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2019年05月19日

ニュース:東京・神田祭と浅草三社祭

<三社祭>

 

三社祭「宮出し」 令和の活気、浅草駆ける

(毎日新聞2019年5月19日)

東京・浅草に初夏の訪れを告げる浅草神社(東京都台東区)の三社祭が19日、最終日を迎えた。本社神輿(みこし)3基を境内から街に担ぎ出す「宮出し」があり、祭りは最高潮に達した。神事の後、氏子たちの一本締めを合図に午前5時45分ごろ、宮出し。法被を着た担ぎ手たちが「オイサ」と威勢の良い掛け声でみこしを揺らしながら、浅草神社の隣の浅草寺の境内や仲見世など浅草の街中を練り歩いた。

 

絢爛100基の神輿が練り歩く 東京・浅草の三社祭

(2019.5.18、産経)

東京・浅草の三社祭で18日、浅草神社の氏子44ケ町の神輿(みこし)による「町内神輿連合渡御」が行われ、新天皇の即位と新元号「令和」を祝って、浅草寺の本堂裏に約100基の町神輿が参集した。氏子たちによる手締めのあと、1基ずつ出発。浅草神社でのおはらいを受け、威勢のいい掛け声とともに東京の下町へと繰り出していった。三社祭は19日が最終日。早朝から3基の浅草神社の本社神輿が神社を出発する「宮出し」が行われる。

 

三社祭が浅草でスタート 3日間で150万人見込み

(2019年5月17日、日刊スポーツ)

三社祭が17日、東京・浅草でスタートした。3日間で150万人の人出が見込まれる。初日の大行列にも、多くの見物客が訪れた。おはやし屋台を筆頭に町を練り歩いた後は、東京都無形文化財の「びんざさら舞」も奉納された。18日は浅草氏子44ケ町の町内みこし約100基の渡御が予定され、にぎわいが予想される。

 

三社祭とは?

三社祭りは浅草神社の祭です。浅草神社は、「浅草寺をつくった土師真中知命(はじのまつちのみこと)と聖観世音菩薩を川から引き揚げた漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟をまつる神社で、明治維新の神仏分離令によって浅草寺と分かれ、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に浅草神社となった」と伝えられています。

 

三社祭りの1日目は、浅草神社で五穀豊穣を祈願して無形文化財「びんざさら舞」を奉納します。びんざさらとは、竹や木の薄い板を何枚も重ねて紐で綴った楽器です。2日目は氏子44町会から約100基の神輿が出て、浅草神社でお祓いを受けた後、「セイヤ、セイヤ」の掛け声とともに各町内を渡御します。最終日は宮出しで3基の大きな宮神輿が氏子たちに担がれて発進します。三社祭の神輿は、「魂振り(たまふり)」と言って激しく神輿を上下左右に動かします。わざと荒々しく揺さぶることで、神輿に坐す神様の霊威を高め、豊作・豊漁や、疫病が蔓延しないことを祈願するそうです。

 

(浅草神社、「暮らし歳時記」HPなどから参照・引用)

 

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<神田祭>

 

平安絵巻華やかに 「神田祭」で1000人が都心練り歩く

(2019年5月11日、NHKニュース)

 

江戸三大祭りの一つとされる「神田祭」で11日、平安時代の色鮮やかな装束を身にまとった人たちが都心を練り歩く「神幸祭(しんこうさい)」が行われています。「神田祭」は、東京 千代田区にある神田明神が、江戸時代から続く祭事として2年に1度行っています。3日目の11日は、祭りのハイライトの一つ、「神幸祭」が行われ、出発を告げる神事のあと、平安時代の色鮮やかな装束を身にまとった神職や羽織はかま姿の氏子など約1000人が行列をなし、神社を出発しました。行列は「鳳輦(ほうれん)」と呼ばれる大きなみこしを中心に弓や刀を持った人や馬車、それに人力車も加わり、数百メートルの長さにおよびました。神田祭りは今月15日まで続き、12日は、大小200を超えるみこしが神田明神を目指す「神輿宮入」が行われます。

主な行事
5/11〈神幸祭〉神田明神の宮神輿の巡行
5/12〈神輿宮入〉神田明神に町神輿が練り込み
5/15 〈例大祭〉 神田明神で行われる神事

 

神田祭りとは?

