世界史(西洋史・通史)

四大文明

 

メソポタミア文明は、チグリス川、ユーフラテス川流域のメソポタミアにおいて生まれた文明で、バビロニア王国において全盛期を迎え、ハムラビ法典はこの時代に制定された。

 

最古の文字は、紀元前3000年頃にメソポタミア文明を築いたシュメール人によって発明された楔形文字で、次いでエジプト文明の神聖文字やインダス文明で用いられたインダス文字、紀元前2000年頃、黄河文明の殷で用いられ、漢字の最古のものとされる甲骨文字がある。また、紀元前2000年頃にフェニキア人によって発明されたフェニキア文字は、紀元前700年にギリシャ人に伝えられ、ギリシャ・アルファベットとなり、のちのラテン文字やロシア文字に影響を与えた。

 

楔形文字は、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミア地方に、「粘土の文明」といわれる文明をつくり上げたシュメール人によって発明された。

 

楔形文字はシュメール人が発展させた象形文字で、粘土板に葦の茎や金属などの硬いもので、刻み込まれた。

 

アッカド人はシュメール人の都市を滅ぼして、最初の統一王朝を築いた民族。

 

神聖文字と呼ばれる象形文字は、ナイル川中・下流にファラオと呼ばれる国王によって支配され、発達した測地術や太陽暦の使用で知られるエジプトで発明された。この文字は後に表音文字に発達し、パピルスや陶片に記された。

 

象形文字の中の神聖文字(ヒエログリフ)は絵文字の中から発達した最初のエジプト文字である。

この文字で書かれた遺物としてはナポレオンが発見したロゼッタ石がある。

 

インダス文字は、インダス川中・下流域に都市国家をつくり、下水道を持つ立派な街路や公共浴場など建造物が整然と並ぶハラッパーやモヘンジョ=ダロの遺跡に代表される文明をつくり上げたドラヴィタ人によって発明された。

 

インダス文字は、ドラヴィタ人が使用した印章に刻まれた象形文字で、印章文字ともいわれているが、未解読である。

 

甲骨文字は、漢字の始まりとされ、黄河流域に優れた青銅器を持つ都市国家をつくり上げた中国最古の王朝である殷の時代に発明された。この文字は、獣の骨に刻まれており、殷の首都である殷墟から出土した。

 

フェニキア文字は、アルファベットのもととなった表音文字であり、前12世紀頃に現在のレバノン海岸付近で活動したフェニキア人が発明した。

 

 

ギリシャ・ローマ

 

エーゲ海地域を中心に栄えた青銅器文明であるエーゲ文明は、はじめはエーゲ海のクレタ島のクノッソスを中心に栄えたクレタ文明が中心であった。クレタ文明を支えた民族は不詳であるが、首都クノッソスに大規模な宮殿を築き、海洋的分化を展開した。しかし、後に、ギリシャ本土にギリシャ系のアカイア人を中心に勃興したミケーネ文明によって、エーゲ文明は終息を遂げた。

 

古代ギリシャ文化は、ポリス市民の自治と独立の精神から生まれた文化であり、ペリクレス時代のアテネにおいて全盛期を迎え、イスラム文化にも大きな影響を与えた。

 

当時、ギリシャの三大悲劇作家、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスらが人間の本質を抉る(えぐる)作品を残した。

 

紀元前8世紀頃からギリシャ各地にポリスが相次いで成立した。諸ポリスは、地中海や紅海の沿岸に進出し、多くの植民市を建設したため、ギリシャに敵対するアケメネス朝ペルシャとの間で

ペルシャ戦争が起こった。諸ポリスは、ペルシャ軍をマラトンの戦いやサラミス海戦で破った。その中心となって勝利したアテネがペルシャの来襲に備える目的でデロス同盟を創設した。

 

アテネでは、18歳以上の成年男子が民会を組織し直接政治に参加する直接民主政であった。

 

ペロポネソス戦争後、マケドニアのフィリッポス2世は、アテネ・スパルタの連合軍を破ってギリシャの支配権を確立し、その子のアレクサンダー大王は、ペルシャを討つために、東方遠征を行った。大王は、エジプトを征服した後、アケメネス朝ペルシャを滅ぼし、さらにインド北西部にいたり(インダス河までの)、東西にまたがる大帝国を建設した。

 

彼らの大帝国は、彼の死後、部下同士の争いの中で分裂したが、この地域では、東方文化と融合したヘレニズム文化が栄えた。

 

ヘレニズム文化は、アレクサンドロス大王の遠征でギリシャから北インドにいたる大帝国が建設されたことにより生まれた文化であり、遠く中国や日本にも影響を与えた。

 

ガンダーラ文化は、ヘレニズム文化などの影響を受け、カニシカ王が中央アジアからガンジス川中流域までの地域を支配したことにより生まれた文化であり、仏像に代表されるガンダーラ美術が中国および日本にも影響を与えた。

 

 

ローマ

 

ローマは共和制時代と、帝政時代に2分される。

 

イタリア半島で成立した都市国家ローマは、共和制を樹立した後、半島内の他の都市との同盟を強めてイタリア半島の統一を完成した。その後、カルタゴを滅ぼしてからは、地中海の商業権も握るようになって政治的にも経済的にも安定した状態を実現し、96年から(180年にかけての1世紀から2世紀の間)、約100年にわたり「ローマの平和」と呼ばれる時期が続いた。

 

ローマはイタリア半島を支配下に治めた後、カルタゴとポエニ戦争を戦い、これに勝利し、北アフリカに領土を広げた。

 

ローマは、数回にわたって行われたポエニ戦争によりカルタゴに勝ち、次第に領土を広げて、アフリカ大陸進出の足がかりを築いた(地中海の覇権を握るようになった)。

カルタゴは、フェニキア人の植民市(現在のチュニジア)

