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2019年07月31日

歴史:源氏の発祥について調べてみた…

先日、仕事で秋田に行きました。時間が少し余ったので、駅からすぐのところにあった「佐竹資料館」に足を延ばしました。資料館に記載されていた戦国大名、佐竹氏についての説明文です。

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秋田藩主佐竹氏は、源氏の流れをくむ名門であり、全国の大名の中でも古い歴史を持つ殿様です。関ケ原の合戦のあと、秋田に転封された佐竹義宣(よしのぶ)は、久保田の地、神明山(現在の千秋公園)に新たに城を築き、城下町を建設しました。

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そこで今回は、佐竹氏と源氏についてまとめてみたいと思います。まずは「源氏の発祥」からひも解いてみたいと思います。

 

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清和源氏

 

源氏の起こりは、814年に嵯峨天皇が、皇子を臣籍降下(皇族がその身分を離れて臣下の籍に降りること)させて、源の姓を賜与したことに始まります。その目的は、皇位につく見込みのない親王(天皇の子で男子)を皇族の身分から外して、財政上の負担を軽くすることでした。

 

その後も、臣籍降下は一般的なものとなりました。賜姓皇族(臣籍降下して姓を賜った皇族)の中で有名なのは清和源氏と桓武平氏です。その時の天皇の名前をつける形で、源氏に関しては、嵯峨源氏、清和源氏、村上源氏などと呼ばれ、全部で21流の源氏が存在しました。

 

その源氏の中でも最も栄えたのが清和源氏で、佐竹氏も遡ると清和源氏にたどりつきます。清和天皇は第56代の天皇(在858~876年)で、藤原氏の後ろだてのもとに9歳で即位しましたが、実際の政治は、摂政・太政大臣の藤原良房が行い、天皇は単なる傀儡でした。その清和天皇の第6皇子であった貞純親王(さだずみしんのう)は、876年に臣籍降下して源氏の姓を賜りました。一説には、貞純親王は第57代の陽成天皇の子という説もありますが、貞純親王の子の経基が、清和源氏の祖と呼ばれています。

 

清和天皇(⇒陽成天皇)⇒貞純親王⇒源経基⇒…

 

源経基(つねもと)(?~961)

源経基は940年に起こった平将門の乱と翌年の藤原純友の乱(両者で承平・天慶の乱)を平定する活躍を見せました。清和源氏の中で、この経基の子孫が最も繁栄しています。

 

源満仲(みつなか)(925~997)

経基が清和源氏の祖であるなら、子の満仲は、清和源氏発展の基礎を作ったと言えます。満仲は、「安和の変」など藤原氏の陰謀事件に関わり、勢力を拡大させた藤原摂関家に取り入ることで自らの地位を向上させていきました。安和の変(969)は、藤原氏の意を受けた満仲が、藤原氏の政敵の左大臣源高明らを密告によって排除した事件です。源高明らが共謀して皇太子の守平親王を廃して為平親王(源高明の娘の夫)を擁立することを企てているとでっちあげ、これによって、源高明は大宰府に左遷されてしまいました。満仲は各地の守(かみ)(国司の長官)を歴任しながら、藤原氏の軍事参謀の地位を確立していきました。

 

源頼信(よりのぶ)(980~1048)

満仲の子(第3子)、頼信は、房総地方で起こった平忠常の乱を圧倒的な武力の差で鎮圧することで功を立てました。下総権介(しもうさのごんのすけ)平忠常は、1028年、安房の守を襲撃し、上総(かずさ)国府を占拠しました。朝廷は、平直方(なおかた)など平氏の武士を派遣して鎮圧に乗り出しますが失敗したので、改めて源頼信(よりのぶ)を追討使に登用し、31年に平定されました。

 

これによって、関東では平氏が衰退し、(清和)源氏が東国に進出するをきっかけを作りました。実際、源頼信の子、頼義と、頼義の二人の子、義家と義光のとき、源氏は、東国武士の棟梁として地位を確保することになります。

 

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さて、源経基、満仲から頼信、頼義、義家と続く、清和源氏の流れは、頼信、頼義、義家が河内国に住み、河内を根拠地にした(鎌倉は東国経営の拠点)ので、特に河内源氏と呼ばれ、一般的に源氏といえばこの河内源氏を指すようになりました。

 

清和源氏(河内源氏):源経基⇒満仲⇒頼信⇒頼義⇒義家

 

 

源頼義(988~1075)

源義家(1039~1106)、源義光(1045~1127)

 

前九年の役(1051~62)

陸奥の安倍氏が朝廷に反乱を起こしたとき、頼信の子、源頼義は陸奥守、兼、鎮守府将軍として、子の義家とともに奥羽に進み、清原氏と協力して、安倍頼時の安倍氏を滅ぼしました。この戦いは、前九年の役と呼ばれ、この時の勝利で、河内源氏が武門の中でも最高の格式を持つ家と言われるようになり、源氏の基礎も固まりました。ただし、源氏の台頭を恐れた朝廷は、頼義の陸奥守としての任務を解いたことから、東国を支配することはできませんでした。

 

後三年の役(1083~87)

その後、前九年の役の功績によって奥羽で勢力を得た清原氏は、清原武則が武門の最高栄職とされる鎮守府将軍の地位を得ていましたが、その清原氏の内紛(後継をめぐる内輪もめ)から、再度、戦火が広がりました。この後三年の役と呼ばれる戦いで、陸奥守として朝廷より派遣された源義家が、藤原清衡と協力して平定しました。またこの時、義家の弟である源義光が、兄義家の苦戦を聞き、官職を辞して朝廷の許しも受けず、奥州に向い、兄を助けた話は、兄弟愛の逸話として後世に語り伝えられています。

 

ただし、この後三年の役おいて、朝廷は、この戦い清原氏の私戦と見なし、義家に対して、恩賞は与えられませんでした。この時、義家は、自分の所領を共に戦った部下に分け与えたことが、東国の武士との繋がりが強くしていきました。この前九年の役と後三年の役を通して源氏はその名声を高め、武門の棟梁としての地位を固めましたが、奥州を手中に収めることはできませんでした。その代わりに、この地域は、奥州藤原氏が、藤原清衡、基衡、秀衡と続く三代100年に亘って君臨することになります。源氏が名実共に奥州を治めるのは、源頼朝の登場を待たなければなりません。

 

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さて、ここまで、源氏の歴史をみてきましたが、今回の投稿のきっかけとなった佐竹氏は源義光(新羅三郎義光)の流れを汲んでいます。さらに、佐竹家に限らず、武田家、足利家、そして頼朝を生んだ嫡流家は、源義家と頼光兄弟から枝分かれしています。つまり彼らは、源義家か義光を祖としているのです。

 

源義家(八幡太郎義家)

頼義の嫡子で、長男のことを太郎と言ったことと、義家は鎌倉の鶴岡八幡宮で元服(成人式)をしたため、八幡太郎とも呼ばれ親しまれています。この義家の嫡男の源義親(よしちか)の流れが(河内)源氏の嫡流家として源頼朝や義経につながります。また、義家の三男、源義国(よしくに)が新田氏と足利氏の祖となります。

 

源頼朝:源義家⇒義親⇒為義⇒義朝⇒頼朝

新田義貞:源義家⇒義国⇒義重(よししげ)

足利尊氏:源義家⇒義国⇒義康(よしやす)

 

源義光(新羅三郎義光)

頼義の三男で八幡太郎義家の弟。新羅明神(しんらみょうじん)の社前で元服したことから、新羅三郎とも呼ばれています。義光は音律を好み、笙(しょう、雅楽などで使う管楽器)に長じたことでも知られています。義光の嫡男、源義業(よしなり)が実質的な初代佐竹氏(常陸源氏の祖)で、義光の三男、源義清(よしきよ)が、甲斐源氏(武田氏)の祖でした。

 

佐竹義宣(よしのぶ):源義光⇒義業(常陸源氏)

武田信玄:源義光⇒義清(甲斐源氏)

 

今回はここまで。次回は佐竹氏について追ってみたいと思います。

2019年07月25日

ニュース:令和初の「京都・祇園祭り」

京都・祇園祭りとは?

