経済学(ミクロ・マクロ、経済史・学説史)

専門科目の経済原論(ミクロ・マクロ)に関しては、拙著「最初でつまずかない経済学」を教科書的に使って始めて頂き、その後(または平行して)、拙著「スピート解説ミクロ(マクロ)経済学」を問題集として使っていただければ、公務員試験の経済学を自分のものにできると確信しています。

 

最初でつまずかない経済学(ミクロ・マクロ)

スピート解説ミクロ(マクロ)経済学

 

そこで、このセクションでは、経済系科目である「経済史・経済学説史」を実施します。

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経済学史

 

ケネーは、フランスにおける資本主義的大農経営の実現をめざし、政府の規制による保護貿易から、内外における穀物取引の自由化、封建的規制の廃止を主張した。

 

重商主義は、国富の増大には資本蓄積が必要であるという認識から、貿易差額主義による貿易黒字の蓄積が必要だと主張した。アダム=スミスはその批判者である。

 

マルサスは、保護貿易(穀物法制定)により高い穀物価格を維持し、地代収入の増加とそれによる有効需要の増大を図ることを主張した。

 

アダム・スミスに代表される古典派経済学は、市場メカニズムに任せれば効率的な資源配分が実現できるとして、政府の市場への積極的な介入を否定した。国家の機能(政府の役割)を国防、司法・警察、個人ではなしえないある種の公共事業や公共施設の提供の3つに限定するという、いわゆる「安価な政府(夜警国家)論」を展開した。

 

分業を社会把握の基礎カテゴリーとして確立したのは、古典派経済学のアダム・スミスである。スミスは工場内における技術的分業を社会的生産力発展の推進力として重視するとともに、社会内において諸生産部門が商品経済に基づく分業体制に編成されていることに着目して、ブルジョア社会を「商業社会」と呼んだ。

 

アダムスミスは、社会における分業を重視するとともに、その分業システムの下で各個人が利己的に行動することが「神の見えざる手」(価格メカニズム)の導きにより効率的な経済社会をもたらすとした。

 

アダム・スミス(172390)は、経済活動に対する国家の介入がない方が、財の自由な交換を促進し、その結果、各人の自己利益への刺激を高めることで、財の生産を促進し、同時に市場を通じた価格の自動調整機能が働き、より多くの財が適切な価格で人々に配分されると論じた。

 

アダム・スミスが唱えた人々の自由な交流が一種の秩序を形成し、国家の役割はかかる秩序になるべく介入せずに、それを保護することであるという自由放任主義(レッセ・フェール)は、古典的自由主義の核心となっていった。

 

アダム・スミスは、富の源泉を労働に求め、「見えざる手」による予定調和を唱え、重商主義重農主義を批判して、産業市民階級の自由放任主義的経済思想を理論的に基礎づけた。

 

デュルケームは、古典派経済学が分業を経済的効率の問題としてのみ見ることを批判し、分業を社会的規範に基づく道徳的事実として、経済領域のみならず社会そのものの全領域に拡大してとらえた。そして、近代社会においては、分業によって個性的な異質な諸個人が結合する有機的連帯が生み出され、相互に類似した同質的な諸個人が結合する機械的連帯からこの有機的連帯へと社会は発展・進化している、と論じた。

 

リカードの比較生産費説は、貿易による国際分業がなぜ成立するかを明らかにするもので、各国は自国内で生産費が相対的に低い財に生産を特化し、他の財は他国から輸入する形で貿易するのが各国にとって最も利益があるとする考え方である。

 

リカードは、各国間の財の生産費の比率に差があれば、貿易により比較優位を持つ財の生産に特化でき、世界の生産量の増加が可能であるとした。

 

 

オーストラリア学派

オーストラリア学派に属する4人の経済学者、シュンペーター、ミーゼス、ハイエク、メンガー

 

メンガーは、ジェポンズ、ワルラスとともに、経済学史上の「限界革命」を推し進めた者として有名である。彼らが第一世代で、シュンペーター、ミーゼス、ハイエクは第二世代。

 

