聖ローマ帝国は名実ともに滅亡した。

さらに、ナポレオンは、イエナの戦いなどでプロイセンとロシアの連合軍を破ってティルジット条約を結び、西ヨーロッパの大半を支配下に置いた。

 

ナポレオンは、1806年に、ベルリンで大陸封鎖令を発して、イギリスに対する経済封鎖を試みたが、ロシアはそれを無視して、イギリスと貿易を行った(ロシアがイギリスに小麦を輸出して外貨を獲得していた)。そのためナポレオンは、大軍を率いてロシアに遠征し、いったんはモスクワを占領したものの、退却を余儀なくされ失敗に終わった。

 

こうして唯一の敵となったイギリスに対して、ナポレオンは、大陸封鎖令(1806年)を出した。ヨーロッパ市場からイギリスを締め出し、自国産業の独占をめざしたのである。しかし、ロシアがそれを無視してイギリスの穀物輸出を行ったことから、ナポレオンは1812年、大軍を率いてロシアに遠征(モスクワ遠征)、いったんはモスクワを占領するものの、退却を余儀なくされ、遠征は失敗に終わった。

このモスクワ遠征の失敗をきっかけに、ナポレオンの没落が始まった。1813年の諸国民戦争(ライプチヒの戦い)では、プロイセン、オーストリア、ロシアの連合軍に敗北し、ナポレオンはエルバ島に幽閉された。その後、脱出して皇帝に復位したが、ワーテルローの戦いで再び敗走、アフリカはギニア湾のセントヘレナ島に流され、その地で没した。

 

諸国民戦争:ナポレオンのモスクワ遠征の失敗を機にヨーロッパで起こった、ナポレオンの支配からの解放戦争

 

1811年のヨーロッパ。濃い青はフランス帝国の領土。薄い青はフランスの衛星国

 

ナポレオン法典:フランス革命の成果として、個人の自由、法の下の平等、私有財産の不可侵、契約の自由などを定めた。

対仏大同盟:フランス革命からナポレオン戦争にかけて、イギリスが主導して欧州諸国で組まれた対フランスの軍事同盟。前後5回結ばれた。第1回対仏大同盟は、1793年のルイ16世処刑が契機となって、イギリス首相ピットの提唱で結成された。

 

 

小史

ナポレオンと同時代の人々

ベートーヴェン(1770~1827)の交響曲第3番「英雄」の総譜には、ナポレオン(1769~1821)への献辞がつけられた。また、古典派の画家ダヴィット(1748~1825)は、宮廷画家として、「ナポレオンの戴冠式」などの作品を残した。さらに、ドイツ観念論の大成者ヘーゲル(1770~1831)の「絶対精神」の体現者がナポレオンとされている。

なお、後世にでたロシアの文豪トルストイの「戦争と平和」(1869年)は、ナポレオン戦争の模様を描いている。

 

 

フランスでは、ナポレオン3世による第二帝政が普仏戦争によって倒れた後、臨時政府が成立し、その後、1871年に、社会主義者を中心とした自治政府であるパリ・コミューンが組織された。

 

 

フランスは、サイゴン、次いで安南、トンキンを占領し、カンボジア、ベトナムを保護国とし、仏領インドシナを形成した(インドシナ半島地域を仏領インドシナ連邦として成立させた)。

フランスは1862年ナポレオン3世の時代にベトナム進出して以来、1883年にはベトナムを完全支配し、1884年からの清仏戦争に勝ってベトナムに対するフランスの支配権を確立した。

 

 

フランスは、19世紀前半に、アルジェリアに進出し(1842年に保護国化)、そこを足掛かりに、チュニジアも保護国化(1881年)するなど、北アフリカの大部分を占領した。そこに、ドイツがモロッコ進出を企てたため、モロッコを巡ってフランスとドイツが対立した。その後、ドイツに対抗するため、フランスはモロッコ、イギリスはエジプトでの優越権を持つことをそれぞれ承認しあった(1904年英仏協商)。

 

フランスは横断政策を進めたが、縦断政策を進めるイギリスと、1898年、ファショダで衝突した。ファショダ事件では、フランスが譲歩した。

 

フランスでは、第一次世界大戦後すぐに右派連合のボアンカレ政権が誕生し、ドイツに対して強硬姿勢で臨み、ルール地方の占領(1923~25年)を行ったが、対ドイツ強硬政策は失敗に終わり、1924年に左派連合内閣が誕生することになった。

 

フランスは、ボアンカレ内閣のとき、賠償金を支払わないドイツに対抗するため、1923年にベルギーを誘って、ドイツのルール地方の軍事占領を行った(25年には撤退)。

また、仏ブリアン外相が、1925年にドイツのシュトレーゼマン首相とロカルノ条約を結んだ(ルール地方から撤退?した)。

 

 

世界恐慌時のフランスは、植民地や友好国とフラン通貨圏を築いて経済を安定させようとした。国内の政局は不安定であったが、極右勢力の活動などで危機感をもった中道・左翼が結束して、1936年にはブルムを首相とした反ファシズムを掲げる人民戦線内閣が成立した。

 

 

 

 

 

イギリス史

 

1628 権利の請願

1649 共和政成立

1651 航海条例、

第一次英蘭戦争

1688 名誉革命

1701~13 スペイン継承戦争

1756~63 七年戦争

1765   ワット、蒸気機関を完成

1775~83 アメリカ独立戦争

1805   トラファルガーの海戦

1815   ウィーン会議

1840~42 アヘン戦争

 

 

イギリスでは、13世紀に諸候が王にマグナーカルタ(大憲章)を承認させるなど他のヨーロッパ諸国に比べて王権が弱かった。さらに15世紀、百年戦争でフランスに敗れると、バラ戦争と呼ばれる王位を巡る大内乱が起こった。(諸侯・騎士勢力は疲弊し)イギリスはバラ戦争後に成立したチューダー朝のときに中央集権化を推進し、絶対主義へと移行した。

 

百年戦争(1339~1453):フランス王位継承権を口実に、毛織物業地帯であったフランドル地方の支配を巡って、イギリスとフランスが争った戦争である。この反仏反乱を機に対英戦争に至った。

 

ばら戦争(1455~85年):英仏百年戦争の後に起こったイギリス王位争奪の内乱であるが、乱の終結後の貴族勢力は共倒れとなり、自滅した。

 

封建貴族の没落により16世紀には絶対王政となったが、17世紀には王権と議会の対立が起き、2度の革命を通じて議会主権に基づく立憲君主政が確立した。

 

イギリスでは、ばら戦争の後に王権が強化され、エリザベス1世の時代に絶対主義の全盛期を迎えた。

 

16世紀、エリザベス1世の父であるヘンリー8世は、英国国教会を確立させた。

イギリス女王エリザベス1世(在1558~1603)は、オランダのスペインからの独立を援助し、1588年にスペインの無敵艦隊を破って海外進出のきっかけをつかんだ。さらに、東インド会社を設立させて、毛織物貿易を保護するなど重商主義政策によってイギリス絶対主義の全盛期を築き上げた。

 

16世紀前半にヘンリー8世は、イギリス国教会を成立させ教皇と絶縁した。その後、エリザベス1世は統一法によって、イギリス国教会を国教とし、絶対王政を確立した。

 

イギリスでは、エリザベス1世が、1600年に貿易独占権を東インド会社に与えて、王室に膨大な利益をもたらした一方、フランスのような強力な常備軍と官僚機構は組織されず、地方の地主階級のジェントリ(郷紳)の協力の下に、王権を強化しながら、絶対王政は最盛期を迎えた。

 

17世紀、西欧列強の植民地抗争においては、イギリスは、モルッカ諸島の香辛料貿易をめぐる争いでオランダに敗れた後(1623年アンボイナ事件)、インド経営に重点をおいた。オランダとの対立が激しくなる中で、イギリスは航海法が引き起こした英蘭戦争でオランダを破り、さらに、18世紀の半ばには、フランス、ベンガル王侯軍に勝利して、インド植民地化の足場を固めた。

 

英蘭戦争(1652~74):クロムウェルによる航海条例でオランダは貿易の利益を奪われ、その奪回をめざしてイギリスと行った戦争であった。

 

 

イギリスは、1600年に東インド会社を設立し発展を遂げ、マドラス、カルカッタ、ボンベイを拠点とした。そしてプラッシーの戦いに勝利し、インドを植民地化した。

 

18世紀、植民地支配をめぐる英仏の対立が激化した。オーストリア継承戦争や七年戦争と並行して、北アメリカやインドでもその支配をめぐって両国は戦ったが、この世紀後半、両地域でイギリスはフランスに対して優位に立った。

ファルツ継承戦争―ウィリアム王戦争

スペイン継承戦争(1701~13)―アン女王戦争(北米)

仏・スペインvs 英・蘭・オーストリア

オーストリア継承戦争(1740~48)―ジョージ王戦争(北米)

七年戦争(1756~63)―フレンチ・インディアン戦争(北米)プラッシーの戦い(インド)

 

 

イギリスは、ルイ14世の孫のフィリップのスペイン王位継承に反対して、オーストリア、オランダなどともに、フランスに宣戦(スペイン継承戦争1701~13年)し、(ユトレヒト条約で)スペインからジブラルタル、ミノルカ島を、フランスからはカナダ方面の広大な領地(ハドソン湾地方、ニューファンドランド、アカディア)を獲得した(ことで、ブルボン家のスペイン王位継承を承認した。

 

イギリスは、プラッシーの戦い(1757年)でフランスとベンガル太守の連合軍を破り、ついでベンガル地方を領有した。

 

英国では、議会を解散した上で増税を強行しようとしたチャールズ1世に対し、議会派のクロムウェルは、国王チャールズ1世を処刑した後、最高官の護国卿に就任して共和制を敷いた。

 

17世紀、ピューリタン革命が起こされ、国王チャールズ1世が処刑され、短期間のイギリス史上初の共和制をクロムウェルが実現した。その後、王政が復古してチャールズ2世、ジェームス2世が王位に就くが、やがて名誉革命でジェームス2世は追放され、権利の章典が発布された結果、立憲君主制が確立した。

 