京都三大祭のひとつ、祇園祭は、八坂神社のお祭りで、7月1日の吉符入りに始まり、宵山、山鉾巡行、神幸祭、花傘巡行、還幸祭等の諸祭行事を経て、7月29日の神事済奉告祭、7月31日の疫神社夏越祭で終わる約1ヶ月間に渡りおこなわれるお祭りです。(KBS京都)

 

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7月1日から始まった「祇園祭り」の諸行事を日時順に紹介します。

 

節目の夏に無事祈り、八坂神社に稚児参拝 祇園祭・お千度の儀

(2019年7月1日、京都新聞)

 

日本三大祭りの一つ、祇園祭が1日始まった。神泉苑に66本の矛を立てて全国の平安を祈った御霊会から今年で1150年。京都市東山区の八坂神社では前祭(さきまつり)巡行(17日)で先頭を行く長刀鉾の稚児が「お千度の儀」に臨み、節目の年の祭りの無事を祈願した。

 

午前9時45分、稚児の中西望海君(10)が、補佐役の禿(かむろ)の杉本崇晃君(11)、竹内瑛基君(9)とともに神社の南楼門をくぐった。顔に白化粧を施し口元に紅をさした中西君は稚児を務めることを神前に報告。続いて本殿の周りを時計回りに3周し、本殿の正面と裏で計7回拝礼した。また各山鉾町では「吉符入り」の神事が行われた。夜には祇園囃子(ばやし)の稽古を町会所の2階などでする「二階囃子」が始まり、京の街に祭りの季節の訪れを告げる。

 

 

人波に浮かぶ駒形提灯、宵山の風情楽しむ 京都・祇園祭

(2019年7月16日、京都新聞)

 

祇園祭の前祭(さきまつり)は16日、宵山を迎えた。夕方に降った雨も夜にはやんで時折風が吹き抜けて過ごしやすく、祭り情緒を楽しもうとする大勢の人たちでにぎわった。15日の宵々山に続いて四条通や烏丸通の一部が午後6時から歩行者天国となり、日が落ちる頃から四条通や烏丸通のにぎわいは高まった。鉾の周りには浴衣姿の囃子(はやし)方が奏でるお囃子が響き、澄んだ音色に立ち止まって耳を澄ませる人たちの姿も見られた。夜までに厄よけちまきが完売した山鉾も多く、代わりに「お守りどうですか」と子どもたちがかわいらしい声で呼び掛けていた。

 

八坂神社(東山区)では夕方から素戔嗚尊(すさのおのみこと)の大蛇退治などを題材とした島根県の伝統芸能「石見神楽」が奉納された。午後10時ごろからは巡行の晴天を祈願する「日和神楽」もあり、各山鉾町の人たちが囃子を奏でながら四条御旅所に向かった。京都府警によると、午後9時の人出は、3連休の最終日だった昨年の宵山を9万人下回る15万人だった。宵々山(午後9時)は18万人で昨年を2千人上回った。

 

 

都大路を山鉾巡行 京都・祇園祭前祭

(2019年7月17日、京都新聞)

 

日本三大祭りの一つ祇園祭・前祭(さきまつり)のハイライトとなる山鉾巡行が17日、京都市中心部で始まった。祭りの創始から1150年を迎え、「動く美術館」に例えられる豪華な懸装品(けそうひん)を飾った23基の山と鉾が都大路を進んだ。午前9時すぎ、くじ取らずで先頭を行く長刀鉾が「エーンヤラヤー」の掛け声とともに下京区四条通烏丸東入ルを出発。今年の「山一番」の蟷螂(とうろう)山や芦刈山、木賊(とくさ)山が続いた。

 

祇園祭は疫病退散を祈る八坂神社(東山区)の祭礼。869年に神泉苑で矛66本を立てた祇園御霊会(ごりょうえ)が起源とされる。京都のまちは戦乱や災害に何度も見舞われたが、地域の人々が力を合わせて守り受け継いできた。

 

 

祇園祭の神輿、京都の街を練り歩く 響く「ホイットー」、神幸祭

(2019年7月17日、京都新聞)

 

祇園祭の神幸祭が17日夜、京都市中心部で行われた。東山区の八坂神社を出発した3基の神輿(みこし)が威勢の良い掛け声と飾り金具を響かせながら氏子地域を練り歩き、下京区四条通寺町東入ルの御旅所に向かった。午後6時すぎ、中御座、東御座、西御座の3基は西日を浴びて石段下にそろった。ねじり鉢巻きに白い法被姿の担ぎ手たちが「ホイットーホイット」の掛け声とともに頭上の神輿を前後に繰り返し揺さぶり、「まーわーせー」の号令に応じてゆっくり旋回を重ねる「差し回し」を披露した。歩道を埋めた人たちに熱気と興奮が伝わり、拍手が湧き起こった。3基はそれぞれの経路を進んだ。祇園一帯や河原町通などを経て、深夜には御旅所に再び勢ぞろいした。24日の還幸祭で神社に戻る。

 

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山鉾町に宵山の風情、ゆったりと楽しむ 京都・祇園祭後祭

(2019年7月21日、京都新聞)

 

祇園祭の後祭(あとまつり)は21日、宵山期間を迎えた。京都市中心部の山鉾町は会所などに飾られた懸装品(けそうひん)を眺める人たちでにぎわった。後祭の宵山期間は露店の出店や歩行者専用道路(歩行者天国)がなく、駒形提灯に照らし出された山鉾町は華やかながらも落ち着いた雰囲気に包まれた。黒主山はマンションにご神体の大伴黒主像をまつり、大口袴や小袖といった衣装や前掛、見送を展示。保存会役員の説明を聞く人たちでにぎわった。

 

 

京都祇園祭後祭の宵々山、鷹山の祇園囃子響く

( 2019年7月23日、朝日)

 

祇園祭は22日、後祭(あとまつり)の宵々山(よいよいやま)を迎えた。京都市中心部では浴衣姿の見物客らが、駒形ちょうちんの明かりに照らされた山鉾(やまほこ)の周辺を歩き、祭りの風情を楽しんだ。後祭の宵山期間は露店が出ないため、前祭(さきまつり)の時とは対照的に、山鉾町は落ち着いた雰囲気に包まれる。見物客らは山鉾の装飾品や旧家に飾られたびょうぶをゆったり眺めた。

 

江戸時代後期の1826年、暴風雨のため破損し、翌年から巡行に出ない「休み山」だった鷹山(たかやま)が今年、193年ぶりに巡行に参加する。2022年に曳山(ひきやま)を復興する予定で、今年は曳山の代わりに掛け軸を収めた唐櫃(からびつ)(木箱)を担いで巡行する。鷹山の保存会(京都市中京区三条通室町西入)は「コンチキチン」の祇園囃子(ばやし)を奏でた。23日も午後7時からお囃子を披露する。後祭の宵山期間は23日まで。24日の山鉾巡行は午前9時半、橋弁慶山を先頭に烏丸御池を出発する。11の山鉾が参加し、鷹山は10番目に登場する。

 

 

駒形提灯に浮かぶ山鉾、後祭の風情満喫 京都・祇園祭「宵山」

(2019年7月23日、京都新聞)

