日本史

 

旧石器時代(約200万年前~約1万年前)

旧石器時代は、(大型動物の狩猟用の)ナイフ型石器や尖頭器を使用した旧石器時代と、打製石器や磨製石器を使用した新石器時代に区分されるが、旧石器時代の遺跡には、1949年に発見された岩宿遺跡(群馬県)がある。

 

縄文時代(1万年前~紀元前4世紀)

1万年ほど前に日本列島は大陸と完全に切り離され、今日とほぼ同じ自然環境となった。当時は食料採集が生活の基盤であり、600~800℃の低温で焼かれて作られた縄文土器は水が漏れず、煮炊きにも用いられたと考えられている。

 

縄文人は霊魂の存在を信じていた(アミニズム、精霊信仰)ので、抜歯や屈葬などの呪術によって、自然災害を避け豊かな収穫を祈る風習が盛んであった。

 

縄文人は竪穴住居を作って定住的な生活を営んだとされる。多くの集落は、飲み水の必要性から水辺に近い台地に作られた。

縄文土器の中には、縄文(表面に縄目文様)を持たないものもある。貝殻が押しつけられてきた貝殻文様や線状や点状の文様も見られる。

 

縄文時代の遺跡は西日本だけでなく東日本にも見られ、北海道の美沢遺跡や青森県の三内丸山遺跡などがある。

 

 

弥生時代(紀元前3世紀~3世紀頃)

灌漑・排水用の水路を備えた本格的な水田が作られ、低湿地を利用した湿田だけでなく乾田も作られるようになった。また、稲作等で収穫された物は、高床式倉庫や貯蔵穴に収納された。さらに、水田近くの低地に集落が多く営まれるようになって、周囲に深い壕をめぐらす環濠集落が作られた。

 

弥生文化は水稲耕作の発達とともに進歩し、稲などの収穫物を収納・保存するために弥生土器や高床倉庫が用いられるようになった。

 

弥生文化では、竪穴住居の集落の周りに深い溝を巡らした環濠集落も存在した。住居の規模や構造に大きな格差が見られ、集落内では貧富の差や身分の上下関係が形成されていたと考えられている。

 

弥生時代には貧富の差や階級の区別が生じた。また弥生時代には青銅器・鉄器などの金属器が中国や朝鮮から伝えられるようになった。

 

厚手で黒褐色のものが多い縄文土器に代わって、薄手で赤褐色のものが多い弥生土器が作られ、食物を入れるなどして使うようになった。また、機織の技術が導入されて、植物の繊維で織った衣服を着るようになった。

 

縄文文化が南西諸島から北海道まで全国に及んだのに対し、弥生文化が普及したのは薩南諸島から東北地方までである。沖縄諸島などでは(農耕が見られない)貝塚文化、北海道では続縄文文化と呼ばれる漁労・採集を中心とする独自の文化が続いた。

 

農耕の発達に伴って一つの水系を単位として地域を統率する王たちが出現し、有力な集落が周辺の集落を統合して各地に政治的な集団である小国が作られるようになった。「漢書」地理志には、紀元前1世紀に倭人の国が100余国に分かれ、朝鮮半島の楽浪郡に使者を派遣していたという内容が記されたいる。

 

「後漢書」東夷伝には、57年に小国の一つである倭の奴国の国王が使者を後漢の光武帝に朝貢し、印綬を受けたことが記されている。

 

「魏志」倭人伝によれば、倭の各地で自立や統合をはかるようになり、2世紀後半に大乱が起こったが、3世紀ごろに諸国が邪馬台国の卑弥呼を倭国の王に立てて、30あまりの小国を統合した国が成立し、また、卑弥呼が魏の皇帝に使者を送り、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号を賜ったとされている。

 

吉野ヶ里遺跡(佐賀県)は弥生時代の内外二重の環濠を巡らした大集落遺跡であり、内濠の掘り出し部には望楼かと思われる掘立柱の建物跡などが見つかっている。

 

登呂遺跡(静岡県)は、弥生時代後期の集落遺跡である。水田跡が発見され、この頃から水稲稲作が始まっていたことが知られている。

 

古墳時代(大和王朝)

 仁徳天皇稜は、わが国の古墳の中で最大の規模を持つ古墳である。前方後円墳の墳丘の長さは数百メートルもあり、石槨(せっかく)に極彩色の絵が描かれていた。

 

6世紀前半(527年)に、筑紫国造磐井が、新羅と結んで九州で反乱を起こし、大和政権の朝鮮半島への派兵を阻止した。この反乱は物部麁(あら)鹿(か)火(び)によって鎮圧された。

 

大和政権は、朝鮮半島における拠点になっていた朝鮮半島南東部の加羅(任那)を支援し、新羅を討伐するために兵を派遣しようとしていた。

512年には加羅の西部の任那4県が百済に併合されたが、562年には新羅に滅ぼされ、その支配下に入った。

 

大和政権は、地方豪族の反乱をおさえ(磐井の乱を鎮圧し)、各地に(九州北部)に屯倉(直轄地)を設置し、地方への支配を強め、渡来人の知識を利用して政治・財政機関を整備した。

 

大連の大伴氏が失政や権力争いから、物部氏によって失脚させられた後、物部氏と蘇我氏が対立抗争を繰り返し、蘇我馬子は物部氏(物部守屋)を滅ぼして、自ら擁立した崇峻天皇を暗殺するに至った。

512年に軍事を担当していた大連の大伴金村が、百済からの賄賂をもらい、加羅の西部の任那4県を割譲させたこと物部尾輿に弾劾され失脚した。

 

 

飛鳥時代(6世紀後半から7世紀前半)

 

大和王権下の豪族であった蘇我氏は、6世紀末に仏教の受容に反対する物部氏を滅ぼして(馬子が物部守屋を滅ぼして)(538年)政治を独占した。その後、蘇我蝦夷・入鹿父子は、入鹿が、有力な王位継承者であった聖徳太子の子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅ぼして権力の集中を計ろうとして、645年に中大兄皇子らによって滅ぼされた。

 

推古天皇の摂政となった聖徳太子は、蘇我氏と妥協しながらも中央集権国家の樹立に努めた。

推古天皇の摂政となった聖徳太子は、法隆寺など官立の大寺院を建立し氏寺と区別して、国家で治める制度をつくった。

聖徳太子は、冠位十二階を定めて、氏姓制度の世襲制を打破し、才能に応じて人材の登用を行い、憲法十七条を定めて、仏教尊崇や天皇の尊厳性など、官吏の心構えを説いた。

十七条の憲法は、聖徳太子が豪族や官吏に対する政治的・道徳的心得を示したものである。

 

大和政権は、白村江の戦いでの敗北後、唐・新羅の侵攻に備え各地に水城や山城を設置し、九州に防人を置くなど防備を強化した。

 

 

 

中大兄皇子と中臣鎌足は、律令に基づく中央集権国家の建設をめざし、蘇我氏を倒して権力の集中を図り、大化の改新と呼ばれる一連の政治改革に着手した。

 

中大兄皇子は、国家の体制を固めるため、646年の改新の詔で、公地公民制が打ち出された。豪族は大和朝廷の時代から土地や人民を私有していたが、

中央や地方の豪族たちの私有地や私有民を廃して、朝廷が全国の土地、人民を一元的に支配することになった。(改新の詔)

 

飛鳥時代後期

唐のような中央集権国家を建設しようという動きが高まり、朝廷は全国に律令制度による統一的な政治体制を打ち立てようとした。

 

律令国家とは、大和政権による氏姓制度が打ち破られた大化の改新後から、奈良・平安時代に至る国家のことをさす。(律令制度とは、7世紀から12世紀までの律令格式を基礎とした政治支配体制のことである。)

わが国最初の令といわれている近江令、次いで飛鳥浄御原令、大宝律令で律令が整ったが、9世紀以降、再建策がとられるものの、次第に衰え、10世紀初頭になると、律令制度での財政維持は困難となる。

律令の制定は天智天皇の近江令が最初である。

 

律令による国家運営組織としては、中央に、太政官と神祇官が置かれ、地方には全国を国、郡、里に分けて、国司・郡司・里長が置かれた。全国民は良民と賎民に分けられ、一般の人々は貴族・豪族とともに良民に属した。賎民は奴隷的な苦しい生活を送っていたが、良民も重い租税を負わされていた。さらに良民は、兵役も課せられ、その負担は重く生活を圧迫していた。

 

大宝律令は、刑部(おさかべ)親王、藤原不比等らによって完成された。律令制度が完成する。

 

大宝律令が制定されると、地方は国・郡・里に分けられ、中央から派遣された国司が、地方豪族の中から任命された郡司を指揮して地方政治を行った。

 

大宝律令は、唐の律令を模範として整えられたもので、律、令ともに完備された法典であった。律は刑罰法で、令は行政・訴訟など広い範囲の規定を含み、日本では特に令が重んじられた。また、律や令を、日本に実情に見合った形に補足・変更する格・式がたびたび出された。

 

国家統治の基本法である律令は、刑法に当たる律と、民法、行政法である令からなる。日本最古の法令は、大宝律令以前の668年に制定された近江令である。

 

 

大宝律令による中央行政機構としては、祭祀をつかさどる神祇官と、一般政務をつかさどる太政官の二官が置かれており、太政官は太政大臣や大納言などの公卿によって構成されていた。そして、太政官のもとに大蔵省や兵部省など八省が置かれ、それぞれの政務を分担していた。

神祇官のほうが太政官より下位に位置づけられていた。

 

律令制度では、(氏姓制度を改め)、強力な中央集権体制を樹立することが目指された。律令下では、実力本位ではなく、上位の貴族の位階が世襲される蔭位の制が整えられた。

氏姓制度は朝廷が豪族に氏と姓を与えたものである。

 

 

律令国家における官制のうち、中央については、国家の祭祀をつかさどる神祇官と一般の政務をつかさどる太政官、さらに、太政官の下に八省が置かれるなど整備された。地方についても全国を五畿七道に分け、さらに国―郡―里に細分化されたり、九州には大宰府を設置するなど、地方行政にも力を入れた。

大和朝廷を構成していた畿内の有力な豪族たちは、上級官人(貴族)には特権が与えられ(土地、奉仕人、課税免除、刑法上の減刑など)、その地位も世襲された。貴族の子弟であれば、父や祖父の官位に応じて一定の位が与えられる蔭位の制と呼ばれるものもあった。

 

大宝律令による地方行政機構では、全国は畿内・七道に分けられ、その下に、国・郡・里が設けられ、国司が中央から赴任し、郡司、里長には在地の豪族が任命された。また、外交・国防上の要地である筑紫には大宰府が置かれて防人が配置された。

 

律令で、全国の人民が良民(貴族、一般農民)と賎民(解放されない不自由民)に分けられていたが、班田収受法では賎民である家人や私奴婢にも良民の3分の1に当たる口分田が班給された。

 

律令体制下における公民は、物納の租・庸・調と、労役としての雑傜・仕丁・兵役など、重い負担を負っていた。さらに政府は、春に稲を貸し付け、秋に利息を加えて徴収する出挙の制度を作った。出挙は当初は農民救済の方法であったが、やがて強制的に貸し付け租税の一種とするようになった。

 

口分田の課せられた租よりも、人頭税である庸、調、雑徭の負担が重かった。

土地税として納める租は各国ごとに集められたが、人頭税に当たる庸や調は、都に運んで中央政府の財源とされたため、納税者にとっては運搬の義務があり、負担の重い税であった。

 

班田収受の法によって口分田は6歳以上の男女に与えられたが、口分田の売買は禁止された。

 

律令制の下で、農民は班田収授法に基づいて口分田を与えられ、稲を租として納める義務を負っただけでなく、兵役など労役の義務も負った。

農民は一定の基準によって兵士として徴発され、各地の軍団に編入された。その中には衛士(えじ)として宮門の警備にあたる者や、防人として九州の防衛にあたる者もいた。労役の義務には他に地方での労役である雑傜(ぞうよう)があった。

 

成年男子(正丁(せいてい))からなる兵士は、諸国の軍団に配置されたが、桓武天皇の

時代に、農民による軍団と兵士を廃止し、郡司の子弟を軍務に就かせる健児の制に改められた。

 

 

壬申の乱:672年に天智天皇の弟、大海人皇子と天皇の子、大友皇子との間で皇位継承をめぐって内乱が起こった。

 

 

 

飛鳥文化

中国の南北朝時代の影響を受けて開花した文化であり、高句麗の僧曇徴が絵の具などの製法を伝え、絵画や工芸などが飛躍的に発達した。

聖徳太子の時代を中心とした6世紀末期から7世紀中頃の文化であり、中国南北朝の文化やギリシャ・オリエントの影響もみられる世界性豊かな仏教文化である。

 

仏教を中心とする文化が隆盛となり、その国際性は、ペルシア、中国、朝鮮半島と深いつながりを持つものであった。とりわけ、百済、高句麗などを通じて伝えられた中国の南朝時代の影響が大きかった。

飛鳥文化は、日本で最初の仏教文化であり、彫刻では鞍作鳥の作品と言われる法隆寺金堂の釈迦三尊像がある。

 

律令国家の形成期にあたる6世紀後半から7世紀前半の推古朝を中心とする飛鳥文化は、中国の南北朝や朝鮮の文化の影響を強く受けた仏教を基調とする文化であり、法隆寺(斑鳩寺)など多くの寺院が朝廷の保護のもと官寺として建立された。

 

 

