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2019年08月29日

伝承:一口に「七夕」と言っても…

夏も終わりに近づき、7月、8月は全国で夏祭りが行われました。先日(8月12日)、東北の三大祭りについて、紹介しましたが、三つのお祭りの由来に共通していたのが、七夕のお祭りでした。今回は、夏の終わりに七夕についてまとめました。

 

七夕伝説

 

七夕まつりは、五節句としての年中行事のひとつで、日本の星祭りです。縁起の良い「陽数(奇数)」が連なる7月7日の夕べに行われ(旧暦7月7日の行事)、「七夕の節句(しちせきのせっく)」と呼ばれています。七夕(たなばた)といえば、一般的には、織姫と彦星が年に一度再会する日として知られ、毎年7月7日の夜に、願いごとを書いた五色の短冊や飾りを笹の葉につるし、星(織姫と彦星)に願う習慣が今も残ります。ただし、この織姫と彦星の話しが中国から伝わったものであることを知っている人は意外と多くありません。かといって、単に中国の伝承が、そのまま日本に星まつりになったかというとそうでもありません。

 

<七夕の由来>

 

七夕は、日本古来の「棚機つ女(たなばたつめ)」の伝説や、「お盆前の清めの風習」に、中国伝来の「織姫と彦星の伝説」と「乞巧奠(きっこうでん)」などが結びついて、現在のようなかたちになりました。

 

  • 織姫と彦星の伝説

日本の七夕のルーツの一つとして最も有名なのが、中国伝来の「織姫(おりひめ)」と「彦星(ひこぼし)による「機織りの女の子と牛飼いの物語」です。「織女(しょくじょ)牽牛(けんぎゅう)伝説とも呼ばれています。

 

織姫と彦星の物語

昔々、天の川の東には天の神様(天帝)が住んでいました。その天帝には、一人の娘がおり、名前を織姫と言いました。織姫は、雲霧消兼という布を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんを見つけてやろうと思いました。天帝は、天の川の西側に住む働き者で有名な牛飼い、彦星「牽牛けんぎゅう」と引き合わせました(彦星は織姫の対義語)。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。こうして、天の川の西岸に住む機織りの織姫と、東岸に住む牛使い・彦星が、織姫の父親である天帝のすすめで結婚しました。

 

しかし、二人は、結婚すると、仲睦まじくするばかりで、全く仕事をしなくなってしまいました(大人の世界でいえば、夫婦の「営み」を盛んに行っていたようです)。織姫の作る織物は天の住人の着衣になるものです。また、牽牛が牛を放置しておくと、畑の作物は勝手に食べて暴れたり、逆に病気になったりしてしまいます。天の神様に、天上に住む人々から苦情が届くようになりました。

 

何度、注意しても聞かない二人に業を煮やした天帝は、「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、天の川の橋を壊し、川を隔ててふたりを離れ離れにしました。会おうとしても、巨大な天の川が二人の間に立ちはだかります。こうして、織姫はこと座のベガ星に、牽牛はわし座のアルタイル星で、暮らすことを余儀なくされてしまいました。その距離は、14光年だそうです。ただし、「一年に一度だけ、二人は会ってもよい」と、七月七日の七夕の夜に限って再会することが許されました。

 

その後、織姫と彦星は、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命に機を織り、彦星も天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜になると、織姫は、天帝の命を受けた白鳥座のデネブ(星)のカササギの翼にのって、天の川を渡り、彦星の所へ会いに行きます。地域によっては、七夕の夜、少しでも雨が降れば二人は会えないと伝えるところもあれば、その雨は織姫のうれし涙で二人は必ず会えるという伝承もあります。

 

このように、年に一度の逢瀬は、七夕のメインテーマとなり、この星伝説(織女牽牛伝説 )は、せつない恋愛話しとして、日本には奈良時代に伝わりました。一方、日本の七夕の行事は、願いごとを書いた五色の短冊や飾りを笹の葉につるしたりしますが、この風習はどこからきたのかというと、中国伝来の儀式・乞巧奠(きっこうでん)があるとされています。

 

 

  • 乞巧奠伝説

「乞巧奠(きっこうでん、きこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)」とは、星伝説の織姫にあやかり、機織りや裁縫などの技芸の上達を願う祭り(奠)で、庭先の祭壇に針などをそなえて、星に祈りを捧げます(織女は、天上で機を織る手芸の神様とされている)後に、機(はた)織りだけでなく、芸事や書道(針仕事や習字、詩歌)などの上達も願うようになったそうです。

 

日本には奈良時代に、乞巧奠が伝わると、宮廷の女性達(貴族)は、庭に祭壇を設けて、ヒサギの葉一枚に、五色の美しい彩りの糸を通した金銀7本の針を、供物とともに供え、裁縫の上達を祈りました。また、梶の葉に和歌を綴る風習もこの時に始まったとされています。

 

こうした中国からの伝説は、もともと日本に以前からあった神事である「棚機(つ)女(たなばたつめ)」の行事に由来します。もともとは七夕と書いて「しちせき」と読んでいましたが、七夕を「たなばた」と読むようになったのは、日本古来の「棚機つ女(棚機津女)」の伝説以降です。

 

 

  • 棚機津女伝説

古事記によれば、日本には「棚機津女(棚機つ女)(たなばたつめ)」を信仰する文化があったと記されています。「棚機津女(棚機つ女)」の「棚機(たなばた)」とは、文字通りの意味は、神様に捧げる着物を織った織機(しょっき)のことですが、棚機(たなばた)という名の神事を指すます。

 

これは、乙女が、川などの清い水辺にある棚造りの小屋(機屋はたや)で、神様に捧げる神聖な布(神様が着る衣)を織ります。織った着物を棚にそなえ、神さまを迎えて秋の豊作を祈ったり、人々のけがれをはらい、村の災厄を除いたりというような、古い日本の禊ぎ(みそぎ)行事です。この時、選ばれた乙女を「たなばたつめ(棚機女、棚機つ女、棚機津女)」と呼び、七月七日に水辺の小屋に籠り、神様へ捧げる布を織るのです。

 

神話では、その後、七月六日に水辺の機屋(はたや)で神の訪れを待ちます。女性(=巫女)はその夜に天から降りてくる神様の一夜妻になり、女性自身も神になるとされていたそうです。実際の棚機(津つ)女は、織りあがった布を棚に置き機屋を出たそうですが、その際、水辺で禊をすると町や村が豊穣になり、厄を祓えると言い伝えられています。

 

