思想

西洋思想

 

ギリシャ

 

古代ギリシャの時代には、詩人のホメロスやヘシオドスによって、徹底した人間中心の世界観がつくられ、ギリシャ神話においても神々は擬人化されていた。

 

ギリシャの自然哲学は、人間の理性によって事物を冷静に観想し、普遍の真理をとらえようとした。自然哲学の祖とされるタレスは、自然の根本原理である万物の「根源」を「水」と説き、ヘラクレイトスは、「万物は流転する」と考え、その根源を「永遠に生きる火」と述べた。

 

ヘラクレイトス

すべての存在は、火のように生成と消滅を繰り返すこと(生々流転)で存在していると唱えた。同じ川の流れにはニ度と足を踏み入れることはできないという例えにあるように、存在の瞬間性と一回性を強調し、世界を「運動」の観点から明らかにしようとした。

 

タレスは、最初の哲学者といわれ、万物の根源(アルケー)は、「水」であると説いた。

 

ソフィストは、人間の問題である法や社会制度を哲学の対象とした。代表的なソフィストであるプロタゴラスは、個々の人間の判断が事物の善悪の基準であり、万物をつらぬく普遍的真理は存在しないと考え、「人間は万物の尺度である」とする相対主義の立場をとった。

 

 

ギリシャでは、ポリス市民の自由な活動の中から、合理的な思想や明るい人間的な文化が生み出されたが、特にプラトン、アリストテレスらによって発展した哲学はヨーロッパの人々の教養の基礎となった。

ポリスの衰退期にギリシャを征服したマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征をきっかけとして、ギリシャの文化とオリエントの文化の融合がみられ、ヘレニズム文化と呼ばれた世界文化が栄え、物理学、天文学、医学などで高い水準を示した。

続いて地中海世界を支配したローマ帝国では、文化的には土木や建築の分野で特色が発揮され、優れた技術により、コロッセウム(闘技場)、水道橋などの大規模な建造物が生み出された。

 

 

ソクラテスは、人間としての生き方は、自己の無知を自覚して知を愛し求めること、すなわち「無知の知」にあると考えた。デルフォイの神殿の入り口に掲げられている「汝自身を知れ」は、ソクラテスの言葉である。

 

ソクラテスは、善悪についての知を実現すれば徳は実現できると説いた。

 

ソクラテスは、言葉とその働きに関して深い考察を巡らせ、問答によって、自らの無知について自覚する「無知の知」をアテネの人々に説いた。彼の考えは、プラトンの著作「ソクラテスの弁明」にみることができる。

 

ソクラテスは、弁論術の伝授を職業とするソフィストたちに批判的で、「徳は知である」が「徳を教えることはできない」ので、問答法などにより、各自が自分自身のうちから自分で「知」を汲み上げるべきだと説いた。

 

プラトンは、事物の理想的な原型であるイデアが、万物が常に変化する感覚的世界?に存在すると考え、事物の変化を認識することが学問の目的であるとした。

「ソクラテスの弁明」を書いた。

 

プラトンは真実の存在であるイデアを「魂の目」でとらえるイデア論を展開した。

 

プラトンは、真の実在であるイデアは、非物体的で時空を超えた永遠の実在としており、真の哲学者はイデアを見ることができると主張した(これを認識するためには、ディアレクテーケと呼ばれる演繹法で「魂の目」の能力を身につけなければならないとした)。真の哲学者となるためには、財産や名誉の有無は問題にされていない。

 

プラトンは、イデアを認識の根拠とし、複雑多様な生成消滅する現実を正しく認識できるのは、個別より優越する普遍としてのイデアを理性によってとらえることができるからだとした。

 

プラトンは、支配者が知恵を備え、軍人が勇気を備え、生産者が節制に努めて、支配者が軍人や生産者を統率したとき国家において正義が実現されると考えた。そのため、善のイデアを認識した哲学者が国家の最高支配者になるべきであるとした。

 

プラトンは、人々がさまざまな意見に惑わされ、暴力と汚職が横行している状況にあって、真に民主的な世の中を実現する哲人政治の必要性を唱えた。弁論により意見の矛盾を暴くことで、最高原理である善のイデアに至る方法である「弁証法」を修得した者が施政者となることを理想とした。

 

アリストテレスは、プラトンのイデアの考え方を批判し、質料と形相とに分類した。質料と形相との均衡がとれた状態を中庸と呼んだ。

 

アリストテレスは、物事を動かすのは神ではないと考え、現実主義の立場に立って最高善は幸福であると考えた。アリストテレスにとって究極の実在は、自然的世界であり、彼の現実主義が近代思想やイスラム哲学に受け継がれた。

 

アリストテレスは、人間の徳には、真理を認識する知恵や実践的洞察を行う知性的徳と、勇気、節制などの倫理的徳があると説いた。「幸福」を最高善とした。

 

アリストテレスは、「ニコマコス倫理学」を著すとともに、人間の最高の幸福は観想的生活にあると説いた。

 

 

ヘレニズム期

 

ゼノンは、理性によって情念を克服することにより、無概念(アパティア)に徹することを理想とした。

 

ストア派のゼノンは、ロゴス(理想)によってパトス(情念)を克服したアパティア(無感動=心を動かされない状態)を最高の境地と考えた。ゼノンは、純粋に真理を探究する観想的生活を最も理想的で幸福な生活形態と考え、賢者は禁欲的生活をすべきであると主張した。

 

ゼノンは、「自然に従って生きる」ことの重要性を唱えた。

 

ゼノンは、当時主流であった自然の原理を運動に認める説について、「アキレスとカメ」、「的に届かない矢」などの例を挙げながらその矛盾を指摘した。命題にパラドックスを見いだすことで、前提や推論の過程を否定する方法である「弁証法」?による弁論の術を初めて体系化した。

 

ストア派はゼノンによって創始された学派で、コスモポリタニズムを継承している。理想的な境地であるアパティアに達するために禁欲主義を主張した。

 

足の速いアキレスがカメを追い越そうとしてもアキレスがカメの位置に達するまでにはカメは少しずつ前進する。

 

エピクロスは、真の快楽は、永続的な精神的快楽であると考え、魂の平安(アタラクシア)を得ることを理想とした。エピクロスは、快楽主義をとった。

 

 

ルネサンス

 

マキャヴェリは、人間の本性は打算的利己的なものであるとする現実認識の上に立って政治を考察し、君主は国家の護持・発展のためには、あえて非道徳的手段もとることができなければならないと説いた。これは政治を宗教や道徳から分離してとらえるものであり、近代政治学の基礎となっている。

倫理の規範から政治を解放したことから、近代政治学の父と呼ばれる。主著は「君主論」

 

 

 

宗教改革

 

ルターは、友人の死をきっかけに神と人間のあり方について考え、人間が自由な君主であるとともに隣人の奉仕する僕であることを強調し、教会や聖職者に従事せず信仰によって一人ひとりが神の前に立つとする万人司祭主義を唱えた。また、職業は各人に神から授けられた使命(召命)であるから、人間は職業に励んで隣人愛の実践に努めるべきことを説いた(職業召命観を唱えた)。

「95条の論題」により、免罪符(贖宥状)販売を批判したルターによって宗教改革が本格化した。

万人司祭主義を唱え、聖書のドイツ語訳を完成させ、エラスムスと論争して人文主義者たちとの違いを明らかにした。

 

カルヴァンは、神の意志が世界の唯一の原理であり、すべてのものはこれによって導かれるとした。人間の世俗における職業生活が神の栄光を実現するための場所であるから、そこで禁欲的に精進し、成功を収めることが、自分は神に選ばれているとの確信、救いの確信を生み出す予定説を唱えた。