白鳳文化

新鮮さと明朗性が特色で、代表的な美術作品に薬師寺の東塔、高松塚古墳の壁画などがあり、また漢詩文などの影響の下に長歌や短歌の形式が整えられた。

遣唐使によってもたらされた初唐文化の影響を受けて開花した仏教文化であり、興福寺仏頭などの金銅像が造られた。

唐の影響を受けた興福寺仏頭や、絵画の高句麗・唐の影響を受けた高松塚古墳壁画がある。

薬師寺は、飛鳥時代の天武・持統朝を中心とする白鳳文化を代表する寺院である。

天武・持統天皇の時代を中心とした7世紀後半から8世紀初頭の文化で、初唐文化の影響をうけた清新な文化である。

 

 

奈良時代

 

元明天皇は、藤原京から平城京へ遷都をおこなった。

 

藤原広嗣は、吉備真備の排除を求めて九州で反乱を起こしたが、鎮圧された。

 

藤原仲麻呂(別名 恵美押勝)は、独裁的な権力を獲得し、淳仁天皇を擁立して即位させたが、考謙上皇と結んだ道鏡との権力闘争に敗れて、反乱を企て敗死した。

 

称徳天皇(考謙上皇が再度天皇として即位)の死後、道鏡は勢力を失い、天智天皇の血筋に当たる光仁天皇が即位し、財政の再建をめざした。

 

聖武天皇は、仏教の思想で国家安定をはかろうとした。

 

仏教の鎮護国家の思想により政治を安定させようとして、国ごとに国分寺、国分尼寺を建立した。

 

 

朝廷は、中国を統一した唐に対しては、遣唐使を派遣し、冊封こそ受けなかったが、朝貢国であったが、朝鮮半島を統一した新羅、中国東北部に勃興した渤海を蕃国と位置づけた。渤海は、唐と新羅に対抗するために使節を日本に送り従属する形をとった。しかし、新羅は唐を牽制するために、8世紀の初めまでは日本に使節を派遣して従属する形をとったが、その後、対等の関係を主張するようになり日本と対立した。

 

 

考謙天皇の時代、藤原仲麻呂は、光明皇太后(前天皇の皇后)と結んで実権を握り、淳仁天皇を擁立して、恵美押勝の姓名をたまわり権力を独占した。ところが、光明皇太后なくなり、上皇となった考謙が、僧侶の道鏡を寵愛し、仏教勢力が政界で勢力を伸ばした。これに危機感を募らせた藤原仲麻呂(恵美押勝)は、764年、これを倒そうとしたが失敗し、逆に滅ぼされた(藤原仲麻呂の乱)。その結果、政争に勝利した考謙上皇が称徳天皇として重祚した。しかし、道鏡は称徳天皇が亡くなったのをきっかけに下野薬師寺の別当に左遷されて失脚した(770年)。

 

朝廷は蝦夷と交わる東北地方において支配地域を広げる政策を進め、日本海側に秋田城、太平洋側に多賀城を築いて蝦夷対策の拠点とした。

 

家父長制的な家族制度は普及しておらず、女性は結婚しても別姓のままで、自分の財産を持っていた。しかし、律令制では、租・庸・調と呼ばれる税の負担は男女均等ではなく、公民としての地位も同じではなかった。たとえば、口分田は6歳以上の男女に支給されたが、男子は2段で、女子は男子の2/3であった。

 

仏教による鎮護国家思想に基づき、各地にその拠点となる国分寺が建立された(国家鎮護のために、金光明最勝王経・妙法蓮華経を写経したりするのが仕事)。僧侶による民衆への布教は制限されていた。

 

仏教は、国家によって保護を受け、仏教研究が進んだ。南都六宗と呼ばれる学派が形成され、都を中心に栄えていた。(三論宗、成実宗、法相宗、俱舎宗、華厳宗、律宗)

 

 

行基(688~749)は、用水施設や救済施設を造る社会事業を行ったりして民衆の支持を得ていた。朝廷は最初、行基の布教活動を禁止していたが、次第に緩和され、東大寺大仏の造立に際して、行基は弟子や民衆を率いて造仏事業に協力した。その功績により行基は大僧正とされた。東大寺大仏造立をすすめたのは良弁(689~773)である。

 

 

天平文化

東大寺戒壇院の四天王像など、唐の様式を受け継いだ仏教美術がある一方で、「万葉集」の編纂のように日本の伝統文化の発展もあった。

唐の影響を受けた国際色豊かな国家仏教を特徴とする文化であり、東大寺法華堂や唐招提寺金堂など、どっしりした建物が造られた。

聖武天皇の天平年間を中心とした奈良時代の文化で、盛唐文化の影響を受けた世界性豊かな文化である。仏教は鎮護国家のための仏教であり、諸国に国分寺や国分尼寺、都には東大寺が建立された。

 

国分寺、国分尼寺が各地に建立され、大和の国分寺は東大寺として発展した。東大寺の正倉院宝物は、当時の技術の最高水準を示し、その技法や意匠には、東ローマ、イスラム、インドなどの流れをくむものであった。

 

東大寺は奈良時代の天平文化を代表する寺院である。天平文化の頃の仏教は、祖先霊の供養といったものではなく、鎮護国家の宗教としての性格が強かった。

 

 

 

平安時代

 

 

桓武天皇は、天皇権力を強化するため、長岡京へ都を移した後、さらに、平安京に都を移し、律令政治の再建のため、さまざまな改革を行った。また、桓武天皇は新しい仏教を支持し、中国で学んだ最澄と空海がそれぞれ天台宗と真言宗を開いた。

 

平安京に遷都した桓武天皇は、蝦夷討伐のために、征夷大将軍の坂上田村麻呂を派遣した(797年)。

桓武天皇により派遣された征夷大将軍の坂上田村麻呂は、胆沢城を築き(802)、やがて奈良時代に置かれていた鎮守府(蝦夷征伐のため陸奥国に設置された)を多賀城からこの地に移した。

 

嵯峨天皇は、令外官の一つとして、検非違使を設置し、都の警察や裁判事務、治安維持にあたらせた。

 

藤原良房は、応天門の火災(866)を当時勢力をのばしていた大納言伴善男の仕業として失脚させ、権力を確立して、最初の人臣摂政となった。(正式には866)。娘の生んだ皇子を9歳で即位させて清和天皇として(858)、その摂政となった。

 

藤原氏は、藤原良房が天皇の外祖父として摂政となるなどして次第に勢力を強めていった。これに対して、宇田天皇は、関白であった藤原基経の死後、関白を置かず親政を進め、代わって菅原道真を重用し、藤原氏に対抗した。次に即位した醍醐天皇も、関白を置かずに道真を重用したが、密告により(左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)により)、道真は失脚し、901年、大宰府に左遷された。

 

菅原道真は、宇田天皇により、藤原氏の勢力を抑えるために、右大臣に登用されたが、左大臣の藤原時平によって大宰府に左遷された。

 

平安時代の中期以降、武士団が組織されるようになり、地方の小武士団が次第に大武士団に統合されていった。

 

地方の豪族が、貴族や寺社の荘園を管理する職について勢力を強め、武装勢力としての武士団が土地、人民を直接支配するようになった。

 

 

(平安時代中期)

都では藤原氏を中心とする摂関政治が行われ、地方では平将門や藤原純友が反乱を起こすなど武士が台頭してきた。

 

平将門は、常陸・上野・下野の国府を襲い、関東一円を占領して新皇と称し、一時は関東の大半を征服したが、一族の平貞盛と下野の豪族藤原秀郷の軍によって討伐された(940年)。

 

藤原氏の北家は承和の変や応天門の変を通じて他氏を排斥するとともに、摂政・関白を独占してその勢力を拡大していった。

 

他氏の排斥に成功した藤原氏は、次に一族内部で摂政・関白の地位をめぐり激しく争いを繰り返したが、道長・頼道の頃に全盛期を迎え、道長は3天皇の外戚として勢力をふるった。

 

 

弘仁・貞観文化

宮廷の繁栄を背景に開花した文化であり、唐風文化が重んじられ、歴史書においても漢文体の国史が編纂され、六国史が成立した。

唐文化の影響を受けた平安時代初期の文化で、仏教では密教の影響の強い文化である。

 

空海、嵯峨天皇、橘逸勢は、弘仁・貞観文化を代表する能書家で、三筆と呼ばれた。中国風の力強い書風で知られる。

 

 

国風文化(藤原文化とも)

かなが発達して漢文学のほかに国文の文芸が盛んになり、建築では寝殿造りという様式が出来上がって貴族の住宅にとり入れられた。

唐風文化を日本の風土や感情に適合させた国風化を特徴とする文化であり、仮名文字の普及による国文学が多いに発展した。

 

かな文字の発達に見られるように、文化の国風化が進んだ。かなの物語、日記が盛んとなる一方で、日本の風物を題材とし、なだらかな線と上品な色彩を持つ大和絵が描かれた。

 

10世紀中頃の摂関政治の興隆期を中心とする文化である。中国の影響を受けない純日本風の情緒的な貴族文化で、文学では仮名文学が発達し、仏教では浄土教が流行した。

 

10世紀の貴族を中心とする国風文化は、仮名文字の発達により、日本人の感覚を自由に表現することが可能となった文化であり、仮名物語文学として竹取物語などが書かれ、国文学の隆盛に大いに貢献した。また、貴族社会の国風化も進み、和風住宅のもととなる(白木造で桧皮葺の)寝殿造りが普及した。

 

建物は、貴族の住宅建築として寝殿造が発達していたが、奈良時代の建築が唐風であったのに対して、寝殿造は白木造で桧皮葺を特色とする和風建築で、内部の襖や障子も唐絵に代わって大和絵で描かれるようになった。

 

「蜻蛉日記」や「源氏物語」などの日記文学や物語文学が栄え、そのすべてが仮名によって女官たちの手で書かれたものであった。蜻蛉日記:藤原道綱の母

 

小野道風、藤原佐里、藤原行成は三蹟と呼ばれ、字形に丸味があり、優美な線が特色である書道が発達した。

 

 

 

 

源氏は前九年の役と後三年の役で領土を拡大した。

前九年の役(1051~62年)は、東北の土豪安倍氏の反乱で、源頼義・義家が鎮圧した。

後三年の役(1083~87年)は、東北の豪族清原氏の内紛で、源義家が鎮圧した。

 

保元の乱とは、天皇家や摂関家の内部対立が表面化して起きた武力衝突であり、藤原忠通と結んだ源義朝・平清盛を味方につけた後白河天皇側が、藤原頼長と結んだ源為義・平忠正を味方につけた崇徳上皇側に勝利した。

 

鳥羽院政下において、天皇家では兄の崇徳上皇が皇位継承をめぐり弟の後白河天皇と対立し、摂関家では兄の関白藤原忠通と弟の左大臣頼長の対立が生じていたが、鳥羽法皇が没した後、後白河天皇が平清盛や源義朝らと結び、崇徳上皇方を破った(1156年保元の乱)。

 

 

平清盛は、源義朝らと対立し、平治の乱を起こして、これに勝利し、乱後、清盛は最初の武家政権を樹立した。

 

平治の乱(1159年)では、藤原信頼と結んだ源義朝が、藤原通憲と結んだ平清盛に敗れ、乱後に平氏政権が樹立した。清盛は、太政大臣の官職をえた。

 

平治の乱

1159円に、源義朝が藤原信頼と組んで、平清盛の打倒を図ったが失敗に終わり、その後一時、源氏の勢力が衰退した。

 

平氏は太政大臣をはじめ高位高官を独占し、対外的には、大輪田泊を拠点として日宋貿易を行い利益をあげ、経済的基盤を強化した。

 

平氏の専制に対して、以仁王は平氏打倒の決起を呼びかけ、これに応じて源頼朝らの武士が立ち上がった。

 

 

歴史物語の「大鏡」や説話集の「今昔物語」は平安末期(院政期)の文化の作品である。絵画に詞書を織り交ぜた絵巻物は、平安時代末期の文化で発展した。

 

 

鎌倉時代

 

壇の浦で平氏を滅ぼした源頼朝は、後鳥羽天皇の信任を得て征夷大将軍に任じられ鎌倉に幕府を開いた。

 

源頼朝は、平氏打倒に功のあった源義経の追討を図り、それを名目に守護・地頭を設置するとともに、和田義盛を侍所の長官にして武士を統括した。

 

12世紀には、源頼朝が鎌倉を根拠地として定め、東国の支配を進めた。頼朝は鎌倉に侍所、公文所(政所)、問注所などを設置し、さらには朝廷から地方に守護と地頭を置く権限も認められ、武家政権としての鎌倉幕府を確立させたが、その当時、依然として京都には公家政権が存在し、律令体制による伝統的な行政権を保持していた。

 

侍所:御家人を統率する、1181年設置

問注所:訴訟担当、1184年設置

 

将軍と御家人は、土地の給与を通じた御恩と奉公の関係でつながった。

 

幕府は全国の御家人を国衙領や荘園の守護や地頭に任命し、その支配を確認・保障する本領安堵を行ったが、この御恩に対して、御家人は軍役の義務を負った。

本領安堵:将軍が御家人に対し先祖伝来の土地を保持することを保障する制度。

 

鎌倉幕府においては、御家人は戦時に軍役を負担し、平時においては皇居を警備する京都大番役や将軍御所を警備する鎌倉番役を負担した。承久の乱以降には、京都に六波羅探題が置かれ、朝廷の監視や西国御家人の指揮に当たった。

 

源頼朝の没後、子の頼家が将軍となったが、1203年、北条時政は、頼家を修禅寺に幽閉して頼家の弟の実朝を将軍にたて、みずからは政所別当に就任した。ついで、時政の子の義時は、政所別当のほか侍所別当の職も獲得して幕政の実権を握った。こうして北条氏は政治的地位を執権として確立し、以後、北条氏の間で世襲された。

 

源頼朝の死後、執権北条時政はが鎌倉幕府の実権を握り、… 幕府と朝廷との対立が深まり、承久の乱が起こった。その結果、幕府側が圧倒的な勝利をおさめ、それまで幕府の力が弱かった畿内や西国にもその支配権が浸透することになった。

 

 

承久の乱

1221年に、後鳥羽上皇が中心となり、鎌倉幕府を討幕するため兵を挙げたが、執権北条義時が送った幕府軍に大敗した。

 

承久の乱とは、鎌倉幕府3大将軍、源実朝の死をきっかけに、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒のために起こした兵乱であり、北条義時は、北条泰時・北条時房を将として、京都を攻撃し、上皇方を破り、この後、幕府の朝廷に対する優位が確立した。

 

後鳥羽上皇は、従来からの北面の武士に加えて、新たに設置した西面の武士を置き、軍事力を強化するとともに、幕府と対立する動きを強め、北条義時追討の兵を挙兵した(承久の乱)が、源頼朝以来の恩顧に応えた東国の武士達は、結束して戦ったため、幕府の圧倒的な勝利に終わった。

 

承久の乱後、公家や武士の多数の所領を没収して、新たに新補地頭と呼ばれる地頭を任命した。

 

承久の乱後、幕府は朝廷を監視する機関として、京都に六波羅探題が置いた。

北条義時は、承久の乱後、京都に六波羅探題を設けて京都市中の警備や尾張以西の国々の御家人の統括に当たらせた。

 

北条泰時は、執権を補佐する連署を設け、有力な御家人や政務に優れた者を選んで評定衆とし、執権・連署・評定衆による合議制に基づく政治を行った。

 

北条泰時は、武家の最初の体系的法典である御成敗式目を制定し、源頼朝以来の先例や道理に基づいて、御家人間の紛争を公平に裁く基準を明らかにした?