このように、外来の中国語「七夕」を「たなばた」と日本語読みしているのは、棚機津女(たなばたつめ)に由来します(たなばたの語源は「たなばたつめ」)。そして、この神事は7月7日に行われたことから、七夕のお祭りは、7月7日に行われるようになりました。では、なぜ、「たなばたつめ」の神事は7月7日だったのでしょうか?その答えは、日本のお盆との関係があります。

 

 

  • お盆の風習

この「棚機つ女(たなばたつめ)」の行事は、やがて仏教が伝わると、お盆(盂蘭盆会)を迎える準備期間である7月7日の夜に行われるようになったとされています(旧暦のお盆は7月15日)。一般的には、先祖の霊を迎えるための精霊棚(しょうりょうだな)や布飾りの幡(はた)を安置するそうです。一説には、この行事が、7月7日の夕方に行われたことから、7日の夕で「七夕」と書いて、当初はそのまま「しちせき」と呼ぶようになったという見方もあります(その後、「たなばた(棚幡)」とも発音されるようになった)。

 

このように、日本の七夕は、日本に古来からあった「棚機女(たなばたつめ)」やお盆の行事と、中国から伝来した織姫と彦星の星伝説や乞巧奠(きっこうでん)のお祭りなどが習合して、現在に至っています。

 

 

<日本の七夕の歴史>

 

前述したように、織女牽牛星(しょくじょ・けんぎゅう)伝説と、「乞巧奠(きっこうでん)」という儀礼が、中国から七夕の行事として、奈良時代に日本に伝わったとされています。また、この時代すでに、七夕のお祭りは、七月七日と定められたと言われています。ということは、既に、あるいは元々、日本古来の棚機津女(たなばたつめ)伝説とお盆の風習も、七夕の行事に反映していたことになります。

 

いずれにしても、奈良時代に日本で始まった七夕は、宮中行事として行われるようになりました。平安時代になると、宮中の人々は、桃やなす、うり、アワビなどを供えて星をながめ、香をたいて、楽を奏でました。また、夜つゆを「天の川のしずく」と考えて、それで墨を溶かし、梶の葉に和歌を書いて願いごとして楽しんだといいます。梶は古くから神聖な木とされ、天の川を渡る船の梶となって星に願いが届くと考えられていたそうです。また、梶の葉は神前の供物を供えるための器(祭具)としても用いられていました。

 

その後、七夕は武家にも伝わり、江戸時代になると、七夕行事が五節句の一つに定められるたことで、庶民の間にも広がっていきました。そうすると、願い事を書く際には、梶の葉のかわりに、短冊が用いられるようになりました。人々は5色の短冊に様々な願い事を書いて、笹や竹の葉に飾るようになりました。冬でも緑を保ち、まっすぐ育つ笹竹は、昔から神を宿すことができる不思議な力を秘めた神聖な植物とされてきました。

 

こうして、笹竹に短冊、色紙、吹き流しという現代の七夕飾りの基本形が定着していったのでした。昔は、七夕の祭りの後、竹や笹を川や海に飾りごと流していました。「七夕流し」や「七夕送り」と呼ばれる風習は、七夕飾りが天の川まで流れ着くと願い事が叶うという伝承や、竹や笹にけがれを持っていってもらうという「けがれ祓い」の意味がありました。

 

参考

仙台七夕まつりの歴史

暮らしの歳時記ガイド

七夕の由来は?牽牛はなぜ彦星というの?(生活に役立つ情報)

七夕の星に願いをこめて、その一(お話歳時記)

梶の葉と七夕の関係は?願い事のルーツ?

世界の民謡・童謡

五節句の起源など

2019年08月21日

祭り:盆踊りの起源と由来

前回の投稿では、お盆を取り上げました。お盆は、仏教を原点としつつも、日本古来の民族風習が色濃い行事でした。お盆の習わしの一つである盆踊りも同様で、インドや中国にはない日本独自の風習です。今回は、この盆踊りについて考えます。

 

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盆踊りの由来

 

盆踊りとは、お盆の時期に踊る行事で、お祭りの会場などで櫓を囲み、浴衣を着た踊り子が円を描くように、民謡に合わせて踊ります。元来、盆踊りは、先祖を供養することを目的にしていましたが、現代では、宗教的・習俗的な色合いは薄れ、娯楽性が強くなっています。具体的に、盆踊りは、地域の一大イベントとして開催されることが多いため、地域の人々との交流の場、帰省した人たちの再会の場、さらには男女の出会いの場として、私たちの生活に根付く夏の風物詩となっています。

 

前述したように、盆踊りは、「仏教由来のもの」として始まり、やがて、日本の習俗としての「先祖などの霊を供養」という側面が強くなって、全国的に広がりました。仏教の側面から言えば、盆踊りの由来は、平安時代の空也上人や鎌倉時代の一遍上人がはじめた「踊り念仏(念仏踊り)」が元になっていると見られています。

 

それから、お盆のもう一つの起源が、死者・先祖の霊魂を供養するという日本独特の風習です。お盆には祖先の霊が帰ってくるとされています。盆踊りも亡くなった人や祖先の霊を供養・もてなす意味も込められています。お盆にお迎えした故人や先祖の霊を慰め、無事に送り帰すための踊りとして受け継がれてきたのです。また、帰って来た霊が供養のおかげで成仏できた喜びを、踊りで表現しているともいわれています。

 

盆踊りは、通常、お盆の終わりの時期である8月15日の夜に開催されます。これは、16日には先祖の霊はあの世へ帰ってしまわれるからです。さらに、盆明けの16日は、先祖の霊と共に過ごす最後の一夜ということで、16日の朝まで夜通しで踊るのが通例だったそうです。

 

 

◆盆踊りの歴史

盆踊りは、500年以上の歴史を持つとされ、その由来は、平安時代に遡ることができます。この頃、比叡山の僧侶には、念仏を唱えながら阿弥陀仏の周囲をぐるぐる行道(ぎょうどう)してまわる「常行念仏」(じょうぎょうねんぶつ)という修行がありました。

 

山上の寺院堂内で行われていた念仏修行を、京都のまちなかの民衆の間に持ち込んで、「踊り念仏」という形で広めたのが、平安時代中頃にご活躍された「空也(くうや)上人」です。「空也」は、念仏を人々に覚えてもらおうと工夫してリズミカルに歌うように念仏を唱え始め、その念仏にあわせて踊りも踊るようになったのです。

 

