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2019年09月06日

歴史:源氏長者と徳川家康

先の参議院選挙で、徳川家康の末裔が立候補していたことをきっかけに、徳川家について調べる気になりました。また、秋田へ行った際、佐竹氏について学ぶうちに、源氏の起源というテーマに行きつきました。その源氏のストーリーの中で徳川家がほとんど出てきませんでした。征夷大将軍になるためには源氏でなければなりません。家康はいかなる手段を使って征夷大将軍になったのでしょうか?

 

このテーマに明るくない方は、「源氏について調べてみた(7月31日投稿)」を先に読んでいただくと理解が深まるものと思います。

 

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源氏長者

「源氏長者(げんじのちょうじゃ)」という「氏長者(うじのちょうじゃ)」があります。「氏長者」とは、「氏(うじ)」の中で官位が最高位の人物が天皇より任命されます。源氏長者(げんじのちょうじゃ)の場合も、源氏一門の長であり、従一位の源氏の姓を名乗る者に対して与えられました。源氏長者とともに有名な氏長者には、藤原一族の「藤氏長者(とうしのちょうじゃ)」がいました。氏長者になると、氏のなかでの祭祀、召集、裁判、官位の推挙などの諸権利を持ちます。

 

最初に「源氏長者」を称したのは、平安時代、嵯峨天皇の皇子であった源信(みなもとのまこと)(810~869)とされています。また、初代の嵯峨源氏嫡流である源融(みなもとのとおる)(822~895)は、皇族の子弟の学校である「淳和院」「奨学院」の別当(理事長に相当)に就任し、これ以降、源氏長者が「淳和院・奨学院の両別当を兼任する」ことが慣例となりました。

 

このように、源氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていましたが、その後、公家の名家である村上源氏の久我(こが)家が、公家の代表として、その地位を継承していました。村上源氏は、藤原道長の子で関白頼通の養子、源師房を祖とする家柄で、元来、「源氏」と言えば村上源氏をさすほどでした。源頼朝、足利義満、武田信玄などの祖とされる武家の清和源氏は、平安時代のこの当時、公卿の警護や地方の受領でしかなかったといいます。

 

しかし、清和源氏の足利尊氏が、1398年、征夷大将軍となり、室町幕府を開くと、清和源氏の地位が一気に高まります。3代足利義満は、「源氏長者」と「淳和奨学両院別当」の地位を当時の久我家から奪うことに成功し、武家源氏では最初の源氏長者となったのです(征夷大将軍と源氏長者を兼ねたことも初)。これによって、武家の棟梁である義満は、公家のトップともなり、明との貿易では「日本国王」と名乗ることを許されました。

 

義満以降、足利将軍は義持・義教・義政・義稙の計4名が、正式に源氏長者になっています。また、村上源氏の久我家も、源氏長者の地位に返り咲いており、この時代、源氏長者は、清和源氏・足利家と村上源氏・久我家が交替で務めていました。しかし、その後、足利将軍の地位が不安定となり、足利家の源氏長者へ関与しなくなったことで、戦国時代には再び村上源氏の久我家から源氏長者が任ぜられるようになりました。

 

ところで、ここまでの話しの中で、嵯峨源氏、清和源氏など〇〇源氏がでてきましたが、次に源氏嫡流について述べてみたいと思います。

 

 

源氏嫡流 

多くの源氏の中で、源氏の嫡流すなわち本家・宗家の血統を源氏嫡流(げんじちゃくりゅう)と言います。ただし、源氏の嫡流といっても、源氏全体の嫡流を意味せず、特定の源氏の系統を指すことが多いとされています。同じ源氏でも、遠祖たる天皇によって、嵯峨源氏、醍醐源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏などに分けられ、その嫡流を、例えば嵯峨源氏であれば、嵯峨源氏嫡流と呼ばれたりしていました。

 

また、公卿を輩出した公家源氏と武家の棟梁として活躍した武家源氏に大きく分けられることもあります。広く知られているのが後者で、中でも、清和源氏の流れは鎌倉幕府の源氏将軍として栄えました。さらに、清和源氏の系譜においても、2代目源満仲の嫡子で長男・頼光の子孫を摂津源氏、満仲の三男・頼信に始まる家系を河内源氏と呼び、それぞれ清和源氏の嫡流と主張していました。

 

摂津源氏は、京都を活動基盤としました。以仁王が平家を打倒すべく諸国の源氏に呼びかけた際に始めに挙兵した源頼政は摂津源氏でしたが、従う兵はその拠点であった摂津国をはじめとする畿内に限られたので失敗に終わってしまいました。

 