御成敗式目(貞永式目)は、頼朝以来の先例や道理と呼ばれた武士社会の慣習、道徳に基づく体系的法典であった。

御成敗式目(貞永式目)は、執権政治の確立過程において、先例や武士社会の慣習・道徳の基づいて、守護や地頭の任務と権限を定め、御家人同士や御家人と荘園領主との紛争を公平に裁く基準を明らかにし、武家最初の体系的法典となった。

御成敗式目(貞永式目)は、最初の武家法であり、御家人のみに適用された。

 

幕府は、守護や地頭の権限を明確にし、裁判の公平を期すために、武家法として最初の体系的法典である御成敗式目を制定した。この式目は道理と呼ばれた武家社会の慣習や道徳、あるいは頼朝以来の幕府の先例を成文化したもので、当初は御家人のみを対象とするものであった。

 

 

北条時頼は、有力御家人の三浦泰村一族を滅ぼし、北条氏の地位を一層確実なものとする一方、評定衆のもとに引付衆を設置し、御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ、敏速で公正な裁判の確立に努めた。

 

北条時頼(5代執権)は、評定衆のもとに新たに引付衆を設置し、御家人たちの所領に関する訴訟を専門に担当させ、頻発する荘園領主と地頭との紛争に対し、迅速で公正な裁判制度を確立した。

 

幕府は、元寇に際して十分な恩賞を与えられなかったことから、御家人たちの信頼を失った。そこで、永仁の徳政令を発布することで、この戦争で窮乏する御家人の救済しようとしたが、かえって社会の混乱に拍車をかけた。

 

鎌倉時代に将軍と御家人は御恩と奉公の主従関係にあったが、元寇後、十分な恩賞が与えられず、御家人の不満が増大していった。

 

永仁の徳政令が発せられ、後家人の所領の売買・質入れを禁じ、すでに売却された土地も無償でもとの持ち主に返させることにした。

 

13世紀後半、元のフビライは、日本に対して2度にわたって軍事行動を起こした。鎌倉幕府は、執権北条時宗の指導の下、元軍を撃退した。

 

 

北条時宗は、文永の役(1274年)の後、元軍の再度の来襲に備えて、博多湾沿岸に石塁を築かせる(1276年)とともに、九州北部の要地を御家人などに整備させる異国警護番役を整備した。

 

幕府は、2度目の元の襲来に備えて異国警護番役を設置し、博多湾沿岸に石築地を築いて、防備に就かせた。弘安の役の際には、防塁の構築の効果もあり、上陸を阻止できた。(最初の文永の役では博多湾から上陸を許した。)1281年弘安の役

 

1293年、9代執権、北条貞時が、博多に九州の防衛機関として鎮西探題を設置した。

 

執権として実権を握った北条氏は、やがて、得宗と呼ばれる北条氏の嫡流の家督(一族の長)や得宗に仕える家臣である御内人が勢力を強め、元寇後、御内人と御家人との対立が激しくなった。

 

北条貞時は、有力御家人である安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし、北条一門とその家臣である御内人が幕府政治を主導する得宗専制を確立した。

霜月騒動は1285年に内管領(御内人)の平頼綱が有力御家人(貞時の外戚)の安達泰盛一族を滅亡させた事件であり、この後、貞時は平頼綱を滅ぼし、貞時が主導する得宗専制政治を確立した。

 

 

 

元寇後、窮乏する御家人が増え、また、貨幣経済の浸透によって、所領をもたない武士の中には、所領を手放す御家人も急増した。このため幕府は、1297年に永仁の徳政令発布して救済を図ったが失敗に終わった。

 

 

鎌倉文化

公家が文化の担い手となって伝統文化を引き続き栄えさえた一方で、新しい傾向の文化が生まれた。その背景には、日宋間を往来した僧侶や商人に加え、大陸の政情の変化によるわが国への亡命者によって、海外の新しい要素が導入されたことが挙げられる。

 

「東大寺南大門金剛力士像」や、興福寺北円堂の「無著像」などが制作され、多くの仏師が活躍した。前者は運慶・快慶の作で、後者は運慶の肖像彫刻である。

 

 

建武の新政

 

鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は京都で公武を統一して新しい政治を始めた。「建武の新政」を開始した後醍醐天皇に対して、足利高氏(尊氏)は、後に背き、光明天皇を立てて、北朝を興した。

 

後醍醐天皇が行った建武の新政は、貞永式目に定められていた武家社会の慣習、特に、武士の土地所有権に関する慣習の無視などが原因で(所領の安堵には天皇の綸旨が必要であるとしたなど)、短期間のうちに崩壊した。

 

建武式目は足利尊氏が京都に幕府を開いた際に、施政上の問題を二階堂是円、真恵兄弟らに諮問し、答申さらた施政方針書である。建武の新政とは無関係。

 

 

室町時代

 

後醍醐天皇は、足利尊氏が1336年に持明院統の光明天皇を即位させると、奈良の吉野に南朝を開いたため、南北朝の動乱が始まった。

 

観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)とは、鎌倉幕府以来の秩序を重んじる足利尊氏の弟、足利直義を支持する勢力と、急進的な改革をのぞむ尊氏の執事高師直(こうのもろなお)を中心とする勢力との争いである。

 

 

 

守護大名の細川氏、斯波氏、畠山氏が交代で、将軍の補佐役である管領に就き(三管領)、赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏の4氏から、侍所の長官である所司が任命された(四職)。

 

鎌倉時代、有力御家人が守護に任命されたが、室町時代には大名化して守護大名となっていった。

 

足利尊氏は、荘園の年貢の半分を軍費として取得し、地方の武士に分与することを認めた半済令を施行した(1352年)。

半済:1年だけ荘園・公領の年貢、半分を武士に与えた制度(残りの半分は、荘園領主、国主に納入)。実際は土地(下地)の分割、武士は半済を口実に、荘園、国衙領を侵略し、守護大名の領国一円支配を強めた。この結果、戦国時代、荘園制はほとんど崩壊した。

 

 

 

戦国大名は、有力家臣に地侍などで組織した家臣団を預ける寄親寄子制を採用し、鉄砲や長槍などの兵器を集団的・機動的に使用できる体制を整えた。

 

「今川仮名目録」や「塵芥集」などの分国法が戦国時代に各地で制定された。これは戦国大名の領国経営に基本法で、富国強兵を方針とし、家臣団の統制や所領相続の規制および農民への年貢課役などの厳しい規定が設けられた。

 

分国法では、家臣が領地を自由に売買することを認めなかった。

分国法では、他国との縁組みの禁止、他国との通信の禁止があるので、他の領土と積極的に交流したとはいえない。

分国法では、家臣は普段自分の領地に居住することは許されず、城下町に集住させられた。

分国法では、喧嘩は、理非にかかわらず、喧嘩の当事者双方を処罰する喧嘩両成敗とした。

分国法では、嫡子(その家の長男)だけが財産を相続できる単独相続とした。女子の相続は認められなかった。

 

各地に置かれた守護大名が、荘園や公領から年貢の取り立てや土地の管理を行うようになった。南北朝時代から守護は、半済の法や守護請によって荘園を領地として支配するようになり、守護大名として成長していった。

 

応仁の乱

室町幕府の将軍足利義教が暗殺された嘉吉の乱(1441年)以降、将軍権力は弱体化し、畠山氏と斯波氏の家督相続争いと、8代将軍義政の子の義尚と弟の義視の家督相続争い、さらには有力守護大名の細川勝元と山名持豊の争いがむすびついて、応仁の乱が始まった。

 

1467年、足利将軍家や管領畠山・斯波両家の継嗣問題に端を発した争いが、天下を二分する大乱となった。

 

応仁の乱は将軍の後継争いに、細川氏、山名氏の争いが加わったことが原因で起こったものであるが、この乱をきっかけに下剋上の世の中となる戦国時代へと突入した。

応仁の乱は、畠山氏と斯波氏に家督問題が生じ、8代将軍足利義政の継嗣問題も加わり、1467年に応仁の乱が起こった。これらの問題に細川勝元と山名持豊が介入したため、守護大名は細川軍と山名軍に分かれて争うこととなった。

 

この乱は各地に広がり長期化したが、その原因は武士社会の相続法が分割相続から嫡子単独相続へ変化し、守護大名の相続争いをも巻き込んだためである。

 

応仁の乱後、守護に代わって代官の任務についた守護代は、地方の地侍である国人らを支配下に治め、守護を上回るほどの権力を拡大させ、戦国大名となった。

室町幕府から任命された守護の中でも権力を拡大させ、支配領域を拡大させた守護は、守護大名となった。細川氏や山名氏など。

 

応仁の乱後以降各地に誕生した武田氏などの戦国大名は、地侍を家臣化したり、新しく家臣となった地侍を有力家臣に預けて組織化し、鉄砲・長槍などの新しい武器を使った集団戦を可能にした。(戦国大名は、家臣団を組織化し、足軽鉄砲隊による集団戦が可能となった。)

また、家臣の収入を銭に換算した貫高で把握し、その地位・収入を保障する代わりに軍役を負担させるという貫高制を実施した。

 

戦国大名は分国法(分国支配の基本法)などを制定して家臣相互の紛争に介入し、軍事力・経済力を維持することを図った。戦国大名は勢力争いを行い、たとえば、中部地方では、甲斐・信濃の武田信玄が、越後の上杉謙信と戦い、関東地方では、北条早雲が駿河の今川氏を頼って頭角を現し、三浦氏を滅ぼすことによって相模全域を支配するなど支配地域を拡大した。

 

戦国大名の中には施政方針や刑事・民事の法令をまとめて分国法を作り上げる者もおり、伊達家の「塵芥集」や、武田信玄の「甲州法度之次第」などが誕生した。

 

戦国大名の多くは、守護代を含め、現地に根を下ろして実力で成りあがって支配者となった者たちである。

守護(幕府の軍事・警察権を代行する地方機関)の中には、任地には赴かず、守護代を派遣する場合があった。

 

戦国時代には、戦乱で兵農分離が進み、大名は郷村制で農民を支配し、家臣団を城下町に集住させる大名領国制を完成した。これによって城下町が発展した。

 

 

 

室町時代中期の社会状況

 

室町時代には、市や座が結成されていた。門前町や寺内町も発展の傾向にあった。

 

武家社会では地頭請や下地中分が行われて、荘園内での地頭の権限が強まった。国人同士が団結して国人一揆も起きた。

 

農村では農民相互の地縁的な結合である惣ができた。(惣は地縁的な自治村落)

 

 

戦国時代の社会状況

多くの戦国大名は分国法を制定し検地を行って、領国支配を強化した。

 

交通の便利な平野部に城下町が形成され、武士や商工業者が集住して、城下町を中心とする経済圏が成立した。商業の発展に力が注がれ、関所の撤廃や座の廃止が行われて自由な商取引きが保障された。農村では、前代から手工業が発達し特産品が生産されており、各地を結ぶ遠隔地商業と海陸運送業が活発になって、港町、宿場町、寺内町が建設され、大きな都市に発展していくのも多かった。これらの都市の中には町人が自治組織をつくり市政を運営する場合もあった。

 

 

 

室町文化

 

14世紀後半の3代将軍足利義満の時代を中心とする北山文化は、室町幕府の保護による禅宗の影響を強く受けた武家文化と、民衆活動の活発化による庶民的要素が強まった文化である。観阿弥・世阿弥父子が庶民の神事芸能であった田楽・猿楽を能楽として完成させたのもこの時期である。

 

北山文化においては、日本の伝統文化の基盤が確立され、観阿弥・世阿弥父子が能を芸術として完成させるとともに、日常語で大名や僧侶を風刺した狂言が能の合間に上演され、人気を博した。

 

水墨画は、東山文化の時代に基礎が築かれ、雪舟は日本的な水墨山水画を大成したが、狩野正信・元信父子は水墨画に伝統的な大和絵を取り入れることによって、狩野派を確立した。

 

禅宗の自然観と結びついた深山幽谷の大自然を表現した枯山水の庭園や寺院(竜安寺や大徳寺大仙院)がつくられた。雪舟が、日本の自然を描き、水墨山水画として大成させた。

 