 

祇園祭の後祭(あとまつり)は23日、宵山を迎えた。京都市中心部の新町通や室町通では家族連れらが駒形提灯の明かりで照らされた山や鉾の間を歩き、落ち着いた後祭の風情を楽しんだ。時折雨が降る中、浴衣姿の子どもたちが「常は出ません。今晩限り」と独特の節回しで歌い、「厄よけのちまき、お守りどうですか」と呼び掛けた。道を行く人たちは透明のビニールで覆われた山や鉾の飾りを見上げ、通りに面した旧家が披露する家宝の屏風(びょうぶ)を思い思いに眺めていた。また各山鉾町の人たちが巡行日の晴天を願う「日和神楽」もあった。193年ぶりに唐櫃(からびつ)巡行で参加する鷹(たか)山保存会の囃子(はやし)方も鉦(かね)と笛、太鼓でコンチキチンの音色を響かせながら四条御旅所に向かった。

 

 

祇園祭この夏″2度目″の山鉾巡行 後祭で始まる

(2019年7月24日、京都新聞)

 

祇園祭の後祭(あとまつり)の山鉾巡行が24日、京都市中心部で始まった。193年ぶりに唐櫃(からびつ)による巡行復帰を果たした鷹(たか)山を含む11基の山鉾が都大路を進む。午前9時半、くじ取らずで先頭の橋弁慶山が中京区御池通烏丸を出発。五条橋で出会った弁慶と牛若丸の一戦の場面を表現したご神体人形をのせた山がゆっくりと進む姿を、沿道に詰め掛けた人たちが見守った。

 

真っすぐに伸びる真松(しんまつ)を立てた北観音山、その後ろに今年の「山一番」となった鯉山が続く。御池通寺町の市役所前ではくじの順番通りに巡行しているかを確かめる「くじ改め」、御池通河原町と河原町通四条の交差点では進行方向を変える「辻(つじ)回し」がある。

 

 

後祭の山鉾巡行 今年から鷹山も 京都・祇園祭

(2019.7.24、産経新聞)

 

創始1150年を迎えた日本三大祭りの一つ、京都・祇園祭は24日、後祭(あとまつり)の山鉾(やまほこ)巡行が行われた。今年は、祭神の掛け軸を収めた唐櫃(からびつ)(木箱)を担いで歩く形で193年ぶりに巡行に復帰する鷹山(たかやま)を始め、北観音山や大船鉾など計11基の山鉾が都大路を進んだ。

午前9時半に先頭の橋弁慶山が烏丸御池交差点(京都市中京区)を出発、前祭とは逆回りで進んだ。その後、市役所前(同区)で巡行の順番を確かめる儀式「くじ改め」が行われた。交差点を曲がる際には、山鉾が90度方向転換する「辻回し」が見物客の注目を集め、盛んに拍手が送られた。後祭の山鉾巡行は平成26(2014)年に、前祭(さきまつり)(17日)と後祭に分かれて以来、6回目。

 

 

祇園祭・還幸祭、神輿3基が集結 創始1150年、江戸期を再現

(2019年7月24日、京都新聞)

祇園祭の還幸祭が24日夜、京都市中心部であり、四条御旅所(下京区)に鎮座していた3基の神輿(みこし)が「ホイット、ホイット」の掛け声とともに氏子地域を勇壮に練った。今年は創始1150年を記念して3基が又旅社(中京区)に集結し、できる限り時間差を取らず八坂神社(東山区)に戻る江戸時代の様子を再現した。

 

還幸祭は17日の神幸祭で四条御旅所に運ばれた3基を神社に戻す神事。中御座、東御座、西御座は午後4時半ごろから順に出発した。3基はかつて御霊会が行われた神泉苑南端にある又旅社でいったん勢ぞろいし神事に臨んだ。その後は三条通を東進し、寺町通や四条通を経て四条大橋を渡った。全ての神輿が神社にたどり着くと境内の明かりが消され、神輿に乗った神霊を本殿に戻す神事が厳かに営まれた。

 

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茅の輪くぐり夏越祭 京都・疫神社

(2019年7月31日、産経新聞)

 

1カ月にわたって神事や行事が行われた祇園祭の終わりを告げる「夏越祭(なごしさい)」が31日、京都市東山区の八坂神社境内にある疫(えき)神社で営まれ、参拝者が鳥居に設けられた直径約2メートルの茅(ち)の輪をくぐって無病息災を祈った。八坂神社の祭神、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が疫神社の祭神、蘇民将来(そみんしょうらい)のもてなしを受けたことを喜び、「蘇民将来子孫也」と記した護符を持てば疫病を免れると約束した-との故事にちなんだ神事。神事には、氏子組織「宮本組」や各山鉾(やまほこ)町の関係者が参列。茅の輪をくぐり、厄除けのカヤを抜いて持ち帰った。

2019年07月24日

歴史:「邪馬台国、畿内説」はもはや通説か?

百舌鳥・古市古墳の世界遺産登録を受け、仁徳天皇をはじめ古代の天皇について調べていたら、邪馬台国に行きつきました。こちらが勉強不足でしたが、邪馬台国が近畿にあったか九州にあったかの議論を飛び越えて、邪馬台国に関する新たな事実の解明が進んでいることを知りました。今回は邪馬台国の卑弥呼についてまとめました。

 

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邪馬台国の存在は、中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述の中から、その存在が明らかになりました。古墳時代の前の弥生時代の後期に「日本は大きく乱れた」と言われ、それが「倭国大乱」と呼ばれる70~80年も続く争乱の時代でした。「魏志倭人伝」によれば、倭国で2世紀の終わりに大きな争乱があり、長い間収まりませんでしたが、邪馬台国の女王卑弥呼を指導者に立てることで鎮まったといいます。邪馬台国の女王卑弥呼は、「鬼道(きどう)に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わ〉した」と書かれ、30の小国を従えるようになったとされています。鬼道とは呪術か、妖術かなど、その神秘性が卑弥呼人気を高めています。

 

ところで、2~3世紀に日本に存在したとされる「邪馬台国」ですが、歴史的に不明確なのは、邪馬台国後に誕生したとされるヤマト王朝(大和朝廷)との関係です。というのも、邪馬台国がどこにあったのか、という疑問に関して、近畿と九州の2つが有力だとされていました。「魏志」には、その方向と距離しか示されていないので、九州説と畿内説で、学者の見解が二分されてきました。もし、邪馬台国が近畿にあったなら、邪馬台国の中の力のある豪族が大和朝廷を開いたとする説が有力となり、逆に邪馬台国が九州にあったとしたら、邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされたとの見方が優勢になると言われています。

 

近畿説、九州説どちらであっても、こ卑弥呼が死亡したのは、「魏志倭人伝」などの文献によって、3世紀中ごろの247年か248年とわかっています。そして、邪馬台国は、3世紀半ばに卑弥呼が亡くなり、その後男性が王に即位したものの政治が乱れたため、壱与という女性が王になったところ、争いが鎮まったと言われています。実際、266年、「晋書」という中国の晋の国の書物に 「倭の女王壱与(いよ)が西晋に使者を送る」ということが記されています。しかし、その後の邪馬台国がどうなったかは定かではありません。

 

一方、3世紀頃になると、奈良には大和王権の象徴とされる大規模な古墳が出現します。そして、古墳時代の始まりは、これまで3世紀末(大体280年ごろ)とするのが、考古学者の一般的な見方でした。つまり、邪馬台国も卑弥呼も、これまでは古墳時代とはあまり関係ない、と考えられていたのです。

 