ただし、それでも当時は、今のようにまだ全国的には普及してはいませんでした。この踊り念仏を全国的に広められたのが、鎌倉時代中頃に出られた一遍上人です。一遍上人と言えば、時宗を始められたことで知られています。神奈川県の藤沢にある時宗の遊行寺には、約700年前に一遍上人の一生を絵と物語で書いた国宝「一遍聖絵」(いっぺんひじりえ)があります。その中に、藤沢の片瀬や長野県の佐久で踊り念仏を行った絵があり、これが現存する踊り念仏の一番古い確証のある記録だそうです。

 

その後、一遍上人は、「踊り念仏」を独自に進化させた「念仏踊り」を生み出しました。「念仏踊り」は、踊りが主となった芸能を言います。「踊り念仏」は、もっぱら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら踊った一方、「念仏踊り」は、唱えるのは念仏でなくてもよく、代わりに歌も唄うようになったという違いがあります。「念仏踊り」の方は、宗派を問わず誰もが参加できるという特徴を持つので、全国的に広がるきっかけとなっていきました。今でも盆踊りが盛んな土地は、かつて一遍上人が全国行脚した時に訪れた土地であることが多いそうです。

 

全国的に「念仏踊り」が広がって来た頃、踊り念仏(念仏踊り)が、もっと古くからあった先祖の魂を供養するお盆の行事や民間で伝わる踊り、例えば、精霊や祖霊を迎えて踊るという「精霊踊」や地域独自の「踊り」などと結びつき、現在の「盆踊り」の原型をつくったと考えられています。当初は、仏教行事(「盂蘭盆会うらぼんえ」)であった「お盆」も、室町時代になると、死者供養としての「盆」の観念が色濃くなってきます。念仏踊り(踊り念仏)も全国に広がったとしても、まだ宗教的な要素が強く、仏教行事の一つであったものから、先祖を供養するための行事の側面が強くなっったのです。

 

ただし、今でいう「盆踊り」が登場するのは、一遍没後かなりたった室町時代のことです。室町の踊りは、「派手」な風流(ふりゅう)踊りが代表的です。風流とは、人を驚かすための華美な趣向であり、派手な踊りが踊られていたそうです。1400年代に入って、お盆に、風流踊りを踊ったとの記録があります。これが、盆踊りのスタートとみられています。このように、踊り念仏が、念仏踊り、風流(ふりゅう)踊りを経て、盆踊りになったと考えられています。

 

こうして、室町時代に始まった今でいう盆踊りは、江戸時代には、村々にまで浸透します。この頃になると、盆踊りは地域の人々の交流や男女の出会いの場となっていきます。盆踊りの歌の歌詞にははかなさや切なさなどの色恋めいた表現が多くあり、男女の出会いの場として踊られてきたことが伺えます。

 

 

明治以降の盆踊り

明治時代、炭坑節に代表される産業関連した盆踊りが生まれはしましたが、この時期、盆踊りは、冬の時代を迎えます。それは、明治時代には「風紀を乱す」との理由によって取り締まりが行われたことや、文明開化の影響で、盆踊りそのものが古い因習とみられたためでした。

 

しかし、大正時代は、「大正デモクラシー」と言われたように、日本の文化が様々に見直された時代であり、日本の伝統文化が再発見された時期でした。盆踊りも、大正時代末期には再び復活し、再び日本の各地域で開催されるようになり、現代に継承されています。

 

 

◆日本三大盆踊り

日本全国に今も数多く残る盆踊りには、何万人もの人が訪れるものから、町の集会所などで行われるような小規模なものまで様々ありますが、中でも有名なのは、「日本三大盆踊り」でしょう。

 

西馬音内の盆踊り(秋田)

西馬音内の盆踊り(にしもないのぼんおどり)は、秋田県の雄勝郡羽後町、西馬音内で開催される盆踊りです。毎年8月の16日〜18日まで開催され、国の重要無形民俗文化財にも指定されている700年以上の歴史ある盆踊りです。

 

郡上踊り(岐阜)

「郡上踊り(ぐじょうおどり)」は、岐阜県の郡上市八幡町で開催される盆踊りです。毎年7月中旬から9月上旬まで開催され、8月13〜16日には徹夜で夜通し踊る「盂蘭盆会(徹夜踊り)」が行われます。

 

阿波踊り(徳島)

徳島県徳島市で開催されるのが「徳島市阿波踊り(とくしましあわおどり)」です。毎年8月12日〜15日に開催され、起源はなんと400年前の江戸時代までさかのぼります。(すでに本HPレムリアで紹介、阿波おどり

 

 

<参考>

盆踊りの由来 | 盆踊りの世界

盆踊りとは?由来や歴史、有名な盆踊りも|いつから始まった? – 四季の美

盆踊りの由来と歴史、仏教との深い繋がり

仏教ウェブ入門講座

超便利、冠婚葬祭マナー

盆踊りの歴史にとんでもない事実が…!盆踊りの本当の意味や起源

盆踊りの歴史にとんでもない事実が…!盆踊りの本当の意味や起源

盆踊りとは?由来や歴史、有名な盆踊りも|いつから始まった?

芸能史からみた盆踊りの原点、盆踊りの世界など

 

2019年08月19日

伝承:「お盆」は仏教行事?

先日、投稿した阿波おどりも、京都の五山送り火も、お盆の恒例行事です。今回は、その「お盆」についてまとめてみました。

★☆★☆

 

日本では、毎年夏の「お盆」には、帰省ラッシュとなり、実家で、お墓参りをした後、親族がお供え物等を持ち寄ってご先祖様と一緒に過ごし、ご馳走を食べてお酒を飲んだりするのが恒例です。

 

■お盆(盆)とは

 

盆・お盆とは、祖先の霊を迎え、供養する行事です。お盆の期間には、年に一度、祖先の霊が子孫や家族の元に帰って来るとされています。盆の入りには「迎え火」を焚き祖先の霊をお迎えし、戻ってきた祖先の霊の供養をします。お盆の期間が過ぎる盆明けには「送り火」を焚いてお送ります。その間、お供えのきゅうりやなす、提灯など、お盆独特の習慣があります。これらの風習がお盆の風習として定着しています(迎え火、送り火については後に詳説)。

 

東京では7月13日から7月16日、その他の地方では8月13日から8月16日に行われ、8月のお盆のことを旧盆とか月遅れのお盆といいます(期日についても後述)。初盆(はつぼん)には四十九日、一周忌、三回忌などの法事法要とは別に、法要として供養の儀式が営まれますが、初盆以外のお盆には、家族親族だけで、祖先の霊と一緒に供養をするのが一般的です。