ピューリタン革命以前に、議会はチャールズ1世に対して、権利の請願を可決して要求した(1628年)。その後、王党派と議会派の間で内戦が起こり(1640年)、クロムウェルが議会派を勝利に導いた。クロムウェルは国王を処刑し、共和政を樹立した。これをピューリタン革命という。

 

クロムウェルの死後、ジェームス2世は、カトリックと絶対王政の復活を図ったため、議会はオランダ総督のウィリアム3世、メアリ夫妻を王として、名誉革命に至った。議会は、1689年、権利の章典を制定した(権利宣言を認めさせた)。

 

清教徒革命によって一時共和政が実現したが、1660年に王政が復活し、1688年オランダから迎えられた新国王のウィリアム3世とメアリ2世は、議会が提出した権利章典を承認したうえで王位に就いている(その結果、議会が王権に対する優越を確立することになった)。

 

ジョージ1世(1714~27年)

 

イギリスは、毛織物業によって大量の資本を蓄え、囲い込み運動によって土地を失った農民が都市に流れ込んで賃金労働者となっており、また、それまで世界商業の支配権を有していたスペインを破って世界市場を握っていた。資本・労働力・市場などの条件がほかの諸国に比べて整っていたことが、世界に先駆けて産業革命が起こる基盤となった。

 

新農法が普及して生産技術が向上し、18世紀半ば以降人口が急増した。大地主は供用地や小作地を囲い込んで市場向けの大規模な穀物生産に乗り出し、囲い込みによって土地を失った人々が都市に流れ込んで工場労働者となった。(第二次囲い込み)

 

 

産業革命に先立つ「第二次囲い込み」は、共同体が再生産の場として共有してきた土地(農民の共同所有地)を私有地として囲い込んだものであったが、この頃になると農民は近代農法により市場向け生産を始めた。

 

 

イギリスの産業革命は、木綿工業の部門から始まった。東インド会社がインド産の綿織物を輸入したことから、綿織物の需要が急増し、インドの綿花を原料としてイギリス国内で綿織物を生産する機運が高まった。クロンプトン、カートライト等が相次いで紡績機や織布機を発明し、綿織物の大量生産が可能となった。

 

産業革命はワットの蒸気機関の発明や、国内で産出される石炭や鉄の天然資源に支えられて、繊維・紡績などの軽工業で始まり(第一次産業革命)、その後、金属・機械工業へ波及した(第二次産業革命)。

まず、紡績機や力織機で始まり、その後、製鉄業、炭鉱業、機械工業へ波及した。

 

イギリスでは、機械の動力は、最初は風力を用いていたが、ニューコメンが蒸気機関を発明したことからポンプに応用され、ワットがこれを改良して動力として実用化されるようになった。蒸気機関の実用化は、大量生産を可能にしただけでなく、スティーブンソンの発明による蒸気船、蒸気機関車など新しい交通手段を発達させ、流通速度を早め、資本主義的な市場の形成・拡大に大きく貢献した。

 

イギリスでは、産業革命によって、機械制大工業が発達すると、従来の小規模な手工業や家内工業は急速に没落し、多数の労働者を雇用する工業制度が広まった。工業制度の発達とともに都市に人口が集中し、大工業を経営する資本家が現れ勢力をつけた。

 

産業革命のシンボルともいえる蒸気機関が鉄道に利用されて19世紀前半にその建設が急速に進み、陸上交通に大変化がもたらされた。

 

綿工業における生産技術が向上し、19世紀初頭には蒸気機関の改良に加え、綿織物生産のための機械?が発明された。道路の整備や鉄道建設などにより交通量が増えただけでなく、運河の利用によって石炭の運搬が容易になった。

 

産業革命によって産出された大量の製品の市場を求めて、イギリスはインドや中国に進出した。

18世紀中頃のイギリスは、他国に先駆けて産業革命を果たして資本主義体制を確立し、自由主義的政策を推進した。

 

 

1832年に選挙法が改正されて産業ブルジョワジーの政治的発言力が増大し、また19世紀半ばに穀物法が廃止されて自由貿易の原則が確立された。

 

機械の使用が進んで仕事を奪われた労働者は、機械打ち壊し運動を起こし、男子普通選挙を目標に掲げるチャーチスト運動が(1848年をピークに労働者の間で)盛り上がるなど、労働者の権利を求める運動が展開された。

機械打ち壊し運動(ラッダイト運動、ラダイト運動)はイギリスで起こった動き。

 

 

 

18 世紀のイギリスでは他国に先駆けて、綿織物業の部門で技術革新が進み,産業革命が進展した。さらに技術革新は動力部門にも及び,近代的な工場制機械工業が発達した。産業革命の進展した背景には,農村における農業革命の進展により,離農者が都市に流入して労働力となったことがある。産業革命の進展は一方で様々な社会問題を生み, 社会主義思想が発達することとなった。19 世紀に入るとイギリスでは産業資本家が台頭し,選挙権を獲得して議会に進出していった。

 

産業革命における技術革新は,ジョン=ケイの飛び杼の発明を契機として綿織物分野で進展した。また東インド会社は 1600 年の絶対王政期に,東方との貿易を独占させるために設立された。18 世紀に産業革命が進展して産業資本家が台頭すると、東インド会社の貿易独占権は廃止された。

 

技術革新はワットが蒸気機関を実用化したことで新たな段階に入り(フルトンは蒸気船を発明したアメリカ人)、蒸気機関を織機に利用した力織機の発明に至った。またアメリカの南部では綿繰り機が発明され た結果,綿織物業が発展した。ただし、これによりアメリカの南部はイギリスに綿花を輸出し,原料供給地としてイギリスの産業革命を支えた。アメリカで産業革命が進展するのは,19 世紀初頭に入ってからのことである。

 

産業革命の進展により,都市に人口が集中すると、農村には腐敗選挙区が形成された。このため産業資本家の意向により第1回選挙法の改正がなり,産業資本家が参政権を獲得した(第1回選挙法の改正は男子普通選挙を実現したものではない)。

ツンフト闘争は,中世の都市で展開されたものである。手工業者が市政を独占していた親方層に対して展開した。

 

織機部門での機械化の進展は、職を奪われると考えた未熟練労働者の機械打ち壊し運動(ラッダイト運動)を招いた。また産業革命期の動力となった石炭の採掘には,年少者や婦人が酷使 されるなど,労働問題も生じた。そして、労働問題などの社会問題を生み,19 世紀には社会主義思想が登 場する。イギリスでは初期の空想的社会主義者のロバート=オーウェンが工場法の制定に尽力した。

 

産業資本家は,議会に進出すると穀物の輸入を制限する穀物法や,オランダ船をイギリスから締め出す航海法を廃止するなど自由貿易政策を採用した。

産業資本家が選挙権を獲得して議会に進出すると,19 世紀半ばには産業資本家の意向によ り自由貿易体制が樹立された。具体的には穀物に高い関税をかけていた穀物法の廃止と,イギリスに入港する船を制限していた航海法を廃止した。他国に先駆けて産業革命を進展させ たイギリスでは,自由貿易体制が樹立されたのに対して,遅れて産業革命を進展させた国々 は,イギリス製品に対抗する必要上,保護政策を採用している。

 

 

イギリスは、ナポレオンが共和暦ブリュメール18日のクーデター(1799年11月)で総裁政府を倒し、武力によって統領の位を獲得したことから、フランスの強大化を恐れ、オーストリアおよびロシアと第二回対仏大同盟を形成して対抗した。1802年にアミアンの和約で解消。

(1804年3月、ナポレオンは、私有財産制の不可侵や契約自由を定めた民法典を制定した。)

1804年に5月、ナポレオンが皇帝に即位するとその翌年に、イギリスの提唱でオーストリア、ロシア、スウェーデンが参加して、第三回対仏大同盟が結ばれた。

 

イギリスでは、ビクトリア女王の時代(1837~1901)に、保守党のグラッドストンと自由党のディズレイリのもとで議会政治が進展した。

 

セポイと呼ばれるインド人傭兵部隊が、北部インドから中部インドにかけて大反乱を起こしたが、イギリス軍に鎮圧された(1857~59年)

 

19世紀、イギリスは、アジアを中心とした地域で貿易独占権を与えられ、主にインドの植民地経営を行っていた英国東インド会社は、セポイの乱の失敗の責任をとって解散した。以後、インドはイギリス政府の直轄統治となった。

 

 

18世紀末から19世紀初頭にかけてイギリスが推し進めたいわゆる三角貿易はアヘン戦争を引き起こした。

イギリスの綿製品をインドへ、インドのアヘンを中国へ、中国の茶をイギリスへ輸出する貿易

 

「世界の工場」といわれ他を圧していたイギリス経済も、19世紀末には停滞を始めたが、大英帝国維持の要となるインドを・・・・。1875年にはスエズ運河の株の半分を取得して、かつ1882年にはエジプトを事実上の保護国とした。(正式には1914年)

 

イギリスは、(ディズレーリ首相のとき)エジプト政府からスエズ運河の株式を買収したことを契機に同国の内政に干渉して保護下においた(1882年に占領)。また、南アフリカではオランダ系移民の子孫であるボーア(ブール)人の建国した国を征服し(南ア戦争1899~1902)、ケープタウンとカイロをつなぐ縦断政策を企てた。後にケニアも植民地とした。

 

20世紀初頭、イギリスは、ベルリン、ビザンチウム、バクダットを結ぶ3B政策を推し進めるドイツに、3C政策(ケープタウン、カイロ、カルカッタ)で対抗した。

第一次世界大戦に突入すると、イギリスはフランスとともに、「未回収のイタリア」と呼ばれていたトリエステ、イストリア、チロルをイタリアに約束して(1915年のロンドン密約)、ドイツ・ロシアとの三国同盟から脱退させ、三国同盟を崩壊させた。

 

 

19世紀半ばから20世紀の前半にかけて、イギリスは、アイルランド、カナダなどの独立を認めるとともに、独立した諸国とイギリス連邦を結成した。

 

カナダが自治領となったのは1867年、アイルランド自由国が自治領として認められたのは1922年で、イギリス連邦成立の基礎となるウェストミンスター憲章は1931年(英帝国会議宣言は1926年)に成立。