奈良県桜井市には、出現期古墳の中でも最古級と考えられている「箸墓(はしはか)古墳」があります。この古墳は、奈良県纏向(まきむく)遺跡にある全長約280メートルの日本で最初の巨大な前方後円墳として知られたいます。宮内庁によれば、第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。これは、「日本書紀」の記述に基づくもので、「昼は人が造り、夜は神が造った」という不思議な伝説を伝えています。百襲姫(モモソヒメ)は、巫女のような存在と描かれ、三輪山の蛇神と結婚しますが、最後は箸で女陰を突いて死んでしまいます。そこから箸墓という名がついたと言われています。

 

この百襲姫(モモソヒメ)が、「魏志倭人伝」が伝える卑弥呼のシャーマン的な姿と重なることから、これまで、「箸墓(はしはか)古墳」は、倭国の女王、卑弥呼の墓とする説がありました。この「箸墓古墳=卑弥呼の墓」説が真実味を帯びつつあるのです。

 

考古学の世界で、弥生時代の集落跡である池上曽根遺跡(大阪和泉市)の発掘調査に活用された年輪年代法の結果が出て以来、これまでの近畿の弥生中期、後期を年代的に見直す動きが進んでいます。その結果、今では、古墳時代の開始を3世紀中ごろとするのがむしろ大勢となっているとのことです。そうすると、古墳時代の始まりが、卑弥呼の死亡時期とピタリと重なり、邪馬台国の時代と、古墳時代が時間的につながるのです。そして、日本で最初の巨大な前方後円墳である箸墓が卑弥呼の墓である可能性がにわかに高まっています。

 

さらに、箸墓(はしはか)古墳のある纏向(むきまく)遺跡の近くに、弥生時代の「唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡」があります。この遺跡は、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られていて、「近畿の首都」とも言われています。纏向(むきまく)遺跡の集落は、唐古・鍵遺跡の集落と入れ代わるように出現したとされ、しかも、ちょうど紀元180年ごろに突如として姿を現したとされています。この紀元180年というのは、卑弥呼が女王になったとされる時期と一致しています。そうすると、日本の古代史は将来的に次のように書かれているかもしれません。

 

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弥生時代の後期、倭国で2世紀の終わりに、「倭国大乱」と呼ばれる70~80年も続いた大きな争乱があったが、紀元180年ごろに出現した卑弥呼によって、国が治められ、畿内に邪馬台国が台頭した。倭国の女王、卑弥呼は、3世紀中ごろ死亡し、巨大な古墳が作られた(箸墓古墳)、古墳時代の幕開けとなった。邪馬台国はその後、滅亡し、大和王権が取って代わった。

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2019年07月24日

歴史:徳川家のその後

7月22日の投稿で、徳川宗家第19代当主の徳川家広氏の参院選出馬とともに、家広氏の人となりも紹介しましたが、明治維新後、徳川家がどうなったかについて、関心がでてきたので以下にまとめました。

 

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16代 徳川家達(いえさと)(1863~1940)

 

徳川家達は、御三卿(後述)の一つである田安家の生まれ(幼名は亀之助)、血筋をたどれば14代将軍徳川家茂とも、13代の徳川家定とも従弟(年下の男のいとこ)にあたることから、誕生から次期将軍候補(15代)として育てられたそうです。家茂も遺言には後継者は家達としていました。しかし、わずか20歳でしかも長州征伐のため滞在していた大坂城で、将軍家茂が亡くなってしまいました。このとき家達はわずか4歳で、当時の外国の脅威が迫っているという緊迫した状況化で、物心つくかつかないかの幼児をトップに据えるのではなく、年長者が望まれるべきとして、15代将軍は一橋家の一橋慶喜(徳川慶喜)に決まったという経緯があります。

 

結果、家達は江戸城に入ることはありませんでしたが、明治政府は「朝敵」とされた慶喜に代わり徳川宗家を継ぐよう命じたことから、1868年5月、当時5歳の徳川家達(いえさと)が、徳川宗家(本家)の16代当主となったのでした。その年の内に明治天皇に拝謁しています。1869年6月、静岡藩知事に就任、駿河府中へ移り住みましたが、1871(明治4)年の廃藩置県によって藩知事の職はなくなりました。その後、10代でイギリスへ留学、19歳の時には帰国して、近衛家の女性と結婚しています。

 

成人になった家達は1884(明治17)年の華族令で侯爵となり、1890(明治23)年に帝国議会が開設されると貴族院議員となりました。形式的には、徳川家が再び国政に関わることになったのです。家達は、その血筋から、政治の表舞台に引き上げられます。東京市長や首相にも担ぎ出されそうになりました。1898(明治31)年に、東京市長選の話しがでてくると、家達は、晩年の勝海舟に相談へ行ったそうです。すると、勝海舟は「徳川家の人間なのだから、よほどのことがない限り、政治に関わってはならない」とアドバイスしたという逸話もあります。実際、家達は、「徳川家が政治の表舞台で目立つのはよろしくない」として、これらの政治的地位を固辞しています。

 

しかし、徳川家達(いえさと)は、1903(明治36)年から33(昭和8)年までは貴族院議長を務めました。その間、家達は1922(大正11)年に、世界初の軍縮会議となったワシントン軍縮会議で全権を務めるなど、国際政治の表舞台にも立っています。ワシントン軍縮会議では、保有艦の総排水量比率を、米と英が5に対して日本は3と定められました。更に失効した日英同盟に代わり、米・英・仏・日の四カ国条約が結ばれています。

 

そのほかにはも、慈善団体やスポーツ協会の立ち上げに関わったりと、いろいろな面の仕事をしております。特に注目されるのは、1940年開催予定の東京オリンピックの委員長も務めています。大河ドラマ「いだてん」でもお馴染みの「柔道」の始祖、嘉納治五郎氏ともに東京誘致に奔走していたのです。もっとも、東京オリンピックは、日中戦争など国際情勢の混迷を受け、日本政府が開催を辞退しました。幻の東京オリンピックとなった1940年、幻の16代将軍、徳川家達はこの世を去りました。

 

 

17代 徳川家正(いえまさ)(1884年3月~1963年2月)

徳川家達の長男として生まれた家正は、主に外交官・政治家として活躍しました。1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、外務省に入省、1925年(大正14年)シドニー総領事を皮切りに、カナダ公使、トルコ大使を歴任し、1937年に外務省を退官しました。その後、父、徳川家達の薨去に伴い公爵を受け継ぎ、1940年に貴族院議員となり、1946年に最後の貴族院議長に就任しました。

 

1963年2月、心臓病のためで死去しました。妻は薩摩藩主島津忠義の十女・島津正子(しまづ なおこ)で、二人の間には、長男・家英がいましたが早世していたため、断絶を恐れた家正は、長女豊子と会津松平家の松平一郎夫妻の次男恒孝(つねなり)を養子としていました。

 

 

18代 徳川恒孝(つねなり)(1940年2月~)

徳川恒孝氏は、前述したように、会津松平家から養子入りし、徳川宗家の当主を引き継ぎました。会津松平家と言えば、最後は朝敵となった会津藩主松平容保の松平家で、恒孝は、松平容保のひ孫に当たります。恒孝氏は、学習院大学政経学部卒業後、実業界に入り、日本郵船で副社長を務めました。現在、公益財団法人徳川記念財団初代理事長、公益財団法人東京慈恵会会長など公的な地位にあります。

 

恒孝氏の父の松平一郎(1907~1992)は、太平洋戦争中、横浜正金銀行職員としてシンガポールに赴任しており、終戦で収容所に入れられていたそうです。また、恒孝氏の父方の祖父である松平恆雄は第1回参議院議員通常選挙に当選し、第1回国会の議長選挙で初代の参議院議長に選出されています。徳川宗家は、現在、恒孝氏の嫡子、徳川家広氏が引き継いでいます。