 

■お盆の由来

お盆は、仏教の行事だとされます。お盆は(盆)は、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、略して「盆会」「盆」と言います。このお盆をさす古い言葉である「盂蘭盆(うらぼん)」は、もともと仏教の言葉で、仏教のお経にも「仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)」というのがあり、お盆の由来を説明しています。「仏説盂蘭盆経」(「盂蘭盆経」)は、ブッタの説かれたお経です。ではどんなことが説かれているのかというと、ブッタの十大弟子の一人、目連尊者のエピソードが書かれています。

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ブッタが祇園精舎におられた頃のことです。ある日、神通力第一といわれる目連尊者が、親孝行をしようと思い立ちました。ところがその神通力によって、目連尊者の亡きお母さんが、餓鬼道(食べ物を食べられず飢えに苦しむ地獄)に堕ちて骨と皮ばかりになって苦しんでいることが分かりました。

 

深く悲しんだ目連は、すぐに鉢にご飯を盛ってお母さんにあげようとします。お母さんが喜んでそれを食べようとすると、たちまちそのご飯はぼっと燃え上り、どうしても食べることができません。鉢を投げて泣きくずれるお母さんを尊者は悲しみ、ブッタのところに走っていき、「どうしたらお母さんを救えるでしょうか」と尋ねました。

 

その時、ブッタは「そなたの母親の罪は深い。そなた一人の力ではどうにもならない。この7月15日に、飯、百味(ひゃくみ)、五果(ごか)等の珍味を十方の大徳衆僧に供養しなさい」「布施の功徳は大きいから、亡き母は餓鬼道の苦難からまぬがれるであろう」と教えてくださいました。目蓮が、ブッタの仰せにしたがったところ、お母さんは、たちどころに餓鬼道から天上界に浮ぶことができたそうです。

 

盂蘭盆は、この目連尊者のエピソードから、お盆に多くのお寺では、餓鬼道や地獄に落ちて苦しんでいる霊を救うための施餓鬼会(せがきえ)と呼ばれる法要が営まれています。

(仏教ウェブ入門講座「お盆の期間とお供え・お盆の意味」から引用)

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一方、中国の仏教寺院では、「盂蘭盆会」という名前の儀式が古くから行われてきました。中国の「仏祖統紀」によれば、日本に仏教が伝えられた538年、中国の梁の武帝が盂蘭盆(うらぼん)の「斎(法事)」を設けたとあるので、この頃には中国では、お盆の行事が行われてたことがわかります。同様に、唐の時代や宋の時代にもお盆が行われていた記録が残されているそうです。

 

このように、「お盆」と仏教が関係深いことは間違いないようですが、「お盆=仏教の行事」と単純に括ることはできません。例えば、仏教には、「毎年、お盆にご先祖様が戻ってくる」という教えはありません。そもそも、仏教では、いったん成仏した魂がこの世に戻るということはないそうです。また、日本で、お盆に関連した行事として有名な「盆踊り」が、インドや中国で、お盆の時に踊られた形跡はないとの指摘もあります。

 

お盆は、仏教行事のひとつと位置付けられていますが、最初は仏教の「盂蘭盆経」を講説する斉(法事)だったのが、だんだん先祖供養のしきたりが入り込んでくるなど、日本の民俗的風習が溶け込むことで、育まれてきたと考えられます。では、次にその日本のお盆についてより詳細に解説してみます。

 

■日本のお盆

日本で最初のお盆の行事は、聖徳太子の時代に当たる616年の4月8日と7月15日に斎(法事)が営まれたとされています。(なお、4月8日はブッタの誕生を祝う花祭り、7月15日がお盆)。また、657年には、「盂蘭盆会を設く」、659年には、京都の色々な寺で「盂蘭盆経」の講釈があったと記録に残されているそうです。

 

こうして、お盆は、平安時代になると公家にも恒例行事として広まり、鎌倉時代には、滅亡した平家をお盆に弔うようになりました。さらに、庶民にも普及し、室町時代では、軒先に盆灯籠を立て、江戸時代には「迎え火」と「送り火」も行われるようになったそうです。

 

■お盆の時期

お盆の時期は、旧暦の7月15日頃を中心とした期間とされています。旧暦の7月15日頃というのは、現在の新暦では8月15日前後、全国的には8月13日から8月16日の4日間です。ただ、地域によっては(例えば東京や横浜の一部等)、新暦となった今でも7月13日から16日までをお盆の期間とするところもあります。いずれにしても、一般的にお盆の期間は、13、14、15、16日の4日間で、お盆の初日の13日を「お盆の入り(盆入り、迎え盆)」と呼び、お盆の最終日の16日を、「お盆の明け(盆明け、送り盆)と言います。

 

■お盆のしきたり

お盆の期間中、お墓参り、盆提灯や精霊棚の飾り付け、迎え火・送り火など様々な習慣やしきたりがあります。

 

迎え火

迎え火は、火を焚いて祖先の霊を迎えるもので、(お)盆の入りの8月13日(または7月13日)の夕方に焚かれます。祖先の霊が、迷わずにこの火を目印にして帰って来られるように、明るく照らすという意味で、火を焚いてお迎えします。

 

もともとは、迎え火の火はお墓で灯していました。13日にお墓参りをし、お墓の前で迎え火の火を灯して提灯に入れて家まで持って帰ってきます。その火を仏壇の蝋燭(ろうそく)に移していました。現代ではお墓が遠いため提灯に入れて迎え火を連れて来ることが難しい場合も多くなっています。そうした場合には、13日の夕方に、門口や玄関前などの危なくない場所で迎え火を焚きます。

 

送り火

送り火は、8月16日(または7月16日)のお盆明けの日に、祖先の霊を送るための儀式で、再び火を焚いて「送り火」として送り出します。あの世から家に戻ってきた先祖の霊が、またあの世へ帰って行くときに、迷わないようにという願いを込めたものです。京都の五山送り火や長崎の精霊流しも送り火の一つです。

 

*京都五山の送り火:文字どおり、先祖の霊をお送りする行事のひとつで、大文字の送り火(大文字焼き)と呼ばれることもある。

*長崎の精霊流し:お盆の供え物をのせた精霊舟に火を灯して海や川に流す行事です。精霊船は初盆の家のみが作ります。

 

盆提灯

盆提灯とは、お盆のみに用いる飾りで、故人の供養に使われるもので、お盆の期間中、その家に霊が滞在しているしるしとされます。また、迎え火・送り火を行うことがむずかしい場合は、盆提灯を飾って迎え火、送り火とされます。つまり、盆提灯も先祖の霊が戻ってくるときの目印としての役割もあるのです。

