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2019年09月30日

陰謀:ケネディ暗殺とUFO!?

昨日の投稿、「これまでのUFO事情」の中で、ケネディ大統領は、UFO関連のファイルを世界に公開しようとしたために、暗殺されたという陰謀を紹介しましたが、本日は、この陰謀論の横綱「ケネディ暗殺」に焦点を当ててみたいと思います。実はケネディ暗殺については、私も拙著「日本人が知らなかったアメリカの謎」でも書いていました。まず、その部分を引用します。

 

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こんなにもある ケネディ暗殺の陰謀!

―マフィアからCIA、宇宙人まで―

(日本人が知らなかったアメリカの謎 p44~p57)

 

アメリカの陰謀劇のなかで、未だに謎とされ、いまでも様々な陰謀説が飛び交っているのがジョン・F・ケネディ(JFK)大統領暗殺事件である。今でも全米で毎年、精神異常者のだれかが「自分がケネディを暗殺した」と警察に自首してくるらしい。ケネディ暗殺をとり上げた映画も「JFK」、「ダラスの熱い日」、「ザ・シークレット・サービス」など力作がそろっている。

 

1963年11月22日、アメリカ第35代大統領、ジョン・F・ケネディが遊説先のテキサス州ダラスで暗殺された。リー・ハーベイ・オズワルドという男が犯人として逮捕されたが、オズワルドの単独犯行だったのか、オズワルドを含む複数人による犯行だったのか、はたまた、オズワルドが撃ったとみせかけて別の人間が撃ったのか?犯人は大統領を載せた車の運転車という説もある。オズワルドに個人的な恨みなどの動機が見当たらないことから、誰かが何かの目的で大統領を暗殺させたという可能性は高い。

 

「軍産複合体」犯行説

軍産複合体とは、米軍と兵器や航空など国防関連企業のことをいう。ケネディ大統領はベトナム戦争を早期に終わらせようとしたと言われているが、これを封じるためにCIAに暗殺させたという説だ。当時、軍も軍事産業もベトナムでの積極的な介入を支持していたので、ケネディ大統領の撤退方針は、軍産複合体の利益を損ねることになる(戦争すればするほど儲かる)のだ。実際、撤退計画はケネディ暗殺によって頓挫し、後任のジョンソン大統領によってベトナム戦争への介入は逆に押し進められた。65年には北爆(北ベトナムへの爆撃)を開始しベトナム戦争は泥沼化していった。もし、この説が正しかったとすると、当時副大統領であったジョンソンも、ケネディ暗殺計画を知っていた可能性はある。

 

「マフィア主犯説」

JFKの父、ジョセフ・ケネディ・シニアは、「大統領の職を買った」と揶揄されている。息子の当選のために大量のおカネが動き、その中には、マフィアからのおカネも入っていたことは想像に難くないであろう。もともとケネディ家とマフィアとの黒い関係は以前から取りざたされていた。しかし、正義感の強いケネディは、大統領に当選した後、マフィア組織との関係を突然断ち、それだけでなくマフィア壊滅作戦を実施していった。これをマフィア側は、「裏切り」と受け取り、その報復と壊滅作戦の停止のために、暗殺計画を立てて実行したというのだ。

 

マフィア絡みの陰謀説はまだある。ケネディが就任してまもない1961年4月、ピッグス湾事件が発生した。この作戦は、反米的なキューバのカストロ政権を転覆させるために、在米亡命キューバ人部隊が米軍の支援のもとにピッグス湾から、キューバを急襲した事件である。この亡命キューバ人部隊の中には、キューバでカジノ経営をしたり、ヘロイン輸入の中継地として利用したりするなどキューバに利権をもつマフィアも含まれていた。しかし、この計画は失敗に終わった。理由の一つは、在米亡命キューバ人部隊がキューバ軍の攻勢で退路を断たれたのち、米軍機による爆撃支援の命令をケネディが出さなかったことであった。つまり、マフィアからすると、ケネディから米軍の正規軍投入拒否は彼らを見殺しにする行為であった。こうして、ピッグス湾事件の失敗を恨んだマフィアを含む「亡命キューバ人主犯説」というのもある。

 

さらに、ここから、この事件に激怒したキューバのカストロ議長が、オズワルドを雇ってケネディ暗殺を企てたとする「カストロ主犯説」や、ソ連に亡命したこともあるオズワルドが、ソ連側のスパイとして帰国し、同事件後、ケネディ暗殺の指令を受けたという「ソ連主犯説」もある。

 

CIA主犯説

ケネディは、ピッグス湾事件の失敗の原因を、CIAの諜報ミスとみなし、CIA長官アレン・ダレスは作戦失敗の責任を追求され長官の座を追われた。さらに、ケネディはCIAという組織そのものにも批判の目を向け、CIA解体も宣言していた。ケネディのCIA批判は、逆にCIAから命を代償とする大きなしっぺ返しを受けることになったという説も有力だ。

 

ケネディは知りすぎた!?

まだまだいくつも諸説はあるが(例えば国際金融資本犯行説も興味深いが次項で紹介する)、もう一つ、とてつもない陰謀説を紹介して、この項目を締めくくろう。ケネディ暗殺には宇宙人が絡んでいたという説だ!?アメリカには、1947年7月ニューメキシコ州ロズウェル付近で、宇宙からの何らかの物体の残骸が回収された「ロズウェル事件」以来、UFO(未確認飛行物体)と異星人の存在についての関心が一部の人々の間に広がった。彼らは、軍(ペンタゴン)が、UFOの存在やこのとき異星人も拘束した事実を隠蔽しているのだと主張、アポロ計画についても、実は異星人の前進基地となっているかもしれない月面を偵察するという真の目的があったという説も広がった。さらには、アメリカの政府高官や科学者など12人の専門家から成って、宇宙人に関する調査や、宇宙人との接触や交渉を行うMJ-12(マジェスティック・トゥウェルヴ)という超秘密機関が存在すると信じる向きもある。

 

アメリカでは、大統領が誰になろうとも、長年、政府最重要機密文書というのが存在し、CIAが管理しているという。どこの国にもその類の機密文書というのは存在するが、合衆国にはUFO関連の機密文書も存在すると言われている。ケネディは、大統領としての権限で、そのUFO機密文書を閲覧したのち、UFOの存在、宇宙人の情報、アポロ計画の目的を、国民に公表しようとしたので、MJ-12の意を受けたCIAによって暗殺されたというのだ。ケネディ暗殺に関する政府の情報公開は2039年まで行われないという。しかし、2039年以降、我々はケネディ暗殺の真相を知ることができるのだろうか?

 

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大統領を暗殺する背後の力とは!

―大統領ってそんなに狙われるものなの?―

(日本人が知らなかったアメリカの謎p52~p55)

 

ところで、読者のみなさんは、歴代のアメリカの大統領で暗殺された大統領は何人いるかご存知だろうか?答えは4人で、リンカーン、ガーフィールド、マッキンレー、ケネディが非業の死を遂げた。近年では、レーガン大統領が暗殺未遂事件で銃撃され負傷した。

 

なぜ、大統領がこうまで狙われるのか?個々の要因は定かではないが、これは、アメリカには大統領を超える黒幕が存在するということの裏返しでもある。つまり、だれかの意に反するから狙われるのである。一般的には大統領には護衛がしっかりとついているので単独で犯行を実行するのは難しい。ケネディ暗殺においても、大統領の車が通る予定のルートが、犯行に及んだ建物の側に突然変更されなど、組織的な計画がなされるはずである。

 

国際金融資本も黒幕!?