書院造は東山文化で普及した和風住宅。

 

 

大陸文化と伝統文化、貴族文化と庶民文化など広い交流に基づいた文化の融合が進み、その成熟の中から、次第に民族的文化ともいうべきものが形成されていった。連歌、御伽草子といった庶民文芸は、この時代を特徴づける文化である。

 

南北朝の動乱期においては、歴史に対する意識が高まり、「神皇正統記」(1339年、北畠親房)は南朝の正統性を主張した歴史書であり、「梅松論」(1349年)は、承久の乱から室町幕府成立までの歴史書で、足利氏の正当性を主張している。

 

連歌は南北朝の頃から盛んになって、応仁の乱後に最盛期を迎え、

山崎宗鑑が滑稽を基調とする俳諧連歌を作り出し、宗祇が洗練された(芸術性が加わった)正風連歌を確立した。

 

茶寄合が流行し(南北朝時代)、茶の品種をいいあてる闘茶の遊びが行われたり、村田珠光によって侘び茶(侘茶)が創出され(東山文化)、堺の茶人の武野紹鴎に師事した(堺の商人)千利休がこれを大成させた(桃山文化)。

 

 

安土桃山時代

 

応仁の乱後、約1世紀にわたる戦国大名の抗争の中から、尾張の織田信長が全国統一にいち早く着手できたのは、鉄砲隊の活用などにより先進地域である畿内を征服し、一向一揆と対決してその勢力を衰退させたことがあげられる。

 

戦国大名の一人である織田信長は、1560年、桶狭間の合戦で今川義元を破って頭角を現し、京都入りした後は、1573年、足利義昭を京都から追放し室町幕府を滅ぼした。

 

織田信長は、鉄砲隊の活用により、1575年に武田勝頼を長篠の合戦で破った。

石山本願寺との11年に及ぶ石山戦争や伊勢長島の一向一揆の平定などを通して、一向一揆の勢力を衰退させていった。

 

権力の回復をめざして信長と対立していた将軍足利義昭を京都から追放した。

織田信長は、自分が将軍に就けた足利義昭を将軍職から追放し、室町幕府は滅びた。

 

織田信長は、経済を発達させるため、安土などで楽市・楽座の令を出して、商工業の独占的組織であった座を解体した。海外との交易地点?であった堺や大津、草津など重要都市を直轄地とした。

信長が1568年に関所を廃止したことで、関銭の徴収が廃止された。

 

 

信長は、ポルトガル人やイスパニア人との間で行われいた南蛮貿易を奨励し、富裕な商人を統制して彼らの経済力を利用した。彼らは、戦国大名の求める西洋や中国、南洋方面の物産を中継した。

 

豊臣秀吉は、織田信長の行った自主申告による指出検地から、全国を対象とする検地を実測によって行ったことから、一地一作人の原則が定まった。

 

秀吉は、検地を実施して一地一作人の原則を確立するとともに、身分統制令出して農民を耕作に専念させた。兵農分離を促進し、身分統制令出して、武士が百姓や町人になること、農民が転業することを禁止した。

 

秀吉が実施した検地によって、これまで土地を支配していた荘園領主や名主たちの権利が認められなくなり、封建領主が農民を直接支配するようになった。

 

秀吉は、土地の生産高を石高で示した。畿内や要地に一族や腹心の大名を配置した。

 

百姓一揆を防止するため刀狩令を発し、農民から刀や鉄砲などの武器を没収して、農民を農業に専念させることにした。

 

豊臣秀吉は、信長の事業を引き継き、天下統一を果たした。秀吉は、天皇から日本全国の支配権を委ねられたと称して惣無事令を出し(1585年)、争っていた大名たちに停戦を命じ、領国の確定の裁定を任せることを強制した。

 

豊臣秀吉は、惣無事令に反したとして小田原の北条氏を滅ぼした後、全国統一を成し遂げ、独裁制の強い政治を行ったが、晩年は、徳川家康などを五大老に、石田三成などを五奉行に定めた。

 

豊臣秀吉は、海賊取締令を出し(1588年)、倭寇の取締を強化した。

 

秀吉は、五奉行、五大老を置き政務を分割させた。

 

文禄・慶長の2度にわたる朝鮮侵略には、側近の小西行長、加藤清正を派遣した。

 

秀吉は、明征伐の第一歩として、朝鮮半島に出兵し、李氏朝鮮を制圧しようとしたが、失敗した。

 

明の征服を企てた豊臣秀吉は、1592年の文禄の役では小西行長、加藤清正らを先陣として朝鮮に出兵したが、不利な戦局に追い込まれるにつれ、明との講和を試みたが和平交渉は決裂している。また1597年の慶長の役で、再び秀吉は出兵したが、翌年病死したため朝鮮出兵は終了した。

 

豊臣秀吉は、南蛮貿易を奨励したが、後に、スペインの植民地政策を恐れて、キリスト教宣教師を国外追放するバテレン追放令を出したが、、海外貿易と渡航?は禁止しなかった。

 

豊臣秀吉は全国統一を進める過程で当初キリスト教を保護したものの、後に弾圧に転じ、キリスト教の布教を禁止すると同時に、宣教師の国外追放を命じた。

 

16世紀末、豊臣秀吉は、キリスト教の国内への広がりを抑えるためバテレン追放令を出したが、海外貿易は奨励した(朱印船貿易を開始)。

 

豊臣秀吉は、織田信長の商業政策を受け継ぎ、経済発展を促すために全国的に関所の禁止や楽市・楽座を推し進める一方、貨幣の全国統一をめざして天正大判・小判を鋳造した。

秀吉は、佐渡相川金山、石見大森銀山、但馬生野銀山の銀山を直轄にし、天正大判・小判を鋳造させた。

 

 

江戸時代

秀吉死後、反豊臣勢力の徳川家康は、石田三成らを関ヶ原の戦いで破り、大坂夏の陣(1615年)で豊臣家を滅ぼした。

 

徳川家康は、当初、キリスト教を放任した。2代将軍秀忠の時、禁教令が出された。また家康は、秀吉が始めた朱印状の発行に基づく朱印船貿易を継続し、外国貿易を制限していない。奉書を必要とする奉書船貿易が始まるのは、家康の死後の1631年からである。

 

角倉了以は、朱印船貿易を行った京都の豪商で、大い川、富士川の河川開発事業に取り組んだ。

 

伊達正宗は、メキシコ・スペイン・イタリアでの通商を求めて、慶長遣欧使節の支倉常長一行を派遣した。

 

家康は、日本に漂着したイギリス人ウィリアム=アダムズ(三浦按針)を外交顧問にした。

 

16世紀後半の畿内を中心とした桃山文化は、戦国の争乱や下剋上の気風を反映した武将や豪商による新しい自由な発想を内容とする豪壮で雄大な文化であり、壮麗な天守閣をもつ城郭建築や城中などの襖と屏風に水墨画や濃(だみ)絵(え)の障壁画が、狩野永徳と門人の狩野山楽などによって描かれた。

 

徳川秀忠は、禁教令を全国に発し(1613年)、

 

 

幕府政治の基調は、4代将軍家綱によって草創期の武断政治から文治主義へと転換した。文治主義は儒学の徳治主義を基礎にして幕藩体制の支配秩序を保とうとしたもので、これによって幕政の基本方針が明確になった。文治政治は新井白石の正徳の治のときに最盛期を迎えた。このとき、海舶互市新令(1715年)が出され、長崎貿易の制限が行われた。

 

封建体制の矛盾にいち早く気づいた8代将軍吉宗の享保の改革以来、寛政・天保の三大改革に一貫した基本的政策は、封建制の基盤となる農村の振興を企図した重農主義?政策であった。

田沼意次は、成長した商業資本を積極的に利用して幕府財政の強化と安定を図ろうとした。

 

幕藩体制の下で諸藩は独立した藩政を行ったが、参勤交代や御手伝い普請など幕府の巧みな大名統制策によって財政難が早くから始まった。特産品奨励と専売制を中核とした藩政改革が各地で行われ、中期には大飢饉を契機に会津・米沢・秋田など東北諸藩が、後期になると西南諸藩(薩摩・長州・土佐・肥前)が成果を挙げた。

 

鎖国政策を堅持する幕府に対し、外圧は、まず北方からロシアによって、次にイギリス船の近海出没によってもたらされた。幕府は海防の必要性を認識する一方、異国船打払令を出し、国内では蛮社の獄など蘭学者らを弾圧して、鎖国政策を強化したが、その後、アヘン戦争の結果に接し外交方針の転換を余儀なくされた。

 

日本では、文化・文政時代の放漫な政治が、享楽的、営利的な風潮を強め、天保年間に入ると、凶作が続いて大飢饉(天保の大飢饉)となった。その頃、アメリカが太平洋に進出し、イギリスやロシアが清国に勢力を伸ばすなど、日本を取り巻く国際情勢も大きく変動していた。幕府はこのような内外の情勢を背景に、天保の改革を行い、これと前後して諸藩においても、幕政改革が行われた。思想面にも新たな展開が見られ、封建制度の矛盾を批判する思想が生まれた。特に、尊王論や開国思想は、近代への胎動を強く感じさせるものであった。

 

 

 

 

大坂の役で豊臣秀頼を攻め滅ぼした(1615年)2代将軍徳川秀忠は、幕府にとって危険と思われる大名を処分し、幕府の基礎を固めた。大名は一国一城令(1615年)によって、諸大名の城は、居城のみを残して取り壊された。

 

 

幕政は老中を中心として行われ、若年寄・大目付・目付のほかに寺社・町・勘定の三奉行が置かれた。これらの役職には譜代大名や旗本らが就いた。

 

3代将軍家光は、幕府の職制を整備し、大名統制・外交・財政などの重要政策を扱う老中、老中を補佐する役職として若年寄を設けた。また、寺社の管理・統制を行う寺社奉行、幕府の行財政を司る勘定奉行、江戸市中の警察・市政を担当する町奉行の三奉行を置いた。

 

 

幕府は、徳川氏との親疎によって、親藩・譜代・外様の3つに大名を区別し、親藩や譜代を全国の要所に置き、外様大名を遠隔地に配置した。

 

大名を徳川氏一族である親藩、三河時代からの家臣である譜代、関ヶ原の戦い以後家臣となった外様に分け、その配置を交錯させて相互に牽制させた?。

 

大名に対しては親藩・譜代・外様の区別が行われ、すべての大名に、江戸と在地とを原則1年で転任する参勤交代を義務づけた。

 

大名には国元と江戸とを1年ごとに往復する参勤交代を義務づけ、その妻子は江戸にとどめて事実上の人質とした。江戸滞在中、また国元との往復には、莫大な費用を要したため大名の財力は弱められた。(費用は大名の自弁)。藩財政を圧迫した。

 

大名には軍役として石高に応じて一定数の兵馬を常備させ、戦時には将軍の命令で出陣させた。また、平時には御手伝普請として江戸城の修築、河川の治水工事などを命じた。

 

 

江戸時代において皇室領としてはわずか3万石にすぎず、朝廷は独自の力を持つことはできなかった。

 

大名が守るべき事柄を定めた武家諸法度を制定し、居城修理や大名の結婚の許可制、新規築城の禁止などを命じた。

 

幕府は朝廷に対して厳しい統制を加え、禁中並公家諸法度を発布したほか、京都に京都所司代を設置し、朝廷の動きを監視させた。

 

武家伝奏は、朝廷と幕府の連絡を行う二名の公家で、京都所司代や老中と連絡を取り合っていた。

 

 

武家諸法度を発布し、文武両道の奨励、参勤交代、大名間の自由な婚姻の禁止などを定めた。武家諸法度は、家康の政治顧問である臨済宗の僧、金地院崇伝が起草し、その後、将軍が替わるごとに少しずつ修正されて諸大名に厳命された。

 

「武家諸法度」は、武士階級の統制のための徳川幕府の根本法典で、大名を対象とした。これは、文武の奨励に始まる武家社会の規範と裁判・刑罰の基準や判例が集大成された法令集で、将軍家光によって完成された。(1635年の寛永令)

1615年の2代将軍秀忠による元和令と、1635年の3代家光による寛永令でほぼ整備された。参勤交代も1635年に定められた。

 

 

武家諸法度は、将軍の代ごとに何回も改正され、公家には適用されなかった。

大名統制の大綱を示すために1615年に将軍秀忠の名で発布した法律で、原則として将軍の代替わりごとに必要に応じて改訂し公布した。

 

 

江戸幕府は、鎖国完成に伴い諸外国の攻撃に対抗するために、大名に石高に応じた軍役負担や大型船の新造を命じるなど防衛体制の強化を図った。幕府は旗本と御家人から構成される直参と呼ばれる直属の軍隊を持っていた。

 

 

幕府や藩の財政は、農民からの年貢で支えられていたので、年貢確保の努力と農民維持のための勧農作に努めた。太閤検地以後、改めて領内全体の検地を行い、年貢負担者の掌握や村域を確定するとともに、村の責任で年貢を完納させる村請制をつくった。

 

農民に対しては日常生活にまで厳しい統制を加え(1649年慶安の御触書)、租税は原則、米で納めた。

 

幕府は、農民と比べると、町人に対する統制は比較的緩やかであった。

 

 

幕府はキリスト教を厳しく弾圧し、宗門改めを行って、すべての民衆を寺院の檀家とする寺請制度を行ったため、寺院は幕府の末端機構と化した。

 

寺社は寺社奉行により諸国寺院御掟と諸国社家御掟でそれぞれ監視されたが、一方で宗派ごとに組織をつくらせ?、すべての人々をいずれかの寺に所属することとした。寺院は幕府の保護を受けたが、民衆支配の一端も負わされた。仏教は宗教としては低調であった。