フランス王室の弾圧を逃れてスイスに亡命した。

予定説:救いには人間の意志が介入できない。

カルバンの禁欲的な職業召命観はマックス・ウェーバーによって資本主義の精神と結びつけられた。

 

 

合理論と経験論

 

イギリスの経験論の祖といわれるF.ベーコンは、実験と観察によって得た個々の経験的事実を土台として、それらに共通する性質や法則を見いだす帰納法により、自然の法則を知り、自然を支配できると考えた。これは「知は力である」という言葉によく表されている。

 

これに対して、大陸合理論の祖といわれるデカルトは、本当に確実なものを求めるために一切のものを疑い、「疑う自分がある」ということだけは疑うことができないとして、「われ思う、ゆえにわれあり」ということを第一原理とした。そして、確実な原理を出発点として、理性の論証を積み重ねることによってすべての知識を導き出す演繹法を唱えた。

 

デカルトは、著書「方法序説」を通じて、「確実に知られた事柄から必然的に帰結する全事柄を理解する思惟の運動」である演繹法を用いて、「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」という原理を導いた。また、人間の精神と身体はまったく本性を異にする2つの実体だとする物心二元論の立場をとった。

 

デカルト

感覚的なものに確実なものはないとして、確固たる実在を突き止めるためには、懐疑主義と合理主義を徹底するしかないと唱えた。現代思想の第一原理は、疑っても疑いようのない自我の存在であり、自我による認識と実在の一部を証明することが課題であるとした。

 

 

デカルトは、万人に備わっている理性を「良識」といい表し、これを正しく用いることを唱えて、大陸合理論の祖と呼ばれている。

 

ベーコンは、経験を知識の源泉とみなして、科学的方法を理論づけ、経験論の祖と呼ばれる。ベーコンは、偏見(イドラ)を取り除き、観察による経験的事実から一般的法則を求めようとした。この方法を帰納法という。

 

「われ思う、ゆえにわれあり」とは、大陸合理論の祖、デカルトである。

 

ベーコンは、「知は力なり」と主張した。イギリス経験論の祖。

 

 

ライプニッツは、無限個数あるモナド(単子)の集合したものが実体であるとし、モナドは非空間的な延長のない精神的なものがあり、独立した実体が相互に調和しているのは神の働きによるとした。

 

 

モラリスト

パスカルは、人間を偉大と悲惨の中間者とし、神を見失った人間は悲惨だが、それを知っていることにおいて人間は偉大であると考えた。主著に「パンセ」がある。

 

パスカルは、哲学者であるととも科学者でもあり、宇宙における人間の位置を見据え、人間を無限と虚無との中間者であるとした。

 

パスカルは、著書「パンセ」を通じて、人間は自然の中では無限大と虚無の深淵の間を漂う無力で惨めな存在で(無限大と無限小の中間で)、不安を感じながら、人間と世界に意味を与えてくれる隠れた神を探していると考え、「考える葦」として人間を定義づけた。

 

パスカルは、「パンセ」を著し、人間がたやすく押しつぶされる1本の弱い葦にすぎないことを自覚しつつ思考するところに人間の尊厳があると説いた。

 

パスカルは、偉大さと悲惨さをあわせもつ人間の存在を真摯に見つめ、「人間は自然のうちで最も弱い1本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である」とし、人間は弱い存在であるが、考えるということ、弱い存在を自覚していることは偉大であるとした。彼は、存在の根源的な不安定さを見つめ神の愛を信じることに人間本来のあり方があると説いた。

「考える葦」の記述は「パンセ」の中にある。

パスカルがジャンセニストの一員であったことは有名で、晩年にはキリスト教弁証論に集中していた。

 

 

モンテーニュとパスカルはともにフランスの思想家であり、人間の本性に基づいて人間の生き方(モラル)を思索した人として「モラリスト」と呼ばれた。フランス啓蒙思想以前の思想家。

 

モンテーニュは、「エセー」を著し、自己の認識に対する批判精神を説き(「私は何を知るか」)、偏見・傲慢・宗教的不寛容を戒め、真理に対する謙虚さの必要性を説いた。

 

モンテーニュは、著書「エセー(随想録)」を通じて、人間は自分自身の立場や考え方に執着するあまり、偏見にとらわれたり独断に陥ったりすることがあり、これらを避けるためには自分自身の考え方や態度を謙虚に問い直すことが必要であることを、「私は何をしるか(ク・セ・ジュ)?」という言葉で表現した。

 

 

 

社会契約説

ホッブスは、自然状態は平等な各人が自己保存の本能に従って、自然権を際限なく追及する闘争状態であり、この状態では自然権がかえって脅かされるため、人は理性に基づく自然法に従って社会契約を結び、自然権を絶対的な主権者たる国家に全面的に移譲する必要があるとした。

 

Tホッブスは、国家が平和や秩序の維持のために各人の契約によりつくられたものである以上、人民は自然権を放棄して国家に従うべきであると説いた。

清教徒革命の後、フランスに亡命していた国王が復権し、ピューリタンを抑圧して王政による絶対主義を強化した。

 

ホッブスは、人間は自己保存に最適な行動を選択する自由である自然権をもった存在であるとし、こうした人間によって争いや混乱が起こるような「万人の万人による闘争」の自然状態を防ぐために、人間は自然権を放棄し、第三者である国家に譲り渡す必要があると考えた。

 

「人は人に対して狼である」として、ホッブスは無政府状態の危険性を説いた。

 

 

ロックは、自然状態は自然法の働く自由・平等で平和な状態だが、紛争調停する公的機関がないため戦争状態に移行する危険をはらんでおり、社会契約による政治社会の形成が必要であるとした。この契約では自然権を保障するための権力は国家の代表者である政府に移譲されるが、自然権自体は移譲されず、また、政府は人民の信託を受けたものに過ぎず、その不適切な権力行使に対して人民は抵抗できるとした。

 

Jロックは国家が人民の有している生命・自由・財産などの自然権を守らないときは、人民は国家に対して抵抗する権利を持つと説いた。

イギリス議会は専制政治を強いた国王を亡命させ、権利の章典を制定し、議会主権に基づく立憲王政の基礎を打ち立てた。

 

 

ロックは、実体の認識については経験論的見解をとり、人間の心は本来は白紙の状態にあるが、「感覚」によって外界の物質的事物の観念を得、「内省」によって内部におけるわれわれ自身の心の作用の観念を得ることができるとした。

 

 

ルソーは、自然状態は自由で平等な理想状態だが、社会状態への移行に伴って生じる不平等を除去し、各人が平等な条件のもとで市民的自由を享受するため、自らの権利を人民の意志としての一般意志に基づく共和国に全面的に移譲する必要があるとした。

 

ルソーは、著書「社会契約論」を通じて、一般意志を実現するために人間は自己の権利を契約により政治体へ譲渡するとしている。

 

 

アダム・スミスは個人の自由な経済活動を主張するとともに、国富の源泉を国民の生産労働全体に求め、分業と商品交換の理論を確立した。

ヨーロッパの列強が国内の産業を保護育成するために原料の生産地、製品の市場として植民地を求め、激しく争った。

 

 

功利主義

ベンサムは、善悪の基準を行為の功利性におき、純計して最も多くの人々に最も大きな幸福をもたらす行為が最善の行為であると考え、「最大多数の最大幸福」の実現こそ、道徳と立法の原理であると説いた。また、快楽を七つの基準を用いて量的に計算するという単純化によって、利益と公益とを調和させようとした。

 

