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2019年12月02日

伝承:モリヤ神とミシャグジ神

諏訪大社の祭神は、記紀に伝わる出雲神話の神、建御名方神(タケミナカタノカミ)ですが、11月7日の投稿「諏訪大社と住吉大社」で、「もともと諏訪にはモリヤ(洩矢)という土着の神様がいましたが、そこにタケミナカタがやってきて、戦いの末に諏訪の地は奪われた」という伝承があると紹介しました。そこで、今回は、諏訪の土着の神、モリヤ(洩矢)神、さらには、モリヤ神を調べていくうちにでてきたミシャグジという神様に注目してみました。

(本投稿から初めて読まれる方は、「諏訪大社と住吉大社」の諏訪大社の項目を読んでからの方が理解が深まると思います。)

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建御名方神vs洩矢神

「古事記」の国譲り神話には、出雲の国の伊那佐の小浜で、天孫族の建御雷神(タケミカヅチ)との力比べに敗れた建御名方命(たけみなかたのみこと)は、諏訪(洲羽)に逃れてきて、諏訪の神になったと書かれていますが、諏訪にはタケミナカタ以前に「洩矢(モリヤ、モレヤ)の神」がいました。

 

洩矢神は、諏訪大社に祀られているタケミナカタ(諏訪明神)の諏訪入りに抵抗した土着神とされています。室町時代初期に編纂された「諏訪大明神画詞」にも、「大和朝廷による日本統一の前の時代、諏訪の地には、洩矢(もりや)神を長(おさ)とする先住民族が狩猟を主体として住んでいましたが、そこに出雲王国の建御名方神(タケミナカタノカミ)率いる一族が、稲作の技術を持って進入して来た」という記載があります。

 

神戦の舞台は、江戸時代の伝承記録には天竜川のほとりとあります。現在でも両者の戦った場所は残っているとされ、出雲族の建御名方神の陣地跡には藤島明神(長野県岡谷市)が祀られ、洩矢神の陣地跡には天竜川を挟んで洩矢大明神が洩矢神社(岡谷市)に祀られているそうです。

 

戦いは、地主神の洩矢(モリヤ)神と洩矢族が負け、侵略者である建御名方神に諏訪の統治権を譲り、建御名方神が諏訪大社の御祭神と成りました。ただ、現在も建御名方神は、諏訪様(諏訪大明神)として、人々に親しまれています。これは、勝者である建御名方神が、侵略者としての圧政は敷かず、むしろ、洩矢族とともに諏訪を統治したことがあげられています。それどころか、この地に稲作を伝え、諏訪の国も豊かにしたことから、先住民である洩矢の人々と新しく来た出雲系の人々は、共存するようになったと言われています。さらに、建御名方神(タケミナカタノカミ)は、洩矢族の長を洩矢の神を祭る神官として認め、洩矢族に代々祭政を任せたのでした。今もこの神官の地位(神長官)を守矢氏が引き継ぎ、現在78代目(守矢早苗さん)なのだそうです。

 

守矢(もりや)氏

諏訪の土着の神、モリヤ(洩矢)神を氏神とする氏が、守矢一族とされ、守矢氏は洩矢神の後裔とみられています。前述したように守矢氏が受け継いできた神官名が、諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)です。この役職は、後述する「大祝(おおほうり)」という神職の即位式を含め、神事全般を掌握するだけでなく、土着の「ミシャグジ(ミシャグチ)」という神を降ろしたり上げたりするという祭事を担います。

 

大祝(おほいわり)とは、神職の最高位の階級で、成年前の童子が、決められた地域からそれぞれ1年毎に選ばれて即位しました。選ばれた童子は、即位式に当たり、神長官の屋敷の一室に一定期間籠り、儀式に臨みます。儀式は、諏訪大社前宮境内に、幕を引いて神殿を設け、そこで神長官(守矢氏)がミシャグジ神霊を呼び降ろし、「大祝(おおほうり)」に選ばれた童子に憑依させて現人神とするものだそうです。守矢(モリヤ)氏が代々務めた神長官(神長)は、「諏訪大社上社大祝(おおほうり)の職位式」などの神事を行ったり、呪術によって神の声を聴いたり、豊作祈願など祈祷する力などを持つとされました。

 

これに対して、諏訪神官の最高位である大祝という生神の位に就いた氏が、建御名方命の子孫である諏訪氏(神氏)です。諏訪氏といえば、戦国時代、武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重が思い出されます。諏訪一族は、「大祝(おおほうり)」を代々務め、当時、頼重は信濃の名族・諏訪氏の惣領家でもありました。武田信玄は、諏訪の地を支配するために、諏訪頼重を討ち、頼重の娘を側室にしました。そして二人の間に生まれた勝頼を諏訪惣領家の後継に据えたのでした。

 

諏訪神社上社において、この「大祝(おおほうり)」を補佐して実質的に祭祀を取り仕切る役職が、洩矢神の子孫の守矢氏によって引き継がれた諏訪大社上社の神長官(じんちょうかん)という筆頭神官(諏訪大社の神職の長)の位です。そして、守矢(もりや)家が、古くから「七本の峰のたたえ」を守ることで、ミシャグジ神を祀ってきたと言われています。「七本の峰のたたえ」とはミシャグジが降りる木とされ、この内の一本が、守矢家屋敷の近くの「尾根(縄文時代の墓としての土坑)で、発掘されています。このため、守矢氏の氏神とされる洩矢神は、守矢氏が祀るミシャグジと同一視されることもあるそうです。そこで、洩矢(モリヤ)の神とミシャグジという神について、みてみましょう。

 

洩矢神(もりやしん、もりやのかみ)

侵攻してきた建御名方神(たけみなかたのかみ)との戦いに敗れた洩矢神には、守宅神(もりやのかみ、もりたかのかみ)と多満留姫命(たまるひめ)の二柱の御子神がいました。多満留姫命は、建御名方神の御子神・出早雄命(いづはやおのみこと)に嫁ぎました。このことは、土着神という洩矢神系と建御名方神の出雲系が婚姻したことを意味し、神話的には、戦いに敗れた守矢神が、娘を、建御名方神の御子に嫁がせ、延命と勢力保持を図ったという言い方が可能です。

 

洩矢神のもう一人の御子である守宅神は、洩矢神の祭政の跡継ぎとなり、千鹿頭神(ちかとのかみ)をもうけました(母神は未詳)。守宅神が鹿狩りの際、1000頭の鹿を捕獲した後に生れたことがその名の由来のようです(現在も千鹿頭神は、狩猟神として信仰されている)。

 

洩矢神

守宅神-多満留姫命

千鹿頭神

 

千鹿頭神(ちかとがみ)は、洩矢神の祭政官としての地位を、守宅神から引き継ぎましたが、後に松本、奥州へと追放されてしまいます。このため、千鹿頭神の後継者となったのは、建御名方神の孫である児玉彦命(こだまひこのみこと)でした(児玉彦命は、守矢氏の系図では四代目に数えられる)。このことは、土着の洩矢神の血族がこの段階で断絶してしまってことを意味します。その後、洩矢神の祭祀は、児玉彦命(こだまひこのみこと)から、その子の八櫛神(やくしのかみ)、そして守矢氏が引き継ぎました。ですから、守矢氏は、洩矢神の後裔と言われていますが、血筋は直接つながっていないことになります。それにもかかわらず、その祭祀を受け継いだ守矢氏は洩矢神を一族の遠祖としているのです。ということは、タケミナカタ系の守矢氏が、諏訪大社上社の神長官をし、「ミシャグチ」を上げ下ろししていたことになります。では、守矢氏が守ってきたとされるミシャグジとは、どういう神様なのでしょうか?