1655年に出された諸国寺院御掟と諸国社家御掟によって、それぞれ寺院と神社への幕府の支配が一元化され、強化された。

 

 

 

島原の乱(1637~38)は、苛酷な年貢を課す領主とキリスト教徒を弾圧する幕府に対し、農民らが天草四郎時貞を大将として起こした一揆で、幕府は、老中の松平信綱を中心として自ら兵を動員して、これを鎮圧した。この島原の乱が、ポルトガル船の来航禁止(1639年)(による鎖国の完成)のきっかけとなった。

 

島原の乱では、地元の領主が中心となって鎮圧した。その指揮官として、幕府から松平信綱や板倉重昌などが派遣された。

 

 

鎖国令により、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を全面的に禁止し、また、オランダ商館を長崎の出島に移した。

 

幕府はキリスト教の弾圧後、鎖国制度を完成させたが、その後、外国との貿易は長崎の出島に限定され、交易国としてはオランダと中国のみを許可した。

 

17世紀前半に、江戸幕府によって行われた鎖国政策により、日本の貿易相手国はオランドと清の2カ国に限られることになった。この政策下でも、対馬の宗氏を媒介として李氏朝鮮との交易関係は継続された。特に、朝鮮通信使と呼ばれる使節を通じた朝鮮との交流は、江戸時代を通じて、継続された。

 

江戸時代初期、幕府は鎖国を実施し、オランダがヨーロッパで唯一正式な国交を持つ国となった。その対日貿易のほとんどはヨーロッパ市場との中継貿易であり?、日本は主に銀、銅、鉄、漆器であり、中国産の絹織物、綿織物、薬品、時計、書籍は輸入品であった。

 

 

幕府政治の基調は、4代将軍家綱によって草創期の武断主義から文治主義へと転換した。文治主義は儒学の徳治主義を基礎として幕藩体制の支配秩序を保とうとしたもの、これによって幕政の基本方針が明確となった。文治政治は新井白石の正徳の治のときに最盛期を迎えた。この時、海舶互市新例(1715年)が出され貿易の制限が行われた。

 

 

5代将軍綱吉は、幕府の財政を立て直すために、勘定吟味役荻原重秀の意見を用いて、これまでの慶長金銀を改鋳し、品質の悪い元禄小判を発行して(1695)、幕府の歳入を増やしたが、貨幣価値の下落により物価の上昇をまねき、武士や庶民の生活を困窮させた。

綱吉は、柳沢吉保を側用人に取り立てた。

 

5代将軍綱吉が出した武家諸法度は、儒教の精神に基づく文治主義の方針がとられた。

 

17世紀末から18世紀はじめの町人を中心とする元禄文化は、経済と文化の先進地である上方の町人を主な担い手とする文化であった。町人の世相や風俗を写実的に描き、浮世草子と呼ばれる小説を生み出した井原西鶴、わび、さびなどの新しい価値を導入し、自然の中に人生を見つめる格調高い蕉風俳諧を確立した松尾芭蕉、人間浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書いた近松門左衛門がこの時期の町人文芸の代表である。尾形光琳はこの時代を代表する画家である。

 

 

正徳の治

新井白石を登用して、緊縮政策をとり、財政の立て直しを図った(正徳の治)。

 

6代将軍家宣、7代将軍家継の政務を補佐した朱子学者の新井白石は、貨幣の品質の向上を図るとともに(正徳金銀を発行)、海舶互市新例(1715年)を出して、長崎貿易を制限したので、金銀の流出が減少した。

 

 

封建体制の矛盾にいち早く気づいた8代将軍吉宗の享保の改革以降、寛政・天保の三大改革に一貫した基本政策は、農村の振興を企図した重農主義政策で共通していた。

 

質素・倹約は三大改革の共通した政策であった。

 

享保の改革

 

8代将軍吉宗は、幕府の財政基盤を強化するために、倹約令によって支出をおさえ、大名には、石高1万石につき100石を献上させる上げ米の制を実施した。

 

幕府財政強化のために、諸大名に石高に応じての上げ米を命じた。

 

徳川吉宗は、享保の改革において、大名に対し上げ米を命じて幕府の収入を増やしたほか、飢饉に備えるための甘藷や櫨(はぜ)などの新しい作物の栽培を奨励した。

上げ米は大名に1万石につき100石の米を上納させる代わりに参勤交代の江戸滞在期間を半減させるものである。幕府の財政窮乏を救うために諸大名に出した、

 

また、定免法をとりいれて農民の年貢負担率を引き上げ、年貢の増徴を図った。

これまで検見法によって決められていた年貢率を、収穫の平均値で一定にする定免法を採用して、年貢の引き上げを図った。

 

金銭の貸借関係の訴訟は、当事者間で解決せよという相対済し令を出し、裁判事務の促進を図った。

徳川吉宗は、享保の改革において、裁判や刑罰の基準となる公事方御定書を作り、足(たし)高(だか)の制で人材の登用を図った。

足高の制は人材登用制度で、家格の高い職に就いた時、在職期間のみ石高を増す制度である。

 

吉宗は商業政策にも力を入れ、株仲間を公認した。

目安箱への投書を取り上げて、小石川養生所を設置し、病弱者や貧困者の救済を図った。

 

吉宗が、天文学や医学などの実学的な漢訳洋書の輸入を認めたことで、武士や庶民の蘭学への関心が高まった。

 

 

田沼時代

田沼意次の改革では、成長した商業資本を積極的に利用して幕府財政の強化と安定を図ろうとした。

 

問屋・仲買の商人たちの一部は、営業を独占するために株仲間という同業組織を結成し、冥加金や運常金を上納して保護を受けた。特に、田沼意次は株仲間を積極的に公認し、冥加金や運常金を収めさえて幕府財政の補いとした。

 

 

 

寛政の改革

 

学問・思想の統制を強め、朱子学を正学とし、その他の異学を昌平坂学問所で講ずることを禁じた。

松平定信は、寛政の改革において、異学の禁を発して聖堂学問所での朱子学以外の講義を禁じ、厳しい風俗統制令を出して秩序の回復に努めた。

 

江戸の石川島に人足寄場を設け、浮浪人や無宿者を収容し、職を与えるなどして治安の回復を図った。

 

老中の松平定信は、七分積金によって、飢饉・災害時に困窮した貧民を救済する体制を整えたり、困窮する旗本や御家人を救済するために棄捐令を出し、札差に借金を放棄させたりしたが、厳しい統制や倹約の強要は民衆の反発を生んだ。

七分積金で江戸の町入用(町費)の70%を積み立てさせ、貧民救済に用いた。

 

困窮した旗本や御家人を救済するため、棄捐令を出し、札差からの借金を整理させた。

松平定信は、寛政の改革において、旗本などへの貸金を札差に放棄させる棄捐令を出した。

 

 

天保の改革

 

老中の水野忠邦は、株仲間を解散させて商人の自由な営業を認めたり、人返しの法を出して農民の出稼ぎを禁止し、農村の人口を増加させようとしたが、いずれも十分な効果をあげることはできず、かえって幕府の権威の衰えを表面化させた。

 

水野忠邦は、天保の改革において、人返し令を出して江戸に流入した貧民を帰村させ、また、物価の引下げをねらって株仲間の解散を命じた。

(株仲間が物価を不当につり上げている元凶であるとして)株仲間を解散させ、自由営業を認め、商工業者を幕府の統制下に置いた。

問屋などの株仲間による独占的な営業が物価上昇の原因であるとして、株仲間の解散を命じ商人の自由な営業を認めるとともに、物価を強制的に引き下げた。

 

江戸の人返しの法を敷き、農民の江戸流入を禁じ、農村の荒廃を食い止めようとした。

人返しの法を制定し、農民の出稼ぎを禁止し、江戸への流入民を強制的に帰村させるなどして、農村の再建を図ろうとした。

 

上知(地)令を発し、江戸・大坂などの貨幣経済の発展した地域を幕府の支配下に治めようとした。

水野忠邦は、江戸、大坂周辺の大名、旗本の土地を幕府直轄地としようとしたが、大名、旗本の反発を招き、失脚した。

 

 

 

 

 

幕藩体制の下で諸藩は独立した幕政を行ったが、参勤交代や御手伝い普請など幕府の巧みな大名統制策によって財政難が早くから始まった。特産品奨励と専売制を中核とした幕政改革が各地で行われ、中期には大飢饉を契機に会津・米沢・秋田など東北諸藩が、後期になると西南諸藩が成果を挙げた。

 

幕末期に雄藩として活躍することになる西南の大藩では、例えば長州では、中・下層出身の武士が改革の主導権を握り、専売制を廃止して近代工業を育成し?(本百姓を育成したり)、財政再建に成功した。

 

尊王論は「大日本史」編纂を通して形成された水戸学などで主張されたもので、幕末には攘夷論と結びついて尊王攘夷論が説かれ、倒幕運動に影響を与えた。

 

開国思想:渡辺崋山や高野長英らの蘭学者は、モリソン号に対する砲撃事件を批判したためにに、蛮社の獄で死罪となった。

 

幕末

鎖国政策を堅持する幕府に対し、外圧はまず北方からロシアによって、次いでイギリス船の近海出没によってもたらされた。幕府は海防の必要性を認識する一方、異国船打払令を出し(1825年)、国内では蛮社の獄など蘭学者らを弾圧して、鎖国政策を強化したが、その後、アヘン戦争(1840~42年)の結果に接し外交方針の転換を余儀なくされた。

 

アヘン戦争で、清がイギリスの敗れたことが日本に伝わると、老中水野忠邦を中心とする幕府は、異国船打払令を緩和して、薪水給与令を出した。(1842年)

 

1853年に来航して日本の開国を要求したアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、翌年再び来航し、幕府に対して条約の強硬に迫り、日米和親条約を結んだ。この条約では、下田に領事の駐留を認めること、アメリカに一方的な最恵国待遇を与えることなどが取り決められた。

19世紀半ば、アメリカ合衆国のペリーは軍艦を率いて日本に来航し、江戸幕府に開国を要求した。幕府はやむなく、下田と箱館を開港することなどを内容とする日米和親条約を結んだ。次いで、幕府は、イギリスやロシアなどとも同様の条約を結び、鎖国体制は崩壊した。

日米和親条約(1854年)は、下田および箱館の2港を開港することやアメリカ船が必要とする薪水や食料を供給すること、難破船やその乗組員を救助することなどを定めたものである。

(最恵国待遇の供与、老中、阿部正弘の時)(徳川斉昭はペリー来航時に幕政に関わった)

 

幕府は、1854年、ペリー率いるアメリカ合衆国の艦隊の威力に屈して、同国の船が必要とする燃料や食料を供給すること、下田、箱館の2港を開くことなどを内容とする日米和親条約を結んだ。ついで、幕府はイギリス、ロシア、オランダとも同様の和親条約を結んだ。

 

アメリカ合衆国の圧力により、幕府は、朝廷が異議を唱えていたにもかかわらず、1858年に日米修好通商条約を結び、外国との貿易が行われるようになった。日本からは生糸が輸出されたが、外国からは、綿織物などの繊維製品や大砲などの軍需品が輸入され、貿易は輸出超過となり、国内では物価が騰貴した。

 

日米修好通商条約(1858年)は、神奈川等の4港を開港すること、通商は自由貿易にすること、開港場に居留地を設け、居留地での領事裁判権を認めることなどを定めたものである。

日米修好通商条約では、領事裁判権を認めただけでなく、関税についても、日本に税率の決定権は与えられなかった。

日米修好通商条約は、大老井伊直弼が勅許を得ずに結んだ条約である。これは神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、自由貿易のほか、治外法権、関税自主権の放棄などを内容とする不平等条約であったため国内に不満が高まり、井伊直弼は(桜田門外の変で水戸浪士らによって)暗殺された。

 

井伊直弼は、勅許を得ないまま、日米修好通商条約に調印し、続いてイギリスなどとも同様の条約を結んだ。

 

大老井伊直弼は、幕府を批判する(一橋派の)大名や尊王攘夷派の武士たちを厳しく処罰した(安政の大獄、1858~59)。

 

幕府は勅許を得られないまま欧米諸国との通商条約に調印したため、幕府に対する非難や開国に反対する運動が高まった。

尊王攘夷派は、外国との通商には反対であり、また外国船を撃破して鎖国を支持する排外的な思想であるといえる。

 

大老井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、老中安藤信正は、朝廷との融和によって政局を安定させようと、公武合体を進め、孝明天皇の妹である和宮を将軍家茂の夫人に迎えることに成功したが、坂下門外の変で傷つけられて失脚した。

 

老中安藤信正は、公武合体の政策をとり、孝明天皇の妹である和宮を将軍家茂の正室に迎えたが、これが尊皇攘夷論者の反感を招き、坂下門外の変で襲撃され、罷免された。

 

 

禁門の変は、1863年の8月18日の政変で、長州藩と急進派公家の三条実美が京都から追放されたことを契機に、1864年6月に新撰組が尊王攘夷派を池田家で殺傷した池田屋事件後に、京都に集結した長州藩が会津藩・桑名藩・薩摩藩と皇居内外で戦い、敗れた事件である。

 

幕府は、禁門の変の処罰を理由に、第一次長州征伐の軍を出したが、長州藩は戦わずに幕府に謝罪し、藩内の尊王攘夷派を抑えた。

 

土佐藩の坂本竜馬や中岡慎太郎の仲介で、1866年、薩摩藩と長州藩が軍事同盟を結んだ(薩摩藩と長州藩との間で、倒幕派を集結させるため、薩長同盟の密約が結ばれた)。

 

将軍徳川慶喜は、禁門の変後、第一次長州征伐を行い(1864年)、幕府側が有利な状況で終えたが、第二次の長州征伐は失敗し、幕府の権威は失墜した。

薩長を支援した人物は、イギリス公使パークスである。

 

徳川吉宗は、駐日フランス公使のロッシュの援助を受けたのに対して、駐日イギリス公使パークスは、ロッシュとは反対の立場に立ち、薩摩藩に接近した。イギリスとフランスの対立は、幕府と朝廷・雄藩の対立につながった。

 

15代将軍慶喜は、駐日フランス公使ロッシュの建議を受け入れ、薩摩藩の協力の下に職制や軍政の改革を行い、幕府勢力の立て直しを図った。しかし、その後、薩摩藩は長州藩と薩長同盟を結び、倒幕の意志を固めたので、慶喜は、徳川家滅亡の危機を避けるため朝廷に政権を返還した。

 

薩長両藩による倒幕計画が進むなか、15代将軍の徳川慶喜は、朝廷に大政奉還を申し入れ、この申入れは受理された。

1867年の大政奉還は、土佐藩士の後藤象二郎と坂本竜馬の尽力のもと、前土佐藩主の山内豊信が将軍慶喜に進言して受け入れられ、朝廷に示されたものである。

 

将軍慶喜は、大政奉還により政権を朝廷に返還したが、倒幕派の働きかけにより、朝廷は、王政復古の大号令を発し、天皇中心の新政府の樹立を宣言した。

 

欧米との通商条約に基づき、横浜港などが開港されて貿易が始まったが、開港直後は、綿織物を中心とする輸入額が輸出額を上回り、織物を扱う江戸の問屋を中心に、既存の特権的な流通機構が勢いを増した。?

