日本史(テーマ別)

荘園制度、土地制度

 

全国に班田収授法が施行され、戸籍に基づいて、6歳以上の男女に口分田が与えられる一方、租・庸・調や雑徭(ぞうよう)、兵役などの負担は過重なものであったため、農民の生活は豊かにはならなかった。

 

班田収受の法は、律令制度において、農民の最低生活を保障し、祖・傭・調等の税を確保するため、戸籍に基づき、6歳以上の男女に口分田を与えたものである。ただし、口分田は永久私有ではなく、与えられた者が死亡すると収公(国家に返還)された。

 

班田収受を実施するために、灌漑施設を整備し田地を整然と区画してすべての田地を口分田とし、農民の戸籍を整理して6歳以上の男女には口分田を支給した。(財源確保のため)。口分田は死ぬまで耕作でき、売買は許されなかった。

 

政府は、口分田の不足などへの対策として、墾田永年私財法を発布したが、その政策により墾田が増加したが、律令制の基礎である公地公民制は崩れ、初期荘園の成立を見ることになった。

 

朝廷は田地の拡大を図るため、百万町歩の開墾計画をたて(722年)、さらに、三世一身法を施行して(723年)、農民に開墾を奨励した。

 

「三世一身法」および「墾田永年私財法」は、土地の開墾を奨励・推進する目的で出された。しかし、これによって、律令体制の基礎である公地が拡大することはなく、班田収受は円滑に行われるようにはならず、口分田ごとに課せられた租を中心とする税制が確立したとは言い難い。

豪族や寺社が、浮浪人を使って私有地を増やす結果にしかならなかった。

 

農民は、墾田永年私財法により土地を開墾した。この時代の荘園は、貴族や寺社が自ら開墾した土地や買収した土地であり、初期荘園(墾田地系荘園)と呼ばれる。

 

朝廷は墾田永年私財法を発布し、土地所有を公認したが、この頃から有力な貴族や寺社、地方豪族などは、各地で大規模な開墾に乗り出した。

 

墾田永年私財法が発布されても、国司の支配下にある公領(国衙領)は、口分田と同じ輸租田(祖を納める義務のある田)で、不輸租(税を免除された田)が認められない限り、祖を納めなければならない。輸租田ならば公領、荘園でも課税対象とされた。

 

庸・調などの租税収入が減少したため、公営(くえい)田(でん)や官田といった直営方式の田地経営によって財源の確保が図られた。

国家直営の公営(くえい)田(でん)は9世紀に実施された。813年石見国、823年大宰府管内に置かれた直営田は有名である。

 

奈良時代の荘園は初期荘園と呼ばれ、各地の有力者が開発を行ったが、国郡里制に基づいた経営だったので平安中期の10世紀までに衰退している。

 

平安時代に入ると、土地を開発した地方の豪族は自らの土地を国司や他の領主の圧迫から守るために中央の貴族や寺社に土地を寄進し、自分は荘官となって実質的な領主の地位を守った。このような開発領主と貴族・寺社との寄進関係によって成立した荘園が寄進地系荘園である。

 

寄進地系荘園は、開発領主らが、租税の免除の特権を得たり、検田使の立入りを拒否するために、その私有地を有力な貴族や寺社に寄進することで、自らはその荘官となって所領の支配権を確保した荘園をいい、平安時代の11世紀以降に各地に広まった。

 

寄進地系荘園は不輸の権(租税を免れ)、不入の権(検田使立入拒否)を認められた荘園である。

 

開発領主は中央の貴族や寺社に土地を寄進して名義上の領主になってもらい、自らはその下で荘官として荘園の実質的な管理・支配者となった。

 

荘園には、荘園領主の特権である不輸不入の権があったため、その多くが平安中期頃から、荘園の私有権が確立した。

 

平安時代後期には、藤原摂関家への荘園の寄進が集中したので、1067年に藤原頼道が隠退すると、翌年後三条天皇は即位した。後三条天皇は1069年に延久の荘園整理令を出し、(太政官に設けられた)中央に記録荘園券契所を設置し、(荘園の証拠書類を審査し、年代の新しい荘園や書類不備のものなど)、基準に合わない荘園を停止するなど増加を抑えた。藤原氏(摂関家)の荘園も例外ではなく、荘園が整理・縮小された。

その後、院制がはじまり、院の荘園への寄進が集中した。

 

鎌倉時代における朝廷の財政基盤は、公領からの租税(年貢)であったが、幕府の収入は、地頭を通じた公領(国衙領)や荘園からの年貢や兵狼米であった。

鎌倉幕府の経済的基盤は、関東知行国(朝廷が将軍に与えた荘園所領)と、関東御領(平氏から没収した荘園所領)、関東進止の地(幕府が地頭の設置権を有する公領や荘園)で、公領・荘園に立脚した経済体制となっていた。

 

武家政権が確立してから、租税は年貢として徴収されるようになった。

 

地頭は荘園領主である有力な貴族や大寺院に対して年貢を納入する義務を負っていたが、それを滞納・横領したため、(地頭による荘園侵略が進んだので)、荘園領主は、地頭請け(荘園領主が地頭に年貢を請け負わせる代わりに、荘園の管理を地頭に任せるもの)や下地中分(領主が荘園を地頭と折半するもの)の方法をとるようになった。

 

下地中分は、鎌倉時代に行われた荘園領主と地頭との年貢をめぐる紛争の解決策で、荘園領主が地頭と荘園を折半することで、地頭の荘園侵略を阻止するものである。

荘園領主が土地を二分し、一方を地頭に与えることで残りの部分に対する支配権の維持を狙った。

 

地頭請けは、鎌倉時代に、荘園領主が地頭に年貢の納入を請け負わせたことをいう。

 