ベンサムは、幸福を求めることは、苦痛を避けて快楽を求めることであり、この事実に基づいて正しい行為を行うための原理を功利の原理と名づけた。そして、最大多数の最大幸福がこの功利の原理の内容であるとした。また、法律や行為がこの原理にかなっているかを調べるために、快楽と苦痛の価値は量的に計算できるとして快楽計算を提唱した。

 

ベンサムは、人間は誰でも快楽を求め、苦痛を避けようとするものであり、その快楽も量的に計算でき、幸福とはこの計算による快楽の総計であると主張した。

 

 

JSミルは、功利主義の原理を支持しながらも、快楽に質的な差異を認め、より高次な精神的快楽を肉体的快楽よりも優先させるべきだとした。

産業革命における経済的発展の中で、資本家が利潤の追求を急いだために、労働者は非衛生的な生活環境のもとで、低賃金と重労働を強いられた。

 

民主主義の基盤である個の確立を重視したのは、功利主義を批判的に継承したミルである。

 

ドイツ観念論

 

カントは、人間が自分の理性の立てた道徳法則に自ら従うことを自律と呼び、またこのような自律を持つ、道徳の主体としての人間を人格と呼び、すべての人間は人格として等しく尊厳を持つと考えた。

そして、各人がお互いの人格を目的として尊重し合う人類究極の理想の社会を「目的の王国」と呼び、その実現のために永久平和の必要を説いた。このようなカントの考えは、後の国際連盟や国際連合の精神に引き継がれた。

 

カントは「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ」と述べている。つまり、自分だけの基準ではなく、普遍的にすべての人々の基準にも合致するように行動するべきだということである。

 

人間は幸福を求める存在であり、他人に幸福を生じさせる行為を善、それを阻害する行為を悪とする立場をカントはとっている。

 

カントは、初め自然科学を研究し、庶民の無知を軽蔑していたが、ルソーの書「エミール」を通じて、人間を尊敬することを学んだ。人格的存在として相互に尊重できる人間の平等に関心を持った。

 

カントは、理想の道徳法則の根本を、「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と定言命法で述べた。

 

カントは、「実践理性批判」を著し、理性によって自律的に生きる人間を人格と呼び、すべての人間は人格として等しく尊厳を持つと説いた。

 

カントは、人間が自分の立てた道徳法則に自ら従うことを「自律」と呼び、この自律の能力をもつ主体としての人間を「人格」と呼んだ。

 

カントは、各人が互いの人格を目的として尊重し合うことによって結びつく社会を「目的の王国」と呼び、人類の理想的社会と考えた。

 

カントは、イギリス経験論と大陸合理論を統合する批判哲学を樹立した。従来、認識の対象は、主観とは独立に存在していると考えられていたが、認識主観の先天的な形式が対象を構成すると説いたカントは、認識の主導権を客観から主観へと転回し、その意義を自ら天文学上のコペルニクスの業績にたとえた。また、カントは、道徳の内容以前にその形式を問題にし、その根本原理を「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法に求めた。

 

「自由とは自律である」とカントは述べ、理性に従うことが真の自由であるとした。

 

カントは、すべての人間が、理性の力に基づいて、互いに他の人間を自分と同等な人格として尊重し合うことを道徳の本質と考え、人間の社会関係はすべてこの道徳によって基礎づけられているとした。また、相互に相手の人格を認め尊敬し合う社会を目的の王国と呼び、その王国に到達するためには永久平和を実現することが必要であるとした。

 

カント

認識は、空間と時間というわれわれの主観にア・プリオリに備わっている枠組み(カテゴリー)により成立していると主張した。客観的な実在そのものを認識することはできないことから、道徳などの実践的な問題に答えることが、理性の新たな任務であると説いた。

 

 

ヘーゲルは、理性や自由が実現されるべき社会を歴史的に運動するものとしてとられ、その運動法則を弁証法により説明した。この運動を起こす原動力を「精神」と呼び、その本質である自由を実現してゆく過程が歴史であると考えた。

 

ヘーゲルは、歴史を、絶対精神が人間の自由な意識を媒介として自己の本質である自由を実現していく過程であると考え、「世界史は自由の意識の進歩である」と説いた。また、自由や道徳の問題を、個人の内面に主観的なあり方にとどまらず、現実社会の客観的な法や制度にあらわれる、人倫の問題としてとらえた。

 

ヘーゲルは、世界を絶対者(絶対的精神)の自己展開の過程としてとらえ、その発展の理論として弁証法を提唱した。ヘーゲルは客観的な法と主観的な道徳とを統一したものとして人倫を説き、その人倫の弁証法的展開として家族と市民社会そして国家の3段階を論じ、理想的な国家を人倫の完成形態であるとした。

 

ヘーゲルは、意志の自由による道徳を批判し、法律の客観性と道徳の主観性が統一された体系である人倫の思想による国家を唱えた。すべてのものには矛盾と対立があるが、それらは止揚され発展するという「弁証法」の原理により、家族と市民社会を統一したものを国家とした。

 

ヘーゲルは、すべてを理性・精神の発展としてとらえる理性の哲学を確立し、世界は絶対精神の自己展開の場であり、自己と対立するものとの矛盾を内包しつつ運動・生成し、この自己矛盾を止揚していっそう高い段階に至って生成は安定するとした。

 

ヘーゲルは、「歴史は絶対精神が弁証法的に発展する過程である」と述べた。

 

 

フィフテは、理論と実践の溝の克服は神に期待するのではなく、われわれ自身の運命の自我の<活動>に求めるべきだと主張し、自我の能動性と絶対性を根本に捉え、主観的観念論を展開した。「ドイツ国民に告ぐ」は、フィフテがナポレオン占領下のベルリンで行った連続講演であり、ドイツ国民の新しい教育とドイツの再建を説いた。

 

 

マルクス主義

マルクスは、歴史は理想に向かって進歩・発展するとする考え方を、現実的な人間があまりに観念的に把握されている人間疎外の理論であるとして批判した。世界の変化やその法則を、労働を介した人間と自然の相互作用からとらえる唯物論的な「弁証法」こそ歴史の原理であるとした。

 

マルクスは、物質的、経済的、社会的な状況を「下部構造」とし、その社会の思考や理性、つまり、政治制度、法律、宗教、道徳などを「上部構造」と呼んで、上部構造は下部構造によって規定されているとした。

 

 

実存主義

主体としての人間を中心とする思想である。

 

キルケゴールは、それまでの哲学が人間や世界の本質を客観的・論理的にとらえようとしたのに対し内面的な主体的真理、すなわちかけがえのない1回限りの存在(実存)を求めた。

 

キルケゴールは、理性が人間の本質とみなされ、合理的なものこそが真理であるとする理性主義の思想に対し、理性ではくみ尽くすことができない人間像を模索した。人間は、不安や絶望という生の矛盾に直面するが、それを克服することで真の自己になれるという実存の「弁証法」を唱えた。

 

キルケゴールは、「人はいかにしてキリスト者になれるか」ということを生涯の課題として追求し、その探求の中で「実存」という考えを展開し、「あれかこれか」などを著した。

 

キルケゴールは、人間が実存をめざしていく過程として、美的実存・倫理的実存・宗教的実存の3つの段階があり、人間が単独者として神の前にたったとき、真の実存にめざめると主張した。

 

キルケゴールは、実存を美的実存・倫理的実存・宗教的実存の3つの段階に分けて順次深まるものとし、主な著作に「死に至る病」がある。

 

キルケゴールは、デカルトの懐疑を超えるものとして、「絶望」を提唱し、絶望の人間に語りかけてくる人格神との対話によって主体的な真理が明らかになるという「質的弁証法」を主張した。