大統領を暗殺できるほどの力を持った人々とはどういう存在なのだろうか?まずは、ケネディ暗殺の陰謀で紹介した面々が頭に浮かぶ、つまり、軍産複合体(航空宇宙・兵器などの軍需産業と軍が結合した政治・勢力)、マフィア、CIAなど政府情報機関である。それにもう一つ加えると、国際金融資本(欧米の金融財閥)があげられる。暗殺された大統領の中で、ケネディとリンカーンの暗殺には国際金融資本との対立という共通点が見いだせる。

 

現在でも、通常の先進国政府には通貨発行権はない。中央銀行が持っている。それを、リンカーンとケネディは大統領令によって、通貨発行権を政府に移そうとしたのだ。この行動は、実質的な通貨発行権を握っていた欧米の国際金融資本からすれば、彼らに有利な金利と通貨量を決められなくなってしまうことを意味する。アメリカの金融支配ひいては世界経済全体に対する影響力を失いたくないために、大統領を暗殺させたというのである。ただし、大統領暗殺というのは、国家的な犯罪なので、当然、情報機関であるCIAや連邦警察であるFBIなど政府機関からの協力があったことは想像に難くない。

以下略

 

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それでは、「ケネディ暗殺とUFO」という陰謀論について、さらに詳説してみたいと思います。昨日もすでに述べたように、ケネディ大統領は、UFO関連のファイルを世界に公開しようとしたために、暗殺されたという見方があります。Weekly World News(2011/05/07)(2008/02/25)の内容をまとめました。

 

ケネディ大統領は、暗殺される前の10日間に、UFO関連の政府最重要機密文書の閲覧を要求し、側近の猛反対を振り切り閲覧し、1963年11月12日、CIAに自身が閲覧した現代の科学で解明できない国家機密扱いのUFO現象情報を、即座に世界へ公開するよう命じました。

 

何のためにかというと、ケネディ大統領は、旧ソ連と相互宇宙活動協力と、地球に飛来したエイリアンの共同調査研究を行うことを望んでいたそうで、アメリカのアポロ計画の真意を明らかにするためでした。というのも、この当時のケネディは、「ソ連で多数のUFOが目撃されていることで、ソ連が、UFOをアメリカの新兵器による偵察だと誤解しているのではないか」と強い懸念を示していたとされ、ソ連に「UFOは我々アメリカの秘密兵器ではない。我々アメリカ人がソ連上空を侵犯したのではない。ましてや我々アメリカ人が、UFOを差し向けたのではない」といいたかったのだろうと推察されています。

 

さらに、ケネディは、UFOや地球外生命体の存在の事実を、国民の前で発表する準備をし、次のような演説の草案までできていたそうです。

 

■ジョン・F・ケネディの草稿

——————-

わがアメリカ国民、そして世界中の皆さん、今日、我々は新しい時代への旅に出発します。人類の幼年期である、一つの時代は終わりに向かい、新たな時代が始まろうとしています。私がお話しする旅とは、計り知れない試練に溢れていますが、我々の過去のあらゆる努力は、成功するために我々の世代を比類なくサポートしてきたものと私は信じます。

 

この地球の市民である我々は孤独ではありません。無限の知恵を備えた神は、我々自身のように、他にも知的生命体を宇宙に住まわせてきました。そのような権威に対して、私はどのように述べることができるでしょうか?1947年、わが軍は、乾燥したニューメキシコの砂漠で、起源不明の飛行船の残骸を回収しました。まもなく、我々の科学により、この乗り物は、はるか遠くの宇宙空間からやってきたことが分りました。その時以来、わが政府はその飛行船の製造者達とコンタクトを取ってきました。

 

このニュースはファンタスティックで、実際、恐ろしく思われるかもしれませんが、皆さんは過度に恐れたり悲観して捉えることのないようお願い致します。私は大統領として、そのような存在が我々に対して無害であることを皆さんに保証いたします。

 

むしろ、全人類の共通の敵である、圧制、貧困、病気、戦争を克服できるよう、彼らはわが国家を助けてくれることを約束しております。彼らは敵ではなく、友人であると我々は判断いたしました。彼らとともに、我々はより良き世界を創造することができます。未来に障害や誤りが生じないかどうかは分りません。我々はこの偉大なる土地で暮らす人々の真の運命を見つけたものと信じます。世界を輝かしい未来に導くことです。

 

なぜ彼らがここにやって来て、なぜ長期間に渡って我々のリーダー達が彼らの存在を秘密にしてきたのか、近く、皆さんはそれらについてさらに知らされることになるでしょう。私は皆さんに、臆病にならず、勇気をもって未来を見ていくようお願い致します。なぜなら、地球に存在した古代の平和のビジョンと全人類の繁栄を、この我々の時代に、我々は達成できるからです。あなた方に神のご加護のあらんことを。」

——————-

もちろん、J.F.ケネディが演説で読み上げる予定だったこの草案は推敲されることなく、暗殺によって、なきものとなりました。

 

*なお、米軍がUFOの存在を認めたというショッキングなニュースをきっかけに、UFOについての投稿記事を連続して出しましたが、あくまで「陰謀論」です。真に受けずに興味本位で読んで下さい。拙著「日本人が知らなかったアメリカの謎」も雑学集という形で出版しております。

 

<参照>

日本人が知らなかったアメリカの謎(文春文庫)

ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の真相

Weekly world news 2008-02-25 )

ケネディ大統領直筆の極秘UFOレポートを発見

Weekly world news 2011/05/07)

2019年09月29日

陰謀:これまでのUFO事情 

今月19日、米海軍が、UFO(未確認飛行物体)の可能性があるとされた飛行物体を「本物」と発表し、アメリカがUFOの存在を認めるという驚きの報道がなされました。この発表は、地球外生命体(=宇宙人)について言及されていませんが、少なくとも、未確認の飛行物体「UFO」がこの地球上に存在していることを認めたということは、宇宙人(=エイリアン)は存在するという仮説に大きなインパクトを与えることは間違いないでしょう。そこで本日は、これまでのUFO報道やUFOにまつわる話題をまとめてみました。

 

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UFOの記録は、実に紀元前にまで遡ることができるそうです。ある物理学者は、7万5000年前に銀河間で核戦争が行われ、火星文明が破壊されたとの説を発表したこともあるほどです。ただ、アメリカでは、1865年になされたUFOの目撃報告が最も古いものとされています。

 

1865年の目撃情報

その年の9月中旬ある日の日没直後、ミズーリ川上流の山あいで、東へ猛スピードで移動する強い光を発する物体を、その地域に住む猟師が目撃しました。この物体は5秒後には爆発し、消滅したというのです。翌日、森の中から何かが墜落しているのが発見されました。その物体は岩のような素材でできており、表面には象形文字のような模様が描かれていたといいます。周辺にはガラスのようなものの破片と、奇妙な液体も残されていたとされています。地元新聞は、当時、地球外知的生命体が乗ってきた乗り物ではないかと報じたそうです。

 

また、19世紀のアメリカで最も有名なUFOの目撃報告とされるのが1897年4月17日午前6時に発生したとされる次の事件です。

 

1897年の目撃情報

テキサス州の小さな町で、葉巻の形をしたUFOがオーロラの上空に出現し、南から北へ移動していったそうです。アルミと銀を組み合わせたような金属でできていたとされるその物体は、その後、風車に衝突し、爆散したとされています。当時の報道では、事故現場で見つかったパイロットらしき死体は普通の人間ではなかったとするものもあるようですが、真偽は定かではありません。

 

このようにUFOに関する情報は、アメリカを中心に散見されていますが、世界的に注目され、現在も、様々な憶測や噂、研究、調査などの対象となっているのが「ロズウェル事件」と呼ばれるUFO墜落事件です。

 

ロズウェル事件とエリア21

ロズウェル事件とは、1947年7月8日、アメリカのニューメキシコ州の砂漠の町ロズウェル付近でUFOが墜落し、米軍がこれを回収したという世界で最も有名なUFO墜落事件です。この事件(事件)は、ロズウェル陸軍飛行場が、ロズウェル付近の牧場から潰れた「空飛ぶ円盤」を回収したと発表したことで、全世界に拡がりました。しかし、その数時間後、軍司令官が、「回収したものは『空飛ぶ円盤』ではなく、気象観測用気球であった」と訂正したのですが、一部の人々はそのプレスリリースを信用しませんでした。

 