承久の乱以降、領主と地頭の争いが激しくなり、地頭に領地を侵略されていた荘園領主は、(地頭に荘園管理を任せる)地頭請、(地頭に領地の半分を与える支配権を与える)下地中分によって折り合いをつけようとした。

 

半済法(令)は、室町幕府が軍備調達のため一国内の荘園の年貢の半分を徴収する権限を守護に認めた制度である。

室町幕府は、半済令を出して、荘園領主を圧迫した。

 

荘園や公領の年貢の半分を軍費調達のため徴発する権限を幕府が守護に与えたことなどから守護の力が強くなり、荘園や公領の年貢徴収を守護に請け負わせる守護請が盛んに行われた。

室町時代になると、守護が領主から荘園や公領の経営を任され、毎年一定の年貢徴収を請け負うようになった(守護請)。また、足利尊氏が半済令を出したことで、守護は徴収した年貢の半分を軍費として取得でき、地方武士にそれを分与する権限が認められ、守護の大名化が急速に進んだ。

 

室町時代に入ると農業技術の発展により生産が向上し、地侍等の新興名主層を中心とする惣村の力が強まった。さらに年貢の百姓請などにより荘園領主の荘園内部への支配権は実質的に失われていった。

 

検地帳に耕作している農民の田畑と敷地を登録させ、田畑の所有権を認め、さらに税負担を課す一地一作人の原則が、豊臣秀吉の太閤検地によって、確立されたことで、荘園制は崩壊した。

 

豊臣秀吉が、全国規模で実施した検地を太閤検地というが、この事業によって一地一作人の原則(一つの土地を所有し、耕作するのは一人の百姓とする制度)が確立し、これまで土地に対する権利が幾重にもなっていた重層的な荘園制度は一掃された。

太閤検地は、豊臣秀吉がほぼ同一の基準で全国的に実施した土地の調査であり、田畑の生産力を石高で表示するとともに、一地一作人の原則により、検地帳に登録した農民に耕作権を認め、年貢納入等の義務を負わせた。1582年

 

(江戸時代)

幕府は財源確保のため、(荘園や公領の)年貢を村の責任で納入させる村請制をとった。村請制は村の長である名主が納入責任者となって年貢を納入する制度である。

また、1637年、分割相続による耕地の細分化を抑えるために分地制限令を出した。

 

 

地租改正は、明治政府が、地主に地券を与えて、土地の所有権を法的に認めたものであり、安定した財源確保のため、地価を課税基準として、地租を納入(地価の3%が金納化)させるとともに、(1873年)、土地の売買を認めた。

1872年、江戸時代に出された田畑永代売買の禁令(1643年)が廃止された。

 

 

軍事制度

 

大和政権は、白村江の戦いでの敗北後、唐・新羅の侵攻に備え各地に水城や山城を設置し、九州に防人を置くなど防備を強化した。大宝律令が制定されると、

 

平安時代に、武芸にすぐれた郡司の子弟からなる健児を置き、各国の規模に応じた軍団の代わりに設けた。

 

律令体制の下では、当初、諸国に軍団が編成され、京都や九州などの重要な地域には衛士、防人が置かれたが、やがて軍団のほとんどは廃され、郡司の子弟を用いる健児の制に代わった。

 

律令体制が崩壊するにつれて各地で武士団が成長すると、武士たちは、朝廷により、朝廷警護役としての滝口の武士や追捕使(ついぶし)や追(おう)領使(りょうし)といったものであった。

 

鎌倉時代になると、武士は、将軍と直接の主従関係を持つ御家人と、(将軍に忠誠を誓わない)非御家人に分かれた。江戸幕府の下では、将軍直属の家臣は、旗本、御家人と呼ばれ、天領の治安行政に当たった。

 

 

鎌倉幕府においては、御家人は戦時に軍役を負担し、平時においては皇居を警備する京都大番役や将軍御所を警備する鎌倉番役を負担した。

承久の乱以降は、京都に六波羅探題が置かれ、朝廷の監視や西国御家人の指揮に当たった。

1274年の文永の役の頃に九州の御家人に課した沿岸警備の軍役である異国警護番役を設置した。

 

江戸幕府は、旗本と御家人から構成される直参と呼ばれる直属の軍隊を持っていた。

 

江戸幕府は、鎖国完成に伴い諸外国の攻撃に対抗するため、大名に石高に応じた軍役負担や大型船の新造を命じた。また、幕府直属の常備軍はなかったものの、幕府の意向に従わない藩は近隣の大名から構成される軍団によって討伐された。

 

1825年、異国船打払令を出すなど、防衛体制の強化を図った。

 

明治政府は、中央集権体制の確立をめざし、薩長土の3藩の兵を御親兵(天皇の護衛兵)として編成し、軍事力の整備に乗り出した。全国の要地に鎮台を設置し、徴兵令を公布して士族・平民の身分を問わず満20歳以上の男子に兵役の義務を課した。

 

 

交通史

 

奈良時代、律令体制が整い、全国が畿内・七道(五畿(ごき)七道(しちどう))という広域の行政区画に区分された。七道は京から地方に通ずる官道の名称でもあり、駅家(えきか)を設けて官吏の往来などに利用された。官道の整備に伴い、諸国に国分寺や国分尼寺が建立された。

 

鎌倉時代には、荘園領主や大寺社が存在する京や、武士が集まる鎌倉に諸物資が集中した。そのため、道路網の整備が進み、また、当時から造船技術が発達しており、海上交通や河川交通も活発に用いられていた。各港には、運送業者としての問丸、遠隔地交易を支える手段としての為替の利用も顕著。

 