 

キルケゴールは神との1対1の対話を求めた。

 

 

ニーチェは、「神は死んだ」と宣言し、ヨーロッパ文化の退廃の原因が形式化したキリスト教道徳にあり、ヨーロッパ文化が滅亡した後で新しい文明をつくることになる人間は、それまでの道徳や価値観にとらわれない新しい人間である超人でなければならないとした。

 

ニーチェは、19世紀のヨーロッパはニヒリズムに陥っているとし、キリスト教に規定された生き方を根本的に否定して「神は死んだ」と宣言し、自分の運命を肯定し、運命を愛してたくましく生きることの意義を強調した。

 

ニーチェは、現代はデカダンス(退廃的)とニヒリズム(虚無主義)の時代であり、このような時代を生きて生き方として、超人と呼ばれる極限状態でも運命を切り開いて、新しい価値を見つけていくことを主張した。

 

ニーチェは、この世界は永劫回帰の世界であるとし、その中で能動的ニヒリズムに生きるべきことを説き、主な著作に「ツァラトゥストラはこう語った」がある。

 

ニーチェは、キリスト教的道徳の崩壊でニヒリズムが到来したと考え、「力への意志」でニヒリズムを積極的に転化することを主張した。

 

ニーチェ

系譜学的方法とパースペクティブ理論(遠近法)により、西洋文化形成の中心的な役割を果たしてきたキリスト教思想の解体を図ろうとした。神が不在の現代は、永劫回帰のみがあるニヒリズムの状態であるが、人間一人一人の強者への意志がこれを克服する原理になると説いた。

 

 

ヤスパースは、人間は通常の手段で処理することのできない困難な状況(限界状況)に直面するとき、超越者の言葉を聞き取ることで真実を生きることになるとした。

第二次世界大戦中に迫害を受け、大学を追放されたが戦後ドイツ国内の大学に復帰した。

 

ヤスパースは、自己の本来的なあり方に目覚めた人間どうしの実存的交わりの大切さと理性の重要性を強調し、主な著作に「理性と実存」がある。

 

ヤスパースは、代替可能な機械の部品のように個性を喪失した現代人が、実存にめざめるには、自らの力では乗り越えられない限界状況に直面することによってのみ、人間は実存に自覚できると主張した。

 

 

ハイデッガーは、主体性を失い平均化した「ひと」として生きている人間が本来的自己を取り戻すには、自らが「死への存在」であることを直視する必要があると説き、20世紀思想のさまざまな領域に影響を与えた。無神論的実存主義者。

 

ハイデッガーは人間は単なる人から、死を意識することで本当の人となり、自己に対する責任を取ることを自覚することを主張した。

 

ハイデッガーは、人間は死を避けることはできない存在であり、死を自覚することによって、現存在として自らの態度を決定できるとした。

 

ハイデッガーは、人間を「死」へ向かっている存在者であるとし、死と向かい合ってこそ本来的な存在である人間になれると主張した。

 

ハイデッガーは、人間存在を現存在と呼び、世界―内―存在としての現存在の在り方を現象学的方法により考察し、主な著作に「存在と時間」がある。

 

ニーチェと対決してきたハイデッガ―は、人間的現存在を「非力なもの」ととらえ、「非力」さの根底に潜む「無」を問い続けた。

 

 

サルトルは、無神論的実存主義の立場から、人間は自由であり、自由そのものである状況を、「(人間においては)実存が本質に先立つ」という言葉で表現し、「存在と無」などを著した。

誰に依存することなく自己決定による自己の自由と責任を主張した。

人間は、事物とは異なり、その都度自分で自分のありようを決断して選択することによって、自己をつくり上げていく自由の宿命を背負った存在であると考えた。

 

サルトルは、事物の存在を即自存在、人間の存在を対自存在と呼び、人間のあり方を「実存は本質に先立つ」と表現し、主な著作に「存在と無」がある。

人間(実存)は、後から自分で自分のあり方(本質)をつくっていく存在だ、というのが「実存は本質に先立つ」という意味である。

 

サルトルは、人間は自らが造ったところのものになる、人間は自分の生き方をみずから選ぶことができると主張した。

 

サルトルは、「人間は自由の刑に処せられている」とし、社会に巻き込まれて自分で生き方を選ぶことによって、自分が何であるを選ぶことができると主張した。人間が特定の歴史的・社会的状況のもとに投げ出されている。

 

サルトルは、著書「実存主義とは何か」を通じて、人間が一定の具体的な状況の中で、今ここに存在するという在り方を「実存が本質に先立つ」という言葉で表現した。そして、人間が自分の行為を自由に選択していくことが、社会に責任をもって積極的にかかわることである「アンガージュマン」につながると考えた。

 

 

 

現代思想

 

レヴィ・ストロース

フランスの哲学者、人類学者。人間の思考を統率する「構造」を明るみに出そうとし、文化はカテゴリーの体系であるという前提に立って、言語・親族・神話などさまざまな文化的システムの分析を行った。その結果、これまで西欧文化が最上のものであると思われていたのが、構造においては、西欧も未開も変わることがないことを明らかにした。

 

レヴィ・ストロースは、南米アマゾンの原住民社会を調査し(ポロロ族の民族学的調査)、未開社会には文化と自然を調和させる仕組みや、独特の考え方があることを発見した。また、表面的には異質に見える文明人の思考にも野生の思考と共通する普遍的な構造が存在しているとし、構造主義の創始者とされている。

 

ミード

アメリカの文化人類学者。社会とその成員たる個人との関係に強い関心を抱き、心理学的な視点から「文化とパーソナリティ」の関連について研究を行った。特にニューギニアの調査に基づいて男女のパーソナリティの形成において文化的要因が強く影響することを実証し、今日のフェミニズム研究の極めて大きな示唆を与えた。

 

M.ミードは、ポリネシア、メラネシアおよびインドネシアで人類学の調査を行った。

 

構造主義は、文化や自然のあり方は人間の主観的な意志にもかかわらず、それ独自の客観的な構造を持っているとする考え方で、レヴィ・ストロースによって提唱された。

 

構造主義は、ヨーロッパ思想の人間中心主義や理性中心主義的な考え方を批判し、異質なものを排除しない多様な生き方を築こうとする考え方で、フランスのフーコー(1926~1984)らによって提唱された。

 

構造主義は、人間を取り巻く環境を分析の中心に捉える。

 

構造主義は、もともとソシュールの言語学などに起源を持つ思想であるが、この考え方は、西欧文化を頂点とする歴史の発展段階説を否定し、人間主体の独自の意義を認める西欧哲学の伝統を拒否する視座を提出し、戦後の思想界に大きな影響を与えた。

 

フーコー

フランスの哲学者。狂気・病気・刑罰・性など、西洋文化の深層を分析することによって、西洋近代社会の成立過程における知の構造や権力関係について、批判的に探究した。主著に「狂気の歴史」「監獄の誕生」。

 

シュペングラー

ドイツの歴史家・文化哲学者。歴史上の文化を、幼年期・青年期・壮年期・老年期という順をたどって発展し衰退する一つの有機体としてとらえ、西欧文化はいまや没落の段階にさしかかっている、と述べた。

 

シュペングラーは、その著書「西洋の没落」で、歴史が直線的に進歩・発展するという図式を否定し、歴史は、多数の文化の生誕・成長・成熟・死滅の過程であるとした。その際、彼は、有機的・精神的な「文化」の無期的・物質的な「文明」への不可避的な没落の過程と指摘し、西洋文化がすでに文明への没落の過程にあることを主張した。

 

 

 

 

 