ポエニ戦争。紀元前264~紀元前201年にかけて3回

 

ポエニ戦争後、貴族を代表する元老院と、平民を代表する民会が対立し、政治的混乱が生じたが、その収拾を名目に軍人による三頭政治が出現した。(第一回:ホンペイウス、カエサル・クラッスス)

 

カエサルは、ホンペイウス、クラッススと紀元前60年に、第1回三頭政治を始め、ガリア地方を平定した後にホンペイウスを破って独裁者となった。

 

カエサルの死後、国が乱れたが、これを平定したオクタヴィアヌス(アウグストゥス)は、長期間在位して内政の改革・防衛体制の確立などに力を尽くし、世界帝国となるための国家の基礎を固めた。

 

オクタビアヌスは、元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられた。元首政(プリンキパトゥス)を開始して、事実上の初代ローマ皇帝になった。

 

オクタビアヌスは、クレオパトラと結んだアントニウスを破り、地中海世界を統一し、元老院からアウグストゥスの称号を受け、帝政が始まった。

 

オクタビアヌスがエジプトを滅ぼし、アウグストゥスの称号を得て以降、ローマは帝政時代となり、地中海沿岸一帯だけでなく、メソポタミア、黒海北部、ドナウ川・ライン川やブリテン島にまで達し、3世紀には帝国内の全自由民にローマ市民権を認め、ローマの一体化が進んだ。

 

五賢帝時代は、ローマが最も安定した時期で、トラヤヌス帝(在位98~117)のとき領土は最大に達し、ローマ市民権が市国内の全自由民に与えられた。

 

最盛期を迎えた五賢帝時代(96~180年)は、国が繁栄し、文化が栄えたが、その末期には異民族の侵入が見られるようになり、軍人が次第に政治に介入するようになった(軍人皇帝時代へ)。

軍隊によって擁立されたロボット的な皇帝が即位するようになった。

 

ローマ帝国内で、軍人が発言力を強めるようになり、皇帝の交替を迫り始めた軍事皇帝による支配が始まった。235年から

 

軍人皇帝時代の混乱は、帝国の規模が一皇帝の統治能力を超えていたことが明らかになったことなどを受けて、ディオクレティアヌス帝(在位284~305)は、2人の正帝と2人の副帝をおく四分(しぶん)統治を始めた。

 

ディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国の分裂状態が深刻化した3世紀後半以降、専制君主政(ドミナートゥス)を開始した。権力を徹底的に集中させることで帝国の危機を打開しようとした。

 

コンスタンティヌス帝は、財政基盤を整備するため、コロヌス(土地付き小作人)を土地のしばりつけて税収入を確保し、人々の身分や職業を世襲化した。

 

コンスタンティヌス帝は、キリスト教を公認(313年)し、また、ローマ帝国の首都を、330年にローマからビザンチウムに遷都し、コンスタンティノープルと改称した。

 

375年から、ゲルマン人の大移動が開始された。

395年、テオドシウス帝の時、ローマ帝国が東西に分裂して成立した西ローマ帝国は、476年にゲルマン人傭兵隊長のオドアケルによって滅ぼされた。

 

帝国を東西に分割したテオドシウス帝(395年)の死後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はなお1000年以上続くが、西ローマ帝国は、ゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた。

 

4世紀後半、ゲルマン民族の大移動が起こり、西ローマ帝国が滅亡した

西ローマ帝国滅亡後も、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、コンスタンチノープルを首都として存続し、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされた。コンスタンティノープルを占領されて滅びた。

 

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、キリスト教文化を基調としつつも、西アジアの要素やイスラム教の雰囲気をおりまぜた独自のビザンツ文化を生み出した。キリスト教圏とイスラム教圏の架け橋として、相互の文化の伝達に貢献したが、9世紀後半にアレクシオス1世が十字軍を支援したのが原因でイスラム諸国の反発を招き、攻撃を受けたことが滅亡につながった(1453年)?

 

 

ローマの文化は、ローマ帝国において、最も平和で繁栄した五賢帝の時代に生まれた文化であり、ギリシャ文化の影響の下に、コロッセウムやパンテオンなどの優れた建造物を残した。

 

古代ローマ人は、芸術・文学などの分野では、独創性を発揮することなくギリシャの模倣に終始したが、上下水道・コロセウムなどの土木建築や法律・暦といった実用的な分野においての能力に秀でていた。特色をみせた。

 

 

 

中世の西ヨーロッパ

 

中世は典型的な封建社会であり、この時代の主従関係は、主君が家臣に封土を授け、所領に対して保護を与え、家臣は主君に忠誠を誓って騎士としての軍役奉仕を行う双務的契約関係であった。封建諸侯の勢力が強く国王の権力はかなり制約されていた。

 

中世の封建社会における主従関係は、主君が家臣に領土を授け、所領の対して保護を与え、家臣は主君に忠誠を誓って騎士としての軍役奉仕を行う双務的契約関係であった。このような封土を媒介とした主従関係の頂点に達していたのは国王ではなく、ローマ=カトリック教会のローマ教皇であり、国王は王権を拡大できなかった。

 

 

8世紀以後、ローマ教皇(ヨハネス12世)は、フランク王国に接近し、王国分列後、10世紀に東フランク(ドイツ)王国のオットー1世にローマ帝国の帝冠を与えた。これが神聖ローマ帝国の起源である。

 

 

十字軍

 

セルジューク朝の小アジア進出に悩んだビザンツ皇帝は、ローマ教皇に救いを求め、教皇はクレルモン公会議で聖地回復の聖戦を起こすことを提唱し、十字軍が始まった。

 

