イスラム

 

イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教の影響を受け、7世紀にムハンマド(マホメット)によって創始された。

イスラム教の聖典コーランは、マホメットが受けたアッラーの神の啓示をアラビア語で記したものである。

 

イスラム教徒は、異教徒に対してイスラム教を強制せず、人頭税(シズヤ)・地租(ハラージュ)を納めれば従来通りの宗教を信仰することを許した。

 

イスラム帝国は、アラブ人の初期の大遠征を別にすれば、征服地の他の宗教に対して寛容であり、地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)を納めれば、改宗を強制しなかった。これはイスラム世界拡大の大きな要因となった。

 

 

イスラム教のスンニ派は多数派で、シーア派は少数派である。シーア派は、ムハンマドのいとこのアリー(第4代カリフ)とその子孫をカリフ(ムハンマドの後継者)とするのに対して、スンナ(スンニ)派は、第2代以降の歴代カリフを正統と認める。

 

イスラム教を創始したムハンマドは、大商人の迫害のためメディナからメッカへ移った。

 

 

イスラームという宗教が生まれて間もない初期のころ(正統カリフ時代)に、預言者の後継者(ハリーファ(カリフ))を誰にするかという問題において、ムハンマドの従兄弟かつ娘婿であるアリーとその子孫のみがイマームとして後継者の権利を持つと主張したシーア・アリー(「アリーの党派」の意。後に略されて「シーア」、すなわちシーア派となる)に対し、アブー=バクルウマル・ウスマーンのアリーに先立つ三人のカリフをも正統カリフとして認めた大多数のムスリム(イスラーム教徒)がスンナ派の起源である。

アリーは、早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフのウスマーンが暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤとの戦いに追われ、661年にハワーリジュ派によって暗殺される。

 

ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の過激な運動が広がった。このシーア派の運動はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、現在でも中東の大問題として尾を引いている。

反体制派のアラブ人とシーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバースを初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。翌750年、アッバース軍がザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。

 

 

シーア派の力を借りてカリフの座についたアブー=アル=アッバースは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンナ派に転向した。この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。

弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要であったため、クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)とアラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃された。

 

 

ムハンマドの死(632年)の直後、ムハンマドの義父のアブー=バクルが初代カリフとなった。

イスラムは、正統カリフ時代、ササン朝ペルシャを滅ぼした。ムアーウィヤはクライシュ族ウマイヤ家の出身で、661年にダマスクスを都にウマイヤ朝を開き、ウマイヤ朝は、イベリア半島に進出したが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に破れた。

 

7世紀半ばに、イスラム教はカリフの正統性をめぐる争いからスンナ派とシーア派に分裂した。

スンナ派は、多数派でムハンマドのスンナ(言行)に従う人々で、シーア派は、第4代カリフのアリーの子孫だけがムハンマドの正統な後継者とみなし、スンナ派と対立してきた人々である。

 

ウマイヤ朝はスンニ派の王朝

 

イスラム教徒達は8世紀に入ると、アフリカ北部とイベリア半島を征服して、フランク王国に侵攻した。732年にはトゥール・ポワティエ間の戦いでカール・マルテルの軍に敗れ、イスラム勢力は南フランス、ついてイベリア半島へと撤収した。

 

ウマイヤ朝に対して、アブー=アルアッバースが、カリフはムハンマドの一族であるべきだとして、革命運動を起こし、シーア派の協力を得て、バクダートを首都とするアッバース朝を開いた。アッバース朝はその後、シーア派を弾圧してスンナ派を保護している。

アッバース朝は、バクダートを発祥の地としてアラビア半島を支配した。

 

8世紀の時代、西アジアでは、アッバース家が、ウマイヤ朝を倒し、アッバース朝を開いた。アラブ人の特権を廃止し、すべてのイスラム教徒を平等に扱った。第5代カリフであるハ―ルーン=アラッシードの時代に最盛期を迎え、首都バクダットは国際都市として繁栄した。

 

アッバース朝は、当初帝国の版図を中央アジア方面へ拡大し、751年にはタラス河畔で唐と戦い、これに大勝した。製紙法はこの戦いを機に西伝したといわれる。

 

アッバース朝は、1258年、チンギス=ハンの孫のフラグが西征して、バクダットを占領したため、滅亡した。(イル=ハン国)

 

 

 

イベリア半島では8世紀以降イスラム教徒の支配下にあったが、その後、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が起こり、イスラム勢力は次第に衰退した。

 

 

西アジアのイスラム社会では、初め官吏や軍人に国家から俸給が支払われていたが、中央権力が衰えると軍人に土地からの徴税権を与え、直接農民や都市民から徴税させるイクター制が各地に広まった。

10世紀になると(ブアイフ朝のもと)、国家の財政が困窮したことから、イスラムのアラブ王朝で、イクター制が採用されるようになった。初めは在職期間中だけ、セルジューク朝時代に一般化し、世襲による分与地制度へ変化した。イクター制はイスラム諸国の封建制。

 

 

9世紀以降のイスラム世界では、奴隷出身のトルコ系軍人が活躍した。彼らはイスラム教徒として教育と軍事訓練を受け、十字軍との戦いなどを通じて勢力を伸ばし、13世紀には小アジアにオスマン=トルコ帝国を建国するまでに至った。

9世紀頃から征服地の奴隷出身で、当初、傭兵であったトルコ人軍人が活躍した。その後、カラハン朝(992~1212年)、セルジューク=トルコ朝(1038~1194年)、ガズナ朝(962~1186年)、ゴール朝(1148~1215年)、ホラズム朝(1077~1221年)に代表されるトルコ系イスラム帝国があった。

 

11世紀にはセルジューク朝が小アジアに進出し、キリスト教の聖地であるエルサレムを占領した。これが十字軍の遠征を引き起こす原因となり、遠征の提唱者である教皇の権威はいよいよ高まった。セルジューク朝は西アジア一帯を支配した。