室町時代には、明との盛んな交易に触発され全国的な交通網が発展し、地方でも港町や宿場町が繁栄した。この時代、幕府の権力も弱く、守護大名や後の戦国大名が割拠するなど、分権化した社会状況を反映して、堺や博多など各地に自治都市や自由な商人の活発な活動が見られた。

 

江戸時代には、江戸の日本橋を起点とする、東海道や中山道などの五街道を中心に交通路が整備された。大量の物資の輸送には水上交通が利用され、江戸と大坂を結ぶ航路には菱垣廻船や樽廻船が就航した。また、川村瑞賢によって東回り航路と西回り航路が整備された。

 

明治時代には、当初、民間鉄道会社の手によって、交通機関の整備が進められ、明治5年に新橋と横浜の間に我が国で初めての鉄道が開通した。その後、官営鉄道として東海道線、民営の日本鉄道会社や山陽鉄道会社により、東北線や山陽線などの建設が進められた。しかし、日露戦争後の1906年に鉄道国有法により国営化されていった。

 

 

百姓一揆

 

中世の土一揆は、徳政一揆、国一揆、一向一揆などの名称で呼ばれており、応仁の乱に相前後して、畿内や北陸で起こったが、そのうち最も大規模で長期間続いたものは、加賀の一向一揆であるといわれている(約100年)。土一揆の背景には、農村で地頭や有力農民の拠点であった惣が成長し、小農民も含めた村民の地縁共同体と自治組織が発達していた事情があった。

 

室町時代、正長土一揆(1428年)、嘉吉の土一揆(1441年)など、幕府に徳政令を発布させることに成功した一揆もあった。

正長土一揆:近江坂本の馬借が徳政令を要求して蜂起したことに始まり、近畿一帯に広がった。

嘉吉の土一揆:嘉吉の乱直後、足利義勝の将軍就任の際に徳政を要求して京都で起こった一揆。

 

室町時代、国人と呼ばれた地方土着の武士は、自立の気風が強く、守護大名の力が弱い地域では、しばしば国人たちは困窮した農民の指導者となって一揆を結成した。山城国一揆(1485年)はその代表である。

山城の国一揆では畠山氏を追放し、以後8年間、南山城一帯を自治で治めた。

 

蓮如の布教によって広まった浄土真宗本願寺派の門徒である農民や商人などによる一揆が、北陸・東海・近畿を中心にしばしば起こった。加賀の一向一揆(1488年)はその代表的なものである。

守護の富樫氏を滅ぼし、約1世紀の間、自治による支配を実現した。一向一揆は15世紀末から16世紀末。

 

江戸時代、幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることもあったが、多くは武力で鎮圧し、一揆の指導者を厳罰に処した。これに対して、農民たちは処刑された指導者を義民としてあがめ、その行為を物語にして語り伝えたりした。

江戸時代初期の一揆は村役人が村民を代表して、領主に年貢の減免を願う代表越訴型一揆が多かった。

 

江戸時代中期以降、農民の階層化が進むと、農村では村方騒動が、都市では打ちこわしが頻発するようになった。百姓一揆も、領内の広範な農民による大規模な強訴が盛んとなり、惣百姓一揆と呼ばれている。百姓一揆の大きな山は享保、天明、天保のいわゆる三大飢饉と重なるが、年間件数の最も多いのは幕末であった。この時期の一揆は、世直し一揆と呼ばれ、幕府や大名に多大な衝撃を与えた。

 

江戸時代、特に大規模な飢饉として享保の大飢饉(1732年)、天明の大飢饉(1782~87年)、天保の大飢饉(1833~39年)と呼ばれるものがあり(江戸の3大飢饉)、数多くの一揆が起こった。また、江戸時代後期になると、農民が村々をこえて団結して起こす一揆もみられた。

 

明治維新を迎え、地租改正が実施されて農民の土地所有が認められたが、地租の負担は重く農民蜂起が各地で起こった。もっとも、不平士族の反政府運動と一体化することはなかった。農民運動が社会運動に発展し、初めて農民組合も1922年に設立された。しかし、農地改革は戦後まで待たなければならなかった。

 

 

貨幣制度

 

唐の制度にならって和同開珎と呼ばれる貨幣の鋳造が行われ、国家としての体裁が整えられた。

律令国家は、和同開珎(708年に発行)の流通を促すために、蓄銭叙位令を出し(711年)、一定額の銭を蓄積した者には、その額に応じて位階を与えた。 (7世紀後半には富本銭が鋳造され)

ただ、当時は稲や布が貨幣の代わりに使われ、物々交換が主であったために、貨幣の流通は、当時、都の奈良周辺に限られ、貨幣経済が全国に普及することはなかった。

 

律令国家が、10世紀半ばまでに本朝十二銭と呼ばれる銭貨を鋳造したが、銭貨(せんか)の流通は、

京・畿内や国府周辺に限られ、それ以外の地域では稲や布などの物々交換(現物交換)が行われ、全国的に貨幣経済が発展することはなかった。

 

律令国家は、和同開珎から乾元大宝(958年)まで12種類の銅銭を鋳造した(本朝十二銭)

 

鎌倉時代になると全国的な商業取引が盛んになったが、鎌倉幕府は貨幣を鋳造することはなく、遠隔地間の取引や荘園の年貢納入などに利用されることもなかった。

 

鎌倉時代には、手工業や商業の発達によって、貨幣の需要が増加したが、日本では10世紀以来、貨幣の鋳造はおこなわれなかったので、鎌倉時代に流通した貨幣は、日宋貿易によって、宋から銅銭(宋銭)を輸入することで賄われた。

 

鎌倉時代には貨幣の流通が盛んになり、為替制度や借上とよばれる高利貸しがあらわれた。

貨幣経済の進展に伴い、遠隔地間の取引の代金決済のために為替が始まり、銭を貸して利子をとる専門の金融業者である借上が現れた。

 