当時、輸出したのは生糸であり、輸入したのが綿織物、毛織物である。

 

江戸時代末期、幕府は安政の5カ国条約を締結した。欧米列強との貿易が開始されたが、輸出品目を中心とする物資の欠乏や多量の金貨の一時的流出などにより、物価が急騰して経済が混乱し、攘夷運動が起こる一因となった。

 

 

明治時代

 

地租改正

甲申事変

天津条約

内閣制度発足

大津事件

日清戦争

日英同盟

日露戦争

関税自主権の回復

5・4運動

 

五箇条の御誓文を発し、公議世論の尊重と開国和親など新政府の方針を内外に示した。1968

薩長土肥の4藩主に版籍奉還を願い出させ、そのほかの藩主にも版籍奉還を命じた。1968

廃藩置県を断行し、府知事・県令を任命派遣した。1971

地租改正条例を定め、ほぼ全国に地租改正を実施した。1973

 

明治新政府は天皇を中心とする政府の樹立を宣言した(1868年3月、五箇条の御誓文)が、

旧幕府側は、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争で、抵抗を続けた。会津の落城で打撃を受けた旧幕府軍は、函館五稜郭の戦いで起死回生を図ったが、新政府軍の圧勝に終わり、これにより、新政府による国内の平定はほ

ぼ完了した。

戊辰戦争は、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで始まり、上野の彰義隊、会津落城を経て、1869年5月、函館五稜郭の戦いで終わった。

 

中央集権を進めるため、薩摩・長州・土佐の兵を御親兵として組織し、1969年に版籍奉還を断行し、旧藩主を知藩事に任命して領地・領民を直接支配下に置いた(引き続き旧藩を統治した)。政府の実態はあまり変わらなかった。

1869年の版籍奉還で、旧藩主や公卿が華族に、藩士が士族になり、家禄が支給され、旧藩主がそのまま旧領地の知藩事に任命されていた。

 

明治4年(1871年)の廃藩置県では、知藩事が政府から罷免され、(下級武士から)中央政府から府知事・県令が派遣された(任命された)。全国は3府(東京、大阪、京都)72県に分けられた。その一方で、廃藩置県の混乱を避けるために、旧藩主と家臣には家禄が支給された。

 

 

明治政府は、中央集権体制の確立をめざし、薩長土の3藩の兵を御親兵として編成し、軍事力の整備に乗り出した。さらに、全国の要地に鎮台を設置し、徴兵令を公布して士族・平民を問わず満20歳以上の男子に兵役の義務を課した。

 

兵制の統一と近代化を図るため、徴兵令を公布して、全国民から徴兵した兵士で軍隊を組織した。

1871年に徴兵令を公布し、士族・平民を問わず満20歳に達した男子はすべて兵役に入ることを義務づけたが、一定額以上納税した者(戸主・嗣子・官吏・学生や代人料270円を納めた者)はその義務が免除されたため、実際兵役に就いたのは、多くが、農民の次男以下であった。

 

四民平等を実現するため、士農工商の身分制度を廃止したが、すべての人を平民としたのではない。身分制度を改めて、国民を華族・士族・卒族・平民とし、さらに卒族を士族と平民に分割し、華族(公卿・大名)・士族(武士)・平民(農工商)の3種類に整理した。四民平等をたてまえとしたが、依然として華族や士族は平民と比べると特権身分であった。

 

士農工商の身分を廃止し、四民平民とするとともに、1871年には被差別民であったえた・非人の称を廃止する賎称廃止令を出し、身分・職業とも平民と同等であるとしたが、被差別民に対する社会的差別は依然として残った。

 

 

明治新政府の成立当初の財政は、旧幕府領からの年貢を主体としていた。廃藩置県による全国の統一権を一手に握った後も、税制にはまだ着手していなかったため地租改正まで政府の財政は不安定であった。

 

政府の歳入の90%以上が地租によるものであり、地租改正によって豊凶を問わず一定の歳入が確保されたので、財政は安定した。

 

明治新政府は、地租改正に際しては、従来の政府の歳入額を減らさないことが最優先されたので農民の負担は相変わらずであった。税率を地価の100分の3と定めて地租の金納化を採用した。しかも、地租が金納になっても、小作人が地主に納める小作料は物納のままであったので、農民による地租改正反対一揆が各地で起こり、政府は1877年に地租を2.5%に引き下げた。

 

地租改正は地主に有利に働き、高額の小作料を納入する小作人の負担は一向に減らなかった。

 

1873年に行われた地租改正では、地価を定めて地券を発行し、地価の3%(後に2.5%)を土地所有者(地主・自作農)が金納するものであった。

全国的に土地測量を進め、地券を交付することによって課税対象者である土地所有者を確定し、また、安定的な税収を確保するため、課税基準を従来の収穫高から法定地価に改めた。

 

明治6年(1873年)、政府は、地租改正条例を公布し、年貢の代わり地租として全国同一の基準で、豊凶にかかわらず一律に貨幣で徴収できるようにしたことから、租税制度が整備され財政の基礎が固まった。

 

 

 

 

財政の近代化の基礎として政府は地租改正を行った。これは課税基準を地価に置いて税収の安定を図ったもので、土地所有者が納税者となった。米価の高騰により地主の利益が高まった。

 

明治新政府の行った地租改正事業は、数年に及ぶ大事業であった。これにより、農民の私的土地所有が認められ、資本主義へ移行する基礎ができあがった。地租改正により、土地を所有しながら小作人に耕作させる寄生地主制度が発達していった。

 

 

明治維新後、政府はすべての国民が自分の身をたてられるよう教育することを目標に、フランスをはじめとする諸外国の学校教育制度をとりいれた学制を公布したが、画一的で地方の実情に合わない点もあり、その後、改革が繰り返し行われた。

 

明治5年(1872年)にフランスの学校制度をとり入れた学制が公布されたが、国民生活の負担が大きいことなどの理由から、不満を抱く国民も現れ、学制反対一揆が起こり、明治12年(1879年)の教育令で廃止された。

1879年にはアメリカの教育制度を参考にして、学制が改正された。

 

国民皆学を理念とする教育の普及を目指し、学校令が制定され、国家主義的色彩が強い教育方針が打ち出された。大学区、中学区、小学区が設置され、特に小学校の設置が強化された。学制が実施された1872年当時は直ちに義務教育になっていない。

 

 

 

政府は、蝦夷地を北海道と改称して(1869年)直ちに国の機関として、北海道開拓使をおき、大規模な開拓を進めるため、屯田兵制度を開始し(同年)、札幌農学校を設置した。

 

明治時代には、新貨条例が制定され(1871年)、十進法による円・銭・厘を単位とする新貨幣が発行された。

 

政府は、新貨条例を定め(1871年)、円・銭・厘を単位に新硬貨を鋳造し、金本位制の確立を目指したが、当時の貿易は銀貨が中心であり、貨幣制度は、事実上、金銀複本制であった。

(幕末以来の外国貿易で金の流出が著しく、当面は銀も併用しての金銀複本位制とせざる得なかった。)

 

政府は国立銀行条例を定め(明治5年、1872年)、これに基づき、渋沢栄一が中心となって多くの民間銀行が設立されたが、(兌換銀行券が流通せず)銀兌換制の確立までは至らず、国立銀行は不振に終わった。。

東京に第一国立銀行、横浜に第二国立銀行、新潟に第四国立銀行、大坂に第五国立銀行の4行が設立された。民間の国立銀行が設立された。国立銀行は、アメリカのNational Bankを手本にしたものであり、国営の意味ではなく、国法で設立された民間銀行のことである。

通貨不足から米価が下落し、地租改正反対一揆が生じ、政府は国立銀行による統一的な貨幣供給政策を確立するため、1876年に国立銀行条例改正を行った。

むしろ、その後の財政困難に対処するためにむしろ不換紙幣の発行が認められるようになり、インフレが激化した。これに対処するために、1882年に唯一の発券銀行としての日本銀行が設立され、1885年から銀兌換による兌換銀行券を発行も始まった。

 

明治9年(1876年)、政府は、増大する政府支出を削減するため、家禄や戊辰戦争の功績に対して支給していた賞典禄(両者を合わせて秩禄)を、金禄公債証書を交付することによって廃止したが、華族・士族制度そのものは廃止しなかった。

政府は、明治6年(1873年)、増大する政府支出を削減するため、秩禄奉還の法で、家禄や戊辰戦争の功績に対して支給していた賞典禄(両者を合わせて秩禄)の償還希望者に一時金を支給うしたが、秩禄奉還が進まなかったため、明治9年(1876年)に金禄公債証書(秩禄の数年分の額の公債)を交付し、強制的に奉還させた。これにより、華族・士族の禄制が全廃されたが、華族・士族制度の廃止は第二次世界大戦後である。

 

 

政府は、軍事上の必要から、鉄道整備を民営ではじめ、1872年に新橋・横浜間にわが国初の鉄道を開設した。鉄道国有法が制定されるのは日露戦争後の1906年のことである。

 

政府は、軍事工場を直接経営する一方、民間の近代産業の育成のため、軽工業の分野から官営とし、(模範工場の建設を開始)、富岡製糸場などの模範的な工場を設立させた。

その後の松方財政の下で、財政赤字の軽減のために官営工場の多くが政商や財閥などに払い下げられていった。

 

産業育成のため軽工業分野にも官営の富岡製糸工場などを設立した。

 

紡績業では、渋沢栄一により創立された(民間の)大阪紡績会社が、1883年に操業を開始(成功)すると、機械紡績が中心となり、機械制生産が急増した結果、手紡、水車による紡績機のガラ紡など従来の綿糸生産は衰退していった。

 

富国強兵をめざして殖産興業に力を注ぎ、幕府や諸藩が経営していた横須賀造船所、佐渡金山、東京砲兵工廠などを接収して、官営として運営された。

 

いわゆる松方財政のときに、近代的な金融・銀行制度が日本銀行の創立と兌換銀行券の発行で確立された。一方で官営事業の払い下げ政策によって、政商と呼ばれる資本家が育成され、資本主義経済の基盤が整った。

 

 

明治時代には、当初、民間鉄道会社の手によって、交通機関の整備が進められ、明治5年に新橋と横浜の間に我が国で初めての鉄道が開通した。その後、官営鉄道として東海道線、民営の日本鉄道会社や山陽鉄道会社により、東北線や山陽線などの建設が進められた。しかし、日露戦争後の1906年に鉄道国有法により国営化されていった。

 

鉄道業は、日本最初の民営鉄道会社が1881年に創設され成功すると、民営鉄道がつぎつぎと建設されたが、軍事、経済上の必要性から1906年に鉄道国有法が公布されると、民営鉄道が買収されて国有化された。

 

海運業では、三菱会社と共同運輸会社との合併によって設立された日本郵船会社がボンベイ航路(1893年)や欧米航路(1896年)などの海洋定期航路を開設した。

共同運輸会社は、1882年に品川弥ニ郎、渋沢栄一らによって設立され、開業した半官半民の海運会社で、三菱会社との競争激化から、政府に合併を勧められ、1885年に三菱会社と合併した。

 

 

西南戦争の戦費を得るために大量に発行された不換紙幣による物価高騰を抑えるため、明治政府では、大蔵卿松方正義によって、財政再建(緊縮財政政策)が進められたが、急激な物価下落がもたらされた。

重税と不換紙幣回収によってデフレーションが発生し、農産物価格が下落したため農民の階層分化が促進され(それに伴う不況が農村を襲って多くの農民が没落した)、大地主の下に土地が集中して寄生地主制が成立した(松方正義によって行われた松方財政)。

 

松方財政では、西南戦争時に多額の紙幣を発行した結果引き起こされたインフレを収束すべく、軍事費以外の歳出を切り詰めるなどのデフレ政策を行った。しかし、結果として米価が低下し、中小地主の中には土地を切り売るはめになり、没落して小作農になる者もいた。

 

財政改革(松方財政)に伴う深刻な不況に中で困窮した農民は、急進的な自由党員と結びついて、福島・群馬・秩父など各地で実力行動を起こした。

 

 

樺太・千島交換条約(1875年)は、それ以前に結ばれた日露和親条約においては、樺太は日露両国人の雑居地とし、それ所属が不明確であったことから、ロシアの樺太領を認めるかわりに千島全島を日本領土にすることとしたもので、これにより北方の領土問題は解決した。