 

ミシャグジ(チ)

ミシャグジとは、記紀には登場しない、太古より日本に伝わる、諏訪湖の土着神で、ミシャグジに対する信仰は、大和民族に対する先住民の信仰とされていました。その起源は縄文時代から祀られてきたといわれ、当初は、主に樹木、笹、石など、自然万物に降りてくる精霊・自然神と言わています。また、諏訪の御射山(みさやま)をご神体とする山神として、マタギ(猟師)をはじめとする山人達から信仰されていました。

 

さらに、時代を経るにつれて、ミシャグジは、諏訪の蛇神であるソソウ神やモレヤ(洩矢)神、さらにはチカト(千鹿頭)神など、その土地の他の神々と習合して、龍蛇神や木石の神、狩猟の神という性質を持つようになったと考えられています。ですから、ミシャクジはこうした神々とも同一視されることもあるのです。

 

また、民俗学者の柳田國男は、ミシャグジを、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に一種の標識として立てた塞の神(サイノカミ)=境界の神とみなしていました。塞の神とは、境の神の一つで、村や部落の境にあって,他から侵入する邪悪なものを防ぐ神だそうです。

 

前述したように、現在、ミシャクジは、諏訪大社上社に祀られ、ミシャグジ降ろしの祭祀において、神官に憑依して宣託を下す神です。大昔には、一年毎に八歳の男児が神を降ろす神官にあ選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供(ひとみごくう)(人間を神への生贄とすること)とされるといった伝承も残されています。

 

ミシャグジ神を信仰する地域は、東日本広域に渡り、ミシャグジ信仰は、長野県の諏訪地方を中心に、山梨県、静岡県、愛知県、三重県、岐阜県、滋賀県など東日本の広域に渡って分布しています。全国のミシャグジを祀る神社は約1800社もあります(このうち長野県には750余りのミシャグジ社が存在)。諏訪大社上社の前原は、ミシャグジを統括する祭祀場だったとされています。その信仰形態は多様で、地域によって差異はあります。

 

ここまで、出雲の建御名方神(タカミナカタノカミ)が出雲に侵攻してくる(記紀の出雲神話では逃れてくる)以前にいた、諏訪地方の土着の神である、洩矢(モリヤ)神とその一族とされる守矢氏、さらには、彼らが祀っていたミシャグジ(ミシャグチ)という神様についてまとめてみましたが、さらに興味深い話しがいくつか続きます。

 

洩矢(モリヤ)神は、物部守屋か?

古代史を紐解けば、仏教の受け入れを巡り、587年、崇仏派の蘇我馬子に討たれた物部守屋という人物がでてくると思います。日本史の教科書には、この結果、神道護持の物部氏は滅び、仏教は朝廷に公認され、広く布教されていく事に・・・式の説明がなされています。

 

しかし、諏訪では、物部守屋は、蘇我氏との戦いに敗れた後、諏訪の地まで落ち延びて、この地に祀られたとの伝承があるそうです。その祀られた場所が現在の守屋神社(長野県伊那市)です(この諏訪にある守屋神社と、岡谷市にあるモリヤ神を祭る洩矢神社は別の神社)。さらに、諏訪大社の裏に‘守屋’山(もりやさん)という山があり、諏訪大社上社の御神体である神体山とされ、その神官が、古代この地を治めていた洩矢族の78代目の守矢氏です。

 

ところが、「もりやさん」の字は、ミシャグジ神を代々祭る神長官・守矢氏の「守矢」ではなく、物部‘守屋’の「守屋」であることが興味深いですね。さらに、守屋山の頂上には磐座があり、守屋神の奥の宮とされているのです。まさに、洩矢神も物部守屋、どちらのモリヤも同じ守屋山を御神体として、諏訪信仰の聖地に祭られてるのです。なお、物部氏と守矢氏の関係では、物部守屋の次男の武麿が、守屋山に逃れて、やがて守矢家へ養子入りして神長官となったという説があります。実際、その人物のお墓とされる古墳もあるようです。

 

古代イスラエルに遡る?

古代イスラエルには、「モリヤ」という聖なる地があったそうです。「イスラエルの失われた十支族」という伝承があるのはご存知ですか?旧約聖書に記されたイスラエルの12支族のうち、行方が知られていない10支族が日本にきていたというもので、この内のある支族が、紀元前のある時期に諏訪の地に入り、自らをモリヤ族と名乗り、狩猟を主としてこの地に安住していたとする説があるのです。

 

この伝承に従えば、諏訪の国を侵攻してきた建御名方神(タケミナカタノカミ)も、この「モリヤ」が何であるかを知っていたからこそ、洩矢族の祭っていた神を認め、諏訪大社にも祀られるようになりました。さらに、同じイスラエルの支族の物部氏も、大和政権成立後、政治の中心にいましたが、「崇仏論争」で蘇我氏に敗れた物部守屋は、同じ洩矢族を頼って諏訪まで落ち延び、そこで安住した…という説もでています。

 

日本とイスラエルの古代史を融合させるのは無理があるような気もしますが、実は、ミシャグジも関連性があるようです。そもそも、ミシャグジ(チ)という神名も珍しいですよね?この立場に立てば、ミシャグジ(チ)とは、正確には、ミサクチ=ミ・イサク・チだそうで、これはヘブルアラム語のミ・イツァク・ティン=イサクに由来するとされています。または、古代の神ということから、語源的にはアイヌの音に通じるという説もあります。古代史はまったく興味が尽きません。

 

<参照>

信濃國一之宮 諏訪大社(公式サイト) より抜粋

諏訪大社とはー御柱祭

諏訪大社/上社前宮(3)

日本の神様辞典、やおよろず

ミシャグジ神を祭る神長官守矢氏 古代史日和

倭国、大和国とヘブライ王国

諏訪大社・上社前宮/神旅、仏旅 むすび旅

トランヴェール2019/9JR東日本など

 

2019年11月28日

ニュース:両陛下、歴代天皇陵をご参拝(~12/3)

両陛下、神武天皇陵をご参拝 「親謁の儀」で 

(2019.11.27、産経新聞、一部抜粋)

奈良県を訪問中の天皇、皇后両陛下は27日、同県橿原(かしはら)市の神武天皇陵を訪れ、皇位継承に伴う一連の国事行為「即位の礼」と、一世一度の重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」を終えたことを報告する「親謁(しんえつ)の儀」に臨まれた。神武天皇陵では、モーニング姿の陛下がゆっくりと陵墓の前に進み、玉串をささげて拝礼された。皇后さまも同様の所作でご拝礼。

 

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天皇、皇后両陛下が京都の孝明天皇陵を参拝

(2019年11月27日、京都新聞)