それどころか、墜落したUFOや、解剖された宇宙人(グレイと呼ばれて生存しているとの噂も)は、米空軍が管理しているネバダ州南部の「エリア51」(正式名称は、グルーム・レイク空軍基地)で管理されていると信じられています。つまり、この「エリア51」は、空軍の実験場や訓練場として使われていますが、宇宙人研究施設がある、「UFOや宇宙人の秘密が隠されている」との憶測が広がっているのです。さらに、エイリアンの証拠は大量にあるが、いわゆるディープステート(国家内国家)の秘密軍事文書(文字どおりの「Xファイル」)に隠匿されていると信じられています。

 

アメリカ政府の公式見解

このロズウェル事件に関して、アメリカ政府は、1997年6月24日に公式見解を発表しました。それによると、1947年に回収された物は極秘の調査気球であり、宇宙人と信じられいるのはパラシュートテスト用につくられたダミー(架空のモノ)である。また「宇宙人の死体の回収と解剖」とは、1956年6月26日に発生したKC97航空機の墜落事故との記憶混同であるとされました。

 

これによって、UFOと信じられたものは、米軍の飛行実験などに伴う光学的な幻のようなものとの見方も広がりました。実際、特に「エリア51」付近では、米軍機密の航空機のテストを古くから行っていたとされ、近年では、特に最高機密のステルス機の試験飛行を行っているとされています。

 

こうして、UFOを見たと報告される場合、それは、雲、流星、鳥、気象観測気球などであったり、場合によっては、夜空を光って移動して見える人口衛星、大気圏の摩擦熱によって発光している隕石、さらにはミサイルの発射実験であると説明されてきました。大学や研究機関の調査においても、「宇宙には地球外生命体が存在する可能性はあるとしつつも、UFOがその宇宙船であると考えるのは難しい」というのが定説となっていました。では、アメリカにおいて、UFOはすべてアメリカ軍による…式の説明で話しで収まっているのかというとそうでもありませんでした。

 

2004年のUFO目撃事件

ニューヨークタイムズ(NYT)は、2017年12月16日、UFOについての報告を調査した国防総省の秘密プロジェクト、「先端航空宇宙脅威識別プログラム」に関するの記事を1面にリークしました。このプログラムは、2004年に、米海軍が目撃したUFOについての調査したもので、NYT紙は、その事件について報じたのでした。それによると、事件当日、太平洋上空約2万4000メートルの場所に突如謎の飛行物体が出現したそうです。2機の米戦闘機が向かい、サンディエゴ周辺の太平洋上空で目視すると、後に楕円形で「複数の特異な航空機械」と表現された物体は、高度1万8000メートル付近から15メートルまで瞬時に降下し、その後は不規則な動きをしながら、泡のよう に消えてしまったと報告されています。

 

そして、今月20日、

「米海軍 未確認物体認める『“UFO映像”偽造ではない』」、

「米海軍、UFO映像『本物』認める」

などの見出しで踊った「UFO映像」の一つが、この2004年の事件だったのです。つまり、米軍は、自分たちの「創作」ではないUFO(未確認物体)の存在は認めたのです。

 

このようなUFOや宇宙人(エイリアン)についての話しに多くの人々が関心を寄せるのは、UFOや宇宙人に関する数多くの「陰謀論」がうごめいているからです。その主なものを紹介します。

 

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<アメリカ大統領とUFOの陰謀>

トルーマンからトランプ大統領まで、戦後の米大統領とUFOや地球外生命体の関係を示す議論を醸すような歴史的秘話は豊富に存在します。大統領だから、国家の最高機密を知らされるのでしょうか?とりわけ、アイゼンハワーやニクソン、カーター、そしてレーガンはそれぞれ個人的に接触したこともあるとの噂まであるのです。例えば…

 

ロナルド・レーガン

レーガン政権時代に打ちだされた軍事政策といえば、宇宙空間からレーザー攻撃でソ連の攻撃ミサイルを迎撃するというスターウォーズ計画(戦略防衛構想)が有名です。実は、このスターウォーズ計画は、レーガン大統領自身のUFO遭遇体験に基づいて、地球外生命体や隕石の攻撃から防御するための機密計画であったそうです。

 

ビル・クリントン

クリントン大統領は、もともとUFOへの関心が高く、情報公開にも意欲的であったそうです。UFO研究家でもあったローレンス・ロックフェラー氏(ジョン・ロックフェラー2世の第3男)との親交もあり、たびたびUFOに関する話をしていたとされています(ローレンス・ロックフェラー氏は2004年に死去)。妻のヒラリー・クリントンは、夫の意思を引き継ぐとみられ、もし大統領に選出されていたら、これまで米政府によって極秘にされてきたUFO情報が明るみに出る可能性が大きいと一部で期待されていました。

 

彼女の大統領選挙において、ヒラリーのブレーンであったジョン・ポデスタは、ビル・クリントン大統領の首席補佐官を務め、オバマ政権でも上級顧問に就いていました。ポデスタ氏は政府のUFO情報に関する”透明性”を追求しており、「2014年の私の最大の失敗はUFO情報ファイルの開示請求を確実なものにできなかったことだ」との発言もあったほどでした。

 

ジョン・F・ケネディ

しかし、アメリカ大統領とUFOに関連する最大の陰謀話しは、あのケネディ大統領の話しに勝るものはないでしょう。どういう陰謀論かと言うと、ケネディ大統領は、UFO関連のファイルを世界に公開しようとしたために、暗殺されたという陰謀です。ケネディ大統領は、暗殺される前の10日間に、UFO関連の政府最重要機密文書の閲覧を要求し、側近の猛反対を振り切り閲覧している。そして、1963年11月12日、ケネディ大統領はCIAに、自身が閲覧した現代の科学で解明できない国家機密扱いのUFO現象情報を、即座に世界へ公開するよう命じたそうです。

 

なぜケネディは、UFO情報を公開しようとしたのか?誰がケネディ殺害を命じたのか…などについては日を改めて、まとめてみたいと思います。

 

<謎の地下施設と影の政府>

「山脈のふもとの広大な砂漠の中に空港があるような土地の地下深くには、巨大な軍基地がいくつも存在し、アメリカ軍による極秘案件が隠されている」という陰謀があります。これらの地下施設ではUFOやエイリアン生命体や、極秘テクノロジーなどの研究が行われている。つまり、エイリアンとアメリカの「影の政府」が連携している!というわけです。コンピューター、インターネット、携帯電話など、これまでの優れた発明品の数々は、宇宙人の技術を解析して模倣した物だそうです。また、核兵器もしかりで、アメリカ国内の全ての核弾頭基地では必ずUFOが目撃されていると、陰謀論者の間ではささやかれています。

 

ちなみに、アメリカ合衆国内の中でも、テキサス州、ウエスト・バージニア州、ミズリー州などに多くのUFO目撃情報が集まっているそうです。さらに、影の政府組織は、一般市民や国家の調査機関を超えたところに存在し、UFO関連の情報隠滅のために動いているらしいです。

 

<参照>

「政府は真実を隠している!」 UFOブームがアメリカに再び襲来(2019年8月2日newsweek)

HANGAR 1〜UFOファイルが眠る場所〜

アメリカの「UFO」目撃報告はなぜ19世紀から現在まで絶えることがないのか…その歴史を紐解く(2019.02.26、ディスカバリー)

 

ヒラリー・クリントン就任後にUFO情報公開か? ワシントンの”UFOロビイスト”も注目!(TOCANA、2015年4月18日)

 

ジョン・F・ケネディ大統領暗殺の真相(2008-02-25 )

ケネディ大統領直筆の極秘UFOレポートを発見 Weekly world news(2011/05/07)

2019年09月23日

伝承:今度は「青森にキリストの墓」説

昨日の投稿で、「モーゼの墓が日本にある」とする石川県羽咋市の伝承を、読売新聞の記事を通して紹介しました。今回は、その記事の中にもあった「キリストの墓が青森にある」という、昨日同様、一般の方が聞けば、荒唐無稽としか言いようのない話しをお伝えしたいと思います。モーゼのストーリーと同様、このテーマに果敢に取り組まれた読売新聞の森記者の記事(抜粋)です。