一方、河内源氏は坂東へ勢力を扶植し、後に、東国において圧倒的な求心力を得ていました。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる源義家から、源頼朝や足利尊氏を輩出し、清和源氏(河内源氏)が武家源氏の代表とみなされるようになりました。正確には、源頼朝が、武家の棟梁の地位を確実なものにしようという政治的な思惑により、源氏嫡流という地位を生み出したとの見方が支配的です。実際、頼朝は、弟・義経以下家人の自由任官を禁止し、源氏一門、御家人の位階任官を鎌倉殿の独占的地位を確保しました。

 

このように、頼朝は、東国武士を臣下としてきた河内源氏の遺産を受けぎ、朝廷から受けた将軍宣下など与えられた特権を背景に、頼朝の系統を嫡流とすることに成功したのです。こうして、頼朝の先祖を遡及し、頼信にはじまり、頼義、義家と続く河内源氏が武家の源氏嫡流と見られるようになりました。

 

ただし、源頼朝の一族が3代実朝で滅びると、武家源氏の棟梁という概念も重要性がなくなってしまいました。しかし、その後、足利尊氏がでて、京都の室町に幕府を開き、足利将軍家を確立して頼朝以来の源氏将軍を復活させました。さらに、足利義満が征夷大将軍の地位に加えて、源氏長者・淳和奨学両院別当に地位を得て、公家と武家にまたがる強大な権力を獲得したことは、既に説明した通りです。

 

河内源氏の流れを汲む家は、足利家だけでなく、新田義貞の新田家があり、また、源義家の弟である義光(新羅三郎義光)からは、武田家、佐竹家など名家を輩出します。しかし、武家の棟梁とある清和源氏(河内源氏)の系譜に、徳川の名前は出てきません。徳川家が、武家源氏の清和源氏であるという根拠は何もなく、素性が明らかでない三河の土豪との見方が支配的です。では、徳川家康はいかに、源氏の名を勝ち取り、征夷大将軍として幕府を開くことができたのでしょうか?その時、源氏長者の地位はどうなったのでしょうか?

 

徳川家の由来

徳川家康は、1555年(天文24年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、次郎三郎元信と名乗り、名は後に祖父・松平清康の偏諱(へんき:名前の一部)をもらって蔵人佐元康と改めています。

 

家康の転機は、1566年(永禄9年)、五摂家筆頭の近衛前久の力添えで、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、同時に「徳川」に改姓したことです。家康の遠祖は、新田源氏の流れで、上野国の「世良田(せらだ)郷・得川(とくがわ)氏」であるとしています。しかし、当初、朝廷は、「世良田氏が三河守になった前例がない」として家康の三河守の官職と、徳川の改姓を認めませんでした。しかし、近衛前久が、「得川氏はもと源氏で、その系統の一つに藤原になった先例がある(=藤原氏ならば「三河守」任官の前例がある)」として、家康個人のみが、松平から「徳川」に「復姓」するという奇策を考案しました。得川から徳川になった(漢字を変えた)のは「仔細あって」のことだそうです。

 

いずれにしても、これを朝廷が認め、家康は「徳川」という苗字を下賜され、三河守になることができたのでした。この特例ともいえる措置で、源氏の「徳川家」が誕生しました。しかし、三河守は藤原でなければならないので、家康は「藤原朝臣家康」と称していたそうです(朝臣あそんは朝廷の臣下の意)。ただ、家康は当時、藤原と源氏を巧みに使い分けていたと言われています。

 

しかし、その後、家康は豊臣秀吉への臣従を強いられます。1586年5月、秀吉の妹・朝日姫を正室として迎えさせられ、同年9月、秀吉の母・大政所まで家康の元に送られてきます。この結果、家康は秀吉の親族衆になり、「豊臣姓」を下賜されます(秀吉は1585年に関白に就任、翌9月に豊臣姓を賜り太政大臣に就任していた)。家康は、1596(慶長元)年5月、秀吉の推挙により、「正二位・内大臣」を受けましたが、「源(藤原)朝臣家康」ではなく「豊臣朝臣家康」での宣下であったと言われています。

 

1598年(慶長3年)8月、太閤・豊臣秀吉が死去します。これにより、徳川家康の天下人への道が開けたわけですが、この時の家康は、五大老・筆頭で、形式的には豊臣家の家臣でした。つまり、家康にとって、秀吉の死は、単に主君が秀吉から秀頼に代わったことを意味していました。

 