天皇、皇后両陛下は27日午後、即位の礼や重要祭祀(さいし)「大嘗祭(だいじょうさい)」の終了を報告する「親謁(しんえつ)の儀」として、京都市東山区にある明治天皇の父、孝明天皇の陵を参拝された。この後、両陛下は京都大宮御所(上京区)に宿泊、28日午前には伏見区の明治天皇陵を参拝する。

 

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天皇皇后両陛下 京都の明治天皇陵に参拝

(2019年11月28日、NHK News Web要約)

 

天皇皇后両陛下は、28日、天皇陛下の即位に関連する儀式として、京都市伏見区にあるの明治天皇陵に参拝され、「即位の礼」や「大嘗祭」の中心的な儀式が終わったことをご報告されました。儀式は、小雨の中で行われ、はじめに、傘を手にしたモーニング姿の天皇陛下が、宮内庁の幹部の先導で、鳥居をくぐり、玉砂利が敷かれた参道をゆっくりと歩いて木立に囲まれた天皇陵の前に進まれました。両陛下は、このあと午後2時すぎから、京都御所で関西などの各界の代表を招いて茶会を催され、20分余りにわたって、招待者と和やかにことばを交わされていました。両陛下は28日夜、東京に戻られました。

 

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両陛下 昭和天皇と大正天皇の陵に参拝

(2019年12月3日、NHK Web News)

 

天皇皇后両陛下は3日、天皇陛下の即位に関する儀式として、東京都内にある昭和天皇と大正天皇の陵に参拝されました。両陛下は3日午前10時すぎ、東京 八王子市の武蔵陵墓地に到着されました。はじめに、昭和天皇が埋葬された「武蔵野陵」に参拝する儀式が行われ、モーニング姿の天皇陛下は、宮内庁の幹部の先導で鳥居をくぐり、砂利道をゆっくりと歩いて陵の前に進まれました。そして、玉ぐしを供えて深く拝礼し、「即位の礼」や、「大嘗祭(だいじょうさい)」の中心的な儀式が終わったことを伝えられました。続いて、グレーの参拝服の皇后さまも、天皇陛下と同様の手順で深く拝礼されました。このあと、大正天皇陵に参拝する儀式が行われ、天皇陛下と皇后さまは、それぞれ玉ぐしを供えて深く拝礼し、同じように儀式の終了を伝えられました。

 

両陛下は4日、皇居の宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)に参拝するなどして、ことし5月から続いた天皇陛下の即位に関する一連の儀式をすべて終えられます。

 

2019年11月27日

ニュース:出雲大社で「神有月」の神事(11/6~13)

旧暦と現在の暦とは一か月ほどのズレがあるので、今月11月は旧暦10月の行事が行われています。旧暦で10月は神無月といいますが、「無」とは「ない」という意味ではなく、「の」という意味で、10月は神の月、神を祭る月という解釈が一般的な学説だそうです。実際、全国のおコメの産地では、新穀を神に捧げる新嘗祭が各地で行われています。

 

しかし、俗説になってはいますが、10月は全国の神様が島根県の出雲大社に集まるので、ほかの地域に神がいなくなるから、「神無月」になったという伝承があります。その島根県では、旧暦10月を「神有月(神在月)」と呼んで、出雲大社では、全国の神々を向ける盛大な行事が11月に行われていました。

 

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八百万の神々、出迎え厳か 出雲大社「神迎神事」

(2019年11月7日、山陰中央新報)

 

全国から八百万の神々を迎える出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東)の神迎(かみむかえ)神事が旧暦10月10日に当たる6日夜、出雲大社近くの稲佐の浜で厳かに営まれた。月明かりの下でかがり火がたかれ、多くの人が令和となって初の神事を見守った。

 

神職が神々の乗り移った「ひもろぎ」と呼ばれるサカキを絹垣(きぬがき)で覆い、御使神「竜蛇神(りゅうじゃじん)」を先頭に出雲大社へと歩んだ。出雲大社の神楽殿では神迎祭が営まれ、神々の宿となる東西十九社にひもろぎが奉安された。神々は13日夕まで滞在し、出雲大社の摂社・上宮(かみのみや)(同町杵築北)で、大国主命を主宰に1年間の縁結びや農事を話し合う「神議(かみはかり)」を行うとされる。日本中の神々が出払うため、旧暦10月は「神無月」と称されるのに対し、出雲地方では「神在月(かみありづき)」と言われる。

 

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神々が旅立ち、「神在月」の出雲大社

(2019年11月14日、朝日新聞)

 

全国から八百万(やおよろず)の神々が出雲に集うとされる、出雲大社(出雲市)の神在祭で13日、人々のご縁を結ぶ神議(かみはかり)を終えた神々を見送る神事「神等去出祭(からさでさい)」があった。午後4時すぎ、神様の宿泊場所とされる境内東西にある「十九社」から拝殿に移った神々は神職の「お立ちー」の声とともに大社を後にした。

2019年11月06日

歴史:沖縄と首里城

国の史跡でもあり、世界遺産、日本百名城にも選ばれている首里城が、火災で倒壊したというニュースは国内外に衝撃を与えました。沖縄と首里城の歴史を少し振り返ります。

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沖縄最大のグスク(城)である首里城(しゅりじょう)は、別名は御城(ウグシク)とも言う山城で、1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城として、琉球の政治、外交、文化の中心として栄え続けました首里城の最初の築城は不明ですが、沖縄の三山時代には存在していたもようです。三山時代(さんざんじだい)と言うのは、1322年頃から1429年まで、沖縄が、北部の北山(ほくざん)、中部の中山(ちゅうざん)、南部の南山(なんざん)と3つの王朝に分かれていた時代をいいます。

 

このうち、琉球中山では、沖縄で生まれた最初の王統として、英祖王統(1259年頃~1349年)が、初代の英祖王から5代90年間栄えていました。その後、初代・察度(さっと)とその息子の武寧(ぶねい)の二代・56年間続いた察度王統(1350年~1405年)が続きました。

 

尚思紹王と尚巴志王

この時期、南山に、尚思紹王(しょう-ししょうおう)と言う人物が出ます。佐敷按司(佐敷の城主)を務めていた尚思紹王(1354~1421)には、嫡男の尚巴志王(しょう-はしおう)がいました。尚巴志王は、21歳のときに、父から南山の佐敷按司(さしきあんじ)を譲り受けると、1406年には中山王・武寧(ぶねい)を攻撃して察度王統(さっとおうとう)(1350年~1405年)を滅亡させます。

 

中山を手に入れた尚巴志王は、自らは王にならず、父・尚思紹(しょう・ししょう)に中山王に就いてもらいました。またこの時、尚巴志王は、中山の本拠を、英祖王統と察度王統の時代の浦添城から首里城に定めました。ここに、第一尚氏王統(1406年~1469年)が成立するとともに、1879年、最後の国王・尚奉が明治政府に明け渡すまで、首里城は、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇ることになります。

 

王国時代、首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開き、中国(明)をはじめ日本、朝鮮、ジャワなどとも交易を盛んに行われました。ただし、琉球王国では一般民衆の土地私有が認められていませんでした。そのため、農業生産性も低く、税金も極めて高かったため、農民などは貧しい生活を強いられていたと言われています。

 

琉球統一

さて、尚巴志王(しょう-はしおう)は、1416年には、北山王の居城である今帰仁城(なきじんじょう)も攻撃しました。この時、今帰仁按司の攀安知(はんあんち)は、家臣の裏切りもあって自刃したため、尚巴志王は北山も手に入れました。