北海道開拓使次官の黒田清隆の意見により、榎本武揚が交渉にあたり、1875年樺太・千島交換条約を結んで、樺太をロシア領、千島列島を日本領とした。

 

 

江戸幕府下で締結されたアメリカ合衆国との不平等条約の改正を目的に、いわゆる岩倉使節団が派遣されたが、具体的な成果を得られず、欧米の事情を視察しただけで帰国した。

 

西郷隆盛が板垣退助らととも、武力を行使し朝鮮に開国を迫る征韓論を主張し、征韓派は明治6年の政変で一斉に下野した。その後、江藤新平が佐賀の乱、西郷隆盛は西南戦争を引き起こした。

 

征韓論の中心人物であった板垣退助や江藤新平らは、明治6年の政変に敗れて西郷隆盛と同様に政府を去って(参議の職を辞して)、明治政府に対する批判を強めた。

西南戦争は秩禄処分や廃刀令への不満、征韓論の敗北によって政府に不平をもった士族が1877年に西郷隆盛を擁して起こした戦争である。

西南戦争とは、鹿児島の私学校生を中心として士族が西郷隆盛を擁して起こした反乱であり、この反乱は、激戦の末、徴兵制による政府軍によって鎮圧され、この乱を最後に不平士族による反乱は収束した。この戦争は徴兵軍の力により1年足らずで平定された。時代はこの後、言論による政府批判、すなわち自由民権運動の時代に入る。

 

 

明治維新の改革で、士族の多くは、かつての身分的な特権を喪失し、経済的にも困窮したために、不満を強めていった。この不満の高まりを背景に、板垣退助らは政府批判を行い、民撰議院設立の建白書を提出した。

板垣退助や後藤象二郎らは、藩閥政府を非難し、すみやかに民撰議院を開設し国民を政治に参加させるべきだとする民撰議院設立建白書を政府に提出した。

 

自由民権運動は、士族を中心に進められ、国会期成同盟が結成されるなど各地でさまざまな展開をみせた。豪農民権とも呼ばれる地主層や商工業者の間にも自由民権運動が広がり発展していった。

 

黒田清隆が起こした開拓使官有物払下げ事件などを契機に高まった政府を批判を抑えるために、参議の伊藤博文を中心とした政府は、国会の開設を公約する国会開設の勅諭を発布した。

 

国会開設の勅諭が出された後、明治政府から追放された大隈重信を党首とし、イギリス型議会政治の実現を主張する立憲改進党が結成された。

 

政府は、自由民権運動に対し、集会条例などで言論の統制・弾圧を行った。その一方で、政府は、世論を抑えるため、国会開設の勅諭を出し、伊藤博文を中心に憲法制定の準備を進めた。

 

自由民権運動が進む中、各地でそれぞれが理想とする憲法案(私擬憲法)が作成されたが、政府は、憲法制定に当たり君主制の強いドイツの憲法を模範とした。

 

植木枝(え)盛(もり)は、主権在民の立場から基本的人権の保障や政府の不法に対する人民の抵抗権と新政府を建設する革命権を認めた急進的な憲法試案「東洋大日本国国憲按」を起草した。

 

大日本帝国憲法が発布されたことにより、わが国はアジアで初めての近代的立憲国家となった。この憲法で、天皇は国の元首として位置づけられ、広範な権限を有するとされ、招集権や解散権などの議会に対する権限もあった。

 

明治政府は近代国家樹立をめざし、プロシア(ドイツ)の憲法制度を範として大日本帝国憲法を制定した。これは欽定憲法で、天皇に大権を認めた。自由民権運動は、憲法制定までに沈静化した。

 

明治政府は、憲法制定のため、伊藤博文を中心に藩閥・軍閥・官僚などの中から勅撰されたメンバーで構成された枢密院という機関が設けられた。この枢密院は、憲法制定後も天皇の諮問機関として1947年の日本国憲法制定まで存続した。

 

1898年に大日本帝国憲法が制定された後で、翌年に帝国議会が召集された。

 

明治期において、衆議院議員選挙の選挙権は、直接国税を一定額以上納めていた者に制限されていた。そのため、当時の有権者は全人口の1~2%程度であった。

 

政府は、第2回の衆議院議員選挙に際して、警察などを動員して、民党の候補者の選挙活動を暴力的に妨害するなど、選挙干渉を全国的に行った。しかし、第1回に続いて第2回総選挙においても民党が過半数の議席を占めた

 

最初の頃の選挙は納税額に基づく徹底した制限選挙だったので、有権者の割合はきわめて低かった。有権者は全人口の20%を超えるのは、1925年に加藤高明内閣の下で、25歳以上の男子の普通選挙が実現してからの話しである。

 

憲法発布直後、黒田清隆首相は、政府の政策は政党の意向に左右されてはならないという超然主義の立場を声明していたが、わが国で初めての衆議院議員総選挙では、旧民権派が大勝し、第一回帝国議会では、立憲自由党など反藩閥政治の立場をとる民党が衆議院の過半数を占めた。

 

第一回帝国議会(第一議会)が開かれると、山県有朋首相は、朝鮮半島を「利益線」としてその防衛のために軍事費を拡大する予算案を提出して、これを成立させた。しかし、次に第二議会では、政費削減・民力休養を主張する民党に攻撃され、予算案を成立させることができず、松方正義内閣は衆議院を解散した。

 

 

明治政府は、清国との間に最初の条約である日清修好条規を締結したが、相互の関税率最低、領事裁判権、開港が約束された。

 

日朝修好条規は、江華島事件を機会に結ばれ、釜山等3港の開港と、日本の領事裁判権や関税の免除などをみとめさせた、日本にとって有利な条約であった。

明治政府は、江華島事件を契機として、朝鮮に開国を迫り日朝修好条規を締結し、、日本の領事裁判権や関税免除の特権、釜山・元山・仁川の開港を認めさせた。

 

明治政府は、台湾に漂着した琉球漁民が殺害された(1871年)ことを発端に、台湾に出兵した(1874年征台の役)。この結果、日本はイギリスの調停により、清から琉球を日本領とする承認と賠償金を得た。

 

明治政府は、朝鮮国内で発生した東学党による農民反乱(1894年、減税と排日を求める)による混乱を鎮圧するために、出兵したことにより(日清両軍が出兵し)、日清戦争の契機となった。

 

明治政府は、甲申事変において(1884年)、朝鮮国内の改革を図る金玉均(ぎょくきん)らを支援したことにより、清国との軍事的な対立状態に陥ったが、後に清国と天津条約を締結し、日清関係を一時的に修復した。

 

日清戦争の前後にわたり、政党は一貫して政府の軍備拡張に反対していたわけではなく、第二次伊藤内閣(1892~96)の頃から、自由党は、従来の民力休養論、つまり、行政費を節約して地租軽減・地価修正を要求するのではなく、政府と協力して地方開発予算を獲得して選挙区に還元していこうとする「積極政策」に転換して伊藤内閣に接近した。その結果、板垣退助は内相として入閣させ、軍備拡張予算を成立させている。

 

政党側は、合同して衆議院に絶対多数を持つ憲政党を結成したため、伊藤内閣は退陣し、かわって我が国で初めての政党内閣である大隈重信内閣が成立した(隈板内閣 1898.6~10)。

 

大隈重信を首相、板垣退助を内務大臣とし、陸・海軍大臣のほかはすべて憲政党員で組織したわが国最初の政党内閣(隈板内閣)は成立したが、旧自由党系と旧進歩党系の対立もあって、短期間に瓦解した。

大隈重信の進歩党と板垣退助の自由党が合同して結成された憲政党により隈板内閣が組織された。、

 

初の政党内閣は、内部分裂によりわずか4カ月で倒れ、かわって第二次山県内閣が成立した(1898.11から1900.9)。山県内閣は、政党の弱体化を機に、政党に力が軍部に及ぶのを阻むために、(軍部大臣を現役の大将・中将に限る)軍部大臣現役武官制を新たに制定した。また、文官任用令を改正し、大臣・知事・公使などの親任官以外の高級官吏は、高等文官試験の合格者とするようにして、これまでの自由任用から資格任用に変更した。

 

 

安部磯雄、片山潜らは、軍備の縮小・貴族院の廃止、普通選挙の実施などを唱えて、1901年に社会民主党を結成したが、治安警察法によって解散を命じられた。

 

 

日英通商航海条約は、日清戦争の直前に結ばれた。陸奥宗光はイギリスとの日英通商航海条約を結ぶことによって治外法権(領事裁判権)の撤廃と関税自主権の一部回復に成功した。

 

日清戦争が近づくと、民党は確かに軍事費削減を主張したが、これは「民力休養・政費節減」の理念に基づくものであり、戦争そのもの是非を問うたわけではなかった。

 

 

朝鮮南部で東学党を信仰する団体を中心とする農民反乱が起こると、清国は朝鮮政府の要請を受けて出兵し、日本も対抗して出兵したため、日清両国は対立を深め、戦争が始まった。

 

日清戦争は、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こったことから、清国が朝鮮政府の要請を受けて朝鮮に出兵し、日本もこれに対抗するため出兵して朝鮮王宮を占拠し?、清国艦隊を攻撃して?始まった。両国がにらみ合いとなり、

 

戦争は日本の勝利に終わると、下関条約が締結され、清国は、朝鮮の独立承認や遼東半島・台湾の割譲、賠償金の支払いなど日本側の要求を承認した。

 

日本政府は、日清戦争で得た賠償金を準備金として、1897年に貨幣法を公布して金本位制を確立するとともに、同年、官営八幡製鉄所を建設して重工業の基礎である鉄鋼の国産化を推進した。

 

下関条約は、日清戦争講和のための条約である。政府はこの条約により朝鮮から得た賠償金をもとにして、金本位制を確立するとともに、八幡製鉄所を建設して鉄鋼の国産化を図った。

 

金融の安定と貿易の発展を図るため、明治政府は、日清戦争の賠償金を準備金として金本位制を確立(1897年)した。これによって資本主義が本格化し、政府の助成・監督のもとで特定の分野に資金を供給する、横浜正金などの特殊銀行が設立された。

 

重工業では、鉄鋼の国産化を目的として、日清戦争の賠償金などをもとに建設された(1897年)官営の八幡製鉄所が、清国の大冶(だいや)鉄山の鉄鉱石(と筑豊炭田の石炭)を使用して、鉄鋼の生産を開始した(1901年)。国産の鉄鋼を生産した。

 

下関条約では、清が遼東半島を割譲することを定めたが、その後、ロシア・ドイツ・フランスの3国がその返還を求め、日本はその要求を受け入れた。

 

清国は、下関条約で、朝鮮の独立と、遼東半島および台湾・澎湖諸島を日本に譲ることを認めたが、ロシア・ドイツおよびフランスが遼東半島を清国に返還するよう要求したことから、日本は、遼東半島の返還を受け入れた。

 

 

日清戦争で勝利したわが国は、下関条約を結び大陸進出の足場を固めようとした。これに対し、中国東北地方への進出をねらっていたフランスを中心に、ロシアとドイツが連合して、わが国に割譲された清の領土の返還を要求したため、日本は、日清戦争直後であり、余力があまり残っていないことを理由に三国干渉を受けいれた。

 

ロシアが朝鮮への影響を拡大しようとしたため、わが国と激しく対立し、日露戦争が始まった。ロシアの南下政策は、日本にとって朝鮮半島への脅威であった。

イギリスにとっては、西アジアやインド北辺でロシアと対立していたため、1902年に日英同盟が結ばれた。日露戦争は1904年。

 

北清事変をきっかけにロシアが満州を占領し、その後も撤退せず、朝鮮半島にも勢力を伸ばす動きを示したので、日本もロシアの南下政策を阻止するために、日英同盟を成立させた。

 

日本は、北清事変の鎮圧後もロシアが満州を占領し撤退しなかったことから日英同盟を結び、日本とイギリスは、清国におけるイギリスの権益と清国および韓国における日本の権益とを相互に承認した。

 

日露戦争は、日本の仁川沖の奇襲で始まり、日本は多大な損害を出しながらも旅順や奉天で勝利し、日本海海戦で(東郷平八郎率いる日本の連合艦隊が)バルチック艦隊を壊滅さえて劇的な勝利を得た

 

日露両国は、アメリカ合衆国大統領セオドア=ルーズベルトの仲介で、ポーツマス条約を結び、ロシアは韓国に対する日本の指導権を認め、旅順・大連の租借地や樺太南半分の日本への譲渡などを承認した。

 

ポーツマス条約において、日本は旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道と付属の利権を獲得し、山東半島のドイツ権益を継承した。

 

ポーツマス条約は、日露戦争後の講和会議の結果結ばれ、ロシアが韓国に対する日本の指導を認め、樺太の北緯50度以南の領有権を日本に譲るものであった。

 

この条約では、賠償問題で行きづまり、日本側はロシアから賠償金を得られないままに終わった。このため、この内容に不満を持つ暴徒が日比谷焼打ち事件を起こした。

 

 

ポーツマス条約は、日露戦争に勝利した日本がアメリカ合衆国のセオドア・ルーズヴェルト大統領の調停により締結した講和条約である。

 

日露戦争後、藩閥勢力が天皇を擁して政権独占を企てているという非難の声が高まり、尾崎行雄(立憲政友会)、犬養毅(立憲国民党)らが、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる第一次護憲運動が起こった(「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに、桂内閣打倒の国民的運動を起こしたのが第一次護憲運動である)。

 

 

明治時代には、日清・日露戦争を経て、それぞれ第一次産業革命と第二次産業革命を達成され、金本位制の確立と条約改正が、日本の貿易を促進させた。大正時代には、ヨーロッパ市場に大量の日本商品が進出して輸出超過となり、経済は活況を呈した。