第一回十字軍は、フランスの諸候、騎士を中心に編成され、エルサレムを占領して、キリスト教国であるエルサレム王国を建国した。

 

十字軍は主に教皇に忠実なフランスの諸侯の軍事力が中心で、イタリアの諸都市の市民が参加を強制されるということはなかった。

 

第三回十字軍は、エジプト(アイユーブ朝)のサラディンがエルサレムを占領したことを契機として起こされたが、結果的にはサラディンとイングランド王が講和した。

第四回十字軍は、商権拡大をめざすベネチア商人の要求の下に、聖地に向かわず、その商敵であったコンスタンチノープルを占領し、ラテン帝国を建国した(1204年)。

 

十字軍に参加した国王は、聖地回復ができなかったためその権威を失墜させたが、十字軍の輸送により発達したイタリアの海港都市は、十字軍以降のアラビア商人との東方貿易によって繁栄した。

 

北イタリア諸都市は、十字軍の遠征以前から?は、東方貿易の中継基地として繁栄し、度重なる十字軍の遠征によって、その経路に当たっていた、ミラノ、ジェノバ、ベネチアなどの諸都市は、十字軍の影響で商業上めざましく発展した。

 

十字軍の結果、指揮官としての国王の権威は増大する一方、諸侯や騎士は長期の遠征による経済的疲弊や戦死などで次第に衰退していった。

 

 

 

封建社会における土地領有の単位を荘園(封建諸侯の私領)といい、国王だけでなく多くの封建諸侯が荘園を保有していた。(国王といえども諸侯の中の最有力者としての立場でしかなかった。)

 

中世の封建社会における土地の領有の単位は荘園であり、荘園の内部は、領主直営地と農民の小作地である共同利用地とに区別されていた。

領主や地主は仕切りのない開放耕作地制度のもとで、土地を囲い込んで生産性をあげようとしていた。

 

ヨーロッパの封建社会において、三圃制(さんぼせい)の普及や水車などの技術進歩により農業生産力が飛躍的に向上した。

 

三圃式農業は、農地を冬穀(秋蒔きの小麦・ライ麦など)・夏穀(春蒔きの大麦・燕麦・豆など)・休耕地(放牧地)に区分しローテーションを組んで耕作する農法。三圃制:耕作地を春耕地・秋耕地・休閑地の3つに分けて、地力の回復を図る制度。

 

中世の西ヨーロッパでは、農業や手工業の生産が増大し、商業活動が活発になると、その活動拠点として各地に都市が発生した。一部の都市は領主の支配から脱し、種々の特権を獲得して自治権を確立した。これらの都市は経済的利害や自治を守るために都市同盟を結んだが、特にリューベックを盟主とするハンザ同盟は、北海・バルト海商業圏を支配して繁栄を誇った。

北イタリアでは、ミラノを中心としたロンバルディア同盟が成立した。

十字軍の遠征の影響もあり、東方貿易や内部の都市同士の交易活動も著しく発達した。

 

13~14世紀にジェノヴァ(ジェノバ)、ヴェネツィア(ベネチア)、フィレンツェなどの都市共和国が繁栄するようになったのは、十字軍の遠征に伴い、海陸の交通が発達して東方貿易が盛んになったことが遠因となっている。

イタリアの諸都市は、十字軍の輸送で発展し、東方から香辛料を輸入する東方貿易が盛んになった。

 

 

東西交流

13世紀にヨーロッパと東アジアの交流が盛んになった理由の一つとして、モンゴル帝国が成立し、「絹の道」や「草原の道」を中心に交通路が整備されたことが挙げられる。そして、ベネチアの商人マルコ=ポーロは東方への旅を体験をもとに、「世界の記述」を著し、西欧人の東洋への関心を高めた。

この頃、イスラム圏では、マムルーク朝が有力で、地中海・インド洋貿易によって利益を独占し、その首都カイロは世界文明と経済の中心となった。13世紀末小アジアに興ったオスマン朝は、1453年にビザンツ帝国を滅ぼして勢力を伸ばし、スレイマン1世のとき領土が最大となった。

15世紀の西欧では、羅針盤の改良や地理的な知識の普及と並んで造船技術が発達した。その結果、遠洋航海が可能となり、イスラム商人の手に握られていた東方貿易を直接行い、とりわけ香辛料を得るために、アジアへの海路を求めて、いわゆる大航海時代が始まった。

 

 

 

ルネサンスと宗教改革

 

封建制が崩れてきたヨーロッパでは、人々はこれまでのカトリック教会の教えや封建社会の倫理にとらわれない生き方を求めはじめた。この新しい動きは人間精神の全般的な革新を促す一大運動であり、ギリシャ・ローマの古典文化の再生という意味でルネサンスと呼ばれた。ルネサンスはまずイタリアで始まった。

イタリアでルネサンスが最初に興った理由としては、東方貿易によって都市が栄え、市民が経済的実力を持っていたことなどがあげられる。フィレンツェのメディチ家など大商人が芸術家や学者を保護する風潮が当時のイタリアにはあったのである。

 

フィレンツェでは、商業や銀行業によって富を築いたメディチ家が市政を独占し、芸術の振興に努めたため、ルネサンス芸術が花開いた。

 

この頃ヨーロッパでは東方との新貿易路を開拓する必要が生じていたが、宇宙観の転換と新しい科学技術の発展は新航路の発見を可能にし、ヨーロッパ人の活動舞台は全世界に拡大され、交易圏はインド・新大陸を含めたものとなっていった。また、ルネサンスの人文主義が広まると、アルプス以北では教会に対する人々の不満はさらに高まり、まず、ドイツにおいて宗教改革が起った。宗教改革は各国の社会情勢とも結び合って、政治・社会運動にまで拡大し、ヨーロッパの近代化の一つの源となった。

 