 

 

アイユーブ朝の創始者サラディン(サラーフ=アッディーン)は、エジプトのファーティマ朝を倒し、12世紀後半(1171年)にアイユーブ朝を創始した。サラディンは1187年に十字軍の聖地エルサレムの征服に成功した。

 

サラディンは、アイユーブ朝を建て(1169年)、チュニジア・エジプトに存在したファーティマ朝を滅ぼした。倒した。サラディンは、1099年に十字軍が建てたエルサレム王国を攻撃してエルサレムの奪回に成功した(1187年)。それに対抗して第3回十字軍(1189~92年)が派遣された。

 

マムルーク朝は1250年にマムルーク(奴隷)出身の司令官によってカイロを都に開かれた王朝である。

 

 

 

1492年に、イスラム教国のナスル朝の拠点グラナダを攻略しイスラム教徒を半島から一掃した。

イベリア半島、最後のイスラム教側の拠点となったのはグラナダ。

 

イベリア半島では11世紀頃から国土回復運動(レコンキスタ)が高まりを見せていたが、15世紀末には、キリスト教徒がイスラム教徒に勝利した。

 

 

 

イスラム商人は、8世紀頃から東南アジア経由で中国に赴き貿易活動を行った。彼らが東南アジアに定着するようになると、現地人へのイスラム教への改宗も進んだが、バリ島(16世紀マタラム王国)を除けば、東南アジアは大乗仏教もしくはヒンズー教国家であり、イスラム教が普及したとは言えない。

 

 

長期間にわたり広大な地域を征服したイスラム国家は、製紙法・火薬・羅針盤を中国からイスラム圏を介してヨーロッパへ、医学・天文学・数学は、インドから古代ギリシャ・ローマからヨーロッパへとイスラム圏を介して伝えられた。東西文化の交流に大きく貢献した。

 

 

13世紀のころ、イスラム圏では、マムルーク朝が有力で、地中海・インド洋貿易によって利益を独占し、その首都カイロは世界文明の中心となった。

 

ティムールはサマルカンドを首都としてティムール朝を開き(1370年)、小アジアやインドにまで領土を拡大した。ティムールは、イル=ハン国が内乱で滅亡した後、その領土を併合した。しかし、1405年にティムールが明遠征途上で病死すると、トルコ系ウズベク人によって滅ばされた。

 

 

ティムール帝国の創始者ティムールは、現在の中央アジア地域を中心に勢力を伸ばし、15世紀初頭には、アンカラの戦いでオスマン帝国を破った(1402年、パヤジット1世)。また、都としたサマルカンドは文化、商業の中心として繁栄した。パヤジット1世を捕虜にした。

 

 

13世紀末小アジアに興ったオスマン朝は、1453年にビザンツ帝国を滅ぼして勢力を伸ばし、スレイマン1世のとき領土が最大となった。

 

小アジアに建国されたトルコ系のオスマン帝国は、バルカン半島に進出した後、1453年にビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルを陥れ、ビザンツ帝国を滅ぼした。

 

 

小アジア地域で建国されたオスマン帝国は「イェニチェリ」と呼ばれる精鋭部隊を擁してバルカン半島にも領土を拡大した。「イェニチェリ」はキリスト教徒の子どもたちを集めて特殊訓練した歩兵軍団で、オスマン帝国の皇帝の常備軍として14世紀末に創設された。(1826年に廃止)

 

オスマン帝国の全盛期の皇帝スレイマン1世はハンガリー征服後、1529年にウィーンを包囲したが、攻略することはできなかった。

ウィーン包囲では、陥落寸前に寒気の到来と兵糧不足のためオスマン帝国軍が包囲を解いたので、ウィーンは陥落していない。

 

 

オスマン帝国は全盛期には地中海の制海権を握って、アジアとヨーロッパの中継貿易の利益を独占した。これが太平洋?経由でアジアと交易しようというヨーロッパ人の意欲を促し、大航海時代の到来の原因の一つとなった。

 

ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は、スレイマン1世の時に最盛期を迎えた。南イラクや北アフリカの領土を広げ、また、ヨーロッパ方面ではハンガリーを征服し、ウィーンを包囲して(1529年)、ヨーロッパ諸国に大きな脅威を与えた。

 

オスマン帝国は、北アフリカおよびバルカン半島に勢力を広げた後、ウィーンを包囲し、プレヴェザの海戦(1538年)で、スペインなどを破り、地中海の領海権を手中にした(支配権を握った)。

 

16世紀後半のレパントの海戦(1571年)で、イスラム勢力がスペインに敗れた後、スペインが地中海の覇権を確立した(地中海貿易で中心的な役割を果たした)。

 

大航海時代の新大陸の発見や、アジアとの直接交易を行うためのルート確立によって、16世紀に世界商業に中心が地中海から大西洋に移動した。

 

オスマン帝国は、第一次世界大戦による打撃を受け、領土はほぼ小アジア半島だけになった。このとき、トルコの再建をめざしたケマル=パシャは、進入したギリシャ軍と戦ってこれを退けて、スルタン制を廃止し、トルコ共和国を樹立した。

 

 

第一次世界大戦に敗れたトルコは、ケマル・パシャ(アタチュルク)が、1922年にスルタン制を、24年にはカリフ制を廃止するなどの政教一体の改革を行い、トルコ共和国を建国した。

 

 

イランでは、レザー・ハーンがカージャール朝を倒してパフレヴィー朝を開き(1925年)、自ら国王に即位し、国内の近代化に努めた。1935年には国名をペルシャからイランに改称した。

 

ホメイニは、パフレヴィー2世の独裁に対し、1979年にイラン革命を成功に導いた。

イラクでは、ワフド党をフセインが独立運動を起こし、独立宣言を行い、イギリスから独立した。

 

エジプトは、ワハブ党が、イギリスから独立運動を展開した。

 

イラクはイギリスの委任統治を経て、1932年に独立した。

 