 

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御三家と御三卿

冒頭で、徳川宗家第16代当主、徳川家達(いえさと)は、「御三卿の一つである田安家の生まれ」と書きましたが、ここで、御三卿、それから関連する御三家について説明してみたいと思います。

 

御三家

徳川御三家とは、徳川家一族である尾張家、紀伊(紀州)家、水戸家の三家のことを指します。初代の家康が、後に徳川の血が絶えたら困るからという理由で創設しました。仮に徳川宗家(本家)から後継ぎがでなくても、徳川一族の三家(「御三家」という)から出せるようにしたのですね。形式的には、家康の子供がそれぞれ興した分家が「御三家」です。

 

尾張徳川家←9男 義直

紀州徳川家←10男 頼宣

水戸徳川家←11男 頼房

 

このうち「紀州徳川家」からは、将軍家に跡継ぎが無いときに養子を出すことが出来ました。7代将軍家継が、七歳でこの世を去った際(この時、家康から続いた直系が途絶える)、御三家のうち、紀州家から出た八代将軍・徳川吉宗でした。14代将軍家茂も紀伊徳川家出身です。ちなみに15代将軍「徳川慶喜」は水戸徳川家の出身ですが、将軍になる前に、次に説明する「御三卿」の一角である「一橋徳川家」に養子に出されているので、徳川慶喜は、水戸家からの将軍ではないという扱いです。

 

御三卿

その御三卿とは、徳川吉宗が、御三家だけでは心もとないとして、自らの子ども達を分家させて作った体制を指します。それらは田安家、一橋家、清水家の三家でした。御三卿はいわば、将軍家や御三家に跡継ぎが無い場合に養子をだすために作られたと言えます。

 

8代吉宗の次男 宗武⇒田安徳川家

8代吉宗の四男 宗尹⇒一橋徳川家

9代家重の次男 重好⇒清水徳川家

 

御三卿は大名ではなく「徳川家の家族」という位置づけで、家格は御三家の次になります。それぞれの名の由来は、江戸城の門の名称、すなわち田安門、一橋門、清水門からきています。正式には「田安門・一橋門・清水門に近くに住んでる徳川家の人」ということになります。

 

14代将軍徳川家茂のように、田安家から御三家の紀州へ養子に出た例もある一方で、15代将軍一橋慶喜のように、格上にあたる御三家から来た人もいます。御三卿に中では、11代将軍家斉は一橋家の出身で、14代家茂はもともと田安家の出、15代慶喜は一橋家からの将軍です。幕末にかけて御三卿の存在は、徳川家継承の面では実にありがたいものになっていくのでした。

 

現在の御三家と御三卿はどうなっているのでしょうか?御三家では、紀州徳川家は、19代当主、徳川宜子(ことこ)氏が継承していますが、独身のため養子を得なければ今代で断絶となります。尾張徳川家は22代当主、徳川義崇(よしたか)、水戸徳川家は15代当主、徳川斉正(なりまさ)が当主を継承しています。御三卿ではそれぞれ当主は健在です。

 

田安徳川家:11代当主 德川宗英(むねふさ)

清水徳川家:9代当主 徳川豪英(たけひで)

一橋徳川家:14代当主徳川宗親(むねちか)

 

なお、徳川慶喜は、明治維新のshs後、徳川宗家から別家として改めて公爵を授けられたことから、徳川慶喜家として、存続しましたが、最後の当主・徳川慶朝(よしとも)が2017年9月に亡くなっており、養子も取らなかったために断絶しています。

 

(参考)

幻の16代将軍・徳川家達~幻の1940年東京オリンピックで委員長だったとは!

徳川宗家「第19代目」が参院選に出馬 自民党ではなく立憲民主党を選んだ理由

(2019年6月13日 デイリー新潮。週刊新潮WEB取材班)

日本の歴史についてよくわかるサイト

武将ジャパン

御三家と御三卿って何がどう違う?吉宗が御三卿の田安家を創設する

徳川「御三家と御三卿」の違いは?役割やその特権について分かりやすく解説

2019年07月23日

ニュース:東京五輪あと1年 陛下、名誉総裁に

陛下、五輪パラ名誉総裁に 20年東京大会、開会宣言も

(2019/7/22、共同通信)

 

宮内庁は22日、天皇陛下が20年東京五輪・パラリンピック両大会の名誉総裁に就任されると発表した。陛下は両大会の開会宣言をする見通し。大会組織委員会の森喜朗会長の要望を受け、安倍晋三首相が今月、宮内庁長官に文書で就任を要請していた。1964年東京大会では、五輪は昭和天皇、パラリンピックは皇太子時代の上皇さまが名誉総裁に就任。冬季の98年長野大会は、五輪は在位中の上皇さま、パラリンピックは皇太子だった天皇陛下が務めた。今回は名誉総裁を統一することで、パラリンピックを五輪と同列に位置付ける狙い。大会の開会宣言は、20年東京大会は陛下が行うことが予想される。

2019年07月23日

ニュース:秋篠宮家の真子さま、南米ご訪問から帰国

眞子さま南米からご帰国

(2019.7.22、産経新聞)

 

日本人の移住120周年記念式典臨席などのため、南米のペルー、ボリビアを公式訪問していた秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまは22日午前、羽田空港着の民間機で帰国された。眞子さまは9日に成田をご出発。ペルーとボリビアで移住120周年の記念式典に臨席し、日系人らと交流したほか、両国の大統領を表敬された。ペルーでは世界遺産のマチュピチュ遺跡も訪問された。

 

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以下、真子さまのペルー・ボリビアご訪問の記事を日程に沿って、紹介します。

 

 

眞子さま南米へご出発 ペルー、ボリビア公式訪問

(2019.7.9、産経新聞)

秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまは9日、成田発の民間機で南米のペルー、ボリビア両国の公式訪問に出発された。現地時間9日夜にペルーの首都、リマに到着される予定。現地では移住120周年の記念式典であいさつし、日系人とも懇談される。15日にボリビアの主要都市、ラパスにご移動。16日に空路でサンタクルス入りし、記念式典に参列するほか、日系人の移住地も訪問される。ご帰国は22日。

 

 

ペルー日系社会に「心から敬意」=眞子さま、移住120周年式典に出席

(2019年07月11日、時事ドットコム)

南米最初の訪問国ペルー入りした秋篠宮家の長女眞子さまは10日、首都リマで日本人移住120周年記念式典に出席し、数々の困難を克服して確固たる地位を築いた日系人社会に「心から敬意を表します」と述べられた。眞子さまは500人以上の日系人らを前に「移住された方々とご子孫が、困難を勤勉に誠実に乗り越えて生活を築き、ペルー社会にしっかり根を下ろしてこられたことをこれからも心にとどめてまいりたい」と強調。移民を受け入れたペルーにも感謝の意を表明した。ペルー日系人協会のアベル・フクモト会長(71)は「120年を迎えても、日系人は日本人移住者の子孫であることに誇りを感じ続けている」と語った。

 

眞子さま、ペルー大統領を表敬訪問=移住者受け入れに謝意

(2019年07月12日、時事ドットコム)

ペルーを公式訪問中の秋篠宮家の長女眞子さまは11日、首都リマの大統領府にビスカラ大統領を表敬訪問し、日本からの移住者をペルーが受け入れてくださったことに感謝します」と述べられた。ビスカラ氏は「日系の方々がいろんな分野で活躍されていることをうれしく思う」と話した上で、技術・経済協力や考古学分野での日本の貢献に謝意を示した。

