長崎くんち:幕府とキリスト教のつめ痕

 

「(お)くんち」と言えば、全国的にも知られた長崎のお祭りです。その由来を調べると、華やかな祭りのイメージとは異なる、驚きの事実がありました。今回は長崎くんちについてまとめました。

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<「長崎くんち」とは?>

 

長崎くんち」は、長崎の氏神・諏訪神社の秋の祭礼行事で、385年の伝統を誇ります(2020年で、386年の歴史を迎えた)。「くんち」とは、9日(くにち)の意味の方言で、祭りが、旧暦の重陽の節句にあたる9月9日に行われたことから、長崎くんちと呼ばれるようになりました。新暦の現在は、毎年10月7日から10月9日までの3日間、行われています。アンコールを意味する「モッテコーイ」のかけ声が響き、祭りが盛り上がります。

 

「長崎くんちの構成」は独特で、長崎市にある59の町が5〜7町ごと7組に分かれて、その年の奉納の演し物を順番に受け持ちます。7年に1度出番がまわってくることになりますね。その年の当番に当たり、踊りを奉納する町を「踊町(おどりちょう/おどっちょう)」と言い、踊町にはそれぞれ受け継いだ演目があります。そのため、その年の受け持ち組によって、毎年、出し物が変わります。

 

名物演目は、「鯨の潮吹き」「コッコデショ(太鼓山)」「竜宮船と乙姫」「宝船・七福神」「大漁万祝恵美須船」「唐子獅子踊り」などさまざまありますが、祭のシンボルとなっている演目が「龍踊(じゃおどり)」です。

 

 

  • 龍踊り

 

龍踊(じゃおどり)は、ドラや太鼓、龍声ラッパなどの独特な拍子に合わせて、全長20メートルにもなる龍を、唐人風の衣装をまとった「龍衆」が十人が体を上下左右に振り、くねらせながら、一人の「玉使い」の操る柄の先の珠を追う「玉追い」、とぐろを巻いての「玉隠し」や自分の体の下をくぐり抜ける「胴くぐり」を行う演目です。

 

長崎の龍踊りは、もともと中国から移入されました。中国において、龍踊りは、数千年前、五穀豊饒を祈る雨乞い神事(儀式)に始まりました。龍が追い求めて乱舞する玉は、太陽と月を表し、龍が玉を飲むことによって、空は暗転し、雨雲を呼び、雨を降らせると信じられているそうです。このように、龍踊りは、日照りに苦しむ、農民の祈りから始まったもので、その後、お祝いや.祭りなどの年中行事に、欠くことの出来ない催物となっていました。

 

日本では、長崎の唐人屋敷の中で、享保年間(約250年前)には既に、毎年正月十五日(上元の日)に演目として奉納されていたそうです。当時、唐人屋敷と隣接し密接な関係にあった長崎市本籠町(もとかごまち)の町民が、唐人達の指導を受け、「おくんち」の奉納踊となりました。

 

明治になり、諏訪町(すわのまち)に伝わり、最近では筑後町や五島町も参加し、現在、この龍踊りを受け継ぐのは、59の踊町のうち4町(籠町、諏訪町、筑後町、五嶋町)となっています(それぞれが別の組に属しているので、現在、龍踊りが見られるのは7年のうち4年ということになる)。

 

こうして、三百余年の間に、その踊り方を完全に習得し日本独特の巧妙な演技を見せるに至り、龍踊りは異国情緒豊かな、長崎独特の郷土芸能として、全国的に知られています。昭和54年には、長崎くんち奉納踊として国の無形文化財に選定されました。

 

 

  • コッコデショ

 

なお、龍踊(じゃおどり)と以外に、全国的に知られた「おくんち」の演し物(だしもの)は、樺島町のコッコデショと言えるかもしれません。

 

コッコデショは、正式には太鼓山という名称の演目で船を意味し、商船の船頭衆の踊りが伝わったもので、担ぎ屋台となった山車(だし)に、5色の大座布団を載せて屋根としています。

 

江戸時代、長崎で陸揚げされた貿易品は堺商人の廻船で全国に運ばれており、商船の船頭や水夫は樺島町の宿を定宿としていたそうです。この太鼓山を担ぐときの「コッコデショ」というユニークな掛け声が評判になり、そのまま演し物の名称となりました。ちなみに、コッコデショは、「ここでしよう」という意味です。

 

 

<長崎くんちの由来>

 

現在の長崎くんちは、寛永11年(1634年)、丸山町・寄合町の二人の遊女が諏訪神社神前で、謡曲「小舞」を奉納したことが始まりとされていますが、そこに至るまでには、諏訪神社の再興が必要でした。

 