 

本朝十二銭以後、日本で貨幣鋳造は行われなくなり、中国からの輸入銭が使われていた。鎌倉時代になると、遠隔地間の商取引きも盛んになったが、使われていたのは宋銭である。

 

 

室町時代には勘合貿易が行われ、永楽通宝など大量の明銭が輸入され、幕府はそれを公的な貨幣として国内で流通させた。

15世紀初め、足利義満は室町幕府の経済的基盤を強化することを目的として、日本にとっては屈辱的な朝貢貿易となった(対等な関係ではない)勘合貿易を始めた。貿易の主要品目を見ると、日本から明には、銅・硫黄・刀剣(とうけん)・扇(おうぎ)などが輸出される一方、明からは大量の銅銭が輸入された。

 

足利義満は、明との間で勘合貿易を行ったが、この日明貿易は、日本にとって明との対等な関係で行われた貿易ではなく、朝貢貿易(明の皇帝に朝貢する貿易)だった。ただ、勘合貿易では明側が渡航費用を負担したので、室町幕府は莫大な利益が得られた。

 

明と国交を開き(1401年、義満)、勘合貿易が開始され(1404、朝貢形式の貿易)、銅銭・生糸・絹織物などが輸入された。

 

ただし、それだけでは貨幣需要の増大に追いつかず、私鋳銭(私的に偽造された銭)も使われるようになり、取引に当たって良銭を選ぶ撰銭が行わるようになった。

貨幣の流通が増大し、永楽通宝などの明銭だけでは需要に追いつかず、粗悪な私鋳銭が増えて撰銭が行われたため、たびたび撰銭令(良銭の基準や種類、貨幣間の交換基準を規定)が出された。

 

(室町時代は、戦乱が続く一方で貨幣経済が発達した。)

(室町時代中期)貨幣の需要が増し、年貢の銭納や為替の利用も進んだ。貨幣は永楽銭などの明銭が使用されたが、粗悪な私鋳品も出回り、撰銭(流通の際、悪銭を撰り分け、良銭のみを用いること)が行われた。

 

江戸時代は、金座・銀座・銭座を設けて、全国共通の貨幣を鋳造することとして、鋳貨権を独占したが、鋳貨権を持たない諸藩でも財政難を救うために、領内のみで通用する貨幣(藩札)が発行された。

 

江戸時代、幕府は金座・銀座を設けて、同じ規格の金・銀を発行し、全国に通用させ、永楽銭などは次第に駆逐されていった。

幕府は1608年に「永楽銭通用禁止令」を出して、永楽銭の通用を禁止したが、その後も流通していた。しかし、1636年に江戸と近江坂本に銭座を設けて寛永通宝を大量に鋳造して以来、次第に中国銭などは駆逐され、17世紀中ごろまでに、金・銀・銭の三貨制度が整った。

 

17世紀頃には江戸幕府の財政状態が著しく悪化し、5代将軍綱吉の勘定吟味役(後の勘定奉行)の荻原重秀は、質の悪い貨幣を流通させて、その差額で穴埋めを行った。

綱吉の死後、新井白石が財政問題を担当し、良貨の正徳小判を鋳造させた。

 

江戸中期頃から、幕府は財政難を救うため貨幣を改鋳し、その品位を落として収入源とした。そのため、貨幣の価値が下がったために物価が上昇し、庶民の生活は圧迫された。

 

農村における商品生産の進展に伴って、資本をもつ問屋が農家に原料や道具を貸し与えて、製品を買い占める(製品と引き換えに加工賃金を払うもの)、問屋制家内工業が一般化していった。

 

 

開国後の日本では、金の大量流出が起こり、幕府は改鋳してこれを防ごうとしたが、物価の上昇が起こった。

幕府は、日米和親条約で部分的に自由化された交易により小判(金貨)が大量に流出したため、万(まん)延貨幣(えんかへい)改鋳(かいちゅう)を行った。これは、従来より金の含有量を落とした小判を鋳造したため、国内は激しいインフレーションに見舞われた。

 

明治時代には、新貨条例が制定され(1871年)、十進法による円・銭・厘を単位とする新貨幣が発行された。

 

 

経済史

 

奈良時代になると、物々交換の場所として官営の市が開かれるようになった。

奈良時代から平安時代にかけて、平城京と平安京の左京に東市、右京に西市が設けられ、市司という官吏によって管理された(これらを市が監督した)。

 

 

鎌倉時代、貨幣経済の進展に伴い、遠隔地間の取引の代金決済のために為替が始まり、銭を貸して利子をとる専門の金融業者である借上が現れた。

 

鎌倉時代には、定期市が広範に成立し、常設の店舗も出現してその地方の特産物が売買され、中央から織物や工芸品などを運んでくれる行商人の活躍も目立つようになった。商工業者はすでに前代より寺社や公家を保護者として、排他的同業者の団体であるを結成していたが、この時代を経て室町時代になると、その規模も種類も著しく増加していった。(それまで京都・奈良を中心に近畿地方で結成されていた座の数が飛躍的に増加し、室町時代になると、全国的に結成されるようになった)。

座:労役や奉納の義務と引き換えに製造や販売の独占権が認められた。

 

しかし、応仁の乱以降、産業、経済が発達し、新興商人が増えると、自由な商業取引が奨励されるようになり、その中心となった門前町、港町、城下町が繁栄した。戦国大名の多くは領国経済発展のために自由営業を認め、商人を城下町に集結させた。

 

楽市・楽座:座の特権を廃止し、商人の自由な活動を認める政策で、特に織田信長が積極的に行った。応仁の乱後の戦国大名が行った。

戦国大名は、武器などの大量生産に備えて領国内の商工業者を集め、城下町に居住させた。

 