 

盆提灯には、上からつるす「御所提灯(ごしょちょうちん)」と、下に置く「大内行灯(おおうちあんどん)」などがあります。大内行灯には、火袋の中に和紙などが貼ってあり、走馬燈のように回転するものもあります。「走馬燈のように」という言い回しがありますね。その意味はあたかも回り灯篭に映る影のように、様々な記憶やイメージが脳裏に現れては過ぎ去っていくさまを示す表現のことを言いますが、お盆に関連する言葉として、現代でも定着しています。

 

精霊棚・盆棚

精霊棚(しょうりょうだな)とは、盆棚ともいい、故人や先祖の霊を迎えるために、お盆のみに用いられる祭壇のようなものです。お盆の間は位牌を仏壇から取り出し、仏壇の扉は閉めて、その前に飾り付けをします。精霊棚の上に、位牌を中心に、香炉、花立、燭台が置かれ、お花、ナスやキュウリ、季節の野菜や果物、精進料理を供えた仏膳などを供えます。お盆のお供え物のことを「盆供(ぼんく)」と言います。お供えの中で、最も有名なのは茄子(ナス)と胡瓜(キュウリ)です。

 

ナスの牛・キュウリの馬

キュウリを馬に、ナスを牛に見立てて、つまようじや割り箸で四つ足をつけ、キュウリとナスを供えます。これは、先祖の霊があの世から戻ってくるときは、馬に乗って早く戻ってきて欲しい、逆に、あの世へ帰るときは、牛に乗ってゆっくり帰って欲しいという願いを込めたものです。

 

お盆が終わると、お供え物は、かつて小さな船に乗せて川や海へ流したりしていましたが、最近は、送り火で燃やしたり、お寺に納めるています。

 

<参考>

「仏教ウェブ入門講座」

「法事・法要・四十九日がよくわかる」

「仏事まめ百科」

「超便利、冠婚葬祭マナー」など

2019年08月16日

ニュース:京都五山送り火と長崎精霊流し

古都の夜空に 京都五山送り火

(2019年8月16日、NHK news web一部抜粋)

京都のお盆の伝統行事「京都五山送り火」が16日行われ、火でともされた「大」の文字などが夜空に浮かび上がりました。「京都五山送り火」は、お盆に迎えた先祖の霊を送る京都の伝統行事で、300年以上の歴史があるとされています。

 

まず、京都市左京区の大文字山の火床に一斉に火がともされ、山の斜面に大きな「大」の文字が浮かび上がりました。続いて京都の街を囲む5つの山々に、「妙法(みょうほう)」、「船形(ふながた)」、「左大文字(ひだりだいもんじ)」、「鳥居形(とりいがた)」の順で火がともされました。炎で描かれた文字と形で彩られた古都の夜空を楽しもうと大勢の観光客が訪れ、このうち、京都市中心部のビルの屋上には、地元の人も含めておよそ400人が集まり、幻想的な風景に見入っていました。

 

★☆★☆★☆★☆

華やかに故人送る 長崎で精霊流し

(2019/8/16 西日本新聞 )

初盆を迎えた故人の霊をにぎやかに送り出す長崎県の伝統行事「精霊(しょうろう)流し」が15日、県内各地であった。長崎市中心部では爆竹やかねの音が響く中、遺族やゆかりの人が精霊船を引いて亡き人に思いをはせた。江戸時代から続く風習で、中国文化の影響を受け、爆竹を鳴らすことで邪気を追い払うと伝わる。台風10号の影響が残り、時折強い風が吹き付けるため用意した打ち上げ花火を控える船も。遺族らが放った爆竹が路上ではじけると、沿道を埋めた市民や観光客から歓声が上がった。

 

初盆を迎えた故人の霊を西方浄土へ送り出す伝統行事「精霊流し」が15日、長崎県内各地であった。台風接近による大きな影響はなく、故人をしのばせる趣向を凝らした船や、全国各地の災害被災地の慰霊と復興を願う船などが流された。かねや爆竹のにぎやかな音が響く中、家族や友人らが故人に思いをはせた。

 

2019年08月16日

ニュース:悠仁さま、ブータンご訪問へ

悠仁さま、初の海外旅行…秋篠宮ご夫妻とブータンへ

(2019年8月16日、読売新聞)

 

秋篠宮ご夫妻と長男でお茶の水女子大付属中1年の悠仁さま(12)は16日午前、ブータンを私的に訪問するため、民間機で東京・羽田を出発された。悠仁さまの海外旅行は初めて。危機管理上の理由で、皇位継承順位1位の秋篠宮さまと2位の悠仁さまは別便を利用。この日は午前11時過ぎ、同妃紀子さまと悠仁さまが経由地のタイに向けて出発し、約10分遅れて秋篠宮さまが別の便で出国された。

 

ご一家は滞在中、首都ティンプーでブータン国王らと交流するほか、寺院や伝統的な弓技などを見学される。宮内庁幹部によると、ご夫妻は、将来皇室の国際親善を担う悠仁さまが外国の文化や歴史に触れることで、海外と日本を比較する視点を持たれることを期待されているという。ご一家は25日に帰国される。

2019年08月16日

祭り:伝統芸能としての「阿波おどり」

先日、8月13日の投稿では、阿波おどりをニュースとして紹介しましたので、今回は、阿波おどりについて、その発祥や経緯など歴史的な側面をまとめてみました。

 

阿波おどりの起源

「徳島市阿波踊り」は、徳島県発祥の伝統芸能で、「日本三大盆踊り」のひとつに数えられるお祭りです。その始まりは約400年前に遡り、阿波踊りの起源はおもに3つの説が有力とされています。時代順に説明すると次のようなものです。

 

ひとつは、盆踊りを始まりとする「盆踊り起源説」です。鎌倉時代の「念仏踊り」から続く、先祖供養の踊り(「踊り念仏」)を起源とする説で、悪霊を払うために念仏を唱える際に踊る念仏踊りのうち、特に盆の時期に先祖の霊を供養するために踊る「精霊踊」が原型をつくったと考えられています。

 

二つめは、能楽の元とされる風流踊りを発祥とする「風流踊り起源説」があります。戦国時代、「三好記」に、阿波板野・勝瑞城で風流踊りの催しの様子が記録されていることがその根拠となっています(「風流」とは着物や装飾に趣向を凝らしたもの)。

 