―――

「青森にキリストの墓」説

読売新聞(夕刊) 2019年8月7日(水)

6月に「モーゼの墓」(石川県宝達志水町)を紹介しましたが、同じく日本にあるという「キリストの墓」も見ておこうと思い立ちました。場所は青森県新郷村戸来(へらい)。キリストはヘブライがなまって戸来になったのだそうです。(大阪編集委員 森恭彦)

 

青森空港から車に乗り、八甲田山を超え、十和田湖を経て2時間余り。国道454号を走行していると「キリストの墓」という道路標識が見えてきます。国道ですから、国も「キリストの墓」の存在を認めているということでしょうか?車を降りて坂道を200メートルほど上がると、小高くなったところに円形の塚が二つ、それぞれに人の背丈より高い十字架が立っています。説明板によれば、向かって右が「十来塚」といい、キリストの墓。左は「十代塚」で、キリストの弟イスキリだそうです。キリストにそんな弟がいたとは初耳ですが。それぞれの墓に花が供えられていて、墓と墓の間にエルサレム市から「友好の証し」として贈られたという石板が埋め込まれています。

 

周辺は公園になっていて、「キリストの里伝承館」という教会風の建物もあります。村の歴史や民俗芸能を紹介する資料館なのですが、目玉は「キリスト伝承コーナー」でしょう。管理している新郷村ふるさと活性化公社の事務局長、角岸秀伸さん(50)に聞きました。「伝承といっていますが、元は『竹内文書』です。これを世に出した竹内巨麿が1935年、村を訪れ、墓を発見したのです」

 

この「文書」に収録された「キリストの遺言書」の写しがガラスケースに収まっています。ゴルゴダの丘で磔(はりつけ)になったのはキリストではなく、弟のイスキリという人物で、キリストはシベリアを経由して日本に逃れた。そして、戸来に居を定め、十来(とらい)太郎大天空と名乗って106歳まで生きたというのです。イスキリの墓にはキリストが携えてきた遺髪と耳が葬られているそうです。驚いたことに、村にキリストの子孫もいるそうです。キリストはミユ子という20歳の女性をめとり、3人の娘をもうけた。長女が嫁いだ沢口家が代々「キリストの墓」を守ってきたのだそうです。

 

「竹内文書」は神武天皇以前の超古代文明について書かれた有名な偽書です。これだけでは世間が相手にしなかったでしょう。ところが「墓」の発見直後の37年、山根キク(菊子)という社会活動家が「光は東方より」という本を刊行、戦後しばらくして出した改訂版「キリストは日本で死んでいる」も現在、なお版を重ねるロングセラーで、「墓」の存在は広く知られることになったのです。山根の本には当時の沢口家当主、三次郎との会見記も出ています。「キリストの容貌と、此の澤口氏の容貌とは瓜二つとも云うべき」とか。館内には三次郎の写真も掲げられていますが、キリストの顔が分からないと比べようがないですね。

 

村では赤ん坊の顔に十字を書く習俗も実際あったそうです。そうしたことをこの本は学術的な装いで記述しています。信用する読者もいるのでしょう。「祖母の記憶があまりなくて」という一郎さんですが、自身も村を訪れました。毎年6月の第1日曜日に営まれる「キリスト祭」に列席。式はなぜか神式なのですが、墓の周りを浴衣の女性たちが「ナニャドヤラ」「ナニャドナサレノ」「ナニャドヤラ」と歌いながら踊っていたそうです。これが「神をたたえる古代ヘブライ語の軍歌」という説もあるとか。村にはキリストが来たことを信じる人はいないようですが、村の習俗のアピールはなかなかのものです。

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実は、「キリストの墓説」があることは既に知っていて、8月12日の投稿「裏『祇園祭』ってあるの!?」でも言及していました。ただ、「石川県にモーゼの墓」を含めて、これらの伝承について論じるほどこの分野の知識が私には乏しいので、今回は、こうした伝承があることだけをお伝えして、コメントを控えます。それでも、イエスの墓に関して、一点だけ事実を付け加えます。それは、記事の中にもあったイエスの墓と、イエスの弟の墓の間にエルサレム市から「友好の証し」として贈られたという石板についです。

 

この石版は、「エルサレム・ストーン」という大理石で、表面にはヘブライ語で「この石はイスラエル国、エルサレム市と新郷の友好の証としてエルサレム市より寄贈されたものである」と刻まれているそうです。そして、2004年の除幕式には、何と当時の駐日イスラエル大使も参列されたそうです。政府を代表する大使が来られた…という事実に、このストーリーに隠された何かを感じてしまうのは考え過ぎでしょうか?

 

 

2019年09月22日

伝承:UFOとモーゼの墓

昨日、アメリカが、実質的にUFOの存在を認めたという、ある意味衝撃的なニュースをお伝えしましたが、本日は、UFOに絡んで、さらにショッキングなお話しを紹介しましょう。それは、あの聖者モーゼのお墓が日本にあるというものです。もちろんこちらは公式発表の世界ではなく伝承の世界です。それでも、モーゼが日本にいたのか?UFOとどういう関係?などいろんな疑問がわくと思います。まずは、以下に抜粋した今年6月5日付け読売新聞(夕刊)の記事をお読み下さい。

 

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UFOの町 モーゼも訪問?

「UFOの町」を名乗るのが石川県羽咋(はくい)市です。宇宙とUFOをテーマにした、たぶん日本で唯一の公立博物館「コスモアイル羽咋」もあります。ですが未知の来訪者ははるか昔から、この一帯を訪れています。民俗学では漂着神(ヨリガミ)というそうです。何と予言者モーゼまで来ていて、墓があると聞きました。(大阪編集員 森恭彦)

 

能登半島の西側、羽咋はJR金沢駅から特急で1時間弱。まず市の歴史民俗資料館に向かうと、学芸員の小船井陽さんが迎えてくれました。日本海に突き出た能登半島には古来、対馬海流に乗って西から先進の文化や技術が流れ着き、異世界のモノに人々は神を感じて、祈りをささげたそうです。「民俗学者の折口信夫はたびたび羽咋を訪れ、海のかなたの常世から漂着する神をヨリガミと位置づけわけです」能登国一の宮、気多(けた)大社の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。大国主命の別名です。大国主命は出雲から300余りの神々を連れて来臨、邪神を退治し、能登を平定したのです。その気多神社に行ってみました。社殿の背後には神聖な禁足地「入(い)らずの社(もり)」だそうです。中でもクスノキの仲間のタブノキは、折口によれば、寄り来る神々の依り代(よりしろ)になったとか。

 

これはいささか怪しい話ですが、モーゼの墓に詣でることにしました。車で20分余り、羽咋の南隣、宝達(ほうだつ)志水町の宝達山「伝説の森公園(モーゼパーク)」というところです。ここも自治体がつくった施設のようです。「注意 熊出没」という看板を横目にこわごわした山に入ります。誰ともすれ違いません。やがて三ツ子塚古墳群という表示があり、その一つ、小山ほどの墳墓の上に「モーゼ大聖主之霊位」と墨書された木の墓標を発見しました。粗末なので、ちょっとがっかりしましたが。その手前に、なぜでしょう、墳墓に比べてはるかに立派で、費用もかかっていそうなモーゼ像の写真入りのモニュメントがあります。ここをモーゼの墓とする根拠は「竹内文書」なのだそうです。

 

昭和の前半、世間を騒がせた超古代文明についての文献ですね。神武天皇まで73代続いた王朝があり、モーゼだけでなく、イエス・キリストも釈迦も、みんな日本に来た。ここにはモーゼの墓が、そして青森県新郷村戸来にはキリストの墓がある、といった誇大妄想的ストーリーで、偽書と認定されていますが。宝達志水町の公式ホームページから引用します。モーゼは「ユダヤの民衆をイスラエルの地へ導いた後、シナイ山に登った。そこからモーゼは天浮船に乗り、能登宝達山に辿り着いたという。その後、583歳までの超人的な余生を宝達山で過ごし、三ツ子塚に埋葬された」。「天浮船」って、飛行船でしょうか。あ、いや、きっとUFOですね。やはり、この一帯は超古代史から「UFOの町」だったのでしょう。