江戸時代になると、産業、港町、城下町の発達によって商品経済が目覚ましく発展、発達した。問屋、仲買、小売の別ができ、有力商人は株仲間という同業組合を組織して、幕府の公認を得、各種の特権を保持するようになった。

 

江戸時代に、幕府から営業の独占権を認められた株仲間は、享保の改革で徳川吉宗に公認され、その後、老中の田沼意次が積極的に公認した。天保の改革を行った水野忠邦は株仲間を解散している。

 

室町時代、交通の発展や地方との商品輸送が盛んになるにつれて、港湾の市場をつなぐ廻船が多くなり、陸上では宿場町が増加して馬借・車借などの交通業者が出現した。

 

安土桃山時代(織田信長)、商取引の円滑化を図るために、座商人がもっていた独占販売などの特権の廃止や市場税・商業税の免除が行われ、さらに、座そのものも廃止された。

 

江戸時代、織物業や醸造業では、問屋制家内工業を更にすすめて、18世紀の天保期になると、経営者が自分の作業場をもち、労働者を一か所に集めて分業による協業をさせる工場制手工業が現れた。

江戸時代には、問屋が原料や資本を職人や農民に貸して製品を安く買い上げる問屋制家内工業が支配的であった。

江戸時代には、菱垣廻船や樽廻船などの港の市場をつなぐ海上輸送が発達した。

 

 

 

明治時代、重税と不換紙幣回収によってデフレーションが発生し、農産物価格が下落したため農民の階層分化が促進され、大地主の下に土地が集中して寄生地主制が成立した。

 

 

1927(昭和2)年3月、関東大震災後の不況対策の際、片岡直温蔵相が失言したことから、台湾銀行の取付け騒ぎが起こったことに端を発し、日本で金融恐慌が始まった。1928年に成立した田中義一内閣は、同年4月に3週間のモラトリアム(支払い猶予令)を出して、金融恐慌を終息させた。(この時の蔵相が高橋是清)、ニューヨーク証券市場の株価暴落に端を発した世界恐慌は、1929年のこと。

 

 

 

学問・教育

 

奈良時代中期以降、大学は、律令体制の担い手である官人養成のために中央に設置された一方、地方の教育機関としては、国学が国ごとに置かれ、郡司の子弟を教育した。

また、唐へ渡って密教を学んで帰国後に真言宗を開いた空海は、庶民の教育をめざして(仏教、儒教、道教を教授するため)、綜芸種智院を京都に設立した(828年)。

 

 

鎌倉時代、貴族の間では過ぎ去った良き時代への懐古から、古典の研究や朝廷の儀式や先例を研究する有識故実の学が重んじられるようになったが、

 

室町時代、一条兼良はそうした分野で多くの仕事を残した。

一条兼良は、有識故実の学問に力を入れた室町時代中期の学者で、太政大臣、関白を歴任した。

 

また、13世紀に上杉憲実が足利学校を開設したことに見られるように、武術を磨くことが最も大切なこととされていた武士の間にも学問を尊重する気風が生まれた。

足利学校は、下野国足利に開設されたお学校であるが、関東管領の上杉憲実が15世紀後半(1439年)にこれを再興したとされる。

 

 

室町時代の3代将軍足利義満の時代には五山・十刹(じっさつ)の制が整えられ、京都五山の禅僧による漢文学の研究や創作が盛んになった。また、室町末期、南村梅軒は土佐国で、儒学(朱子学)の一派である南学(海南学派)を興した。

五山文学は、室町時代の北山文化の時代(14世紀末~15世紀前半)に最盛期を迎えた。

 

 

江戸時代の教育機関のうち武士を対象にしたものには、幕府直轄の学問所のほか、藩校(藩学)、郷学、私塾などがあったが、藩校の中には、会津藩主保科正之が設置した日新館のように、藩士子弟の教育だけでなく、庶民の教育を目的としたものもあった。

 

岡山藩主の池田光政が設置した最古の藩校である花畠教場も有名。

 

 

明治維新後、政府はすべての国民が自分の身をたてられるよう教育することを目標に、フランスをはじめとする諸外国の学校教育制度をとりいれた学制を公布したが、画一的で地方の実情に合わない点もあり、その後、改革が繰り返し行われた。

 

1872年にフランスの学校制度をとり入れた学制が公布されたが、1879年にはアメリカの教育制度を参考にして、学制が改正された。

 

学校令が制定され、国家主義的色彩が強い教育方針が打ち出された。学制が実施された1872年当時は直ちに義務教育になっていない。

 

 

近隣諸国との関係史

 

6世紀、朝鮮半島では、新羅が百済と伽耶(任那)を圧迫したため、大和政権は伽耶へ支援軍を派遣しようとしたが、(新羅と結んで北九州に攻め込んできた?)筑紫国造磐井によって磐井の乱(527年)が起こった。しかし、この乱は物部麁鹿火(あらかび)によって鎮圧された。また、南朝の宋は5世紀(479年)に滅亡している。伽耶は562年に新羅によって滅ぼされた。

 

 

遣隋使には、高向玄理、南淵請安、僧旻など多くの留学生や学問僧が従った。彼らの隋で得た知識は帰国後、大化の改新にはじまる国政改革に大きな役割を果たした。

 

遣唐使派遣の中止以降中国との正式な国交は途絶えていたが、中国との貿易は利益が大きいことから、宋・元との間で民間貿易は続いていた。足利尊氏は後醍醐天皇の菩薩を弔うための天竜寺創建費用に充てるため、天竜寺船を元に派遣するとともに、元との民間貿易を公認した。

 

モンゴル帝国のフビライ=ハンは、中国全土を支配下に置くと国号を元と改め、朝鮮半島を支配して高麗を攻め、高麗を属国とした。元は日本への服属を要求したが執権北条時宗に拒否され、二度にわたって来寇したものの、二度とも台風に遭遇し、撤退した。