フセインは1979年にイラクの大統領になり、独裁政治を行った人物である。

 

 

イスラエルは、第二次世界大戦後、国際連合の分割案を受け入れ(パレスチナ側は拒絶し)、

 

イスラエルの領土は、1967年の第三次中東戦争で、ヨルダン川西岸とガザ地区を占領した。

 

エジプトは1922年から王政が行われ(翌年イギリスは独立を承認)、1952年に共和国となった。大統領になったナセルが56年にスエズ運河の国有化を宣言した結果、イギリス、フランス、イスラエルとの間で、スエズ戦争(第二次中東戦争)が起こった。

 

 

 

 

南アジアでは、ムガル帝国(1526年~)の第3代皇帝アクバルが中央集権的な統治機構をととのえた。アクバルは、自らヒンドゥー教徒の女性と結婚し、非イスラーム教徒に課せられていた人頭税(ジズヤ)を廃止して、ヒンズー勢力を見方につけた(両教徒間の融和を図った)。

 

アクバルの孫である17世紀のシャージャハンは、タージマハルを建造したが、その建造に多額の財政赤字を抱え、子のアウラングゼーブにより幽閉された。

 

 

 

 

中国

 

周の時代、一族・功臣に土地を与えて世襲的に統治させる封建制が採用された。

 

春秋戦国時代には諸子百家と呼ばれるさまざまな思想が開花した。

 

紀元前3世紀、中国最初の統一王朝である秦が成立した。秦の始皇帝は、法家の思想を政策の基とし、交通路の整備や度量衡および文字の統一など集権的な政策を推し進めた。始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱(BC209~BC208)が起こり、秦が滅亡し、代わって前漢がおこった。

 

秦の始皇帝は諸子百家のうち法家思想を重視し、それ以外の思想を焚書・坑儒によって厳しく弾圧した。

貨幣や度量衡・文字を統一するともに、儒教を始め諸子百家の思想を厳しく統制した。

 

 

 

前漢は、劉邦が項羽を破って建国した王朝であるが、北方の匈奴に敗れたため和親政策を採った。紀元前2世紀後半には、武帝は反撃に出た匈奴を北へ追いやるとともに、周辺地域に大規模な遠征を行った。

 

 

前漢から後漢にかけて学問では儒学が発展し、前漢の武帝は、儒学を官学とした。

 

 

前漢の武帝は、匈奴との戦いを有利に進めるために、中央アジアの大月氏国に、張騫を派遣して同盟を結ぼうとしたが失敗した。しかし、この派遣による張騫の情報から、内陸部のオアシス都市をつなぐ通商路が開拓されて、西域との交易が発展し、この道は、のちに絹の道(シルクロード)と呼ばれた。

 

漢は、武帝の時代、朝鮮半島に楽浪郡など4群を設置し、張騫を西域(さいいき)へ派遣した。また儒学を官学化した。

 

朝鮮半島北部の衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪・玄(げん)兎(と)・臨屯(りんとん)・真番(しんばん)の4郡を設置した。

 

前漢の創始者である劉邦は、群国制(全国を中央直轄地である郡県と、地方の国とに分けて統治する制度)を制度化した。

 

郡県制の手直しをして、一部に皇族や功臣を諸侯王として封建する群国制を実施した。(重要地を直轄地として郡県制を敷き、それ以外の所は一族功臣を諸侯として封じる封建制)

 

 

後漢の将軍班超は、匈奴征伐に従軍して活躍し、西域都護に任じられて中央アジアの50余国を服属させた。さらに部下の甘英を大秦国(ローマ)に派遣して国交を開こうとした。

 

後漢の時代には、紙が発明され、木簡(もっかん)や竹簡(ちっかん)に代わって書写の材料とされた。

 

 

魏晋南北朝

三国時代から南北朝時代にかけて、貴族の間で流行した清談(知識人たちの哲学的な談話)は、老荘思想に基づき、道徳に縛られない自由な精神を重んじる談話であった。

 

西晋では土地政策として占田・課田法が実施された。

 

東晋の仏僧法顕は、陸路でインドに赴き、アジャンターの僧院で仏教を学んだ後?、スリランカから海路で帰国した(412年)。多数の経典を持ち帰り、漢訳に業績を上げた。彼の著した旅行記「仏国記」の影響もあり、中国の仏教は唐の時代に最盛期をむかえ、雲関や竜門に石窟寺院が造られた。

 

 

江南と華北を結ぶ、物資流通の大動脈である大運河を完成させた。

隋は、煬帝のときに大運河を建設するなどしたため財政基盤が弱体化した。

隋は、李淵(唐の高祖)に滅ぼされた。

朝鮮半島の新羅は高句麗を滅ぼして7世紀後半に朝鮮半島を統一した(676年)。

 

 

唐は、中期において、タラス河畔の戦いでアッバース朝に大敗した。中央アジアやベトナム?に至る大帝国を建設した。

 

唐は、チベット、外モンゴリア、百済、高句麗、ベトナム北部まで支配したが(最大領域はアラル海地域)、中央アジアや黒海に及ぶ大帝国までは形成されなかった。

 

国法の根本として律令を整え、三省・六部による中央官制を整備した。

律・令・格・式などの法典を整えるとともに、三省・六部・御史台を中心とする中央官制や律令を整備し、地方には(州と県からなる)州県制を敷いて国力の充実に努めた。辺境では都護符が周辺地域の統治に当たった。

 

国家財政の基礎確立のために均田制が採用され、永業田や口分田とよばれる土地が農民に支給され、農民から租・庸・調を徴収するとともに、租・庸・調が免除されて交替で軍務に服す府兵制も定められた。その後、均田制が崩れから府兵制が行き詰ると、募兵制に切り替えられ、税制も両税法に切り替えられた。

 

均田制や府兵制は、唐代にできたものではなく、南北朝時代の北魏、西魏で生まれた制度で、隋や唐に引き継がれた。

 