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この「モーゼの墓」ストーリーについては、2010年11月6日付けの中日新聞でも紹介されていました。

 

モーゼ583歳 能登に眠る? モーゼの墓(宝達志水町)

旧約聖書の「十戒」で有名な古代イスラエル民族の指導者、モーゼが眠ると伝えられる石川県宝達志水町の「モーゼの墓」。案内板には「モーゼはシナイ山に登った後、天浮船(あまのうきふね)に乗って能登宝達に到着。583歳の超人的な天寿を全うした」と、驚がくの伝説が記されている。北陸が世界に誇る“珍スポット”の実態とは-。(担当・河郷丈史)

 

能登半島の最高峰・宝達山のふもとにある「伝説の森モーゼパーク」。木々の生い茂る遊歩道を10分ほど上ると、「三ツ子塚」と呼ばれる古墳群が見えてくる。この中の2号墳が「モーゼの墓」だ。地元の人の話などによると、伝説の根拠は20世紀初めごろに宗教家竹内巨麿(きよまろ)が公開した古文書「竹内文書」。「モーゼやキリストが日本に来ていた」という内容で、一般には偽書とされている。

 

一方、パークを管理する越野宏さん(78)は「伝説が知られる以前から『土地の偉い人と宝物が埋めてある』といわれていた」と証言する。このほか、奇妙な言い伝えが残る。まちおこしに取り組む「モーゼクラブ」(活動休止中)の資料によると、墓近くの石灰山で、ひざからくるぶしまで2尺5寸(約75センチ)もある“巨人の骨”が出た。石灰山では土器のつぼが見つかり、古代に使われていたものだという。

 

終戦直後に米軍が墓の調査に来たとの言い伝えもある。宝達山頂の手速比咩神(てはやひめ)神社には、モーゼと関係の深いエジプトのスフィンクスに似たこま犬があるほか、地元には平林(へらいばし)というヘブライを連想させる地名が存在する。いずれも真相は不明だが、何ともミステリアスだ。

2019年09月21日

ニュース:米軍、UFOの存在を認める!

海外からのショッキングなニュースが!、アメリカが公式にUFOの存在を認めました。以前から研究されていたかとは周知の事実とされていましたが、なぜ今、このタイミングで…、今後もUFOのニュースに注目しましょう。今月報道された複数のメディアの記事を紹介します。

 

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米海軍 未確認物体認める「“UFO映像”偽造ではない」

(2019年9月20日、TBSニュース)

 

アメリカ海軍が撮影し、「UFOが写っているのでは?」とされた映像。海軍は「映像は本物だ」と発表し、調査していることを明らかにしました。

「信じられない。風向きにあらがって飛んでいる」

これは、2015年にアメリカ海軍が撮影した映像(以下のURLを参照)。物体が空中で風向きに反して飛んだり、回転したりする様子が写されています。2004年にも同様の映像が撮影され、「UFO映像ではないか」と指摘されていましたが、アメリカ海軍は先週、「映像は偽造されたものではなく、本物の映像である」とする公式の見解を発表。「UAP=未確認航空現象」と分類し、調査していることも明らかにしました映像を撮影した場所などの詳細は明らかにしませんでしたが、米軍が、未確認物体の存在は認めた形です。

https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3783775.html

 

 

米海軍、UFO映像「本物」認める 米報道

(2019.9.19、産経ニュース)

 

米CNNテレビは19日、未確認飛行物体(UFO)の可能性があるとされた飛行物体の映像について、米海軍が「本物」の未確認現象として分類していることを認めたと報じた。CNNによると、飛行物体の映像は2004年と15年、パイロットの訓練中などに撮影された計3本で、軍の機密指定が解除され17~18年に公開されていた。赤外線センサーが高速移動する長方形の物体をとらえたという。

 

UFOをめぐっては今年5月にも、南部フロリダ州沿岸で訓練飛行中の海軍戦闘機が「極超音速で飛行する物体」を撮影した映像が公開されている。米メディアによると、米国防総省は07年以降、UFOの目撃情報の調査を専門チームを作り秘密裏に実施。12年までに約2200万ドル(約23億7000万円)が投じられた。(ワシントン支局)

 

 

米軍戦闘機が撮ったUFO映像「本物」と米海軍が認め

(2019年9月19日 Newsweek)

 

米海軍機が空で捉えた飛行物体が「未確認航空現象(UAP)」と分類され調査されていることがわかった。米海軍は9月上旬、過去15年間に同軍の操縦士が撮影した飛行物体を「未確認航空現象(UAP)」と分類し、調査していることをようやく認めた。9月17日付のサンディエゴ・ユニオン・トリビューン紙によれば、映像は2004年と2015年に海軍のパイロットがサンディエゴ沖と大西洋上空で撮影したもので、全部で3本ある。

 

これらの映像(以下のURL参照)は、機密解除された政府文書を公開する「ザ・ブラック・ボルト」というサイトが入手した。問題の映像には小型の飛行物体が高速で飛び回る様子が映っているが、海軍報道官はこの映像について「一切、説明も仮説もない」と述べている。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/09/ufo-3_2.php

2019年09月15日

ニュース:大嘗祭の献上米収穫の儀

「大嘗祭」献上米を収穫する儀式

 

天皇陛下の即位に伴って今年11月に行われる伝統儀式「大嘗祭」に献上する米を収穫する儀式が15日、大田市で行われました。「大嘗祭」は、天皇が、即位後初めて、新しく収穫された穀物を神々に供えた上でみずからも口にして、国と国民の安寧や五穀豊穣などを祈る儀式で、全国から米などが献上されます。

 

島根県では、大田市の農業生産法人の代表、中祖雅之さんが米を献上する献穀者に選ばれ、15日、関係者18人が出席して稲刈りの儀式、御抜穂式が行われました。ことし5月に田植えが行われた田んぼは、稲穂がたわわに実っていて、神職が祝詞をあげて収穫に感謝しました。そして、参加者たちは鎌を手に田んぼに入り、根元からていねいに稲を刈り取っていきました。刈り取られた稲は、組んだ木にかけて自然乾燥させ、来月下旬に献上されることになっています。栽培した中祖雅之さんは、「なかなかしっかりした稲が育ったと思います。一回しかない重要なことなので、令和の時代が平和になることを願って献上します」と話していました。

 

2019年09月15日

ニュース:秋篠宮家の佳子さま、欧州ご訪問

佳子さま欧州2カ国へ出発 初の海外公式訪問

(2019.9.15、産経、一部抜粋)

 

秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さまは15日、日本との友好、外交関係開設150周年を迎えたオーストリアとハンガリーを公式訪問するため、羽田発の民間機で出発された。佳子さまの海外公式ご訪問は初めて。25日に帰国される。15日夜(現地時間)にドイツ経由でオーストリアの首都、ウィーンに到着し、16日にファンデアベレン大統領を表敬される。17日は友好150周年記念レセプションに臨席し、あいさつをされる。

 

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佳子さま、オーストリアで国交150周年記念行事に出席

(2019年9月18日、朝日新聞、一部抜粋)

 

オーストリアを公式訪問中の秋篠宮家の佳子さまは17、18の両日、ウィーンで日本とオーストリアの国交樹立150周年を記念する行事に出席された。17日の記念レセプションで、オーストリアの国会議員らを前に、両国の交流促進に敬意を表し、友好継続を願うおことばを述べられた。佳子さまは「長年にわたり、音楽を志す多くの日本人が、オーストリアで学んできた」などと芸術交流に言及。今回、ウィーン少年合唱団やウィーン大学、日本人学校などを訪ねており、「日本とオーストリアの絆を大事に考える方々とお話しできたのは、本当にうれしいことだった」と述べられた。18日には、世界遺産のシェーンブルン宮殿を訪れ、ガイドの案内で宮殿内を回った。敷地内の庭園群の一角にある日本庭園の改修お披露目式に出席された。

 

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佳子さま、ハンガリー大統領を表敬訪問

(2019年09月20日、時事ドットコム、一部抜粋)

オーストリアへの公式訪問を終え、ハンガリーに移動した秋篠宮家の次女佳子さまは20日、首都ブダペストの大統領府を訪れ、同国のアーデル大統領を表敬訪問された。オーストリアと同じくハンガリーも今年は日本との国交樹立150周年で、佳子さまは21日に開かれる記念夕食会に出席する。

 

佳子さまが訪問されたオーストリアとハンガリーはどういう国でしょうか?