神田祭は、江戸総鎮守「明神」の祭礼です。京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本の三大祭りの1つとされています。神田祭には、奇数の年に行われる神輿の出る「本祭(ほんまつり)」と、偶数の年に行われる神輿が出ない「蔭祭(かげまつり)」の2つがありますが、一般に神田祭というと賑やかな本祭を指します。本祭りは山王祭と隔年で行われます。

 

1300年以上の歴史ある神田明神ですが、特に祭が盛んになったのは江戸時代です。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康が神田明神に戦勝を祈願して勝利したとされています(例大祭はこの9月15日に行われている)。戦の前には、必ず家来に神田明神で戦勝を祈らせたとも言われています。その後、徳川家康は見事天下統一を果たし、神田明神に感謝して立派な社殿や神輿を寄進。以後、神田明神は、徳川幕府によって江戸城を守護する神社となりました。家康の支援により、祭りは現在のような盛大なものになり、将軍が上覧する「天下祭」と呼ばれていました。

 

神田明神は、大手町、丸の内、神田、日本橋、秋葉原、築地魚市場など都心の108の氏子町の総氏神で、神社は天平年間(8世紀)創建です。

 

神田祭の見どころは、平安時代の衣装をまとった500人ほどの行列「神幸祭(しんこうさい)」で、神田明神の周辺地域を守る神々が3つの神輿、大黒様を乗せた「一の宮鳳輦(いちのみやほうれん)」、恵比須様を乗せた「二の宮神輿(にのみやみこし)」、将門様を乗せた「三の宮鳳輦(さんのみやほうれん)」に乗って、町々を祓い清めるという趣旨で行われ、氏子の108町会を巡ります。平安時代の衣装の人々は、神々の付き添いだそうです。

 

神幸祭の翌日には、神田神社周辺の町からおよそ100基の神輿が出され、神田明神へと向かいます。これを「神輿宮入(みこしみやいり)」(「神輿渡御」)と呼びます。氏子町が町神輿を競い合う祭りの華とも言えます。最終日は、祭りの締めくくりとして最も重要な神事、例大祭が執り行われ、平和と繁栄が祈願されます。

 

(東京観光財団や主催者側のHPなどを参照)

 

 

 

2019年05月19日

神道:上賀茂神社と下鴨神社 賀茂氏とは?

先日投稿した葵祭は、祇園祭、時代祭と並ぶ京都三大祭の一つで、京都最古の歴史を有する上賀茂神社と下鴨神社(両社を総称して賀茂神社)の祭事です。今回は賀茂神社と賀茂氏(賀茂神社は賀茂氏の氏神)について解説します。なお、現在、上賀茂神社と下鴨神社とは別に、滋賀県に賀茂神社も存在しますが、ここでいう賀茂神社とは上賀茂・下鴨両神社の総称としての賀茂神社です。

 

上賀茂神社・下鴨神社

 

賀茂神社(賀茂社)の創始は太古に遡り、京都の社寺では最も古い部類に入ります。上賀茂神社の社伝によれば、「神武天皇の御代に賀茂山の麓に、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)が降臨した」とされています。第二代の綏靖天皇の御代(BC580頃)には神事が始まったと言われ、下鴨神社境内の糺の森から縄文時代の祭祀遺跡や旧境内から集落など発掘されています。一方、崇神天皇の時代(BC90頃)には、社殿が造営されたとの記録があることから、この頃に創建されたという説もあるようです。

 

欽明天皇の治世(544年)に、賀茂祭(葵祭)も始まりました。奈良時代には、山城国(京都)の神社の枠を超えて全国的な広がりをみせ、民衆さらには朝廷からも崇敬を受けました。また、上賀茂神社から下鴨神社が分置されたのも、奈良の天平の時代とされています。794年の平安遷都後は、「皇城鎮護の神社」として、807年は神社の格付け(社格)では最高位である「正一位」の神階を受け、賀茂社(賀茂神社)の祭祀は勅祭(天皇が使者を派遣して行われる祭祀)とされました。