唐の初期には、一代使用を原則として支給される土地に基づいて成人男子に均等に課税する租・庸・調制が導入されていたが、8世紀末になると(780年)、現に所有している土地や資産に応じて夏秋二期に課税する両税法が行われるようになった。

 

唐の初代皇帝文帝は九品中正法を廃止し、598年に科挙制を実施した。

官吏の任用については、隋から始まった科挙制度を継承した。

 

唐の仏僧の玄奘は、仏教の経典を求めて、国禁をおかして陸路で長安からインドへ赴き、ナーランダーの僧院で仏教を学び、内陸部の通商路を通って帰国した。彼は旅行記「大唐西域記」を著し、小説「西遊記」に登場する三蔵法師のモデルになった。

 

唐の時代には外国文化が盛んに流入したため、国際色豊かな文化が発達するとともに、詩文が興隆し、李白や白居易らを輩出した。

 

王朝の中頃(唐代半ば)、玄宗皇帝による開元の治と呼ばれる安定した時代が続いたが、地方の節度使(中国から異民族を守る)が勢力を伸ばし、安禄山と史思明による安史の乱(755~763年)を招いた。

安史の乱後、貴族による大土地所有(荘園制)が進行して律令体制の崩壊が進み、税制も両税制に代わった。

 

唐の衰退期には、兵農一致の府兵制は崩壊したことから、高宗時代から募兵する募兵制に代わった。

唐の衰退期には、節度使は地方の兵権・民政・財政権などの実権を握り、藩鎮と呼ばれ、独立的な地方勢力となり、皇帝の中央権力を弱めた。

唐の衰退期には、節度使が独立的な地方勢力となり、均田制・府兵制も崩壊したことから、律令制が崩壊した。

 

 

 

趙○○によって建国された宋(北宋)は、五代十国時代の動乱の時代に台頭し、文人官僚中心の文治主義(文人政治)を行なった。科挙制を完成。

 

宋は、女真族の金と結んで1125年に遼を滅ぼした。

 

中央集権を強化するために文官の地位を高める文治主義が進められ、皇帝が行う試験(殿試)を加えた科挙により新興地主の子弟が官吏へ登用され、官僚には税負担の一部が免除されるなどの特権が与えられて、皇帝権力の強い官僚政治が行われた。その後、登用された王安石により、新法として国庫収入の増大や軍事力の強化を図る改革が行われた。

 

王案石は、宰相として富国強兵策を推進した。

 

官吏登用制度の科挙制では、宮中で行われる最終試験の殿試では、皇帝自らが試験官を務めた。最終試験を皇帝自ら課す殿試が導入されるなど、科挙が整備された。

 

宋の時代には朱子学が(南宋の朱熹が大成)大成され、君臣、父子の身分関係を正す大義名分論が唱えられた。また、民族意識の高まりから歴史や地理などの学問が重視されたが、なかでも編年体の中国通史である「資治通鑑」(歴史家の司馬光が著した)は名高い。

 

唐の頃に始まった木版印刷術は、宋の時代に発達、普及した。

木版印刷術の発達や羅針盤の航海への利用がみられるようになった。(羅針盤の実用化)

 

この時期に江南の開発が進んで、国の経済力が充実したことに伴い、商業活動に対する地域的な制限が撤廃された。広州、泉州といった商業都市が大規模に発達し、行(こう)(同業商人組合)・作(さく)(職人組合)と呼ばれる商人や手工業者の同業者組合も成立するようになった。

 

 

12世紀、ツングース系の女真族からなる金に華北を占領された宋は、都を江南の臨安(杭州)に置いた。

宋(北宋)は、12世紀初め、金を建国したツングース系の女真族によって首都開封を奪われたが、江南にのがれて南宋をたて、臨安(杭州)を都と定めた。

 

 

モンゴル帝国は、チンギス=ハンが1206年に、モンゴルの諸部族を統一して成立した。

 

チンギス・ハーンによって建国されたモンゴル帝国は、内陸アジアにも遠征し、1227年に西夏を滅ぼしたのち、チンギス・ハーンは病死した。

 

チンギス=ハンの息子のオゴタイ=ハンは、金を滅ぼした。1234年

 

モンゴル帝国は、チンギス=ハンの死後、ロシアを服属させ、ワールシュタットの戦いで、ドイツ・ポーランドの諸侯連合軍を破り、また、西アジアでは、アッバース朝を滅ぼし、空前の大帝国となった。

 

1241年、ワールシュタット(ニーグリッツ)の戦いは、バトゥ率いるモンゴル軍がドイツ・ポーランドの諸侯連合軍を破った。

オゴタイ=ハンの命により西方へ遠征、攻略中、オゴタイ=ハンの死のために帰還し、キプチャク=ハン国を開く。

バトゥ:チンギスハンの孫で、ジュチの子

 

モンゴル帝国は、その後、内乱に苦しみ、中国本土の元と4ハン国に分裂した。

 

東アジアでは、チンギス=ハンが諸部族を統一し、モンゴル帝国を建てた(1206年)。モンゴル帝国は次々に領土を広げ、第5代フビライは、大都に都を定め、国名を元と称し南宋を滅ぼして中国領土を支配した。

 

チンギス・ハンの孫のフビライは、1264年に大都に遷都し、1271年には国号を元と改め、1279年には南宋を滅ぼし、中国を統一した。遠征によって、高麗・ビルマを征服したが、ベトナム・ジャワは征服できなかった。

 

元は、日本への侵攻は失敗しただけでなく、ベトナム及びジャワの征服にも失敗し、東南アジアへの領土拡大は失敗した。

 

13世紀、モンゴル族が中国全土を征服し、元を建国した。

 

元は、強大な軍事力を用いて13世紀後半に南宋を滅ぼした後、日本やベトナムに遠征軍を派遣したが失敗に終わった。この後、弱体化した元は、紅巾の乱(1351~66年)によって政権が不安定になり、明は建国した朱元璋に滅ぼされた。