三つめは、「徳島築城起源説」で、1586年(展生14年)、徳島藩の藩祖・蜂須賀家政が、城主となる際、徳島城の築城を祈念して、城下の人々に城内での無礼講を許した際に踊られたという説です。「阿波よしこの節」にも、「阿波の殿様 蜂須賀様(蜂須賀公)が 今に残せし 阿波おどり」と歌われています。なお、家政の父、正勝とは、若き頃の秀吉に仕えたあの蜂須賀小六です。

 

 

阿波おどりの進展

こうした原型に、地域の独自性や時代の進展とともに生まれた形式が加えられ、現在の阿波踊りが出来上がっていきました。近世において確立された3つの伝統的な踊りの手法が、「ぞめき」、「にわか」、「組踊り」でした。「ぞめき」とは、阿波おどりのお囃子のことを言い、「にわか(俄)」は座興のための滑稽な踊りで、「組踊(り)」は、「町組」という社会集団が中心となって数人が組んで踊ることを言います。

 

さらに、文化・文政期(1804~1830年)に、藍商人や船乗り達が全国各地との文化交流の担い手となり、各地のさまざまな要素が阿波おどりに取り入れられ、徳島の伝統芸能として定着してきたとされまています。例えば、「阿波踊り」に流れる民謡は、熊本の「ハイヤ節」、奄美・八重山の「六調」、沖縄の「カチャーシー」、広島の「ヤッサ節」などとの共通点が多いと言われています。

 

1830(文政13)年頃に流行したお蔭参り(伊勢神宮への集団参拝)では、阿波衆は伊勢で「踊るも阿呆なら見るのも阿呆じゃ、どうせ阿呆なら踊らんせ」と囃して踊り狂ったと言われ、この時の踊りが好評を博し、全国的に阿波踊りが、知れ渡るようになったと言われています。

 

ただし、徳島藩は、古式精霊供養の踊りとしての「ぞめき」を重視したことから、「ぞめき」が急速に発展したとされています。特に、三味線が導入されたことが大きな引き金となったようです。その一方で、藩は、「にわか」、「組踊り」など他の踊りが、踊りの熱狂が一揆につながること弾圧し、何度も踊りの禁止令が出されました。1841年(天保12年)には徳島藩の中老・蜂須賀一角が踊りに加わり、乱心であると座敷牢に幽閉されたこともあるそうです。

 

この踊りの熱狂と言えば、1867(慶応3)年12月の幕末期の動乱には「ええじゃないか」が徳島に上陸しました。「ええじゃないか」とは、老若男女が「えいじゃないか」と言いながら歌い、踊り狂う民衆運動で、米屋や酒屋を襲撃する事件も多発しました。「ええじゃないか」は「踊り要素が強い」ことから、翌年、阿波一円で大流行していき、「ええじゃないか」は阿波踊りが発祥とする見方すらあるぐらいです。

 

明治から大正にかけての阿波踊りの様子は、その時代に晩年を徳島で過ごしたポルトガル人で、外交官・文筆家のモラエスが母国に送った「徳島の盆踊」の中でよく示されています。そこには、市民の熱狂ぶりが描写されているだけでなく、古来から続く「死者を敬う」先祖供養としての性格が強い踊りとして紹介されています。

 

大正時代末期から昭和にかけて、ラジオやポスターなどを通して徳島県外へ紹介されるようになり、全国へ認知されていきます。「阿波おどり」という言葉が定着するのもこの頃で、それまでは「徳島盆踊り」と呼ばれていました。1941年(昭和16年)には、東宝映画『阿波の踊子』(監督:マキノ正博、主演:長谷川一夫)が上映されています。ただし、第二次世界大戦により、徳島はB29による空襲で市内の約62%が焦土となったとされ、阿波おどりは中止を余儀なくされました。

 

しかし、終戦翌年の1946年(昭和21年)、まだバラックが建ち始めたばかりの状況の中にあっても、阿波おどりは復活していきました。戦後の徳島市民にとって、復興の象徴が「阿波踊り」だったのです。戦後のきわめて早い段階にすでに「連(阿波踊りを踊る団体・グループ)」が形成されたとされ、阿波踊りが急速に復興・拡大していきました。まさに、「阿波踊り」という民衆の文化が、荒廃した社会やまちを立ち直らせた精神的中核ともなっただけでなく、日本全体にその活力を供給し続け、文化的発信を続けていきました。その結果、阿波踊りを踊る人が急増し、全国へと阿波踊りの文化が広がっていきました。

 

 

阿波おどりの全国展開

1957(昭和32)年、東京・高円寺で阿波おどり大会が始まり、阿波おどりが全国で開催されるきっかけになりました。「高円寺阿波おどり」は、現在観客は85万人以上が来場し、首都圏最大規模のお祭りに発展しています。1970年(昭和45年)に大阪で開催された日本万国博覧会では、阿波踊りが披露され、これを契機に、海外遠征が行われるなど、阿波踊りは、「徳島のおどり」から「日本のおどり」として、広く認知されていきました。

 

目下、東京都内では、「高円寺阿波おどり(杉並区)」以外にも、「初台阿波踊り大会(渋谷区)」、「下北沢一番街阿波おどり(世田谷区)」など20か所近くで阿波踊りが実施されています。「高円寺阿波おどり」と埼玉県の「南越谷阿波踊り」は、本家の「徳島市阿波おどり」とともに「日本三大阿波踊り」に数えられています。さらに、首都圏以外でも、東は、北海道や福島県から、愛知県、西は、大阪府、長崎県などでも阿波おどり大会が開催されています。

 

400年超の歴史を持つ徳島の阿波おどりは、まさに全国の各地で開かれる阿波おどりの「総本山」と言えます。全国各地の踊り子は徳島を「聖地」と呼んでいるそうです。

 

今回はここまでです。次回は、「阿波おどり」から少し角度を変えて、「盆踊り」をとりあげてみたいと思います。

 

 

<参考>

阿波踊りの歴史(阿波おどり会)

約400年の歴史、徳島夏の風物詩「阿波おどり」

阿波踊りの歴史(阿波銀行)

阿波踊り:歴史、盆踊りの世界

徳島の阿波おどり、400年超の歴史(日本経済新聞)

 

2019年08月15日

ニュース:令和初の終戦記念日

戦没者追悼式、天皇陛下「深い反省」を踏襲 令和最初 

(2019/8/15、日経、一部抜粋)

 