 

イギリスは、アイルランドでの自治要求の高揚に直面した。20世紀初めに、アイルランド独立を目指すシン=フェイン党が結成され、その後、アイルランド自治法が成立したが、イギリス人の多い北アイルランドはこれに反対してシン=フェイン党と対立し、政府は第一次世界大戦の勃発を理由に自治法の実施を延期した。

 

 

イギリスの統治下にあったインドでは、1885年、対英協調を求める穏健な知識人たちによって、インド国民会議が創設された。しかし、民族意識の高まりとともに次第に反英的となり、政治的結社として組織化された(国民会議派)。

これに対して、イギリスは、ベンガル分割令を発表し、ヒンズー教徒とイスラム教徒の両教徒を反目させて反英運動を分断することによって事態の鎮静化を図った。

これに対して、国民会議派は、1906年、カルカッタで開かれた大会で、英貨排斥、自治獲得(スワラージ)、国産品愛用(スワデーシ)などの急進的な主張が決議された。

 

ローラット法(1919)により、民族運動が弾圧されたため、ガンジ―(ガンディー)を中心とする非暴力・不服従運動が広がった。

第一次世界大戦中、イギリスはインドの協力を得るために戦後の自治を約束したが、戦後はかえってローラッド法を施行して弾圧を図った。

 

フサインーマクマホン協定(1915年)に基づいてアラブ諸国の独立を承認する一方、パレスチナ在住のユダヤ人の独立国家構想を支持した(1917年のバルフォア宣言)が、これが後のパレスチナ問題を生む原因となった。

 

(世界恐慌時)イギリスは、先進国に対して、アフリカやインドの植民地と排他的に貿易を行うブロック経済圏を構成し、保護主義的な貿易を行った。

 

イギリスでは、第一次世界大戦後の著しい経済不振のために労働党が躍進してマクドナルド内閣が誕生し、また、イギリス帝国議会が、大戦で本国に協力した自治領に本国と同等の地位を認め、イギリス連邦が組織された。

 

イギリスでは、挙国一致内閣(1931~35年)の首相となったマクドナルドが、イギリス連邦経済会議(オタワ連邦会議)を開き、連邦内の特恵関税制度を設けるなどのブロック経済政策を行った。

 

 

イギリスの対インド政策

 

イギリスは東洋との貿易・取引きを目的として、東インド会社を設立した。

イギリスの東インド会社は、1600年に設立された大特許会社で、喜望峰から東マゼラン海峡にまで至る全域の貿易および植民について独占権を与えられていた。東インド会社は長年貿易を独占していたが、イギリス本国の産業資本家の強い反対にあい、1833年には商業活動が全面的に禁止された。このためインドは原材料供給地に転落し、綿布産業は打撃を受けている。

 

インド支配を巡り、イギリスはフランスと激しく対立していたが、プラッシーの戦いで、フランスを破り、インドにおけるイギリスの支配権を確立した。

英東インド会社は、プラッシーの戦い(1757年)で、フランス・ベンガル土候連合軍に勝利した。

 

イギリスの支配に反抗して、1858年にセポイの反乱が起きた。

その失政の責任をとり、東インド会社は解散したが、それ以後、イギリスの直轄統治となった(1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任)。

 

イギリスは、1919年、ローラット法により、人権を無視した政策をとったため、インド国内でガンディーらによる非暴力・不服従の運動が起こった。

 

19世紀前半、イギリスは産業革命の進行に伴い、インドを原料供給地・製品市場としたため、インドでは手工業が死滅した。

インドは、英産業革命およびイギリス東インド会社の支配の影響で綿布製品輸出国から原材料の綿花輸出国となり、イギリスの綿布製品市場となった。

 

 

 

 

ドイツ史

 

 

ルターは、当初、農奴制廃止要求を掲げてミュンツァーが起こしたドイツ農民戦争(1524~25年)を支持していたが、農民の反乱が急進化すると領主側についた。

 

皇帝(カトリック)に対抗するために、1530年に、ルター派のドイツ諸侯・都市(プロテスタント)がシュマルカルデン同盟を結成し、シュマルカルデン戦争(1546~47年)を起こしたが、(同盟内部の分裂で、皇帝側に敗れた)。1555年、アウグスブルグの宗教和議が成立し、ドイツ諸侯・都市に、新教か旧教かの選択を認め、領民はそれに従うことが決定された。

 

アウグスブルグの宗教和議(1555年)は抗争を続けるルター派諸侯と皇帝との間に結ばれた和議で、諸侯は領内の宗教を、旧教とルター派のどちらかに決める選択権が認められた。しかし、この和議では領内に住む人々の信仰の自由までは認められなかった。

 

ドイツでは、17世紀初めに新教徒への対応をめぐり、諸侯がギベリン(皇帝派)とゲルフ(教皇派)に分かれて争う30年戦争が始まった。戦いは、スウェーデンやフランスが干渉し、宗教戦争から国際戦争へと様相を変えて長期化したが、1648年のウェストファリア条約によって終結し、ドイル諸候の独立主権が認められた。

 

三十年戦争:神聖ローマ帝国内の宗教内乱(新教徒の反乱)から、(新教徒保護の名目でヨーロッパ各国が干渉した国際戦争になった)国家利害を争う国際戦争に転化した戦争

 

 

*独三十年戦争16181648):ドイツの新教徒と旧教徒との対立を契機とするヨーロッパを巻き込んだ国際宗教戦争。「最後の宗教戦争」、と形容されるなお、新教とは、ルター派やカルヴァン派のプロテスタントのことであり、旧教とは伝統的なローマ=カトリックのことを示す。(新教=プロテスタント旧教=ローマ・カトリック)。

 

*七年戦争欧州では、イギリスの財政支援を受けたプロイセンと、フランスやロシアなどの支援をうけたオーストリアとの間で行われた戦い。並行して、英仏は北アメリカ、インドでも植民地を巡る戦いが繰り広げられた。

 

 

戦争後、ドイツでは皇帝権が衰えて領邦の対立が激しくなり、ドイツ統一に大きな障害となった。

 

プロイセンでは、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世がユンカーを官僚・軍隊の中心とする軍事色の強い絶対主義の基礎を築き、その子フリードリヒ2世は、啓蒙主義思想の影響を受け、いわゆる啓蒙専制君主として国内産業の育成や司法改革に力を注いだ。

 

 

18世紀プロイセンでは、軍隊制度(常備軍)や官僚制度を整備し、地主貴族「ユンカー」が独占し、中央集権的絶対主義を確立した。ただ、積極的に海外に進出するのは、ドイツ統一後の19世紀末以降である。

プロイセンは、次第に領土を拡大してユンカーと呼ばれる地主貴族に支えられた絶対主義体制を確立し、マリア・テレジアのオーストリアとしばしば対立した。

 

プロイセンでは、フリードリヒ2世が、宗教寛容令を出し、重商主義政策によって産業を育成したほか、ヴォルテールらの啓蒙思想家を宮廷に招き、「君主は国家第一の下僕」と称した。また、オーストリア継承戦争、七年戦争を戦い抜き、プロイセンはヨーロッパの強国となった。

 

プロシアは、オーストリア継承戦争(1740~48)で、オーストリアを破り、シュレジエン地方を併合し、その後の七年戦争(1756~63)で、フランス・ロシアと結んだオーストリアを再度破り、シュレジエンを確保した。

 

プロイセンは、フリードリヒ大王の時代、富国強兵を進め、オーストリア継承戦争でプロイセンに併合されたシュレジエンの奪回をめざすオーストリアとの戦争(七年戦争)に勝利した。

 

 

ヨーロッパの中でも統一が遅れ、小国が分立し連邦体制のもとで政治的分裂が続いていた。しかし、関税同盟(1834年)の発足を契機として統一への機運が高まり、19世紀後半に帝国が成立している。

 

プロイセンでは、ビスマルクが首相に就任すると「鉄と血によってのみ問題は解決される」と主張して軍備拡張を図り、普墺戦争(1866)でオーストリアを破った。さらに、普仏戦争(1870~71年)でフランスのナポレオン3世を破ると、プロイセン王のヴィルヘルム1世はベルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立を宣言した。

 

ドイツでは、プロイセンのビスマルクがいわゆる鉄血政策により、ドイツ統一を推進したが、普仏戦争でフランスを破ったことによって、ドイツ統一を完成させた。

 

ドイツでは、ヴィルヘルム1世の下で首相となったビスマルクが、ユンカーや大資本家の支持を得て、軍事力によるドイツの統一を図った。

 

19世紀後半のドイツは、プロイセン国家の武力による統一が進み、普仏戦争の結果ドイツ帝国が成立した。ドイツ帝国は、すでに帝国主義段階にあったイギリス、フランスに対抗するため、経済面においては保護関税政策を推進して急速に資本主義を発展させ、植民地を持つに至った。

 

ドイツは、イギリス、フランスが進出していないアフリカ西部に進出しようとした。カメルーンを植民地とした。

 

ドイツでは、ルール占領で?空前のインフレーションが発生したが、首相のシュトレーゼマンが新紙幣のレンテンマルクを発行し、インフレーションを抑えた。また、アメリカ資本導入をはかるドーズ案を受け入れ、経済を復興させ、1926年にドイツは国際連盟に加盟した。

 

ドイツでは、皇帝が退位して共和制が成立した。多額の賠償金に苦しみ、1923年にはフランス、ベルギーがドイツの賠償金の滞納を理由にルール占領した。その後1924年のドーズ案が示した賠償金支払い軽減などにより、ようやく経済復興を果たした。

1921年に、賠償金が1320億マルクに正式に決まったが、敗戦後のドイツ経済の生産能力にはほど遠いものであり、国民経済を極度に悪化させた。1923年にはフランス、ベルギーがドイツの賠償金の滞納を理由に、ドイツの工業地帯のルールに侵攻すると、ドイツ政府はサボタージュ(生産放棄)で抵抗したため、ドイツの国民経済はさらに悪化し、ドイツの社会民主党政府への不満は高まり、右翼が政界進出する機会を与えた。

 