 

1421年に、父・尚思紹王が死去すると、翌年、尚巴志王は中山王に即位し、首里城の整備を進めました。そして、1429年には、南山・島尻大里城(しましいおおざとじょう)の他魯毎(たるみい)を滅ぼし三山を統一し、初めて琉球を統一することに成功しました。尚巴志王はこのように大業を成し遂げ、1439年に亡くなると、次男・尚忠(しょう・ちゅう)が跡を継ぎ、第2代琉球国王(第一尚氏王統・第3代国王)となりました。その後、1453年、第一尚氏王統・第5代尚金福王(しょうきんぷくおう)の後、王位をめぐって王世子・志魯(しろ)と王弟・布里(ふり)との間で争いがおきました(志魯・布里の双方とも死去)。この志魯・布里の乱(しろ-ふりのらん)と呼ばれる争乱で、首里城は焼失してしまったのです。

 

さらに、1462年には、第6代国王の尚泰久王(しょうたいきゅうおう)の重臣であった金丸が王位を継承し(クーデターで第一尚氏王統が滅んだとの見方もある)、第二尚氏王統の初代国王、尚円王(しょうえんおう)となりました。ただし、第二尚氏王統となっても、1453年の火災から復興した首里城は引き続き首都として栄えています。首里城は沖縄を統一してから大改修されたこともあり、戦闘用の軍事向けの城と言うよりは、政治や宗教の役割を重視した設計になっています。

 

1477年に即位した第二尚氏王統・第3代王の尚真(しょうしん)のとき、琉球に中央集権制を確立すると同時に、1519年には園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)が造られました。園比屋武御嶽は琉球王国の聖地のひとつで、国王が旅に出る際必ず拝礼したとされる礼拝所でした。

 

二重朝貢外交

琉球王国が成立した15世紀半ば以降、奄美大島群島の交易利権等を巡って、琉球と日本との衝突が起きていました。徳川幕府の成立後、島津氏は、琉球王国から奄美を割譲させるとともに琉球貿易の独占的利権を得ようとして画策して、1609年、琉球と薩摩藩との間で慶長の役が起きました。この時、薩摩藩の軍勢3000に対して、琉球軍は4000の首里親軍(しおりおやいくさ)などが首里城に籠城しましたが敗れ、琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王、尚寧王(しょうねいおう)は降伏して首里城を開城しました。

 

この結果、奄美諸島は薩摩藩の直轄地となり、琉球王国は事実上、薩摩藩の従属国となりました。ただし、琉球は、薩摩藩へ年貢を納める義務を負いつつも、明国同様、清国にも朝貢(臣下の礼をとること)を続け体制を続けるなど一定の独自性を保っています(これを二重朝貢外交などと呼ばれる)。この慶長の役の際、薩摩軍の侵攻を許して城(グスク)は焼失してしまいました。その後、首里城は江戸時代において、1715年に3度目の火災で焼失しましたが再建され、太平洋戦争までその威容を保ちました。幕末の1853年には、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が黒船で那覇港を訪れ、首里城にて開港を求めるなど、日本の近代史の舞台にもなりました。

 

琉球処分

明治政府は、1871年に廃藩置県を行った翌1872年に琉球王国を琉球藩とし、1879年に琉球藩は沖縄県となりました。明治政府により琉球が強制併合された一連の過程は琉球処分と呼ばれ、約500年にわたって君臨した琉球王国はここに完全に滅亡しました。同年、最後の国王となった第二尚氏王統第19代の尚奉王(しょう・たいおう)は、首里城を明け渡し、明治政府の命令に従い、東京移住し、身分も、国王から華族へと格下げられました。

 

太平洋戦争

太平洋戦争中の沖縄戦では、日本陸軍が、首里城の地下に地下壕を掘って、第32軍総司令部としていたことから、アメリカ海軍の戦艦ミシシッピなどから艦砲射撃を受け、首里城は灰燼に帰してしまいました。この時、首里城の地下では5000人もの重症兵が自決したとも言います。この沖縄の激戦で、琉球王国の宝物・文書も、その多くが失われました。わずかに残された宝物もアメリカ軍によって摂取され、一部は未だに返還されていません。

 

戦後復旧と今

戦後、首里城は、琉球大学のキャンパスとなりましたが、琉球大学の移転に伴い、1958(昭和33)年から復旧事業が開始されました。1972年5月の本土復帰の際、国指定史跡とされ、1992年、沖縄復帰20周年を記念し、約73億円かけて復元されました。こうして復活した首里城は、琉球王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂として、沖縄のシンボルとなったのでした。2000年12月には、首里城跡は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして、世界遺産に登録されました。そんな首里城が、令和の時代に入った2019年10月31日、首里城祭りの開催期間中に全焼してしまったのです。

 

<参考>

首里城とは 尚思紹王と尚巴志王

「沖縄の世界遺産」守礼門や正殿 グスクとは?

「首里城は琉球王国の国王の居城だった(ニュース グッディ)」

沖縄県教育委員会HP

那覇市観光協会HP

沖縄観光HP

沖縄県観光チャネル

2019年10月29日

歴史:邪馬台国の真実を探る②

邪馬台国の真実を探る①に続くお話しです。

 

  • 九州説(北九州説)

九州説では、倭人伝にいう、2世紀後半から3世紀半ばにかけての邪馬台国は、北九州の伊都国に本拠を置いた時代の邪馬台国であると主張されます。伊都国の平原遺跡などから卑弥呼のものと思われる墓や副葬品が多数出土しており、卑弥呼は伊都国の出身という見方すら出されています。

 

また、倭人伝にある「環濠、宮室、楼閣、城柵」を備えた遺跡が、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や、福岡県の平塚川添遺跡などで見つかっているというのも九州説の論拠となっています。

 

さらに、古来、鉄は権力の象徴とよく言われますが、弥生時代の鉄器の出土数のトップは熊本と福岡であるのに対して、奈良からはほとんど出土されていないという指摘もあります。

 

加えて、倭人伝には、邪馬台国に対抗していた「狗奴国(くぬこく)」についての記載があります。狗奴国の所在地も熊本が有力視され、吉野ヶ里遺跡に匹敵する県内最大規模の方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)が、狗奴国(くぬこく)の跡地と見られています。

 

一方、邪馬台国九州説から、さらに発展的に、邪馬台国東遷説が浮上します。

 

邪馬台国東遷論

これは、九州にあった邪馬台国が、王権とともにヤマト(大和)へ東遷し、大和朝廷になったとする考え方です。そうなると、1)神武天皇の東征は、邪馬台国が大和地方に進出したことであったという見方、2)邪馬台国時代の後に、神武天皇の筑紫(九州)から大和への遷都が行われたという考えまでてきます。逆に、3)邪馬台国は、大和朝廷が九州に攻め込む過程で、大和朝廷に征服されていたという説もあります。

 

 

  • 畿内説

九州説と畿内説との間で江戸時代から続く邪馬台国論争は、今も決着していませんが、2009(平成21)年秋に発掘された纒向(まきむく)遺跡の出現で、畿内説が優位になっています。

 