トインビーは、その著書「歴史の研究」において、歴史とは国家の進歩というより、むしろ文明や社会の進歩であるという仮説に立って、歴史に登場した21の文明について、その発生、成長、崩壊を比較分析し、文明は、外部要因の刺激である「挑戦」に対し、これに「応戦」すべく適応を試み、内部の構造的要因を発展させながら、自らの形成・維持を行うという考え方を提示した。

 

 

ポスト構造主義は、構造主義を批判的に継承し、構造主義が乗り越えようとした実体論的思考、つまり西洋の思考を一貫して支配してきた形而上学的思考の本質を暴き、それを徹底的に解体し、新たな思考体系を作り出そうとした試みである。

 

J.デリダは、真理とは、ロゴスが純粋に現前したものであるするロゴス中心主義を批判した。自然と文化、知性と感性等といった従来のニ項対立的な考え方は、主体を強調した音声言語を重視したことによると批判し、「エクリチュール」の再定義によりこの脱構築を試みた。

 

 

 

フロイト(1856~1939、オーストリア)は、人間の心の奥底にある意識されない心のはたらきがあり、それがその人の行動に大きな影響を与えていることに着目した。心の奥底の無意識の世界を引き出す方法として用いたのが、夢の解釈と自由連想法であり、精神分析学の創始者とされている。

 

フロイトは、精神分析の手法を用いて、人の意識の底に隠された心の仕組みを見いだすことができるとする考え方である。

フロイトは、人間の知性よりも、無意識下に潜む性的衝動や、抑圧された願望などが、人間の精神や人格に及ぼす影響を重視した。

フロイトは、人間の最も基本的な衝動力を性的エネルギーであるリピドーに求めたことから、その学説は汎性欲説と呼ばれている。

 

 

ユング

スイスの精神分析学者。夢や神話、おとぎ話に現れるモチーフ・人物・象徴などが、時代や地域の違いにもかかわらず強い類似を示すことに注目し、個人の無意識の下部に、民族や人類に共通である「集合的無意識」があると考えた。それらに共通に登場するアニマ、マニムス、老賢者、太母などの要素を「元型(archetype)」と名づけた。

 

ユングは、個人的無意識の奥底に個人を超えた普遍的無意識の領域があると考え、それを集合的無意識と呼んだ。また、神話や宗教、未開社会の伝承などを手掛かりにし、人間の無意識の根底には人類に共通した形態をもって存在している世界があると考えた。

 

ユングは、神話や宗教、未開社会の伝承、錬金術などの研究を通して、集合的無意識を分析した。彼はフロイトの「夢判断」に啓発されて指導を受けたが、リピド―理論などで意見が対立し、1911年に袂を分かった。

 

 

 

スペンサーらは、社会現象にも生物進化論を応用できるとした。

 

 

プラグマティズム

 

プラグマティズムは、ある観念や思想の真偽や正否は、それらが実際の行動において、有用な結果をもたらすかどうかによって決まるとする考え方で、創始者のパース(1839~1914)らによって提唱された。

 

アメリカで生み出されたプラグマティズムの提唱者はパースである。

 

ジェームスは、その著書「プラグマティズム」によってプラグマティズムを広く世界に普及させた。彼は、ある観念が真理だということは、その観念によって行動した場合に生まれる結果が、生活のなかで実際に役立ったことだと考え、真理とは実生活における有用性であると主張した。

 

デューイは、知性を、行動によって環境との関係を調整しながら生きる人間の、環境への適応を可能にする道具ととらえる道具主義を説き、プラグマティズムを大成したとされる。また、高度に組織された産業社会では自由放任は無力であるとして、社会化された集合的個人主義として、民主主義を確立しようとした。

 

パース、ジェームスの影響を受け、プラグマティズムを総合したといわれるのがデューイである。

 

デューイは、観念や思想が行為の為の道具であるととらえ、事象を解明するためにそれらの概念を仮定したり操作することができると考えた。概念道具主義。

 

ジェームスらのプラグマティズムは、真理の基準を「有用性」に置いて、純粋経験を重視した。

 

 

フランクフルト学派は、ナチスによるユダヤ人迫害で亡命を余儀なくなされたユダヤ系の学者らが中心となって、本来、野蛮に対抗するはずだった文明がかえって新たな野蛮状態をもたらしていることを指摘し、理性の再検討を提起したドイツを代表する思想である。

 

「啓蒙の弁証法」:アドルノ、ホルクハイマー

西欧文明の運命を、その根本に遡って批判する洞察力を示した。

 

フロムやアドルノらは、ファシズムに支持を与えた人びとの心理と性格について大規模な調査・分析を行い、その調査結果を「権威主義的パーソナリティ」と呼んだ。

 

 

 

キリスト教

 

キリスト教の愛(アガペー)は、神の普遍愛の反映として、隣人愛から人類愛へと広がっていく。

 

キリスト教の愛は、「神の人に対する愛」、「人の神に対する愛」「人と人との相互の隣人愛」を意味する。

 

ユダヤ教では、神の愛は「選ばれた者」のみに向かうものと考えられていたが、キリスト教の愛は広く普遍的に、すべての隣人へと向けられるものである。

 

中国思想

 

春秋時代の孔子は、人間の道が、人間関係における親愛の情である仁と、人間の徳性と社会性が社会生活の中で習俗として確立した礼の二つからなると考え、君主が仁の徳をもって治める徳治主義を理想とした。

 

孔子は、人として最も大切なものは仁であるとし、仁とは人を愛することであり、自分が欲しないことを他人に行ってはならないと説き、また、政治の上では、法や刑罰よりも道徳によって統治する「徳治主義」を理想とした。

 

 

戦国時代の孟子は、孔子を聖人として崇め、孔子の説を儒学として広めた。孟子は、仁・義・礼・智の四端が、人間に先天的に備わっているとして、仁義を重視する王道政治の必要性を主張した。

人間が自然との調和の中で守るべき五倫の道を説いた。

 

孟子は、力によって民衆を支配する政治に反対して、仁義にもとづいて民衆の幸福をはかる王道政治を説き、さらに、易姓革命の思想を展開した。

 

孟子は、孔子の教えを受け継ぎ、発展させ、「…無惻隠之心、非人也。無羞悪之心、非人也、無辞譲之心、非人也、無是非之心、非人也。」と述べ、これらの心を四端と呼び、四端を磨き育てることによって、人間は仁・義・礼・智の四徳を身に付けることができると説いた。

孟子は、人間は生まれながらにして、「四端の心」があるとした。それは、他人の悲しみに同情する心(惻隠(そくいん)の心)、不善を恥じ憎む心(羞(しゅう)悪(お)の心)、へりくだり譲る心(辞(じ)譲(じょう)の心)、善悪を判断する心(是非の心)の4つである。

 

孟子は、人の性質は生まれながらにして善であるとする「性善説」の立場に立ち、人には惻隠(そくいん)の心)、羞(しゅう)悪(お)の心、辞(じ)譲(じょう)の心、是非の心の四つの心があるとする「四端説」を説いた。

 

「惻隠(そくいん)の心」は仁、「羞(しゅう)悪(お)の心」は義、「辞(じ)譲(じょう)の心」は礼、「是非の心」は智に対応している。

 

孟子は、性善説を唱え、人の心に備わっている、惻隠の心など4つの徳の芽ばえを四端(したん)とよび、四端を育てることで、仁・義・礼・智の四(し)徳(とく)を実現できると説くとともに、基本的な人間関係のあり方としての五倫の道を示した。

孟子は、為政者が力によって民衆を支配する覇道政治を否定し、仁義に基づいて民衆の幸福をめざす王道政治を主張した。

 