ミーゼスは、限界効用理論をもとに、独自の貨幣理論を発展させた。また、徹底した自由経済の主張者としても著名であり、特に、社会主義経済における資源の合理的配分が可能か否かを巡っての経済計算論争で活躍した。

 

ハイエクは、当初経済自由主義の立場に立つ経済学者として有名であったが、その後、興味の対象範囲が徐々に経済学を超えて、社会哲学に拡大していった。第二次世界大戦での経済をもとに彼が著した「隷従への道」は、ベストセラーになった。

 

ハイエクは、社会主義を徹底的に批判し、自由な市場経済の中にさえ社会主義的な精神を持ちこむことがやがて全体主義への道になると主張した隷従への道は1943年に書かれた。

 

ハイエクは、徹底した経済自由主義者であり、その景気理論において貨幣量の変動、とりわけ人為的な信用創造の膨張や縮小が景気変動をもたらすと説いた。また、中央銀行による貨幣供給の独占の廃止を主張した。

 

シュンペーターは、ワルラスの数理経済学の方法を支持するとともに、彼独自の動学的な経済発展の理論を展開した。シュンペーターの発展理論では、「企業家精神」「新結合」などの果たす役割が強調されている。

 

シュンペーターは、資本主義の本質を、企業家の技術革新によるダイナミックな発展過程であるととらえていた。資本主義体制の運命を問い続け、資本主義の経済的成功が資本主義を崩壊させ社会主義への移行をもたらすことを論じた。

 

JAシュンペーターは、ケインズの有効需要原理を継承しつつも、供給構造の質的変化を問題として、その著書「経済発展の理論」において、生産関数が絶えず変革される資本主義経済のダイナミックな過程を分析して、企業家による技術革新の重要性を強調した。

 

JAシュンペーターは、長期波動(約50年間)をコンドラチェフ循環、中期波動(約20年間)をクズネッツ循環、短期波動(約10年間)をジュグラー循環とする、振幅を異にする複数の循環が同時的に併存することを説明した。

 

LRクラインは、ケインジアンの理論に基づいたマクロ経済モデルによって米国の戦間期および戦後の経済変動の説明を試み、その後もケインジアン・モデルの実証化、モデルの現実への適応化をめざした。

 

レオンチェフは、産業・貿易・地域構造の問題をはじめ、物価・賃金・インフレ・経済発展、環境、医療問題などの幅広いテーマについて、自ら開発した産業連関分析の枠組みの中で計量可能なモデルを構成し、その解としての解決策を提示した。

 

レオンチェフは、一般均衡理論の実証的適用をめざして、所与の最終需要を生産するための産業部門の均衡産出量を求める分析方法を創始した。また、その方法をもとに、現実の貿易が必ずしもヘクシャー=オーリンの理論とは一致しない事実を見いだした。

 

 

ケインズ派

J.M.ケインズによれば、古典派の雇用理論は、「賃金は労働の限界生産物に等しい」という命題(第一公準)および「一定の労働量が雇用されている場合、賃金の効用はその雇用量の限界不効用に等しい」という命題(第二公準)に基礎を置いているとした。この古典派の経済モデルにおいては、非自発的失業の存在を説明できないことから、ケインズは第二公準の妥当性を否定し、雇用量は有効需要に依存するとして、現実の経済における非自発的失業の存在を説明した。

 

ケインズは政府支出、投資、輸出の合計額は、税収、貯蓄、輸入の合計額に等しいので、貿易の不均衡は政府による介入によって解消できるとした。

 

JMケインズは、現実の生産量や経済の活動水準は、潜在的な生産能力ではなく、需要によって規定されるとする「有効需要の原理」を唱え、従来の伝統的経済理論に大変革をもたらした。

 

ケインズ政策は、1929年の恐慌の原因が、需要不足にあるとして、公共事業など財政政策によって景気の動向や経済成長、雇用の状態など国民経済の動きを調整しようとする考え方である。

 

ケインズ学派は、市場の失敗が国民経済(マクロ経済)レベルで起こると考え、積極的な裁量政策(財政政策)を用いなければ、不況を解消できないと主張した。これに対して、マネタリストは…

 