纒向遺跡(奈良県桜井市)は、今も神体山として信仰をあつめる三輪山のふもとに位置しています。そこで、宮殿を思わせる東西に一列に並んだ3世紀前半の国内最大級の巨大建物群の跡など4棟が見つかりました。また、3000個以上の桃の種、小動物、魚の骨が多数発見されただけでなく、土器も多く出土しており北陸、近江、河内、阿波、吉備などからも土器の搬入が確認されています。

 

卑弥呼が中国に使者を送ったと中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された239年とほぼ重なり、纒向遺跡は邪馬台国の中心であり、卑弥呼は発掘された大型建物で政(まつりごと)を行い、倭国の首都だったのではないかとの期待が高まりました。また、纏向遺跡は、紀元180年頃にできたものとされていますが、卑弥呼が女王になった時期と一致しています。

 

さらに、纒向遺跡にある箸墓(はしはか)古墳(墳丘長280メートル)は、日本最古の古墳とされており、これが、卑弥呼の墓であるとの見方が根強くあります。「日本書紀」によると、箸墓は、第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在で、何か予言の能力のようなものを持っていたらしく、三輪山の蛇神と結婚して、最後には、箸で女陰(ほと)を突いて死んでしまいます(この逸話から箸墓という名がついたとも言われている)。この百襲姫(モモソヒメ)と卑弥呼のシャーマン的な姿が重なり、この古墳が、倭国の女王、「卑弥呼」の墓だと考えられているのです。

 

加えて、邪馬台国(卑弥呼の時代)に続くとされる大和朝廷(ヤマト政権)の時代は、地質学の観点から言えば、古墳時代(250~500年頃)にあたります(ヤマト王朝は、3世紀末から4世紀前半にかけて、奈良の地に出現したとされている。)

 

実際、3世紀中頃(247年か248年)、女王卑弥呼が亡くなったとされる頃、近畿地方の大和(奈良県)を中心に、瀬戸内海沿岸にかけて、古墳(有力者の墓)が造られるようになりました。最近の研究では、古墳時代の開始を、以前の3世紀末(大体280年頃)から3世紀中ごろとするのが大勢となっており、そうなると、卑弥呼の死亡時期とピタリと重なります。加えて、纏向遺跡があった邪馬台国とみられる地域は、紀元340年ごろ、急速に衰退したとされ、この時期も、初期の大和朝廷(ヤマト政権)が誕生したとされる頃と重なります。

 

このように、纏向遺跡の存在が、邪馬台国、畿内説を強力に後押ししています。これが、7月24日の「邪馬台国・畿内説は常識?」を投稿した背景です。

 

 

  • 畿内説批判

しかし、畿内説にしても批判がないわけではありません。特に、文献上から問題点が指摘されています。もともと「魏志倭人伝」に記された道のりと距離をそのまま読めば、邪馬台国は太平洋の海の中になってしまうことはすでに述べた通りですが、畿内説では「魏志倭人伝」に記された方角を「都合よく」解釈していると批判されています。

 

例えば、「魏志倭人伝」に「その(女王国の)南に狗奴(くな)国がある」と書かれています。畿内説の観点から狗奴国を考えようとすると、奈良県の南とは、紀伊半島の南部の熊野地方に当たりますが、そこに当時、女王国に敵対する勢力はなかったとされています。そこで、畿内説では、「魏志倭人伝」の「南」は「東」の誤りであるとして、狗奴国が、愛知県の濃尾平野にあった解釈しているのです。

 

また、邪馬台国畿内説は、日本の文献との矛盾も指摘されています。もっとも、日本の文献といっても神話に基づくいるのですが、邪馬台国の時代のに神武天皇の東遷(宮崎の高千穂から奈良の橿原へ)が行われたとすると、畿内に都があるのに、神武天皇が南九州から、東遷することは考えられません。

 

逆に、神武東遷が、卑呼の時代の前に行われたとすると、記紀(「古事記」「日本書紀」)に、神武天皇の後に、「女王」が即位したという記録はありません。あるとしたら、神功皇后が考えられますが、邪馬台国のあった時代と合致しません。

 

さらに、「纒向遺跡=邪馬台国跡」説も絶対ではありません。「纒向(まきむく)遺跡」の「まきむく」という地名は、「魏志倭人伝」には一度もでてきておらず、記紀には、第11代垂仁天皇と第12代景行天皇の時代の下りで、「纒向の〇〇の宮」というのがでています。そもそも、第10代の崇神天皇が、大和朝廷(ヤマト政権)の創始者とも言われています。纒向は、崇神、垂仁、景行の三代にわたって都が置かれたヤマト政権の都であった可能性もあるわけです。

 

このように、邪馬台国が畿内にあったと、江戸時代から続く不毛に近い邪馬台国論争に、決着がついたとは言えないのですね。それどころか、邪馬台国の所在は、九州説・畿内説に限らず、以下のように、北は東北地方から南は沖縄まで、日本各地でその存在が主張されています。

 

邪馬台国はどこに(主要な九州説、畿内説以外)?

豊前宇佐説

吉野ケ里説

阿蘇説

奄美大島説

沖縄説

四国説

出雲説

 

どの説もそれぞれ興味深く、説得力もあります。個々の内容については、別の機会に紹介することにします。

2019年10月21日

歴史:邪馬台国の真実を探る①

先日10月9日の投稿で、「弥生時代の遺跡から胸に乳房が表現された女性とみられる人物の刻まれた土器片(紀元前1世紀ごろ)がみつかった」という報道を紹介しました。その女性が霊的な力を持つシャーマン(宗教的職能者)とする見方があります。そうすると、その時代は、邪馬台国の卑弥呼の時代から約300年前にさかのぼることから、当時の日本には女性が農耕祭祀で活躍する場がずっとあったことが示唆されるという点で注目されています。そこで、今回は、卑弥呼と邪馬台国についてまとめました。

 

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古代、中国を支配していた前漢の時代のことが記された「漢書」地理志によれば、  紀元前1世紀末頃(弥生時代の中期に相当)、中国は日本人を「倭人」と呼んでいましたが、当時の日本は百余国に分かれていたとされています。その後、中国では、前漢から後漢に代わり、その時代の歴史書「後漢書」東夷伝には、西暦57年に、博多湾岸にあった倭の奴国(なこく)が、後漢の都、洛陽に使者を送り、光武帝から金印「漢倭奴国王」を受けたとあります。

 

後漢に続く、魏の時代の歴史書、「魏志」倭人伝(「魏書」の東夷伝倭人の条)には、弥生時代の後期に当たる180年前後の頃、「倭国大乱」という70~80年も続く争乱の時代となり、「日本は大きく乱れた」とあります。この「倭国の大乱」は、奴国(なこく)と邪馬台国の争乱で、長く収まりませんでしたが、邪馬台国に女王卑弥呼が出現し、混乱を鎮め、30の小国を従えるようになったとあります。倭人伝によれば、「もともと男子を王にしていたが、戦乱が起きたため1人の女性を王に立てた。その名は卑弥呼という」と書かれています。

 

なお、この時代、日本の神話に照らし合わせると、応神天皇の父親である仲哀天皇が、現在の福岡県あたりに造営されていた皇宮を拠点に、熊襲と戦っていたとあります。

 