ルネサンスの影響で、ローマ教会も世俗化が進みすぎたため、その反動として、聖書中心主義の宗教改革が行っていった。

 

ルネサンスは、14世紀のイタリアで始まった。当時のイタリアでは、ギリシャ・ローマの古典文化の復興を目指し、人間性を重んじる動きが広がった。こうした思想は、文学や芸術だけでなく、宗教界にも浸透していったため(世俗化、脱宗教度が進みすぎたため)、(その反動として)イタリア・ルネサンスは宗教改革と結びついて展開することとなった。

 

 

 

ミケランジェロは、ローマ・カトリック教会のローマ教皇ユリウス2世の依頼で、システィナ礼拝堂の天井壁画「天地創造」や、教皇パウル3世の依頼で、正面祭壇画「最後の審判」を描いた。(1508~12)

 

イタリアのダンテは、イタリア語(トスカナ語)で「神曲」を著し、イギリスのシェークスピアは英語を用いて作品を書いた。

ポーランドのコペルニクスは、ローマ・カトリック教会の支持する天動説に対し、科学的な立場から地動説を唱えた。

 

ネーデルランドのエラスムスは16世紀最大の人文学者であり、ローマ・カトリック教会を批判した「愚神礼賛」を著した。

 

フィレンツェの外交官であったマキャヴェリは、その著書「君主論」において、統治者は愛や善意、道徳よりも、暴力や狡智で(「獅子の勇猛と狐の狡智を兼ねた人物」が)政治を治めるべきと唱えた。

 

 

(15、16世紀)

従来のローマ=カトリック教会の権威を否定する宗教改革がルターやカルヴァンによって進められ、彼らの教えがヨーロッパの北部を中心に広まった。

 

コペルニクスやガリレオの地動説に基づく天文学上の業績が、人々の世界観・宇宙観を大きく転換させるきっかけとなった。キリスト教では地球中心の宇宙観(天動説)をとっていたが、地動説の正しさが証明されると、教会の権威が否定され、人々の宇宙観を根本的に転換させることになった。

 

ルネサンスの合理的な考え方は、自然科学や技術を進歩させた。コペルニクスは天動説を疑いを抱き地動説を唱え、ガリレオ=ガリレイは望遠鏡による観測によって地動説の正しさを主張した。また、ルネサンスの三大発明の一つである活版印刷はドイツ人グーテンベルグが発明したといわれ、製紙法と相まって、新しい思想の速やかな普及に影響を与えた。

 

ローマは教皇領をして繁栄した。歴代教皇は、ルネサンス芸術の中心地をめざし、多くの芸術家を招いた。ミケランジェロは、バチカン宮殿内のシスティーナ礼拝堂の天井壁画や祭壇画の「最後の審判」を描いた。、

 

フィレンツェの外交官であったマキャベリは「君主論」で、統治者は「獅子の勇猛と狐の狡智を兼ねた人物」である必要性を説き、徳がなければあるふりをし、約束は必ずしも守らなくてもよいとし、国家の統一の重要性を唱えた。

 

イベリア半島では、国土回復運動(レコンキスタ)が進み、1492年にはイスラム勢力の最後の拠点であるグラナダを陥落させ、イスラム勢力を一掃した。スペイン国王が封建諸侯を抑えて中央集権化をなし遂げた。

イベリア半島には、イスラム教徒が進出していたが、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が展開された結果、イスラムのナスル朝がスペイン王国に滅ぼされ、イスラム勢力が駆逐された。

 

 

宗教改革は、16世紀にドイツの修道士でヴィッテンベルク大学の神学教授であったルターが、サン=ピエトロ大聖堂の改築費用を集めるという目的の下にローマ教皇レオ10世により行われた免罪符の乱売に反対し、「九十五カ条の論題」を公表したことにより端を発したものである。

 

カルヴァンは、魂の救済は人間の意思によるものではなく、神によって最初から決められているという予定説の下に、勤労の精神を説き、結果としての蓄財を肯定した。

 

カルヴァンは予定説を唱えたが、その精神は、勤労を尊びその結果としての蓄財を認めたことにつながる。このためカルヴァン主義は、折から成長し始めた商工業者を中心とする市民階級に支持され、西ヨーロッパに広く展開していった。

イギリスでは、カルヴァンの教えを信じる人々はピューリタン、フランスで信じる人々はユグノーと呼ばれた。カルヴァン主義は後の資本主義社会に勤労倫理として大きな影響を与えた。

 

カトリック教会の内部にも、(内部)革新的動きが、反宗教改革という形で広がった。教皇への絶対服従、清貧、貞潔を旨とするイエズス会が組織され、海外布教を強化することで、新教に対抗しようとした。

 

 

 

大航海時代

 

15世紀から16世紀にかけては大航海時代と呼ばれ、スペイン・ポルトガルが中心的な担い手として、ヨーロッパからアジアへの新航路の開拓が進められた。

この時期に新航路の開拓が進められた背景には、羅針盤の改良により遠洋航海が可能になったこと、造船技術が発達したこと、マルコ=ポーロの著作などにより、東方世界の情報が流入するなどして地理的な知識が普及したこと、などが挙げられる。

スペインとポルトガルがその中心的な担い手となったことの背景としては、両国が、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐するレコンキスタを長期間展開したことから、キリスト教世界拡大に強い使命感を持ち、対外進出にも意欲的であったことが挙げられる。また、この両国では早くに、中央集権的な統一国家が形成されていたために、国王が財源を求めて、東方の香辛料を、オスマン帝国のイスラム商人を経由せず、アジアに直接おもむいて香辛料を手に入れようとしたことなども、インドやアジアへの航路開拓の一因となっていた。アジアへの海路を求めて、いわゆる大航海時代が始まった。