マネタリスト

(市場はほぼ完全に働くと考える)マネタリストはケインズ学派とは対照的に、貨幣供給量の変化がマクロ経済の総需要に与える効果を強調し、財政政策の効果を疑問視する学派である。

 

初期のマネタリストは、(市場メカニズムを重視)、古典派の素朴な貨幣数量説に基づいており、貨幣供給量の変化(増加)は、長期的には名目価格に影響を与える(物価水準を引き上げる)だけで、産出・雇用量(実質経済)にはほとんど影響をおよぼさないと主張した。

 

1960年代末頃からのマネタリストは、ケインズ学派が重きを置かなかった金融政策の効果を強調した。(1960年代から1970年代にかけて、シカゴ学派がマネタリストの中心になった。

 

ケインズ学派とフリードマン派のマネタリストとの大きな見解の相違は、経済不安定の発生源についての見方の違いにある。

 

マネタリストの見解では、民間部門は本来、安定的なものであり、ケインズ学派がその効果を主張する財政政策によって総需要を増やしても、低下させることができない自然失業率が存在する。

 

市場はほぼ完全に働くと考えるマネタリストは、失業率には裁量的政策を用いても下回れない水準=自然失業率水準があり、むやみな介入はかえって経済効率を損ねる可能性があると批判した。そうした政策はむしろ経済を不安定にするため、貨幣供給量の増加率を一定に保つ(k%ルール)などの一定の政策ルールが必要であるとする。

 

マネタリズムは、財政支出は実質GDPに大きな影響を与えず、また金融政策も長期的には中立的あるとした。

 

Mフリードマンは、ケインズ主義は貨幣の役割を軽視しすぎると批判して、貨幣数量説に代わって、貨幣の供給量を一定のルールで増やす「k%ルール」を提唱し、マネタリストを形成した。?

 

フリードマンは、新貨幣数量説を説いた代表的なマネタリストであり、ケインズ流の裁量的な経済政策の有効性を疑問視し、物価水準は貨幣供給量によって決定されるとの政策上の立場から、貨幣供給に関する固定的ルールの設定等を主張した。

 

マネタリストは貨幣の流通速度が一定であると仮定し、物価×産出量=貨幣供給量×貨幣の流通度であるとすると、貨幣供給量のみが名目国民所得を決定し、ケインジアンの財政政策は無力であると主張する。一方、ケインジアンは財政政策の有効性を主張する。金融政策についても貨幣供給量の増加が利子率に影響を与え、結果として産出量にも影響を及ぼすとしている。

 

マネタリズムの主唱者であるフリードマンは、裁量的経済政策に反対し、経済を自由な市場に委ねるべきであり、物価安定のため貨幣量の増加率を適切な率に固定することを主張した。また、フリードマンは、自由な企業体制の維持を主張するいわゆる新自由主義論の指導者の一人であり、福祉国家化の進行と、政府の巨大化に批判的立場をとった。主著に「選択の自由」がある。

 

 

シカゴ学派に属する経済学者

(ナイト、ベッカー、コース、ルーカス)

ナイトは、シカゴ学派の先駆者の一人であり、危険や不確実性が経済活動で果たす役割を重視し、利潤の原因を不確実性に求める理論を主張した。

 

ベッカーは労働者への教育投資によって得られる技能を資本と考える人的資本理論を展開し、また労働市場における差別の分析や、家族や結婚の経済学的な分析を行った。

 

Gベッカーは、ミクロ経済分析の領域を人間の行動様式や相互作用といった非市場分野にまで広げ、差別の経済学、家族の理論、人的資本論などの諸理論を展開した。

 

コースは「市場の失敗」を巡り、外部不経済が存在するときに、どちらが相手に対する補償を負担しても、同じ効率的配分が達成されると主張した。

 

ルーカスは、マクロ経済モデルに合理的期待の概念を導入し、民間の経済活動や期待形成への影響を無視した伝統的な裁量的マクロ経済政策を批判した。

 

 

サプライサイド経済学(供給重視の経済学)

 

サプライサイド・エコノミクスは、不況の原因が企業の生産能力の不足にあるとし、投資意欲を刺激することにより、生産のボトルネックを解消して国全体の生産を増加させようとする考え方である。