ドイツでは、ナチ党が第一次世界大戦後の1919年にミュンヘンでドイツ労働党として結成された。結党時にはベルサイユ条約破棄や、反ユダヤ主義などの過激な主張から国民の支持は得られなかった。1920年、国家社会主義ドイツ労働党と改称、1921年ヒットラーが党首となったが勢力はふるわなかった。しかし、世界恐慌による社会不安を背景にして一挙に勢力を拡大し、1932年7月に230議席を獲得して第1党となった。

 

ドイツでは、ベルサイユ条約の破棄、植民地の再分割などをめざすナチスが、中産階級を中心とした支持層を獲得し(共産党は弾圧)、一党独裁を行った。

 

ドイツでは、戦争による失業と社会不安が増大するなか、ナチスが政権を掌握した(1920年)。ヒトラーは、1933年に国際連盟を脱退し、1935年にベルサイユ条約を破棄して再軍備し、翌年にロカルノ条約を破棄して、ドイツ西部のラインラントに軍隊を進駐し、1939年にポーランドに侵攻した。

 

ドイツは、世界恐慌の影響を受けて経済が混乱した。これに乗じて政権に就いたナチスは、言論出版の自由の抑制やユダヤ人などの迫害を行う一方で、軍備の増強や道路の建設を行い、失業者を減らしていった。

 

 

 

スペイン史

 

イベリア半島では、8世紀以来、キリスト教徒によるイスラム教徒の駆逐運動(レコンキスタ)が展開されていたが、カスティリア王国(王女イザベル)と、アラゴン王国(王子フェルナンド)の2国が、1479年に統合されてスペイン(イスパニア)王国となった。そのスペイン王国が、イスラム王朝最後の拠点となっていたグラナダを攻略し、国内統一を完成した。統一後、イザベルとフェルナンドは、都市と結んで封建貴族を抑え、政治的、経済的に安定させ、海外進出を果たしている。その後、ハプスブルク家出身のカルロス1世によって絶対王政が確立された。

 

 

スペインは、フィリピン諸島を経営し、ルソン島ではマニラを拠点地とし(貿易と伝道を行なった1571年)、16世紀にはその大半を統治した。しかし、アメリカとの戦争に負け、その大半を譲ることとなった(1898年米西戦争)。

 

海外に進出したスペインは、「新大陸」の銀を独占して急速に富強となり、16世紀後半のフェリペ2世の治世に全盛期を迎えた。また、ポルトガルを併合してアジア貿易の拠点であるマラッカを領有したことから、「太陽の沈まぬ国」としての強盛を誇ったが、1588年には無敵艦隊(アルマダ)がイギリス艦隊との海戦に敗れて、大西洋の制海権を失った。

 

スペインでは、フェリペ2世の時代、地中海のシチリア島、キプロス島を占領し、キリスト教徒の地中海貿易を脅かしていたオスマン帝国の大艦隊をレパントの海戦に破って、その脅威を和らげた。

 

スペインは、ラテンアメリカの銀を独占してこれを財政の基盤とし、レパントの海戦(1571年)の勝利によって「太陽の沈まない国」として強盛を誇るに至った。

毛織物の国内産業の基盤は弱かった。

 

ポルトガル史

 

ポルトガルは、ジョアン2世の時代、バルトロメウ=ディアスがアフリカ南端の喜望峰を発見し、また、エマヌエル1世の命で、ヴァスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに到着した。これにより、当時、地中海の覇権を握っていたオスマン帝国の脅威のさらされることなく、アジア直接赴くインド航路の開拓に成功した。このインド航路の開拓は、一種の国営事業として行われたため、それに伴う香辛料の直接取引はポルトガル王室に莫大な利益をもたらし、首都リスボンは繁栄を誇った。

 

ポルトガルは、インドのゴアを根拠地として、東南アジアを制圧し、マカオに居住権を得て、欧州、日本、マニラと貿易した。

 

 

イタリア史

 

ミラノやジェノバ、ベネチアなど北イタリア諸都市は、十字軍の経路に当たっていた影響で商業上めざましく発展した。

 

ルネサンスは14世紀のイタリアで始まった。当時のイタリアは、ギリシャ・ローマの古典文化の復興が目ざれ、人間性を重んじる思想が支配的となった。

 

フィレンツェでは、商業や銀行業によって富を築いたメディチ家が市政を独占し、芸術の振興に努めたため、ルネサンス芸術が花開いた。しかし、16世紀前半になるとイタリア戦争の舞台となり混乱期を迎えた。

ルネサンス期のイタリアは、国家として統一されておらず、都市共和国や諸侯国、教皇領が分立状態にあり、15世紀末から16世紀半ばにかけて、イタリア支配を巡り神聖ローマ皇帝とスペイン王、フランス王がイタリアを戦場に戦った(イタリア戦争)。

 

ジェノヴァ(ジェノバ)は、ジェノヴァ公による君主制の下に、北イタリアにおける東方貿易の中心として繁栄したが、15世紀後半、フランス王ルイ12世(在1498~1515年)の圧迫を受け衰退した。

 

フィレンツェの外交官であったマキャヴェリは、祖国の再建策として、「君主論」を著し、立憲君主制を主張した。

 

ナポリ王国

12世紀、シチリア島にナポリに、両シチリア王国が建設され、フランスの支配を受けた。

13世紀にシチリアの島民が反乱を起こし、シチリア島はイベリア半島のアラゴン王の支配下に入った。一方、ナポリ王国は、15世紀半ばにはアラゴン王によってシチリア王国と併合され、両シチリア王国となった。

 

ローマは、教皇領として繁栄した。歴代教皇はルネサンス芸術の中心地をめざし、多くの芸術家を招いて、システィーナ礼拝堂などの壁画を描かせた。ミケランジェロの「最後の審判」はその代表作である。

レオナルド=ダ=ヴィンチが描いた「最後の晩餐」は、ミラノの聖マリア=テッレ=グラツィエ聖堂の壁画。

 

ヴェネチアは終身職の総督の下で共和政をとった。強力な海軍力を有し、16世紀後半のレパントの海戦では、スペイン、ローマ教皇の連合艦隊側に加わり、オスマン=トルコを打ち破った。「アドリア海の女王」と呼ばれた。

 

ナポレオン戦争後のウィーン体制以後、強国オーストリアにその一部を支配されたため、統一運動は難航し、1850年代になってフランスのナポレオン3世の介入により、ようやく進展を見ることになった。

 

青年イタリア党は、1849年にローマ共和国を建てたが?、まもなくオーストリアに敗れた。

 

イタリアは多数の小国に分裂していたが、フランス革命の影響を受けて国内統一の気運が高まり、ガルバルディの率いる青年イタリア党の活躍により、19世紀半ばサルディニア王国を中心とした統一がなされた。

 

イタリアでは、ガリバルディの「青年イタリア」が、両シチリア王国を併合して、サルディニア王国のエマヌエーレ2世に献上したことによって、イタリアの統一をほぼ完成させた。1861年にはイタリア王国が成立した。

サルディーニャは、オーストリア領のベネチアとローマ教皇領を除く全イタリアの統一を完成した。

イタリアでは、「青年イタリア」による統一運動などを経て、サルディニアが名宰相カヴールの下で徐々に領土を広げ、イタリア王国を成立させ、ほぼ全土の統一を達成した。

 

19世紀のイタリアは、オーストリアの影響が強かったが、国民主義、自由主義の運動の中で、サルディニア王国を中心にオーストリアからの解放と統一が進められた。

イタリアでは、青年イタリア党を中心に統一運動が起こり、まずロンバルディアや中部イタリアが統合され、さらにガリバルディの力によってシチリア、ナポリが加わり、イタリア共和国が成立した。

 

イタリアはリビアに進出し、1912年いに植民地とした。

イタリアは、帝国主義政策をとるのに十分な資本の蓄積が遅れ、19世紀後半になってアフリカ北東部のエチオピアに侵入したが、敗北し、20世紀に入り、1935年に再度エチオピアに侵攻し、翌年イタリアに併合した。

 

 

イタリアは、第一次世界大戦の戦勝国であったが、戦後の講和条約で領土要求が満たされず、また経済状況も悪化したため、国民の不満が高まった。こうした中、ファシスト党のムッソリーニが勢力を伸ばし、「ローマ進軍」の大示威行動を行い、政権を獲得した。

 

イタリアでは1919年にファシズム政党、ファシスト党が結成され、1922年に資本家や軍部の支持のもとにローマに進軍して政権を獲得した。

 

イタリアは、第一次世界大戦の戦費から極度の財政危機にあり、世界恐慌により多大な影響を被った。社会情勢の不安定な中で、ムッソリーニのファシスト党が政権を獲得し、1926年には一党独裁制に至り、1935年にはエチオピア侵略を行った。

 

 

 

オランダ史

 

毛織物工業が盛んで中継貿易で利益をあげていたネーデルランドは、15世紀半ばからハプスブルグ家の領有地で、北部にはルター派の新教徒が多かった。ハプスブルグ家の王朝であるスペインは、カトリックを強制して、自治権を奪おうとしたが、北部7州はユロレヒト同盟を結んで戦いを続け、1581年にネーデルランド連邦共和国の独立を宣言した。

オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム、1533~84)が指導した。名誉革命後、イギリス王に就いたウィリアム3世とは同一人物ではない。

 

スペイン領であったネーデルランドでは、本国の悪政や宗教的抑圧(フェリペ2世のカトリック政策)に対する反発などから、1568年に独立運動が展開された。

 

16世紀のネーデルランドは、スペインの属領であったが、この地方の新教徒が宗主国であるスペインから迫害されたのを契機に、ホラント、ユトレヒトを中心とする北部7州はユトレヒト同盟を結んで結束を固め、スペインと対立関係にあったイギリスの支持の下に抗戦を続けた結果、独立を達成した。

 

オランダは、独立戦争中ネーデルランド南部の毛織物業者が多く移住してきたため発達した毛織物業を背景に、オランダ東インド会社を設立するなど盛んに海上貿易に進出した。これにより、ポルトガル勢力を排除しつつ東洋貿易を独占し、17世紀前半にはスペインに代わって世界商業の覇権を握り、首都アムステルダムは世界商業・金融の中心として栄えた。