卑弥呼は、「鬼道によって国を治めていた」と伝えられ、祖霊信仰に属す祭祀に基づく政治がなされていたとみられています(鬼道とは巫女として神の意志をきくこと)。また、同じ魏志倭人伝には、「邪馬台国、女王の都するところなり」とも書かれています。ここから、卑弥呼は邪馬台国の女王と言うよりは、邪馬台国を含む倭国全体の女王で、邪馬台国にいたとの見方もあります。つまり、邪馬台国は倭国の首都だった可能性もあるわけです。

 

加えて、卑弥呼は、239年に魏に使いを出し、魏の皇帝・劉夏(りゅうか)から「親魏倭王」の称号と金印を授けられたとされています。その根拠は、「汝をもって親魏倭王となし、金印紫綬(しじゅ)を与える」との記述が魏志倭人伝に見られるからです。当時の中国は、魏・呉・蜀がしのぎを削った三国志の時代でしたので、卑弥呼が外交相手に選んだのは、曹操(そうそう)が治める魏だったのですね。

 

そんなカリスマ的指導者、卑弥呼も、249年に近い頃に亡くなり、邪馬台国は、跡を継いだ宗女(嫡出の娘)、台与(とよ)=壱与(いよ)によって治められました。一説には、卑弥呼の死後、一時政治が乱れたものの、壱与(台与)という女性が王になり、争いを鎮めたとも言われています。また、「晋書」という中国の晋の国の歴史書には、266年に「倭の女王壱与が西晋に使者を送る」と記されています。

 

その後、邪馬台国がどうなったかは定かではありません。つまり、日本の歴史は、この後、大和朝廷(ヤマト政権)と呼ばれた統一国家ができて、日本を統治していくわけですが、その前の邪馬台国がどこにあって、大和政権にどう継承されていったかが明らかになっていないのです。こうした背景から、2~3世紀の日本に「邪馬台国」があったとされているのですが、日本の史料には「邪馬台国」は存在せず、中国の歴史書(「倭人伝」)に2000字の記載があるのみで、しかも方角と距離しか示されていません。

 

そこで、邪馬台国がどこにあったかについて、1910(明治)43年に、二人の学者によって、邪馬台国の所在地はそれぞれ九州、畿内と唱えられて以来、主に、北九州説と畿内説に分かれて、幾多の論争がおきましたが、いまだ結論には至、っていません。もはや今ある文献資料だけでは決着はつかないとの見方が支配的です。なぜこういうことになってしまったかというと、「魏志」倭人伝をそのまま素直に読むと、邪馬台国の位置は、太平洋のまん中のミクロネシア諸島のどこかか、小笠原の父島・母島あたりになってしまうからだそうです。

 

倭人伝では以下のようになっています。

「倭人は帯方の東南大海の中にあり」、「(帯方)郡より女王国に至る(一万二千里…」、「邪馬台国、女王の都するところなり」

(現在のソウル近辺に相当する帯方郡から東南へ「5400キロメートルあまりの先に、女王卑弥呼の都する邪馬台国があり…」

 

つまり、古代の日本に、卑弥呼を女王とする邪馬台国があり、その邪馬台国は、帯方郡から東南方向に位置し、帯方郡から邪馬台国までの総距離が12,000里(5400㎞)あったとだけしか書かれていなかったのです。ですから、研究者たちは、方角を、例えば「南」となっているのを「東」と読替えてみたり、行程の日数や距離を縮めてみたりしながら、自説に合うように解釈してきました。著名作家の松本清張氏も、「倭人伝に出てくる距離や日数は、陰陽五行説から造作された虚妄の数字にすぎず、拘束されること自体に意味がない」と語っていたそうです。

 

なお、「魏志」倭人伝に記されている地名に従って、例えば、「帯方郡から南へ○○里、末蘆国から△へ〇〇里」というように、邪馬台国の位置を推測していくと、次のようになっていきます。

 

帯方郡⇒狗邪韓国⇒対馬⇒一大国⇒末蘆国⇒伊都国

⇒奴国⇒不弥国⇒投馬国⇒邪馬台国

 

「魏志」に書かれている「(魏からみて)奴国と投馬国は、邪馬台国より北、狗奴国は南にあり」というような記述などをもとに推測すると、各地名の現在地はほぼ固まっています。

 

帯方郡(たいほうぐん):現在の韓国ソウル

狗邪韓国(くやかんこく):現在の韓国釜山

対馬(つしま):現在の長崎県対馬市

一大国(一支国)(いきこく):現在の長崎県壱岐市

末盧国(まつらこく):現在の佐賀県唐津市から長崎県松浦市一帯

伊都国(いとこく):現在の福岡県糸島市

奴国(なこく):現在の福岡県春日市

不弥国(ふみこく):?

投馬国(とうまこく):?

邪馬台国(やまたいこく):?

 

そうすると、「帯方郡」から「奴国」までは、畿内説も九州説も一致していますが、「不弥国」から「投馬国」を経て、「邪馬台国」へ至る行程に違いがでて、論争が起こっているのです。では、それぞれの見解を少し検証してみましょう。

(続く)

邪馬台国の真実を探る②

2019年10月16日

祭り:長崎くんちと諏訪神社の由来が興味深い!

10月8日、ニュース(「令和初の長崎くんち」)で取り上げた「長崎くんち」は、長崎の諏訪神社の秋の祭礼行事ですが、その由来が興味深かったのでまとめて紹介します。

 

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長崎くんちの奉納は、寛永11年(1634年)、丸山町・寄合町の二人の遊女が諏訪神社神前に謡曲「小舞」を奉納したことが始まりとされています。ただし、長崎くんちというお祭りは、市民たちによって自発的に発生した祭りではなく、奉行所から参加を強制された祭礼でした。そして、諏訪神社の秋の祭礼である「長崎くんち」が行われる際には、「従わない者は極刑、領地からの追放」と言う厳しい罰が下すというお触れが出されたそうです。どうしてこういう事態になったかというと、江戸初期のキリスト教徒との「宗教戦争」が関係していました。

 

そもそも、長崎くんちの主催者である「諏訪神社」も、長崎奉行所の役人が再興したものでした。もともと、諏訪神社は、弘治年間(1555年~1557年)より、長崎市内に祀られていた諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社を起源としています。1555(弘治元)年、領主の大村純忠の重臣、長崎甚左衛門純景の弟、長崎織部亮為英が、京都の諏訪神社の分霊(御神体)を、現在の風頭山(かざかしらやま)の麓に迎えて祠ったのが始まりとされています。

 

しかし、長崎が1571年、海外との貿易港として開港すると、ポルトガルやスペインなどから多くの宣教師が訪れ、布教活動を行いました。その結果、キリスト教徒が増えていくなか、大村純忠は洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となっただけでなく、領地を寄進し、長崎はイエズス会の「教会領」となったのです。純忠は、当初、貿易が目的だったようですが、次第に信仰にものめり込み、家臣、領民にもキリスト教を強制しました。信者の中には過激な行動に出るものもあり、長崎に古くから存在した社寺はことごとく放火・破壊されました(この中に諏訪神社の三社も含まれていた)。

 