 

明治政府は欧米諸国と対等・平等の同盟関係をつくるため、不平等条約を改正しようと、特命全権大使?(欧米使節団の代表)を岩倉具視、副使を木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らとする使節団を欧米に派遣したが、条約改正の交渉をは最初の訪問国アメリカ合衆国で不成功に終わった。

 

井上馨が条約改正達成のために、欧化政策をとり、鹿鳴館で外交団と日本の上流階級による舞踏会を開いたことは、いわゆる大同団結運動によって憲法制定と対等な条約の締結を目指す当時の自由民権運動からの反発を受けた。

 

外交の近代化に不可欠な不平等条約の改正は難航した。治外法権の撤廃は、1894年の日清戦争の直前に、陸奥宗光により実施された。関税自主権の回復は、1911年外相小村寿太郎によって実施された。

 

日英通商航海条約は、陸奥宗光外相の交渉により調印され、これにより、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復、最恵国待遇の相互平等が達成された。

陸奥宗光外相は日本の国力の充実を背景に相互対等を原則として交渉を進め…。

 

小村寿太郎外相が1911年に日米通商航海条約改正に調印して、日本の関税自主権の完全回復が達成された。

 

 

第一次世界大戦中、造船業・海運業は活況を呈し、いわゆる船成金が続出したが、戦後(1927年)は金融恐慌が発生するなど不況が続いた。

また、全国各地で困窮した民衆による米騒動が発生した。

 

金融恐慌では、震災手形の整理の中で、多くの銀行の経営悪化が表面化した。中小銀行では取付け騒ぎが起こって預金が引き出され、大銀行へと移された。このため大銀行の支配力が強まった。

 

わが国とアメリカは、第一次世界大戦ではそれぞれ連合国側として参戦し、中国における両国の権益に関する協定を結んだ(石井ラシング協定)。さらに、大戦中に起こったロシア革命の波及を恐れ、共同でシベリアに出兵した。

 

第一次世界大戦が始まると、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦し、中国の山東省に出兵してドイツ租借地を占領した。その後、袁世凱政権に対して、山東省におけるドイツ権益の継承などを内容とする二十一カ条の要求を突き付け、その大半を認めさせた。(第二次大隈内閣のとき)

 

日本は、中国の袁世凱政府に二十一カ条の要求(1915年大正4年)の大部分を承認させ、権益の拡大を図った。

 

日本は、日本の中国権益の拡大に対する列強の反感を緩和するため、ロシアと第四次日露協商(1916年7月)を締結して、極東における両国の特殊権益の擁護を再確認した。

 

日本は、アメリカと石井・ラシング協定を締結し(1917年)、中国の領土保全・門戸開放と、日本の中国における特殊権益の承認とを確認し合った。

 

 

イギリスがドイツに宣戦すると、日本も日英同盟を理由に、ドイツに宣戦し、中国におけるドイツの根拠地青島を占領した。

 

原敬内閣は、1919年、第一次世界大戦後のパリでの講和会議に西園寺公望を全権として派遣した。

 

アメリカ合衆国は、1921年、海軍の軍備縮小及び極東問題を審議するため、ワシントン会議を招集した。会議では、日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランスによって四カ国条約が締結され、太平洋の諸島嶼に関して現状維持が合意された。9カ国条約では、中国の領土と主権の尊重、中国における各国の経済上の機会均等などが約束された。

 

シベリア出兵

ロシア革命が起こると、国内への共産主義の波及を恐れたわが国は、1918年8月に、チェコ軍救援を名目として、アメリカ、イギリス、フランスとともにシベリアに出兵した。

 

シベリアに出兵は、第一次世界大戦の作戦の一つとして実施されたが、日本だけが1922年まで、駐留し(ソ連国内に留まり、国際的に非難された。

 

また、シベリア出兵は日本国内でも米騒動、寺内内閣辞職、原敬内閣成立とつながる政治変動を引き起こした。

 

 

第一次正解大戦後、日本は国際連盟の常任理事国になり、ワシントン海軍軍縮条約や、不戦条約に調印した。

 

原内閣は、1918年、最初の非華族首相として、外・海・陸相を除く全閣僚が立憲政友会となる本格的な政党内閣を組織した。ベルサイユ条約の調印や高等教育普及政策などを推進したが、21年に暗殺された。

 

第3次桂太郎内閣は、もっぱら貴族院や軍部の意見をとり入れ衆議院の政党勢力を軽視したので、国民の間に憲政擁護運動が起こり、退陣に追い込まれた。この後、海軍大将の山本権兵衛が内閣を組織した。

 

国民の間に憲政擁護運動が起こり、尾崎行雄、犬養毅、第三次桂太郎内閣が退陣に追い込まれた。

 

尾崎行雄らの政治家と新聞記者、全国の商工会議所の実業家らは憲政擁護会を組織し、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに内閣退陣を迫る運動を起こした。

 

 

大正デモクラシー

 

政治学者の吉野作造は、天皇制の下における民主主義(民本主義)の確立の必要性を説き、普通選挙の実現や議院内閣制の確立を主張し、思想界に強い影響を与えた。

 

1923年、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)の暗殺未遂事件が虎の門で発生し(虎の門事件)、第2次山本権兵衛内閣が総辞職した。

 

1924年、貴族院を背景に成立した清浦圭吾内閣の出現に対して、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部が第二次護憲運動を展開した。

 

第二次護憲運動の後、成立した加藤高明内閣は、普通選挙に対する国民の要望を受けて、普通選挙法を成立させ、25歳以上の男子のすべてが衆議院議員の選挙権をもつこととした。

 

これ以後、衆議院の多数党の総裁を首相とする政党内閣制が憲政の常道として慣行となった(1932年まで)。

 

加藤高明内閣は、普通選挙法を制定し、満25歳以上のすべての男子に衆議院議員の選挙権を持たせるとともに、治安維持法を制定して国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社の組織者と参加者を処罰することとした。

 

護憲三派内閣によって普通選挙法が成立(1925)し、これによって、衆議院議員の選挙権に関する納税額による制限は全廃され、有権者は一挙に約4倍に増加した。

 

市川房枝らによって、新婦人協会が結成され(1920年)、また、山川菊栄ら社会主義者による赤瀾会が結成され、女性の政治活動への参加や選挙権獲得をめざした活動が展開された。

 

加藤高明内閣の幣原喜重郎外相は、欧米列強とは協調外交を基本とし、日ソ基本条約で対ソ国交を実現した。

 

 

 

昭和時代

 

昭和時代に入ると、日本経済は金融恐慌(1927年)に引き続く世界恐慌(1929年)の波及により慢性的な不況に陥った。その後、金解禁(1930年)を契機に、金が流出したため、1931年に再禁止した。(金解禁は、金融恐慌や世界大恐慌に巻き込まれて金が流出したため、)昭和初年代の日本はきわめて深刻な不況に苦しんだ。

 

(1929年に就任した)浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相は、わが国の経済を再建するために、(金解禁を断行し)、緊縮財政政策をとって物価を引き下げ、企業整理・経営の合理化によって国際競争力を強め、輸出を増進させる方針をとった。

 

(1931年に)犬養毅内閣の蔵相に就任した高橋是清は、金輸出を再禁止し、財政支出を赤字国債でまかなうという積極財政策を押し進めた。

 

 

 

中国の在留日本人の保護を名目に日本政府は、1927~28年(昭和2~3年)に3次にわたる山東出兵を行い、田中義一内閣は、満州軍閥の張作霖を支援した。日本は第2次山東出兵の際、国民革命軍の指導者蒋介石率いる北伐軍と武力衝突した(1928年済南事件)。親日的態度を示していた張作霖が国民革命軍に敗れると、関東軍は奉天郊外で張作霖を爆殺した(1928年満州某重大事件)。張作霖の後を引き継いだ張学良は父親の爆殺後、蒋介石に近づき、反日路線をとった。

 

北伐で追い詰められた張作霖は、北京を放棄して東北へ逃げ延びる途中で、日本軍の陰謀で爆殺された。

 

関東軍は1928年、満州軍閥の張作霖を爆殺した。この事件の真相は国民には知らされなかった。当時、満州某重大事件とよばれたこの事件の真相は国民には知らされなかった。田中義一内閣は、この事件の処理で軍部と対立し、十分な真相究明と処分がなされないまま総辞職した。田中義一内閣は、真相を知った後、関東軍の首謀者の責任追及ができないまま、天皇の信任もなくなり総辞職に追い込まれた(1929年7月)。

 

1927年に成立した田中義一内閣の時、最初の普通選挙による衆議院議員選挙が実施された(1928年2月)。

 

柳条湖事件(1931)⇒満州事変

盧溝橋事件(1937)⇒日中戦争

 

1931年に成立した第2次若槻礼次郎内閣では、中国に対する不拡大方針をとったが、関東軍はこれを無視して占領地を拡大した。

 

満州経営を計画していた石原莞爾らは南満州鉄道爆破事件を起こし、これを中国軍のしわざとして軍事行動を開始し、満州事変が始まった。対米英協調を外交の基本政策とする若槻礼次郎内閣は不拡大方針を発表したが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、また、世論も軍の行動を支持した。

 

 

満州事変の翌年(1932年)に日本は、清朝最後の皇帝であった宣統帝溥儀を執政として満州国を建国し(満州は独立国という体裁をとった)、中国大陸進出の重要な拠点とした。

 

満州国を建国して日満経済ブロックの形成がめざされ、半官半民の移民が大陸を渡った。当時は昭和恐慌における不況が甚だしい時期であった。

 

ロンドン海軍軍縮条約は、浜口内閣が調印した条約で、軍部は天皇の統帥権を犯したものであるとして非難した。浜口雄幸内閣では外相の幣原喜重郎のもとに協調外交を進めており、緊縮財政の目的もあって同条約に調印した。

 

五・一五事件では、海軍士官らの一団が首相官邸を襲撃して犬養首相を殺害したが、この事件後、挙国一致内閣が成立し(海軍大将だった斎藤実、次いで岡田啓介)、(加藤内閣から続いた)政党内閣の時代は終わった。

 

 

5・15事件などの軍事クーデターが相次ぎ、次第に陸軍統制派が政治の実権を握るようになり、1940年には政党はすべて解散され、大政翼賛会に統合された。

(陸軍皇道派は、満州事変以降に勢力が衰え、1936年の2.16事件に失敗してからは統制派が陸軍の主流となった。)

 

北一輝の思想的影響を受けた陸軍の青年将校らは、「天皇親政」、「国家改造」をスローガンとして、二・二六事件を起こしたが、すぐに鎮圧された。1936年、事件後の広田弘毅内閣では軍部大臣現役武官制が復活した。

 

軍部によるクーデター的な動きとして、1932年(昭和7年)に五・一五事件、1936年(昭和11年)に二・二六事件が起きた。五・一五事件の首謀者であった海軍青年将校らは、裁判で無期懲役以下の軽微な処分を受けたが、二・二六事件の首謀者である陸軍青年将校らは、軍法会議で裁かれ、17名に死刑判決が下された。

軍部統制派の力が強まっていった。

 

 

斎藤実内閣は、1932年に日満議定書を取り交わして満州国を承認したが、1933年の国際連盟総会において、満州における中国の主権を認める勧告案が採択されると、国際連盟脱退を通告し、独自の満州の経営に乗り出した。

 

天皇機関説は、東京大学教授の美濃部達吉によって唱えられたが、貴族院がこの説を国体に反するものとして非難し、天皇機関説事件が起きた。天皇機関説事件は、主権の主体を国家とし、天皇を国家の最高機関とする説。

 

1936年に、首相に就いた外交官出身の広田弘毅は、陸軍の要求を採り入れ、現役の大将・中将以外は陸軍・海軍大臣にはなれない軍部大臣現役武官制を復活させ、軍部の政治への影響力が更に増大していった。

 

 

近衛文麿内閣は、1937年の盧溝橋事件に始まる日中戦争について、当初は不拡大方針に基づき中国政府との和平交渉を試みたが、半年も経たないうちに交渉は行き詰ったため、「国民政府を相手とせず」として、1938年1月に第一次近衛声明を発して和平交渉を打ち切り、正式な宣戦布告をしないまま中国との戦争を続けた。

 

近衛文麿内閣は、第二次世界大戦が始まると、国家総動員法(1938年)を公布して、政府が議会の承認なしに物資を軍需のために優先的に運用統制できるようにした。

国家総動員法は戦時統制経済を確立するために出された法律で、これを受けて国民徴用令、価格統制令、賃金統制令などが出された。

 

 

満州国を建設し中国大陸に進出した日本は、1939年5月、南進政策をとるソ連とノモンハンで軍事衝突したが、日本軍は、ソ連軍の圧倒的な火力・機動力により、壊滅的な打撃を受けた。同年8月に、同盟国ドイツとソ連が、独ソ不可侵条約を結んだこともあり、9月には停戦協定を結んだ。

 

東条内閣は、44年にインドへの侵攻作戦であるインパール作戦を開始したが、インパール(インド領の要塞)へ日本軍は進撃したが、イギリス・インド軍に大敗した。

 

日中戦争が長期化したのを打開するため、我が国がフランス領インドシナに進軍したことに対抗し、アメリカは、石油の供給を停止するなどの経済封鎖を行った。これに、イギリス、中国とともにオランダが参加した。(ABCD包囲陣)

日本軍は、石油、ゴムなどの資源を確保するためインドシナ半島への侵攻を目標に進軍した。

 

 

地主制度が民主化を妨げた大きな原因であるとして、農地改革が実施された結果、地主制は解体されて、小作人が自作農になり、農村の封建関係が一掃された。