 

オランダは、1602年に東インド会社を設立し、ジャワ島のバタビアを根拠地として香辛料貿易を行った(植民地経営を行った)。17世紀前半には日本との独占貿易を行い、また一時台湾を支配したが、次第に後退した。

イギリスのインド進出により貿易不振となり、東インド会社は解散した。

 

オランダは、スペインに代わって海上権を握り、アムステルダムを中心に世界の商業・金融の中心として栄えたが、英蘭戦争で敗れ、急速に衰退していった。

 

英蘭戦争(1652~74):クロムウェルによる航海条例でオランダは貿易の利益を奪われ、その奪回をめざしてイギリスと行った戦争であった。

 

 

 

ロシア史

ノルマン人の支配下で建国されたキエフ公国は、ビザンツ帝国と交易して繁栄し、ウラジミール1世のときに最盛期を迎えた(980年即位)。彼は(ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹と結婚)、ギリシャ正教を国教とし(988、9年)、ビザンツ風専制支配を行った。

 

キプチャクーハン国の支配から独立し(1480年)、東北ロシアを統一したモスクワ大公国のイワン3世は、全国の農民の自由を奪い農奴化を進めるなどして専制君主の地位を固めた。

 

モスクワ大公国は、モンゴル人支配下で14世紀に前半に成立し、1480年に独立した。

 

イワン(イヴァン)3世は、モスクワ大公国の皇帝で、1480年にモンゴルの支配から完全に独立を果たした、彼はビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚し、ツァーリの名称を継承した。

 

ロシアでは、15世紀に入ると、モスクワ大公国のイワン(イヴァン)3世が出て、モンゴル(キプチャク=ハン国)の支配から完全に独立するとともに、他の諸侯を抑えて強大な権力を握り、ビザンツ皇帝の後継者を意味するツァーリの称号を正式採用した。

 

 

イワン(イヴァン)4世は、雷帝と呼ばれ、15世紀にツァーと自称した。

 

ステンカ=ラージンの反乱:17世紀後半に起こった(1670~71)、ロシアのドン=コサックを中心とする大農民反乱で、その勢力はカスピ海からヴォルガ川中下流域一帯に及んだ。

 

ロシアは、ピョートル(ピーター)1世の時代に、北方戦争(1700~21)においてデンマーク、ポーランドと結んでスウェーデンを破り、バルト海へ進出した。

 

18世紀ロシアでは、新たに首都ペテルブルグが建設された。ピュートル大帝(1689~1725)は、徹底的な欧化政策をとったが、1700年から始まった北方戦争では、強国スウェーデンを破った(破り、バルト海へへの出口と列強の地位を獲得した)。

 

ロマノフ朝のピュートル1世は西欧諸国を模範とする国制改革や農業振興によって国力を大いに充実させるとともに、清朝との間にネルチンスク条約を結んで(1689年)、両国の国境を定めた(清に有利な条件で)。

 

ロシアでは、ピョートル1世の死後一時国政が乱れたが、エカチェリーナ2世が啓蒙思想の影響を受けた、法律の整備などの諸種の改革を行って社会体制の近代化を図り、農奴制の廃止を求めるコサック、農奴らの大規模な反乱事件(コサック出身で農奴制廃止を求めるプガチョフの乱1742?1773~75年)、の後は、農奴制を強化し、フランス革命が起こると、その影響を恐れ反動政治を行った。

 

ロシアではエカチェリーナ2世によって富国強兵が図られ、種々の改革が試みられたが、一方で農奴制はむしろ強化された。

 

18世紀後半のロシアは、啓蒙専制君主といわれてエカチェリーナ2世の下で、様々な改革がなされたが、プガチョフによる農民反乱がさかんになり、農奴制が強化された。

 

啓蒙絶対君主として種々の改革を試みた女帝エカチェリーナ2世(1762年に即位、ドイツからピュートル3世に嫁ぐ)は、プガチョフの農民反乱(1773年~75年)後は農奴制を強化し、さらにフランス革命が起こると、これへの対抗から厳しい専制政治をしいた。

 

エカチェリーナ2世はポーランド分割に参加したり、オスマン帝国を圧迫して黒海まで進出する事に成功するなど、その版図を一気に拡げた。

 

ロシアではバルカン半島方面への南下政策を企てたが、クリミア戦争でトルコに敗北した。同戦争で敗れても以後も南下政策を企ていった。

 

ロシアでは、クリミア戦争の敗北により、改革の必要を悟ったアレクサンドル2世が、農奴解放令を出し、農奴に人格的自由と土地の所有を認めた。(ただ、この改革は地主本位に行われただけで不徹底なものであった。)

 

クリミア戦争の敗北後、アレクサンドル2世は農奴解放令を発する(1861年)など近代化を進めようとしたが、後に反動化して、知識人や学生を中心とするナロードニキによって暗殺された(1881年)。

 

ナロードニキ運動:都市の知識人層が農村に入って農民を啓蒙していくことによって社会主義改革を実現しようとした1870年代の運動である。

ナロードニキ:都市の知識人層が農村に入って農民を啓蒙していくことによって社会主義改革を実現しようとした1870年代の運動。

 

ロシアでは、アレクサンドル2世が、1861年、農奴解放令を発して国力を高めた。

 

ロシアは、19世紀中盤にようやく農奴解放を行い、また、ロシアの産業革命は、露仏同盟締結を契機とするフランス資本の導入で本格化するが、外資導入型の上からの急速な工業化は社会矛盾を激化させ、農業国ロシアに、工業労働者の革命政権ソビエト連邦を成立させることになる。

 

 

ロシアでは、1917年に三月革命と十一月革命が起こり、ツァーリズムが打倒され、ソビエト政権が樹立された。成立したボリシェビキ政権は、ドイツとブレスト=リトフスク条約を結びドイツと講和した。

 

ロシアでは、第一次世界大戦中に労働者や兵士による三月革命(1917年3月)が起こって、(ニコライ2世が退位し、ロマノフ王朝の)帝政が崩壊)、臨時政府が発足した。臨時政府は戦争を続行したが、ボリシェビキのレーニンが臨時政府の指導者ケレンスキーと対立し、同年11月の十一月革命で、臨時政府を倒し、ソビエト政権を樹立した。ソヴィエト政権はドイツと休戦し、地主の土地を無償没収し、農民に分配した。

 

ロシアでは、第一次世界大戦中、ケレンスキーの指揮するメンシェビキ(少数派)が、皇帝ニコライ2世を退位させた。

十一月革命ではレーニン率いるボリシェビキが戦争停止を主張し、ロシアにとっては不利なブレスト=リトフスク条約をドイツとの間で締結し戦線を離脱した。その結果、日・英・米・仏がロシア革命に対する内政干渉を行い、シベリア出兵のきっかけとなった。

 

レーニン率いるソヴィエト革命政権が、単独でドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで講和すると、1918年、英、仏、アメリカ、日本の4ヶ国は、革命の波及を防ぐため、チェコ軍救援を名目として、シベリアに出兵して交戦した。(軍隊を派遣して、ロシア国内の反革命軍を助ける対ソ干渉戦争を起こした。)しかし、連合軍の支持した反革命軍が敗北し、1920年に英米仏は撤退し、日本も22年に撤兵した。14カ国が出兵?

 

 

 

レーニンは、革命後の戦時共産主義による産業の減速や、数百万人の餓死者まで出した深刻な食糧不足を克服するために、1921年、国有化政策を緩め、中小企業に私的営業を許すとともに、農民には余剰生産物の自由販売を認める新経済政策(ネップ)を行った。この結果、国民経済は回復に向かい、生産は第一次大戦の水準に回復した。

 

ソ連では、レーニンが穀物徴発をやめて、農民に余剰農産物の自由販売を認め、中小企業の私的営業を許すなどの新経済政策(ネップ)を採用した。スターリンはネップを変更し、三度の五カ年計画(1928、1933、1938)を実施した結果、工業生産力が増大した。ソ連は国際連盟設立当初に加盟せず、1934年に加盟した。

 

 

ソビエト連邦では、世界恐慌の影響を受けなかった。ソ連では、第一次(1928~32)および第二次五カ年計画(1933~37)が進展し工業生産は飛躍的に増大した。当時は、反体制に対する大量の投獄や処刑によって独裁的権力をふるったスターリン体制の時代であった。

 

(社会主義国としてスタートした)ソ連は、1928年に5カ年計画を実施し、計画経済を進めていった。このため、ソ連は資本主義的経済破綻である世界恐慌の影響を受けなかった。

 

 

 

 

アメリカ史

 

 

イギリスからの植民者たちは、キリスト教の宗派も、植民地成立の事情もさまざまであった。

先住民を排除して領土を拡大していったが、17世紀前半(1619年)は、バージニア植民地の議会を最初として植民地議会など自治制度を作りだした。

 

1607年のバージニア植民地から1732年のジョージア植民地まで、東部海岸に建設された13の植民地に入植したイギリスからの植民地はさまざまな宗派から成り立っていた。ニューイングランド植民地(北部植民地)はピューリタン、南部植民地はカトリックの勢力が強かった。

中部植民地のペンシルベニアはクウェーカー教徒のウイリアム=ペンにより建設された。

植民地人とその子孫には本国の国民と同じ権利が与えられるとされ、1619年には、最初の植民地議会がバージニア植民地のジェームズタウンで開かれた。

 

ルイジアナ植民地は、1682年にフランス人 ラ=サールによって探検され、ルイ14世に献上されたフランス植民地である。

 

イギリスは印紙条例による課税を強化し、植民地側の「代表なくして課税なし」とする反対運動に対して、条例を撤回したが、課税の試みは続けられた。

 

英国によって重税を課せられるなどの圧迫を受けていたアメリカ植民地では、トマス=ペインが自著「コモン=センス」(1776年)の中で「万機公論に決すべし」と唱えて独立の機運を高めた。(植民地はイギリス本国から独立して共和国になるべきだと主張した。)

 

18世紀前半のイギリスの植民地であったアメリカは、植民地議会や大学を設立するなど自治的な政治体制を発展させる一方、本国の植民地政策による重税に苦しんでいた。1765年の印紙法、1773年の茶法に苦しみ、1775年にボストン北西のレキシントンでイギリス本国と武力衝突した。、