 

14世紀、明を建国した洪武帝(朱元璋)(在1368~98年)は、当時、九州の武士を率いていた南朝の懐(かね)良(よし)親王(1329~83)に対し、中国大陸沿岸を襲う倭寇の取締りを求めた。

 

 

室町時代の鉄砲伝来:ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲が伝えられてから戦国時代の戦法や城の造り方が変わった。

一騎討ちから騎馬と鉄砲隊・歩兵を組み合わせた集団戦法に変わった。城も山城から強固な平城に変わった。

 

安土桃山時代の朝鮮出兵後、豊臣政権は海賊の取締りに力を入れたために貿易が盛んになり、2度の朝鮮出兵はあったものの、民間を中心とする貿易への影響は小さかった。

 

初期の江戸幕府は、朱印船貿易を認めていた。伊達正宗は、支倉常長を、ノビスパン(メキシコ)に派遣して、貿易路開拓に成功した?

 

 

江戸時代のフェートン号事件後、防御体制は強化された。1825年に異国船打払令を出して沿岸に近づいてきた外国船(清とオランダ船を除く)を撃退する法令を出した。

 

フェートン号事件は、イギリスのフェートン号が1808年長崎に来て薪水や食料を強奪した事件。

 

17世紀にシベリアを勢力下に収めたロシアは、蝦夷地周辺に姿をあらわすようになり、ラックスマンらが来航して通商を要求した。幕府は鎖国体制を維持したが、日米和親条約締結後、日露和親条約を結び、箱館などを開港、択捉島以南を日本領として、樺太は両国人の雑居地として国境を定めないこととした。

 

明治政府は、清国との間に最初の条約である日清修好条規を締結したが、相互の関税率最低、領事裁判権、開港が約束された。

 

日朝修好条規は、江華島事件を機会に結ばれ、釜山等3港の開港と、日本の領事裁判権や関税の免除などをみとめさせた、日本にとって有利な条約であった。

明治政府は、江華島事件を契機として、朝鮮に開国を迫り日朝修好条規を締結し、、日本の領事裁判権や関税免除の特権、釜山・元山・仁川の開港を認めさせた。

 

明治政府は、甲申事変において(1884年)、朝鮮国内の改革を図る金玉均(ぎょくきん)らを支援したことにより、清国との軍事的な対立状態に陥ったが、後に清国と天津条約を締結し、日清関係を一時的に修復した。

 

 

唐の時代、

 

ポーツマス条約は、日露戦争後の講和会議の結果結ばれ、ロシアが韓国に対する日本の指導を認め、樺太の北緯50度以南の領有権を日本に譲るものであった。

 

 

日本と朝鮮半島

 

7世紀後半に唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼしたため(660年)、百済の遺臣は百済再興を企図して日本に救援を求めた。この求めに応じて中大兄皇子が援軍を派遣したが、白村江の戦いで唐・新羅の軍に大敗し、撤退した。

 

14世紀末、李氏朝鮮が成立し(1392年)、室町幕府に対して国交の開始と倭寇の禁圧を求めてきた。

 

足利義満はこれに応えたので、倭寇(前期倭寇)の活動は急速にやみ、その後、約1世紀間、日朝貿易が展開された。日本側では、幕府以外にも、守護大名、豪族、商人など盛んに貿易を行ったが、朝鮮側は貿易制度を整備し、対馬の宗氏を通して運営する形に統制した。(対馬の宗氏が幕府に代わってその統制にあたった。)

 

李氏朝鮮は、対馬を倭寇の根拠地として誤認して占領したが、室町幕府との間で和解が成立し、通信府貿易が開始された。朝鮮は倭寇を警戒して釜山等の朝鮮人商人を博多に派遣する形をとった。日本船も朝鮮の港に入港していた。

 

 

16世紀末、豊臣秀吉は、大陸への侵攻企図し、大軍を朝鮮に派遣した。遠征軍は一時は朝鮮北部まで侵攻したが、次第に戦局は不利となり、いったん撤兵した。その後、再び出兵したが、秀吉の死を機会に撤退した。

 

江戸時代、将軍の代替わりを祝うために朝鮮の李王朝から通信使が日本に派遣された。この朝鮮通信使は、対馬、瀬戸内海を経て江戸までの経路を往来し、その寄港先では学者、文人との文化交流が盛んに行なわれた。

 

20世紀初頭、日本は朝鮮の支配を企図し、種々の外交的策略の末、日韓併合条約を締結して、韓国を日本に併合した。

 

明治新政府内での征韓論は1873年に退けられたが、まもなく日本は武力を背景に朝鮮に不平等条約を押しつけた。以後その権益を巡って清国とことごとく対立し、やがて朝鮮に対する日本の支配権が確立した。

日清戦争の勝利により、朝鮮は独立国として承認された。

韓国併合は、日露戦争後の1910年に英・仏・米・露の公認の下で行われたものである。

 

朝鮮の日本領時代は35年に及び、日本統治下の朝鮮では、強圧政治が行われた。

日本は朝鮮総督府を設け(京城に設置され天皇に直属)、朝鮮人に対し日本語の使用や創氏改名を強制した。

 

その間、全土で展開された独立運動は、軍・警察によって鎮圧され、朝鮮の独立は日本の太平洋戦争敗戦を待たねばならなかった。

第一次世界大戦直後は、ウィルソンの14カ条による民族自決主義の世界的風潮に励まされて独立の気運が高まり、いわゆる三・一運動が起こった。

 

