将門伝説

平将門については、さまざまな伝説がつきまとっています。まず、首塚伝説と怨霊伝説という二つの将門伝説を紹介します。

 

首塚伝説

 

平将門の乱の後、その首は京で晒し首になったとされますが、何ヶ月も腐らずに胴体を求めて東へ飛び去ったと云われています。平将門の乱の後、将門の首は京都に運ばれて七条河原で晒し首とされたが、何ヶ月経っても、腐らずに、生きているかのように眼を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しようぞ」と叫び続けたそうです。獄門に架けられてから3日後 将門の首は突然夜空に舞い上がり、白光を放って、胴のある関東に向かって飛び去り、その途中で力尽きて、武蔵国豊島郡芝崎(現在の東京都千代田区神田)に落ちたとされています。その場所が現在、首塚=将門塚(しょうもんづか)となっているとともに、将門を祀った神田明神が建てられたというのです。

 

この経緯をもう少し、詳しく述べると、首が落ちてきた時、村人は恐怖して塚を築いて埋葬したのですが、その後、将門塚の周辺で疫病や天変地異が頻発したそうです。それが将門公の祟りであるとして人々を恐れさせたため、1307年に時宗の遊行僧・真教上人が、将門公に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って、日輪寺に供養したとされています。さらに傍らの神田明神でも同年に将門公を奉祀した(霊を合せ祀った)ので、ようやく将門の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったというのです。日輪寺は、神田明神の別当寺(べっとうじ=神仏習合の時代、神社を管理するために置かれた寺のこと)の関係がありました。この関係で、神田明神と日輪寺はともに現在でも首塚を護持しています。なお、現在の神田が「神田」となった理由としては、将門公の「体」が訛って「神田」となったという言い伝えもあるそうです。

 

では、どうしたこのような将門信仰が生まれたのでしょうか?天慶の乱が起きた平安中期の頃は、藤原氏の摂関政治の時代で、京都は栄えていましたが、遠い坂東では国司が私欲に走り、民から財をしぼり取るような政治が横行していたといいます。加えて洪水や旱魃が相続き、人々の窮状は言語に絶するものがあったとされています。その為、坂東の民が、将門に寄せた期待は極めて大きかったそうです。ですから、将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、郷土の勇士であったために、今も、関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社があり、首塚も古くから江戸における霊地とされています。平将門は、現在でも「日本最強の怨霊」の一つとして有名ですが、真摯に崇敬すれば守護神となるとの日本人の死生観も、将門信仰が続く背景でもあります。

 

怨霊伝説

このように、将門塚は、将門公に対する畏怖と畏敬を以って崇敬され続け、最近でも、心霊スポットとして有名になっています。だからこそ、ここで不敬な行為を行えば将門公の祟りがあるという伝承が生まれ、現代も都市伝説として語られています。その一部を紹介します。

 

関東大震災後、首塚があった跡地に、大蔵省の仮庁舎を建築した際、役人の中から怪我や病気に罹る人間が続出した(1923年)。また、当時の大蔵大臣・早速整爾が突然倒れ意識不明となり、後に大臣をはじめとする14名が急死した(1926年)。このため、平将門の祟りの噂が省内で広まり、結局、仮庁舎を取り壊した。

 

戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が将門塚一帯を駐車場とする工事を行うと、工事中のブルドーザーが転倒して運転手が死亡するなど、GHQが周辺の区画整理をしようとした際、不審な事故が相次いだため計画を取り止めた。

最近では、芸能界で、「爆笑問題」の太田光がブレイク前に首塚にドロップキックをすると、仕事が全く来なくなったという話しまで飛び出しています。聞くところによると、将門塚周辺のオフィスでは将門塚に背を向けないようにデスクが配置されているとの噂もあります。

 

これ以外の将門伝説については、随時とりあげます。

 

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平将門とは?

平将門は、藤原氏が権力を欲しいままにしてこの世の春を謳歌していた平安中期(939年)に、東国)は下総国に兵を起しました (天慶の乱)。この乱で、将門は、関東(坂東)八ヵ国を平定、朝廷ではなく独自に関東諸国の国司を任命するなど、中央の朝廷の支配を離れて、関東独立を標榜します。そして、八幡大菩薩の使いと称する巫女が現れて「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授け奉る」と託宣があったとして、自らを「新皇」(日本将軍平親王ひのもとしぐんたいらしんのう)」と名乗りました。

 

また同じ時期、西国では藤原純友(ふじわらのすみとも)が瀬戸内の海賊を率いて乱を起こしており(この東西の大乱を「承平天慶の乱」ともいう)、朝廷は一時転覆の危機に陥ったとも言われています。将門に至っては、日本から関東を独立させ、「新皇」と天皇に代わる帝位を称したわけですから、まさに「朝敵」でした。

 

もっとも、平貞盛と藤原秀郷の追討軍との戦いで、将門は、南風に乗じて優位に展開していましたが、風向きが突如北風になり、反撃を受け、何処からか飛んできた矢を額に受け、首をはねられあえなく討死してしまいました。将門の死によって、その後、関東の独立国はわずか2ヶ月で瓦解しました。