 

広大な領域の統治を確立するために駅伝制の整備が進められ、異民族の文化に対する寛容政策が保持されて東西交流が陸路・海路で盛んになり、紙幣(交鈔)の発行により通貨の統一も図られた。その後、紙幣の乱発によって物価が騰貴し、民衆の生活が困窮して各地で農民反乱が発生し、紅巾の乱が起った。

 

元は前王朝から行っていた科挙を中止、モンゴル人第一主義がとられていたので、役職はモンゴル人、色目人が独占した。駅伝制が施行され、東西交流が盛んになったが、交鈔(こうしょう)(紙幣)の乱発により社会が混乱し、紅巾の乱(白蓮教徒の乱)などの結果、滅亡した。

 

元は支配下の人々をモンゴル人、色目人、漢人、南人の4段階に分け、特に漢人を冷遇した。科挙を一時的に停止したり、儒者を冷遇するなどの政策をとった。

 

元の時代には東西の交通路が整備されたことにより東西文化交流が盛んになって、商人、マルコ=ポーロや、イブン=バトゥーダが往来(来朝)した。

 

モンゴル帝国の皇帝フビライ=ハンは、都をサマルカンド?から大都(現在の北京)に移して元王朝を開き、領内の駅伝制を整えて東西の交流を奨励した。フランチェスコ派修道士モンテ=コルヴィノが元を訪れ、ヨーロッパの文化を伝えたので、郭守敬はイスラム暦を基に授時暦をつくった。(モンテ=コルヴィノは中国で最初にカトリックを布教した。)

 

 

紅巾の乱後、朱元璋(洪武帝)によって建国された明は、漢民族の中国再興を図り、海外貿易を統制する一方、東アジアの冊封体制の再編に努め、15世紀初め、永楽帝の代には、鄭和を東南アジアやインド洋方面に遠征させて、諸国の朝貢を促した。

紅巾の乱(1351~66年)の指導者であった朱元璋は、1368年に明を建国し、洪武帝となって漢民族の再興を図った。

 

皇帝の独裁体制を確立するために官制の改革が行われ、中書省を廃止して中央行政機関の六部を皇帝に直属させるとともに、農村や農民を直接把握するために里甲制を確立し、魚鱗図冊という土地台帳や賦役黄冊という戸籍簿を兼ねた租税台帳が整備された。その後、里甲制の行き詰りから一条鞭法とよばれる納税法が実施された。

 

明は、初代皇帝洪武帝が、これまで政治の最高機関であった中書省を廃止し、中央行政機関の六部を皇帝に直属させるなど、皇帝親政体制を確立した。また、村落の自治組織である里甲制を定め、その実施のために、土地台帳としての魚鱗図冊、戸籍台帳としての賦役黄冊を作成し、土地租税制度を確立した。その後、里甲制の行き詰まりから一条鞭法と呼ばれる納税法が実施された。

 

メキシコや日本の銀が大量に持ち込まれたため、銀の社会的役割が増大し、貨幣経済が発達した。明では土地税と丁(てい)税などを一括化して銀納とする一条鞭法が採用されて、清ではこれをさらに簡略化し、土地税に一本化した地丁銀制が採用された。

 

宣教師(イエズス会士)マテオ=リッチが往来した。中国最初の世界地図「坤(こん)輿(よ)万国(ばんこく)全図(ぜんず)」が作成された。

 

14世紀、元王朝に代わって明王朝が中国を支配するようになった。この時代、イエズス会の宣教師としてマテオ=リッチが明を訪れ(1601年)、首都南京の様子をヨーロッパに伝えた。また、明の永楽帝は、皇帝の親政を補佐する内閣大学士を置いたが、靖難の変(1399~1402年)で活躍した宦官はそれ以降、発言権を増大させるようになった。

 

明の時代に、中国南部の海岸に倭寇が出没し、永楽帝の時代、北は北方民族の脅威と倭寇の脅威から「北虜南倭」の状態に置かれた。こうした状況の中、漢民族を中心とする華夷秩序や、君臣・父子間の身分関係を論ずる?陽明学がおこった。

 

 

武力で南北辺境を制圧する一方、大艦隊を南海諸国から(東南アジアからインド洋に入り)アフリカ東海岸にまで派遣した。永楽帝の命により、鄭和は1405年から33年の間に7回に及ぶ大遠征を行った(鄭和の南海遠征)

 

 

満州族のヌルハチにとって建国された清は・・・、

清の官僚制は、満漢併用策がとられ、重要な役職の定員は満州人と漢人が同数になるように定められていた。

 

 

女真(満州)族の建てた王朝である清は(雍正帝の時代の1727年)、ロシアとの間に条約(キャフタ条約)を結んで、モンゴル北辺の国境線を定め、18世紀には、周辺諸国を朝貢国とする巨大な帝国をつくり上げた。清は、漢民族の文化を重んじて「康煕字典」(漢字辞典)を編纂する(1716年)一方、満州人の風俗である辮髪を漢人に強制した。

 

 

皇帝の専制支配の強化のために高級官僚にも漢人を採用し(満漢併用)、漢人に対し強硬策と懐柔策を併用した。最高政務機関として内閣大学士の下に六部が置かれたが、その後、皇帝に直属する諮問機関で、軍事上の問題を扱う最高機関として軍機処が設置された。税制では土地税の中に人頭税を組み入れる地丁銀制が実施された。

 

清は征服王朝であったが、軍事・行政組織は(一部?)明から継承したところがあった?。軍政面では、緑営という明の常備軍制度を受け継いだ。八旗は清独自の制度。

 

清の4代皇帝の康煕帝の時代に、三藩の乱(1673~81年)が起こったが康煕帝に鎮圧された。漢人武将で雲南に駐屯した呉三桂、広東に駐屯した尚可喜、福建に駐屯した○継茂(この三人が三藩と呼ばれた)は、三藩撤廃を阻止するため起こした反乱。