ケインズとは逆に、供給側の要因を刺激することで、経済を活性化しようとした。1970年代後半にアメリカで登場し、フェルドシュタイン、ラッファーらにより主張された。彼らは生産力の基礎である労働や資本の供給側を活性化するために減税などを提唱した。

 

サプライサイド経済学は、経済活動のうち需要面より供給面を重視し、企業活動に対する減税や政府規制の緩和によって、民間部門の生産力を向上させようとする考え方である。

 

 

古典派vsケインズの体系

 

古典派の体系では、利子率の調整によって投資と貯蓄が均衡するが、ケインズ派の体系では、所得が変化することによって投資と貯蓄が均衡する。

 

古典派の体系では、労働雇用量が決定された後に産出量が決定されるが、ケインズの体系では、産出量が決定された後に労働雇用量が決定される。

 

ケインズの体系では、貨幣市場において利子率が決定されるが、古典派の体系では貨幣数量説によって物価水準が決定される。

 

古典派の体系では労働の限界生産性は実質賃金に等しいという「古典派の第一公準」が成立するが、ケインズは古典派の第一公準は承認する。一方、労働の限界不効用は実質賃金に等しいという「古典派の第二公準」をケインズは否定する。

 

財政支出を増加させると、古典派の体系においてのみ完全なクラウディング・アウトが発生する。

完全クラウディング・アウト:財政支出の増加が一切産出量に影響を与えたない。

 

古典派経済学によれば、貨幣供給量の変化は全て物価水準の変化によって吸収されるため、貨幣は実物経済に対して全く影響を及ぼさないとされる。これは貨幣の中立性と呼ばれる考え方であり、貨幣は実物経済を覆うヴェールにすぎない。

一方、ケインズ経済学によれば、貨幣供給量の変化は、実物経済の変化を引き起こすことになる。例えば、貨幣供給量が増加した場合、物価水準を一定としたIS-LM分析で考えると、LM曲線は、右方にシフトし、均衡国民所得は増加する。そして、総需要―総供給分析では、総需要曲線を右下がり、総供給曲線を右上がりであるとすると、貨幣供給量の増加は総需要曲線の右方へのシフトをもたらし、物価水準の上昇を引き起こす。

 

物価水準を一定とすると、貨幣供給量の増加は、貨幣市場で利子率の低下を生む。

物価水準を一定とすると、貨幣供給量の増加は、国民所得を増加させる効果がある。

 

貨幣錯覚とは、人々が物価水準を正確に判断できず、名目所得が増加したときに消費量を増加させてしまうことをさしている。

 

 

経済史

 

1858年に欧米諸国と締結した通商条約(日米修好通商条約)は、領事裁判権を認め、片務的な協定関税制度を採用する不平等条約であった(輸入関税が認められていなかったわけではない)。

 

幕末貿易では、輸出額の急速な拡大により、重要輸出品目(生糸等)の生産が追いつかず、国内向けの物資が不足し、物価の騰貴を招いた。

 

1873年の地租改正により、租税が金納となったが、地主小作関係はそのまま維持され、小作料は物納であった。このため米価の上昇により小作料は実質的には上昇した。

 

 

明治政府は、模範工場の建設、機械の払い下げ等を通じて、近代紡績業の育成を行おうとしたが、紡績業の経営には失敗しており、大きな影響を与えていない。

 

1882年の日本銀行の開業により、日本の殖産興業政策はそれまでの財政主道型から金融主道へと変換した。

 

いわゆる松方デフレ期には、零細農民は大きな打撃を受けたが、その結果、小作地率は上昇した。1881年松方正義が大蔵大臣に就任すると、不換紙幣の整理によるデフレとなった。

 

 

政府は1916年に工場法を施行したが、1918(大正7)年から1921(大正10)年に労働争議が頻発した。

 

明治末から大正時代にかけて、財閥系企業には、株式会社の形態をとるものが多く、株式会社は普及し、工業会社の資本金中の株式の比率を見ると1913(大正2)年には9割近かった。

 

1927(昭和2)年には金解禁をめざす動きはあったが、いわゆる「金融恐慌」が発生したことから挫折した。実際に金解禁が行われるのは1928(昭和3)年の11月であった。1928年には銀行法が成立し、これによって銀行整理が劇的に進むとともに、財閥系都市銀行への資本集中が進んだ。