 

 

眞子さま、マチュピチュ遺跡をご視察 村長子孫とご懇談

(2019.7.14、産経新聞)

ペルーを公式訪問中の秋篠宮家の長女眞子さまは13日午後(日本時間14日未明)、「空中都市」として知られる世界遺産のマチュピチュ遺跡を視察された。日本人が村長を務めていたマチュピチュ村も訪れ、村長の子孫らと交流を深めた。マチュピチュ遺跡は15世紀初めに建設されたとされるインカ帝国時代の遺跡で、クスコから北西約110キロの断崖絶壁の山頂(標高約2400メートル)にある。眞子さまはガイドの説明に熱心に耳を傾けながら約2時間、遺跡を見て回った。その後、麓のマチュピチュ村へ。戦後すぐに村長を務め、村の発展に貢献した野内与吉の孫で日系人の野内セサル良郎さん(43)や、現在の村長らと懇談した。

 

 

ペルー訪問の眞子さま 古都クスコで遺跡など視察

(2019/07/15、テレビ朝日ニュース)

日本人移住120周年にあたり、ペルーを訪問中の秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さまがインカ帝国の都として栄えたクスコの街を視察されました。眞子さまは14日、ペルー南東部の標高約3400メートルに位置する古都・クスコで巨大な石で造られた遺跡を訪問されました。サクサイワマン遺跡はインカ帝国がスペインの侵略に抵抗した際に要塞として使われたものです。眞子さまはその後、世界遺産に登録されている街の中心部にある大聖堂を訪れました。眞子さまはペルーでのすべての予定を終え、深夜に次の訪問国・ボリビアに向けて移動されました。

 

 

眞子さま、ボリビア移住120周年式典ご臨席

(2019.7.18 産経新聞)

ボリビアを公式訪問中の秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまは17日(日本時間18日未明)、同国東部サンタクルスで開催された日本人の移住120周年記念式典に臨席された。式典には、ボリビア政府関係者や各地の日系人など約150人が出席。眞子さまは「数多くの困難を勤勉に誠実に乗り越えながら、各地での生活を築き、ボリビア社会に根を下ろしてこられたことを、これからも心にとどめてまいりたいと思います」とあいさつをされた。ボリビアへの日本人移住は1899年、ペルーへの移民のうち約90人がゴム農園労働者として入ったのが初めて。現在、約1万3千人の日系人が暮らしている。

 

 

2019年07月22日

参院選:徳川家康の末裔が出馬していた!

今回の参院選で、徳川家康の末裔で、徳川宗家第19代目の徳川家広氏が、静岡選挙区から、立憲民主党公認候補として出馬していました。徳川家広(いえひろ)氏(1965年2月生まれ)は、政治経済評論家や、翻訳家・作家として活動され、公益財団法人徳川記念財団理事や、家康をまつる久能山東照宮(静岡市駿河区)の祭司を務めています。

 

小学1年生から3年生までをアメリカで過ごし、学習院高等科に進学した後、慶應義塾大学経済学部卒業を経て、米ミシガン大学大学院で経済学修士号を取得しています。その後、財団法人国際開発高等教育機構(FASID)、国連食糧農業機関(FAO)に勤務し、コロンビア大学大学院で、政治学研究科を修了(政治学修士号)されました。2001年に帰国後、翻訳・執筆活動のほかに、新聞、雑誌など各メディアで評論活動を精力的にされていました。

 

このように学歴・職歴も目を見張るものがあれば、血統もサラブレットです。徳川家広氏は、血統的には、徳川宗家16代徳川家達(いえさと)の玄孫(孫の孫、やしゃご)であるだけでなく、最後の会津藩主、松平容保の男系の玄孫、島津久光の来孫(孫の曾孫、きしゃご)でもあります。父は徳川宗家第18代当主、徳川恆孝(つねなり)で、当主の地位は父から受け継いだもの。FAOベトナム支部勤務時代に知り合ったベトナム人女性と結婚している。子女はない。

 

静岡市内にある駿府城は、初代家康が築城、秀忠に将軍職を譲った後に居城した、先祖代々縁の深い土地からの出馬となりましたが、現職2人に敗れて落選となりました(得票数は、30万1895票、5人中3位で次点)

2019年07月22日

ニュース:参院選、改憲勢力3分の2維持できず

今回の参議院選挙は、与党の勝利に終わったが、以下のような見方も可能です。

 

自民党、改選66議席から9減の57議席となり、単独過半数は失った。

(結果として)

自民、公明、維新の「改憲勢力」で、憲法改正発議に必要な3分の2を維持できなかった。

(それでも安倍総理は)

野党(国民民主党)を抱き込んで、憲法改正の国会発議をめざすと宣言した。

 

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自民57、単独過半数失う 全当選者確定、立民17に伸ばす

(2019/07/22、共同通信社)

 

第25回参院選は22日午前、改選124議席全ての当選者が確定した。自民党は改選66議席から9減の57議席となり、単独過半数を失った。公明党は14議席で、非拘束名簿式導入後の最多議席に並んだ。政権内で発言力が強まる可能性がある。憲法改正の行方も左右しそうだ。自公両党は71議席で、改選77議席に届かなかった。

 

立憲民主党は17議席、日本維新の会は10議席へ伸ばした。国民民主党6議席、共産党7議席で、ともに勢力減。社民党は改選数維持の1議席。れいわ新選組とNHKから国民を守る党はともに議席を獲得。得票率2%も上回り、政党要件を満たすことが確実になった。

 

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「改憲勢力」3分の2維持できず 憲法審査会運営困難に

(2019/07/21、朝日新聞社)

 

自民、公明の与党と安倍政権での憲法改正に前向きな日本維新の会に与党系無所属を合わせた「改憲勢力」は、憲法改正の国会発議に必要な3分の2の議席を維持できなかった。安倍政権は早期の憲法改正を目指しているが、停滞する衆参両院の憲法審査会の運営はさらに難しくなりそうだ。

 

参院選後の定数は245で、3分の2を確保するには164議席が必要になる。自公と維新に与党系無所属の3人を加えた非改選は79議席。これらの改憲勢力が85議席以上を獲得すれば、衆参両院で3分の2の議席を維持できた。

 

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改憲の国民投票、首相「21年9月までに」 国民民主と連携に期待

(2019/7/21、日経)

 

安倍晋三首相(自民党総裁)は21日夜の民放番組で、自らの総裁任期である2021年9月までに憲法改正の国会発議と国民投票を目指すと表明した。総裁任期中に国会発議と国民投票を実施したいかを問われ「期限ありきではないが私の任期中に何とか実現したい」と述べた。発議に必要な衆参各院での3分の2以上の合意形成に向け、国民民主党などとの連携に期待を示した。

2019年07月19日

ニュース:北海道の小島消失か?

北海道で小島消失の可能性 領海縮小の恐れも

(2019.4.24、産経新聞)

 

第1管区海上保安本部(小樽)は24日、北海道北部・猿払村の沖約500メートルにあるとされる「エサンベ鼻北小島」が波や流氷による浸食で消失した可能性があるとして、来月20~24日に実地調査すると明らかにした。7月にも結果を公表する。1管によると、周辺の水深が浅く巡視船艇が使えないため、民間の作業船を使い水中音波探知機(ソナー)などで測量する。消失が確認されれば領海が狭まる恐れもある。

 

国連海洋法条約では、島は高潮時でも水面上にあるものと規定されている。1987年の測量では、島の高さは平均海面から1.4メートルだったが、地元住民から昨年10月、「島が海面から見えなくなっている」との情報が寄せられた。政府は2014年、領海の範囲を明確にしようと、名称のない158の無人島に名前を付けた。エサンベ鼻北小島はその一つ。

2019年07月14日

皇室:実在した天皇,、実在しなかった天皇?