74回目の「終戦の日」を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京・千代田)で開かれた。天皇陛下が皇后さまとともに即位後初めて出席し「世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」とお言葉を述べられた。過去への「深い反省」など上皇さまの表現をほぼ踏襲し、戦後生まれの象徴として戦没者を追悼された。午前11時50分すぎに始まった式典には三権の長や各都道府県から招かれた遺族代表ら約6千200人が参列した。台風10号の影響による欠席が相次いだという。追悼の対象は先の大戦で犠牲になった軍人・軍属230万人と民間人80万人の計310万人。

 

この後、参列者は正午から1分間の黙とう。陛下が白木の標柱の前に進み「さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします」とゆっくりとした口調で述べられた。お言葉の中で、陛下は戦後から築き上げられた「人々のたゆみない努力」と「苦難に満ちた国民の歩み」に触れたうえで、先の大戦に対する「深い反省」にも言及された。ほとんどの文言、表現は平成期に上皇さまが述べられた内容を踏まえており、象徴として不戦を誓い、平和を希求する路線を継承している。

 

日本の総人口に占める戦後生まれの割合は8割を超え、戦没者遺族の世代交代も進んでいる。厚生労働省によると、戦没者追悼式に参列予定の遺族は5391人。このうち、昭和に過半を占めた「戦没者の妻」は5人まで減り、父母は2010年の式典を最後に、参列が途絶えている。一方で、戦没者の子供が51%と半数を上回り、戦後生まれの遺族の割合は初めて3割を超えた。世代交代により戦争の記憶が遠ざかるなか、次世代へどう引き継いでいくかが課題となっている。

 

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天皇陛下おことば全文

 

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。終戦以来74年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

 

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「若い世代に教訓を」、千鳥ケ淵墓苑で平和祈る 

(2019/8/15、日経、一部抜粋)

身元不明の軍人や民間人ら戦没者の遺骨が安置されている千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京・千代田)には15日朝から、多くの遺族らが足を運んだ。汗をぬぐいながら献花台に花を手向けて焼香し、静かに手を合わせて平和を祈っていた。

2019年08月14日

ニュース:靖国神社、陛下参拝要請していた?いなかった?

宮内庁、靖国の陛下参拝要請断る 創立150年で昨秋

(2019年8月14日、共同通信社)

 

靖国神社が昨秋、当時の天皇陛下(現上皇さま)に2019年の神社創立150年に合わせた参拝を求める極めて異例の「行幸請願」を宮内庁に行い、断られていたことが13日、靖国神社や宮内庁への取材で分かった。靖国側は再要請しない方針で、天皇が参拝した創立50年、100年に続く節目での参拝は行われず、不参拝がさらに続く見通しだ。天皇の参拝は創立から50年ごとの節目以外でも行われていたが、1975年の昭和天皇が最後。78年のA級戦犯合祀が「不参拝」の契機となったことが側近のメモなどで明らかになっている。

 

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「要請も断った事実もない」=靖国参拝めぐる報道否定-宮内庁

(2019/08/26、時事通信)

 

宮内庁の西村泰彦次長は26日の定例記者会見で、靖国神社が昨年秋、当時天皇だった上皇さまの参拝を宮内庁に要請したが断られたとの一部報道について、「そもそも宮内庁として願い出を受けた事実はなく、それをお断りしたという事実もない」と否定した。共同通信は13日、靖国神社が昨年秋、在位中の上皇さまに2019年の神社創立150年に合わせた参拝を求める「行幸請願」を宮内庁に行い、断られていたことが分かったと報じた。

2019年08月13日

ニュース:徳島市「阿波おどり」

徳島の阿波おどり開幕 「総踊り」復活、初の民間運営 

(2019/8/13 日本経済新聞、抜粋)

 

徳島の夏の風物詩、阿波おどりの令和最初の本番が12日、開幕した。約400年の歴史の中で初めて民間事業者が運営する祭りとなる。昨年は演出方法をめぐり主催者と一部踊り団体(連)が対立したが、今年は「融和」をテーマに、人気の「総踊り」も復活した。新たな演出や周遊チケット導入などの新機軸も打ち出され、伝統の祭りに新風が吹き込まれそうだ。

 

開幕に先立ってあいさつした阿波おどり実行委員会の委員長、松原健士郎弁護士は「阿波おどりは伝統を生かしながら変わっていく。そして変わりながら成長する」と強調。徳島県の飯泉嘉門知事は「阿波おどりを世界に発信していく。来年の東京五輪・パラリンピックの開幕イベントを阿波おどりで飾りたい」と期待を込めた。

 

今年から5年間の運営を委託されたのがイベント企画大手のキョードー東京を核とする民間の共同事業体。共同事業体の総責任者、前田三郎キョードーファクトリー社長が「令和元年暑い夏、笑顔!」と開幕を宣言し、その後、阿波おどり振興協会の山田実理事長が率いる「天水連」が最初に演舞場に踊り込んだ。観客らに「対立解消」を印象づける演出だ。約10分間の演技を終え、山田氏は「期待している」と前田氏に語りかけ、がっちりと握手をした。

 

開幕前日の11日に徳島市内のホールで開催された前夜祭も、阿波おどりの正常化を観客に実感させる演出となった。昨年、市や徳島新聞社が中心だった実行委員会が提案した演出に協力できないと表明して前夜祭への参加を拒まれた振興協会所属14連が、今年は最初に登場し、舞台上で「総踊り」を披露。数百人の踊り子の一糸乱れぬ踊りに多くの観客は「素晴らしい」と感嘆の声を上げた。前夜祭では振興協会と徳島県阿波踊り協会の計33連から選ばれた踊り子880人が参加し、フィナーレで2つの協会が合同で一斉に踊り込む演出で観客を盛り上げた。

 

2年ぶりに演舞場で復活した「総踊り」は圧巻。振興協会所属14連の1500人規模の踊り子が一斉に演舞場に踊り込む演出に、観覧席だけでなく沿道まで埋め尽くした観客が大きな声援を送った。総踊りに参加した天水連の踊り手、幸田徳一さん(77)は「約50年間、阿波おどりを踊ってきたが、今日のお客さんの反応はさすがに感無量。今年は4日間とも総踊りに参加する」と笑顔がこぼれる。

 

総踊りは4つの演舞場で日替わりで実施される予定。フィナーレの演出として人気が高く、総踊りが観覧できるチケットはほぼ完売状態。このほか今年からの新しい演出として市役所前演舞場の午後8時半からの第2部では卓越した踊り技術を持つ有名連が連続して踊り込むプレミアム演舞場となる。

 

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徳島市の阿波踊り、16年ぶりに中止 台風10号接近で

(2019年8月14日、朝日新聞)

徳島市の阿波踊りは、台風10号の接近で安全確保が困難になったとして、14、15両日の演舞場やホールでの公演をすべて中止した。阿波おどり実行委員会によると、中止は2003年以来16年ぶり。

 

2019年08月12日

伝承:裏「祇園祭り」ってあるの!?