ポルトガルとのアジアとの直接取引の成功によって、商業の中心が地中海から大西洋沿岸に移り、それまでイスラム商人とヨーロッパを中継していたイタリア諸都市の衰退を招くなど、以後の東方貿易の性格を一変させることになった。

 

 

大航海時代の背景として、15世紀後半に、オスマン帝国が東方貿易に介入したことを受けて、ヨーロッパ諸国が、香辛料貿易によって直接利益を得るため、新航路の開拓をめざしたことがあげられる。

 

 

16世紀後半のレパントの海戦で、イスラム勢力が敗れた後、世界商業の中心が大西洋に移り、16世紀末から17世紀にかけてオランダとイギリスが(大西洋)貿易で中心的役割を果たし、富を蓄積した。

(それ以前)ポルトガルとスペインは、それぞれアジア貿易、アメリカ貿易によって富を蓄積した。

 

 

イタリア人のコロンブスの船隊は、1492年に大西洋を横断したカリブ海の島に達した。

コロンブスを後援したスペインに対抗して、ポルトガル国王はヴァスコ・ダ・ガマの船隊を派遣してアフリカ南端経由のインド航路を開かせようとした。

 

ポルトガルでは、エンリケ航海王子(在1385~1433年)がアフリカ西岸を探検した。ヴァスコ=ダ=ガマは、ポルトガル王マヌエル1世(在位1495~1521年)の命令でインド航路を開拓し、喜望峰を経由してインド西海岸のカリカットに到着した。そして、インドのアラビア海に面した港市のゴアに、ポルトガルの総督府を置き、ポルトガルのアジア貿易の拠点とした。

 

ポルトガル人ガブラルは、1500年にブラジルに到達し、この地をポルトガル領とした。

 

スペインでは、女王イザベルが援助して、コロンブスは、地理学者トスカネリの説を信じて西航し、1492年に西インド諸島のサンサルバドル島に到着した。

 

スペインは、ポルトガルとの間で、1494年にトルデシリャス条約を結び、植民地境界線を定めた。その後、1521年にコルテスがメキシコのアステカ王国を、1533年にピサロがペルーのインカ帝国をそれぞれ征服して、アメリカ大陸における植民地を築いた。

 

スペイン人のピサロの率いる軍隊が、1533年に南米のインカ帝国を征服し、大量の金銀をヨーロッパに持ち帰った(略奪した)。

中南米産出の金銀は、スペイン・ポルトガルによってヨーロッパに持ち込まれた。通貨量が増大し、物価が急騰する価格革命が起こった。これにより人々は困窮したが、一方では資本の蓄積が進み、封建制の解体が決定的となった。

ポルトガルとスペインは、ブラジル・その他の中南米・北米をそれぞれの植民地として支配するトラデシリャス条約を結んで、植民地支配に関する勢力範囲を定めた。

植民地となった中南米の先住民は、鉱山やプランテーションでの酷使と、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病のため激減し、代替労働力としてのアフリカから奴隷が大量に連れてこられた。

 

新航路の開拓による影響として、ヨーロッパでは商業革命および価格革命が起きた。このうち価格革命とは、アメリカ大陸(南米)から大量の銀が流入したことにより、ヨーロッパの銀価が下落し物価が高騰したことをいう。

大航海時代の到来によって、ヨーロッパ経済の中心が地中海から北大西洋圏に移行するようになった商業革命が起こった。

 

 

西欧諸国の絶対王政

 

16~18世紀の西ヨーロッパでは、封建社会から近代社会への過渡期に、絶対主義と呼ばれる専制政治が成立した。王権は強大となり、国王は封建貴族から政治的な支配権を奪う一方、身分上の特権を保障して彼らの服従と支持を取り付けた。農村では、生産力の向上、貨幣経済の浸透、都市の発達などから農奴は開放されて農民となり、その中から商人・職人が生まれた。

他方、この時期には経済面でも注目すべき変化が起った。新航路の開拓以後、商業活動が活発化し、中世的な生産形態に代わって、マニュファクチュアが行われるようになり、商業資本家が勢力を伸ばした。彼らは海外市場を巡る争いに勝つために国王の積極的な後援と保護を必要とした。

彼ら新興勢力と封建貴族は王権を支持する有力な社会層となり、その基盤の上に国王は官僚制を整え、議会を閉鎖し、強力な中央集権体制を打ち立てた。また、国王に直属する常備軍を編成し、特にフランスはヨーロッパ最強の陸軍国となり、多くの侵略戦争を強行した。

国王は国家の統一支配を維持するために、産業を保護・育成し、金銀の獲得や貿易の発展に力を注ぎ、重商主義と呼ばれる経済政策を推進した。イギリスとオランダは「東インド会社」を設立した。

 

 

ロック

  国家権力を立法権、執行権(行政権と司法権)、同盟権に分立

立法権優位型、実質ニ権分立

 

 *同盟権:連合権(外交権)のこと。外国と交渉をする権力(戦争・講和を含む)のこと。

 

 

モンテスキュー(16891755)

  18Cのフランスの貴族。「法の精神」

  立法権、執行権(行政)、司法権の三権分立を提唱 三権均衡型

  貴族的な自由を擁護、人民主権は否定。

 

 

18世紀のヨーロッパ

文化の面では文明の無限の進歩を信じる風潮が生まれて啓蒙思想が広まり、芸術でもバロック式に代わってロココ様式が出現した。

17世紀に一応議会政治の基礎を確立したイギリスに比べ、18世紀にもなお絶対王権の強かった大陸諸国、特にフランスにおいて、イギリスを範としつつ、政治のあるべき姿を主張する啓蒙思想が表れた。

 