現在の天皇陛下は、初代とされる神武天皇から数えて、第126代の天皇でいらっしゃいます。ただ、歴史的に126人の天皇が実在したかについては疑問視されています。そこで、百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群が世界遺産に正式登録されたことで、仁徳天皇が注目されていることを契機に(仁徳天皇すら実在していなかったとみる見方もある)、古墳時代(飛鳥時代以前)の天皇についてみてみましょう。

 

実在した天皇についての学説の対立

初代天皇とされる神武天皇から第25代天皇の武烈天皇までは、実在したのか伝説の天皇なのかが議論されています。現在のところ、第10代崇神天皇以降が実在であるという見方が多いようです。その根拠は、神武天皇と崇神天皇が同一人物であるという見解に基づいています。もしそうだとしたら、第2代綏靖(すいぜい)天皇から、第9代開化(かいか)天皇までは、実在しなかったということになります。実際、2代天皇から9代天皇まで欠けた8代を「欠史八代」などと呼ばれたりしています。

 

個人的にはすべての天皇は実在されたと思っていますが、今回は、通説?に従って、第10代崇神天皇から第31代用明天皇までを概観してみます。

 

第1代神武(じんむ)天皇

第2代綏靖(すいぜい)天皇

第3代安寧(あんねい)天皇

第4代懿徳(いとく)天皇

第5代孝昭(こうしょう)天皇

第6代孝安(こうあん)天皇

第7代孝霊(こうれい)天皇

第8代孝元(こうげん)天皇

第9代開化(かいか)天皇

 

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比較的実在性の高い最初の天皇とされる崇神天皇とはどういう天皇っだったのでしょうか

 

第10代崇神(すじん)天皇

崇神天皇は、3世紀から4世紀にかけて即位したとされています。当時、日本各地にそれぞれ王朝があり、独自の政治が行われていました。日本で最初の統一王朝といえば、一般的には大和朝廷の名で知られていますが、崇神天皇の治世に初めて全国が統一されたという説が有力です。

 

崇神天皇以降、第11代垂仁天皇から第15代応神天皇へと続いた後、第16代天皇として即位されたのが、今回の世界遺産登録で注目されている仁徳天皇です。この間、記紀(古事記と日本書記)神話では、日本武尊の物語や、新羅遠征など逸話もあります。

 

第11代垂仁(すいにん)天皇

第12代景行(けいこう)天皇

諸国平定を行い、子の日本武尊(ヤマトタケル)を諸国へ派遣した。

 

第13代成務(せいむ)天皇

第14代仲哀(ちゅうあい)天皇

仲哀天皇の皇后であった神功(じんぐう)皇后は、応神天皇即位までの間摂政を務め、三韓遠征(新羅遠征)、内乱鎮定などを行ったことで知られています。

 

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第15代応神(おうじん)天皇

応神王朝の祖とも言われる天皇で、八幡神として現在も広く祀られています(全国の八幡神社の祭神)、仁徳天皇の父。

 

第16代仁徳(にんとく)天皇

仁徳天皇については、7月11日投稿「仁徳天皇陵は仁徳天皇のお墓ではない?」を参照して下さい。なお、応神天皇と仁徳天皇は同一人物であったとする説もあります。

 

仁徳天皇の後は、第17代履中天皇、第18代反正天皇、第19代允恭天皇、第20代安康天皇、第21代雄略天皇と続きます。仁徳天皇も含めて、次の5代(6代)の天皇は、中国の史書に、「倭の五王」として登場していると見られ、その実在に現実性が帯びてきます。

 

倭の五王

5世紀の日本の大和王権(大和朝廷)は、中国南朝の「宋」と外交関係を持ち、中国に臣下の礼をとって朝貢してました(倭国王に冊封されていた)。当時の中国の歴史書「宋書」倭国伝には、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)といわれる倭の五王が、約1世紀の間に使者を派遣した事が記されています。これらの五人の倭王を、「古事記」などから照らし合わせると次のように推測されるそうです。

 

讃=仁徳天皇or履中天皇

珍=反正天皇

済=允恭天皇

興=安康天皇

武=雄略天皇

 

このうち、最初の二王である讃と珍は、疑わしいとされていますが、済・興・武の三人の王に関しては、現在、確実視されています。この「倭の五王」がそれぞれ日本の天皇に対応しているのが正しいければ、第25代の武烈天皇までは架空の天皇という説は、説得力がなくなってしまいます。

 

一方、記紀の記述も、仁徳天皇以降、その内容に変化が出てきます。つまり、それまでの神権的な存在に加えて、恋愛や王族同士の権力争いなど、人間的な側面も書かれるようになります。実際、仁徳天皇も、「民のかまど」の逸話にあるような聖帝(聖皇)としての存在から、皇后以外の女性を愛した姿なども描かれていました。

 

 

第17代履中(りちゅう)天皇

 仁徳天皇の第一皇子。概ね5世紀前半頃(?~405年)に、在位していたと考えられています。

日本書記によると、仁徳の崩御後、履中天皇は、即位の前、黒媛(くろひめ)という女性と婚礼を上げる為、使いとして住吉仲皇子(すみのえなかのみこ)(仁徳天皇の第二皇子)を送ったところ、住吉仲皇子は、黒媛に魅せられ、黒媛を奪ってしまいます。さらに、住吉仲皇子は、この事実を知って激怒した履中天皇を討つべく挙兵しました。一人の女性をめぐる争いは、皇位をめぐる争いに発展したのです。履中天皇は、弟の多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)(後の反正天皇)」に命じ、住吉仲皇子を討たせた後、神武天皇ゆかりの地である磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)(奈良県桜井市)で、履中天皇として正式に即位しました。

 

第18代反正(はんぜい)天皇

仁徳天皇の第三皇子、履中天皇の同母弟。御名は瑞歯別尊(みずはわけのみこと)。天皇としての治世は410年頃(?~410年)までとされています。履中天皇の即位に協力し、反乱を起こした兄、住吉仲皇子を討伐した貢献からか、履中天皇に皇位を譲り受けました。これは、日本史上初の兄弟継承の事例となりました。

 

また、反正天皇は、前述したように、「宋書」によれば、「438年、宋の文帝のときに倭の国王に任じられた『珍』という王があった」とあり、その「珍」が反正天皇と見られています。

 

第19代允恭(いんぎょう)天皇

仁徳天皇の第四皇子で、履中・反正天皇の弟でもあります。453年頃まで在位(?~453年)にあったとされています。反正天皇が皇嗣を決めないままに崩御してしまい、群臣の度々の要請を受けて即位したと言われています。この結果、履中・反正・允恭天皇の3代の天皇は、仁徳天皇の御子が即位された兄弟継承となりました。

 

第20代安康(あんこう)天皇

允恭天皇の第二皇子。日本書記によれば、その治世は僅か3年(?~456年)で、実績は殆ど記されていません。允恭天皇の代、皇太子は第一皇子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)でしたが、同母妹である軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)と禁断の恋に陥り、人望を失ってしまい、允恭の崩御後、群臣は木梨軽皇子を推戴(すいたい)せず、弟の安康が即位しました(木梨軽皇子は自害に追い込まれた)。

 

日本書記によれば、安康天皇の治世は僅か3年(?~456年)で、近親者に暗殺されてしまいました。配下の者の企てにより殺害してしまった叔父の大草香皇子(おおくさかのみこ:仁徳天皇の皇子)の妻を、妃として迎え入れたことで、連れ子だった眉輪王(まよわのおおきみ)に恨まれ刺殺されたとされています。