人々はロックの啓蒙思想の影響を受けた独立宣言を発表した。

 

 

植民地で反乱が起きると英国は鎮圧を試みたが失敗し、アメリカ合衆国が建国された。フランスは植民地側に参戦した。

 

東海岸にあった13植民地による憲法制定会議で合衆国憲法が制定されたことにより、アメリカ合衆国が成立した。同国はその成立を認めないイギリスを戦争で打ち破った後、ジェファソンやフランクリンらが起草した独立宣言を発表して自国の正統性を主張した。

 

 

独立戦争の勃発(1775)⇒ 独立宣言(1776)⇒ 合衆国憲法の制定(1787)の順が正しい。

 

 

アメリカの植民地代表は、1774年、フィラデルフィアで大陸会議を開き、イギリス本国に対抗することを決定した。その後、ボストン近くのレキシントンとコンコードで、いわゆるアメリカ独立戦争は勃発した。

 

1776年の大陸会議では、トマス=ジェファソンらが起草した独立宣言を発表し、アメリカ合衆国と名乗ることになった。この宣言は、基本的人権と暴政に対する革命権が述べられており、ロックの啓蒙思想の影響が見られる。国民の平等権、自由権、主権在民などの基本的人権を示すことにより独立の正当性を表明した。

 

アメリカ独立戦争には、フランス、オランダ、スペインが植民地側に立って参戦した。ロシアは武装中立同盟を唱えてイギリスの海上封鎖に対抗し、イギリスを孤立させた。また多くの義勇兵がヨーロッパ各地から参戦した。

 

イギリス軍は1781年、ヨークタウンで大敗を喫し、アメリカ独立戦争は実質的に終結した。その後、パリ条約が結ばれ、イギリスはアメリカの独立を承認することになった。ミシシッピ以東のルイジアナを割譲した。

 

1787年、フィラデルフィアで開かれた憲法制定会議において、合衆国憲法が制定され、その後、初代大統領には、植民地軍総司令官として独立戦争を勝利に導いたワシントンが就任した。

 

独立後のアメリカ合衆国では、強力な連邦政府の樹立を望む声が高まり、アメリカ合衆国憲法が制定された後、ワシントンが初代大統領に就任した。

 

1775年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス本国と植民地民兵とが衝突した事件が独立戦争の発端である。植民地側は、同年5月、フィラデルフィアで第2回大陸会議を開き、ワシントンを総司令官とする大陸軍を創設して戦争を進め、翌1776年7月4日、独立宣言を発して13州の独立を宣言した。戦争は、1781年のヨークタウンの戦いで植民地側の勝利が確定し、1783年のパリ条約で正式にイギリスはアメリカの独立を認めた。

 

レキシントンでの武力衝突は発端となり、アメリカ独立革命(戦争)が起こった。革命中、トマス=ジェファソンが独立宣言を起草し、1776年に発表した。

 

次いで、植民地側は、1777年11月に連合規約を制定して、国名をアメリカ合衆国とした。しかし、当初のアメリカは、事実上、13の独立共和国の緩やかな連合体にすぎず、中央政府の権限は弱かった。そこで戦争終了後の1787年、ワシントンを議長とする憲法制定会議がフィラデルフィアで開かれ、中央政府の権限を強化する一方、各州の大幅な自治権を認めるアメリカ合衆国憲法を制定したのである。なお、憲法は1788年に9州が批准して発効し、翌1789年、ワシントンを初代大統領とする連邦政府が発足した。

 

 

(略)———————————————————————————————————–

こうして、1774年に始まったアメリカの独立革命は、1783年のパリ条約でイギリスが独立を承認し、植民地アメリカの独立が実現しました。1787年には合衆国憲法が制定、その2年後に、初代大統領にJ・ワシントンが就任しました。

では、次に新生アメリカが、20世紀の大国として、どのように発展していったかをみてみましょう。

 

 

1805年、トラファルガーの海戦でフランスが敗れると、イギリスはフランスに対してだけでなく、アメリカにも報復として海上封鎖を実施しました。

 

。アメリカは、イギリスの海上封鎖解除を狙い、1807年に外国との貿易を停止したが、イギリスは海上封鎖を継続、アメリカの農産品輸出は大きな打撃を受けた。

 

結果としてアメリカの貿易も阻害されることになり、結果としてアメリカの貿易も阻害されることになり、ついに1812年6月にアメリカイギリス宣戦布告する。

 

そこで1812年、アメリカは、イギリスへの宣戦布告を実施し、米英戦争となった。しかし、ナポレオンの没落で英軍が増強されてしまい、戦況はアメリカに不利となり、1815年、ベルギーで締結されたガン条約により停戦となった。米英の領土は戦前に戻された。

 

 

18121814  米英戦争(3代トーマス・ジェファソン)

   アメリカの経済的自立と資本主義の発展へ

 

1803年、フランスのナポレオンは、イギリスとの戦争資金の捻出のために、ミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナをアメリカに売却しました。アメリカはルイジアナ買収により、広大な西部の土地を獲得し、1840年代以降に本格化する「西部開拓」の足がかりとしていくことになります。

ナポレオンはルイジアナ売却後、イギリスと戦争を開始、アメリカはこの戦争で中立の態度を取りました(イギリスに味方しなかった)。

1805年、トラファルガーの海戦でフランスが敗れると、イギリスはフランスに対して、海上封鎖を実施しました。イギリスの海上封鎖は結果として、当時、イギリスを中心にヨーロッパへの農産物の輸出によって外貨を獲得していたアメリカの貿易も大きく阻害されることになり、1812年6月に、アメリカイギリス宣戦布告するに至りました。米英戦争の始まりです。戦況は、ナポレオンの没落で英軍が増強したことから、アメリカには不利に傾き、1815年のガン条約により停戦となりました。

 

19世紀前半、米英戦争終了を契機に、イギリスから経済的独立を果たし、モンロー宣言によって、アメリカ大陸諸国とヨーロッパ諸国との相互不可侵の外交政策を確認した。外交的には孤立主義をとった。

 

 

英米戦争は、後のアメリカにどういう影響を与えたのでしょうか?

米英戦争中に、イギリスや欧州大陸との関係が途絶えたことで、アメリカ人としてのナショナリズム(国民主義)が高まりました。産業政策的には、保護関税を図って自国内の工業を発展させるなど、アメリカ国内で自前の産業が発展する端緒となったのです。こうして、アメリカはかつての植民地時代から続いたイギリスからの経済的な独立を果たしていきました。この米英戦争を、「第二次独立戦争」と呼ぶこともあります。

また、米英戦争以降、外交的にはモンロー宣言(1823年)、政治的には民主主義が発展、経済的には産業革命が進展していくことになります。

 

1823年、モンロー主義宣言・・・「孤立主義」米外交の基本原理

米・欧州両大陸間の相互不干渉、独立の尊重、干渉を受けた場合の実力による反抗。

 

合衆国は、ラテン=アメリカ諸国の独立に際し、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への干渉の排除を主張するモンロー宣言を行った。

 

アメリカ合衆国は、モンロー宣言(1823年)を公表して、

モンロー宣言は、1823年、ラテンアメリカ諸国の独立に対するヨーロッパ諸国の介入を排除するために、第5代大統領モンロー(在1817~25)が年頭教書(モンロー教書)で宣言したものである。

その内容は、1)ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸を植民の対象にすることに反対する(非植民地主義)、2)ヨーロッパ諸国のアメリカ大陸に対する干渉はアメリカへの非友好的態度と見なす、アメリカもヨーロッパも互いの国内問題には干渉しない(相互不干渉主義)というもの。これは、ヨーロッパの情勢には干渉しないという建国以来のアメリカの孤立主義政策を表明したものであり、同時にラテンアメリカ諸国の独立を支援したものでもある。

 

 

 

1830年代、ジャクソニアン・デモクラシー(7代ジャクソン大統領)

~民主主義と産業革命への道程~

 

1830年代のアメリカは、ジャクソン大統領(1829年3月~1837年3月)の時代で、ジャクソニアン・デモクラシーと呼ばれるアメリカ流民主主義の花が開いていきました。

アンドリュー・ジャクソンは1824年、米英戦争での活躍で有力な大統領候補として浮上し、一般投票でジョン・クインシー・アダムズを上回ったものの、過半数を獲得できず、下院の裁定の結果、落選してしまった。しかし、1828年の選挙で雪辱を果たし、米大統領として2期務める長期政権を実現しました。

ジャクソン大統領は選挙権を拡大させた一方、「官職は国民の財産」であり、「一人の人間が長期間、同じ地位にいれば権力は腐敗する、公職も同様である」、「永続的な官僚制は民主主義に反する」として、家柄にとらわれることなく、誰もが政治に参加することができる道を拓きました。

しかし、同時に選挙権の拡大は、大量に選挙人が出現することを意味し、選挙においても、候補者は大規模な選挙活動を行うこととなっていきました。結果として、当選した際には、選挙活動の協力者に役職を提供するという慣習で、今も残る猟官制度(スポイルズ・システム、情実任用制)が登場しました。

この政策に関しては、賛否両論があり、賛成する親ジャクソン派は民主党を結成、反ジャクソン派はホイッグ党(後の共和党)を組織し、後のアメリカの二大政党制につながっていくことになります。

一方、ジャクソン政権の時代、アメリカも主要国ではイギリス、ベルギー、フランスなどに次いで産業革命が本格化しました。アメリカの産業革命については、フルトンの蒸気船がハドソン河をさかのぼった1807年がきっけとなり、米英戦争以降進展していきました。

 

 

1840年代、西部開拓 ~マニフェスト・ディスティニー

 

西部開拓が盛んに行われ、その最前線の地帯(フロンティア)は時代とともに西へと移動した。さらに戦争や買収により周辺地域を併合し、19世紀半ばには大西洋岸から太平洋岸に至る広大な土地を獲得した。

 

一方、経済の発展とともに、領土としての国土も西へ拡大していきました。1845年にテキサスを併合した後、1848年には、メキシコとの戦争(米墨戦争)に勝利し、カリフォルニアとニューメキシコは1500万ドルでアメリカへ譲渡されました。こうして、アメリカの領域は太平洋岸に到達しました。