8月10日、「神事としての祇園祭り」と題して投稿し、祇園祭りを宗教的な側面からまとめましたが、リサーチを続けていくうちに、突拍子もない内容にぶつかりました。題して「裏・祇園祭り」です。

 

裏・祇園祭り

祇園祭の起源は、公式には9世紀ですが、そのルーツはもっと古く、古代のモーゼの時代にまで遡り、祇園祭のルーツは古代イスラエルのシオン祭りであるという伝説があります。「シオン」とは、元々エルサレム地方の呼び名で、現在も「ユダヤ」を象徴的に示す言い方として使われています。また、シオンには「天の国」という意味もあるそうです。一方、シオンはジオンとも発音するとされ、このジオンが転化してギオンになります。

 

ここから、京都の祇園(ギオン)は、シオン(イスラエル=ユダヤ)のことで、日本の「祇園(ギオン)祭」と、イスラエルで行われている「シオン(ジオン)祭」は同じ起源を持つのではないかと取りざたされたのです。実際、二つの祭りを比較すると、多くの共通点が見出されたのでした。

 

◆祇園祭りとシオン祭り

ジオン(シオン)祭というのは、旧約聖書にあるノアの方舟が大洪水を乗り切ったことを祝う祭りで、祇園祭と同様、7月1日から1か月続く祭りです。また、ジオン祭の7月10日は贖罪の日、祇園祭では神輿を清める儀式の日で、ノアの方舟がアララト山に流れ着いたとされる7月17日は、祇園祭りでは山鉾巡行が行われます。

 

祇園祭の山鉾には、船鉾や大船鉾など船の形をした鉾がありますが、これはノアの方舟を意味するのかもしれません。さらに、祇園祭の山鉾、祇園祭の山鉾に蟷螂山(とうろうのやま)という山車があります。これは、中国の故事に由来しているとされているのですが、ギリシア語mantisの蟷螂(カマキリ)には、「預言者」の意味があるのだそうです。

 

そうなると、何より、(前述したように)祇園祭りは、日本の神道のお祭り(八坂神社の祭典)であるにも拘わらず、山鉾の胴体部分に装飾に使われている懸装品(胴の周囲に飾られているいろんな図柄の掛け物)には、例えば、(函谷鉾にあるような)「イサクの結婚」など旧約聖書の内容を描いたものや、エジプト・ギザのピラミッドや、イラクのラクダをあしらったタペストリーなど、中東など「舶来(外来)」のものが数多くあることも納得がいきますね。これは、祇園祭に西側諸国の文化が入り込んでいるということで、エルサレムを含む古代オリエントの文化が、明らかにシルクロードを経由して日本に入って来た、または戻ってきたという主張も見られるわけです。

 

加えて、祇園祭りに限ってはいませんが、日本各地域のお祭りで行われる「お神輿」担ぎもイスラエルとの繋がりが指摘されています。特に、祇園祭りの神輿は、モーゼの10戒が収められた「契約(神)の箱」とみなされ、神輿担ぎは、「契約(神)の箱」を日本まで担いできたことを再現していると解されているのです。ユダヤ人にとって、「契約の箱」は秘宝でどこに行ったのかわかっていません。その秘宝は通称「失われたアーク」と言われ、それを探すアドベンチャー映画にもなりましたね。

 

そこまで考えれば、祇園祭は、究極のところ、ユダヤの神(ヤーウェ)を称えているという主張や、祇園祭というお祭りのしきたりはシオン祭りと同じで、日本人はユダヤ人のお祭りと同じ事を、毎年やっているという見方も可能になっていきます。日本の祭という神事は、古代オリエントの世界では儀式であり、古代イスラエルの儀式が、日本の祇園祭りで、完成させたのではないかとする見解すらあります。

 

◆失われた10支族

 では、どうして、ここまで、日本とイスラエル関係が強調されるのかというと、ユダヤ人の世界のある「失われた10支族」伝説と密接につながっています。

 

紀元前13世紀頃、モーゼはエジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を解放しました。その後、カナン(パレスチナ)の地で、アブラハムの子孫の12部族が一つになってイスラエル王国が建国されましたが、やがて北王国(イスラエル王国:10部族)と南王国(ユダ王国:2部族)に分裂します。その後、紀元前722年頃、北王国はアッシリアに滅ぼされましたが、10部族がどこに行ったのかわからなくなったと言われているのです(「失われた10支族」)。

 

一説には、旧約聖書(『イザヤ書』第24章)の教えに従い、モーゼの10戒が収められた『契約(神)の箱』をもって(担いで)、長い時間(約60年)かけて、東の方に行ったという噂があります。研究者によれば、ある部族(一部)は、シルクロード途中で留まり、またある部族(一部)は違うルートでミャンマーや中国にたどり着いたそうです。しかし、大部分の部族はどこに行ったのかわからないのですが、最終的にたどり着いたと考えられているところが、日本だったというのです。これは一部の研究者の間で取りざたされている「日猶(ゆ)同祖説」につながっています。

 

祇園祭りの裏側の部分にメスを入れようと思ったら、日猶同祖説にまできてしまいました。その真偽はともかく、来年の祇園祭りは、これまでとは少し異なった観点からみていただければいいかなと思います。

 

 

◆キリストの墓!?

古代のイスラエルと日本がつながっているとする説には、ほかにも、これ以上に想像の範囲を超えたユニークな繋がりが見いだされます。それは、「イエス・キリストは日本で死んだ」説です。青森県三戸郡新郷村大字戸来には、キリストの墓なるものがあると言われています。古代日本の青森に多くのイスラエル人に混じって、イエス自身も渡来したされているです。上陸したのは青森県八戸だった言われています。八戸(はちのへ)は、読み方を変えれば「やへ」、ヤヘーと言えば、ヘブライ語のヤヘー(ヤハエ)、意味は「神」となります。

 

東北地方に古代イスラエルの何かが伝わっているのかもしれません。これらの点については、また別の機会に取り上げることにします。

 

 

<参考>

祇園祭のルーツは古代イスラエルのシオン祭!?
日本とユダヤのハーモニーなど