 

戦国時代の荀子は、生まれながらに利を好む人間の本性が悪であり、端正によって誰もが得られるものではないという性悪説を唱え、外部的、社会的な規則である「礼」によって人間を教化指導しなければならないと説いた。

 

荀子は、争乱を防ぐ世を治めるには、内面的な仁よりも人びとの行為を規制する社会規範としての礼が必要であるとし、礼治主義を唱えた。

 

儒家の荀子は、乱世が続く現実を前にして、世の中を治めるためには、性悪説に立って礼による政治(礼治)を主張した。

 

荀子は、孔子の教えを継承しながらも、「人之性悪。其善者偽也。」と述べ、人間は本来私利をむさぼり他人を憎む性質をもつものであるから、自然のままにしておくと欲を追い求め、たがいに争うことになると考え、規範としての礼によってその性質を人為的に矯正していく必要があると説いた。

 

荀子は、人の生まれながらの性質は利己的なものであるとの「性悪説」をとなえ、そのままにしておけば争いがおこるため、規範としての礼によって人々の性質を端正しなければならないと説いた。

 

 

韓非子によって大成された法家の思想は、法によって国家を統治しようとするもので、法の尊厳性を強調した。この説の主眼は君主本位の富国強兵にあり、秦はこの思想を採用した。

 

韓非子は、礼の思想を発展させ、「道之以政、斉之以刑、…」と述べ、刑罰を伴い、強制力を持つ法律によって人びとを統治することが、社会の安定につながっていくと主張し、さらに家族の道徳がそのまま社会に妥当するとは限らず、国家の法律は道徳の上に立つものであると説いた。

 

韓非子は、性悪説に基づき、人間を自然のままに放任すれば、争いが起こり、社会が混乱すると説き、人間不信の立場から、法治主義によって社会の治安を保つとともに、民衆に対して厳正な賞罰を行うことが重要であるとした。

荀子は、礼に基づく教化指導で望ましい人間関係を現出できると考えていた。

 

 

墨子を祖とする墨家は、儒家の仁愛を差別する愛として批判し、無差別の愛(兼愛)を説き、戦争を否定し(非攻)、平和を主張した。しかし、この時代以降はほとんどその勢いを失った。

 

墨子は、独自の立場から親愛を重んじ、「凡天下禍纂恕恨、其所以起者、以不相愛生也。是以仁者非之。」と述べ、利他心の欠如が社会の混乱の原因であるとして、自他を区別しない兼愛のもとに人びとがたがいに利益をもたらし合う博愛平等の社会をめざし、非戦論や倹約を説いた。

 

墨子は、儒家の家族愛敵な仁に対して、自分の家族や国に限定されない無差別・平等の博愛を説き、非攻説を唱えた。

 

墨子は、すべての人を差別せずに愛する平等主義と博愛主義の考え方を説き、これを兼愛と呼んだ。

 

 

老子・荘子の説を奉ずる道家は、儒家の思想を人為的な無用の礼儀を説くものとして退け、無為自然を主張した。この説は後に、神仙思想などと結びついて、中国思想界に大きな影響を与えた。

 

老子は、人間の本来のあり方は、人為にとらわれず、自然のままにあること、つまり「無為自然」が理想であるとし、天地をはじめとして、宇宙の万物を生み出す根源的なものを「道」と呼ぶ道家思想を説いた。

 

老子は、人間の本来の生き方は無為自然であると説くとともに、自然とともに生きることができる社会は、少数の民が住む自給自足の小規模な共同体であるとし、小国(しょうこく)寡(か)民(みん)を理想とした。

老子は、「道」にのっとって無為自然に生きることを主張した。

 

老子は、人間の考え出した道徳を必要としない自然のままの世界を理想として、「道常無為而無不為。」と述べ、人間の理想的なあり方は、作為を労しないで一切の自然のなりゆきに任せることであるとし、政治のあり方も同様で、このように生きられる農村共同体程度の小規模な国家こそ理想社会であると説いた。

 

老子は、「大道廃れて仁義有り」として、人間は、無為自然の道に従って生きるべきだと説き、柔弱謙下の生き方を理想とした。

 

 

荘子は、善と悪、美と醜といった区別は人為的なもので、あるがままの世界ではすべて同一であるとする「万物斉同」をとなえ、天地自然と一体となった境地にある人間を「真人」と呼び、これを理想的な生き方であると説いた。

 

荘子は、万物斉同の境地に立ってものごとにとらわれず、自由に生きる人を真人と呼び、人間の理想とした。

 

荘子は、宇宙の根源としての道を説き、ありのままの世界は一切の対立や差別を超えて同じであるという、万物(ばんぶつ)斉(せい)同(どう)を唱えるとともに、心のままに自由の境地に遊ぶ人間を真人(しんじん)とよび、理想の人物と考えた。

 

 

 

南宋時代の朱子は、宋代の儒教における、行為主体である人間の心と客観的な規範である天の理を区別する理気二元論を唱え、客観的な規範を尊重して情欲を抑える「格物到知」を主張した。

 

明代の王陽明は、心即理の理一元論を唱え、生まれながらにして人間の心に備わっている良知をきわめること(致良知)をめざした。

 

王陽明(1472~1528)は儒家の思想をさらに展開させて、善悪を感得し判断する先天的な能力である良知のままに行動することを尊重した。そして「知は行の始めであり、行は知の完成である」と説き、知行合一の立場から実践を重んじた。

王陽明の知行合一は、自己の心(心即理)を原点として実践によって良知を実現しようとするものである。

 

 

 

 

仏教

仏陀は、日常生活にまつわる快楽を捨て、森林での苦行による禁欲生活を送ることにより、悟りの境地に達すると説いたのではない。

仏陀(566BC~486BC)は、当初禁欲的な苦行を行って悟りを求めたが得るところがなく、禁欲苦行を捨てて瞑想の修行に入り、遂に悟りを得ることができたとされている。

 

仏教の開祖ブッダは、涅槃を実現する道として四諦八正道を説いた。

 

仏教の慈悲は、

もろもろの衆生(人間に限らず生きとし生きるすべてのもの)に対する愛、人類愛にも結びつく。一切の区別なく向けられるもので、救いを求める者に限って注がれるというものではない。修行を積む者のみに具現するというようなものではない。すべての同胞から苦しみを取り除き、安楽を与えようとする無差別の愛である。

 

仏教では、キリスト教のように、他の動物と人間を区別して、人間を動物より優れた存在だとみなすことをせず、徹底した平等観に立つ。

 

 

小乗仏教(上座部仏教)においては、世俗を離れて出家し、一人悟りを求めて修行する阿羅漢が理想とされた。

 

小乗仏教は、自己の解脱を求める伝統的な宗派であり、スリランカやタイなど東南アジアに伝えられた。戒律や経典の解釈などに重点を置いている。

 

大乗仏教は、自分1人だけの悟りを求めるのではなく、すべての衆生の救済を主張する。

 

ブッダの死後、大乗仏教は、ブッダの慈悲の精神を受け継ぎ、衆生の救いをめざした。大乗仏教では、他のものすべてのために救いの活動に励む人を菩薩と呼び、自身を犠牲にしても人びとを救おうとする菩薩は、慈悲に生きる人間の理想像であるとした。

 

大乗仏教の理論を確立したナーガールジュナ(竜樹)は、縁起の教えを深め、すべてのものは様々な原因と条件が合わさって生まれ、それ自体は固有の本体を持たないという空の理論を完成した。

「空」の理論は、「般若心経」などで明確に述べられている。

 

 