封建社会から近代市民社会へ移る際に起こった社会的変革を市民革命という。

市民階級を中心とする人々が絶対主義を倒し近代社会を創設しようとして、市民革命を起こした。最初の市民革命は17世紀にイギリスでおこった。

変えるべき体制(旧体制):専制政治、絶対王政や特権階級の優遇など。

変える側(市民):都市の富裕な有産者が中心である。

アメリカとフランスの市民革命に影響を与えた啓蒙思想、ロック、モンテスキュー、ルソー。

 

百科全書派と呼ばれるディドロ、ダランベール、ヴォルテール、ルソーなどの啓蒙思想家は、市民社会の思想的基礎を築いた。

 

 

英国では、議会を解散した上で増税を強行しようとしたチャールズ1世に対し、ピューリタン革命が、また、英国によって重税を課されるなどの圧迫を受けていたアメリカ植民地では、反乱が起き、

フランスでは、絶対王政に対する民衆の不満から革命が勃発し、

フランス

ナポレオン・ボナパルトは、フランス国内の反乱の鎮圧やイタリア・エジプトへの遠征で名をあげ、実権を握ったのち、ナポレオン法典を制定した。さらには国民投票で皇帝の位に就いたナポレオンは、欧州大陸にも覇を唱えたが、モスクワ遠征の失敗を機にその勢いは

 

 

ウィーン体制

ナポレオンを退けたヨーロッパ諸国は、ウィーン会議で新しい国際秩序を打ち立てた。その指導原理となったのは、フランス外相タレーランが主張した正統主義であるが、これはフランス革命前の状態を正統とすることによって、ヨーロッパの安定と平和を達成しようとする考え方であった。

 

自由主義・国民主義に逆行する保守反動体制で、国王・貴族による支配への復帰をめざした。

 

 

ギリシャでは、19世紀初め頃、オスマン帝国からの独立戦争が起きると、ロシア、イギリス、フランスがバルカン半島に対する利害からこれを支援したので、ギリシャの独立は達成された。これを契機に、自由主義・国民主義の流れに逆らうウィーン体制は次第に崩れ始めた。

 

 

ビザンツ帝国滅亡後(1453年)、オスマン帝国の支配下にあったバルカン半島では、19世紀初めにギリシャ独立運動を起こした。ウィーン体制の中心人物であるメッテルニヒは干渉を企てたが、ロシア、イギリス、フランスはバルカン半島への進出を目的にギリシャを援助し、オスマン帝国からの独立を達成させた。

 

 

産業革命

 

産業革命は、18世紀後半に、軽工業分野の綿工業から始まり、インドから輸入された綿花によって綿織物の生産量が増えるにつれて、紡績機が発明され普及し、機械工業も発展した。イギリスが機械(技術)の輸出を解禁すると、産業革命の影響は世界各地に広まった。

 

イギリスは19世紀半ばに他国に先駆けて近代化を成し遂げた。産業革命

 

イギリスは、毛織物産業によって大量の資本を蓄え、囲い込み運動によって土地を失った農民が都市に流れ込んで賃金労働者となっており、また、それまでに世界商業の支配権を有していたスペインを破って世界市場を握っていた。資本・労働力・市場などの条件がほかの諸国に比べて整っていたことが、世界に先駆けて産業革命が起こる基盤となった。

 

イギリスで産業革命が実現できたのは、イギリス国内で石炭と鉄鋼石に恵まれていたため、自国で資源を調達でき、また、絶対王政下で資本の蓄積が進んでいたからであり、また、第2次囲い込みによって土地を失った農民が都市の労働者となって、必要な労働力にも恵まれていた。

 

スティーブンソンによる蒸気機関車の発明で、輸送手段が格段の進歩を遂げ、人口の都市集中をもたらし、大都市を生み出した(産業革命は人口の分散化ではなく集中化)。この一方で、労働環境の悪化など新たな問題が発生した。

 

生産手段が機械化されると、低コストの大量生産が可能となり、問屋制家内工業や手工業は衰退を余儀なくされた。工場労働者は時間給で賃金を受け取るようになり、労働時間と生活時間が分離し、人々の生活の「商品化」が始まった。

産業革命で、問屋制家内工業や手工業は、工場制機械工業に取って代わられ、人々の生活様式も変化した。

産業革命によって、封建的な生産様式が崩壊した産業革命後に、産業資本家が現れた。

 

イギリスでは、産業革命後、長時間労働を課せられた労働者たちが、待遇改善を求める労働運動がおこり、社会主義の思想が生まれた(階級意識に目覚め、他の諸国に先駆けて社会主義が誕生した)が、団結禁止法が制定されるなど、労働運動を弾圧する動きが見られた。

 

19世紀半ばから後半になると、ベルギー、フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本と産業革命を達成した。特に、19世紀末には、アメリカが「世界の工場」となった?ので、イギリスは20世紀初めまで「世界の工場」としての地位を維持することはできなくなった。

 

イギリス中心の世界市場の中で、北アメリカは独立革命によって、イギリスの植民地経営から逃れた?。アメリカでは1850年代に産業革命が開始されたが、奴隷問題が南部、北部の対立点となりつつあった。

フランスのおける産業革命は、19世紀前半の1830年代に開始されている。

 

帝国主義の時代

 

19世紀末になると、欧米先進諸国は、石油と電力を動力源とする技術革新に成功し、巨大な生産力と軍事力を背景に、アジア・アフリカ、更には太平洋地域を次々と植民地に設定した。この植民地獲得の動きを帝国主義といい、植民地は、本国工業のための資源供給地、さらに工業製品の輸出市場として、そして新たに余剰資本の投資先としてその重要性が見直され、世界全体が資本主義体制に組み込まれた。

ヨーロッパ列強はアジア、アフリカ、太平洋地域を植民地あるいは勢力範囲として、資本主義の世界システムに編入していった。

 