マニフェスト・ディスティニー(明白な運命、膨張の運命)とは、この頃に生まれた言葉で、「アメリカが西部へ膨張していくのは神から白人に与えられた使命だ」とする西部開拓を正当化した思想です。17C前半から始まったこの西漸(せいぜん)運動は、米英戦争後から南北戦争までの間に最盛期となりました。

さらに、1848年にカリフォルニアに金鉱が発見され、「ゴールドラッシュ」の時代を迎え、1850年初頭にはカリフォルニアの人口は20万人まで急増し、西部の開拓が急進展することになっていきました。

こうして、1890年頃までにフロンティア消滅しました。これはアメリカの全ての土地に入植者が入ったことを意味します。そして、この時には、工業生産高で、当時の覇権国イギリスを抜いて世界一になっていたのです。

 

さて、領土的には現在のアメリカがここで生まれたと言えますが、政治的、経済的な統一は、次の南北戦争を待たなければなりません。

 

 

ただし、アメリカの産業革命のピークは、ジャクソン後の1840年代から50年代です。航路や鉄道網が完成、鉄鋼産業も急速に拡大していくなかで、1850年代までに北東部を中心に重工業化が進んでいきました。これが後の南北戦争における「商工業の北部」と「大農園の南部」という対立にもつながっていくのです。

また、都市に労働者が集まりだし、彼らが大量に暮らす大都市圏が生まれました。企業に出資する資本家や企業経営を行う経営者も台頭しだし、アメリカに資本主義経済が根づいていきました。

 

大陸の東側では、北部と南部がそれぞれ独自の発展を遂げており、北部は商工業の発展を背景に、地方分権ではなく中央集権を、自由貿易ではなく保護貿易を主張し、奴隷制に反対した。

北部は、国内産業保護のため保護貿易を支持し、

南部は、伝統的にイギリスの綿工業と結びついた綿花栽培と輸出を経済基盤とするため自由貿易を支持し、地方分権的指向が強かった。

 

南北戦争は4年ほどで終結し、戦後は北部が南部を国内の商品市場とする形で中央集権化が進み、奴隷が解放されて近代的な国家として歩みだした。

 

 

アメリカ合衆国では、奴隷制の拡大に反対し、イギリスに対抗するため保護関税政策を推進したリンカーンが大統領に就任した(1860)ことで、南北戦争(1861~65)が勃発した。リンカーンはこの戦争中、奴隷解放宣言を発表(1863)し、激戦地のゲスティスバーグで「人民の、人民による、人民のための政治」を訴える演説を行った。

 

奴隷制廃止等をめぐる南北の利害対立が激化する中で、北部出身のリンカーンが大統領に当選すると、南部は連邦を脱退し、南北戦争が勃発した。

 

南北戦争の背景には、奴隷制をめぐる立場の違いとともに、北部と南部の経済上の対立があった。工業化の進んだ北部はイギリスとの対抗上、保護貿易を求める一方、南部では主に綿花が栽培され、綿工業の発達したイギリスに輸出する体制がとられていたので、自由貿易を求めた。

 

地下資源が次々に開発され、大陸横断鉄道が完成し、独占資本が形成され、19世紀末の工業生産はイギリスを抜いた。

アメリカではしばしば反トラスト法が制定されているように、トラストは発達し、巨大な独占企業が形成された。イギリスを抜いて世界最大の工業国となっていた。

 

19世紀後半には、全国的な高速自動車道路網が完成して国内市場が統一され、またアジアから移民が大量に流入した。これにより、20世紀初頭には、アメリカ合衆国において自動車や家庭電化製品などの大量生産・大量消費をもとにした生活様式が出現し、大衆消費社会が到来した。

 

19世紀末にはデパートに象徴されるような「大衆消費社会」への転換期であるが、問題文にある自動車や家庭電化製品の大量生産・大量消費を背景にした大衆消費社会が始まるのは20世紀初頭である。その象徴とも言うべき、大衆車「モデルT」の大量生産にフォードが成功するのは1908年である。最初の劇映画とされる「大列車強盗」の上映は1903年、ラジオ放送の開始は1907年、蓄音機が家庭にまで普及するのは20世紀の初頭である。

 

 

19世紀後半に完成したのは、大陸横断鉄道である。1869年、セントラル=パシフィック鉄道とユニオン=パシフィック鉄道がプロモントリーで連結され、大陸横断鉄道が開通した。以後、1883年に南太平洋鉄道と北太平洋鉄道が開通し、19世紀末には国内市場が統一された。なお、アメリカで高速道路の建設が始まるのは1907年のニューヨーク州が最初である。

 

また、19世紀後半に、アジア系の移民が奴隷に代わる鉄道建設などの労働力(クーリー)として導入されたのは正しい。ちなみに、セントラル=パシフィック鉄道の建設には中国人労働者が使われた。

 

マッキンリー大統領は、アメリカ・スペイン戦争(米西戦争1898年)でスペインに勝利し、キューバの独立を認めさせ、フィリピン、グアム、プエルトリコをスペインから獲得した。

 

米西戦争の結果スペイン領フィリピンを植民地化し、中国との通商の機会均等を求める門戸開放宣言を行うなど帝国主義外交を展開した。

 

 

アメリカ合衆国は、1929年のニューヨーク株式市場での株価の暴落から、深刻な不況に見舞われた。この間、企業の倒産が一挙に進んで工業生産は急落し、農業生産も打撃を受けた。また、1930年になると恐慌は金融機関にまで拡大し、有力な銀行などの閉鎖や倒産が起こり、預金者が銀行へ殺到する取り付け騒ぎが頻発した。

 

数年間にわたる過剰生産と異常な投機熱の中でニューヨーク株式市場が大暴落し、世界恐慌につながるかつてない大恐慌が起こった。

 

アメリカ合衆国では、大統領のフランクリン=ルーズベルトが、ニューディール政策を実施し、公共事業を実施することで、国家的な経済統制を課した。

 

FDルーズベルト大統領は1933年以来、農業調整法、全国産業復興法を中心とするニューディール政策を行い、世界恐慌の克服を図った。

農業調整法:生産制限と農産物価格の引き上げを行った法律。

全国産業復興法:生産制限と労働者の賃金引き上げを行った法律。

 

政府が積極的に経済に介入し、生産の調整による価格の安定化、大規模な公共投資、農産物価格の引き上げなどを行うニューディール政策を実施した。

 

アメリカ合衆国では、株式相場の大暴落により生じた恐慌の打開を図るため、フランクリン=ローズヴェルトが全国産業復興法や農業調整法などを中心としたニューディール政策を実施した。対外的には、中南米諸国との善隣外交を展開するとともに、ソ連と国交を開き、貿易を拡大させた。

 

 

  • トゥクビルの思想 (政治学) 

トゥクビル  主著「アメリカにおけるデモクラシー」

「19世紀のモンテスキュー」と称されたフランス貴族のトゥクビルは、ジャクソン大統領期のアメリカを視察します。

当時、市民革命以降のヨーロッパでは、自由主義(リベラリズム)と民主主義(デモクラシー)は対立する概念でした。つまり、自由主義は、旧体制に不満を持つブルジョワジーから支持され、まさに市民革命の原動力となりました。ところが、革命が実現すると、都市の民衆、労働者、農民から「自由」だけでなく、「平等≒民主主義)」が求められるようになります。例えば、自由な経済活動(⇒資本主義経済)が行われれば、貧富の差がでて、平等な富の配分(⇒社会主義)は実現できません。もともと、自由と平等は相容れない概念です。

しかし、アメリカを訪れたトゥクビルはアメリカでは自由主義と民主主義が両立していることを見出したのです。

具体的には、アメリカは、もともと宗主国イギリスの圧政からの「自由」を求めて生まれた国で、協和精神、結社の自由な活動、連邦政府からより独立した地方自治(州)制度が形成されるなど、建国そのものが自由主義を土台としていました。そのアメリカで、「ジャクソニアン・デモクラシー」の下で、民主主義的な政治制度が確立していたのです。

トゥクビル以降、自由主義と民主主義が合体した自由民主主義という概念が定着することになっていったのです。なお、トゥクビルその人は、フランスで政治家になって活躍しますが、1851年、ルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)のクーデターを批判したとして逮捕され、政界を退くことになります。

 

 

  • スポイルズ・システムとメリット制 (行政学)

スポイルズ・システム(猟官制、情実任用制)

スポイルズ・システムは、第3代大統領のジェファソンの時代に導入され、7代のジャクソン大統領(在任1829~37)時に確立しました。誰でも官職につくことができ、固定的な官僚制を打破するという意味で、ジャクソニアン・デモクラシー(ジャクソン民主主義)として高い評価を受けました。

しかし、現実的には選挙時の支持者へのごほうびであり、時として、行政実務の経験能力に乏しい人材を多く任用することもあり、行政の非効率化、行政能力の低下、さらには、官職ポストを巡る賄賂などの政治癒着の問題が発生しました。

 

そこで、行政官の専門的知識や資格が求められると同時に、アメリカでは「行政」とはどうあるべきかという研究が始まりました(アメリカ行政学の始まり)。

ちょうどその頃、イギリスでは、ノースコート・トレベリアン報告という提言書が政府に提出され、メリット制(資格任用制)が導入されていました。

 

メリットシステム(資格任用制)

そこで、アメリカにおいても、1883年に最初の連邦公務員法であるペンドルトン法が制定され、政治的に中立な個人の専門知識・能力によって(つまり、公務員試験によって)任用するメリットシステム(資格任用制)が導入されることになりました。もっとも、スポイルズ・システム(猟官制、情実任用制)が完全になくなったわけではありません。むしろ、現在でも猟官制による採用枠が他国より多いという現実があることも忘れないようにしましょう。

 

 

  • アメリカの二大政党制 (政治学)

アメリカは現在、共和党と民主党の二大政党制ですが、その原型はジャクソン大統領の時代に出来上がりました。民主党は1830年の創設で、共和党は1854年にあのアブラハム・リンカーンらにより結成されましたが、その原型はジャクソン期のホイッグ党です。