ジャイナ教

人生は苦しみに満ちており、その原因は心に欲望が集まっていることにあるが、その欲望を消滅させるには、断食等の厳しい苦行と禁欲を実践し、永遠に続く不変の本体を得ることが必要であるとした。

 

「ウパニシャッド」は「リグ=ヴェーダ」の附属文献の一つで、バラモン教の形式主義に反発した一派がその哲学を発展させた。ブラフマンは宇宙の根本原理のことであり、これと自我の根本原理であるアートマンが究極的に同一であることを悟るため修行している。

 

 

 

日本の仏教思想

 

わが国への仏教伝来は6世紀で朝鮮半島を経由でもたらされた。

中国唐代の高僧である鑑真の来日は戒律を伝えるため

 

行基は、諸国を遊説して布教し、道や橋を造り、また貧民のために布施屋を建てるなど、人びとの間に慈悲の精神を広めた。聖武天皇から大僧正に任じられた。

 

 

聖徳太子は、大陸から伝わった仏教を敬うよう説いた。仏教の理念を政治に活かそうとした。

 

 

華厳宗や律宗など南都六宗は、奈良時代の仏教で、民衆を救済するための宗教ではなく、仏教を研究するための宗教であった。

 

 

真言宗を説いた空海(~835)は、個人の現世利益を主張した。

 

真言宗、天台宗は、その根本思想を密教色豊かな曼荼羅に表現して、現世の無常観を表した。

真言宗は、貴族や皇族への個人の現世利益を願うこと(加持祈祷)を目的として発達した。

 

浄土信仰は、阿弥陀聖と呼ばれた空也が念仏を唱えるなどして民衆の間に広まっていったが、なかでも時宗を開いた一遍は、進心の有無に関係なく念仏を唱える者はすべて浄土に往生すると説いて諸国を周り、踊念仏を広めた。

 

 

 

法然(1133~1212)は、専修念仏により、凡夫でも悪人でも念仏により極楽に往生できると説いた。

法然は、自力難行による浄土心理の探求を唱えた。自力によって仏に善を尽くす。

 

法然は、ただひたすら南無阿弥陀仏と称えれば、仏教の教学に関する知識の有無に関係なく、だれでも阿弥陀仏の慈悲によって極楽往生できる。

 

法然は、末法の世の煩悩にまみれたわれわれは、自力の修行によって悟りを得ることは不可能であり、ただひたすらに念仏を唱える専修念仏によって、極楽浄土に往生することができると説いた。

 

 

親鸞(1173~1262)は、自分の意志で往生のための作善をなすことはできず、念仏を称えることも阿弥陀仏を信じることも、すべて阿弥陀仏のはからいによる。

 

親鸞は、法然が唱えた自力難行を否定し、誰でも参加できる他力易行門の説を打ち立て、そのためにはひたすら念仏を唱えることを主張した。

 

親鸞は、法然の教えを継承した上で浄土真宗を開いた。

 

親鸞(1173~1262)は自分の力で善行を積む自力作善の人は、自力を頼みとし、他力にすがらないため、阿弥陀の本願にふさわしくないとした。

阿弥陀仏の本願は、阿弥陀仏の慈悲を信じる人々を極楽浄土に往生させて救済するというものである。

 

浄土真宗を説いた親鸞は、煩悩に満ちた人間は、ただひたすら念仏を唱えることにより阿弥陀仏の広大な慈悲に救われるとする絶対他力を提唱した。

 

親鸞は、たとえ悪人であっても悪人の自覚あるものが往生できるとした。絶対他力の阿弥陀仏は煩悩の多い悪人にこそ慈悲深いからである。

 

親鸞は、自力で修行をなしうると思っている善人は、仏の慈悲を頼む心に欠けるが、煩悩にまみれどうすることもできないと思っている悪人は、ただ仏の慈悲にすがろうとするので、かえって救われやすいという悪人正機を説いた。

 

 

日蓮(1222~1282年)は、法華経こそがブッタの真の教えを述べたものだとし、法華経に基づく正しい仏教の樹立によってこそ国家の安泰が達成できると説いた。

 

日蓮は、法華経こそ真にして実なる経典であると主張し、すべての人間は唱題することによって、法華経の説教に出会い、現世利益(読み方?)を得、次の生には仏になることができると説いた。

南無妙法蓮華経の題目を専心称名することが、末法の世に相応する唯一の方法だと主張した。

 

栄西(1141~1215)が開いた臨済宗は、師から公案(課題を与える)が与えられ、問答を通して悟りに達しようとする。問答を通して得られる悟りを禅の最高段階に置く。

栄西は、ただひたすらに坐禅することだけで悟るのではなく、公案によって弟子を教化する看話禅の立場をとった。

 

栄西:末法の世といえども修行も悟りも可能であり、もしそれが成り立たないのならば、仏が教典において坐禅観行の法要を説くはずはない。

 

 

道元(1200~1253)が説いた「只管打座」とは、ただ黙って坐禅に打ち込むことを意味する。座禅によってのみ仏に近づけるとした。

 

道元:仏教の教えの真髄は経文などに頼らず、ただひたすらに坐禅することであり、坐禅はそれ自体が目的で修行と悟りは一体のものである。

 

道元は、富や名声にとらわれず、真実の仏の教説を厳しく実行すべきことを主張し、その核心は坐禅にあり、ひたすら坐禅する只管打座の中において、心身の執着から解き放たれ、悟りはすでに実現していると説いた。

 

 

 

日本思想

江戸時代の思想家

 

朱子学は、中国の宋代に興った学問で、理気二元論や封建道徳の肯定を行った。わが国では、林羅山、新井白石などが有名になり、寛政の改革では朱子学以外は禁止されるまでに至った。

 

朱子学は、林羅山が幕府に登用されて以来、江戸時代を通して官学に位置づけられたが、それはその学風が、理気二元論と格物致知(物の理を究めて知を尽くすこと)を説く実践より理性を重んじ封建的身分制を肯定するなど、幕藩体制維持にふさわしい内容であったからである。

 

朱子学はその大義名分論の立場から天皇を尊ぶ思想を持っており、(徳川光圀により)「大日本史」を編纂した水戸藩では尊王思想を軸とする水戸学形成されて、幕末の尊王攘夷論に影響を与えた。

 

 

陽明学は、中国の明代の王陽明が説いた学問であり、真の「良知」を行うのに拙速であってはならず、知行合一をモットーとし社会的実践も重視した。わが国では、中江藤樹や大塩平八郎が代表的な人物である。

 

(日本で)中江藤樹によって確立された陽明学は、現実の矛盾に目を向けようとする革新性を内包しており(現実を批判して矛盾を改めようとする革新性のために体制批判とみなされ)、幕府から警戒された。

陽明学は、知と行を一体として実践を重んじる(知行一致)。

 

中江藤樹は、孝を単なる父母への孝行にとどまらず、すべての人間関係の普遍的真理としてとらえ、陽明学の考え方を取り入れ、すべての人間に生まれつき備わっている道徳能力としての「良知」を発揮することが大切だと説いた。

 

 

伊藤仁斎に代表される古学派は、中国の学派の解釈に頼らず、直接に孔子・孟子の教えに触れるべきだと考えた。また、同じく古学派の荻生徂徠は、学問は「世を経(おさ)め民を救う」ためのものであると説いた。

伊藤仁斎は京都で堀川学派と呼ばれ町人に儒教における孔子、孟子の学問を教えた。

 

山鹿素行や伊藤仁斎を中心とする古学派は、朱子学・陽明学を批判して直接、孔子・孟子の古典に基づくことを主張するもので、古典の研究を重視するその学問方法は後の国学の勃興に刺激を与えた。