こうした事態に、豊臣秀吉は、純忠の死後、1587(天正15)年に、バテレン追放令(宣教師追放)を発して、宣教師による布教活動や人身売買などを禁じ、長崎の教会領も没収しました。これに対して、長崎のキリスト教徒(切支丹)たちの信仰心を反抗心に変え、社寺への圧迫は継続され、信者の数は減るどころかむしろ増えていったとされています。さらに、イエズス会側も、秀吉のバテレン追放令に対して、スペイン領マニラに援軍を求めて対抗しようとする動きまででたそうです。そうなっていたら、日本と、当時の世界大国スペインとの戦争という事態まであり得たわけです。

 

江戸幕府も、1612(慶長17)年とその翌年、「慶長の禁教令」を発し、宣教師の追放にとどまらず、徹底的なキリスト教の信仰自体の禁止と教会の破壊を命じるなど、キリシタンへの弾圧を強めていったのでした。これに呼応するような形で、長崎においては、奉行の長谷川権六と代官の末次平蔵が、キリシタンによって破壊された諏訪神社の復興を行います。松浦一族で佐賀(唐津)の修験者(山伏)・青木賢清(かたきよ)が招かれ、かつて長崎にまつられていた諏訪・森崎・住吉の三社の再興に着手し、1625(寛永2)年、現在の諏訪神社が、創建され、長崎の氏神となりました。

 

なぜ、山伏(修験道者)が呼ばれたか?識者の中には、キリシタンから見れば、山伏は、彼らが悪魔の化身とみなす「天狗」であり、新たな諏訪神社の創建は、キリシタンに対する勝利の象徴を意味するとまで解釈する向きもあります。それだけ、キリシタンを強く意識していたということですね。実際、青木賢清は、諏訪神社の初代宮司を務め、長崎のキリシタンに目を光らせるのです。それから、9年後の1634年、ついに、「長崎くんち」が復活しました。ですから、長崎奉行所としては、祭りは必ず成功させなければならなかったので、領民の強制参加となったのでしょう。ある意味は、それは形を変えた踏み絵であったのかもしれません。長崎くんちは、その後、市民に浸透し、昭和20年夏の長崎原爆投下の年ですら、市民たちの「心意気」によりその秋に開催され、日本の三大祭りの一つに数えられたこともあるほど、全国的に知られています。

 

<参考>

日本三大祭「長崎くんち」開幕!くんちに秘められた長崎ならではの歴史とは

(Aera dot.)

鎮西大社諏訪神社HP

長崎くんち(長崎伝統芸能振興会HP)

Wikipedia(長崎くんち)

2019年10月09日

ニュース:弥生土器と卑弥呼

乳房描かれた弥生土器 「卑弥呼誕生の歴史分かる資料」

(2019/10/09、朝日新聞)

 

奈良県田原本町と天理市にまたがり、弥生時代の集落跡と墓跡が確認された清水風(しみずかぜ)遺跡で、胸に乳房が表現された女性とみられる人物の刻まれた土器片(紀元前1世紀ごろ)がみつかった。町教育委員会が9日発表した。乳房が表現された弥生時代の絵画土器の発見は初めて。この女性を霊的な力を持つシャーマン(宗教的職能者)とする見方もあり、農耕祭祀(さいし)での女性の役割を探る貴重な資料として注目される。

 

町教委によれば、土器片は最大幅16センチ、高さ12センチで、大形甕(かめ)の口から胴にかけての部分とみられる。5~6月に約40平方メートルを調査し、弥生中期の川跡から出土した。両手を広げ、手の指は5本。顔に目と鼻、口、まゆ毛、羽のような袖や二つの乳房も表現されている。

 

弥生土器に描かれた人物画は全国で40件余り確認され、うち両手を広げた(挙げた)人物は複数みつかっている。両手を広げる姿は魂に活力を与えて再生させる「魂(たま)ふり」と呼ばれるポーズとされ、稲に生命力を与えて豊作を願うと解釈される。今回の発見で、このポーズの人物が女性である可能性が強まった。

 

深沢芳樹・天理大客員教授(考古学)は、この女性を中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する女王卑弥呼(ひみこ)と関連づけ、「巫女(みこ)の性格を持った卑弥呼の時代から約300年前にさかのぼる。日本列島には女性が祭祀で活躍する土壌があり、その歴史から卑弥呼が生まれたことの分かる一級の資料だ」と指摘する。

2019年10月08日

ニュース:令和初の長崎くんち

長崎くんち開幕 秋空の下、奉納踊り

(2019/10/7、西日本新聞)

 

長崎市で380年以上続く秋の大祭「長崎くんち」(国重要無形民俗文化財)が7日、開幕した。同市上西山町の諏訪神社では早朝から、7年に1度当番となる五つの「踊町(おどりちょう)」が、それぞれの町の演(だ)し物を奉納。集まった見物客を魅了した。一番町を務めた今博多町は、6羽の鶴に見立てた踊り子が白い着物を身にまとい、本踊(ほんおどり)を披露した。魚の町は重さ2トンの「川船」を、根曳(び)きと呼ばれる男衆16人が高速で回転させる船回しを見せ、観客席はアンコールを意味する「モッテコーイ」の声であふれた。9日までの期間中、各踊町は諏訪神社など市内4カ所の踊場と、「庭先回り」として、市中心部の民家や店舗の前で演し物を披露する。

 

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「長崎くんち」について

<概説>

「長崎くんち」は、長崎の氏神・諏訪神社の秋の祭礼行事で、380年の伝統を持ちます(2019年で、385年の歴史を迎えた)。「くんち」とは、9日(くにち)の意味の方言で、祭りが、旧暦の重陽の節句にあたる9月9日に行われたことから、長崎くんちと呼ばれるようになりました。新暦の現在は、毎年10月7日から10月9日までの3日間、行われています。アンコールを意味する「モッテコーイ」のかけ声が響き、祭りが盛り上がります。

 

長崎くんちの構成は独特で、長崎市にある59の町が5〜7町ごと7組に分かれて、その年の奉納の演し物を順番に受け持ちます。7年に1度出番がまわってくることになりますね。その年の当番に当たり、踊りを奉納する町を「踊町(おどりちょう/おどっちょう)」と言い、踊町にはそれぞれ受け継いだ演目があります。そのため、その年の受け持ち組によって、毎年、出し物が変わります。名物演目は、「鯨の潮吹き」「コッコデショ(太鼓山)」「竜宮船と乙姫」「宝船・七福神」「大漁万祝恵美須船」「唐子獅子踊り」などさまざまありますが、祭のシンボルとなっている演目が「龍踊(じゃおどり)」です。

 

龍踊(じゃおどり)

龍踊りは、ドラや太鼓、龍声ラッパなどの独特な拍子に合わせて、全長20メートルにもなる龍を、唐人風の衣装をまとった「龍衆」が十人が体を上下左右に振り、くねらせながら、一人の「玉使い」の操る柄の先の珠を追う「玉追い」、とぐろを巻いての「玉隠し」や自分の体の下をくぐり抜ける「胴くぐり」を行う演目です。

 

長崎の龍踊りは、もともと中国から移入されました。中国において、龍踊りは、数千年前、五穀豊饒を祈る雨乞い神事(儀式)に始まりました。龍が追い求めて乱舞する玉は、太陽と月を表し、龍が玉を飲むことによって、空は暗転し、雨雲を呼び、雨を降らせると信じられているそうです。このように、龍踊りは、日照りに苦しむ、農民の祈りから始まったもので、その後、お祝いや.祭りなどの年中行事に、欠くことの出来ない催物となっていました。