 

清の6代皇帝乾隆帝の勅令で、「四庫(しこ)全書(ぜんしょ)」が編纂された。

学者を動員して重要な書籍を筆写させ、経・史・子・集の4部に分類した叢書(ぞうしょ)?。

 

洪秀全の指導する太平天国は、1901年に「滅満興漢」を掲げて清朝に対し反乱を起こした。

 

庶民文化が発展し、貴族の家庭生活を描いた「紅楼夢」や科挙制度を風刺した「儒林外史」などの傑作が書かれた。(清代中期)

 

清は、1689年、ロシアとの間でネルチンスク条約を結んで両国の国境を取り決めた。これは、ヨーロッパの国際法に基づいて清が結んだ最初の対等条約である。

 

清にやってきたキリスト教イエズス会の宣教師たちは、中国の伝統文化を尊重し、信者に孔子の崇拝や祖先の祭祀などを認めて布教に当たった。

しかし、遅れてやってきたドミニコ会やフランシスコ会の宣教師たちはこれを問題視し、ローマ教皇に訴えると、教皇クレメンス11世はイエズス会の宣教方法を禁止した(典礼問題)。これを怒った康煕帝はイエズス会以外の布教を禁止し、ついで1724年、雍正帝はカトリックの布教を禁止した。

 

 

清は中国茶や陶磁器などを輸出していたが、輸入しなくてはならないものはなかった。イギリスは銀が流出、しかも貿易港は広州(広東)1港のみに限られていたので、清の貿易政策に対して、不満を持っていた。

 

清ではアヘン戦争後、(銀価高騰、税負担増大などにより)民衆が困窮を深め、清朝打倒と理想国家の実現をめざした洪秀全による太平天国の乱が起こった(1851~64年)。反乱の鎮圧に苦しむ清に対して、イギリスは、アロー号臨検事件を口実に出兵し、天津の開港を認めさせた。

 

ロシアは、1858年、清がアロー戦争で苦しんでいるのに乗じて、清とアイグン条約を結んだ。黒竜川をロシアと清の国境とすることや、ウスリー江以東の沿海州共同管理とし、ウスリー江の航行権を認めさせた。

 

 

アヘン戦争に敗退した清は、イギリスに香港を割譲し、広州などを開港した(1842年南京条約)。

 

アヘン密輸が中国から多くの銀を流出させたため、欽差大臣(対外交渉担当)の林則徐が、それらを没収、破棄しようとしたが、このことがアヘン戦争を引き起こすこととなった。

 

アヘン禁輸問題を巡る戦争は、英軍の北京占領によって清の敗北に終わり、南京条約によって、香港の割譲、上海、天津の開港、公行と呼ばれる貿易組合を廃止させられた。

 

 

アヘン戦争後、キリスト教とキリスト教と民間信仰を融合した宗教結社を組織した洪秀全

は「滅満興漢」のスローガンを掲げて蜂起、太平天国の乱を引き起こした。太平天国を樹立した。曾国藩や李鴻章らが率いる洋式軍隊である郷勇によって鎮圧された。

 

太平天国は「滅満興漢」を掲げ、キリスト教と中国固有の思想を調和させ、纏足(てんそく)の禁止などの悪習の撤廃などを唱えた。

 

宣教師迫害事件を口実に、仏越戦争(1858~62年)が勃発。

清仏戦争(1884~85)による天津条約(1885年)で、清はベトナムの宗主権を放棄し、フランスがベトナムを保護国化することを承認した。

 

 

日清戦争の敗北後、キリスト教に反対する排外的な宗教結社である義和団は、「扶清滅洋」を唱えて暴動を起こし、土地の均分や租税の軽減などを要求して北京を占領したが、ロシアや日本を主力とする8カ国連合軍によって鎮圧された。

 

義和団は、「扶清滅洋」を叫んで、外国人と外国文化を中国から一掃する排外運動を展開した。

 

帝国主義国の圧力にさらされた清朝支配下の中国では、日本の明治維新にならった根本的な制度改革を主張する意見が台頭した。その中心となった儒学者の康有為は、皇帝光緒帝を動かし、科挙の廃止(1905年)、立憲制へ向けての憲法大綱の発表と国会開設の公約などを実現させ、近代国家の建設に向けての改革に踏み切った。

 

康有為は明治維新をモデルに変法自強運動を進めて、政治制度の改革をめざす戊戌の新政に乗り出した。

しかし、西太后に代表される保守派の反撃を受けて、その改革はわずか3カ月で挫折した(戊戌の政変)。1898年

 

列強の侵略に直面した清朝では、開明派の康有為らが政治改革である戊戌の変法(1898年6~9月)を起こしたが、摂政の西太后を中心の保守派が弾圧した(戊戌の政変)。

戊戌の変法:第11代皇帝光緒帝の下に政治家の康有為らが推進した政治改革。戊戌の政変で光緒帝は幽閉され、康有為は失脚し、西太后が政権を握った。

 

西洋技術の導入による洋務運動の限界が明らかになると、康有為や梁啓超らは、光緒帝を擁して立憲君主政による近代的諸制度の導入を断行しようとしたが、西太后ら保守派のクーデターによって弾圧され、改革は短期間で失敗した。

 

 

 

1900年に義和団は外国勢力の一掃を目ざして武装蜂起した。

清朝政府内の保守は、義和団を支持し、各国に宣戦したが、日本とロシアを中心とする連合軍(8カ国連合軍)による北京占領により北京議定書に調印させられることになった(賠償金と外国軍隊の北京駐屯などを承認した)。

 

義和団事件(1900~01)以後、清は憲法制定、国会開設を約束して情勢の融和に努めたが、その約束が果たされる前に、1911年に辛亥革命が起き、中国同盟会の指導者孫文を臨時大総統に選び、1912年には中華民国が発足した。

 