 

高橋蔵相は、景気浮揚のための日銀引受公債を発行し、軍事費・時局匡救(とききょくきょうきゅう)事業

時局○教土木費などを調達し、いわゆる「高橋財政」を実行した。1935年以降インフレ懸念のため公債発行を抑制しようとしたが、軍部の抵抗にあい、財政の軍事化が進んだ。2・26事件以降、大幅な軍事費増大のため赤字公債を認めた。

 

昭和5年から6年にかけてピークに達した「昭和恐慌」では、多くの産業でカルテルが結成された。太平洋戦争時には、これらのカルテルは各産業ごとの統制会に組織され、各産業内の企業間の関係、企業と政府の関係が緊密化、強化された。

 

1937(昭和12)年に林内閣は、企画院を創設した。民間企業は統制会を通じて、戦時経済経営に参画し、輸入品等臨時措置法、臨時資金調整法による消費、配給、価格統制、生産要素配分を行うことができ、生産は維持できた。

 

1941(昭和16)年に株価低下に直面した政府は、株を買い支えるために日本協同証券株式会社を設立し、翌年には全国金融統制会が設立され、日銀を事務局とする協調融資が行われた。

 

太平洋戦争の統制経済時には、政府は食糧確保、国民統制の観点から、小作料の引き上げ停止、小作料の適正化が実施された。これと合わせて、戦時中の一連の食糧管理制度の確立により、小作料は大幅に低下し、地主には大きな打撃となった。

1939年に小作料統制令が公布された。

財閥系企業は、太平洋戦争中の経済統制が進むにつれて、軍需産業部門へ進出することにより、鉱工業のおけるシェアを増やしていった。内部的には、政府による統制強化と軍部との関係強化によって、傘下企業への影響力は低下し、逆に、銀行の影響力増大、株式公開による財閥家族の株式保有比率は低下している。

その際の資金は銀行ならびに株式公開によって供給され、銀行の影響力は増加し、財閥家族の株式保有比率は低下している。

 

第1次囲い込み運動は、15世紀後半から17世紀前半のイギリスで進行した運動で、農民的囲い込み牧羊業の発展に媒介されて、領主の大規模な牧羊囲い込みに発展したものである。

 

第2次囲い込み運動は、大農場だけで採用できるノーフォーク型輪作農法の普及や、「囲い込み法」の制定によって、この運動は進行し、残存していた開放耕地制度と領主的土地所有者を駆逐した。

土地所有者は、近代的地主ないしは農業資本家となった。第2次囲い込み運動は議会の承認の下に行われた。

 

第2次囲い込み運動は、開放耕地制度を破壊し、農業資本家による土地集中と、農業の機械化大経営が行われ、領主的土地所有者を地主的土地所有者に転化することができた。

 

第2次囲い込み運動は、貴族最下層のジェントリーや富裕な一部の独立自営農民(ヨ―マン)によって進められた運動で、彼らは、三浦農法から引き上げた帯地を統合して、一つの耕地として囲い込み、領主に規制されることなく自由に耕作する権利を得た。

 

第一次世界大戦後、金本位制は多くの国で再開されたが、ドルは第一次世界大戦後、徐々に国際通貨として発展していった。

 

第一次世界大戦後多くの国が、金本位制への復帰を果たしたが、ドイツも、アメリカからの資金援助を受け、実質的に1924年のライヒス・マルクの制定により、金本位制となった。

 

多くの国が第一次世界大戦後の復興に苦しむ中で、いち早く復興したアメリカでは、1920年代、ロストウのいう高度大衆消費社会へと転換して、自動車や家電等の当時の新興産業が目覚ましい発展をした。

 

欧州諸国の工業生産は第一次世界大戦による生産設備の破壊と、大戦後の資本の流出によって国内経済の復興が進まなかったものの、戦前の水準にまで復興をして、第二次世界大戦に突入した。

 

1930年代に入ると多くの国が復帰した金本位制を停止する中で、イギリスも1932年から管理通貨制度をとるようになった。