戦争終了後も朝鮮の統一は実現できず、1950年の朝鮮戦争の勃発で南北朝鮮の分断は固定化された。両朝鮮は冷戦体制下で、独自の歩みを展開することとなったが、日本は朝鮮戦争を機に経済が急速に復興した。

その後日本は、南の大韓民国との間に1965年に、日韓基本条約を結んで国交を回復したが、北の朝鮮民主主義人民共和国との関係正常化は遅れている。

 

 

 

日本と中国

 

隋・唐の時代、日本は中国の文化を輸入するため遣隋使・遣唐使を送った。

 

宋の時代、日本と中国は日宋貿易を行い、宋から多くの高級織物?や香料、書籍が輸入され、その利潤を平氏の重要な収入源となった。

日本から金、水銀、硫黄、木材、米、刀剣、漆器、扇などが輸出され、宋からは宋銭、香料や書籍、陶磁器を輸入された。

 

元の時代、フビライが日本に対して朝貢を強要してきたが、8代執権北条時宗がこれを拒絶して、元寇がおこった(1274年の文永の役、1281年の弘安の役)。

 

元の時代、1342年の後醍醐天皇を弔うために天竜寺を建立する資金調達のため、天竜寺船が現に派遣された。

 

明の時代、日本は中国と勘合貿易を行った。勘合貿易は、日本の明への朝貢形式がとられ、公の貿易に対して明が勘合符を交付した。

 

清の時代、日本と中国は朝鮮を巡って対立していたが、東学党の乱をきっかけとして、中国が朝鮮に出兵すると日本も出兵し、日清戦争が起こった。

 

 

 

貿易史

 

1167年に太政大臣となった平清盛を中心とする平氏政権は、多数の荘園と知行国を経済基盤とするほか、摂津の大輪田泊を修築して、日宋貿易による利益拡大にも積極的に取り組んだ。

 

鎌倉時代(1325年)、社寺造営費調達を目的に、建長寺船などの貿易船をしばしば派遣した。

 

明を建てた洪武帝が、日本に倭寇の禁止と朝貢を求めてきたために、足利義満は、1401年に明に正使として僧の粗阿、副使として博多商人の肥富を使者として送り、(国交を開いた後の1404年には)明の冊封を受け入れ、1404年には、倭寇と区別するために勘合貿易を始めた。

 

 

室町時代、明との貿易船は、勘合貿易の方式をとっており、中国からは生糸や高級織物だけでなく、銅銭が大量に輸入されて、それをもとに幕府は貨幣を鋳造した。

 

戦国時代、西国大名や商人は競って南蛮貿易を行い、鉄砲・火薬や皮革・生糸を輸入した。わが国と初めて交渉を持ち、当時積極的に進出し貿易の利潤を享受していたのはポルトガル人で、彼らはマカオを手に入れて極東海域の覇権を握った。

 

鉄砲の伝来以後(1543年にポルトガル人が種子島に鉄砲を伝来した後)、ポルトガルは1571年に開港された長崎に来航し、貿易を行うようになった。また、1584年に肥前の平戸にスペイン人が来航したことから、貿易が開始され、ポルトガル人、スペイン人を南蛮人と呼ぶようになり、両国との貿易を南蛮貿易といった。

 

16世紀末から17世紀初頭に、東南アジアへ向けて朱印船貿易が行われた。

 

徳川家康は、豊臣秀吉が始めた朱印船貿易を継承した。輸出品では銀が、輸入品では生糸が貿易の主流であり、幕府は糸割符制度を設けて輸入生糸を一括購入・販売させ、貿易の統制と利潤の独占を図った。

 

江戸幕府は、1609年にオランダに通商許可を、1613年にイギリスに通商許可を与え、平戸商館で貿易を始め(1609年にオランダ、1613年にイギリスと平戸で貿易を始め)、西国大名や豪商に(渡航許可証の)朱印状を与えて、ルソンやカンボジアなど東南アジア諸国との貿易を行わせた。

 

1633年には老中の発行した渡航許可書である奉書の所持を義務づけられた海外渡航船以外の日本船の海外渡航が禁じられた。

 

1637年の島原の乱後、来航はオランダ船のみではなく、ほかに中国、朝鮮にも認められていた。

 

江戸幕府は、1641年にオランダ商館を長崎の出島に移し、これ以後、場所を長崎に限定して、鎖国政策を実施したが、貿易船はオランダ以外に、私貿易の中国船の来航を認めた。また、朝鮮通信使、琉球王国との交渉も行われた。

 

鎖国下の貿易は、長崎における対オランダ・清にのみ限定され、幕府は利潤をほぼ独占した。新井白石は、1715年、海舶互市新例(長崎新令)を出して貿易を制限し(支払いの上限を定めた)、日本からの金銀の国外流出を防止した。

 

井伊直弼は、勅許を得ないまま、日米修好通商条約に調印し、続いてイギリスなどとも同様の条約を結んだ。貿易が始まると、諸外国と日本との金銀の交換比率の違いから、日本の金が大量に流出した。そのため幕府は、貨幣の改鋳を行ったが、貨幣の価値が下がり物価が高騰した。

 

 

蝦夷

 

倭人の蝦夷地(北海道)への進出は、江戸時代になってから始まった。当時、松前氏が現在の函館付近を根拠地としてアイヌとの交易を開始した後に、蝦夷地まで勢力が及んでいく。

平安時代において大和朝廷の勢力範囲はせいぜい現在の岩手県の中部地方までであった。

 

松前氏は、かつて○崎氏といい、戦国時代の後半のアイヌの反乱から唯一生き残って勢力を拡大した氏族である。

 

松前氏が本格的に蝦夷地の南端部分を支配するのは、江戸時代になってからである。

屯田兵制度が設けられたのも、明治以降に困窮した士族の救済を図るためであった。北海道に開拓使が置かれるのも、明治以降である。

18世紀にロシアが蝦夷地まで勢力を伸ばすと、幕府は開拓使かつ箱館奉行所にある五稜郭を設け、北方の防備を固めた。?