1870年以降19世紀末に至る時期には、後発資本主義国でも産業革命がようやく進展した。

ドイツは、1890年代以降も、リストの唱える保護貿易を採用した。1834年にドイツ関税同盟が発足し、先進工業国のイギリスなどからの安価な生産物に保護関税を課した保護関税政策(1879年)を実施shちあ。

 

 

ドイツやアメリカで鉄鋼・化学・電気などの重工業が発達し、それらの企業を中心に独占資本が形成された。ドイツでは反独占をめざす中小産業家層の運動や独占に対する公的規制がみられた。アメリカでも、シャーマン反トラスト法に代表される、各種トラスト規制法が制定されているが、大企業の独占を弱めるほどの有効な力を持たなかった。

 

鉄道網の拡充、スエズ運河の開通など交通革命の進展で輸送コストが大幅に低下したために、アメリカ・ロシア・エジプト・インドなどから安価な穀物がヨーロッパに流入し、穀物価格が暴落して、ヨーロッパでは慢性的な農業布教が引き起こされた。

帝国主義時代には、穀物以外にも世界の分業が進められた。

 

列強は市場を求めて対外膨張主義をとり、植民地や勢力圏の拡大を巡って争った。

 

 

ベルギーは、19世紀後半にコンゴ川流域地方に進出し、植民地経営を始めた。これを契機にヨーロッパ列強は、アフリカ分割のための会議を開き、ベルギー国王によるコンゴ支配を認め、また、内陸部を含めたアフリカにおける列強の先取権を相互に承認することを決めた。

ベルギー国王レオポルド2世は探検家スタンリーを派遣し、植民地経営を進め、1908年にはベルギー領コンゴになった。

 

ベルギーから始まったアフリカ分割は、1935年にイタリアがエチオピアを併合したことをもって、終了し、アフリカにおける独立国は、リベリア共和国以外は消滅した。(20世紀初頭には、アフリカにおける独立国は、リベリア共和国とエチオピア帝国があった。)

リベリアは、アメリカ合衆国の援助で19世紀半ばから独立した。

 

オーストリアは、トルコの混乱に乗じてボスニア・ヘルツェゴビナを併合した後、パン・ゲルマン主義を唱えるドイツとつながり、ロシアを中心としたパン・スラブ主義に対抗したので、バルカン半島の緊張が高まった。

 

欧州列強諸国は、帝国主義政策の競合から、イギリスなど古くからの植民地保有国とイタリアなど後発の植民地保有国に分かれて対立し、イギリス・フランス・ロシアの間では三国協商が、ドイツ・オーストリア・イタリアの間では三国同盟が結ばれた。こうして列強の二極化は、小国が分立するバルカン半島の民族主義的対立を激化させ、同半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。

 

 

第一次世界大戦(1914~1918)は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの間では三国協商との戦いであり、セルビア人青年が、オーストリア皇太子夫妻を暗殺したサラエボ事件をきっかけに始まった。

イタリアは、1915年に同盟から離れ、協商側に参戦した。

 

サラエボ事件を契機にオーストリアがセルビアに宣戦布告をすると、ドイツがオーストリアを、ロシアがセルビアを支持して戦争に加わった。また、イギリスもフランスもドイツに宣戦したことから、戦争の規模は一気に拡大した第一次世界大戦となった。

 

 

第2インターナショナルは反戦の立場をとっていたが、各国の社会党が政府支持に回ったため、戦争を支持し、連合国側(協商側?)は挙国一致体制で第一次世界大戦に臨んだ。

第2インターナショナルとは、1889年にパリで開かれた社会主義者大会で成立した国際的連合組織のことで、反戦の立場に立つ組織であったが、第一次世界大戦直前に戦争を支持することを表明し、崩壊した。

 

第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパでは経済が停滞したが、大戦前に債務国であったアメリカは世界大戦中に連合国(協商側)の物資提供などで巨額の利益を得たことから、第一次世界大戦直後に債務国から債権国となって、国際金融市場の中心となった。

 

アメリカは、第一次世界大戦の開戦後に連合国側に加わり、ドイツに宣戦した(1917年))。ドイツが、連合国側の物資輸送を困難にするための無制限潜水艦作戦の被害を受けたことがアメリカの参戦を促すことになった。

 

ドイツは西部戦線では、マルヌ会戦でフランス軍の反撃を受け、東部戦線ではタンネンベルクの戦いでロシアを破ったが、いずれも膠着して、戦争は長期化し交戦国の国民の生活を巻き込む総力戦とんった。

 

ロシアでは、1917年に三月革命と十一月革命が起こり、ツァーリズムが打倒され、ソビエト政権が樹立された。成立したボリシェビキ政権は、ドイツとブレスト=リトフスク条約を結びドイツと講和した。

 

レーニン率いるソビエト革命政権が、単独でドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで講和すると、英・仏・日・米の4ヶ国は、革命の普及を防ぐため、軍隊を派遣してロシア国内の反革命軍を助ける対ソ干渉戦争を起こした。

 

4年余にわたった第一次世界大戦は、キール軍港での水平の反乱がきっかけでドイツ軍は戦争続行が不可能となり休戦協定を結んだ。1919年、戦後処理のために開かれたパリ講和会議において、対独講和条約(ベルサイユ条約)が調印され、ドイツは海外の植民地をすべて失い、多額の賠償金を課された。

 

第一次世界大戦後に結ばれたヴェルサイユ条約をはじめとする講和条約によって、ヨーロッパの国際秩序が確立された。これがヴェルサイユ体制である。民族自決の原則によって東欧諸国が独立し、敗戦国ドイツ、オーストリア、オスマン=トルコの軍事力が削減されたが、1936年になると、ナチス・ドイツのヒトラーはヴェルサイユ条約を一方的に破棄し、ヴェルサイユ体制は崩れていく。