秀吉の死後、武家として朝廷の官位は、内大臣の家康が最上位となりました。徳川家康の官位は「正二位・内大臣」であったのに対して、豊臣秀頼の官位は、当時はまだ「従二位・権中納言」でした。官位では秀頼を凌いでいるのですが、家格(家柄・家の格式)で劣っていました。豊臣家に家格は、最高位の摂関家、しかも秀頼は将来は関白が見えています。これに対し、徳川家は清華家で最上位の摂関家の後塵に拝しています。

 

家康にとって秀吉に代わる天下人になるためには、豊臣家からの呪縛を離れ、秀頼を凌ぐ地位を確保することが必要になってきました。そのためには、「藤原(豊臣)」から「源氏」に復姓し、源氏の最高位である源氏長者の格付けを得る必要がありました。そうすると、征夷大将軍の道が開かれます。

 

 

征夷大将軍と源氏長者への道

秀吉の死の翌年(1599年)、朝廷内でスキャンダルがありました。久我敦通(こがあつみち)と勾当内侍(こうとうのないし)の密通の風聞が立ったのです。この結果、久我敦通・通世親子は、家領の多くを奪われ京都を追放され、失脚します。前述したように、久我(こが)家は村上源氏嫡流で、この時期、源氏長者を独占していました。これで、徳川家が源氏長者になるために障害が排除された形です。

 

1600年、家康は石田三成に関ヶ原の戦いを起させ、勝利します。ただし、関ヶ原の戦いとは、形式的には豊臣家臣同士の争いでした。ですから、家康は、大坂城の淀殿、秀頼へ戦勝報告を行い、淀殿と秀頼から褒美をもらっています。ここでも、家康の立場は、あくまで豊臣家臣だったのです。

 

そこで、家康は征夷大将軍として幕府を開くため、また源氏長者の格付けをめざして、「藤原(豊臣)」から「源氏」に復姓し、徳川氏の系図の改姓を行いました。何でも、清和源氏の吉良家の系図を借用し(譲り受け)、徳川氏の系図を足利氏と同じく八幡太郎源義家に通じるようにさせたそうです。武家が日本を支配するために幕府を開くのは、源頼朝公以来の伝統であり、征夷大将軍に任命されねば幕府を開くことはできませんでした。そして、征夷大将軍になるには源氏(清和源氏系の河内源氏)でなければならないという不文律がありました。

 

ただし、征夷大将軍になっても官位は上がるとは限りません。この時の家康の官位は、「正二位」でしたが、将軍になる前にその上の「従一位」を望んだと言われています。というのも、豊臣秀頼が将来成人して関白を継げば従一位になることになるとされていました。そこで少なくとも秀頼に「負けない」ためにも「従一位」が必要だったのです。それだけではありません(むしろこちらの理由の方が重要)。源氏長者になる条件に「従一位の源氏の姓を名乗る者」というのがあったのです。家康にとって、徳川の世を盤石なものにするために、征夷大将軍だけでは不十分で、源氏長者になることが必要だったという思われます。そして遂にその日が来ました。

 

1602年(慶長7年)1月、徳川家康に「従一位」が与えられたのに続き、翌1603年2月、後陽成天皇が、徳川家康を征夷大将軍ならびに淳和奨学両院別当に任命しました。この時、家康は「源朝臣家康」として将軍宣下をうけています。家康はまた、征夷大将軍宣下と同時に、源氏長者宣下を受けることができました。1600年、天下分け目の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が、征夷大将軍になったのは1603年です。将軍になるまでに、3年かかった理由は、「源氏長者」になる条件ともいえる「従一位」を受けるのに時間がかかったということができるかもしれません。

 

家康は日本国王か?

征夷大将軍と源氏長者はセットのような印象がありますが、前述したように、室町時代までは、公家の村上源氏の系統がほぼ継いできました。しかし、村上源氏の久我敦通を失脚させ、源氏長者の地位が空位となった後、清和源氏・徳川将軍家が、江戸時代を通じて、征夷大将軍と源氏長者を独占(世襲)することができました。

 

武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、日本国王を名乗った足利義満から始まった慣例で、途中途切れていましたが、徳川家康が、藤原(豊臣)姓を源姓に改め征夷大将軍と源氏長者を一身に兼ねることに成功しました。とりわけ、源氏長者になることは、家康は「将軍」の権威を一層高め、武家だけでなく、公家の世界も掌握し、実質的な日本の最高実力者の地位を得る絶対条件だったのです。

 

 

<参考>

源氏嫡流嫡子(Wikipedia))

源氏長者(Wikipedia)

「徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?」

「久我敦通と勾当内侍(長橋局)の密通。徳川家康の源氏長者への道」

「徳川家康 将軍になるためルーツを詐称した」(SAPIO2018年5・6月号)

「徳川の武家政治は嘘から始まっている」など