元禄時代に始まった古典の研究は、「古事記」「日本書紀」を研究する国学へと発展した。

 

古学派の荻生徂徠やその弟子の太宰春台は、政治・経済にも関心が深かった。

荻生徂徠は5代将軍綱吉の侍医の子で、政治顧問として幕府に仕えた。弟子の太宰春台は、徂徠の武士の土着を説いた経世論を発展させた。

 

 

 

国学は、賀茂真淵によって、儒学を基本にしながらわが国の古代の考え方や感じ方が体系的な思想にまとめ上げられ、さらに、本居宣長が「古事記伝」や「国意考」を著したことによって完成した。

 

佐久間象山らの朱子学者は、西洋の実証的科学知識(西洋の科学技術)を取り入れて、国力の充実を図ろうと考えたが、佐久間象山は、京都で暗殺された。

 

 

 

二宮尊徳は、「報徳思想」に基づき、自己の経済力に応じて一定限度内で生活する「分度」と、分度によって生じた余裕を将来のために備えたり、窮乏に苦しむ他者に譲ったりする「推譲」をすすめた。

二宮尊徳は、農村の指導者として農村の復興に活躍した。

 

 

安藤昌益は、武士など自分で農耕に従事せず、耕作する農民に寄食しているものを不耕貧食の徒として非難し、すべての人がみな直接田を耕して生活するという平等な「自然(しぜん)世(せい)」への復帰を主張した。

 

本居宣長は、古今集などに見られる女性的で優美な歌風である「たをやめぶり」を重んじ、「もののあはれ」を知り、「漢(から)意(ごころ)」を捨てて、人間が生まれつき持っている自然の情けである「真心」に立ち戻ることを説いた。

 

荻生徂徠は、儒学の本来の教えをくみ取るには中国古代の言葉から理解すべきだと主張して、「古文辞学」を大成し、儒学における道とは道徳の道ではなく、いかに安定した社会秩序を実現するかという「安天下の道」であると説いた。

 

 

 

明治時代以降

 

福沢諭吉は、米国から帰国した森有礼の発議で創設された明六社の一員として、文明開化を推進した。

 

明治の代表的啓蒙思想家である福沢諭吉は、西洋の科学技術を発展させ実学の必要性を強調した。福沢の思想は何よりも、個人の自立・独立心を大事にすることであり、独立自尊の個人となるためには、天賦人権論に基づく個人の自覚と、合理的・実用的な学問が不可欠であると力説した。

 

中江兆民は、「東洋のルソー」と呼ばれ、自由民権運動の理論的指導者として活躍した。著書「民約訳解」において、民衆は「恢複(回復)的民権」をめざすべきことを説いた。

 

中江兆民は、フランスの啓蒙思想の影響を受けて、ルソーの「社会契約論」を翻訳し、これを「民約論」と名づけた。

 

明治の思想家、自由民権論者である中江兆民は、「仏学塾」を開き、また、活発な言論活動を展開して急進的民主主義理論の鼓吹と普及に努めたが、特に、ルソーの「社会契約論」を翻訳し、自由民権運動に深い影響を与えた。中江は、自由・平等・友愛の三大原則に基づく民主共和制を理想として求めた。

 

 

内村鑑三は、著書「武士道」において、理想的な自己のあり方を追求した。

内村鑑三は、信仰が「実験」すなわち実体験であることを強調し、キリスト教の神の前に立つ一人の人間として内面的独立と平等を説くとともに、教会や儀礼を排した聖書のことばによる信仰を重んじて無教会主義の立場をとった。

 

内村鑑三は、無教会主義を提唱したわが国の代表的なキリスト者であり、2つのJ(Jesus Japan)に従うという信念を抱いており、キリスト教の立場に立った愛国者でもあった。また、日露戦争に際して、主戦論を説く世論に抗して非戦論を唱えた。

 

夏目漱石は、どこまでも個性を尊重する?「自己本位」の立場を説いた。

 

森鴎外は、自らは「永遠の不平家」と評し、日々のささいな仕事に全力で取り組む「諦念(レジクナチオン)」の境地で生きることを理想とした。

 

吉野作造は、天皇主権の大日本帝国憲法の下では、主権在民を主張することはできないが、憲法の運用を工夫することによって民衆の意向を尊重し、デモクラシーに近づくことは可能であると考えた。民本主義を主醸した。

 

柳田国男は、一般庶民(常民)の生活・風習、受け継がれてきた民間の伝承の調査・研究を通して、日本の伝統文化を明らかにしようとした。日本の民俗学の創始者とも言われた。

 

 

和辻哲郎は、個人としての自己の主張と当時の日本の在り方の両者の現状を同時に容認するとももに、著作「古寺巡礼」の中で自らの心境を「大きな自然」のなかに自己を溶け込ませていく過程に中に安定をなぞらえた。

 

日本の代表的な倫理学者である和辻哲郎は、西洋思想を批判的に受容した独創的な倫理学の体系を築き、また、日本の文化や精神あるいは世界的視野での風土と精神のあり方など、幅広い学問活動を行った。和辻は、西洋近代思想が社会や人間関係をもっぱら個人や自我の独立を中心にして考察していく点を批判した。

 

 

岡倉天心は、西洋崇拝の風潮に対抗して、日本固有の物質的、精神的伝統のよいところを重んじる国粋主義を唱え、日本美術院を創立するなどして、日本美術の復興と海外に対する紹介に力を尽くした。

 

折口信夫は、釈超空の筆名で歌人として活躍するとともに、わが国の神の原型は豊穣の世界である「とこよのくに(常世国)」から定期的に村落に訪れる「まれびと(客人)」であるとし、地球規模で習俗の比較を試みた。

 

西田幾多郎は、著書「禅の研究」において、独立した自己(主観)が、自己の外にある対象(客観)を認識するといった、主観と客観との対立を前提とした西洋近代のものの見方を批判した。そして、哲学の出発点を、主観と客観とに分かれる前の「純粋経験」に求めた。

 

西田幾多郎は、ヘーゲル的な科学観など西洋哲学の移入に努め、これに禅などの東洋や日本の伝統思想を加味して、自己を純粋経験と呼ばれる「真の自己」と一致させることが人格の実現であると説いた。

 

西田幾多郎は、近代日本の代表的な哲学者で、いわゆる「西田哲学」の創始者である。西田は、主観(認識する自己)と客観(認識される対象)を対立的にとらえる考え方を否定し、西洋哲学に特徴的な人間経験の最も根本的なものは、主客未分の純粋経験であるとする考え方を主張した。

 

森有礼は、江戸時代の封建的な制度や思想を批判するとともに、西洋の社会科学や自然科学を導入することの重要性を強調し、西洋の新しい文明思想を紹介するために明六社と呼ばれる団体を結成した。

明六社は、明治初期の啓蒙思想団体で、1873(明治6)年に森有礼が発起人となり、西村茂樹、西周、加藤弘之、福沢諭吉らが参加して、欧米思想の普及に努めた。

 

西村茂樹は、「日本道徳論」を著し、文明開化以来、西洋思想の急激な流入に対して慎重論を唱えるとともに、日本独自の伝統である忠と孝を徳目の中心としてとらえ、所属する組織の年長者への忠誠を説いた。

 

大正・昭和期の哲学者である和辻哲郎は、ヒューマニズムの立場からマルクス主義に接近した。日本における歴史哲学の開拓者としての三木は、ディルタイ、ハイデッカー、マルクスの思想を摂取しつつ、この世界が主体と客体、ロゴスとパトスの弁証法的統一の過程であることを明らかにしようとした。