オーストリア

ハンガリー

2019年09月10日

NHK:「昭和天皇は何を語ったのか」

9月7日深夜、Eテレで、NHKスペシャル“昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録「拝謁記」~”が再放送されました。番組は、初代宮内庁長官、田島道治が、昭和天皇との対話を詳細に書き残した「拝謁記」をNHKが入手し、戦後、昭和天皇がどういうお考えでいらっしゃたのか、またその当時の政治情勢を、昭和天皇と田島長官とのやり取りを通して描き出したものでした。

 

拝謁記(はいえつき)は、民間出身の田島長官が、長官就任の翌年、昭和23年から5年近く、昭和天皇との具体的なやりとりや、そのときの様子などを手帳やノート合わせて18冊に詳細に書き留めたもので、天皇陛下の祖父、昭和天皇の実像と占領期の実像を知る第一級の資料とされています。

 

この番組の中で、最も印象深かったことは、昭和天皇が、戦争への後悔を繰り返し語られ、1952年のサンフランシスコ講和条約後の独立記念式典の「おことば」で国民に深い悔恨と、反省の気持ちを表明したいと強く希望されていましたが、当時の吉田茂首相の反対で、最終的に敗戦への言及は削除されたという事実です。しかし、吉田総理の判断は、単に彼が頑強な保守政治家だったからなされたのではなく、それは天皇を守るために採られたものであったこと、特に、当時あった天皇退位論を抑えるという目的があったという事実もわかりました。では、この点について掘り下げてみたいと思います。

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封印された天皇の「反省」

昭和天皇は、田島長官に次のように語られ、「おことば」に反省の言葉を入れることを強くこだわり続けられました。

 

「私はどうしても反省という字を入れねばと思う」

「反省といふのは私にも沢山あると言えばある」

「『軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか、…それらを皆反省して繰返したくないものだ』といふ意味も今度のいふ事(おことば)の内にうまく書いて欲しい」

 

こうした昭和天皇のご意向を受け、「おことば」の草案が書かれ、田島長官が吉田首相にお言葉案を説明されます。それに対する吉田首相の反応です。

 

「『戦争を御始めになった責任がある』と言われる危険がある。」

「今日は、もはや戦争とか敗戦とかいふ事は、言って頂きたくない気がする…。」

「大体結構であるが、(反省ばかりでなく)いま少し積極的に新しい日本の方向というものを力強く示していただきたい」

 

これを受け、田島長官は「新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成することは、期して待つべきであります」という言葉を加えたいとして最終案が作成され、吉田の大磯の自宅に送られました。数日後、首相からの返信が来ます。それを見た田島氏は慌てて、昭和天皇に相談します。それは、昭和天皇が反省の念を述べた、思い入れのある一説をすべて削ってほしいという要求があったからです。吉田総理大臣が、「おことば」の草案から削除を求めて、実際に削除された一節は、次の部分でした。

 

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国民の康福(こうふく)を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、また摂政以来終始変わらざる念願であったにもかかわらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡(せいせき)に顧みて、悔恨悲痛、寝食(しんしょく)為(ため)に、安からぬものがあります。

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これに対して、昭和天皇は、「(それでも)私は反省をしなければならぬ、と思う」と譲られなかったそうです。

 

 

天皇退位論

吉田首相が、田島長官から昭和天皇の思いを聞いていたにもかかわらず、「反省」の部分を削除することにこだわった背景には、戦後直後からあった「昭和天皇退位論」が、この時期、再燃していたそうです。その急先鋒は、驚くなかれ、中曽根康弘元首相だったようです。番組ではこの辺りの事情を次のように再現してました。

 

国会において、中曽根議員は、「もし天皇が退位のご意志があるならば、平和条約発効の日が最も相応しいだろう」と、天皇陛下の意思さえあれば、平和条約発効とともに退位すべきだと述べたのです。これに対して、吉田首相は答弁として「これをいうものは非国民だ」と一蹴したと番組では紹介していました。

 

中曽根康弘という現在もご存命の大物政治家は、今では保守政治家の代表者のように言われていますが、若き頃は「風見鶏」と揶揄されていました。政治の風向きを読んで、自分の主張を180度でも変えるという批判です。当時、天皇退位論に乗っかた方がよいと判断されたのかもしれません。中曽根氏といえば、日本での原発推進の旗振り役された方でもありました。政治家にとって風を読むことは大事なことなのでしょうね。

さて、いずれにしても、この状況を受けて、田島長官は、昭和天皇に対して、「首相の思いとしては、せっかく今、声を潜めている退位論を呼び覚ます不安があること、今さら戦争とか敗戦などは聞きたくない、ということだ」と吉田首相の意図を説明されたそうです。結局、昭和天皇は、田島氏の努力を労いながら、憲法で定められた「象徴」として、総理大臣の意見に、最後は同意されたそうです。

 

私は、番組を通じて、昭和天皇が秘書役の田島長官に、自らの意見を存分に述べられていらっしゃったことに、何かしらの安堵感を覚えました。このほかにも、田島長官との会談を通して、当時の昭和天皇のお考えを知ることができます。

 

戦前の軍部と敗戦について

昭和天皇は、軍が勝手に動いていた様を「下剋上」と表現して、「考えれば下剋上を早く根絶しなかったからだ」、「軍部の勢は誰でも止め得られなかった」、「東条内閣の時は、すでに病が進んでもはやどうすることも出来ぬといふ事になっていた」と繰り返し語っていらっしゃったそうです。

 

戦後、「旧軍閥式の再台頭は絶対嫌だ」と、昔のような軍隊の復活には否定的でいっしゃいました。番組では、次のようなエピソードが紹介されていました。

 

1950年6月の朝鮮戦争を受けて、警察予備隊がその年の8月に発足した際、彼らが「捧げ筒」という銃口を上に向ける旧軍の儀式を行っていたのを、ごらんになられ、「例の声明には、反省するという文言はいれる方が良いね」と述べられたそうです。

 

 

戦後日本の再軍備について

朝鮮戦争勃発後、アメリカは日本に対して手のひらを返したように、日本に対して再軍備を求めました。そこで吉田内閣は警察予備隊を創設させますが、警察予備隊の位置づけに関しては、議論がありました。

 

吉田茂首相は、「経済力が回復するまでは国として軍隊を持たなくていい、アメリカにおんぶにだっこでいいじゃないか」という意見でした。番組では吉田首相の肉声を再現していました。「こないだダラスが来たときも、再軍備なんて冗談じゃない、と。日本の実情を知らないからそう言うことを言えるんだ、と本人にも言ってやりましたよ。日本としては、なるべくアイツを利用して、アメリカにおっかぶせて倹約しようと…」。吉田首相の豪快な一面は、自国の防衛は外国の軍隊に委ねることに疑問を呈してきた部下に対して、「番犬と思えばいいんだよ」と諭したエピソードなどでも知られていますね。

 

一方、吉田茂の政治的ライバル、鳩山一郎などの保守派は、「警察予備隊は、警察じゃなくて軍隊なんだから、いっそのこと憲法改正して軍隊にすればいい」と主張していました。ここに、護憲か改憲の議論も活発になったのでした。

 

さて、この極めて政治色の濃いテーマに、昭和天皇も自らのお考えを堂々と述べられていました。田島長官の「拝謁記」によれば、昭和天皇は「国として独立する以上、軍は必要」、「軍備の点だけ公明正大にして、堂々と改正してやった方が良い」と私的に発言なさっています。つまり、昭和天皇は、当時、保守派寄りの意見をお持ちだったのです。もちろん、「旧軍復活はダメ」という条件の下でではありました。