孫文は1905年に東京で中国同盟会を組織し、三民主義(民族の独立、民権の伸長、民生の安定)を唱え、4大綱領を掲げた。

 

中華民国

1912年に孫文が南京で臨時大総統として中華民国の建国を宣言した。軍事力を握る袁世凱は、清朝最後の皇帝(溥儀)を退位させ、孫文の臨時大総統を引き継いで、独裁を進めた。

 

中国大陸では、1911年に辛亥革命が起こったが、革命勢力はまだ弱かったので、清朝の軍人袁世凱は、清の皇帝溥儀の退位と引き換えに、自らが中華民国の臨時大総統となった。

 

辛亥革命の結果、南京で中華民国の成立が宣言されたが、清朝の実力者袁世凱は列強と北洋軍閥の支持を背景に辛亥政府と交渉し、清朝の宣統帝の退位と共和制の実現を条件に中華民国の臨時大総統に就任した。

 

孫文は、中国同盟会を組織して革命運動を展開し、中華民国を建国、自ら臨時大総統に就いた。

 

1920年代(1921年)にコミンテルンの支援により中国共産党が結成された。国民党は、中国共産党との間に国共合作を成立させたが、後に蒋介石が上海クーデターを起こして共産党を弾圧したため、(第一次)国共合作は解消された(国共分裂)。

 

パリ講和会議(1919年)で「二十一カ条の要求」の取消しなどが退けられた結果、五・四運動と呼ばれる排日運動が各地で行った。

 

 

 

 

中華人民共和国

1949年に中国共産党は、中華人民共和国を成立させたが、この時、ソ連と「中ソ友好同盟相互援助条約」を結んで(1950年)、友好関係にあった。

 

1950年代に、毛沢東の指導により、「大躍進」運動が進められ、人民公社の設立(農業の集団化)や、土法による鉄鋼生産運動など急激な改革(工業化)が実施された。この「大躍進」運動は、約2000万人ともいわれる餓死者を出す大凶作にも見舞われ失敗した。

 

 

朝鮮

 

衛士朝鮮

 

漢の武帝は、前108年に朝鮮を征服して、朝鮮四郡(楽浪郡、真番郡、玄菟郡、臨屯郡)を設置した。これにより衛士朝鮮は滅亡した。

 

漢の武帝に征服されて以来、およそ400年間朝鮮半島はほぼ中国の藩王朝の直轄地だった。

 

 

新羅(676~918)

新羅は、朝鮮半島南東部にあった辰韓からおこり、4世紀半ばに建国した。

4世紀初めに半島南東部におこった新羅が、562年任那を併合して半島から日本を追い、7世紀半ばに百済(660年)、高句麗(668年)を滅亡させて初めて朝鮮半島を統一した。

 

新羅は、唐と結んで、百済、高句麗を滅ぼし、676年に朝鮮半島を統一した。

新羅の都・慶州の東南部には仏国寺という代表的な仏教寺院があり、仏教文化が盛んであった。

 

7世紀に唐と結んで(660年)新羅の攻撃を受けた百済は、日本に援軍を求め、664年白村江の戦いで、百済・日本の連合軍は敗れた。

7世紀初めに(618年)中国を統一した唐は、668年、新羅と組んで高句麗を攻めて滅ぼした。

新羅は668年に高句麗を滅亡させ、676年に唐との抗争の後、唐を撃退して朝鮮半島を統一した。

 

 

高麗(918~1392年)

 

8世紀後半、半島を統一していた新羅の勢力が衰えると、朝鮮半島は戦国時代に突入した。こうした中で高麗王朝は10世紀半ばに半島の統一を成し遂げ、中国から科挙制を導入するとともに官僚制として文官と武官の2班からなる両班制を採用し、厳格な身分制度を確立した。

両班制は高句麗に始まり李氏朝鮮時代に確立した政治的社会的特権身分制度である。

 

高麗は936年に朝鮮半島を統一したが、1231年にはモンゴルの属国となり、元寇の際にはモンゴル軍とともに鎌倉幕府と戦った。

 

13世紀に入ると、モンゴルの大軍が半島に攻め込んできた。高麗はモンゴル軍の攻撃に耐えられず、1259年に元に服属し、日本進出の拠点となった。

 

14世紀まで朝鮮を支配していたのは高麗。918年に建国した高麗は14世紀には倭寇の略奪に苦しめられたことが原因で衰退した。

豊臣秀吉は、1592~93年、1597~98年に、李氏朝鮮に侵入した。秀吉の李氏朝鮮侵入は、李舜臣の活躍により撃退された。

 

李氏朝鮮(1392~1910年)

 

明が成立した頃、朝鮮沿岸では倭寇の出没が激しく、高麗は、その対策に苦しんでいた。その倭寇を破って名声を高めた李成柱は、1392年に高麗を倒して、李氏朝鮮を建てた。

 

李成桂(李氏朝鮮)は、高麗から領土を奪った。

李成柱は、李氏朝鮮初代の王(在位1392~98年)。

李氏朝鮮は、明との友好を図り、その制度をとり入れて官僚制国家の体制を整え、高麗の仏教に代わって、朱子学を公認の教えとした。

また、15世紀中頃には、固有の朝鮮文学である訓民正音が作られ、文化の普及と発展に役立った。

 

15世紀に入ると、李氏朝鮮は全盛期を迎えた。しかし、16世紀に2度(1592~93年、1597~98年)にわたる豊臣秀吉の侵略を受け、明の援助もあり、水軍やゲリラ活動で辛うじて攻撃を食い止めることができたものの、この戦いによる李朝の国力後退は著しかった。

 

李氏朝鮮の政治を動かしたのは、両班(やんばん)という特権身分の官僚であったが、15世紀から、両班の内部対立が激化し、党争が相次いで政治は混乱した。そのうえ16世紀末には、豊臣秀吉による2度の侵略を受け、李舜臣の率いる水軍や民衆の抵抗などによって、これを撃退したが、国土の大部分は荒廃した。