 

第一次世界大戦の終了後、パリ講和会議において、アメリカ大統領ウィルソンの提唱によって、国際平和を維持するために国際連盟の設立が決定されたが、アメリカは上院の批准拒否を受けて加盟していない。

 

第一次世界大戦の終結後、国際平和の維持を求める機運が高まるなか、アメリカ大合衆国大統領ウィルソンが提唱した十四カ条の平和原則に基づいて国際連盟が発足した。

 

アメリカ大統領ウィルソンは、1918年に国際平和機関である国際連盟を組織することを提唱したが、上院の反対で、アメリカは国際連盟に参加しなかった。

 

史上初の本格的な国際平和維持機構として設立された国際連盟では、敗戦国ドイツと、社会主義国ソビエトは当初は排除され(独26年に加盟、33年脱退、ソ連34年に加盟、39年に除名)、イギリスとフランスは大戦の疲弊から立ち直れずいた。またアメリカも上院の反対で加盟しなかった。

 

1919年に連合国とドイツの間で結ばれたベルサイユ条約で、ドイツは1320億金マルクという巨額の賠償金を支払うこととなり、植民地や海外領土すべてを失った。

 

 

ベルサイユ体制において、ドイツに対しては、巨額の賠償金や海外領土の没収、アルザス・ロレーヌ地方の割譲に象徴されるように厳しい態度で臨んだ。

 

パリ講和会議では、民族自決の原則がとられたが、ドイツの旧植民地やオスマン帝国の領土は、国際連盟の委任統治という形で戦勝国間に分配され、結局民族自決の原則は東ヨーロッパにしか適用されなかった。

 

民族自決の原則で貫かれていたパリ講和会議で、

ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキアなどはオーストリア・ハンガリー帝国から独立を果たした。中国では、パリ講和会議に反対して五・四運動が起こった。

 

オーストリア=ハンガリー帝国は、第一次世界大戦後解体し、この国の領内からチェコスロバキア、ユーゴスラビア、ポーランド、ハンガリーが独立した。ロシア革命の波及を恐れた各国は改革を行い農民の支持を得ようとしたが不徹底な改革に終わった。(東欧がソビエトの影響を受けたのは第二次世界大戦後である。)

 

東欧では、ウィルソン大統領が提唱した民族自決の原則が適用され、ハンガリー、チェコスロバキア、ポーランドなど民族ごとに国家が生まれ(独立国家となり)、安定した民主政治行われた?

チェコスロバキアはオーストリア=ハンガリー帝国から独立し、共和国となって民主政治が行われた。

 

インドは、戦時中にイギリスに対し、自治の約束と引き換えに物資や兵員を提供したが、戦後、イギリスはローラット法により民族運動を弾圧した。これに対し、ガンディーによる非暴力・不服従運動が展開された。

 

大戦中に日本が勢力を伸ばした東アジア・太平洋間に対処するため、アメリカの提唱でワシントン会議が行われたが、主力艦の軍備制限や太平洋の現状尊重を柱とする四ヶ国国条約、中国の現状尊重を柱とする九ヶ国条約、日英同盟の破棄などが決められた。

 

 

第一次世界大戦から、世界的大国として国際社会の場に躍進したアメリカは、1920年代に、大繁栄時代を築き、資本主義社会の理想像となった。また、社会主義国家ソ連は、それとは別の社会像を示して、アジア・アフリカ地域の民衆にまで巨大な影響力を及ぼした。敗戦国となったドイツは、戦後一転して民主的な制度を持つ社会国家として再出発し、中規模国民国家の期待を担った。

民主的なワイマール憲法を制定したが、社会民主党を中心とする共和国政府に対し、帝政派、保守派、左派政党が対立して政情は安定しなかった。

 

しかし、それぞれに希望を託された3国の歩みは挫折・変質を経験することになる。アメリカは、大恐慌によって一挙にマイナス・モデルへと転落し、ソ連は一国社会主義の下で人権や民族の抑圧国家に変容し、ドイツのワイマール民主主義は、ナチズムという醜悪な国家に道を譲った。

ナチスは、主に失業した労働者たちに支持され、共産党を弾圧し、ユダヤ人の排斥や言論の規制を行った。

 

世界恐慌

第二次世界大戦

 

ドイツとソ連は、独ソ不可侵条約を結び、ソ連は中立の立場からドイツの東欧諸国への侵入を黙認した。しかし、1941年に独ソは開戦し、スターリングラード攻防戦など、第二次世界大戦中、最大の死傷者を出した激戦を展開した。

 

アメリカは当初中立を宣言したが、後に大量の軍需品をイギリスに送り、大西洋憲章によって戦後の基本構想を示した。軍事介入はアジアだけでなく、ヨーロッパの戦闘にも参加した。アメリカはシチリア島上陸作戦で、イタリアを降伏に追い込み、ノルマンディー上陸作戦でドイツの敗北を決定づけるなど、欧州戦線にも積極的に参戦した。

 

スペインでは、ファシズムと反ファシズム勢力の対立で内乱となったが、最終的には、独・伊の支持を受けた親ファシズム派のフランコ政権が、人民戦線内閣を倒した。フランスでは、大戦中、ドイツに国土の大部分を占領されたが、レジスタンス(抵抗)運動がド・ゴールを中心としてイギリスに逃れて行われた。

 

 

大戦中の会談

1945年2月のヤルタ会談で、対独作戦、ドイツの戦後処理、ソ連の対日参戦が決まり、ドイツ降伏後、日本に無条件降伏を要求するポツダム宣言が発表された。他方、同年4~6月のサンフランシスコ会議で、国際連合憲章が採択された。