 

「拝謁記」にはまた、こうしたご発言をされた背景には、「当時、共産国が勢いを増し、東西冷戦の危機があった」と書かれています。さらに、昭和天皇は、田島長官に、「吉田首相にも質問の形で再軍備のことを促した方が良いよね」というような相談をされていっらっしゃたのですから驚き数倍です。

 

番組では、歴史家の秦邦彦氏が登場して、この件について次のように解説していました。

「ここでの日本の安保に対する天皇の意見は、第9条を改正して再軍備化するのは、国家として当然ではないか、と言っている。当然、旧軍閥の復活はダメだという前提はあるが…」。その一方で、「吉田茂は、『日本の経済力がまだ高くないうちは待ってくれ』という意味を込めて、再軍備には反対だった。天皇や保守派は、今後の危機を考えていっそのこと再軍備、を考え、吉田茂は現実的にお金がないから無理、と考えた」…

 

私は、共産主義の懸念以前の問題として、昭和天皇は、「国家が国民を守るために、軍隊を持つのは当然だ」という自然な良識から出されたご発言ではなかったかと思っています。また、吉田茂の考えは、単なる経済的な理由ではなく(お金のことは見せかけの理由)、深い思慮に基づいたもっと戦略的な動機があったのではないかと思っています。

 

では、再軍備に対する昭和天皇のご意見はどうなったのでしょうか?「拝謁記」では、田島長官は昭和天皇の意見に対して、「そういうことは政治のことゆえ、陛下がご意見をお出しにならぬ方が良いと存じます」と、首相にも言わない方がいいと助言されました。そして、昭和天皇もこれを受け入れられました。

 

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この番組を通して、私は、戦後日本に対する昭和天皇のご心労がいかほどであったか計り知れない思うと同時に、そのご心労を何よりも理解したであろう田島道治という人物の存在意義の大きさに感じ入りました。

 

<参考>

NHKスペシャル:昭和天皇は何を語ったか?

昭和天皇「拝謁記」入手 語れなかった戦争への悔恨

びぼうぶろぐ

2019年09月06日

歴史:源氏長者と徳川家康

先の参議院選挙で、徳川家康の末裔が立候補していたことをきっかけに、徳川家について調べる気になりました。また、秋田へ行った際、佐竹氏について学ぶうちに、源氏の起源というテーマに行きつきました。その源氏のストーリーの中で徳川家がほとんど出てきませんでした。征夷大将軍になるためには源氏でなければなりません。家康はいかなる手段を使って征夷大将軍になったのでしょうか?

 

このテーマに明るくない方は、「源氏について調べてみた(7月31日投稿)」を先に読んでいただくと理解が深まるものと思います。

 

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源氏長者

「源氏長者(げんじのちょうじゃ)」という「氏長者(うじのちょうじゃ)」があります。「氏長者」とは、「氏(うじ)」の中で官位が最高位の人物が天皇より任命されます。源氏長者(げんじのちょうじゃ)の場合も、源氏一門の長であり、従一位の源氏の姓を名乗る者に対して与えられました。源氏長者とともに有名な氏長者には、藤原一族の「藤氏長者(とうしのちょうじゃ)」がいました。氏長者になると、氏のなかでの祭祀、召集、裁判、官位の推挙などの諸権利を持ちます。

 

最初に「源氏長者」を称したのは、平安時代、嵯峨天皇の皇子であった源信(みなもとのまこと)(810~869)とされています。また、初代の嵯峨源氏嫡流である源融(みなもとのとおる)(822~895)は、皇族の子弟の学校である「淳和院」「奨学院」の別当(理事長に相当)に就任し、これ以降、源氏長者が「淳和院・奨学院の両別当を兼任する」ことが慣例となりました。

 

このように、源氏長者は、当初は嵯峨源氏から出ていましたが、その後、公家の名家である村上源氏の久我(こが)家が、公家の代表として、その地位を継承していました。村上源氏は、藤原道長の子で関白頼通の養子、源師房を祖とする家柄で、元来、「源氏」と言えば村上源氏をさすほどでした。源頼朝、足利義満、武田信玄などの祖とされる武家の清和源氏は、平安時代のこの当時、公卿の警護や地方の受領でしかなかったといいます。

 

しかし、清和源氏の足利尊氏が、1398年、征夷大将軍となり、室町幕府を開くと、清和源氏の地位が一気に高まります。3代足利義満は、「源氏長者」と「淳和奨学両院別当」の地位を当時の久我家から奪うことに成功し、武家源氏では最初の源氏長者となったのです(征夷大将軍と源氏長者を兼ねたことも初)。これによって、武家の棟梁である義満は、公家のトップともなり、明との貿易では「日本国王」と名乗ることを許されました。

 

義満以降、足利将軍は義持・義教・義政・義稙の計4名が、正式に源氏長者になっています。また、村上源氏の久我家も、源氏長者の地位に返り咲いており、この時代、源氏長者は、清和源氏・足利家と村上源氏・久我家が交替で務めていました。しかし、その後、足利将軍の地位が不安定となり、足利家の源氏長者へ関与しなくなったことで、戦国時代には再び村上源氏の久我家から源氏長者が任ぜられるようになりました。

 

ところで、ここまでの話しの中で、嵯峨源氏、清和源氏など〇〇源氏がでてきましたが、次に源氏嫡流について述べてみたいと思います。

 

 

源氏嫡流 

多くの源氏の中で、源氏の嫡流すなわち本家・宗家の血統を源氏嫡流(げんじちゃくりゅう)と言います。ただし、源氏の嫡流といっても、源氏全体の嫡流を意味せず、特定の源氏の系統を指すことが多いとされています。同じ源氏でも、遠祖たる天皇によって、嵯峨源氏、醍醐源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏などに分けられ、その嫡流を、例えば嵯峨源氏であれば、嵯峨源氏嫡流と呼ばれたりしていました。

 

また、公卿を輩出した公家源氏と武家の棟梁として活躍した武家源氏に大きく分けられることもあります。広く知られているのが後者で、中でも、清和源氏の流れは鎌倉幕府の源氏将軍として栄えました。さらに、清和源氏の系譜においても、2代目源満仲の嫡子で長男・頼光の子孫を摂津源氏、満仲の三男・頼信に始まる家系を河内源氏と呼び、それぞれ清和源氏の嫡流と主張していました。

 

摂津源氏は、京都を活動基盤としました。以仁王が平家を打倒すべく諸国の源氏に呼びかけた際に始めに挙兵した源頼政は摂津源氏でしたが、従う兵はその拠点であった摂津国をはじめとする畿内に限られたので失敗に終わってしまいました。

 

一方、河内源氏は坂東へ勢力を扶植し、後に、東国において圧倒的な求心力を得ていました。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる源義家から、源頼朝や足利尊氏を輩出し、清和源氏(河内源氏)が武家源氏の代表とみなされるようになりました。正確には、源頼朝が、武家の棟梁の地位を確実なものにしようという政治的な思惑により、源氏嫡流という地位を生み出したとの見方が支配的です。実際、頼朝は、弟・義経以下家人の自由任官を禁止し、源氏一門、御家人の位階任官を鎌倉殿の独占的地位を確保しました。

 

このように、頼朝は、東国武士を臣下としてきた河内源氏の遺産を受けぎ、朝廷から受けた将軍宣下など与えられた特権を背景に、頼朝の系統を嫡流とすることに成功したのです。こうして、頼朝の先祖を遡及し、頼信にはじまり、頼義、義家と続く河内源氏が武家の源氏嫡流と見られるようになりました。

 

ただし、源頼朝の一族が3代実朝で滅びると、武家源氏の棟梁という概念も重要性がなくなってしまいました。しかし、その後、足利尊氏がでて、京都の室町に幕府を開き、足利将軍家を確立して頼朝以来の源氏将軍を復活させました。さらに、足利義満が征夷大将軍の地位に加えて、源氏長者・淳和奨学両院別当に地位を得て、公家と武家にまたがる強大な権力を獲得したことは、既に説明した通りです。

 

河内源氏の流れを汲む家は、足利家だけでなく、新田義貞の新田家があり、また、源義家の弟である義光(新羅三郎義光)からは、武田家、佐竹家など名家を輩出します。しかし、武家の棟梁とある清和源氏(河内源氏)の系譜に、徳川の名前は出てきません。徳川家が、武家源氏の清和源氏であるという根拠は何もなく、素性が明らかでない三河の土豪との見方が支配的です。では、徳川家康はいかに、源氏の名を勝ち取り、征夷大将軍として幕府を開くことができたのでしょうか?その時、源氏長者の地位はどうなったのでしょうか?