 

日本では、長崎の唐人屋敷の中で、享保年間(約250年前)には既に、毎年正月十五日(上元の日)に演目として奉納されていたそうです。当時、唐人屋敷と隣接し密接な関係にあった長崎市本籠町(もとかごまち)の町民が、唐人達の指導を受け、「おくんち」の奉納踊となりました。明治になり、諏訪町(すわのまち)に伝わり、最近では筑後町や五島町も参加し、現在、この龍踊りを受け継ぐのは、59の踊町のうち4町(籠町、諏訪町、筑後町、五嶋町)となっています(それぞれが別の組に属しているので、現在、龍踊りが見られるのは7年のうち4年ということになる)。

 

こうして、三百余年の間に、その踊り方を完全に習得し日本独特の巧妙な演技を見せるに至り、龍踊りは異国情緒豊かな、長崎独特の郷土芸能として、全国的に知られています。1979(昭和54)年には、長崎くんち奉納踊として国の無形文化財に選定されました。

 

コッコデショ

なお、龍踊(じゃおどり)と以外に、全国的に知られた「おくんち」の演し物(だしもの)は、樺島町のコッコデショと言えるかもしれません。コッコデショは、正式には太鼓山という名称の演目で船を意味し、商船の船頭衆の踊りが伝わったもので、担ぎ屋台となった山車に、5色の大座布団を載せて屋根としています。江戸時代、長崎で陸揚げされた貿易品は堺商人の廻船で全国に運ばれており、商船の船頭や水夫は樺島町の宿を定宿としていたそうです。この太鼓山を担ぐときの「コッコデショ」というユニークな掛け声が評判になり、そのまま演し物の名称となりました。ちなみに、コッコデショは、「ここでしよう」という意味です。

 

 

<参考>

長崎旅ネット

鎮西大社諏訪神社HP

龍踊の基礎知識(長崎龍踊の会HP)

龍踊りの由来(長崎国際観光コンベンション協会HP)

長崎くんち(長崎伝統芸能振興会HP)

Wikipedia(長崎くんち)

 

2019年09月23日

伝承:今度は「青森にキリストの墓」説

昨日の投稿で、「モーゼの墓が日本にある」とする石川県羽咋市の伝承を、読売新聞の記事を通して紹介しました。今回は、その記事の中にもあった「キリストの墓が青森にある」という、昨日同様、一般の方が聞けば、荒唐無稽としか言いようのない話しをお伝えしたいと思います。モーゼのストーリーと同様、このテーマに果敢に取り組まれた読売新聞の森記者の記事(抜粋)です。

―――

「青森にキリストの墓」説

読売新聞(夕刊) 2019年8月7日(水)

6月に「モーゼの墓」(石川県宝達志水町)を紹介しましたが、同じく日本にあるという「キリストの墓」も見ておこうと思い立ちました。場所は青森県新郷村戸来(へらい)。キリストはヘブライがなまって戸来になったのだそうです。(大阪編集委員 森恭彦)

 

青森空港から車に乗り、八甲田山を超え、十和田湖を経て2時間余り。国道454号を走行していると「キリストの墓」という道路標識が見えてきます。国道ですから、国も「キリストの墓」の存在を認めているということでしょうか?車を降りて坂道を200メートルほど上がると、小高くなったところに円形の塚が二つ、それぞれに人の背丈より高い十字架が立っています。説明板によれば、向かって右が「十来塚」といい、キリストの墓。左は「十代塚」で、キリストの弟イスキリだそうです。キリストにそんな弟がいたとは初耳ですが。それぞれの墓に花が供えられていて、墓と墓の間にエルサレム市から「友好の証し」として贈られたという石板が埋め込まれています。

 

周辺は公園になっていて、「キリストの里伝承館」という教会風の建物もあります。村の歴史や民俗芸能を紹介する資料館なのですが、目玉は「キリスト伝承コーナー」でしょう。管理している新郷村ふるさと活性化公社の事務局長、角岸秀伸さん(50)に聞きました。「伝承といっていますが、元は『竹内文書』です。これを世に出した竹内巨麿が1935年、村を訪れ、墓を発見したのです」

 

この「文書」に収録された「キリストの遺言書」の写しがガラスケースに収まっています。ゴルゴダの丘で磔(はりつけ)になったのはキリストではなく、弟のイスキリという人物で、キリストはシベリアを経由して日本に逃れた。そして、戸来に居を定め、十来(とらい)太郎大天空と名乗って106歳まで生きたというのです。イスキリの墓にはキリストが携えてきた遺髪と耳が葬られているそうです。驚いたことに、村にキリストの子孫もいるそうです。キリストはミユ子という20歳の女性をめとり、3人の娘をもうけた。長女が嫁いだ沢口家が代々「キリストの墓」を守ってきたのだそうです。

 

「竹内文書」は神武天皇以前の超古代文明について書かれた有名な偽書です。これだけでは世間が相手にしなかったでしょう。ところが「墓」の発見直後の37年、山根キク(菊子)という社会活動家が「光は東方より」という本を刊行、戦後しばらくして出した改訂版「キリストは日本で死んでいる」も現在、なお版を重ねるロングセラーで、「墓」の存在は広く知られることになったのです。山根の本には当時の沢口家当主、三次郎との会見記も出ています。「キリストの容貌と、此の澤口氏の容貌とは瓜二つとも云うべき」とか。館内には三次郎の写真も掲げられていますが、キリストの顔が分からないと比べようがないですね。

 

村では赤ん坊の顔に十字を書く習俗も実際あったそうです。そうしたことをこの本は学術的な装いで記述しています。信用する読者もいるのでしょう。「祖母の記憶があまりなくて」という一郎さんですが、自身も村を訪れました。毎年6月の第1日曜日に営まれる「キリスト祭」に列席。式はなぜか神式なのですが、墓の周りを浴衣の女性たちが「ナニャドヤラ」「ナニャドナサレノ」「ナニャドヤラ」と歌いながら踊っていたそうです。これが「神をたたえる古代ヘブライ語の軍歌」という説もあるとか。村にはキリストが来たことを信じる人はいないようですが、村の習俗のアピールはなかなかのものです。

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実は、「キリストの墓説」があることは既に知っていて、8月12日の投稿「裏『祇園祭』ってあるの!?」でも言及していました。ただ、「石川県にモーゼの墓」を含めて、これらの伝承について論じるほどこの分野の知識が私には乏しいので、今回は、こうした伝承があることだけをお伝えして、コメントを控えます。それでも、イエスの墓に関して、一点だけ事実を付け加えます。それは、記事の中にもあったイエスの墓と、イエスの弟の墓の間にエルサレム市から「友好の証し」として贈られたという石板についです。

 

この石版は、「エルサレム・ストーン」という大理石で、表面にはヘブライ語で「この石はイスラエル国、エルサレム市と新郷の友好の証としてエルサレム市より寄贈されたものである」と刻まれているそうです。そして、2004年の除幕式には、何と当時の駐日イスラエル大使も参列されたそうです。政府を代表する大使が来られた…という事実に、このストーリーに隠された何かを感じてしまうのは考え過ぎでしょうか?

 

 

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