 

日本とロシアとの間で樺太国境問題が長らく懸案となっていたが、19世紀後半に樺太・千島交換条約が結ばれ、樺太をロシア領、千島全島を日本領とすることが定められた。また、帰属問題が未解決であった小笠原諸島については、日本がその領有を宣言し、アメリカ合衆国などに認められた。

 

 

沖縄

 

沖縄本島(琉球)では三山と呼ばれる三つの勢力が長期にわたり分立していたが、15世紀に、中山王の尚巴志が琉球を統一し、琉球王朝を成立させた。この王朝は、明や日本、東南アジア諸国との中継貿易を主として栄えた。

 

琉球王朝は江戸時代を通じて存続した。琉球が完全に日本の領有の下に置かれるのは、明治になって琉球藩?が設置され、その後沖縄県が置かれてからである。

 

 

仏教と政治

 

大和朝廷では、伝来した仏教の受け入れに熱心だった蘇我氏が、物部氏を政争に勝利し、その頃即位した推古天皇は、仏教興隆政策を推進した。

 

平安時代には、従来の南都六宗に代わって、仏教の新しい宗派が興った。中でも密教の真言宗は、古来の山岳信仰と結びついて貴族の間に広まった。

 

平安時代の院制期には、有力寺院が荘園領主として勢力を拡大し、僧兵らを編成して朝廷に強訴を企てた。これを抑えるため院は北面の武士に平氏などを登用し、武士の中央政界進出の素地を作った。

 

鎌倉時代、他力本願を唱える浄土系仏教への信仰が庶民や武士に浸透した。

鎌倉時代、禅宗の曹洞宗や臨済宗が武士の間に広まった。

 

 

室町時代には、幕府の支配力が弱く戦乱が続き…

室町時代には、浄土宗系では、一向宗(浄土真宗)が地方への布教に成功して、一揆を起こすまでになり、加賀の一向一揆は約100年続くなど、大きな勢力となった。

 

一向宗(浄土真宗)では、本願寺の蓮如が、地方武士や農民を門徒として講を組織して、平易な教えを説いて勢力を拡大し、日蓮宗では、日親が京都の町衆の間に教えを広めた。

 

室町時代には禅宗である臨済宗が足利将軍家の帰依を受けて発展し、3代将軍、足利義満の北山文化に影響を与えた。

 

江戸時代には、幕府は、キリスト教禁令のための手段として、すべての農民?をいずれかの寺院の檀家とし移転を禁止する?寺請制度を実施した。この結果、寺院は幕府の庶民支配の末端を担わされることとなった。

 

 

日本とキリスト教

 

織田信長はキリスト教に対し、仏教勢力抑圧のためと貿易政策上などから、その布教を保護し、そのために南蛮寺(キリスト教会)が建てられ、セミナリオ(修学所)の設立を許可した。

 

徳川家康は貿易を奨励していたことから、キリスト教の布教を黙認していたが、1612年に直轄領に禁教令を出し、翌年にこれを全国に及ぼした。さらに、1637年の島原の乱(~38)を契機に、キリスト教禁止と鎖国政策を一層強化した。

 

16世紀後半、九州のキリシタン大名大友宗麟・有馬晴信・大村純忠らは、伊藤マンションら4名の少年使節をローマ教皇グレゴリウス13世のもとに派遣した。1613年、支倉常長は、仙台藩主伊達正宗によって、遣欧使節として、メキシコ・スペイン・ローマ教皇のもとに派遣された。

 

15世紀半ば、フランシスコ=ザビエルが鹿児島に来航し、キリスト教を伝え、天皇や将軍に布教許可を求めたが得られず、後に山口の大内氏の保護を受け、ここに日本最初の教会を建てた。

 

豊臣秀吉は、キリスト教に対して初めは好意的であったが、九州出兵の際、キリシタン大名が教会に所領を寄付していることなどを知って、バテレン追放令を出した。ただ、貿易については、朱印状を与えて南方での貿易を奨励した。

 

 

 

統治機構

 

律令国家は、中央には神祇官と太政官の二官と、政務を担当した八省一台五衛府を設けた。また、地方については、都周辺の国々を畿内とし、その他の国々を七道に分け、九州や北陸の要地には、鎮西探題鎮守府を置いた。

一台:官吏の監察と、風紀粛正を役割とする弾正台、

五衛府:朝廷警護を役割とする。

 

鎌倉幕府は、北条時政が執権になってから(1203年)、執権政治が始まり、源家将軍が絶えた後(1219年)、北条氏が執権として実権を握った(本格的な執権政治)。その後、執権を補佐する連署(1224年北条泰時が置いた)が置かれ、また、北条時宗以降、得宗(義時から始まる北条氏の嫡流当主)が幕府の実権を握るようになり、北条氏の独裁体制が強化された。

 

後醍醐天皇は、鎌倉幕府を滅ぼした後、政務を行う最高機関として記録所を復活させ、恩賞事務を行う恩賞方、訴訟を扱う雑訴決断所を新設するなど、政治機構を整えた。また、地方では、諸国に国司と守護を併設した。

 

室町幕府では、政務の中心となる管領や、軍事、警察の任務をつかさどる侍所の長官には、有力守護大名が就き、それぞれ三管領、四職と称された。また、地方には、鎌倉府や探題職を置くなどして、有力な国人たちを統制しようとした。

 

江戸幕府は、最高職である大老の下に、政務全般をみる老中や、老中を補佐する若年寄を置く一方、老中の下の大目付が大名の監督を行い、若年寄の下の目付が旗本・御家人の監督にあたった。