 

李氏朝鮮は、海戦で日本軍に大きな打撃を与えた李舜臣の活躍で、豊臣秀吉が派遣した日本軍を撃退したものの、国土が荒廃し、王朝の権威は失墜した。

 

李氏朝鮮は、清に朝貢し、日本に通信使を送って友誼を結ぶ以外は鎖国を国是とし、欧米諸国の開国要求を拒んでいたが、江華島事件をきっかけに、開国を迫る日本との間で、日朝修好条規を結んで開国した。その結果、押し寄せた日本商人による米などの買い占めが行われ、民衆の間に反日の気運が高まった。

 

李氏朝鮮は、17世紀以降、清に従属し、鎖国政策を国策としていた。1876年、日本との日朝修好条規で開国させられた。日本に2港の開港等を認め、鎖国政策を放棄した。

日朝修好条規で、釜山、仁川、元山の開港、日本公使館・領事館の設置などを受け入れ、以後、日本の植民地政策が進行していく。

 

19世紀に入って、明治維新を達成した日本は朝鮮に開国を要求したが、朝鮮がこれを拒絶、江華島事件でようやく日本は朝鮮との国交を樹立した。

 

江華島事件を契機とした日本との不平等条約の締結後、・・・

大院君は高宗の父で、鎖国攘夷を進めた人物

金玉均は日本と組んで朝鮮改革を目ざした開化派の指導者

 

20世紀になると?、日本とロシアは朝鮮に経済的な進出を行い、朝鮮の利権をめぐって日露戦争を起こしている。

日本は日露戦争当時から3次にわたって日韓協約を締結し(1904~1907年)、李氏朝鮮の主権を奪った。

 

1894~95年の日清戦争、1904~05年の日露戦争で、朝鮮から清・ロシア両国の影響力を排除した日本は、朝鮮植民地化を進め、1910年に韓国を併合した。

 

 

日清戦争での清の敗北の結果、清の宗主権から離れ、1910年に日本に併合された朝鮮では、ハーグ密使事件、三・一運動(1919年)など民族自決に基づく民衆による独立運動が頻発した。

ハーグ密使事件:韓国皇帝の高宗が1907年の第2回ハーグ平和会議に密使を派遣して日本の侵略を訴えた事件

 

1910年、日本が韓国を併合すると、朝鮮民族の抵抗運動は、1919年の三・一運動(万歳事件)へと発展したが、日本はこれを抑え込んだ。

1919年3月1日に朝鮮民衆が、ベルサイユ会議の「民族自決」が適用されると信じ、各地で「朝鮮独立万歳」を叫びながらデモ行進をした。

 

第二次世界大戦後、暫定的に北緯38度線を境に、北部はソ連軍、南部はアメリカ軍が占領し、それぞれの政権が樹立され、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国が成立した。

 

1950年に始まった朝鮮戦争では、アメリカ合衆国の統率の下に組織された国連軍が大韓民国側に、中国義勇軍が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)側に立って参加した。戦いは、北緯38度線付近で一進一退を繰り返したが、1953年にソ連の提案で休戦が成立した。休戦後、大韓民国と、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は新たに設けられた軍事境界線に対じすることになった。

 

アジア・アフリカ

(紀元前5世紀~紀元前3世紀)

 

中国では、春秋戦国の時代が終息し、中国の支配権を握った秦の始皇帝は、官僚の権力を弱めるためには、周の時代にとられていた封建制に代わり、郡県制を採用した。しかし、豪族の勢力が強まった結果、始皇帝の死後各地で反乱が起こり、ついに有力豪族の一人であった劉邦が前漢を建てた。

 

封建制:周王の下に世襲の諸侯を配し、その下に家臣である卿・大夫、士と呼ばれる世襲の家臣を置く制度。

郡県制:全国を36郡に分け、その下に県を置いた。

 

モンゴル高原では匈奴が勢力を伸ばし、他の遊牧民族を従えて強大な騎馬遊牧民帝国を建てた。匈奴の国家は、多数の遊牧部族が匈奴の部族長を中心につくった部族連合国家であったが、漢代初期には、冒頓単于が現れて勢力を振るい、漢に脅威を与えた。

秦の始皇帝は、匈奴の侵入を防ぐため、オルドスの北から遼東半島に至る長城を築いた。

匈奴:紀元前4世紀末にモンゴル高原で活躍した遊牧民族

 

 

インドではシャカが現れ、バラモンの教えに飽き足らない王候や商人の間に仏教が普及した。その後、西北インドに地盤とするマウリア朝(紀元前4世紀~紀元前2世紀)がアショーカ王により建てられ、インドの大半を統一した。王は熱心な仏教徒で、仏教思想の影響を受けたダルマ(法)の政治を行うことを誓い、その理想を領内の岩石や石柱に刻ませた。

グプタ朝は4~6世紀にガンジス川沿いにおこり、北インドを統一した王朝である。

 

西アジアでは、ガンジス川からユーフラテス川に至る広大な領域を支配下に置いていたアケメネス朝ペルシャ(紀元前6世紀から紀元前4世紀)がマケドニアに滅ぼされた(紀元前330年)。マケドニアの王アレクサンドロスは、ギリシャのポリス社会の政治を理想とし、ペルシア風の専制君主政を廃し、領土内の各地に建設した自らの名を冠した都市において民主政を採用した。

ササン朝ペルシアは3世紀から7世紀におこったイラン人の王朝、651年にイスラム勢力に征服されて滅亡した。

 

アフリカ北部では、都市国家カルタゴが地中海の商業権をほぼ握り、その絶頂期を迎えていた。

アレクサンドロス大王が紀元前323年に死去し、大帝国にが3分裂した後に、プトレマイオス朝が北アフリカ(エジプト)に興った。

 

8世紀後半、ジャワを支配した大乗仏教国家であるシャレンドラ朝が誕生し、ジャワ中部にボロブドゥール寺院を造営した。