「長崎くんち」というお祭りは、ごく一般的な市民たちによる自発的に発生した祭りではなく、奉行所から参加を強制された祭礼でした。例えば、諏訪神社の秋の祭礼である「長崎くんち」が行われる際には、「従わない者は極刑、領地からの追放」と言う厳しい罰が下すというお触れが出されたそうです。どうしてこういう事態になったかというと、江戸初期のキリスト教徒との「宗教戦争」が関係していました。

 

 

  • キリスト教徒による諏訪神社の破壊

 

そもそも、長崎くんちの主催者である「諏訪神社」も、長崎奉行所の役人が再興したものでした。長崎の諏訪神社は、弘治年間(1555年~1557年)より、長崎市内に祀られていた諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社を起源としています。

 

1555(弘治元)年、領主の大村純忠の重臣、長崎甚左衛門純景(ながさきじんざえもんすみかげ)の弟、長崎織部亮為英(ながさきおりべ のすけためひで)が、京都の諏訪神社の分霊(御神体)を、現在の風頭山(かざかしらやま)の麓に迎えて祠ったことが始まりとされています。

 

しかし、長崎が1571年、海外との貿易港として開港すると、ポルトガルやスペインなどから多くの宣教師が訪れ、布教活動を行いました。その結果、キリスト教徒が増えていくなか、大村純忠は洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となっただけでなく、領地を寄進し、長崎はイエズス会の「教会領」となったのです。

 

純忠は、当初、貿易が目的だったようですが、次第に信仰にものめり込み、家臣、領民にもキリスト教を強制しました。信者の中には過激な行動に出るものもあり、長崎に古くから存在した社寺はことごとく放火・破壊されました。この中に、諏訪神社、森崎神社、住吉神社の三社も含まれていました。

 

こうした事態に、豊臣秀吉は、純忠の死後、1587(天正15)年に、バテレン追放令(宣教師追放)を発して、宣教師による布教活動や人身売買などを禁じ、長崎の教会領も没収しました。ところが、長崎のキリスト教徒(切支丹)たちの信仰心は、反抗心に変わり、社寺への圧迫は継続され、信者の数は減るどころかむしろ増えていったとされています。さらに、イエズス会側も、秀吉のバテレン追放令に対して、スペイン領マニラに援軍を求めて対抗しようとする動きまででたそうです。

 

 

  • 諏訪神社の再興

 

これに対して、江戸幕府は、1612(慶長17)年とその翌年、「慶長の禁教令」を発し、宣教師の追放にとどまらず、徹底的なキリスト教の信仰自体の禁止と教会の破壊を命じるなど、キリシタンへの弾圧を強めていったのでした。

 

長崎においては、奉行の長谷川権六と代官の末次平蔵が、キリシタンによって破壊された諏訪神社の復興を行います。松浦一族で佐賀(唐津)の修験者(山伏)・青木賢清(あおきかたきよ)が招かれ、かつて長崎に祭られていた諏訪・森崎・住吉の三社の再興に着手し、1625(寛永2)年、現在の諏訪神社が、創建され、長崎の氏神となりました。

 

なぜ、山伏(修験道者)が呼ばれたのでしょうか?キリシタンから見れば、山伏は、彼らが悪魔の化身とみなす「天狗」であり、新たな諏訪神社の創建は、キリシタンに対する勝利の象徴を意味すると、極端に解釈されることもあります。それだけ、キリシタンを強く意識していたということですね。

 

実際、青木賢清は、諏訪神社の初代宮司を務め、長崎のキリシタンに目を光らせるのです。それから、9年後の1634年、ついに、「長崎くんち」が復活しました。ですから、長崎奉行所としては、祭りは必ず成功させなければならなかったので、領民の強制参加となったのです。

 

「長崎くんち」は、その後、市民に浸透し、昭和20年夏の長崎原爆投下の年ですら、市民たちの「心意気」によりその秋に開催され、日本の三大祭りの一つに数えられたこともあるほど、全国的に知られています。

 

 

<参考文献>

諏訪神社(長崎):諏訪大神に、住吉大神も…

長崎:大村純忠とキリスト教

 

<参照>

日本三大祭「長崎くんち」開幕!くんちに秘められた長崎ならではの歴史とは

(Aera dot.)

戦国時代、長崎はイエズス会の領地だった!?

(2018年03月26日web歴史街道)

長崎旅ネット

鎮西大社諏訪神社HP

龍踊の基礎知識(長崎龍踊の会HP)

龍踊りの由来(長崎国際観光コンベンション協会HP)

長崎くんち(長崎伝統芸能振興会HP)

長崎キリシタン考(2):浦上とキリシタン禁教令

Wikipediaなど

 

(2019年10月14日、最終更新日2021年4月28日)