さて、アメリカの政党制ですが、かつての日本の自民党vs社会党という保守vs革新という対立軸はないという特徴があります。建国以来の資本主義を堅持することや、党規律が緩やかで地方分権的な党構造であるといった点では、共和党も民主党も同じで共に「保守」なのです。

ただし、支持層の違いなどから、共和党は、例えば経済・社会政策よりは、市場メカニズムに基づく自由競争(市場原理)を是とし、経済では協調路線をとります(グローバル化を支持)。思想面でキリスト教道徳を重視し、外交・防衛では強硬、マイノリティの保護には慎重です。これは、産業界や保守層が代表的な支持母体だからです。

一方、民主党は、支持層が労働者層、黒人やスペイン系などマイノリティ(少数派)、女性や進歩的な知識人などであることから、自由競争は尊重されますが時と場合によっては弱者対策としての経済・社会政策も重要と考えます。また、黒人・移民などマイノリティの権利には肯定的で、外交・防衛では協調、思想・表現の自由を尊重し、経済では労働者を守るという観点から保護路線も辞しません。

 

                               共和党    民主党          

競争原理                      自由競争  経済社会政策も

思想・表現の自由         慎重      尊重

マイノリティの保護     慎重      推進

外交・防衛                    強硬(反共) 協調

経済                         協調路線    保護路線

 

 

  • アメリカの保守とは?(政治学)

一般的に、保守主義とは、例えばヨーロッパでは市民革命前までの「伝統的な価値観を守る考え方」をさすと言っていいでしょう。この伝統的な価値観を保持した絶対王政を打倒したのが市民革命です。革命によってヨーロッパでは、リベラリズム(自由主義)が台頭し、アダムスミス的な市場メカニズムを重視した自由主義経済(=資本主義経済)が進展しました。

これに対して、独立戦争という市民革命によって誕生したアメリカは、建国時に生まれたヨーロッパ的な自由主義や資本主義を守ることが保守なのです。「小さな政府」の立場で社会や市場の自律性を信頼するのがアメリカの「伝統」的な価値観なのです。

従って、「アメリカの保守主義=欧州のリベラリズム(自由主義)」となります。これに対して、市場原理の行き過ぎを修正し、「大きな政府」の立場で社会福祉を充実させ、弱者を保護しようとする考え方が、アメリカのリベラリズムなのですね。そういう意味で、「共和党は保守政党、民主党をリベラル政党」という言い方をする場合もでてきます。

 

 

 

キリスト教

 

キリスト教は、ローマ帝政時代の初めころ、パレスチナ地方に生まれたイエスの教えに始まった。キリスト教は帝国各地に広まった。

 

ペテロとパウロは、紀元前1世紀にイエスの教えをローマ帝国各地に伝道し、伝道の記録をイエスの教えとともに「新約聖書」にまとめた。

 

 

 

ローマ帝国の歴代の皇帝はキリスト教を迫害し続けたが、

 

キリスト教の迫害は、民衆の強い反発を招き、ローマに内乱が起きたため、コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認(313年)した。

 

キリスト教の迫害は、民衆の強い反発を招き、ローマに内乱が起きたため、コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認(313年)し、ビザンティウムに首都を建設し、コンスタンティノープルと名づけた。

 

コンスタンティヌス帝(在位306- 337年)は、ミラノ勅令でキリスト教を公認し、ニケーア公会議を開いて、三位一体説をとるアタナシウス派を正統とし、キリスト教の教義の統一をはかった。

 

コンスタンティヌス帝は、ミラノ勅令を出して、キリスト教を公認し、ニケーア公会議(325年)を開いてアタナシウスの説を正統教義とした。

 

キリスト教は、テオドシウス帝の時代の392年に国教として認められた。

392年にはテオドシウス帝がキリスト教を国教とした。

 

アウグスティヌスは、ローマ帝国末期における教父の一人で、初期キリスト教学の確立者の一人。著書に「神の国」。

 

 

末期のローマ帝国では、ローマ教会とコンスタンティノープル教会が有力となっていた。

東西ローマ帝国の分裂後、東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝レオ(レオン)3世が聖像禁止令を発したことを契機として、両教会は対立し、1054年には、ローマ教皇を首長とするローマ・カトリック教会と、ビザンツ皇帝が支配するギリシャ正教会とに二分された。

 

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、皇帝レオ3世が聖像禁止令(726年)を出したため、ローマのカトリック教会と対立し、1054年にはカトリック教会との関係を絶ち、ギリシャ正教会が成立した。

 

6~7世紀の時点で、既にローマ教会は、ゲルマン人との提携を図るために聖像崇拝を積極的に推し進めており、その結果フランク王国との提携が8世紀に急速に進んだ。

 

ヨーロッパでは、ローマ=カトリック教会の聖職売買などが生じていたため、クリュニー修道院を中心に改革の運動が起き、教皇グレゴリウス7世と、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世との間で叙任権闘争が始まった。教皇が皇帝を破門したため皇帝はイタリアのカノッサで教皇に謝罪した(1077年、カノッサの屈辱)。

 

ローマ教会は、宗教裁判所を設けて、異端審問を強化する一方、修道院を中心として改革運動を進めた。

 

13世紀の初めに絶頂を極めていた教皇権は、十字軍の失敗や封建制度の動揺を背景に教皇のバビロン捕囚や教会大分裂などが起こり、衰退を見せ始めた。

 

教皇のバビロン捕囚は1309年にローマ教皇クレメンス5世がフランス王によってフランスのアヴィニョンに強制的に移住させられたことに端を発し、1377年までアヴィニョンに教皇庁が置かれた事件である。その後、1378年から1417年までローマとアヴィニョンに2人の教皇が存在した事件が教会大分裂である。

 

このような中で教会の世俗化や腐敗が進み、教会改革を主張したフスが異端として処刑されたことから、フス派が反乱を起こした(1419~36年)。

ウィクリフの影響を受け、教会改革を唱えたチェコのフスは、コンスタンツ公会議で1415年焚刑となった。

 

 

中世では神学が最高の学問であり、これはイスラムの哲学や科学を取り入れてスコラ哲学に体系化され、修道院に設けられた大学で医学や法律などともに教えられた。

西欧の公用語は中世においてはラテン語だった。

 

トマス・アクィナス(1225頃~74)は中世の人物で、アリストテレス哲学の導入により、「神学大全」を著し、スコラ哲学を大成し、神と教会の権威の確立を図った。

 

 

(15、16世紀)

 

ローマは教皇領をして繁栄していたが、歴代教皇は、ルネサンス芸術の中心地をめざし、多くの芸術家を招いた。ミケランジェロは、ラファエロらとともに、サン=ピエトロ大聖堂の建築に携わった

 

ルネサンスの人文主義が高まる中、ローマ教皇レオ10世は、大聖堂の建築費を得るために免罪符を販売させると、ルターがこれを批判した。ルターの主張は、教皇に反感を抱く層に支持され、教皇権から独立したいくつかの教派を生み出した。これらは一般に新教と呼ばれる。

 

マルティン・ルターは、16世紀に魂の救済は善行によるのではなく、福音の信仰によるとして、95か条の論題を発表し、教皇の権威を批判した。

カルヴァンは、人間の救済は神の絶対的意思に基づいて予定されているとする予定説を唱えた。

 

従来のローマ=カトリック教会の権威を否定する宗教改革がルターやカルヴァンによって進められ、彼らの教えがヨーロッパの北部を中心に広まった。

ルターの説は北ドイツや北欧諸国に広まり、カルヴァンの説はネーデルランドやイギリス、南フランスなど商工業の盛んな地域に普及した。

イギリスではピューリタン、スコットランドではプレスビテリアン、フランスではユグノー、ネーデルランドではゴイセンと呼ばれた。

 

15世紀半ばになると旧教と新教の対立が深まり、しばしば宗教戦争が引き起こされた。旧教国フランスでは新旧両教派の対立に貴族の権力闘争がからみ、ユグノー戦争(1562~98年)が起こった。一方、旧教勢力はパリにイエズス会を結成し(1534年)、アメリカ大陸やアジアで積極的な布教活動を行った。

イエズス会(別名ジェスイット)は、厳格な規律と組織のもとに積極的な宣教、教育活動を繰り広げた。

 

トリエント公会議は、1545年から63年にかけて開かれたカトリックとプロテスタントの調停を目的とした宗教会議であったが、プロテスタントの欠席で、ローマ教皇の正統性と至上権を確認し、宗教裁判を強化した。

 

 

聖像崇拝に反対し、ローマ教会の支配から離れた正教会は、東ローマ帝国皇帝を兼ねる首長?大司教?の正統性と至上権が確立した。

 

ビザンツ帝国では、皇帝レオ3世が発した聖像禁止令をめぐる対立を契機に東西教会が分裂し、ビザンツ皇帝を首長とするギリシャ正教が確立した。帝国では、ギリシャ語が公用語とされ、イスラム文化とギリシャ正教を融合させたビザンツ文化が生み出された。ギリシャ正教は、ロシア、セルビア、ブルガリアなどの地域において受容された。

 

ロシア正教会は、ギリシャ正教会の一派で、10世紀末にロシアの国教となり、ビザンツ帝国滅亡後、モスクワ大公国がギリシャ正教会の後継者とされ、ピョートル1世時代に皇帝に従属する教会とされた。

 

 

 

 

 

キリスト教と仏教

 

キリスト教の愛(アガペー)が基本的に人間中心主義であるのに、仏教の慈悲は人間の範囲を超え、すべての生きとし生けるものに及ぶとされる。

 

キリスト教の愛は、神の普遍愛の反映として、隣人愛から人類愛へとひろがる。

キリスト教の愛は、広く普遍的に、すべての隣人へと向けられる。

キリスト教の愛は、神の無償の愛ということを強調。

キリスト教の愛は、敵をも愛するという無条件にして絶対の愛である。

 

仏教の慈悲(愛)は、人間は平等であるとして、人類愛につながる。

仏教の慈悲は、対象の価値にかかわりなく注がれるものである。

仏教の慈悲は、もろもろの「衆生」に対して、一切の区別なく向けられる。