 

徳川家の由来

徳川家康は、1555年(天文24年)3月、駿府の今川氏の下で元服し、次郎三郎元信と名乗り、名は後に祖父・松平清康の偏諱(へんき:名前の一部)をもらって蔵人佐元康と改めています。

 

家康の転機は、1566年(永禄9年)、五摂家筆頭の近衛前久の力添えで、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、同時に「徳川」に改姓したことです。家康の遠祖は、新田源氏の流れで、上野国の「世良田(せらだ)郷・得川(とくがわ)氏」であるとしています。しかし、当初、朝廷は、「世良田氏が三河守になった前例がない」として家康の三河守の官職と、徳川の改姓を認めませんでした。しかし、近衛前久が、「得川氏はもと源氏で、その系統の一つに藤原になった先例がある(=藤原氏ならば「三河守」任官の前例がある)」として、家康個人のみが、松平から「徳川」に「復姓」するという奇策を考案しました。得川から徳川になった(漢字を変えた)のは「仔細あって」のことだそうです。

 

いずれにしても、これを朝廷が認め、家康は「徳川」という苗字を下賜され、三河守になることができたのでした。この特例ともいえる措置で、源氏の「徳川家」が誕生しました。しかし、三河守は藤原でなければならないので、家康は「藤原朝臣家康」と称していたそうです(朝臣あそんは朝廷の臣下の意)。ただ、家康は当時、藤原と源氏を巧みに使い分けていたと言われています。

 

しかし、その後、家康は豊臣秀吉への臣従を強いられます。1586年5月、秀吉の妹・朝日姫を正室として迎えさせられ、同年9月、秀吉の母・大政所まで家康の元に送られてきます。この結果、家康は秀吉の親族衆になり、「豊臣姓」を下賜されます(秀吉は1585年に関白に就任、翌9月に豊臣姓を賜り太政大臣に就任していた)。家康は、1596(慶長元)年5月、秀吉の推挙により、「正二位・内大臣」を受けましたが、「源(藤原)朝臣家康」ではなく「豊臣朝臣家康」での宣下であったと言われています。

 

1598年(慶長3年)8月、太閤・豊臣秀吉が死去します。これにより、徳川家康の天下人への道が開けたわけですが、この時の家康は、五大老・筆頭で、形式的には豊臣家の家臣でした。つまり、家康にとって、秀吉の死は、単に主君が秀吉から秀頼に代わったことを意味していました。

 

秀吉の死後、武家として朝廷の官位は、内大臣の家康が最上位となりました。徳川家康の官位は「正二位・内大臣」であったのに対して、豊臣秀頼の官位は、当時はまだ「従二位・権中納言」でした。官位では秀頼を凌いでいるのですが、家格(家柄・家の格式)で劣っていました。豊臣家に家格は、最高位の摂関家、しかも秀頼は将来は関白が見えています。これに対し、徳川家は清華家で最上位の摂関家の後塵に拝しています。

 

家康にとって秀吉に代わる天下人になるためには、豊臣家からの呪縛を離れ、秀頼を凌ぐ地位を確保することが必要になってきました。そのためには、「藤原(豊臣)」から「源氏」に復姓し、源氏の最高位である源氏長者の格付けを得る必要がありました。そうすると、征夷大将軍の道が開かれます。

 

 

征夷大将軍と源氏長者への道

秀吉の死の翌年(1599年)、朝廷内でスキャンダルがありました。久我敦通(こがあつみち)と勾当内侍(こうとうのないし)の密通の風聞が立ったのです。この結果、久我敦通・通世親子は、家領の多くを奪われ京都を追放され、失脚します。前述したように、久我(こが)家は村上源氏嫡流で、この時期、源氏長者を独占していました。これで、徳川家が源氏長者になるために障害が排除された形です。

 

1600年、家康は石田三成に関ヶ原の戦いを起させ、勝利します。ただし、関ヶ原の戦いとは、形式的には豊臣家臣同士の争いでした。ですから、家康は、大坂城の淀殿、秀頼へ戦勝報告を行い、淀殿と秀頼から褒美をもらっています。ここでも、家康の立場は、あくまで豊臣家臣だったのです。

 

そこで、家康は征夷大将軍として幕府を開くため、また源氏長者の格付けをめざして、「藤原(豊臣)」から「源氏」に復姓し、徳川氏の系図の改姓を行いました。何でも、清和源氏の吉良家の系図を借用し(譲り受け)、徳川氏の系図を足利氏と同じく八幡太郎源義家に通じるようにさせたそうです。武家が日本を支配するために幕府を開くのは、源頼朝公以来の伝統であり、征夷大将軍に任命されねば幕府を開くことはできませんでした。そして、征夷大将軍になるには源氏(清和源氏系の河内源氏)でなければならないという不文律がありました。

 

ただし、征夷大将軍になっても官位は上がるとは限りません。この時の家康の官位は、「正二位」でしたが、将軍になる前にその上の「従一位」を望んだと言われています。というのも、豊臣秀頼が将来成人して関白を継げば従一位になることになるとされていました。そこで少なくとも秀頼に「負けない」ためにも「従一位」が必要だったのです。それだけではありません(むしろこちらの理由の方が重要)。源氏長者になる条件に「従一位の源氏の姓を名乗る者」というのがあったのです。家康にとって、徳川の世を盤石なものにするために、征夷大将軍だけでは不十分で、源氏長者になることが必要だったという思われます。そして遂にその日が来ました。

 

1602年(慶長7年)1月、徳川家康に「従一位」が与えられたのに続き、翌1603年2月、後陽成天皇が、徳川家康を征夷大将軍ならびに淳和奨学両院別当に任命しました。この時、家康は「源朝臣家康」として将軍宣下をうけています。家康はまた、征夷大将軍宣下と同時に、源氏長者宣下を受けることができました。1600年、天下分け目の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が、征夷大将軍になったのは1603年です。将軍になるまでに、3年かかった理由は、「源氏長者」になる条件ともいえる「従一位」を受けるのに時間がかかったということができるかもしれません。

 

家康は日本国王か?

征夷大将軍と源氏長者はセットのような印象がありますが、前述したように、室町時代までは、公家の村上源氏の系統がほぼ継いできました。しかし、村上源氏の久我敦通を失脚させ、源氏長者の地位が空位となった後、清和源氏・徳川将軍家が、江戸時代を通じて、征夷大将軍と源氏長者を独占(世襲)することができました。

 

武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は、日本国王を名乗った足利義満から始まった慣例で、途中途切れていましたが、徳川家康が、藤原(豊臣)姓を源姓に改め征夷大将軍と源氏長者を一身に兼ねることに成功しました。とりわけ、源氏長者になることは、家康は「将軍」の権威を一層高め、武家だけでなく、公家の世界も掌握し、実質的な日本の最高実力者の地位を得る絶対条件だったのです。

 

 

<参考>

源氏嫡流嫡子(Wikipedia))

源氏長者(Wikipedia)

「徳川家康は関ヶ原の戦い後、征夷大将軍までなぜ三年かかったのか?」

「久我敦通と勾当内侍(長橋局)の密通。徳川家康の源氏長者への道」

「徳川家康 将軍になるためルーツを詐称した」(SAPIO2018年5・6月号)

「徳川の武家政治は嘘から始まっている」など