 

さらに、810年以降、約400年にわたって、斎院が置かれ、斎王の制度が設けられました。斎王とは神社に巫女として遣わされた未婚の皇室の女性のことです。皇女を斎王として神のそばにおくことで、神への崇敬の念を表されたのです。この斎王の制度が適用されたのは、賀茂神社と伊勢神宮だけです。賀茂神社が、古来から朝廷の尊崇を厚く受けていたことがわかります。

 

明治に入って定められた近代の社格制度においても、賀茂神社は、伊勢神宮に次ぐ官幣大社の筆頭とされ、明治16年(1883年)には、祭祀に際して天皇により勅使が遣わされる勅祭社に定められました。上賀茂神社と下鴨神社両社の祭事が賀茂祭(通称 葵祭)です。現在では、その社殿と境内が国指定の文化財となり、平成6(1994)念には、世界の文化財として世界文化遺産に登録されています。

 

賀茂氏について

冒頭でも述べたように、賀茂神社(賀茂社)に最初に降臨したのは、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)であり、賀茂神社は賀茂氏の氏神です。実際、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)は、上賀茂神社の祭神となっており、上賀茂神社は正式には、賀茂別雷神社といいます。

 

では、賀茂別雷命が賀茂氏の始祖かというとそうではありません。山城国風土記によると、賀茂別雷命は、玉依日売(たまよりひめ)という神様を母としてますが、この時の出生にまつわる話しは極めて神話的です。玉依日売は、賀茂川で禊(みそぎ─身を清める儀式)をされていたとき、川上から赤い矢を流れてきて、その矢を拾われて、帰って床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命だというのです。この赤い矢は丹塗矢(にぬりや)といって神の化身とされ、依り代(よりしろ)、つまり神が宿る媒体になることがあるそうです。この時、この矢には、乙訓社の火雷神(ほのいかづち)もしくは大山咋神(おおやまくい)が宿っていたとされています。なお、玉依日売(たまよりひめ)は、記紀の「海幸彦・山幸彦」神話に登場し、神武天皇の母に当たられます。

 

下鴨神社には、玉依媛命(たまよりひめのみこと)とその父である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祭られています。この賀茂建角身命こそ、賀茂氏の祖先神で、しかも、「神魂命(かみむすびのみこと)」のひ孫にあたります。神魂命(神皇産霊尊、神産巣日神)とは、天地開闢のとき、高天原にでた造化三神の一柱です。賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、八咫烏(やたがらす)の化身とされています。八咫烏は、記紀で神武天皇の東征の際、先導して勝利に導いた立役者として知られています。そうすると、賀茂氏が神武天皇による日本の建国を助けたという解釈も可能になります。神武天皇を初代とする現在の皇室と賀茂氏の関係は深く、天皇即位の儀式である大嘗祭(だいじょうさい)において、今も賀茂氏の一族の一人が灯りを持って新しい天皇を先導しています。

 

賀茂氏を調べていくと様々な興味深いことに出くわします。上賀茂神社と下鴨神社の祭事である「葵祭」でも知られるように、賀茂神社の神紋は「葵」です。江戸幕府の徳川家も葵紋を用いています。これは、徳川家の祖である松平氏が賀茂神社の氏子であったからだそうです。トヨタ自動車が本社がある豊田市は、旧三河国加茂郡に属していました。さらに、平安時代中期には、賀茂一族の中から陰陽博士の賀茂忠行を輩出し、その子孫は暦道を伝えました。陰陽師と言えば安倍晴明を思い出しますが、安倍晴明の師であったのが、この賀茂忠行で、その後、安倍氏と賀茂氏が陰陽道の宗家として君臨しました。

 

<参考>

日本神話・神社まとめ

日本の神様辞典

賀茂県主同族会

上賀茂神社・下鴨神社HPなど