 

第21代雄略(ゆうりゃく)天皇

允恭天皇の第五皇子、安康天皇の同母弟。在位は418~479年と推察。雄略天皇は、考古学を根拠として実在を証明できる最初の天皇と考えられています。その理由としては、稲荷山古墳(埼玉県行田市)から出土した発掘品(鉄剣の銘文)の中に、雄略天皇の諡号「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ」と考えれられる文字が記されていたことがあげられます。この事は、雄略天皇の勢力が畿内から関東にまで達していた事を意味します。実際、雄略天皇の治世は、大王(天皇)権力と大和政権の勢力が一段と拡大強化された時期と評価されています。

 

その一方で、記紀神話では、気性の洗い悪逆な専制君主として描かれています。例えば、日本書記では、その恐怖政治ぶりを「朝に見ゆる者は夕べに殺され、夕べに見ゆる者は朝に殺され」と記し、「天下そしりて大悪天皇ともうす」としています。前代の安康天皇暗殺事件に乗じて一気に権力を握ったとされる雄略天皇は、兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)、別の兄の境黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)、安康天皇を暗殺した眉輪王、さらに、従妹の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)とその弟など、皇位継承の競合者らを次々に殺害したとされています。これによって、天皇の権力を強化され、支配基盤を盤石になったと評価されていますが、後の皇位継承問題に発展することになります。

 

なお、雄略天皇は、「宋書」の478~502年の記録にある、倭の五王最後となる倭王「武(ぶ)」とされています。

 

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雄略天皇崩御の後は、第22代清寧天皇、第23代顕宗天皇、第24代仁賢天皇、第25代武烈天皇と続きました。この時期、皇位は、天皇の子息もしくは兄弟など血縁関係で受け継がれていきました。

 

第22代清寧(せいねい)天皇

雄略天皇の第3子。清寧天皇には御子がいなかったので、次の天皇は、仁徳天皇の第一子の履中天皇の系統に戻ることになります。

 

第23代顕宗(けんぞう)天皇

履中天皇の孫(履中天皇の長子である市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の第3子

 

第24代仁賢(にんけん)天皇

顕宗天皇の同母兄(履中天皇の孫)、兄弟継承。

 

第25代武烈(ぶれつ)天皇

武烈天皇は、489年(仁賢2年、皇紀1149年)、仁賢天皇の第一皇子として誕生され、6歳で立太子され、498年12月、父、仁賢天皇の崩御により、10歳で即位しました。499年3月、春日娘子を皇后に立てられましたが、506年12月、後嗣なく、在位8年、わずか18歳で崩御されました。

 

そういう武烈天皇ですが、なぜか「日本書紀」には天皇の非行の数々が具体的に記され、暴君として「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあり、暴虐非道の天皇として描かれています。しかし「古事記」には、そのような暴君としての記述は全くありません。武烈天皇の暴君エピソードは、創作れたものなのではないかという疑義が存在しています。

 

いずれにしても、武烈天皇は名君とされる仁徳天皇の最後の直系かつ男系子孫の天皇となってしまいました。

 

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武烈天皇には、後継ぎとなる子どもや兄弟がおらず、武烈天皇自身も後継ぎを決めずに、18歳の若さで崩御してしまったため、皇位継承候補者不在の状況に陥りました。まさに、皇統断絶の危機を迎えてしまったのです。そうなったのも、雄略天皇が兄弟の皇子や叔父の皇子を次々と誅されたことが、ここにきて皇位継承問題に大きく影響してきたと見られています。そこで、次の天皇として白羽の矢が立ったのが、第15代応神天皇の5代あとで遠縁にあたる継体(けいたい)天皇でした。

 

なお、この点に武烈天皇、暴君説の理由があるとの見方が一般的です。即ち、武烈天皇から大きく離れた血統の継体天皇の即位の正当化のために、武烈天皇のイメージを殊更に悪くして、即位時の繋がりの薄さのインパクトを薄くするのが狙いだったのではないかと言われているのです。ただし、この説が正しいとしたら、誰がそうしたのかは、継体天皇ではなく、日本書記を編纂した藤原不比等ということになります。

 

第26代継体(けいたい)天皇

天皇在籍:507年 2月4日~531年 2月7日

武烈天皇崩御の翌年、大連の大伴金村、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)、大臣の巨勢男人(こせのおひと)ら群臣が協議し、越前から男大迹王(おおどのおおきみ)をお迎えすることを決定し、越前まで迎えに出向きました。男大迹王は、応神天皇の玄孫・彦主人王(ひこうしのおおきみ)の王子として近江国三尾で誕生、応神天皇の5世孫に当たります。

 

男大迹王(おおどのおおきみ)は最初、その申し出を疑われましたが、事情が分かり、また大臣以下全員が懇願したので、即位をご承諾になられたとされています。もっとも、継体天皇の即位に関する以上の経緯は潤色されたものとの見方もあります。実際は越前・近江地方に勢力を持っていた豪族が、武烈天皇の死後、皇統が絶えたことを良い機会と捉え、皇位を簒奪したという説です。

 

507年1月12日、男大迹王は、子の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)と檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)を伴われ、58歳で河内国樟葉宮にて即位されました。即位の候補者もなく、先帝の勅命もなく、遺詔もない状況下で、群臣の協議だけで皇統の人を捜してきて、その方に即位頂いたということは、前例のないことでした。

 

即位後の3月5日、継体天皇は、天皇は皇統の危機を懸念され、仁賢天皇(億計王)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎えられました。また、継体天皇は、8人の妃を入れられ、それぞれ多くの皇子女に恵まれ、19人の皇子を持たれました。

 

531年春、2月7日、継体天皇は、皇子の勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)に皇位を譲られ(譲位ではなく遺詔)、皇子の即位の同日、在位24年、82歳で崩御されました。継体天皇以降、遠縁から天皇を迎えるということはなく、現在の天皇家の源流は、継体天皇ということになります。

 

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第26代継体天皇の後、第27代安閑天皇、第28代宣化天皇、第29代欽明天皇、第30代敏達天皇、第31代用明天皇まで古墳時代と呼ばれる時代が続きます。

 

第27代安閑(あんかん)天皇

在籍:531年 2月7日 ~ 535年 12月17日。

継体天皇の即位前の子、勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)が即位しました。

 

 

第28代宣化(せんか)天皇

在籍:535年 12月~539年 2月10日

継体天皇の即位前の子、檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)が即位しました。

 

 

第29代欽明(きんめい)天皇

在籍:539年 12月5日 ~ 571年 4月15日。

継体天皇の嫡男(手白香皇女との間に生まれた天国排開広庭尊あめくにおしはらきひろにわのみこと)が即位。治世中に仏教が伝えられました。

 

第30代敏達(びだつ)天皇

在籍:572年 4月3日 ~ 585年 8月15日

欽明天皇の第二皇子。治世中に崇仏・廃仏の論争が起こりました。

 

第31代用明(ようめい)天皇

在籍:585年 9月5日 ~ 587年 4月9日、

欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘・堅塩媛。同母妹に推古天皇。聖徳太子の父。在位2年(古事記は3年)で崩御。

 

ここまでが古墳時代で、第32代崇峻(すしゅん)天皇の時代から飛鳥時代に入ります。

 

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<参考>

「皇位継承事典」(PHPエディターズグループ)吉重丈夫著

Web歴史街道

ピクシブ百科事典

倭の五王といわれる五人の天皇

倭の五王は、いつの天皇なのか?-歴史まとめ. net

皇統断絶の危機。武烈天皇(第25代)から継体天皇(第26代)への皇位継承(吉重丈夫)